旅行ガイドに「利用者」はいても、「読者」はいない!?

2015年7月31日

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9時半にホテルを出て、地下鉄でハカニエミの市場(マーケット)へ。地下鉄は心なしかロシア風の感じで、だだっ広いホームです。違うのは、車両のデザインの斬新さと静かなこと。モスクワのそれと違い、最初から民用として作られたからでしょう。

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Img_0406_3いつも思うことですが、海外では市場(マーケット)がいちばん興味深く、しかも楽しめます。その地の人たちの暮らしぶりがよくわかるからです。1階は、おいしそうな食べ物(肉や魚、チーズなど)を並べた店が40~50軒ほど。でも、なかには、店じまいしてしまったのか、空いているところも。近ごろこの種の市場は、どんどん衰えつつあるようなのです。

階段で2階に上がるとMARIMEKKOの店。ここには日本人の女性客がいっぱいいました。だれもが、「かわい~い」の連発。ついて行けないので、すぐさま移動します。

市場をあとにし、「デザインディストリクト」と呼ばれるエリアに行ってみました。逆方向のトラムに乗ってしまったことに気づき、2つ目の停留所で下車して乗り換え。それもこれも、フィンランド語に親しみがないせいです。ゲルマン系でもラテン系でもないので、単語の99%は、意味の見当がまったくつきません。韓国でハングル文字に囲まれているようなものです。ただ、なまじ普通のアルファベットが使われているので、ついつい読み取ろうとしても、結局は???。トラムの場合はまだ番号がついているので、最後はそれを頼りにすればいいのですが、途中のコース、降りる停留所を確かめるには、図とそこに書かれた文字を読まねばならず、えらく時間がかかってしまいます。

それでもなんとか、「デザインディストリクト」とおぼしきところまでたどり着きました。ところが、私たちが今回購入した『わがまま歩き』というガイドブックの編集がいまイチ不親切といいうか、わかりにくいのですね。地図上にはたしかに「デザインディストリクト」という言葉があるにはあるのですが、どこにもその線引きが見当たりません。結局、このあたりだろうと目星をつけて降りてみた停留所は、その端っこにあることが、あとになってかりました。

別のページに書かれていたショップガイドに出ている店の半分が、実は「デザインディストリクト」エリアにあったのですが、それは、お店のアドレスを見ないとわからないようになっています。「デザインディストリクト」という項目のところに、せめて店の名前と概要だけでも書き並べればいいものを、ショップはショップのページでということにこだわり過ぎているせいか、要は二重構造になってしまっているわけです。そのため、利用者にとっては不便な構成になってしまっている次第。

旅行ガイドというのは、最初から最後まで通読する人ばかりではありません。私のように、そのとき初めてページを開く者もいるので、さまざまな読者、というか利用者の便宜を考えた編集にしてほしいなと思います。

Img_0408_2結局、「デザインディストリクト」のほんの一角をなめたところでランチタイムになってしまい、トラムで中央駅近くのFORUMへ。2階に寿司屋を見つけ、そこで済ませました。もちろん、欧米人向けの寿司屋なので、それなりの内容です。

FORUMに行ったのはワケがあり、前日行ったムーミンワールドで見つけたハサミを購入するため。ここにはムーミンショップがあるのですが、なんと目標のハサミは置いてないとのこと。ホテル近くのKAMPIというモールに入っているITTALAの店に行けばあると教えられました。

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なら、あとで行けばいいということで、ヘルシンキのメインストリート=エスプラネード通りへ足を向けます。途中ITTALAの店があったので入ってみると、そこにハサミが! 家人が自分用・孫へのおみやげ用のものを見つけて購入。

Img_0424店を出て少し歩くとアウトドアのカフェがあったので、そこでお茶をしようと入りました。外のテーブルにすわり、ガイドブックで見るとえらく有名なところのようでした。ところが、途中、猛烈な雨が降り始めました。夕立っぽい感じもするためか、なかにはそのまま席を立たずにいる客もいます。傘をさしてコーヒー、ビールを飲む姿は泣かせます。「どうせすぐに止むんだから、気にすることないじゃない」というスタンスですね。

私たちは近くの停留所からトラムに乗ってホテルに戻りました。夕刻、ロビーに降りて待っていると、「日ロ創幸会研修旅行団」のご一党21人が予定どおり到着。聞けば、私たちがカフェで雨に遭っていたころ、ヘルシンキの空港の上で旋回しながら天候の回復を待っていたとか。それくらいひどい雨だったのです。夜の食事はホテル内のSEVILLAというレストラン。明日からは旅行団に合流し、行動をともにすることになります。

1年を3カ月で勝負するムーミンワールド

2015年7月30日

Img_033510時2分発の列車に乗るため、早めに中央駅へ行きました。切符売り場の立派なことといったらありません。老舗の銀行の本店といったような雰囲気でしょうか。ただ、掛け時計の示す時刻が遅れていたのが不思議でした。ほかの場所ならともかく、鉄道駅ですからね。

Img_0325ヘルシンキ中央駅を出発しふた駅過ぎると、両サイドとも畑と森だけ。それ以外は何も見えません。途中いくつかの駅で停車しましたが、家が建っているのはその近くだけです。それにしても、クリーンな国といった印象がします。

2時間後、トゥルクという駅に到着。駅前からタクシーでムーミンワールドのすぐ近くまで行くと、素晴らしい雰囲気です。海辺にあるリゾート地なのでしょうが、閑静なという言葉がぴったりです。日本の湘南とかハワイのワイキキといった風情はまったくありません。ヨットハーバーの近くにバフェットスタイルのレストランを見つけ、シーフードランチを。

ランチを終えてぶらぶら歩き始めると、ムーミンワールドの入口が。

 

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しかし、派手派手しい看板が立っているわけでなく、左右2本の棒で支えただけの布製の幕があるだけです。そこに、これまたつつましく「MOOMINなにやら」という文字が染め抜かれています。そこから歩いて橋を渡ったところが目的地。きれいな海とどこまでも晴れわたっている青空が印象的でしたが、こういう季節は6~9月の実質3カ月間だけなのです。ムーミンワールドの営業期間もそれと同じですから、看板や表示にお金をかけたりしていてはペイしないわけですね。Img_0359

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中もこじんまりしていて、1時間もあれば全部観て回れます。お金がかかるのは食事とお土産もの(キャラクターグッズ)だけ。とにかく、人工の香りがほとんどありません。その分、自然との距離がぐんと縮まりそうな感じがします。子どもたちにとっては天国のような場所といえそうです。

 

そこをあとにして、帰りの列車の時間から逆算すると、まだまだ時間があります。近くの教会をのぞき、トゥルクの町まで行くバスターミナルまでの道を歩きました。きれいに手入れされた道筋、それに沿って建つ家々のこぎれいなこと。空気も澄んでいて、なんとも快適でした。

 

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バスでトゥルクの中心部まで。降りた場所からホントはすぐ近くを流れる川まで行き、のんびりしようかと画策していたのですが、地図を読み間違え、とんでもない方角へ。30分の無駄歩きをしてしまいました。しかも、そこに突然の雨に遭い、あわてて近くのカフェバーで雨宿り。道を尋ねながら、駅まで歩いていったのですが、着いたのは出発ギリギリでした。

 

ヘルシンキに戻ったのは夜の7時。昨夜の轍を踏んではいけないので、そのまま夕食を食べに行きました。空も怪しい感じがします。トラムに乗って数駅。目標は、そのすぐ近くにある和食の店です。「料理家 ほしと」という看板がありました。これがめっちゃうまい。海外でこれほどの日本食を食べられるとは! 全8品のコースでしたが、1品1品、手が込んでいて、素材のよさが最大限に生かされている感じがしました。

 

食後、大将の星利昌さんが声をかけてくださいました。聞けば、神戸の出身で、まだ30歳だといいます。こちらに来て8年、自分の店を開いてまだ5年だとか。「海外で、日本国内の和食よりおいしいものを作って出すのが目標」だそうです。自分の名前の最初の3文字をそのまま店の名前にしたとも。でも、外国で、きちんとした日本の文字を見るとうれしくなるので不思議です。店を出ると、外は猛烈な雨。急いでトラムに乗り、ホテルに戻りました。

4時間で往復できてしまう外国

2015年7月29日

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タクシーに乗り、早めに港まで行きました。難なくタリンまでの往復チケットを買え、ほっとひと安心。待合所近くをぶらぶらしていると、どんどん乗客がやってきます。空も雲ひとつない快晴で、高速フェリーの乗り心地も快適。

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タリンの港からは歩いて旧市街に。しばらく歩くと、そこはもうほとんどおとぎの国のような光景。300年だか400年だか昔の建物がびっしり並んでいて、さすがという感じです。世界中から観光客がやってくるのもよくわかります。日本人の姿もけっこう目につきました。

L1030423L1030433ガイドブックを持たずに行ったので、頼りは船に乗る前にもらった英語版の地図だけ。それを見ながら、歩き始めました。どの道を選んでも興味津々で、おもしろいこと、この上ありません。こういう街の歩き方もたまにはいいものです。分厚いガイドブック──それも文字が小さくて読みにくい──を見ながらあちこち歩くのは案外疲れますから。

途中くたびれたので、人力車というか自転車タクシーのようなものに乗りました。主要な観光スポットの近くに、かならず何台かスタンバっているのです。地図を見せながら「このあたりまで行きたいんだけど」と、とりあえず英語で希望を告げると、「30分くらいかかるかな。大丈夫ですよ。30ユーロでどう?」というので、OKして乗せてもらいました。えらく英語がうまい青年で、要所要所で止まりながら、簡単なガイドをしてくれます。途中から急な坂もあったりして、このチョイスは正解でした。歩いていってたら、たぶんネをあげていたでしょう。

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L1030468バルト3国のなかでは文化水準がいちばん高いとかで、たしかにそのとおりの風趣を感じさせる街でした。元の場所に戻って30ユーロを払いながら、「英語がうまいけど、こっちの人?」と聞いたら、なんのことはない、イギリスから夏休みのアルバイトに来ている大学生でした。エストニアはECに加盟しているので、どこの国からも自由に働きに行けるようなのです。物価も非常に安いので、ここで観光客相手にひと夏稼げば、かなりの実入りになるのではないでしょうか。こういうふうにしてアルバイトができるのは、ヨーロッパならではですね。

それにしても、日帰りで外国に行けるというのは、なんとも不思議な感じがします。日本でも、福岡からなら韓国のプサンまで日帰りが可能です。飛行機ならもちろん、ソウルでも上海でも大丈夫でしょう。ただ、ヘルシンキ・タリン(エストニア)はおなじECの域内なので、パスポートさえ要りません。東京・名古屋間を往復するのと同じだと思えばOKです。

こういうことが可能である、またそれが実際に経験できるという環境の中にずっといれば、国境とか国といったことに関わる感覚が日本人と違ってくるのは当然かもしれません。、

さて、その後近くをぶらつきながら入ったカフェの素晴らしかったこと。しかも、中に入ってしばらくしたら、突然の雨。短時間でしたがかなり激しい降りで、雨宿りも兼ねることができました。まわりを見ると、ほとんど地元の人といった感じで、値段もリーズナブル。これは正解でした。

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夕方の帰航便の出発時刻に合わせて港まで戻る途中、1800年代半ばの創業と記されているカフェがあったので、そこにも入ってみました。気がつくと食べ詰めといった感じで、ヘルシンキに着き、ホテルに戻ってもあまり空腹を感じません。そのまま部屋で仕事をしていると、家人が「晩ご飯どうする?」と聞いてきます。「あっ」と思って時計を見るとなんと8時半をまわっているではありませんか。夏の北欧はとにかく日が長いので、まさかそんな時間になっていようとは想像もしていませんでした。

あわててホテルを出て探しに行ったのですが、時間が遅く、なかなか見つかりません。結局、なんとなんと中央駅の地下にあるマクドナルドで持ち帰りのハンバーガーを買って、部屋食。まさか、ヘルシンキでマックとは……。

10年ぶりのヘルシンキと2年ぶりのロシア

2015年7月28日
今日から「ヘルシンキ+ロシアの旅」です。今回は初めてフィンエア(フィンランド航空)に乗ってみました。先々の日程の都合もあって選んだのですが、これが大正解。成田のラウンジはカンタスと共有で、これがけっこうハイレベルで、ANAやJALより上を行っている部分もあります。

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わたし的には、ラウンジ内のコピー&FAX&プリンター複合機にスキャナー機能もついていて、しかもそれが使えるというのが大きな要因。ANAのラウンジにも同じような設備はあるのですが、スキャナー機能は×印がついていて使用できません。6月に乗ったアリタリアが使っているデルタ航空のラウンジなど論外もいいところ。コピーもプリントもFAXもすべてアウト! ビジネスマンはどうしているのでしょうか? それに比べると、食事もワインもそろっているので、これは使えます。

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フィンエアのいいところはもう一つあります。所要時間が9時間少々と、短いこと。フランクフルトやパリ、ロンドンより1時間半も短いので、疲れ方が違います。シートも当然フルフラットですし、エンタテインメントもアリタリアより充実していました。食事もかなりレベルが高いように思えます。何より、デザイン大国だけあって、食器(カップや皿)も紙ナフキンもMARIMEKKOが使われていました。そういえばスリッパもやはりMARIMEKKOで、洒落ています。当然、テイクアウェイです(笑)。


午後2時にはヘルシンキに到着し、空港からはバスで市内へ。中央駅近くの停留所で降りたのですが、ホテルに行くのに難儀しました。10年前に来たときの記憶はまったく役に立ちません。そもそも、10年前はストックホルムからシリヤラインのクルーズ船でヘルシンキ入りしたので、港だったのです。そこからホテル(今回と同じホテル)まではタクシーでした。

さて、中央駅のすぐ近くなのは間違いないのですが、地図がわかりにくいというか、道もまっすぐになっていないため、自分たちのいる場所が駅に対しどのような位置にあるのかがなかなかつかめません。地図を手にしながら思案投げ首。ようやく、方向が決まったと思い歩き出したら、これが逆。また元の場所まで戻り、やっと正しい方向に動き始めることができました。

ところが、道が石畳のため、スーツケースの重いこと、重いこと。思うように転がってくれないのです。結局、バスを降りてからホテルにチェックインするまで30分以上かかってしまいました。どのガイドブックにも共通しているのですが、距離は短くても、石畳の道が続いていたり、実はえらく高低差があったりといった情報はきちんと書かれていないのがほとんど。事前にかなり気合を入れてチェックしておかないかぎり、こうした目に遭うリスクを覚悟しておく必要がありそうです。


いつもと同じく、部屋に入るとすぐノートPCに向かいます。翌日はヘルシンキから船で2時間ほどで行ける対岸のタリン(エストニアの首都)に行こうと、日本を出発する直前に思いついたので、ネットでチケットを予約しようとしたのですが、なかなかうまく行きません。フロントまで行ってホテルのスタッフの手を借りたのですが、最後の支払いの段で暗礁に。ネット予約は結局あきらめ、「明日、早目に港まで行けばいいんじゃないか」と決めました。

夕食はホテルの近くでということで、周辺を探しがてら歩いていたら、まあまあお客の入っている中華料理店があったので、そちらへ。歩いていて気づいたのは、中華の多いこと。ここにもやはり、中国人がたくさん来ているのでしょうね。

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アリタリア航空の乗り継ぎとなると心配ですが……

2015年7月3日
帰りはボローニャ空港からローマ乗り継ぎのアリタリア便。バゲージがちゃんと成田まで着くかいささか心配ですが、そんなことを気に病んでも詮ないこと。空港はまだできて間もないようで、とても清潔。何よりコンパクトなのがありがたいです。

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この町で生まれた発明家グリエルモ・マルコーニにちなんで、「マルコーニ空港」といいます。マルコーニは無線電信の開発で知られ、ノーベル物理学賞も受賞しています。また、1912年のタイタニック号遭難の際、同乗していたマルコーニの無線電信会社の社員が救難信号を送信したことでも有名になりました。空港に、こうした人の名前をつけるのはいかにも欧米らしさが感じられ面白いですよね。

ローマの乗り継ぎで1時間半ほど遅れての出発になりましたが、はたしてバゲージの運命やいかに……。

ボローニャで眺めた美しい満月

2015年7月2日
L1030322イタリアの旅も今日が実質的に最終日です。町の中でまだ行っていないところがいくつかあったので訪問することにしました。最初は世界最古の大学ともいわれるボローニャ大学。1068年にできた大学で、世界で初めて人体解剖がおこなわれた部屋もあります。

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ただし、こちらは旧校舎(アルキジンナージォ宮)のほうで、いまの校舎とは別の場所。新校舎といっても200年近く前にできたシロモノですから、実際この目で見ると、日本の建物とは風格がまったく違います。

大学の前にベルディ劇場があるとか、劇場の斜向かいには聖チェチリア礼拝堂(聖チェチリアは音楽の守護聖人)、1267年創建のサン・ジャコモ・マッジョーレ教会、さらにすぐ近くにロッシ-ニ広場があるとか、どこに行っても、「これはかなわないな」という気持ちになります。とくにサン・ジャコモ・マッジョーレ教会の壮大さ、内部の壁画の数々には度肝を抜かれました。


L1030297そこをあとにして、ボローニャ滞在3日目にしてやっと「斜塔 (アシネッリの塔とガリセンダの塔)」とご対面です。かつては100本ほど建っていたという塔も、いまではこの2本だけとか。高いほうのアシネッリの塔は上まで階段で昇れるそうですが、とてもそんな元気はありません。下から眺めるだけで十分。「斜塔」とはいうものの、観る場所によっては斜めに傾いていることに気がつきません。でも、ボローニャ大学の新校舎から歩いていくと、それがよくわかります。

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斜塔のあとは、「何はなくともマッジョーレ広場」に向かい、その近くでランチ。この日はワインバーの屋外テーブルで。またまたGOODでした。このあたり一帯はマーケットがあり魚介類の匂いがぶんぶん漂っています。家人はおみやげ用にパスタを何袋か購入していました。さらに、近くの老舗チョコレート店「Venchi」(1878年創業)でもいくつかを。ちょうどシエスタタイムになったのでホテルに一度戻ります。ちなみに、この日も35℃近くあったでしょうか。

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夕方涼しくなったころを見計らって、また外に出ます。ボローニャをその昔流れていたという運河をのぞき、インデペンデンツァ通りから2本裏の通りをマッジョーレ広場方向へ。こんな通りにもけっこうお店やホテルがあるんですね。ただ、店はだいたいがクローズしている時間帯だったのでもっぱらウインドーショッピング。そして、最後の夕食に選んだのは、これまた当地在住の方の推薦店の1つ「Ristorante Da Nello al Montegrappa」。これがまた超ハイレベル(値段ではありませんよ!)の店。私たちが入って30分もしないうちに満席になりました。客のほとんどが地元の人のようで、このあたりもいい雰囲気です。

有名な「ボロネーゼ」は、肉をベースとしたパスタソースかと思っていましたが、ここでは「タリアテッレ・アル・ラグー(Tagliatelle al ragu)」のことのようです。

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ホテルに戻ったのは9時前。まだまだ外は明るいのですが、これくらいの時間から一気に暗くなり、10時には正真正銘の夜。この夜は満月で、何年か経って「あの日ボローニャで眺めた月が……」なんて口ずさむ日が来るかもしれません。それほど美しい月でした。

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ボローニャの古さはローマともヴェローナとも違い、暗くてほこりっぽい感じが特徴なのではないかという気がします。歩道のほとんどがポルティコで覆われていることによる暗さも影響しているのかもしれません。実際、建物はどれをとっても数百年経っているものばかり。ローマはときおり新しい建物もあり、道も広くてわかりやすいですし、ヴェローナは街全体に多少新しさも感じられます。しかし、ここボローニャは中世そのままといった印象が非常に濃厚。後世の人が手を入れた痕跡が薄いというか。紀元前9世紀には人が住み始めていたというのですから、それもむべなるかなでしょう。

初めての町は、乗り降り自由の周遊観光バスで

2015年7月1日
昨日で1年の半分が終わってしまいました。ボローニャの2日目、まずは、昨夜の「合意」に従い、行動を縮小することに。暑い時間帯はシエスタ(昼休み)にしようと。朝食後、まずは駅前へ。町の主だったところを回る観光遊覧バスに乗ることにしました。

L1030269出発場所を探すのに手間取りましたが、駅前でタクシーの交通整理にあたっている人に確かめ、ようやっと見つけました(それでも、最終的には50メートルほどずれていましたが)。定刻から15分遅れで到着した2階建てバスに乗り込み、日本語のイヤホンガイドを聞きながら、1時間30分かけて町の中をめぐります。町のイロハを知るにはこれがいちばんいいんですね。出発してすぐ、私たちの泊まっているホテルの斜め向かいの小さな広場にまたまたガリバルディの像が建っているのが見えました。イタリアはなんだかんだいっても、ガリバルディあっての国なのです。

ボローニャは中世そのものの町なので、それでも乗っている最中は目が離せません。「ここは紀元前6世紀に……」「西暦1100年にだれだれが……」という言葉がイヤホンの奥から次々と流れてくるので、そのたびに右を見たり左を見たり。たしかに町全体が世界遺産だとはいえ、あまりの古さには驚いてしまいます。

午後1時過ぎにマッジョーレ教会の脇でバスを降り、ランチ。これまでと同じように屋外にテーブルを並べている店です。今日も正解でした。3時になったのでホテルまで戻り、6時まで部屋でシエスタです。33℃か34℃はあるでしょうから、当然といえば当然かも。

夜は、フィレンツェにいる元社員で、いまも仕事をお願いしている女性のダンナさんから手に入れたグルメ情報をチェックし、ホテル近くにあるレストラン「VIctoria」へ。うまかった! です。どこの店もさほど大外れはないのでしょうが、今日はかなり高レベルです。シーフードリゾットがおいしいとのことでしたが、もう1品のボローニャ風カツレツもGOODでした。

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デセンツァーノからボローニャへ

2015年6月30日
早朝からホテルの前の道路一帯にワゴン車やバンが行きかっています。何かと思ってベランダから見てみると、どうやら「市」が立つ様子。朝食のため1階まで降りていくころには道路の左右いっぱいに店が並んでいました。

L1030196朝食はこれまでで最高の雰囲気のレストラン。内容はほとんど変わりありませんが、グレードが2段階くらいアップしている感じです。真っ黄色のスクランブルエッグ。コーヒーも泡が立っていて一見カプチーノ風(でも、ミルクも生クリームも入っていません)。ハムもおいしいこと、この上ありません。腹ごなしに「市」をのぞきに湖岸沿いをゆっくり散歩。アクセサリー屋さんがあり、家人はネックレスを買いました。

L1030200デセンツァーノは、観光スポットがたくさんあるわけではありません。欧米では当たり前なのでしょうが、数日滞在してゆっくりする場所です。ただ、こういう時間の使い方は、私たち日本人にはなかなかできません。イタリアに来る前に新聞で、旅行会社の広告に「北海道9日間滞在」と謳ったプランが出ているのを目にしました。行きと帰りのフライトが決まっていて、あとはすべてフリー。食事も現地で決めればOK。レンタカーを借りて出かけるもよし、旅行会社が手配したヨガとかウォーキング、写生ハイキングなどさまざまなプランに参加するのもよしといった中身です。こういうスタイルの休暇が定着すれば面白いでしょうが、どうかなぁ……という気もします。

さて、チェックアウトを済ませ、出発までの間、ホテル近くの教会や城をのぞいたあとデセンツァーノ・デル・ガルダの駅前でお茶(といっても実際はビールですが)。午後2時前の列車で最終目的地ボローニャに向かいます。途中、ヴェローナで特急に乗り換え、トータル1時間45分ほどで到着。

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ボローニャの駅は大きな駅です。私たちが下車したホームは地下3階くらいでしょうか。そこからエスカレーターで地上に出て、やっとのことで駅前の広場へ。旅行案内所がクローズしているようで、仕方なく警官にホテルの場所を聞きました。歩いていけそうなところだとわかり、スーツケースを転がしながら6、7分で到着。時間的にいちばん暑い時間帯だったので、それだけでもけっこうこたえます。

予約しておいたホテル(Hotel Internazionale)はインデペンデンツァ通りに面しているのでわかりやすく、部屋もこぎれい。ガイドブックでボローニャのページを開くと、かならず「マッジョーレ広場から歩いて」とか「マッジョーレ広場を目標に」ウンヌンというフレーズが出てきます。つまり、この町を歩くときは「何はなくともマッジョーレ広場」ということなのでしょう。私たちも夕方、ホテルの前のインデペンデンツァ通りを10分ほど歩いてマッジョーレ広場まで行ってみました。

L1030241強い日差しの中でしたが、この町は主だった歩道がすべてポルティコ(要はアーケードですね)に覆われているので、それが救いです。広場に着くと、周辺が道路工事や建物の修復工事のためほこりっぽい感じはしますが、それでも人がいっぱい。6月の中旬から、連日「野外映画会」が上映されているらしく、広場にはパイプ椅子が並べられていました。私も小学生のころ何度か経験しましたが、なつかしいですね。ポスターから察すると、明日は『カサブランカ』のようです。

L1030247L1030251_4帰りに夕食をと思いましたが、適当な店がなかなか見つかりません。ホテルの近くで小さな店があったので、そこに入りました。路上にもテーブルを並べてある、こちらではごく当たり前のスタイルです。それが3軒並んでいたのですが、不思議なことに、客の入り具合にけっこう差があります。ウエイターが片言の日本語で「いらっしゃい、日本語メニューあるよ」とかなんとかいいながら声をかけてくるところはパス。やはりスタッフが忙しそうに動いているところのほうが安心です。

この夜入った店も、道路寄りの空いているテーブルを所望したところ「予約のお客で」と断わられ、奥のテーブルになってしまいましたが、それでもあっという間に満席に。それからすると、この店を選んだのはどうやら間違いなさそうです。実際、タルタルステーキをおいしく食べさせてもらいました。さすが「肥満都市(ラ・グラッサ)」という異名を持つ町だけのことはあります。

ボローニャはほかにも「学問都市(ラ・ドッタ)」とか「赤い都市(ラ・ロッサ)」というニックネームがあるといいます。「赤」は中心部の歴史地区に軒を並べる家々の屋根の色を指していますが、第2次世界大戦後から1999年まで、この町が社会主義・共産主義の牙城であったことにも由来しているようです。

食事中、家人との話題は、長期の旅行がだんだんしんどくなってきていること。寄る年波というといささか早そうな気もしますが、やはり若い時分とは体そのものが変化してきているのは否めない、今日も朝から、明日も何時にどこそこへといったスタイルの旅はそろそろ変えなければ……ということになりました。限られた日数なので、ついつい毎日さまざま詰め込もうとするのですが、そうしたパターンにそろそろ終止符を打たなければならなくなってきたということでしょうね。でも、これがなかなか……。悲しいかな、貧乏根性がしみついてしまっているものですから。

9月の初めからは、30日間のアメリカ・イギリス旅行を予定しています。まだ、航空チケットをおさえてあるだけですが、行先は最低でも、ロサンゼルス、ニューオーリンズ、ニューヨーク、ラスベガス、ロンドンといくつかあります。イギリスではラグビーW杯を3試合観戦することだけが決まっているのですが、途中、観戦予定のない日があり、そこをどうするかということであれこれプランを練っていました。ずっと果たせずにいたスコットランド周遊も、その気になれば可能です。南部のバースやソールズベリ、コッツウォルズ地方を全部観てまわるといった選択もあります。

ただ、団体ツアーと抜本的に違うのは、すべてが自力手配なので、行動も自力になります。重い荷物を転がしながらの移動、観光スポットも、地図と首っ引きしながら自分で探す……など、手間がかかるわけですね。もちろん、それはそれで楽しみではあるのですが、家人のほうはだんだん辛くなってきたということなのでしょう。

旅の途中でリゾート地を訪れた理由

2016年6月29日
旅行の前はいつもあれこれ計画を練るのですが、今回は当初、ヴェローナに3泊するつもりでした。その次の目的地ボローニャまで列車ですぐ行けるからです。でも、直前になって、暑いさなかだし、あちこち歩けばきっと疲れるのではないかという思いがきざしたのです。

そこで、ヴェローナの3泊目は取りやめにし、近くのリゾート地でのんびりしようということにしました。調べてみると、ヴェローナから西に30キロほど行ったところ、ミラノの手前にデセンツァーノ・デル・ガルダという小さな町があります。イタリアでいちばん大きいガルダ湖の岸辺にある町で、列車で行ってもすぐなのですが、疲れてもいたのでホテルからタクシーで行こうと決めました。ホテルに頼んで手配してもらったのですが、タクシーといってもハイヤーに近いタイプのようで、値段は90ユーロとのこと。少々高くはありましたがOKということで。

ホテルを11時に出発、「ヴェローナは初めてか?」「オペラは観たか?」などと質問してきました。「夕立だったけど、上演されてよかったな」といっていました。しばらくすると、パバロッティのCDを流してくれます。えらく高尚な趣味を持ったドライバーのようで、驚くとともに感動しました。オペラなど、日常生活の一部でしかないといった感じなのです。さすがヴェローナというか。

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40分ほどでデセンツァーノのホテルに到着。荷物を預け、近くの港からこの界隈では随一の観光地シルミオーネへ。桟橋のまわりにはレストラン、カフェ、ジェラテリア、お土産物屋がびっしり並んでいます。ここにもスカラ家の城塞があり、そこをざっと見たのですが、そこから北に伸びる半島の突端近くにローマ時代の遺跡があるというので、歩いていくことに。20分以上暑い中を歩いたのですが、あいにく休みだとわかりガックリ。


ただ、帰り道に見つけたマリア・カラスの別荘と、桟橋周辺のお店がずらっと並んでいるエリアの建物がみごとな花で飾られているのが印象的でした。それにしても、ゆっくりするはずが、性懲りもなしに歩いている自分にあきれるというか。貧乏根性はやはり治りませんね。桟橋から再び船でデセンツァーノに戻り、夕食。海辺のホテル近くにあるレストランで食べましたが、またまたbuono(おいしかった)です!

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さすがスカラ家の町──どこに行っても家紋が


2015年6月28日

L1030046今日はヴェローナ市内の観光です。しかし朝から暑いこと、暑いこと。途中までバスに乗り、アディジェ川の近くで降りると、味わいのある古い教会(サン・フェルモ・マッジョーレ教会)がありました。それを見ながら、川沿いをテアトロ・ロマーノまで歩きます。思い切りきつい階段を上らねばならず、途中で何度もネをあげそうになりました。それでも難行苦行のあとにはこの上ない楽しみが。上から見下ろす川、街の景色の美しいこと。ゆっくり下り、さらに川沿いを歩くこと10分。ピエトロ橋を渡ったところがドゥオーモです。

L1030055そのすぐ脇に見つけたお洒落なカフェで昼食を取ることにしました。入口を入った奥が吹き抜けというかアウトドアになっているのですが、まわりが壁に囲まれているので涼しいのがありがたい!

隣のテーブルのお客が少し濃いめのオレンジ色をした飲み物を飲んでいたので、ウエイトレスに何かと聞いてみると、「スプリッツ・アペロール」というカクテルだそうです。なんでもイタリアの若い人たちの間で人気らしく、氷とスライスしたオレンジをグラスに入れ、白ワイン(3)、ソーダ(1)、そして最後にアペロール(2)を注いで作る(数字は割合)のだとか。アペロール(Aperol)はハーブリキュールのブランド名です。さっそく家人がオーダーして飲んでみると、これがえらく口に合ったよう。たしかにキリっとさっぱりした感じの味で、いまどきの季節にはドンピシャリかもしれません。

カフェを出て、ロメオの家とジュリエッタの家を見たのですが、観光客が自由に出入りできるのはジュリエッタの家。13世紀に建てられた家は、中庭に出ると物語で有名なバルコニーがあり、前庭にはジュリエッタの像も立っています。

L1030082_2この像、右の胸に触ると恋愛が成就し結婚できるという伝説があり、観光客もみな胸に触っていました。ジュリエッタの家の住所にジュリエッタ宛で恋愛相談の手紙を書くと、ちゃんと返信が返ってくるという話を前にテレビで見たことがあります。「ジュリエットクラブ」という団体があり、そこのボランティアスタッフが「ジュリエットの秘書」の名で、すべての手紙に返事を書いて送っているのだとか。1年間に世界各国からなんと4万通もの手紙が届くといいますから、ハンパではありません。 

狭い路地を抜けエルベ広場に向かう途中、インデペンデンツァ広場の一角にまたまたガリバルディの像がありました。ジュゼッペ・ガリバルディは19世紀半ばにイタリア統一運動を推進し、イタリア王国の成立に貢献した軍人だそうです。1860年には、千人隊(赤シャツ隊)を組織してシチリアの反乱を援助、両シチリア王国を滅ぼしました。こうして征服した地をさらにサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレⅡ世に献上、これがイタリア統一の原動力になったといいます。ひょっとして、シチリア島に行くと扱いが正反対なのかもしれません。シチリア島は10年以上も前から行きたいと思っているのですが、いまだに果たせていません。こういうことをきっかけに、近いうちに行って確かめてみようと、家人に提案しておきました。

ランベルティの塔に昇ろうとして中に入ると、エレベーターで行くこともできるとわかり、外で待っていた家人にメール。すぐ飛んできましたね。降りてボルサーリ門まで歩き、そこでひと休み。ホテルにはバスで戻りました。

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L1030096夕方、ホテルからタクシーに乗ってサン・ゼーノ・マッジョーレ教会を見学、そこから川沿いの道を歩き、スカラ家の建てた古城=カステル・ヴェッキオまで行きました。裏側はアディジェ川で、そこに架かる小さな橋を渡ると城全体の姿が見えます。ヴェローナとその周辺はスカラ家が支配していたので、あちこちの建物にその紋章が付いています。ちなみに、「スカラ」とは梯子とか階段という意味だそうで、紋章もそれをかたどったもの。夕食はブラ広場の一角にある店で済ませました。

ヴェローナの野外オペラに大感激!

2015年6月27日
今日でローマともお別れです。出発までまだ余裕があったので、ホテルにいちばん近くにありながら一度も観ていないサンタマリア・マッジョーレ教会に行ってみます。ここもまた韓国人観光客がいっぱいでした。そこから歩いて3、4分のところにある「パネッラ」パン屋さんで朝食を取ることに。店の中と外にテーブルが。ひっきりなしにお客がやってくるのを見ても、地元では人気があるのでしょう。

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10時15分テルミニ発の特急に乗り、“ロメオとジュリエットの町”ヴェローナまで移動します。事前にTORENITALIAのウェブでチケットを買い求めてはあったのですが、座席が進行方向と逆。これが私は苦手なのです。気持ちが悪くなったりすることはないのですが、どうにも不自然というか……。ビジネスクラスの車両なので、新聞はタダで配ってくれますし、飲み物とスナック菓子も無料。ワゴンがやってきてほしい物を聞いていくのです。もちろん、ヨーロッパの鉄道には珍しく、検札もきっちりおこなわれました。

約3時間でヴェローナ(ポルタ・ヌオーヴァ)駅に到着。駅前の広場は工事の真っ最中で、タクシー乗り場がやや離れた場所に移されているようです。でも、予約してあるホテルはタクシーに乗るほど離れてはいません。実はこれがいちばん厄介で、結局スーツケースを引きずりながら、地図と首っ引きで15分ほど歩き、無事チェックイン。中心街からは離れているので、まわりは地味で静か。週末の野外オペラ開催日と重なっていて、思うようにホテルの予約が取れなかったのです。

L1020973荷ほどきを済ませるとすぐ、バスで中心街にあるアレーナ(円形闘技場)まで行くことに。噴水と公園があり、それを取り囲むようにして広がっているのがブラ広場。何かのイベントなのでしょう、新旧のシトロエン車がずらり駐車していました。私たちが見ている間にも続々到着し、なかには1930年代に製造されたとおぼしきものまであります。シトロエンは第1次世界大戦後の1919年、大砲用の砲弾製造で財を成したフランスのアンドレ・シトロエンが、ヨーロッパにおける自動車の大衆化をめざして設立したメーカーで、先鋭的な技術開発で注目されました。ただ、そうした経営手法はだいたいうまく行かないのが常のようで、いまはプジョーの傘下に入っているとのこと。

L1020975ここいら一帯はヴェローナの中心地で、レストランとカフェが軒を連ねており、どこで食べるか、決めるのが大変です。それでも、写真付きのわかりやすいメニューを店先に出している店を選んで食べました。今回も◎です。イタ飯というのはまずハズレがないので、ありがたいことこの上ありません。

食後、とりあえず街の中をぶらっと歩いてみようと、高級ブランドの店がずらりそろったマッツィーニ通りを抜けるとまたまた大きな広場が。エルベ広場というのだそうですが、土曜日ということもあって大変なにぎわいです。広場のほぼ全体にテントを張った店が出ていました。その中にあるのがランベルティの塔。まあ、高いこと高いこと。たしかに、84mの高さまで上がればさぞかし眺めもよかろうと思われます。

13~14世紀にこの町を支配していたスカラ家の廟【びょう】からサンタナスターシア教会をのぞいたところで、一度ホテルに戻ります。あまりの暑さのため、タクシーです。しばし休憩ののち着替え。オペラなので、Tシャツに半パンというわけにも行かず、いちおうジャケットを羽織り、革靴に履き替えました。

再びバスに乗ってアレーナのすぐ近くまで行ったのですが、なんとなんと、降りたとたん雲行きがあやしくなってきました。野外オペラには大きなリスクがあって、雨がひどいと中止になってしまうのです。そんなことになったら、苦労して買い求めたチケットがパア。いっときの夕立で済むことを願いつつ、とりあえず腹ごしらえをしておかなければと、ブラ広場の一角にある店へ。オペラファンがイタリア国内はもちろん、隣国のスイスやドイツからも来ているようで、どのお店も大繁盛です。

7時半ごろから案の定、猛烈な雨が降り始めました。レストランやカフェはどこも皆、店の外にもにテーブルをかなりの数並べているので、テントを張ってあるとはいえ、けっこう影響があります。軒先には、ポンチョを売りに来る人もおり、私たちもとりあえず2着買いました。

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オペラでも野外での公演となると、日本ではなかなか経験できるものではありません。ヴェローナという古い町の魅力もさることながら、今回ここを訪れた最大の目的はこれです。幸い、食べ終わるころには夕立もほぼ止み、アレーナの入口でしばらく待機させられましたが、ようやく中に入ることができました。今日の演目は『アイーダ』。客席まで歩いていく間、そのセットに度肝を抜かれました。野外で高さや幅に制限がないので、思い切り大きく作ってあるのです。しかも、舞台はメッチャ広く、役者の動きもダイナミック。雨あがりの澄んだ空に月、星が冴え、その下で縦横無尽に繰り広げられるオペラの演技に感動したのはいうまでもありません。

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ローマに韓国人観光客が多いのはなぜ?。

2015年6月26日
今日は郊外のアッピア街道に行くつもりでいたのですが、ボツになってしまいました。というのも、前は走っていた現地直行のバスがサービスをやめてしまったからです。アッピア街道は1960年のローマ・オリンピックでマラソンコースとして使われました。そう、エチオピアのアベベが裸足で走って金メダルを取った大会です。

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代わりに、ホテルからも近いボルゲーゼ公園に行くことにしました。事前の調べで、その一角に市営の動物園があるとわかったので、キリンとも対面できることに。キリンたちはずっとマイペースでエサを食べていました。

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動物園を出て、シエナ広場からピンチアーナ門へ。古代ローマ時代そのままといわれるだけあって、まわりの建物とは色が違います。その脇を抜けるとヴェネト通りが始まります。すると、すぐ右に、かの有名な「ハリーズバー」が! ヴェネツィアにある本店は、エリザベス女王とかヘミングウェイとか、たくさんの著名人が訪れたという伝説の店ですが、その支店でしょうか。これは望外の偶然で、たしかに、たたずまいといいウェイターの立ち居振る舞いといい、どこかハイブローな匂いがします。家人はパスタ、私はカルパッチョを注文、居心地のよさにうっとりしながらいただきました。

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そこから坂を下り、もともとは宮殿だったというアメリカ大使館の前を通って、まずはバルベリーニ広場まで。そこに至るまでの通り沿いには、いまはどうか知りませんがかつては一流だったと目されるホテルがずらっと並んでいます。しかし、広場から先はどちらの方向に行っても下町っぽい雰囲気の通りばかり。私たちは坂を上って、スペイン広場の方向へ。今日もまだまだ暑くなりそうです。

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上からスペイン広場を見下ろすと、噴水を取り囲むようにえらい数の人が集まっています。ただし、日蔭になる場所にいるので、よけい密集度が高い感じがします。噴水の前にある店でポロシャツを購入、またまた高級ブランドの店がズラリと並ぶ有名なコンドッティ通りを歩きました。ガイドブックの地図では、通りが終わるあたりにサンタマリア・マッジョーレの店があるはずなので、立ち寄ってみることに。
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ところがあたりを回ってみてもありません。『地球の歩き方』の地図に出ているのと場所が違っていた(このケースは多いですよ!)ため少し往生しましたが、やっと見つけることが。店員が2人とも韓国人で、お客も韓国から来ている人ばかりだったのには驚きました。そういえば、ローマはどこに行っても、個人・団体を問わず、韓国の人が多いようです。愛用のシェービング・フォームを買い求め店を出ましたが、それにしても、なんでまた韓国の人がこうも多いのでしょうか。韓国はキリスト教徒(ただしプロテスタントのほうがカトリックの倍)が多いので、その本家本元であるイタリアに引き寄せられるのかも……などと想像してみたのですが、果たして正解は。

一度ホテルに戻るため、タクシー乗り場まで行こうとすると、ジェラートを食べながら歩いている人がやたら目につきます。それも男性の姿が多いのです。このあたりに有名なジェラテリア(アイスクリーム屋さん)でもあるのかと探してみると、ありました、ありました。ガイドブックにも「ローマっ子のファンが多い」と紹介されている「チャンピーニ」という店です。

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買って口にしてみると、たしかにおいし~い! なぜか、ローマを歩いていると、このジェラートがほしくなるのですね。日本で食べるジェラートは甘さが過剰で、途中でイヤになってしまうのですが、ここではそんなことはありません。レシピは同じでも、やはり空気が違うのでしょうか。

夕方までしばし部屋でひと休み。エアコンの効いた部屋のなんと心地よいことか! 昔はイタリアでも、エアコン完備のホテルは珍しかったようですが、温暖化が進む近ごろはそうでもないようです。

夜になって、ホテル近くの日本料理店まで行ってみました。ローマを離れると、イタリアでは日本メシにありつける可能性がぐっと低下するからです。中に入ろうとすると、「ご予約は?」と聞かれました。「いいえ」と答えるとしばし待たされ、「9時半まででしたら」という条件付きでOKが。行ったのは8時少々前だったので、大丈夫ですと答え着席。カツ丼やらソバを食べて、なんとなくお腹が落ち着きました。私たちが食べている間も、予約客がどんどん入ってきます。それも日本人はゼロ、すべてこちらの人なのです。海外の日本食ブームはいよいよ本物になりつつありますね。

ジャニコロの丘は“一服の清涼剤”かも

L10207852015年6月25日
午前中はバスでテヴェーレ川を渡った先にあるジャニコロの丘まで行きました。ふもとまでは簡単に行けたのですが、丘に上がっていくバスの停留所がどこにあるのか、またどの路線に乗ればいいのかがわからず右往左往。ようやっと見つけ出し、5分ほどで到着。パティオの泉という噴水を横目に見ながら、もう少し上ったところが丘のいただき。ここからはローマが一望のもとに見渡せます。緑が豊かで空気もきれい、町中の喧騒がウソのように思えるゆったりした場所で、とてもくつろいだ気分になれました。ここは穴場ですね!

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L1020791ばらくのんびりし、バス停まで戻る途中に大きくて立派な像が建っています。イタリア建国の父ともいわれるガリバルディです。バスでふもとまで降りランチにしようとしたのですが、予定していた店が店仕舞いしてしまったのか、探せど探せど見つかりません。看板だけは出ているのですが……。このあたりがガイドブック頼りのつらいところです。仕方なくその近くの店で食べましたが、暑い中を歩いたダメージはけっして小さくありません。

L1020795しばし体を休めたあと再始動。最初にバスを降りたトラステヴェレ病院近くの通りを東に渡りしばらく歩くとタバコ工場が。その向かい側がサンタ・チチェーリア・イン・トラステヴェレ教会です。細い路地を川に向かっていくと、真ん前に小さな中洲がありました。中洲全体が隔離用の病院だったようです。それを左に見ながらパラティーノ橋を渡ると「真実の口広場」。その先にはフォロ・ロマーノが広がっていました。

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カンピドーリの丘を抜けオッタヴィアの列柱や、シーザーが作ったというマルケルス劇場などを見たところで今日の観光はジ・エンド。まあ、よく歩きました。

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いつものことですが、夕方でも夜でも、ホテルに戻るとまずは仕事を片付けます。メールをチェックし、私が目を通さなければならない原稿が送られているときは、プリントが必要です。ホテルにビジネスセンターが備わっている場合は、USBにデータを写し、それを持ってセンターに行けば事足りますが、ない場合は別の手立てを講じなくてはなりません。まず、プリントしたいデータファイルを添付したメールをホテル気付で自分あてに送ります。そして、フロントでそのファイルをプリントしてもらうのです。海外にはそもそも、日本のようなコンビニがないので、こういう手を使うしかありません。それでも、かつてのように日本から国際FAXで送ってもらっていたのに比べれば断然便利にはなりましたが。


ころあいを見計らってフロントまで取りに行くと、クリスティーナさんが「お元気ですか」というつもりで「お天気ですか?」と聞いてきたので、大笑いしました。「テではなくてゲです。おゲンキですか、ね」。でも、さっそくそういう接し方をしてくれるのが楽しいですね。

夕食はホテルのすぐ近く、またまた屋外で食べられる店にしました。ウエイターが案内してくれたテーブルの隣はロシア人とおぼしき男性が2人。よくしゃべりよく食べる2人で、ワインと一緒にスパゲティーを2皿(2人で4皿!)も平らげています。もちろん前菜で、メインは別に注文しているのでしょうが、私たちが食事を終わった時点でも、まだサラダか何かをパクついていました。勘定を済ませ、「スパスィーバ!」といって席を離れようとするとにっこり笑顔で応えてくれます。「ありがとう」という言葉はホント便利です。

どこに行っても飽きることのない町!

2015年6月24日
今回は、前回来たとき行けなかったスポットを中心にと思っていたので、まずはナヴォーナ広場をめざして路線バスに乗りました。停留所の名前がわからないので、当てずっぽうで降りたものの、広場らしいものは見えません。実際はバス停のすぐ近くにあったのですが、方向を間違えて歩いてしまったため、カッチェレリア宮の前を過ぎ、気がついたときは、目の前にサンタンジェロ城がありました。まあ、ローマはどこに行っても楽しめるでしょうから、こうした無駄歩きも全然気になりません。

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テヴェーレ川のたもとにある美しい姿をしたサンタンジェロ城ですが、橋を渡って城の真ん前を右に曲がると最高裁判所の建物が。その前にある別の橋を渡って、ようやくナヴォーナ広場にたどり着きました。これは余談ですが、その昔「ナボナはお菓子のホームラン王です」というコピーをよく見聞きしましたよね。ジャイアンツの王貞治がシロウトっぽく語るのがうけていたようです。東京・自由が丘の亀屋万年堂が製造・販売していた「ナボナ」というお菓子(巨人嫌いの私は、もちろん食べたことなどありません!)のCMでしたが、その元になった場所です。

有名な「ムーア人の噴水」「四大河の噴水」「ネプチューンの噴水」を見たあと、近くにある世界最大の石造建築物パンテオンへ。いちいち感動していたらキリがありませんが、まあなんとも美しい建物でした。

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そこからさらに東へ歩き、コルソ通りを右に曲がった正面がヴェネツィア広場。ここもまた世界中からの観光客でにぎわっています。広い通りを渡ってヴィットーリオ・エマヌエーレⅡ世記念堂まで上ったあと、トッレ・アルジェンティーナ広場というローマ時代の遺構へ。ここらで疲れもピークに達した感じでホテルまで戻ります。

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L1020732_2夕食はホテルの近くで探しました。「日本語のメニュー、ありますよ」「こんばんは」と、どこで習い覚えたかわからない日本語で店員が声をかけてくる店は敬遠し、自力で、カンを頼りに探した店を選びます。アウトドアの席につかせてもらいました。マグロのカルパッチョとか何品か食べましたが、どれも皆美味でした。

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今回はテルミナ前のUNAホテルに泊まっているのですが、そのフロントに、気さくでとても好感が持てる女性がいます。名札にはクリスティーナとあります。昨夕、私たちがチェックインしたときも今日も、明るい魅力的な笑顔で応対していました。仕事もできそうな印象です。片言のイタリア語で「元気?」と声をかけたら、「それ、日本語ではどういうのですか」と質問されたので、「お元気ですか?」というのだと教えてあげました。

首都ローマで、いきなりのミステリー

2015年6月23日
午後7時前にローマ・フィウミチーノ空港(レオナルド・ダ・ヴィンチ空港)に到着。入国手続きと荷物の受け取りに1時間ほどかかりました。ホテルはテルミナ駅のすぐ近くなので、レオナルド・エクスプレス(ノンストップの列車)を利用するのがベストかと思い、切符売り場に。すると、販売員が「次の列車まで20分待たなくちゃいけない。乗ってから30分。テルミナ駅は大きいから、降りてから出口まで10分。なんだかんだで1時間以上はかかる。なら、シャトルバスに乗らないか。いま5人待ってるけど、あなたたちが2人だから7人。ほら、もう1人来たよ。8人そろったらすぐ出発できる。30分で着くから」と、そちらをすすめてきます。値段は列車より1ユーロ高い(=15ユーロ)のですが、まあ、いいかとチケットを買いました。

私たちも含め8人で、1階の駐車場に止めてあったマイクロバスまでぞろぞろ歩いて行ったのですが、やっとわかりました。「白タク」ならぬ「白バス」ですね。それにしても、なんで鉄道の切符係がそういうあやしげな「白バス」に客を誘うのか、不思議でなりません。もちろん、歩戻しがあるのでしょうが、でも……といった感じです。プルマン(通常のバス)なら6ユーロ。もちろん、定時の発車ですから、それまで待つのが大儀ではあります。それに比べると白バスのほうはお客さえそろえばすぐ出発ですから、楽は楽なのですが。


首都、それも世界のローマだというのに、このテの話には事欠きません。機中で読んでいたガイドブックにもそうした話がゴマンと出ていました。「こういう手でだまされた」「集団すりに遭った」など、油断もスキもないといった感じです。旅行中無事ならばオンの字といった書き方がなされていて、明日から市内のあちこちに行こうと思っているのですが、さてさて、どうしたものやら……。

3日続けて空にはガスが……これではせっかくの北京も

2015年5月28日
昨夜に続いて、朝はフロントで“セルフプリント”。何せ、スタッフの女性を起こしてあげたくらいなのですから。まあ、考えてみると、お気楽なホテルで使いやすいということですが。

 

今日は観光。ガイドをお願いした劉さんとロビーで会い、出発。空は昨日と同じく晴れなのにガスのため、遠くの景色はほとんど霞んでいます。空気が澄んでいたらどんなにきれいだろうかと思うと、なんとも惜しまれます。

 

Photo_3予定では、午前中が頤和園、午後は故宮(紫禁城)。頤和園では、そのスケールの大きさに驚きました。たかだか一人の人物(=西太后)のためにここまでやるかと思うほど、至れり尽くせりの設計と配置、しかもそのいちいちに工夫がほどこされています。たしかに、夏の宮殿という触れ込みですから、いかに暑い思いをさせないかということが大きな目的ではありますが。そのために空気がよく通り抜ける長さ100m以上の廊下を作る、途中に休憩所を設ける、西太后専用の劇場を設けるなど、清朝の権力の大きさを改めて実感させられました。

 

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Photo_6昼食は「東方餃子王」というチェーン店で水餃子。東北地方のハルピン発祥の店で、えらく人気があるようです。餃子のイメージとはほど遠い、明るく清潔感いっぱいの内装が特徴で、オープンキッチン。たかが餃子なのにとも思うのですが、そのあたりにオーナーのこだわりがありそうです。

 

メニューはバラエティーにあふれていて、チョイスはガイドさんにおまかせでしたが、すべてGOODでした。「大拉皮」という、クズ切りを太く切ったもの(冷えています)の上にジャージャー麺でよく見るひき肉の味噌炒めとキュウリが乗っかっただけのシンプルな料理ですが、絶妙の味つけ。東北地方の家庭料理だそうです。

 

続いて餃子が3皿。中身は豚肉と白菜。こちらを平らげると、さらにニラと卵焼きを詰めたものを追加でひと皿。これだけで十分お腹は満足。
「餃子湯」(餃子をゆでたときの残り汁=そば湯と同じです)というのが店内に置いてあり、これは自由に飲むことができます。ラー油とおろしニンニクを適当に入れるとおいしいスープになります。

 


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腹ごしらえを済ませ、いざ故宮(紫禁城)へ。途中、テレビでしか見たことのない「天安門広場」「人民大会堂」を見て、紫禁城の北のほうにある駐車場でクルマを降ります。入場口がある南の午門まで、アンコールワットでもお世話になったトゥクトゥクというか、「リキシャ」に乗って移動。値段は交渉のようで、このときは10元でした。

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さて紫禁城ですが、これはもう超超超特大のスケール。ヴェルサイユ宮殿の敷地(1070ヘクタール)にははるかに及ばないものの72・5ヘクタール(およそ22万坪)。9999の建物があり、南北961メートル、東西753メートル、高さ10メートルの城壁で囲まれています。見るとキリがないので、この日は、皇帝が通った中央の通路を南から北に抜ける最短コース。さほどゆっくり観てまわったわけではありませんが、それでも2時間近くかかりました。

 

夜は宿泊しているホテルのレストランでNさん一行に合流、こちら側が主催の答礼宴でした。

“おふくろの味”で勝負するホテル

2015年5月27日
今回のホテルは、同行しているNさんサイドで手配してくださっています。朝食付きで1泊7000円ほどですから、ほとんど期待していませんでしたが、今日の朝食でその認識が間違っていることがわかりました。

 スタイルはいちおうビュッフェの体【てい】を取っています。しかし、並んでいるのはおふくろの味系のメニューがほとんど。ところが、これがけっこうイケるのですね。日本でいうならデパ地下の惣菜といった感じですが、どれを食べても体が癒される感じ。おかげで朝から箸が進みます。

唯一の欠点は、コーヒー・紅茶が用意されていないこと。「コーヒーは?」と係の人にたずねても、なかなか理解してもらえません。「そうか、いいかげんに発音してしまったからな」と思い直し、英語っぽく発音してみたのですが、やはり通じません。たまたま、彼女の脇にインスタントコーヒーの小さなパックが1個だけあったので、「これこれ」といったら、それしかない様子。では「ティーは?」と聞いてみましたが、これもアウト。「チャイニーズティー?」も×でした。

 結局あきらめたのですが、そのあとクルマでホテルを出発してから、北京在住の日本人に聞いてみました。「そうなんです。中国はコーヒーとパンはまだまだで」とのこと。そういえば、ビュッフェの片隅に、いかにも仕方なくといった感じで食パンとロールパンが置いてありましたが、ほとんど手つかずの状態で、見た目もパサパサでした。その近くにあった中華風の餅菓子(デザートですね)のほうがよほど食指が動きます。「中国人が朝飲むのは、牛乳が多いですね」という話に納得。たしかに、どのテーブルにも牛乳をなみなみと注いだコップを見かけました。

 ホテルを出て南西の郊外までクルマで移動。今日も、天気は晴れなのですが、空はガスでかすんでいます。途中、ディズニーランドのパクリで日本でも大きく報じられたことのある石景山というところを通りました。遊園地っぽい施設がいっぱい目につきましたが、「もう2、3年前につぶれましたね」とのこと。

 予想どおり道路の渋滞に遭いました。場所にもよるのでしょうが、ひどいところはまったくどうしようもありません。一口に「北京」といいますが、直径500キロにも及ぶ広さだそうです。東京ら京都までの距離ですから、「えーっ!?」ですよね。それはクルマも要るでしょう。人口も2000万を越えるというのですから、通勤も大変そうです。

Photo_11 帰りはすんなり中心部に戻り、胡同というエリアの一角にあるシャブシャブ屋さんで夕食とあいなりました。二つの小さな湖(=前海と后海)があり、そのほとりに店がずらりと並んでいます。若い人がいっぱい歩いていました。たしかに、店を見ると、カフェバーとかが目立ちます。「老北京」という文字の看板が数多く目につきましたが、古い街並みはそのまま、そこに造られた新しいコンセプトの店がうまくマッチしていました。地元の人だけでなく、海外からの観光客にも人気があるそうです。

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ホテルに戻るとメールが来ていました。すべて添付ファイルがついています。私がチェックしなければならない仕事の原稿です。普通はファイルをPDFに変換してUSBに落とし、それをビジネスセンターでプリントしてもらうのですが、2階にあるというビジネスセンターに行ってみると──。中国人のスタッフが2人いるにはいるのですが、どちらも英語がまったく通じません。最後は筆談で状況を理解しましたが、結局1階のフロントでプリントしてもらうことしかないということに。
 

すぐ降りていったのですが、フロントのスタッフも英語がわからないようで、USBを見せながら「print」と2、3回口にすると、やっとわかってくれ、自分のすぐ横にあるパソコンを指さします。あとは自力ですべて済ませ、プリントされた用紙だけスタッフから受け取りました。

 

まあ、とりあえず目的は達成できたのでとりあえず助かったのですが、「それにしても」といった感じです。「商務飯店」を名乗っているくらいですから、「ビジネスホテル」のはずなのに、これでいいのか……と。ただ、朝も外国人は皆無でしたし、泊まっているのは99%中国人のようでした。

な、なんなんだ! この巨大さは──北京国際空港

2015年5月26日
羽田を昼過ぎに出た中国国際航空の北京直行便。夕刻、予定どおりの時間に到着しました。着陸前から低空飛行に入るのですが、景色の“抜け”の悪いこと。聞きしにまさる汚染ぶりです。

 

クルマの排気ガスが作り出すPM2.5や黄砂のせいだというのはよく知られています。市当局は、日によってナンバープレートの奇数・偶数で、市内への乗り入れを制限しているといいますが、お金のある人は偶数・奇数の2台を保有し、日によって使い分けているそうです。結局、クルマが多く売れただけのようで、さして効果はないとのこと。

 

それにしても、北京の空港の壮大さ! 上海の浦東、香港、台北、シンガポールのチャンギー、バンコクのスワンナプーム空港も、初めて見たときは大きいなと思いましたが、それをはるかに上回る大きさ、広さです。
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それでも、中国の人の多さと引き比べると、早くも手狭になっているようで、来年にはもう一つ、国際空港がオープンするとか。改めて、中国という国の大きさを感じさせられました。

 

2時間ほど待ったころ、広島からの便で到着したNさんと合流。空港地下の駐車場も広くて立派です。高級外車もゴロゴロ止まっており、羽田空港と遜色ありません。

 

Photo空港からホテルに向かう途中にある、日本風のメニューをそろえた店で乾杯。そのあと「チャーハンが最高にうまい店」(Nさん)という触れ込みで連れていってもらったのは、なんと鼎泰豊(ティンタイフォン・台北の支店)でした。ただ、台北の店とはまったく雰囲気が違い、こちらは高級中華料理店の風。でも、チャーハンはホントおいしい! もちろん、小籠包も。しかし、それ以上に感動したのは鶏スープでした。

 

空港に近いエリアのようでクルマで走っていると、クラウンプラザ、マリオット、ウエスティン、シェラトンなど、アメリカの大手ホテルチェーンの看板が次々と目に入ってきます。ただ。これはいうならばPART1で、都心部には同じチェーンのホテルがまた別にあるようです。

 

高速道路はとても立派で、道幅も広いし、表示もわかりやすく感じます。日本風のせこせましさはまったく感じられません。

 

ホテルにチェックインしたときは、22時をとっくにまわっていました。

福江島の教会にはびっくり!

2015年5月16日

ツアーも今日が最終日。午前中はまず井持浦教会に足を伸ばします。日本で初めて「ルルド」が作られた教会として有名だそうです。「ルルド」とはフランス南部の町の名前ですが、その地の洞窟に聖母マリアが出現 、霊泉で人々の難病を治すなどの奇跡を起こしたことで、あちこちにこの洞窟を模したものが作られるようになったとのこと。

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教会自体は実に素朴で、戦国時代末期から連綿と伝えられるキリスト教信者のピュアな信仰心がいまでも息づいているようです。見学後、島の最西端に位置する大瀬崎断崖に。東シナ海に突き出た大きな断崖の突端に真っ白な灯台が見えるという触れ込みです。この日は霧がかかっており、もうダメかと思いましたが、見学中一瞬晴れ間があり、そのときだけは切り立った断崖とともに灯台が姿をあらわし、一同感激。

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そこから市の中心部に戻り最後に訪れたのが石田城(福江城)跡。江戸時代の最後も最後、1863年に築かれたものの、すぐに明治維新となったため、わずか9年ほどで解体されたといいます。お堀のほか、見た目にも新しさを感じさせる石垣と裏門だけが残され、「もったいないことをしたな」と。

L1020442午後3時前、城からすぐのところにあるフェリー乗り場から長崎に向けて出発。1時間ほどで長崎港に着き、そこからツアーにつきもののお土産屋さん。長崎なのでカステラ屋さんでしたが、そこでしばし時間を過ごす人もいれば、私のように、すぐ近くにある平和公園を散策する者も。しかし、こういうところというのは、まったくその気がなくても、結局あれこれ買い込んでしまうものなのですね。家人も、カステラやら何やらを手提げ袋ほぼいっぱいに買っていました。

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そこから空港に移動し、早めの夕食を軽く取り飛行機へ。羽田に着いたのは夜8時過ぎでした。3泊4日の定番コースなのでしょうが、おいしいところは漏れなく、また無駄なく訪問できますし、食事もこれまた定番ものでしょうが、おいしく食べられるのがツアーの利点でしょう。たまにはこういう旅もいいなと思いつつ、自宅に戻りました。

びっくり仰天、釜山からサイクリングで対馬に!

2015年5月15日
今日もまたいい天気です。朝、ホテルの前には北部の港からやってきた行商のご夫婦が。並んでいる魚の干物はいかにもおいしそうで、しかも安いこと(それでも、観光客相手ですから、地の値段よりは高いのでしょう)。いくつか見つくろって買い求め、友人・知人への配送をお願いしました。

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L1020334今日はまず、万松【ばんしょう】院という、対馬の歴代藩主(宗【そう】氏)の菩提が弔われているお寺です。居城であった金石【かねいし】城跡に隣接しているのですが、ほとんど閑古鳥が鳴いていました。しかし、巨大なお墓が立ち並ぶ墓所には圧倒されました。さすが、通信使の受け入れなど、朝鮮との外交をほとんど一手に取り仕切っていた宗氏の実力を感じました。

万松院の次は万関橋です。対馬はもともと陸続きの島でしたが、島の東側にある厳原から西側まで行くには豆酘【つつ】岬を迂回する必要がありました。ときには、船ごと陸を越え島を横断(何人もでかついだり、綱で引っ張ったりするわけです)することもあったといいます。いまも残る「大船越」「小船越」という地名はその時分の名残り。遣唐使や遣新羅【しらぎ】使もそうした場所を越え、西側の浅茅湾【あさじ】に入ったそうです。

しかし1671年、21代藩主・宗義真によって大船越の運河が掘られ、そうした不便が解消されました。この運河は伊達政宗が仙台に作った貞山【ていざん】運河(松島湾と阿武隈川を結ぶ)に次ぐ、わが国でも2番目に古い運河だそうです。

L1020359さらに、大船越の北にある万関瀬戸が1900年、海軍によって掘削されます。これは、対馬沖の日本海海戦で、水雷艇が浅茅湾奥の軍港・竹敷から東側に抜けるための運河(長さ300m、幅22m、水深3m)として設けられたものです。そこに架かっているのが万関橋。高さ32m、長さ100mの橋の上に立つと、よくもまあこんな険しい場所に運河を築いたものだと感心させられます。
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そのすぐ近くにあるお土産屋さんに立ち寄り、名物の「かすまき」というお菓子(こし餡をカステラ生地で巻いた素朴なもので、江戸時代、藩主をもてなすために考案されたそうです)を食べ終えて外に出ると、なんと、韓国からサイクリングでやってきた一団がいました。格好だけ見ると、日本人の若者たちかと錯覚してしまうのですが、話している言葉が違います。

聞けば、島の最北端には「韓国展望所」というスポットもあるとのこと。釜山までは距離にして49・5kmですから、天気がよくて空が澄んでさえいれば、釜山の北側にある山々も十分に見えることでしょう。それほどの近さですから、北東部にある比田勝【ひたかつ】港と釜山港を結ぶJR九州のフェリーも運航しています。南東部の厳原港とも結ばれているようですが、比田勝・釜山間は1日に2~3便、所要時間はわずか1時間10分(厳原でも1時間55分)ですから、自転車をかついで気軽にやってきても不思議ではありません。

大陸とそれほど近いわけですから、古くから対馬との間に行き来があるのはむしろ当然で、この島が、壱岐とも、もちろん九州北部とも文化が異なっているのは不思議でもなんでもないということになります。もちろん、いまとは違い、ちょっと風が強く波が高ければすぐにでも沈んでしまったのでしょうが、天気にさえ恵まれればいとも簡単に渡れたにちがいありません。

ふだんはおよそ「国境」などというものを意識することのない「日本人」ですが、ここまで間近に異国があれば、おのずと感覚も違ってくるはず。そのことをなんともリアルに感じさせてくれました。

L1020366万関橋から対馬空港に行き、長崎行きの飛行機を待ちます。長崎を経由して、最終目的地である福江島まで行く便に乗り換えるのです。長崎までは30分、そこから福江までまた30分、オリエンタル・エア・ブリッジというローカル航空会社のボンバルディア社ダッシュという小型のかわいらしい飛行機(39人乗り)でした。
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福江島は五島列島の南側にある大きな島。北側は上五島と呼ばれる島々ですが、どちらも戦国時代末に伝えられたキリスト教の教会が数多く残されています。午後の早い時間に福江空港に無事到着し、最初に行ったのは鬼岳展望台。阿蘇山麓に広がるかの有名な草千里を、それこそ百分の一くらいに圧縮したくらいの雰囲気です。500万年前に噴火したという火山・鬼岳の上に広がるこの一帯は芝生におおわれており、すがすがしい空気を吸い込める心地よい場所でした。

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そこから鎧瀬【あぶんぜ】溶岩海岸へ。ここもまた、鬼岳の噴火によって流れ出た溶岩によって作られたダイナミックな海岸です。夕方、カンパーナホテルという、港近くのホテルにチェックイン。夕食はかなり広い宴会場に超大きいテーブルが離れ離れに並べられ、各テーブルに2人ずつという贅沢なセッティング。おいしく魚介類、それと名物の福江牛をいただきました。

壱岐島内を観光ののち対馬へ

2015年5月14日
朝8時20分にホテルを出発し、今日の前半は壱岐の島内観光の続きです。もともとが小さな島ですから、1日もあれば十分まわり切れるのでしょうが、昨日はその3分の1程度ですから、見るべきスポットはまだまだあるのでしょう。

まずは半城【はんせい】湾を横目に見ながら黒崎へ。ここには太平洋戦争のときに作られた砲台跡がありました。東洋一の規模だそうで、対馬海峡を航行する敵の軍艦を攻撃するためのものだったとか。ちなみに、その前に見た半城湾は、日露戦争当時、入り組んだ海岸線を隠れみのに駆逐艦が停泊したところ。いまは真珠の養殖がおこなわれています。

L1020239黒崎をあとにしたバスは西から東に向けて一気に島を横断、ほぼ東端に位置する左京鼻まで移動します。その途中には、元寇(弘安の役)のとき元軍と戦って亡くなった少弐資時【しょうにすけとき】の墓がある公園が見えました。左京鼻は眺めのいい場所で、海岸線を見下ろすと海女【あま】たちが貝類を採るべく何度も何度も海に潜っている姿が。壱岐島には80人ほどの海女がいまも健在だといいます。

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ここまでで壱岐の島内観光は終わり。それにしても神社の数はハンパでない印象を受けました。バスで走っていても、右を見ると神社と古墳、左を見ても神社と古墳といった感じでした。『延喜式』には、西海道9国2島には107座98社の神社があったとありますが、そのうち壱岐だけで24座24社(対島が29座29社)あったといいますから、この2つの島で半分以上を占めているわけで、その多さがうかがい知れます。

島の北部の食堂で昼食後、郷ノ浦の港から対馬に向けて出発。フェリーで2時間少々走り厳原【いずはら】の港に着いたのが午後3時少し前。壱岐と違い対馬は全島が丘陵といった感じです。なるほど、太平洋戦争が終わるまでの間、この島が“海上の大要塞”とされていたのもよくわかります。元寇のときも2度とも、元軍に蹂躙された経験がそうさせたのかもしれません。いまはほとんど面影はないようですが、竹敷(対馬空港の、浅芽【あさじ】湾をはさんだ向かい側)は明治期、横須賀、舞鶴、呉、佐世保と合わせ「五大軍港」の一つに数えられていたそうです。

L1020285さて、港から城下町・厳原の町を北上、対馬を南北に分かつ運河の上に架けられた万関【まんせき】橋を渡り、和多都美【わたづみ】神社に。和多都美神社は名前のとおり、海の神を祀る神社です。潮が満ちてくると海水が本殿のすぐ近くまで流れ込んできます。逆に、引き潮のときは100m先の沖合までほぼ干潟のような状態で、そこに、参道を示すかのように鳥居が2つ建てられています。

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神社のあと烏帽子岳展望台を訪れ、夕方5時半ごろ宿泊先の対馬グランドホテルにチェックインしました。

壱岐・対馬・五島列島の旅へ

2015年5月13日
この1カ月というもの、原稿執筆でアリの這い出るスキもありませんでした。とりあえずのゴールをゴールデンウイーク明けに設定してはみたものの、なかなか想定どおりに進まないのがこの稼業。GW明けというのにはワケがあり、今日から、「手つかずの自然が残る九州の秘島 壱岐・対馬・五島列島めぐり4日間」というツアーに出かけることになっていたからです。

私としては珍しい団体ツアー(それも国内)への参加なので、スケジュールを自由気ままに変更するわけにはいきません。もともと以前から「いつかは行きたい」と思っていたコース内容でもあり、新聞広告でたまたま見つけたときは即決で、すぐ申し込みの電話を入れました。幸い、催行も決定したため、予定どおりの出発となりました。


今日はその1日目。早朝、羽田空港の団体カウンターに集まり点呼を済ませると、出発の時刻までは自由時間。その間に朝食を取り、まずは空路福岡へ向かいます。福岡空港から唐津東港までバスで移動し、そこから2時間ほどフェリーに乗って最初の訪問地・壱岐島の印通寺港に到着したのは午後3時過ぎでした。

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壱岐というのは、驚くほど平坦な島です。島というとなぜか山並+狭い平地といった地勢を思い浮かべてしまうのですが、そういう予断はフェリーが港に近づくころから打ち砕かれます。船を降りるとすぐバスに乗って、観光がスタート。まずは「原の辻遺跡(一支国王都復元公園)」を通って「一支国博物館」へ向かいました。

壱岐(かつては「一支」と表記していたそうです)は『魏志倭人伝』にも登場するほど長い歴史を持つ島です。2100年前、当時朝鮮半島を支配していた「魏」の使節が、北九州にあったと思われる「倭」の国(邪馬台国)をめざす途中、対馬と壱岐に立ち寄ったようです。そのため、島内には古墳が散在しており、その数は260を超えるとのこと。


それにより中国・朝鮮からさまざまな産業・技術・文化が持ち込まれ、壱岐でもいち早く稲作が始まったといいます。それを示すのが「原の辻遺跡」で、そこには東アジア最古という船着場跡があります。そうしたことから、壱岐の中心地(首都)がこのあたりにあったことは間違いないらしく、そこに遺跡公園や博物館が設けられたしだい。


博物館を見学したあと訪れたのは「岳ノ辻展望台」。壱岐でもっとも標高の高い場所、といっても213mですから、それほど高いという感じはしません。それでも天気がよければ対馬はもちろん呼子(佐賀県)まで見通せるといいますから、展望台を名乗るのに疑問をさしはさむ余地はないでしょう。

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展望台をあとにしバスで10分足らず走った郷ノ浦というところに1日目の宿(=ホテルステラコート太安閣)があります。海辺の丘に建つホテルのテラスからの眺めは最高。私たちにあてがわれた部屋は本館から一度外に出て海岸近くまで降りていき、そのすぐ脇に建つ別館のようなところだったので、よけいです。食事も島の名物がずらり並び、堪能しました。ホテルのすぐ近くに「春一番の塔」という場所があるのですが、これは1859年の春、強風(地元ではこれを「春一」と呼ぶ)で海難に遭って命を落とした53名の漁師を弔うためのもので、「春一番」という言葉はこの島で生まれたのだそうです。

外国人の多いことに感心

2015年5月7日

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今日でカンボジアともお別れです。午前中はホテルからクルマで1時間ほど走ったところにあるバンテアイ・スレイ遺跡へ。「東洋のモナリザ」で有名なところです。アンドレ・マルロー(作家・のちのフランス文化相)がそれを見て国外に持ち出そうとしたという話ですが、それもむべなるかな。なんとも魅力的な顔が彫られていました。

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最高気温は連日36℃以上。地表近くではおそらく40℃を」遺跡のいくつかを見てまわったのですから、体調に異常をきたすのはある意味当然かもしれません。

ホテルに戻り、シャワーを浴びて荷造りを済ませチェックアウト。シエムリアップ国際空港まではクルマで15分ほどです。空港に着いたら、トゥクトゥクに大きなスーツケースを積んでやってきた外国人のカップルがいました。どのあたりのホテルに泊まっていたのでしょうか。さぞかし足もとが狭かったのではないかと心配になりました。

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それにしても、アンコール遺跡は欧米系の外国人の姿が目立つところです。もちろん、日本人も多いですし、中国人、韓国人も目につきました。なかには、こちらに定住しビジネスに携わっている人も少なくないようです。私たちが、ガイドさんに連れて行かれたおみやげもの屋さんの店員はパキスタン人でしたし、マネージャーも北欧系の男性でした。日本人女性が起業したクッキー屋さんはいまでは、カンボジア国内にいくつもお店を展開、さらに各地の旅行会社と組んで、ツアーの客はかならずといっていいほどそのクッキー屋さんに連れていかれていました。

また、本国での仕事をうっちゃらかしてしまったのかわかりませんが、こちらで何かしらの方法で日々をしのいでいる外国人も多い感じがします。週に1、2回ホテルのレストランでバンド演奏をしている者もいました。なかには、タトゥーを入れていたり、どう見てもまっとうな稼業とは思えない人も。タイもそうでしたが、このテの、もろスピンオフしたという感じの欧米人が目につきます。


その点、日本人はまともで、きちんとした仕事やボランティア、NPO法人などで活動している人が多いようです。クッキー屋さん以外にも、居酒屋や食料品店、ミニスーパーなど、そこここに「日本」が見えましたから。

シェムリアップの空港は小さいながらも、世界中から観光客がやってきているところだけあって、けっこう立派です。ターミナルの建物と飛行機とをつなぐ蛇腹こそないものの、けっこう夜遅くまで便が行き来していますし、私たちが帰国する前日など、成田行きのチャーター便まで出ていました。


私たちのような前期高齢者層もさることながら、若い人の姿が多かったです。でも、実際行ってみてわかったのは、こういう場所は若いうちに来ておくべきだということです。年中かなり暑いようですし、そこを歩いてまわるのは大変です。外国人などもっと元気で、40℃近い中を自転車に乗って走り回っていましたから。

「アンコール」遺跡で有名なのは「ワット」と「トム」の二つですが、実際には100を越えるスポットが散在しています。ここへ来て1週間とか10日間とか滞在し、その間、朝となく昼となく、ガイドの世話にならずに、そうしたスポット片っ端から訪れている欧米人も少なくないようです。こちらに居ついてしまうのは、そうした中で、母国よりも居心地がよさそうだと感じた人たちなのでしょう。

シェムリアップからLCCのJETSTAR便でシンガポールへ。2時間ほどで着きましたが、日本行きのANA便の出発まで3時間以上あります。チェックインを済ませると、まずは食事。そのあとでラウンジに入ったのですが、ANAはシンガポール航空のそれを拝借しています。ところが、これがめっぽう充実していました。世界ナンバーワンといわれる香港のキャセイパシフィック航空も真っ青といっても過言ではありません。こんなことなら、わざわざお店でお金を払って食事などしなくてもよかったと後悔してしまいました。

ただ、そのお店(中華料理)もけっして悪くはありませんでした。「Seafood Paradise(楽天海鮮)」という名前でしたが、店構えは立派ですし、味や材料のわりに価格もそれほど高くはありません。バンコクの空港にあった「金グループ(ラーメンがメインのお店)」とけっこういい勝負かも。

ネットで調べてみると、ちゃんと出ていました。「Seafood Paradiseは2002年、当時25歳だったEldwin Chua氏と弟のEdlan氏がDefu Lane工業団地内のコーヒー・ショップに開いた海鮮料理屋。兄弟2人で切り盛りする25席ほどの小さな店だったのだが、兄のEldwin氏が考案したクリーミー・バター・クラブが大ヒット。以来、パラダイス・グループは当地で7つのコンセプトのもと、20店舗近くを展開する大手中華料理チェーン店として成長を続けている」(AsiaX GOURMET『シンガポール「飲食店」情報』)のだそうです。店員のしつけもいいですし、何よりインテリジェントを感じさせる店でした。

 

チャンギー空港で感心したものの一つが喫煙コーナー。「コーナー」などというちゃちな代物ではなく、一大スモーキングサロンの感があります。しかも、滑走路に面したエリアにしつらえれているため、大きな窓が外に向けて半分開かれており、まあ、空気のきれいな(!?)ことといったらありません。たまたま私たちが乗る便の出発ゲートに近くにあったのでよけいですが、チューリヒの喫煙コーナーもこれにはかなわないでしょう(もっとも、チャンギーも、もっと数が多ければ満点なのですが)。

 

ワットより多少は涼しいトム。でも……

2015年5月6日

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午前中はトゥクトゥクでオールドマーケットまで行ってみました。おみやげ屋はもちろん、レストランやカフェもいやというほどたくさんあります。昨夜のミスチョイスを改めて思い知らされました。マーケットの一角でTシャツやらアリババパンツなどを買い、ホテルに戻ります。

今日の観光は「アンコールトム」。クルマで行きました。暑い中にもかかわらず自転車で走りまわる欧米人が多いのには驚きます。それでも、アンコールトムは昨日のワットに比べると、建物の中を歩くことが多い分、暑さも多少はしのぎやすい感じ。

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昨日も今日もガイドはカンボジア人です。現地でのツアーを予約する段階で「日本語ガイド付き」をリクエストしたのですが、2人ともまずまずのレベル。「どこで日本語を勉強したのですか」と聞くと、「シェムリアップの山本学校です。授業料はかかりませんでした」と答えます。「山本学校」というのは、カンボジアで現地ツアーの手配を専門に営業している旅行会社の会長(山本宗夫氏)が私財を投じて1996年3月に設立した「山本日本語教育センター」のこと。カンボジアの各地から選ばれた学生が、3カ月もしくは1年間という2つのコースのどちらかで日本語を学んでいるといいます。日本語を学んだあと、ガイドの国家試験に合格した者がこの仕事を務めているわけです。

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夜はオールドマーケットで夕食をと思い、けっこう客の入っている店を選びましたが、またもやハズレでした。

ただ、2日目にしてようやっと暑さにも慣れてきた感じがします。

日本人に大人気の世界遺産「アンコールワット」

2015年5月5日
午前中はホテルの近くを見てまわろうと、ホテルの前に立つと、スタンバっているトゥクトゥク(3輪タクシー)のドライバーが声をかけてきました。ホテルの周辺をひととおりまわってくれるように頼んだのですが、料金は10ドルとのこと。いわれるがままに乗り1時間ほど走ってもらいました。ガイドブックに紹介されている川はほとんどドブ川の体。熱帯地方特有のモワーっとした空気、未舗装の道路など、1時間ほど回っただけで、体中ホコリだらけになった感じがします。

午後からは、日本人にいちばん人気のある世界遺産「アンコールワット」へ。午前中も乗ったトゥクトゥクです。15分ほどで到着しましたが、建物が立ち並ぶところまでは日をさえぎるものは皆無。ペットボトルの水がどんどん減っていきます。もちろん、素晴らしい美しさですし、そのスケールの大きさにはただただ感動するばかり。

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それにしても、暑さにはほとほとまいりました。ガイドさんの話によると、1年でも4・5月はいちばん暑いそうです。10分動いては5分休憩といった感じで。メニューには夕日の鑑賞が組み込まれていたのですが、とてもそんな体力はなく丁重にお断わりし、早々にホテルに戻りました。

夜は徒歩5~6分のところにあるレストランへ。ガイドブックに紹介されている店です。ところが、ホテルを出るとすぐスコールが降り始めました。近くの別のホテルのロビーでしばらく雨宿りをしていたのですが、いっこうにやむ気配がなく、結局トゥクトゥクを拾ってて移動しました。その店はなぜか、前も中も真っ暗。電気が来ていないのではという雰囲気で、テーブルも厨房もすべてロウソクの明かり。迷ったあげく、結局そこに入ったのですが、味は案の定いまイチ、いま2でした。

日本とは大違いの暑さ、それもむしむししているので、体がまだついて行けない感じがするところへまずい食事ときては、どっと疲れるのも当然でしょう。寝る前にバーでビールとカクテルを飲って早々に就寝。

最後までアウト! リッツ・カールトンの情けないサービス

2015年5月4日
最後の最後まで、リッツ・カールトンはやってくれます。32階でチェックアウトしたのですが、最後の最後まで「今回は申し訳ありませんでした」とか「本当に失礼いたしました」といった謝罪の言葉はなく、営業的なスマイルで「よい旅を」と声をかけただけ。シンガポールという国は国民のインテリジェンスが高いとされています。しかし、このリッツ・カールトンにかぎっては、「ハイ・インテリジェンス&ロー・ハート」でした。

今日はカンボジアのシェムリアップに移動する日です。LCCのタイガーエアは非常にスムーズに乗れました。事前にチェックインを済ませておいたからです。それと驚いたことが一つ。日本ではまず手荷物の検査を受け、その後で出国手続きという順番ですが、チャンギー空港では手荷物の検査がありません。というか、出国手続きを終えるすぐゲートまで行けます。そのゲートの中で手荷物検査があるのです。ですから、長~い行列はあり得ません。

L1010918バンコクで乗り換えなのですが、一度タイに入国した上で、再度バンコクエアウェイズ(これもLCC)の便にチェックイン。2時間ほどのタイ滞在なのですが、パスポートには二つのスタンプが。カンボジアのシェムリアップまではひとっ飛び。

空港に到着すると、入国手続きの前にビザをもらいます。あらかじめ用意しておいた写真と30ドル(一人)を渡すと、ものの5分でビザを貼ったパスポートが返ってきます。

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頼んでおいた迎えのクルマでホテルまで20分。空に浮かぶ美しい満月がなんとも印象的でした。緯度が低いせいでしょうか、月が心なしか低い位置に浮かんでいます。ホテルは熱帯リゾート風の造りと雰囲気。チェックインのときに手渡されたおしぼりに感動。またレモン風味のジュースもありがたかったです。食事はホテルのレストランで食べましたが、これがめっぽうおいしく大満足。

MRTの表示は、日本も真似たほうがいいのでは

2015年5月3日
朝食後、まずはギャレットの店があるというサマセット駅まで。前は町の通りにある屋台の趣でしたが、えらく出世して、MRTの駅の上にあるショッピングモールの中に。相変わらず行列ができていました。

L1010877次に市庁舎駅へ。ここを起点に歴史地区を歩こうと、聖アンドリュース教会から南へ下り、最高裁判所、市庁舎を見て、さらに南へ。川岸はあっちもこっちも工事中でした。このあたりはシンガポール発祥の地といった趣で、いちばん古い鉄の橋やフラートンホテルなどがあります。そこから北西へ川沿いを歩いていくと、一風変わった雰囲気のエリアが。看板も漢字がほとんど見えず英語ばかりです。どの店も欧米系の客が昼間からガンガン飲んでいます。英国のニューカッスルからサッカーチームが来ているようでした。

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L1010894そこから橋を渡って、BODビルへ向かいます。目的は、60階にある「四川豆花飯荘」。東京・丸の内にある店ですが、その本店です。その中にある「茶芸館」で「ハイティー」を。8品から成るおやつといった感じで、お茶が、ウーロン、ライチー、白毫銀針茶と3種類出ます。すべてとても美味。何より量がちょうどよかったです。8種類の味が少しずつ楽しめ、大満足でした。

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L1010898そこを後にし、ホテルに向かいます。シンガポールのMRTは、駅が広くて明るいのが特徴。台北のMRTとよく似ています。それと、表示がわかりやすいのもいいです。日本は「□□行き 何時何分」とあるのに対し、シンガポール(というかほかの国はどこも皆同じで)「◎◎行き ●MIN」「△△行き ×MIN」とあるので、いちいち時計を見て時刻を確認する必要がありません。ワンアクション少なくて済むのです。この点についてはガラパゴス状態といっていい日本は、見習ったほうがいいのではないでしょうか。

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もう一つ、それと関連しますが、改札口の手前にも同じような表示が出ています。時計を見ながら改札を駆け抜け、ホームに着いたらちょうど電車のドアが閉まったところだったなどという悔しい目に遭うことはありません。「2分後に出るのなら走っても意味ないな」とわかるので、無駄なエネルギーを使うこともないというわけです。

夕方からマリーナベイサンズへ。途中で夕食にしようと、探し回りましたが適当な店がなく、結局ピザ屋で済ませました。そのあともうひと勝負して、私は昨日・今日とタダで遊んだどころか、トータルでは少しプラス。逆に、家人は今回大負け。でも、楽しく遊べてよかったです。シンガポールはまだ総じてナマのテーブルゲームが人気なようで、その分、マシンがいまイチの感がしました。

ユニバーサルとカジノの組み合わせに感心

2015年5月2日

 

昨夜に続き、ホテルでは今日も出鼻をくじかれるできごとが。朝食をとるため、32階のクラブラウンジまで上がってみると、2組4人の先客が入口で並んでいます。私たちも部屋番号と名前を聞かれ、「いま混んでいるので1階のレストランではいかがですか」と。お勧めに従って降りてみたら、こちらはなんと20人近くの行列が。「上のクラブラウンジの方にいわれて来たのですが、並ばなくてもいいのでしょうか」と質問したら、「いえ、そういうことはございません」とつれない返事。「なーんだ」ということでまたまた32階へ。こんどはすんなり入れました。

 

それにしても、ラウンジ入口の係員がしばしば姿を消してしまう理由がよくわかりません。「ちょっとお待ちを」といい残し、すぐどこかに行ってしまうのです。耳につけているインカムはいったいなんのためなのでしょうか? 私たちのあとからもラウンジ入口には何人もお客が来ていましたが、困惑した顔をしていました。

 

L1010831ようやく朝食を済ませ、MRT(地下鉄)でまずアラブストリートまで行きました。ここは初めて行くところです。モスクもあり独特の雰囲気を醸【かも】しています。続いてチャイナタウンへ。ひとつ前の駅で降りて歩き始めたのですが、なんだか見たような景色です。ヒンドゥー教寺院もあり、さらに歩いていくと、ますます見覚えのある景色が。そのあたりから、2年前に来たときその一帯を歩いたことがあるのに気がつきました。

 

 

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L1010845すぐにとって返し、ランチにしようと、予定していた店のほうに向かいました。行く途中、かつては人力車のたまり場だったことを示す看板を見つけ、古きよき時代の風情を感じたり。
目標は、チャイナタウンの端っこにある「京華」という店。餃子が絶品だそうですが、評判どおりえらくおいしかったですよ。繁盛しているのでしょう、隣の店舗も一緒に借りているようでした(中ではまだつながっていない)。

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食事を済ませたあと、MRTに乗って終点まで。そこでセントーサ島まで行くモノレールに乗り換え、ユニバーサルスタジオとカジノが一緒になっている駅で降ります。子どもはユニバーサル、親はカジノということなのでしょう。荷物をロッカーに預けるのに15ドル。外国人なのでパスポートのチェックを受けてから中に入ると、マリーナベイサンズより広くゆったりしていました。マシンも新しいものがまずまずそろっており、いい感じです。5000円くらいで始めたのですが、この日の私はバカヅキで2時間ほどで10万円まで増えました。しかも、そこでやめたので大勝ちです。やったーっ!

 

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夕方までカジノで遊び、タクシーでオーチャード通りのマンダリンホテルへ移動。お目当ては家人の大好きな海南鶏飯。私はホワイトカレーを。こちらも出色の味。

 

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前回来たときに知ったギャレットのポップコーンの店を探したのですが、結局見つからずあきらめてホテルに。ネットで調べたら、別の場所に移っていることがわかり、明日行ってみることにしました。

ホテルのチェックインでつまずき、どっと疲れが……

2015年5月1日

L10108242007年11月、2013年2月に次いで、家人とは3回目のシンガポールです。チャンギー国際空港からタクシーでホテルへ。今回はかなり奮発、リッツ・カールトンに泊まることにしました。
ところが、です。着くやいなや、とんでもなく不愉快な経験をしてしまいました。カードキーの不具合で、部屋に入るまでに1時間以上もかかったのです。

その前兆は、3階のチェックインカウンターですでにありました。タクシーでホテルに到着、ベルボーイが出てきて荷物を運びながら「チェックインですね? お名前は」と聞きながら、カウンターの前まで案内してくれました。そこで待つこと10分。いざカウンターのところまで行き、パスポートを見せたところ、「クラブラウンジのお客様なので、32階でチェックインできますよ(してください)」と。10分も待ったのですから、そのまま手続きしてくれればよかったのにです。「気が利かないなぁ……」と思いました。

ただ、こちらも、「クラブラウンジ」ならば冷たいおしぼりでもサービスしてくれるのではないか、お茶の1杯でも飲めるのではないかと、色気を出したものですから、32階までエレベーターで上がりました。ただ、2席しかないカウンター前のイスには先客が。そのまますぐ奥にあるラウンジに案内され、「何かお飲みになりますか」と聞かれたので、当方はビール、家人はアップルジュースを。

のどをうるおしながら待つこと10分、係員がテーブルのところまでやってきてキーを渡してくれました。チェックインの用紙にサインすればいいだけだったので、そのまま30階に。3005号室のドアをカードキーで開けようとしたのですが、もらった3枚とも作動しないのです。

たまたま廊下を通りかかった従業員に、「キーが作動しない」といってカードを渡しました。その彼が3枚すべてトライしてみたのですが、やはりダメでした。彼の持っていたカードでとりあえず部屋の中に入ることはできました。彼は最初、「ここにいらしてください。キーを直させて、お持ちしますので」といってくれたのですが、たまたま、予約していたはずのマリーナビユーの部屋でなかったこともあり、ついでに部屋も替えてもらおうと、その申し出を断わり、荷物を持って再び32階まで上がりました。ここまででさらに20分が経過。

32階のクラブのデスクにいたスタッフに、「作動しない」といってカードキーを渡しました。そして、「予約した部屋と違うので、変更を」とも。すると、「いえ、マリーナビューのご予約は頂戴しておりません。もしご希望なら、1泊だけ、スイートが空いていますが、どうされますか」とのこと。しかし、途中で部屋を替わるのも面倒なので、それは辞退しました。

キーを受け取り、再び30階へ。ところが、またそのキーが作動しないのです。エレベーター近くにあった電話から「3005号室のキーが作動しない。これで2回目ですよ! 至急なんとかしてください」と告げると、「わかりました。しばらくお待ちください」と。しかし、5分待ってもだれも姿をあらわしません。しびれを切らし、32階まで上がり、「キーが作動しない」旨を告げると、すぐ直してくれました。

「ホテルに到着してからすでに1時間が経っている。まだ部屋に入れない。どうなってるのですか、このホテルは!?」とひと言苦情もいい添えました。30階まで降りて部屋の前まで行くと、さっきの電話に対応したと思われる従業員がようやく、新しいカードキーを持ってきたのですが、32階で直してもらっていたので、お引き取り願いました。ただ、部屋に入るのに1時間とは! もう信じられません。

とりあえず荷ほどきをし、ノートPCをチェックしたあと、気分直しにと、歩いて10分ほどのところにある、マリーナベイサンズへ行きました。ちょっとギャンブルでもと思ったのですが、マカオに比べマシンがどれも古いタイプでいまイチの感があります。それと、人が多いせいか、なんとも狭苦しいこと。2年前、初めて行ったときはそれほど感じなかったのですが……。カジノの一角で軽い夕食を済ませ、10時過ぎにホテルに戻りました。もちろん、こんなツキのない日ですから、負けましたよ。

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ラジオに出演して、高校時代の仲間と新潟の温泉へ

2015年3月29日

Photo3月27日はチョー早起きして、有楽町へ。ニッポン放送の朝の帯番組『垣花正のあなたもハッピー!』に出演させていただきました。2月13日に同じ局の『テリー伊藤のフライデースクープ そこまで言うか』という番組に出させていただいたときも同じテーマだったのですが、ネタは「県民性」です。 

この時期、「県民性」はけっこうメジャーなテーマになりやすいのですね。年度が替わって人が入れ替わるからです。あちこちで、新しい人との出会いがあるこの時期、そのとき格好のテーマになるのです。「どちらのご出身ですか?」「えーー、私はどこそこ県の出身で……」という話があちこちで出ますから。

 

でも、拙著の多くをすでに読んでくださっていたという垣花さんのお話はうれしかったです。「県民性」が好きというのも変ですが、強い興味を抱いているという人はかなりいることがよくわかりました。いつもお話するのですが、少なくとも血液型占い(4パターン)や星座占い(12パターン)よりは信憑性が高いと思っています。最低でも47パターンはありますからね。もちろん「占い」とはまったく違いますが、といってサイエンスでもありません。経験値やざっくりした傾向性のようなものではありますが、やはり的中率は高いのではないかと思っています。 

8時50分から9時半ちょい前まで出演し、そのあとは八重洲口の喫茶店で新聞を読んだり、原稿の構想を練ったりして過ごし、正午に「銀の鈴」に行きました。ここで高校時代の仲間4人と待ち合わせ、新潟に行くのです。新幹線の車中で昼食を兼ねた小宴会をということで、大丸地下の食品売り場をおじさん5人でウロウロ。各自の昼食と別に、ビールにワイン、つまみ用の食べ物を買い揃え、MAXときに乗り込みました。

 

予想と違い、列車は大変な込みようで指定席が取れなかったので、自由席(春休みのさ中だということを忘れていました)。当然、並ばなければすわれませんので、発車30分前にはホームに上がり並んでいました。仕切り役のMくんが「ふたてに分かれて動こう。狙いは1階の車両(MAXなので2階建て、2階より1階のほうが眺めが悪いので当然こちらのほうが籍の埋まるのが遅くなる)」と言うので、それにしたがって、すばやく動き、1号車の出入り口付近に3席×2=6席をGET!

  

L1010730発車ベルが鳴る前にもうビールの栓を抜き、さっそく小宴会がスタート。あっという間に新潟着で、そこから特急「いなほ6号」に乗り換えて白新線の豊栄まで。そこからさらに、旅館差し回しのマイクロバスで20分ほど走り、4時前には到着。月岡温泉の「華鳳」という、えらく立派な旅館でした。

 

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温泉→食事→尽きることのない話→再度の温泉という流れで、床に就いたのは12時前。ただし、日頃の生活パターンで10時過ぎには眠っていた者(Sくん)もいます。翌28日Sくんはいつもどおり、午前4時前には起床、4時からスタートする大浴場に。もう1人のMくんも早起き組みの1人で4時過ぎには早くも起床し、温泉へ。というわけで、5時半には5人中4人が目を覚まし、朝の酒盛りです。

 

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そのうちの一人N君は、この日の夕方、成田からアメリカのヒューストンに出張ということで、朝ごはん抜きでチェックアウト。Mくんも午後3時から新国立劇場でオペラ鑑賞の約束があるということで早々に引き揚げました。残った4人で恒例の社会科見学となり、今回は「豪農の館(北方文化博物館)」に。「北方文化」とは、東京から見て「北の方」という意味だそうです。

L1010742旅館からタクシーで30分足らずのところでしたが、戦前は3000人近い小作農を抱えていた豪農・伊藤文吉の屋敷(敷地8800坪、建坪1200坪、部屋数65)をそのまま改造した施設ですが、まあとにかくすごいところでした。ぜひ、ウェブサイトをチェックしてみてください。
http://www.hoppou-bunka.com/museum_gou.html 

 

 

L1010746ウェブサイトにはこうあります。「昭和20年(1945年)8月の終戦直後、伊藤邸土蔵内に旧日本軍の隠匿物資があるという情報で、進駐軍のライト中尉が調査に来ました。調査で会話を交わすうちに、偶然にも七代文吉がライト中尉のペンシルバニア大学の先輩であることがわかり、それ以後、ライト中尉は伊藤家(北方文化博物館)に絶大な支援を与えてくれることになります。ライト中尉は北方文化博物館草分け期の素晴らしい後援者となりました。……」

 

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アメリカの大学の先輩・後輩がよくもまあ、こんなところで、しかもこのタイミングで出会ったものだという不思議な運命を感じさせられましたが、その後、昭和63年、このライト中尉をこの地に招いたというのですから、この施設に寄せる伊藤家の思いの強さを感じさせます。

 見学を終え、バスに1時間乗り、新潟市内へ。駅前の寿司屋でランチを兼ねての酒盛り。3時ごろ、新潟を出発し、大宮まで帰る着いたときは夕方5時半をまわっていました。もちろん、新幹線の中でもワインを空けたりしたので、着いたときはもうかなりのヘベレケ状態。自宅に帰り着いたときは疲れだけが残っている始末でした。