ついに我が家にもコロナの波が!!

●先週土曜日(8/20)の夕方から家人が発熱、翌朝自宅で抗原検査をしたら陽性。これはヤバいということで病院で診てもらおうとしたのですが、日曜日のためかなわず、結局月曜日に。念のため朝イチで抗原検査をしたらやはり陽性。娘があちこち当たってくれ、ようやく自宅近くのクリニックで予約が取れました(テレビによく出ていた東京都医師会会長の先生のところ)。


●改めてPCR検査を受けるまでもなく、自宅でやった抗原検査の結果だけで即「アウト」の診断。高齢者・高血圧・高血糖ぎみと、重症化リスクがそろっているため、それを抑える薬をもらいました。おかげで徐々に体温も下がり、喉の痛みも緩和しつつあるようです。ワクチン接種を4回受けていたのがよかったとのこと。


●濃厚接触者の私と、同居の娘・2人の孫も月曜日の昼前PCR検査を受けたところ、全員陰性でほっとしました。ただ、3年ぶりの開催で楽しみにしていた8/28の「琉球フェスティバル」@日比谷野外音楽堂、8/29〜31の夏季研修会@都わすれ(秋田県)には行けなくなり、家人はガックリ。私も「琉フェス」はあきらめました。8/21のNHKのど自慢@石垣島に、BEGINと夏川リミが審査員で出ていたのがせめてもの慰めでしょうか。


●そんなことで気持ちも下向きになりかけていた昨日(8/23)、素晴らしいニュースが。「北前船フォーラム」のパリ開催(10/17〜20)が正式発表となり、新聞(といっても地方紙ですが)にも報じられたのです。(https://www.sanyonews.jp/article/1299619)。北前船がなぜパリで? についてはFBでおいおいお伝えするとして、とりあえず大きな楽しみができ、ありがたい限り。これから先2カ月、コロナに感染しないよう、細心の注意を払いながら過ごすことにします。(2022/8/24)

人混みのない軽井沢で買い物、酷暑の群馬でゲルニカを鑑賞

●3日間はあっという間。ただ、一度も渋滞に巻き込まれなかったおかげで、どこに行ってもサクサク動けました。最終日はまず軽井沢に立ち寄り。まだ休み前で、人の出もそこそこ。ジョン・レノンが大好きだったというパン屋さんでは家人お気に入りのアップルパイとフランスパンetc. ハム&ソーセージ屋さんでもすんなり買い物ができました。


●軽井沢に別れを告げ、次の目的地・群馬県高崎へ。娘と孫2人の希望を容れて、地場の焼肉チェーン店でランチです。いまや日本一暑い群馬県とあって、車のドアを開けたとたん目がくらむような熱気が。念のため予約を入れておいたのですが、大正解でした。


●食事のあとは最終目的地の県立近代美術館。お目当ては、世界に3点しかない『ゲルニカ』のタペストリーです。光による劣化を防ぐため、1年のうち展示できる期間が限られているため、今年の展示も2カ月間。せっかくの機会なので、2人の孫の夏休み自由研究のテーマにしたらとの思いからですが、はてさて採用してくれるかどうか‥‥。見終わるまで、”パプリカ・ピカソのゲロニカ”などと言っていましたからね。


●3日間の夏休みは日取りがよく、どこも混んでいなかったせいもあり、疲れずに済みました。休んで疲れるのは最悪です。日本ではお盆の時期にしか休みが取れない人が大半ですが、いかにそこを外すか。それさえクリアできれば、本来の意味での「休み」になるのでしょう。(2022/8/11)

添加物なしの自家製ハム、ソーセージを売っています。
人通りのない写真が簡単に撮れました。
このアップルパイ、シナモンが薄めで、わたし的には最高! しかも安い!
美術館のある「群馬の森公園」。
暑かったせいか、人の姿はまばら。
余裕ある空間は、最近の美術館の特徴かも。

©NHK 8/13の昼間、NHK-BSプレミアムで「ゲルニカ」が取り上げられていました。

竿燈は静かな祭━━と思っていましたが、どうしてどうして

●8月3〜5日は秋田県へ。竿燈まつり・さんさ踊り(盛岡)の時期と重なり、新幹線は満席です。そのうえ秋田県内に大雨が降り、盛岡から秋田に向かう「こまち」が運休に。盛岡駅前で、2泊する田沢湖の旅館が差し向けてくれたバスを待っていると、雨上がりの青空に岩手山がくっきり見えました。


●バスで1時間半、県道から脇にそれ、片側が高い杉、逆サイドが断崖絶壁の細い道を抜けると宿に到着。このあたりの空は、人里離れた山間[やまあい]に似つかわしく、”透明度100%”。その空に向かってそそり立つ木々の凛とした緑に、こちらの気持ちもさわやか度100%。


●4日の夜は秋田市で竿燈まつりを楽しみました。以前中国の大連で開催されたイベントで見たことがあるのですが、それは昼間で、しかも郊外の公園。でも、夜、都会の真ん中で繰り広げられる本来の竿燈はまったく別物でした。50個ほどの提灯をつけた、高さ12mの竹竿が一人の手、肩、腰、額に乗せられ屹立する様は、激しい動きこそありませんが、スリリングで迫力満点。


● 竿燈は静かな祭といったイメージがあったのですが、実際その場に身を置いてみると、その間違いに気づきました。時間の経過とともに気持ちがどんどん高揚、ずっとその場にいたくなるのです。演じる側のエネルギーが見る側にも伝わり、両者が一体となってそれがさらに強まるのでしょう。病魔や邪気を払う厄除け、五穀豊穣という地上の願いを天に伝える竿燈の意味合いを実感できました。(2022/8/6)

盛岡駅の連絡通路から岩手山をのぞむ。
雫石あたりを走るバスの中から。
地元の人も、こんなくっきりとした姿はなかなか……と語っていました。
バスの窓から見上げると。
2本の竿燈が連携して。
風にあおられ倒れてしまうことも。
繰り出した竿燈は280本。

港と道路が消えたら、どんなに栄えた街もパワーを失ってしまう

●羽州街道━━。名前はともかく、どこをどう通っているのか、正直ほとんど知りませんでした。でも今回、1週間かけゆっくり走り抜けてみると、穴場というか、名前は知られていなくても一見の価値があるスポットが点在していることがわかりました。最後の宿泊地・弘前を出て向かった黒石市もその一つ。羽州街道の宿場ではありませんが、小さな城下町としてにぎわっていたようです。


●往時の面影を残すのが中町こみせ通り。「こみせ」とは、両側に並ぶ店が、雪が降ってもお客が楽に出入りできるように、道路との間に作った、いまでいうアーケードのこと。道路と接する部分にも防雪用の板を立てるなど、こまやかな気遣いが行き届いた街並みは、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。


●津軽三味線の演奏会などさまざまなイベントを催すなどして集客を図っているようですが、ひっそり感は否めません。知名度がいまひとつなのは、宣伝力が弱いのかも。でも、「津軽の三ふり(①えふり=いいふり・いいかっこする②へふり=ないのにあるふりをする③おべだふり=知ったかぶりをする)」からすると、そうでもなさそうな気もするのですが。


●ツアーのゴール油川宿は、羽州街道の終点であるとともに松前街道の起点。しかし、明治に入って新しい道路が作られて以降はすっかりさびれてしまいました。北前船でにぎわった港も青森に一本化され、いまでは「羽州街道 松前街道 合流之地」と記された碑と、黒石と同じような「こみせ」を残す蔵元(元は近江商人)が当時をしのばせるくらいです。海上交通の重みを改めて実感した次第。(2022/7/27)

朝ご飯をもう一度、ならばもう一泊。な〜んて旅があってもいい

●ツアー最終日は弘前泊。有名なのにさほどにぎにぎしくない駅前に建つシティホテルでした。東京あたりなら”過去の遺物”扱いされそうなフツーの外観。でもこれが大当たり! 朝食がずば抜けて素晴らしかったのです。

●ホテルの朝食というと、国内外を問わずバイキングが標準仕様。ただ、ヨーロッパでは、それぞれの国・地域・都市の個性がよく出ていて十分楽しめます。ここも同じで、地元で獲れた旬の野菜・果物、肉、乳製品を駆使したメニューが多彩(ガーリック豚の極上ハム、ほたてとリンゴの炊き込みご飯、板きり麩すき煮仕立て、いがめんち、若鶏の源たれ焼き、けの汁など)で、どれを皿に載せるか迷いっぱなし。1回(1泊)ではとても食べきれません。


●日本の観光地が海外のそれと決定的に違うのは、「滞在」「連泊」を想定していないこと。休暇は英語でvacation、フランス語ではvacanceですが、どちらも、ラテン語で「空っぽ」を意味する vaco に由来しています。体も頭も空っぽにするのが休暇の本来の目的なのでしょう。それには、何もせずにぼーっとしているのが一番。でも働き者の日本人は、そんなふうに時間を過ごすと罪悪感にさいなまれてしまうのかも。


●旅に出ると、1日目はここに行って、2日目はああしてこうして……と目いっぱい詰め込まずにはいられない、なんとも悲しい性[さが]というか。当然、同じところに何泊もしてのんびり、などという発想はありません。ようやくここ数年、欧米風の休み方に合わせたホテルや旅館、あるいはツアープランも現れ始め、個人的にはとてもうれしく思っています。ここの朝飯を食べたいからもう1泊━━そんな旅があってもいいですよね。(2022/7/24)

コロナ禍で海外の観光客が来なくなったらお手上げ、では情けない

● ツアー6日目は、大館宿からバスで30分、青森県との境にある矢立[やたて]峠から。標高258mとさほど高くはありませんが、天然の秋田杉の間を縫うように作られた遊歩道はまさに昼なお暗き態(てい)。吉田松陰、前田利家、伊能忠敬、高山彦九郎、明治天皇、大久保利通、イザベラ・バードなど、歴史にその名を残す人たちもこの地を訪れています。


●峠を下ったところにある碇ヶ関[いかりがせき]は江戸時代、箱根より厳しい取り調べがおこなわれた関所といいます。ここを抜けると温泉とスキーで有名な大鰐[おおわに]宿。一時は熱海と競うほどのにぎわいを見せていたようですが、いまその面影はまったくなし。


●コロナ禍の前は、全国の観光地の多くがインバウンド(といっても、そのほとんどは中国から)需要の恩恵に浴していました。さほど努力をしなくても次々やってくるツアー客に浮かれていた業者も少なくなかったはず。それがもう2年以上もストップしているのですから、沈没していくところがあっても不思議ではありません。


●インバウンドの中でもお金持ちに狙いを絞っていたところもあります。いまは国内の富裕層が相手なのでしょうが、1泊2食付きで1人5〜10万円もする旅館やホテルを利用する人がそれほどいるのかとなると。まして観光地としては地味な北東北ですし。「旅」に求めるものがますます多様化しているいま、どこまで創意と工夫を凝らせるかが、これからの浮沈を左右しそうです。(2022/7/23)

鳥居のない神社に仰天、大館市役所の新庁舎に感動

●前夜は秋田に泊まりましたが、同じ時間帯に同じホテルを東京の知人が仕事で訪れていたのをFBで知りびっくり! こんなこともあるのですね〜。ホテルの真ん前は久保田城のお堀。早起きして、蓮の花を観に行きました。あと10日もすればお堀の水面が見えないほど満開になりそうです。


●5日目最初の訪問地は、男鹿半島から少し東にある五城目〔ごじょうめ]町。以前住んでいた豊島区に同じ名前の秋田料理店があり、地名は知っていました。城と朝市が有名なようで、今回の目的はその朝市。有名な輪島にはかないませんが、500年以上も前から続いているのだそうです。ただ、この日は平日、それに雨模様の天候も災いし、客は私たち一行だけ。救いは”観光毒”にさいなまれている風が一切ないこと。


●午後は男鹿半島へ。おもしろかったのは、なまはげ館と隣り合わせの真山[しんざん]神社。当初は神を祀っていましたがその後仏教寺院が併設され、明治初めの神仏分離令により神社に戻ったようです。仁王門はあっても鳥居はないまま。皆さん、どこに向かって手を合わせたらいいのかとまどっていました。


●宿泊地の大館は、一昨年10月に訪れたばかり。夕方フリーの時間があったので、完成して間もない市役所新庁舎を訪問、見学させてもらいました。木の温もりを生かした、素朴ですが心地よい空間に感動。夕食は前回と同じ店でしたが、季節柄きりたんぽ鍋ではなく、料理長が腕によりをかけたメニューを堪能。なかでも南瓜スープ、金目鯛枝豆焼き、リンゴ釜グラタンは出色でした。ちなみに、きりたんぽ鍋はこの店で生まれたのだそうです。(2022/7/22)

落ち着いた空気に心が休まるのは、歳を取った証拠!?

●最上川の舟下りを終えた日の宿は新庄。山形新幹線の開通を機に新駅舎ができ、周辺を大々的に整備、ガラス張りの巨大な地域交流施設も建っています。ただ、利用しているのは高校生ばかりで、駅前の商店街は人っ子ひとりいません。人口減に歯止めがかからない地方都市の、ある種典型的な姿を呈しています。


●ツアー4日目、最初の訪問地は山形県最後の宿場となる金山[かねやま]町。二度目の訪問ですが、「美しいまちなみ大賞」に輝いている心地よい空間に改めて感動。当地特産の杉で造った木造の橋から川や山々を見ているだけで、ほっこりした気持ちになります。


●秋田県に入り八代目佐藤養助総本店の稲庭うどんでランチの後、前総理の故郷でもある湯沢を経て「蔵の町」増田(横手市)へ。旧羽州街道の両サイドには、家の中に蔵がある大きな商家(奥行き110〜120m!!)がズラーっと建ち並び、重要伝統的建造物群保存地区にも選定されています。吉永小百合が出ていたJR東日本のCMをご記憶の方もいるのではないでしょうか。


●それにしても、蔵の規模、お金のかけ具合には驚くばかり。いま実際に人が暮らす家の中にあり、しかも使われているので、ホコリっぽさとは無縁。金山町もそうでしたが、いかにもそれっぽいカフェとか安直な土産物店もなく、ゆっくり落ち着いて楽しめる観光地といえます。早い話、それだけ歳を取ったのかも。(2022/7/21)

雨の山寺にはお手上げ。それでも……。

●「羽州街道の旅」初日は福島駅からバスで15分ほど、皇室献上桃の産地・桑折[こおり]が出発点です。この地で奥州街道から分岐する脇往還[わきおうかん]なので、東海道や中山道ほどメジャーではありません。宿場の名を聞いても知らないところばかり。


●そんな中、1泊目の上山[かみのやま]宿は、以前”日本一おいしい芋煮を食べる会”のイベントで泊まったこともある町。宿場町でありながら城下町、しかも温泉まであるというレアな存在なのだとか。有馬屋、しまづなどの名を冠した旅館があるのは、明治初期に県令(いまの知事)を務めた薩摩藩士・三島通庸[みちつね]との縁でしょうか。”土木県令”とも呼ばれ、県内の道路・橋梁・トンネルなどインフラ整備に辣腕をふるった三島ですが、サクランボ栽培の普及にも貢献しています。


●しかし、この日の焦眉はやはり立石寺[りっしゃくじ]。別名を山寺というように、頂上近くの奥之院までは1015段。根本中堂から始まり、途中、開山堂、納経堂などいくつかのお堂や仁王門、松尾芭蕉が「閑さや岩にしみ入る蝉の声」を詠んだ場所も。1時間半かけて登りきったのですが、ひどい雨で、全身ほとんどずぶ濡れになりました。


●山の上からの景観どころか、見えたのは雲と霧のみ。それでも、達成感はひとしおで、天に少しでも近づきたいという人間の本性に偽りはなさそうです。それに加え、登り口にある売店で食べたさくらんぼソフトクリームのおいしかったこと。これも三島通庸のおかげでしょうか。せっかくなので一句。
 山寺の雨もかなわぬ桜桃━━(笑)。(2022/7/19)

大きな仕事にひと区切り。7/18から長めの息抜き旅です

●ここ2週間、リフォーム工事もありほとんど缶詰め状態だったため、仕事には集中できました。いまだかつてないボリュームの本の編集を仰せつかり、なかなか前に進めずにいたのですが、思わぬ形で最後のスパートがかない、ひと区切り。もちろん第二ラウンドが控えてはいるのですが、まずはほっとしました。


●この2年半コロナ禍もあり、それまでは”日常”だった国内外の旅がほほストップ。あるのは家事の手伝いと仕事だけという状態が続いていましたが、時間がたっぷりあるからといって仕事がはかどるわけではありません。私の場合ある程度時間を限らないと、かえってダラダラしてしまうのです。たまたま、明日から1週間旅に出る予定を組んでいたので、それが効いたのでしょう。


●仕事の対極にあるのは遊びと、よく言われます。なかには、来る日も来る日も、朝から晩まで仕事に励む人もいます。でも、休みや遊びが適当に混じり合っていてこそ仕事もはかどり、しかもそのレベルも上がるというのが私のパターン。そのメリハリをうまくつけられるかどうかが、私のような自由業の者には大事だと思っています。


●自由業の定義は「一定の雇用関係によらず、また時間に束縛されることもなく、独立して営む職業」。なんだかいいことずくめのようですが、そこには先のような落とし穴も。コロナ禍がなければ、いまごろはアメリカのオレゴン州ユージーンで世界陸上を楽しんでいるはずでした。今回それはかなわなかったので、せめて18日から出かける「羽州街道の旅」で憂さ晴らしをしようかと思っています。(2022/7/18)

後半30分過ぎまでフランスをリードしていたのに……惜しい!

●先週土曜日、今夏のラグビーテストマッチ最後となるフランス戦を観に行きました。新しい国立競技場では初のテストマッチで、観衆は史上最高の57000超え。座席は5月のリーグワン決勝戦に凝り、今回はカテゴリー1のメインスタンドを購入。おかげで座席にも多少余裕があり、しかもときおり風も吹き抜けたりして、とても快適でした。


●何より素晴らしかったのは、あわやというところまでJAPANが迫ったこと。最後はフランスの部厚い壁にはね返され、15対20で敗れはしたものの、半世紀近くもの間弱いJAPANしか知らずにきた私のような世代の者にとっては、信じられないような光景です。2015年のW杯で南アフリカに勝てたことが、JAPANを大きく変えたのでしょう。


●もちろん、選手の3分の2近くが外国人ではありますが、それはそれ。近ごろは日本のどのスポーツでもこれに似た現象が見られるように、奇異なことではありません。”○○人”などということにこだわるのはもはやナンセンス。いまの世界に純血種の人などほとんどいないのですから。


●ちなみに、この週末、常勝オールブラックスが地元ニュージーランドでアイルランドに敗れたこともあり、フランスが初めて世界ランク1位にのし上がりました。フランスだって、かつてはシャンパンラグビーなどと揶揄されていたくらい、むらっ気の多いチーム。それがいまやトップなのですから、JAPANにとっても大きなチャンス。今年3回目となるテストマッチでのリベンジに期待しましょう。(2022/7/11)

ハッキング小説を読み終えた翌日、ハッキングに遭う

●コロナ禍で外に出る時間が減ったおかげで、読書の量が増えました。新刊もさることながら、圧倒的に多いのが”積ん読”本。昨年の引っ越し時そうした類をゴッソリ処分したのですが、これはと思うものは取り置いていました。その中の1冊が『青い虚空』というアメリカのミステリーで、620ページの長編。読み始めたら止まりませんでした。

●21年も前の作品で、ひとことで言うと、邪悪なハッカーを正義のハッカーが追跡するというストーリー。専門用語もかなり出てくるので、私のようなコンピューターのど素人にとってはしんどいのではと思いきや、勢いで突破してしまいました。いつもながら、作者ジェフリー・ディーヴァーの腕には舌を巻くばかり。

●ところが、読み終えた翌日、なんと自分のFacebookが”乗っ取り”に遭ってしまったのです。まさか自分がと驚きましたが、ハッキングをきわめれば人を殺すことさえできるという先の小説に比べればかわいいもので、動揺もさほどではありませんでした。とはいえ、私のアカウントを乗っ取った者が、Facebookの友だちにあれこれちょっかいをかけることについては、もうお詫びするしかありません。

●四方八方あたって手を尽くし、FBのアカウントはなんとか取り戻せました。というわけで、再出発の第一弾として取り上げた次第。この記事をアップしようとした矢先、先週半ば、高校の同期生が銀座で開いたグループ展で購入した絵が届きました。「WOW 太陽がいっぱい」のタイトルどおり、今日もまた酷暑の一日になりそうです。(2022/6/30)

花菖蒲、鏑木清方、ポンペイよりもイタリアン!

●京都2日目は、小学校の修学旅行以来60年ぶりという平安神宮の神苑から。應天門に貼られた「花菖蒲見頃」の文字が期待をそそります。神苑とは庭園のことですが、大きな池に群生する2千株の花菖蒲は圧巻。お昼近い時間でしたが、蓮の花もまだ開いたままで、朝早ければ池の水面が見えないほどだったかも。

●平安神宮周辺は一大文化ゾーンになっていて、そこから歩いて5分のところにある国立京都近代美術館が、3連チャンの二つ目、「鏑木清方」展の会場。中に入るまでは有名な美人画家といった認識くらいしかありませんでしたが、自身の無知を思い知らされました。美人画といっても、顔かたちだけでなく、着物・履き物、髪飾りや簪[かんざし]など一つひとつが丁寧に描かれているのにびっくり。

●それ以上に感動したのが庶民の生活・風俗を描いた作品。展覧会に出品するような大作とは趣きが違い、親しみやすい素材なのですが、こまやかな観察眼は、穂積和夫を思い出させます。感動の余韻にひたりながら、すぐ向かい側に建つ京セラ美術館の「ポンペイ」展。3連チャンのラストで、期待が大きかった分、裏切られた感も大。ポンペイの遺跡はやはり、現地で観るしかないのかもしれません。

●夏の京都の定番「鍵善」の葛切りで疲れをいやそうとしましたが、癒しきれぬままホテルへ帰還。ポンペイの仇はやはりイタリア料理で━━はこじつけですが、ホテルのすぐ近くで見つけたカジュアルなお店が大当たり! これはと思った品を少しずつ食べられる「おばんざい」っぽいスタイルで、昼間の疲れはきれいさっぱり消えました。(2022/6/11)

京都で美術館3連チャンの1日目

●土曜日に京都で仕事があり、せっかくなので、木曜日からこちらにやってきました。折しもアジサイや花菖蒲が真っ盛りの時期。そちらも楽しもうと、ネットで検索すると、あちこち”名所”が。選んだのはアサヒビール大山崎山荘美術館。その庭園が素晴らしいとあったので、そちらに決めました。「ポンペイ」展、「鏑木清方」展を観に行くつもりだったので、図らずも3連チャンに。

●京都駅から大阪方面へ5つ目の山崎駅で下車。美術館はかの有名な天王山の麓、5500坪の敷地に建っており、もとは大阪の実業家の別荘だったそうです。本人も遺族も亡くなり、長い間使われずに荒れ果ててしまったのをアサヒビールが買い取り、美術館としてよみがえらせたのが1996年。そのコレクションは、モネ、ルオー、ユトリロ、ヴラマンク、カンディンスキーらの絵画、バーナード・リーチ、宮本憲吉、濱田庄司の陶芸、イサム・ノグチの彫刻など、超一級品ばかりです。

●何よりの魅力は、それらが展示されている建物。新たに増築したコンクリートの展示館も安藤忠雄の設計だそうで、木造山荘風の本館にすんなりなじんでいます。2階のカフェテラスから木津川、宇治川、桂川が合流、淀川になる地点を見下ろす眺望は抜群。その入口には、ドイツ製、その名もMikado というオルゴールが鎮座していました。

。●美術館のあと庭園を散策し、送迎バスで阪急の大山崎駅へ。一路河原町をめざします。関西の私鉄は首都圏のそれと車体の色使いがまったく違い、阪急電車はあずき色。河原町から少し歩き、夕食は先斗町[ぽんとちょう]のおばんざいです。この季節ならではの素材をふんだんに用いたメニューを、こちらの腹具合にも気を配りながら勧めてくれる心づかいに感動。もちろん、味も最高でした。(2022/6/9)

浜松式の乾杯「やらまいか!」で元気いっぱい

●今年のGWでいちばん混んでいなさそうな5/5〜7の期間を利用し、旧友たちと会いに浜松&名古屋へ。初日の5/5は浜松です。たまたま「浜松まつり」の最終日で、呼び物の一つ大凧揚げ大会がおこなわれていました。徳川家康の城下町時代の町ごとに作った大凧を遠州灘の中田島砂丘で揚げる催しで、100年ほど前から続いているそう。浜松は空っ風が有名ですが、それを利用してのことでしょう。


●この日は風がいまイチでしたが、地上では各町の若い衆が、ベテランの指揮で糸を引いたり伸ばしたりの”重労働”。士気を鼓舞するラッパの音が乾いた空気に力強く鳴り響き、それに合わせるかのように凧が広い空を舞います。


●凧揚げのあとは駅の近くでご当地名物の餃子。といっても居酒屋で、はからずも昼飲みとなりました。乾杯は、年長者が「やらまいか!」と声に出したら同席者が「おいしょ
お!!」と応じ、グラスに口をつけるというのがこの店の流儀。「やらまいか」(やってやろうじゃないか)は、新しいことに積極果敢に挑む、この地方特有の進取の気風を示す言葉で、お店の人に教えられたとおり声に出すと元気になります。ヤマハ、河合楽器、ホンダ、スズキの淵源[えんげん]はこれなのかと納得。


●夜は、各町に伝わる山車[だし]が辻々に止められ、私たちを楽しませてくれます。本来なら全部合わせて数十台ある山車がそろって行列するのですが、コロナ禍でここ2年は取り止め。今年ようやく各町内を練り歩くまではOKになったそうで、法被[はっぴ]を着込んだ人たちの表情も生き生きしていました。浜松人の「ケ」の充実は、こうした「ハレ」がある故なのでしょうね。(2022/5/6)

昼は世界遺産の銀山、夜は日本遺産の神楽で石見[いわみ]を満喫

●「一畑[いちばた]電鉄」。日本一人口の少ない島根県内を走っている私鉄ですが、初めて乗りました。目的はコンビニに行くため(泊まったホテルが不便な場所だったもので)。JR西日本でさえローカル線の多くが赤字に苦しむ中、大丈夫なのかと心配になりますが、これがけっこう健闘しているようなのです。2両編成の車輌はかつて東急東横線を走っていた中古のよう。朝7時半頃とあって、乗客の9割は高校生でした。


●ツアー2日目のメインは世界遺産の石見銀山。戦国期から江戸中期まで、ここで掘られた銀は世界の主要国で貨幣の原材料になっていたそうです。佐渡の金と同じく鉱山一帯は幕府の天領で、代官所が置かれ、その周囲の町並みがみごとに保存されています。


●ここで採れた銀の積出港が、ツアー2日目の宿泊地・温泉津[ゆのつ]。その当時は北前船の寄港地としても大いに栄えた町ですが、いまは昭和30年代で時計がパタッと止まってしまったような雰囲気で、いまその面影が残っているのはおだやかそうな入江の奥にある港と温泉旅館の並ぶ細い通りだけです。ちなみに、耐火性に富む石見粘土で高温焼成され、硬く割れにくい大きな水甕[がめ]も北前船で全国各地に。それを焼く上がり窯[かま]もみごとでした。


●よくよく考えてみると、この県は「古事記」「日本書紀」に描かれている国生み神話の舞台。それもあってか、文化面での蓄積は並はずれたものがあります。その一つが日本遺産の石見神楽で、今回それをナマで観ることができました。会場は旅館近くにある小さな神社の拝殿とあって、舞いもお囃子[はやし]も目の前で迫力満点でした。小さな私鉄を支えているのも、数百年も続くこうした文化が生活の基底に息づいているからかもしれません。(2022/4/21)

エジソンが、ゴッホが……。五感への刺激を堪能した一日

●東日本大震災の被災者100余人によるミュージカル上演の本を書くとき取材させていただいた方のお一人と、神田淡路町のイタリアンでランチ会食。7年ぶりの再会で話がはずみ、名物のパスタの写真を撮るのも忘れてしまうほど盛り上がりました。


●でも、この日最大の衝撃は、オーナーのSP盤レコードと蓄音機のコレクションです。店内にさりげなく置かれているのですが、これがなんと、かのエジソンが発明した蓄音機の現物。当時の音源は蠟管[ろうかん]といい、Campbellスープの缶に似た容器に収まっています。1枚ウン十万円はするというSP盤を130年以上前の蓄音機に載せ、かけてくださったのですが、その音の心地よいことといったら。ヴァイオリンソナタも歌謡曲もリアルそのもの、あまりの臨場感に圧倒されました。


●そのあと、すぐ近くにある神保町のギャラリーで開催されている刺繍の作品展へ。ひいきにしている目白の洋服屋さん━━いま風に言うとセレクトショップ━━のオーナーがFBで勧めておられたのですが、その”推し”がなければ足を運ぶこともなかったでしょう。”不要不急”と言われればそれまでですし。


●でも行ってみると、ゴッホの「星月夜」、北斎の「富嶽三十六景」を始めどれも皆、「ここまで……!?」と絶句してしまいそうな精緻さ。離れて見るとワクワク、近づいて見るとドキドキ、とでもいいますか。聴覚と視覚に、強烈な、それでいてすこぶる心地よい刺激を受けた一日となりました。(2022/4/8)

インド大使館でおこなわれた「インド舞踊の会」

2019年4月29日
とりたててガンディーを尊敬しているわけではないのですが、今年は「生誕150年」ということもあって、インド関連のイベントには皆それが謳われているようです。今日は家人の友だちが主宰しているインド舞踊教室が大使館で発表会をするというのでお供してきたのですが、そこでも入口にはガンディーの有名な写真がパネルにして飾られていました。

その昔インド大使館は高田馬場にあったように記憶しているのですが、いつの間にか、皇居にも近い九段下に移転してきたようです。それも立派なビルになっていて驚きました。正確に言うと、大使館は昔からいまの場所にあったようで、高田馬場に合ったのは大使公邸だったみたいです。

さて、その中にある小さなホールが今日の会場。インド舞踊というと、映画でよく見る集団踊りのようなものをイメージしてしまうのですが、今日は違います。2~5、6人くらいの、比較的スローテンポの踊り。独特のメイクと衣装が印象的です。楽器も、あまり見たことのないものばかりで、独特のメロディーに合わせ、優雅な踊りが次々と披露されていました。

昨年から今年にかけて、ヨーロッパのメジャーなテレビ局では「Incredible India」というキャッチコピーのCMを盛んに流していましたが、大使館の建物にも、同じ文字を刷り込んだ大きなポスターが。インドはやはり“信じられない(ほどの不思議さを秘めた)”国なのでしょう。

「顔真卿」展の混雑ぶりにビックリ!

2019年2月7日
顔真卿【がんしんけい】といえば、知る人ぞ知る書道の大家です。そうした世界とは一切無縁、ド下手な字の書き主である私がなぜその名を知っているのかというと、高校1年生のときに書道の授業で、王羲之【おうぎし】と並ぶ人物であると教えられたからです。

書道の授業は1年間だけでしたが、何をしたかというと、その王羲之の不朽の名作『蘭亭序』を書き、最後に落款まで彫ったうえで表装するという、書の一連の流れをすべて経験する内容だったからです。いまでもそのとき作り上げた表装は手もとにあるのですが、最初の授業で先生が話してくれた顔真卿のこともなぜか覚えています。

顔真卿は8世紀、唐代の政治家・学者・書家。中国史上屈指の忠臣としても知られています。安禄山の反乱軍の勢いが日に日に勢いを増す中、顔真卿はその親族とかたらい、唐朝への忠義を示すために兵を挙げました。反乱が収まったあと、奸臣に捕えられたり左遷されるなどしましたが、そうした圧力には一切屈しませんでした。最後は殺されてしまうのですが、そうした生き方が後世称えられたのです。

その一方、書家としての顔真卿は、「書道を習う者はまず王羲之を学んでから他を学べ」「王羲之の文字でなければ文字にあらず」とまで言われていた「書聖」王羲之の流麗で清爽な書法に反発。力強さと穏やかさとを兼ね備えた独特の「蔵鋒」という新たな技法を確立したといいます。

日本の書道も当然、その影響を受けているようで、奈良時代から手本とされてきました。代表作が「蘭亭序」で、2年版ほど前に行った『漢字三千年展』にも展示されていました(2016年10月26日の項参照)。

その顔真卿の名作が今回初めて日本で展示されるというので、混み合いそうにない平日を狙って行ってみたのですが、これがまったくの読み違いで場内は大混雑。目玉の「祭姪文稿【さいてつぶんこう】」(台北・國立故宮博物院)は“混雑のため、ご観覧までに長時間お待ちいただいております”と、国立博物館(平成館)のウェブサイトにも書かれてはいましたが、なんと「55分待ち」。「作品の前では立ち止まらないでください。ゆっくり前に進みながらご鑑賞を」とも。まさかこれほどとは……。

思うに、最近その数をどんどん増しているインバウンド(外国人観光客)のなかでも、中国や台湾・香港など漢字文化圏から来日してきた方々が来ていたのではないでしょうか。台湾本国の故宮博物院で見るのもやはり大変なのでしょう。それがたまたま訪れた日本で見られるというのですから、これはしめた! と思ったのかもしれません。昨年、私がロンドンの大英博物館で葛飾北斎の版画を見ることができたようなものですね。

さすがに、「祭姪文稿」以外の作品「黄絹本蘭亭序」や「千福寺多宝塔碑」の前は普通の状態でしたが、書の展覧会にこれほどの客が来館するとは、主催者側も予想していなかったのではと思います。顔真卿と同じ時代に活躍した虞世南【ぐせいなん】、欧陽詢【おうようじゅん】、猪遂良【ちょすいりょう】ら“初唐の三大家”の作品も展示されていたので、深いところまではよくわからないものの、顔真卿の筆致と見比べながら、楽しむことができました。

「ロシア絵画展」の特別鑑賞会に参加

2018年10月28日
副代表を務めさせていただいているNPO法人「日ロ創幸会」の活動の一環として、八王子の東京富士美術館で開催されている「ロシア絵画展」の特別鑑賞会に行きました。「特別」というのは、ほかでもない、20数名の団体ということで、事前に学芸員の方から20分ほどレクチャーが受けられるからです。

しかし、その話を聞いているかいないかでは、やはり大きな違いがあるように思いました。もともとロシア美術に詳しいわけではありません。そんな私たちにしてみれば、ロシアの美術がどのような時代背景とともに生まれ、発展していったのかについてのお話はとても参考になりました。実際、作品を観ているとき、レクチャーで手に入れた情報と照らし合わせてみると、印象が大きく変わるのです。「だから、少年がこんな表情をしているんだ!」とか「ここまでこまかく描いているのはそういう背景があったからかな」など、楽しみが増えます。

長岡で「北前船寄港地フォーラム」

2018年9月1日
「北前船寄港地フォーラム」参加のため、一昨日から新潟県長岡市を訪れています。10年以上前に一度来たことがありますが、そのときは数時間の滞在。いかにも地方の城下町らしい、どこかおっとりした風情を感じたものの、それは上っ面を撫でただけの印象かもしれません。

今回は2泊3日ですから、じっくり雰囲気を味わうことができました。「フォーラム」のほうは、回を重ねるごとに本格化し、それと比例するかのように、観光ビジネスの振興といった面も強く感じられるようになってきました。回によってはアカデミックな匂いが濃厚なときもあります。登壇者もほぼ全員、パワーポイントを駆使しながらのレポートであったり主張であったり発表であったりで、途中、息を抜くいとまもありません。そうした意味では、間違いなく進化していると言えます。

ただ、それだからいいのかとなると話は別。開催地の人々の素朴な思いは前に出てきにくくなりますし、生々しい息遣いも以前に比べ希薄になりました。取材にたずさわっている私の作業も、フォーラムのテーマや内容がすっきり整理されているのは助かりますが、その実現に向けて何カ月もの間あちこち走り回ってきた人たちの気持ちのありようまではつかめないのです。こうなると、”行間を読む“というか、関係者から裏側の状況を幅広く拾い集めていく以外ありません。人は誰でもそうでしょうが、メークやドレスアップをほどこす前の素顔やふだん着の姿にこそ、本当の気持ち・意識が見え隠れするからです。

 

8月30日の前夜祭、翌31日のフォーラムとレセプションを終えた今日はエクスカーションです。バスに乗って、かつて北前船が立ち寄ったことで栄えた港町・寺泊【てらどまり】が最初の訪問地。まっすぐ続く砂浜はいまきれいに整備され、その横を走る道路に面して海産物やさまざまなお土産などを売る店がびっしり並んでいます。それを見下ろす丘に建つ寺院や神社には、沖合にもやう北前船からおろされた荷物を何艘ものはしけが港まで運んでくる様子を描いた絵図が展示されていました。

東京湾に浮かぶ、唯一の自然島・猿島へ

2018年6月23日
今日は、太平洋戦争の悲惨さを象徴する沖縄の地上戦が終わった日。なんとはなしに厳粛な気持ちになります。それと直接の関わりはありませんが、今日、こんな話を聞きました。8月15日に日本が無条件降伏を受け入れ、その文書に調印したのは9月2日。場所は東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリの艦上です。連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーがこの船を選んだのは、時の大統領ハリー・S・トルーマンがミズーリ州の出身だったからだそうです。しかも、同船が停泊していたのは、かつてペリーが日米和親条約調印の際に旗艦ポーハタン号を停泊させていたのと同じ位置。

それだけではありません。ミズーリ号が掲げていた星条旗は、1853(嘉永6)年、ペリーが浦賀に来航した際に乗っていた旗艦サスケハナ号に掲げられていた星条旗だったといいますから、なんとも念が入っています。日本人はすぐに歴史を忘れてしまうと言われるのに対し、アメリカ人はこういうふうにして、歴史を忘れない=風化させないようにしているのです。

今日から明日の1泊2日で、恒例の「東京明和会・大人の社会見学」。今回の行き先は横須賀で、三笠桟橋から小さな船に乗って10分ほどの沖合にある猿島がメインの目標です。ガイドさんから先の話を聞きながら、無条件降伏の署名がおこなわれた場所を見ることもできました。

猿島は東京湾に浮かぶ、唯一の自然島で、面積は横浜スタジアムのグラウンドの4倍ほど。旧日本海軍の要塞だったため、戦前は一般人の立ち入りが禁止されていたといいます。木々が生い茂る中、レンガ積みのトンネルや砲台跡などの旧軍施設が残っていました。どちらかというとマイナーなスポットでしょうが、意外や意外、若い人がけっこう来ているのには驚きます。

猿島からそろそろ横須賀に戻ろうというときに雨が降り出しました。三笠桟橋に戻り、係留されている「戦艦三笠」を見学。数年前、取材で訪れたところですが、今日はたまたまボランティアガイドさんの説明付きの時間帯だったため、たっぷり1時間半、詳しいお話を聞きながらの見学となりました。

下船したときは2時をとうに回っており、予定していた横須賀海軍カレーの昼食に間に合うかどうか。案の定、その店に行ってみると、「CLOSED」の看板が……。アチャーッとなりましたが、幹事のNくんが店主にかけあい、半ば強引にドアを開けてもらいました。そこまでした甲斐があり、おししい横須賀海軍カレーを食べることが。牛乳とサラダと一緒に食べるというのがミソのようです。かつては、ビタミン不足で死に至る海軍の兵士が多かったからなのだとか。

続いて行ったのがヴェルニー公園。構内に階段がまったくなく、改札口からそのままホームに行けるようになっていることで知られるJR横須賀駅の手前にあります。園内にはフランス式花壇や音楽に合わせて水が動く噴水、洋風のあずまやも。少しずつ時期を変えながら花開くバラの数は2000株ほど。この日も、雨の中、美しい花を咲かせているバラが数十本見られました。「日本の都市公園100選」「日本の歴史公園100選」に選ばれているそうで、海沿いのボードウォークを歩けば、潮風がさぞかし心地よいのではないでしょうか。

   

ところで、ヴェルニーというのは1865から76年まで日本に滞在したフランス人技師の名前です。横須賀製鉄所、横須賀造兵廠、横須賀海軍施設ドックや灯台など、さまざまな施設の建設を指導し、日本の近代化に貢献した人物。その横須賀製鉄所が対岸に望めることにちなんで公園の名がつけられたそうです。

横須賀本港に係留されている船やアメリカの海軍基地、海上自衛隊地方総監部を見ながら公園を抜けたところに建つのが「ヴェルニー記念館」。幕末、同製鉄所に持ち込まれたスチームハンマー(国指定重要文化財)が保存・展示されています。そう言われても理解できない私はじめ文科系出身の仲間に、理科系出身のMくんやNくんがきちんと説明してくれました。急傾斜の屋根と石の壁は、ヴェルニーの故郷ブルターニュ地方の住宅の特徴を取り入れているのだとか。

復活した名古屋城「本丸御殿」

2018年6月15日
小・中・高と名古屋で過ごしたにもかかわらず、名古屋城を見たのはこれまで1回だけ。数年前のことで、このときは取材で訪れました。2回目の今日は、「本丸御殿」が江戸時代のままに再建されたと知ったからです。太平洋戦争末期の名古屋大空襲で、天守閣は幸いほとんど焼けずに済んだのですが、「本丸御殿」はすべて焼け落ちてしまったとのこと。しかし、写真や設計図が残っていたので再建は可能であるということから話は始まったといいます。

河村たかし市長の強力なリーダーシップで、10年前に話が決まったのですが、いちばんの問題点は建設資金の調達です。総工費150億円を、どこで、どのように確保するのか。お金にはうるさい名古屋ですから、かなりすったもんだがあったと聞いています。

そうした中、市民の寄付も募りながら、なんとか実現に漕ぎ着けたのですから、名古屋もまんざらではありません。というわけで、オープンしてまだ10日しか経っていない「本丸御殿」をじっくり見学することにしました。この日はすぐ近くである方のインタビューがあったのですが、午前の部と夕方の部に分かれていたため、その合間の時間を利用させてもらいました。

 

当初の熱気もやや落ち着き、しかも平日だったので、予想していたよりすんなり入場できました。中に入ってびっくり! 襖絵や天井画、家具調度、欄干の彫刻など、すべてレプリカと複製・復刻ですが、往時の華やかさがみごとに再現されています。つい数か月前、京都・二条城(こちらも徳川家が作ったもの)を見ているだけに、つい比べてしまうのですが、けっして遜色はありません。

観終わったあと、城のまわりをゆっくり歩いてみました。まあ、私が最後に名古屋城とその周辺を歩いた頃とは比べものにならないほど、きれいに整備されているではありませんか。ゆったりした敷地の中には大きな花壇やウォーキングコースが作られ、サイクリングロードまであります。ところどころにオブジェも置かれているのは、世界デザイン博や愛知万博を開催した影響かもしれません。そういえば、20世紀の終わり頃(1992年)には愛知県芸術劇場などという代物も建てられましたね。要するに、市の中心部エリアはすっかり大都市っぽくなったということです。

ロシア語のオペラに新鮮な感動

2018年6月12日
オペラなどほとんど観る機会のない私が、自身の関わっているNPO法人のツテで、「2018ロシア年&ロシア文化フェスティバル」のオープニング公演にお招きいただきました。演目はチャイコフスキーの歌劇『イオランタ』(演奏会形式・日本語字幕付)。演奏はロシア・ナショナル管弦楽団で、指揮は同楽団の創設者であり音楽監督でもあるミハイル・プレトニョフ。1988年、当時のゴルバチョフ大統領に招かれ、ワシントンで開催されたサミットでも演奏したといいますから、期待大です。

舞台は15世紀の南フランス。道に迷ったロベルト公爵とヴォーデモン伯爵は、その一帯を治めるルネ王の城に迷い込んでしまいました。ルネ王には、生まれつき盲目で、そのことを知らされぬまま育った美しい王女イオランタがいます。ヴォーデモンはそこで偶然出会ったイオランタにひと目惚れ。別れ際にヴォーテモンが、「記念に赤いバラをください」と言うと、イオランタは白いバラを手折って差し出しました。「赤ってなんのこと?」と口にするイオランタ。彼女が盲目であると知ったヴォーデモンは、イオランタに明るい光の世界を見せてあげたいとの切なる願いを抱きます。果たしてイオランタは光を見ることができるでしょうか……。

そんなストーリーなのですが、普通のオペラと違い、演奏会スタイルなので、歌い手は皆、ほとんど動きません。しかも、なじみのないロシア語ですから、頼りになるのは、左右に設けられた日本語字幕を映し出す縦長の画面だけ。ところが、たかだか30字ほどの翻訳文が実に的確で、わかりやすいのです。訳したのは一柳富美子という方ですが、これには感心しました。これまで50作品以上の大曲を翻訳しているベテランだそうですから、それもむべなるかなでしょう。以前、ニュルンベルクの国立劇場で『椿姫』を見ましたが、このときは英語の字幕だったので、えらく難儀したのを思い出したりしました。

王女イオランタ、ルネ王、ヴォーデモン伯爵はロシア人の歌手でしたが、3人とも迫力満点。私が素晴らしいと思ったのは、ロベルト公爵を演じたバリトンの大西宇宙【たかおき】です。まだ32歳という若さですが、武蔵野音楽大学からジュリアード音楽大学院を修了。『エフゲニー・オネーギン』『フィガロの結婚』『マタイ受難曲』など多くの作品に出て好評を得ている歌い手のようです。脇を固めていた二期会のメンバーも美しい声を響かせてくれました。

通常、オペラというと3時間以上はかかります。しかしこの作品は1時間半ほどで、私のような初心者にはほどよい長さ。こうした演奏会形式でオペラを楽しむ機会はそうそうないでしょうが、本当にラッキーでした。

好奇心をかき立てられた「南方熊楠展」

2018年2月25日
『南方熊楠【みなかたくまぐす】展──100年早く生まれた智の人』にやっと行けました。今週いっぱいで終わりなので、滑り込みセーフといったところでしょうか。

場所は上野の「国立科学博物館」。先日、二人の孫を連れて行ったばかりです(65歳以上は入場無料というのがありがたい)。世界中どこの美術館・博物館でもシニアは優遇されていますが、「無料」というのはなかなかありません。

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それほど広いスペースでないこともあってでしょう、けっこう混み合っていました。しかも、若い人の姿が目立ちます。来館者のほとんどがそれこそシニア世代ではないかと予想していたので、これは意外でした。そもそも南方熊楠という人物自体、それほど広く知られた存在ではないと思いますし。

熊楠は和歌山県の田辺生まれなので、私の父方とルーツが同じです。田辺にはこれまで二度行ったことがあります(実はもう一度行ってはいるのですが、それは広域合併で田辺市に編入された熊野エリア)。旧田辺市内にある立派な「顕彰館」にも行けていません。こちらは2005年7月にオープンしたのだそうで、その約1年後には、南方熊楠旧邸も、実際に住んでいた当時の雰囲気を彷彿させるよう、復元・改修されたといいます。それとは別に、1965年に白浜町にも「記念館」が作られており、同じ地域に二つの施設が競合する形になっています。

博物学の大家として世に知られる南方熊楠は「子供の頃から驚異的な記憶力を持つ神童だった」と言われる人物。数日間で100冊を越える本を読み、そこに書かれていた内容を、家に帰って書写するという超人的能力を持っていたようですから、ハンパじゃありません。東大予備門を中退後、19歳から約14年間、アメリカ、イギリスなどに留学、さまざまな言語で書かれた文献を読み込み、それを克明にメモしていったといいます。植物、とくにキノコ類にめっぽう詳しかったようですが、人文科学にも精通井し、民俗学の分野では柳田國男と並ぶ重要な存在でもあります。

いわゆる学術論文はほとんど書いていませんし、官職に就いたこともないものの、昭和天皇にもご進講(1929年)するなど、その力量は高く評価されていました。ご進講自体、昭和天皇ご自身が望まれたようで、「聖上田辺へ伊豆大島より直ちに入らせらる御目的は、主として神島及び熊楠にある由にて」と、軍令部長にご自身の所信を書かせたとのこと。1962年、和歌山を33年ぶりにご訪問された昭和天皇は、神島(かしま=田辺湾沖合の島)を目にしながら、「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」と詠んだそうです。

しかし、数年前、こんな話を聞きました。明治時代半ばごろ、政府が実施しようとした神社合祀政策に、思いもよらない角度から異を唱え、最後はその主張が受け入れられたというのです。熊楠の主張の根拠が、田辺の沖合に浮かぶ神島の話。神島には多種多様な照葉植物が自生していましたが、神社合祀によってこの島唯一の神島神社もなくなることが明らかになりました。神社がなくなれば、森林は自由に伐採できるようになり、植生が失われてしまいます。それを知った熊楠は、生物学的見地からその保護を主張、東京大学教授・松村任三と貴族院書記長官・柳田國男にも書簡を送り訴えます。そして、最終的には天然記念物に指定されることになったそうです。生物学などまったくの門外漢である私は、熊楠についてもさほど関心がありませんでしたが、それがきっかけで深い興味を抱くようになりました。

今回の展示を見て知ったのは、熊楠の関心が途方もなく広範囲にわたっていること。ここまで……と思うほど、あれやこれや、ほとんどどんなテーマについても自身の考えを、きちんとした調査に基づいて披歴していることです。インターネットも何もなかった時代によくぞと言いたくなるくらい圧倒的な量の情報が熊楠の頭の中には収まっていたのでしょう。「顕彰館」「記念館」の両方とも、近いうちに訪れてみたいと思いました。

20180321221646689(←クリックしてください)

帰り道、上野公園の一角に冬の桜が花を咲かせていました。最初は梅かなと思ったのですが、木の幹に「冬桜」と記した札がつけられていたのです。あとひと月もすれば、この一帯は春の桜=ソメイヨシノで覆われるのですね。

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キャンプは野球のほうがおもしろい

2018年1月28日
今日で沖縄も最後。こちらでJリーグのチームがキャンプをしていることを知り、のぞきに行ってみました。金武町という本島中部、東側の海に面した“基地(キャンプ・ハンセン)の町です。ここでトレーニングしているのは浦和レッズ。掲示を見ると「午後3時50分~」とあるのですが、実際に始まったのは4時半近くでした。東京あたりと比べると日の入りも1時間ほど遅いですし、やはりウチナー(沖縄)時間でしょうか。

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始まる前に記念撮影などもあり、選手たちがボールを蹴り始めたときは5時近くになっていました。槙野智章もいます。阿部勇樹も森脇良太も興梠慎三もマウリシオもいます。これまでテレビでしか見たことのない顔が目の前にいるというのは、やはり興奮するものです。

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ただ、野球と比べるとサッカーの練習というのはバリエーションが少ないといいますか、見ていても退屈してしまうのです。もちろん、私自身がサッカーファンでないということもあるでしょうが。それに加え、サッカーはファンの絶対数がまだ少ないので、来ている人もほんの数えるほど。でも、かりにファンの数が大幅に増えたとしても、野球のキャンプほどにぎわうことはなさそうな気がします。

 

初めて行った金武町ですが、経済的にはかなり恵まれている印象を受けました。そこに一昨年2月、スポーツコンプレックス、野球場とサッカーグラウンドが2面、クラブハウスなどを広い敷地にまとめた施設が作られました。まだすべて完成はしていないようですが、サッカーグラウンドに張られている天然芝の素晴らしさには驚きました。こんな恵まれた環境でシーズン前のトレーニングに打ち込めるレッズ。強くなって当然かもという気もします。同じ敷地内には野球場もあり、そこでは2月1日からプロ野球の楽天がキャンプを張るようです。

でも、ふと空を見上げると、サッカーグラウンドのすぐ近くの上空をアメリカ軍のヘリコプター(ここひと月、不時着やら部品の落下やらが頻発しているにもかかわらず)が飛んでいるではないですか! 沖縄県民の願いはなかなか通じないのが、残念でなりません。カメジローの生きざまを映像で観ただけに、いつも以上に強く、そんな思いを抱きました。

流鏑馬はれっきとした神事なのでした

2017年9月17日
鎌倉の鶴岡八幡宮で流鏑馬を観ました。テレビのニュース映像ではこれまで何度も目にしていますが、本物は初めて。でも、さすがナマの臨場感はすごい。祇園祭や博多の祇園山笠の追い山も、たしかに強烈なインパクトがありましが、流鏑馬は会場が狭い分、音も動きも、「すぐそこ」感が強いのです。

すっかり恒例になった高校の同窓生が集まっての「おとなの遠足」の一環として、今回企画されたのが流鏑馬見学。同窓生の一人が今年、なんと神職の資格を取得、その縁で指定座席チケットが入手できたおかげです。「持つべきものは友だち」とはよく言ったものですね。

台風18号が刻々と近づいている中での開催で、いまにも降り出しそうな空模様。雨天決行は間違いないとしても、風が強ければ危険なのではないかと心配していましたが、なんとかもちました。

午後1時開始ということだったので、1時間ちょっと前に、私たち7人も、指定された場所に着席しました。しかし、1時近くになっても始まる気配がまったくありません。すると、境内にアナウンスが流れます。「さあ、いよいよ始まりです。まずは、今日の射手を始め、関係者全員がお祓いを受け、そのあと神官からお神酒をたまわります……」とのこと。そう、流鏑馬は観光行事ではなく、れっきとした神事なのでした!

ところが、これがめっぽう長いのです。ようやく始まったのは1時40分過ぎだったでしょうか。始まる直前まで、どちらから馬が走り出すのかもわからず左を見たり右を見たり。取材に訪れた海外メディアの写真撮影スタッフのカメラ・セッティングの様子を見て、たぶんあっちだろうと推定し、私たちもスタンバイ完了!

馬が走り出しました。3人の射手が200数十メートルのコースを馬に乗って走り抜ける間に、それぞれ3回、矢を射ます。日ごろから修練を積んでいるようで、どの射手もみごとに的を射抜いていきました。そのたびに歓声があがります。合計9回のうち的を外したのは1回だけ。

動画あり クリックしてください

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本来の流鏑馬はこれで終わり。面白かったのは、そのあとでおこなわれる“2軍戦”“3軍戦”です。将来、射手になろうかという中堅どころ、若手の射手が何人か、同じように3回ずつ馬に乗って駆けながら矢を射ていきます。なかには外国人もいました。失敗も多いのですが、正式の流鏑馬ではないので、思い切りがいいというか、馬を走らせるスピード、矢を射るタイミング・方向・角度など、試行錯誤といった感じがありあり。「なるほどー、こうやってうまくなっていくんだ」というのがよくわかります。

 

流鏑馬で全国的に有名なのは、ここ鎌倉・鶴岡八幡宮ですが、実は全国各地の神社でおこなわれていることを、今回初めて知りました。射手のいでたちはどこも同じのようで、頭に綾藺笠【あやいがさ】をかぶり、戴水干【すいかん】を着て、裾と袖をくくり、腰には行縢【むかばき】を付け、足には物射沓【ものいぐつ】。左手に射小手【いごて】を付けてと手袋をはめ、右手には鞭。さらに、背中には太刀、鏑矢を五筋差した箙【えびら】を負い、弓並びに鏑矢一筋を左手に持ち、腰にも刀を差しているので、かなりの重装備。それで馬を走らせながら弓で矢を射るのですから、考えている以上にハードです。これを何年かかけてマスターしていくわけですね。

ゆっくり休む間もなく淡路島へ

2017年5月11日

今日は午後1時発の便で関空まで行き、そのあとフェリーで海峡を渡り淡路島です。素晴らしい天候であっという間に到着しました。こちらに来たのは、19回目となる「北前船寄港地フォーラム」に参加するためですが、今日はその前夜祭。回を追うごとに参加者の数は増えるわ、内容も整ってくるわで、楽しみにしていたのですが、今回は兵庫県が資金も人出も全面的にバックしているとのことで、えらくハイグレードの前夜祭でした。

 

驚いたのは「淡路人形浄瑠璃」。ここで浄瑠璃が観られるとは! それも内容がハンパでなく素晴らしいのです。前々から、人形浄瑠璃は一度でいいから観てみたいと思っていたのですが、今日まで実現できませんでした。しかし、大阪で始まったといわれる人形浄瑠璃はここ淡路島から始まったことを知りました。人形の動きも巧みでしたし、セリフまわしも伴奏も素晴らしい出来で、えらく得した気分。

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DSC02471もう一つ驚いたのが阿波踊り。これも阿波徳島だけのものかと思い込んでいたのですが、淡路島も江戸時代、徳島藩の領地になっていた時期があることを思い出し納得。本物の阿波踊りは残念ながら観たことがありませんが、淡路島のそれもそれに遜色ないように思えます。いいものを見せてもらいました。フォーラムに大感謝です。

 

今回は、4月末に「日本遺産」の認定を受けてすぐというタイミングでもあり、会場は祝賀ムード一色。もっとも「日本遺産」というのは、過去4年で80件近くが認定されているのですが、その狙いどおり観光資源として活用されているケースは少ないのだとか。「北前船寄港地」はまさかそうならないかと思いますが、いずれにしても、今回のフォーラムをきっかけに大きく飛躍することを願うばかりです。

「ロマノフ王朝展」と夜のしだれ桜を一気に

2017年3月30日

来週は東京を離れるので、その間に開催が終わってしまう「ロマノフ王朝展」を観にいきました。会場は文京区の本駒込【ほんこまごめ】にある「東洋文庫ミュージアム」。入場料は正規だと800円ですが、シニア料金(!)で半額。初めて行ったのですが、たいそう立派な施設で、驚きました。

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本駒込といえば、東京では古くからのハイクラスな住宅街ですが、そこを東西に走る広い通り沿いに建っているので、すぐにそれとわかります。「東洋文庫」というくらいですから、もともとは図書を収蔵するところ。1917年、三菱の第3代当主・岩崎久彌が中華民国総統府政治顧問G・E・モリソンの蔵書を購入し、24年に財団法人東洋文庫を設立しました。国内では最古・最大の東洋学の研究図書館だそうで、蔵書数は現在約100万冊。その中から、国宝・重要文化財にも指定されている貴重な書を選んで展示するミュージアムが2011年にオープンしたそうです。

 

!cid_5DD6D9820CCECB49820FBB40AC1C8F7595F8C26C@edithousejp_onmicrosoft“今年(2017)はロシア革命から百年。裏を返していうと、ロマノフ王朝が滅亡してから百年ということになります。 かつてヨーロッパからアジアにまたがる広大な領域を支配した強大にして華麗なるロマノフ王朝。今日のロシアの社会と文化の礎はロマノフ王朝300年の歴史の中で築かれたといっても過言ではありません。 ロシアは日本から最も近い隣国です。史上まれにみる巨大帝国の栄枯盛衰を、日本との交流という視点からたどってみましょう”と案内のチラシに書かれているように、宝物展ではなさそうです。

 

私が関わっているNPO法人「日ロ創幸会」の研修で行ったサンクトペテルブルクやモスクワでも、ロマノフ王朝の宝物をたくさん観ましたが、今回展示されているのは知的財産というか、史料的価値の高いものばかり。キラキラ・ピカピカの宝物とはまた違う、文化・文明への探求心とあこがれが感じられます。

 

入ってすぐのホールに「特別名勝 六義園【りくぎえん】」のジオラマが、解説付きで展示されていました。そういえば、「東洋文庫」の前の広い通りを渡ってすぐのところにあるのですね。しかもちょうど「しだれ桜と大名庭園のライトアップ」という催しが4月2日まで開催されているというので、行ってみることに。

 

入口で入園料(こちらもシニア料金で半額!)を払い中に入ると、木曜日だというのに、けっこうな人出です。正門を入ってすぐのところに植わっている大きなしだれ桜の前にはカメラを手にした人が群がっていました。高さは10m以上あるでしょうか、花びらは鮮やかな濃い目のピンク。ソメイヨシノとは趣が違います。しかも、樹高の高い部分はピンクが少し薄めに見えます。その微妙な差が前方の濃い目のピンクをいっそう引き立てていました。

 

!cid_0F60769BD77E85226E55FF23D0DB756B28B7BD42@edithousejp_onmicrosoft「六義園」というのは元禄年間、川越藩主・柳沢吉保が7年の歳月をかけて作った回遊式築山泉水の大名庭園。それが明治時代になって、三菱の創業者・岩崎彌太郎の別邸になり、1938年、東京市(当時)に寄贈されたとのこと。和歌に歌われる88の景勝地にちなんだポイントが随所に配されており、なかでも紀ノ川、片男波【かたをなみ】、仙禽橋【たずのはし】、芦辺【あしべ】、新玉松【にいたままつ】、藤白峠【ふじしろとうげ】など、紀伊国(和歌山県)の景勝地が多いようです。

若の浦に 潮満ちくれば 潟【かた】をなみ 葦辺をさして 鶴【たづ】鳴き渡る

 

高校時代、古文の授業で習いましたが、『万葉集』にある山部赤人【やまべのあかひと】の有名な歌にそのいくつかが出ています。たしか、古典の文法の要素がぎっしり詰まった素材として覚えさせられたように記憶していますが、そんなことより、三十一文字の中にいくつも名所が散りばめられていることを知り驚きました。

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 帰路、「六義園」といい「東洋文庫」といい、この一帯はすべて三菱の所有だったことを思い起こしました。そういえば、上野の近くにも「旧岩崎邸庭園」というのがあります。三菱は丸の内だけではないのですね。家に帰り、「東洋文庫」のウェブサイトを見てみると、スポンサーには三菱系の大企業がびっしりと名前を連ねていました。拙宅の大家さんもその末裔といわれる岩崎さん。不思議な縁を感じます。

2年ぶりのドミンゴ、おまけは皇后陛下!

2017年3月13日
おととしの秋、ラスベガスで偶然、楽しませてもらったドミンゴのコンサートがありました。共演はルネ・フレミング。ソプラノではいまナンバーワンといわれるアメリカのオペラ歌手です。といっても、そのレパートリーはたいそう広く、ほとんどなんでも歌いこなしてしまいます。最近も、3年前の「スーパーボウル」で、試合開始前に国歌を斉唱。これはオペラ歌手としては初めてでした。

そのフレミングが相手とあってはドミンゴも張り切るはず。名曲の数々を披露してくれましたが、いちばんノッていたのは、ラスベガスのときと同じ『ベサメ・ムーチョ』でした。母国語の歌ということもあるでしょうし、ドミンゴ自身が心の底から楽しんでいる風がありあり。

!cid_ba50c32b-dd76-457a-a101-8a2dd2106cbe@apcprd04_prod_outlookそうそう、もう一つおまけがありました。皇后陛下がお聞きにいらしていたことです。途中の休憩とき、用を済ませ席に戻ろうとしたら警備の人から「すみません、VIPが通るので、しばらくこの通路をふさがせていただいています。お急ぎなら……」といわれたのですが、はて、誰だろうと思いました。たぶん皇族だろうなとは推測しましたが、まさか皇后陛下とは! しかも、私たちが座っている2階のほとんど同じ列。距離にして10メートルほどだったでしょうか。これで去年・今年と、半年の間に2度、両陛下と出くわしたことになります。S席38000円は恐ろしい値段ですが、『ベサメ・ムーチョ』と皇后陛下で元は取れた(?)ような気がします。