インド大使館でおこなわれた「インド舞踊の会」

2019年4月29日
とりたててガンディーを尊敬しているわけではないのですが、今年は「生誕150年」ということもあって、インド関連のイベントには皆それが謳われているようです。今日は家人の友だちが主宰しているインド舞踊教室が大使館で発表会をするというのでお供してきたのですが、そこでも入口にはガンディーの有名な写真がパネルにして飾られていました。

その昔インド大使館は高田馬場にあったように記憶しているのですが、いつの間にか、皇居にも近い九段下に移転してきたようです。それも立派なビルになっていて驚きました。正確に言うと、大使館は昔からいまの場所にあったようで、高田馬場に合ったのは大使公邸だったみたいです。

さて、その中にある小さなホールが今日の会場。インド舞踊というと、映画でよく見る集団踊りのようなものをイメージしてしまうのですが、今日は違います。2~5、6人くらいの、比較的スローテンポの踊り。独特のメイクと衣装が印象的です。楽器も、あまり見たことのないものばかりで、独特のメロディーに合わせ、優雅な踊りが次々と披露されていました。

昨年から今年にかけて、ヨーロッパのメジャーなテレビ局では「Incredible India」というキャッチコピーのCMを盛んに流していましたが、大使館の建物にも、同じ文字を刷り込んだ大きなポスターが。インドはやはり“信じられない(ほどの不思議さを秘めた)”国なのでしょう。

「顔真卿」展の混雑ぶりにビックリ!

2019年2月7日
顔真卿【がんしんけい】といえば、知る人ぞ知る書道の大家です。そうした世界とは一切無縁、ド下手な字の書き主である私がなぜその名を知っているのかというと、高校1年生のときに書道の授業で、王羲之【おうぎし】と並ぶ人物であると教えられたからです。

書道の授業は1年間だけでしたが、何をしたかというと、その王羲之の不朽の名作『蘭亭序』を書き、最後に落款まで彫ったうえで表装するという、書の一連の流れをすべて経験する内容だったからです。いまでもそのとき作り上げた表装は手もとにあるのですが、最初の授業で先生が話してくれた顔真卿のこともなぜか覚えています。

顔真卿は8世紀、唐代の政治家・学者・書家。中国史上屈指の忠臣としても知られています。安禄山の反乱軍の勢いが日に日に勢いを増す中、顔真卿はその親族とかたらい、唐朝への忠義を示すために兵を挙げました。反乱が収まったあと、奸臣に捕えられたり左遷されるなどしましたが、そうした圧力には一切屈しませんでした。最後は殺されてしまうのですが、そうした生き方が後世称えられたのです。

その一方、書家としての顔真卿は、「書道を習う者はまず王羲之を学んでから他を学べ」「王羲之の文字でなければ文字にあらず」とまで言われていた「書聖」王羲之の流麗で清爽な書法に反発。力強さと穏やかさとを兼ね備えた独特の「蔵鋒」という新たな技法を確立したといいます。

日本の書道も当然、その影響を受けているようで、奈良時代から手本とされてきました。代表作が「蘭亭序」で、2年版ほど前に行った『漢字三千年展』にも展示されていました(2016年10月26日の項参照)。

その顔真卿の名作が今回初めて日本で展示されるというので、混み合いそうにない平日を狙って行ってみたのですが、これがまったくの読み違いで場内は大混雑。目玉の「祭姪文稿【さいてつぶんこう】」(台北・國立故宮博物院)は“混雑のため、ご観覧までに長時間お待ちいただいております”と、国立博物館(平成館)のウェブサイトにも書かれてはいましたが、なんと「55分待ち」。「作品の前では立ち止まらないでください。ゆっくり前に進みながらご鑑賞を」とも。まさかこれほどとは……。

思うに、最近その数をどんどん増しているインバウンド(外国人観光客)のなかでも、中国や台湾・香港など漢字文化圏から来日してきた方々が来ていたのではないでしょうか。台湾本国の故宮博物院で見るのもやはり大変なのでしょう。それがたまたま訪れた日本で見られるというのですから、これはしめた! と思ったのかもしれません。昨年、私がロンドンの大英博物館で葛飾北斎の版画を見ることができたようなものですね。

さすがに、「祭姪文稿」以外の作品「黄絹本蘭亭序」や「千福寺多宝塔碑」の前は普通の状態でしたが、書の展覧会にこれほどの客が来館するとは、主催者側も予想していなかったのではと思います。顔真卿と同じ時代に活躍した虞世南【ぐせいなん】、欧陽詢【おうようじゅん】、猪遂良【ちょすいりょう】ら“初唐の三大家”の作品も展示されていたので、深いところまではよくわからないものの、顔真卿の筆致と見比べながら、楽しむことができました。

「ロシア絵画展」の特別鑑賞会に参加

2018年10月28日
副代表を務めさせていただいているNPO法人「日ロ創幸会」の活動の一環として、八王子の東京富士美術館で開催されている「ロシア絵画展」の特別鑑賞会に行きました。「特別」というのは、ほかでもない、20数名の団体ということで、事前に学芸員の方から20分ほどレクチャーが受けられるからです。

しかし、その話を聞いているかいないかでは、やはり大きな違いがあるように思いました。もともとロシア美術に詳しいわけではありません。そんな私たちにしてみれば、ロシアの美術がどのような時代背景とともに生まれ、発展していったのかについてのお話はとても参考になりました。実際、作品を観ているとき、レクチャーで手に入れた情報と照らし合わせてみると、印象が大きく変わるのです。「だから、少年がこんな表情をしているんだ!」とか「ここまでこまかく描いているのはそういう背景があったからかな」など、楽しみが増えます。

長岡で「北前船寄港地フォーラム」

2018年9月1日
「北前船寄港地フォーラム」参加のため、一昨日から新潟県長岡市を訪れています。10年以上前に一度来たことがありますが、そのときは数時間の滞在。いかにも地方の城下町らしい、どこかおっとりした風情を感じたものの、それは上っ面を撫でただけの印象かもしれません。

今回は2泊3日ですから、じっくり雰囲気を味わうことができました。「フォーラム」のほうは、回を重ねるごとに本格化し、それと比例するかのように、観光ビジネスの振興といった面も強く感じられるようになってきました。回によってはアカデミックな匂いが濃厚なときもあります。登壇者もほぼ全員、パワーポイントを駆使しながらのレポートであったり主張であったり発表であったりで、途中、息を抜くいとまもありません。そうした意味では、間違いなく進化していると言えます。

ただ、それだからいいのかとなると話は別。開催地の人々の素朴な思いは前に出てきにくくなりますし、生々しい息遣いも以前に比べ希薄になりました。取材にたずさわっている私の作業も、フォーラムのテーマや内容がすっきり整理されているのは助かりますが、その実現に向けて何カ月もの間あちこち走り回ってきた人たちの気持ちのありようまではつかめないのです。こうなると、”行間を読む“というか、関係者から裏側の状況を幅広く拾い集めていく以外ありません。人は誰でもそうでしょうが、メークやドレスアップをほどこす前の素顔やふだん着の姿にこそ、本当の気持ち・意識が見え隠れするからです。

 

8月30日の前夜祭、翌31日のフォーラムとレセプションを終えた今日はエクスカーションです。バスに乗って、かつて北前船が立ち寄ったことで栄えた港町・寺泊【てらどまり】が最初の訪問地。まっすぐ続く砂浜はいまきれいに整備され、その横を走る道路に面して海産物やさまざまなお土産などを売る店がびっしり並んでいます。それを見下ろす丘に建つ寺院や神社には、沖合にもやう北前船からおろされた荷物を何艘ものはしけが港まで運んでくる様子を描いた絵図が展示されていました。

東京湾に浮かぶ、唯一の自然島・猿島へ

2018年6月23日
今日は、太平洋戦争の悲惨さを象徴する沖縄の地上戦が終わった日。なんとはなしに厳粛な気持ちになります。それと直接の関わりはありませんが、今日、こんな話を聞きました。8月15日に日本が無条件降伏を受け入れ、その文書に調印したのは9月2日。場所は東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリの艦上です。連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーがこの船を選んだのは、時の大統領ハリー・S・トルーマンがミズーリ州の出身だったからだそうです。しかも、同船が停泊していたのは、かつてペリーが日米和親条約調印の際に旗艦ポーハタン号を停泊させていたのと同じ位置。

それだけではありません。ミズーリ号が掲げていた星条旗は、1853(嘉永6)年、ペリーが浦賀に来航した際に乗っていた旗艦サスケハナ号に掲げられていた星条旗だったといいますから、なんとも念が入っています。日本人はすぐに歴史を忘れてしまうと言われるのに対し、アメリカ人はこういうふうにして、歴史を忘れない=風化させないようにしているのです。

今日から明日の1泊2日で、恒例の「東京明和会・大人の社会見学」。今回の行き先は横須賀で、三笠桟橋から小さな船に乗って10分ほどの沖合にある猿島がメインの目標です。ガイドさんから先の話を聞きながら、無条件降伏の署名がおこなわれた場所を見ることもできました。

猿島は東京湾に浮かぶ、唯一の自然島で、面積は横浜スタジアムのグラウンドの4倍ほど。旧日本海軍の要塞だったため、戦前は一般人の立ち入りが禁止されていたといいます。木々が生い茂る中、レンガ積みのトンネルや砲台跡などの旧軍施設が残っていました。どちらかというとマイナーなスポットでしょうが、意外や意外、若い人がけっこう来ているのには驚きます。

猿島からそろそろ横須賀に戻ろうというときに雨が降り出しました。三笠桟橋に戻り、係留されている「戦艦三笠」を見学。数年前、取材で訪れたところですが、今日はたまたまボランティアガイドさんの説明付きの時間帯だったため、たっぷり1時間半、詳しいお話を聞きながらの見学となりました。

下船したときは2時をとうに回っており、予定していた横須賀海軍カレーの昼食に間に合うかどうか。案の定、その店に行ってみると、「CLOSED」の看板が……。アチャーッとなりましたが、幹事のNくんが店主にかけあい、半ば強引にドアを開けてもらいました。そこまでした甲斐があり、おししい横須賀海軍カレーを食べることが。牛乳とサラダと一緒に食べるというのがミソのようです。かつては、ビタミン不足で死に至る海軍の兵士が多かったからなのだとか。

続いて行ったのがヴェルニー公園。構内に階段がまったくなく、改札口からそのままホームに行けるようになっていることで知られるJR横須賀駅の手前にあります。園内にはフランス式花壇や音楽に合わせて水が動く噴水、洋風のあずまやも。少しずつ時期を変えながら花開くバラの数は2000株ほど。この日も、雨の中、美しい花を咲かせているバラが数十本見られました。「日本の都市公園100選」「日本の歴史公園100選」に選ばれているそうで、海沿いのボードウォークを歩けば、潮風がさぞかし心地よいのではないでしょうか。

   

ところで、ヴェルニーというのは1865から76年まで日本に滞在したフランス人技師の名前です。横須賀製鉄所、横須賀造兵廠、横須賀海軍施設ドックや灯台など、さまざまな施設の建設を指導し、日本の近代化に貢献した人物。その横須賀製鉄所が対岸に望めることにちなんで公園の名がつけられたそうです。

横須賀本港に係留されている船やアメリカの海軍基地、海上自衛隊地方総監部を見ながら公園を抜けたところに建つのが「ヴェルニー記念館」。幕末、同製鉄所に持ち込まれたスチームハンマー(国指定重要文化財)が保存・展示されています。そう言われても理解できない私はじめ文科系出身の仲間に、理科系出身のMくんやNくんがきちんと説明してくれました。急傾斜の屋根と石の壁は、ヴェルニーの故郷ブルターニュ地方の住宅の特徴を取り入れているのだとか。

復活した名古屋城「本丸御殿」

2018年6月15日
小・中・高と名古屋で過ごしたにもかかわらず、名古屋城を見たのはこれまで1回だけ。数年前のことで、このときは取材で訪れました。2回目の今日は、「本丸御殿」が江戸時代のままに再建されたと知ったからです。太平洋戦争末期の名古屋大空襲で、天守閣は幸いほとんど焼けずに済んだのですが、「本丸御殿」はすべて焼け落ちてしまったとのこと。しかし、写真や設計図が残っていたので再建は可能であるということから話は始まったといいます。

河村たかし市長の強力なリーダーシップで、10年前に話が決まったのですが、いちばんの問題点は建設資金の調達です。総工費150億円を、どこで、どのように確保するのか。お金にはうるさい名古屋ですから、かなりすったもんだがあったと聞いています。

そうした中、市民の寄付も募りながら、なんとか実現に漕ぎ着けたのですから、名古屋もまんざらではありません。というわけで、オープンしてまだ10日しか経っていない「本丸御殿」をじっくり見学することにしました。この日はすぐ近くである方のインタビューがあったのですが、午前の部と夕方の部に分かれていたため、その合間の時間を利用させてもらいました。

 

当初の熱気もやや落ち着き、しかも平日だったので、予想していたよりすんなり入場できました。中に入ってびっくり! 襖絵や天井画、家具調度、欄干の彫刻など、すべてレプリカと複製・復刻ですが、往時の華やかさがみごとに再現されています。つい数か月前、京都・二条城(こちらも徳川家が作ったもの)を見ているだけに、つい比べてしまうのですが、けっして遜色はありません。

観終わったあと、城のまわりをゆっくり歩いてみました。まあ、私が最後に名古屋城とその周辺を歩いた頃とは比べものにならないほど、きれいに整備されているではありませんか。ゆったりした敷地の中には大きな花壇やウォーキングコースが作られ、サイクリングロードまであります。ところどころにオブジェも置かれているのは、世界デザイン博や愛知万博を開催した影響かもしれません。そういえば、20世紀の終わり頃(1992年)には愛知県芸術劇場などという代物も建てられましたね。要するに、市の中心部エリアはすっかり大都市っぽくなったということです。

ロシア語のオペラに新鮮な感動

2018年6月12日
オペラなどほとんど観る機会のない私が、自身の関わっているNPO法人のツテで、「2018ロシア年&ロシア文化フェスティバル」のオープニング公演にお招きいただきました。演目はチャイコフスキーの歌劇『イオランタ』(演奏会形式・日本語字幕付)。演奏はロシア・ナショナル管弦楽団で、指揮は同楽団の創設者であり音楽監督でもあるミハイル・プレトニョフ。1988年、当時のゴルバチョフ大統領に招かれ、ワシントンで開催されたサミットでも演奏したといいますから、期待大です。

舞台は15世紀の南フランス。道に迷ったロベルト公爵とヴォーデモン伯爵は、その一帯を治めるルネ王の城に迷い込んでしまいました。ルネ王には、生まれつき盲目で、そのことを知らされぬまま育った美しい王女イオランタがいます。ヴォーデモンはそこで偶然出会ったイオランタにひと目惚れ。別れ際にヴォーテモンが、「記念に赤いバラをください」と言うと、イオランタは白いバラを手折って差し出しました。「赤ってなんのこと?」と口にするイオランタ。彼女が盲目であると知ったヴォーデモンは、イオランタに明るい光の世界を見せてあげたいとの切なる願いを抱きます。果たしてイオランタは光を見ることができるでしょうか……。

そんなストーリーなのですが、普通のオペラと違い、演奏会スタイルなので、歌い手は皆、ほとんど動きません。しかも、なじみのないロシア語ですから、頼りになるのは、左右に設けられた日本語字幕を映し出す縦長の画面だけ。ところが、たかだか30字ほどの翻訳文が実に的確で、わかりやすいのです。訳したのは一柳富美子という方ですが、これには感心しました。これまで50作品以上の大曲を翻訳しているベテランだそうですから、それもむべなるかなでしょう。以前、ニュルンベルクの国立劇場で『椿姫』を見ましたが、このときは英語の字幕だったので、えらく難儀したのを思い出したりしました。

王女イオランタ、ルネ王、ヴォーデモン伯爵はロシア人の歌手でしたが、3人とも迫力満点。私が素晴らしいと思ったのは、ロベルト公爵を演じたバリトンの大西宇宙【たかおき】です。まだ32歳という若さですが、武蔵野音楽大学からジュリアード音楽大学院を修了。『エフゲニー・オネーギン』『フィガロの結婚』『マタイ受難曲』など多くの作品に出て好評を得ている歌い手のようです。脇を固めていた二期会のメンバーも美しい声を響かせてくれました。

通常、オペラというと3時間以上はかかります。しかしこの作品は1時間半ほどで、私のような初心者にはほどよい長さ。こうした演奏会形式でオペラを楽しむ機会はそうそうないでしょうが、本当にラッキーでした。

好奇心をかき立てられた「南方熊楠展」

2018年2月25日
『南方熊楠【みなかたくまぐす】展──100年早く生まれた智の人』にやっと行けました。今週いっぱいで終わりなので、滑り込みセーフといったところでしょうか。

場所は上野の「国立科学博物館」。先日、二人の孫を連れて行ったばかりです(65歳以上は入場無料というのがありがたい)。世界中どこの美術館・博物館でもシニアは優遇されていますが、「無料」というのはなかなかありません。

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それほど広いスペースでないこともあってでしょう、けっこう混み合っていました。しかも、若い人の姿が目立ちます。来館者のほとんどがそれこそシニア世代ではないかと予想していたので、これは意外でした。そもそも南方熊楠という人物自体、それほど広く知られた存在ではないと思いますし。

熊楠は和歌山県の田辺生まれなので、私の父方とルーツが同じです。田辺にはこれまで二度行ったことがあります(実はもう一度行ってはいるのですが、それは広域合併で田辺市に編入された熊野エリア)。旧田辺市内にある立派な「顕彰館」にも行けていません。こちらは2005年7月にオープンしたのだそうで、その約1年後には、南方熊楠旧邸も、実際に住んでいた当時の雰囲気を彷彿させるよう、復元・改修されたといいます。それとは別に、1965年に白浜町にも「記念館」が作られており、同じ地域に二つの施設が競合する形になっています。

博物学の大家として世に知られる南方熊楠は「子供の頃から驚異的な記憶力を持つ神童だった」と言われる人物。数日間で100冊を越える本を読み、そこに書かれていた内容を、家に帰って書写するという超人的能力を持っていたようですから、ハンパじゃありません。東大予備門を中退後、19歳から約14年間、アメリカ、イギリスなどに留学、さまざまな言語で書かれた文献を読み込み、それを克明にメモしていったといいます。植物、とくにキノコ類にめっぽう詳しかったようですが、人文科学にも精通井し、民俗学の分野では柳田國男と並ぶ重要な存在でもあります。

いわゆる学術論文はほとんど書いていませんし、官職に就いたこともないものの、昭和天皇にもご進講(1929年)するなど、その力量は高く評価されていました。ご進講自体、昭和天皇ご自身が望まれたようで、「聖上田辺へ伊豆大島より直ちに入らせらる御目的は、主として神島及び熊楠にある由にて」と、軍令部長にご自身の所信を書かせたとのこと。1962年、和歌山を33年ぶりにご訪問された昭和天皇は、神島(かしま=田辺湾沖合の島)を目にしながら、「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」と詠んだそうです。

しかし、数年前、こんな話を聞きました。明治時代半ばごろ、政府が実施しようとした神社合祀政策に、思いもよらない角度から異を唱え、最後はその主張が受け入れられたというのです。熊楠の主張の根拠が、田辺の沖合に浮かぶ神島の話。神島には多種多様な照葉植物が自生していましたが、神社合祀によってこの島唯一の神島神社もなくなることが明らかになりました。神社がなくなれば、森林は自由に伐採できるようになり、植生が失われてしまいます。それを知った熊楠は、生物学的見地からその保護を主張、東京大学教授・松村任三と貴族院書記長官・柳田國男にも書簡を送り訴えます。そして、最終的には天然記念物に指定されることになったそうです。生物学などまったくの門外漢である私は、熊楠についてもさほど関心がありませんでしたが、それがきっかけで深い興味を抱くようになりました。

今回の展示を見て知ったのは、熊楠の関心が途方もなく広範囲にわたっていること。ここまで……と思うほど、あれやこれや、ほとんどどんなテーマについても自身の考えを、きちんとした調査に基づいて披歴していることです。インターネットも何もなかった時代によくぞと言いたくなるくらい圧倒的な量の情報が熊楠の頭の中には収まっていたのでしょう。「顕彰館」「記念館」の両方とも、近いうちに訪れてみたいと思いました。

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帰り道、上野公園の一角に冬の桜が花を咲かせていました。最初は梅かなと思ったのですが、木の幹に「冬桜」と記した札がつけられていたのです。あとひと月もすれば、この一帯は春の桜=ソメイヨシノで覆われるのですね。

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キャンプは野球のほうがおもしろい

2018年1月28日
今日で沖縄も最後。こちらでJリーグのチームがキャンプをしていることを知り、のぞきに行ってみました。金武町という本島中部、東側の海に面した“基地(キャンプ・ハンセン)の町です。ここでトレーニングしているのは浦和レッズ。掲示を見ると「午後3時50分~」とあるのですが、実際に始まったのは4時半近くでした。東京あたりと比べると日の入りも1時間ほど遅いですし、やはりウチナー(沖縄)時間でしょうか。

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始まる前に記念撮影などもあり、選手たちがボールを蹴り始めたときは5時近くになっていました。槙野智章もいます。阿部勇樹も森脇良太も興梠慎三もマウリシオもいます。これまでテレビでしか見たことのない顔が目の前にいるというのは、やはり興奮するものです。

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ただ、野球と比べるとサッカーの練習というのはバリエーションが少ないといいますか、見ていても退屈してしまうのです。もちろん、私自身がサッカーファンでないということもあるでしょうが。それに加え、サッカーはファンの絶対数がまだ少ないので、来ている人もほんの数えるほど。でも、かりにファンの数が大幅に増えたとしても、野球のキャンプほどにぎわうことはなさそうな気がします。

 

初めて行った金武町ですが、経済的にはかなり恵まれている印象を受けました。そこに一昨年2月、スポーツコンプレックス、野球場とサッカーグラウンドが2面、クラブハウスなどを広い敷地にまとめた施設が作られました。まだすべて完成はしていないようですが、サッカーグラウンドに張られている天然芝の素晴らしさには驚きました。こんな恵まれた環境でシーズン前のトレーニングに打ち込めるレッズ。強くなって当然かもという気もします。同じ敷地内には野球場もあり、そこでは2月1日からプロ野球の楽天がキャンプを張るようです。

でも、ふと空を見上げると、サッカーグラウンドのすぐ近くの上空をアメリカ軍のヘリコプター(ここひと月、不時着やら部品の落下やらが頻発しているにもかかわらず)が飛んでいるではないですか! 沖縄県民の願いはなかなか通じないのが、残念でなりません。カメジローの生きざまを映像で観ただけに、いつも以上に強く、そんな思いを抱きました。

流鏑馬はれっきとした神事なのでした

2017年9月17日
鎌倉の鶴岡八幡宮で流鏑馬を観ました。テレビのニュース映像ではこれまで何度も目にしていますが、本物は初めて。でも、さすがナマの臨場感はすごい。祇園祭や博多の祇園山笠の追い山も、たしかに強烈なインパクトがありましが、流鏑馬は会場が狭い分、音も動きも、「すぐそこ」感が強いのです。

すっかり恒例になった高校の同窓生が集まっての「おとなの遠足」の一環として、今回企画されたのが流鏑馬見学。同窓生の一人が今年、なんと神職の資格を取得、その縁で指定座席チケットが入手できたおかげです。「持つべきものは友だち」とはよく言ったものですね。

台風18号が刻々と近づいている中での開催で、いまにも降り出しそうな空模様。雨天決行は間違いないとしても、風が強ければ危険なのではないかと心配していましたが、なんとかもちました。

午後1時開始ということだったので、1時間ちょっと前に、私たち7人も、指定された場所に着席しました。しかし、1時近くになっても始まる気配がまったくありません。すると、境内にアナウンスが流れます。「さあ、いよいよ始まりです。まずは、今日の射手を始め、関係者全員がお祓いを受け、そのあと神官からお神酒をたまわります……」とのこと。そう、流鏑馬は観光行事ではなく、れっきとした神事なのでした!

ところが、これがめっぽう長いのです。ようやく始まったのは1時40分過ぎだったでしょうか。始まる直前まで、どちらから馬が走り出すのかもわからず左を見たり右を見たり。取材に訪れた海外メディアの写真撮影スタッフのカメラ・セッティングの様子を見て、たぶんあっちだろうと推定し、私たちもスタンバイ完了!

馬が走り出しました。3人の射手が200数十メートルのコースを馬に乗って走り抜ける間に、それぞれ3回、矢を射ます。日ごろから修練を積んでいるようで、どの射手もみごとに的を射抜いていきました。そのたびに歓声があがります。合計9回のうち的を外したのは1回だけ。

動画あり クリックしてください

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本来の流鏑馬はこれで終わり。面白かったのは、そのあとでおこなわれる“2軍戦”“3軍戦”です。将来、射手になろうかという中堅どころ、若手の射手が何人か、同じように3回ずつ馬に乗って駆けながら矢を射ていきます。なかには外国人もいました。失敗も多いのですが、正式の流鏑馬ではないので、思い切りがいいというか、馬を走らせるスピード、矢を射るタイミング・方向・角度など、試行錯誤といった感じがありあり。「なるほどー、こうやってうまくなっていくんだ」というのがよくわかります。

 

流鏑馬で全国的に有名なのは、ここ鎌倉・鶴岡八幡宮ですが、実は全国各地の神社でおこなわれていることを、今回初めて知りました。射手のいでたちはどこも同じのようで、頭に綾藺笠【あやいがさ】をかぶり、戴水干【すいかん】を着て、裾と袖をくくり、腰には行縢【むかばき】を付け、足には物射沓【ものいぐつ】。左手に射小手【いごて】を付けてと手袋をはめ、右手には鞭。さらに、背中には太刀、鏑矢を五筋差した箙【えびら】を負い、弓並びに鏑矢一筋を左手に持ち、腰にも刀を差しているので、かなりの重装備。それで馬を走らせながら弓で矢を射るのですから、考えている以上にハードです。これを何年かかけてマスターしていくわけですね。