2015年5月15日
今日もまたいい天気です。朝、ホテルの前には北部の港からやってきた行商のご夫婦が。並んでいる魚の干物はいかにもおいしそうで、しかも安いこと(それでも、観光客相手ですから、地の値段よりは高いのでしょう)。いくつか見つくろって買い求め、友人・知人への配送をお願いしました。
今日はまず、万松【ばんしょう】院という、対馬の歴代藩主(宗【そう】氏)の菩提が弔われているお寺です。居城であった金石【かねいし】城跡に隣接しているのですが、ほとんど閑古鳥が鳴いていました。しかし、巨大なお墓が立ち並ぶ墓所には圧倒されました。さすが、通信使の受け入れなど、朝鮮との外交をほとんど一手に取り仕切っていた宗氏の実力を感じました。
万松院の次は万関橋です。対馬はもともと陸続きの島でしたが、島の東側にある厳原から西側まで行くには豆酘【つつ】岬を迂回する必要がありました。ときには、船ごと陸を越え島を横断(何人もでかついだり、綱で引っ張ったりするわけです)することもあったといいます。いまも残る「大船越」「小船越」という地名はその時分の名残り。遣唐使や遣新羅【しらぎ】使もそうした場所を越え、西側の浅茅湾【あさじ】に入ったそうです。
しかし1671年、21代藩主・宗義真によって大船越の運河が掘られ、そうした不便が解消されました。この運河は伊達政宗が仙台に作った貞山【ていざん】運河(松島湾と阿武隈川を結ぶ)に次ぐ、わが国でも2番目に古い運河だそうです。
さらに、大船越の北にある万関瀬戸が1900年、海軍によって掘削されます。これは、対馬沖の日本海海戦で、水雷艇が浅茅湾奥の軍港・竹敷から東側に抜けるための運河(長さ300m、幅22m、水深3m)として設けられたものです。そこに架かっているのが万関橋。高さ32m、長さ100mの橋の上に立つと、よくもまあこんな険しい場所に運河を築いたものだと感心させられます。
そのすぐ近くにあるお土産屋さんに立ち寄り、名物の「かすまき」というお菓子(こし餡をカステラ生地で巻いた素朴なもので、江戸時代、藩主をもてなすために考案されたそうです)を食べ終えて外に出ると、なんと、韓国からサイクリングでやってきた一団がいました。格好だけ見ると、日本人の若者たちかと錯覚してしまうのですが、話している言葉が違います。
聞けば、島の最北端には「韓国展望所」というスポットもあるとのこと。釜山までは距離にして49・5kmですから、天気がよくて空が澄んでさえいれば、釜山の北側にある山々も十分に見えることでしょう。それほどの近さですから、北東部にある比田勝【ひたかつ】港と釜山港を結ぶJR九州のフェリーも運航しています。南東部の厳原港とも結ばれているようですが、比田勝・釜山間は1日に2~3便、所要時間はわずか1時間10分(厳原でも1時間55分)ですから、自転車をかついで気軽にやってきても不思議ではありません。
大陸とそれほど近いわけですから、古くから対馬との間に行き来があるのはむしろ当然で、この島が、壱岐とも、もちろん九州北部とも文化が異なっているのは不思議でもなんでもないということになります。もちろん、いまとは違い、ちょっと風が強く波が高ければすぐにでも沈んでしまったのでしょうが、天気にさえ恵まれればいとも簡単に渡れたにちがいありません。
ふだんはおよそ「国境」などというものを意識することのない「日本人」ですが、ここまで間近に異国があれば、おのずと感覚も違ってくるはず。そのことをなんともリアルに感じさせてくれました。
万関橋から対馬空港に行き、長崎行きの飛行機を待ちます。長崎を経由して、最終目的地である福江島まで行く便に乗り換えるのです。長崎までは30分、そこから福江までまた30分、オリエンタル・エア・ブリッジというローカル航空会社のボンバルディア社ダッシュという小型のかわいらしい飛行機(39人乗り)でした。
福江島は五島列島の南側にある大きな島。北側は上五島と呼ばれる島々ですが、どちらも戦国時代末に伝えられたキリスト教の教会が数多く残されています。午後の早い時間に福江空港に無事到着し、最初に行ったのは鬼岳展望台。阿蘇山麓に広がるかの有名な草千里を、それこそ百分の一くらいに圧縮したくらいの雰囲気です。500万年前に噴火したという火山・鬼岳の上に広がるこの一帯は芝生におおわれており、すがすがしい空気を吸い込める心地よい場所でした。
そこから鎧瀬【あぶんぜ】溶岩海岸へ。ここもまた、鬼岳の噴火によって流れ出た溶岩によって作られたダイナミックな海岸です。夕方、カンパーナホテルという、港近くのホテルにチェックイン。夕食はかなり広い宴会場に超大きいテーブルが離れ離れに並べられ、各テーブルに2人ずつという贅沢なセッティング。おいしく魚介類、それと名物の福江牛をいただきました。