サトウキビで財を成した豪商のお屋敷

2019年12月1日
今日は朝から川面に霧が立ち込めています。川そのものが大きいので、前面を覆うほどではないものの、逆にその存在感の強さと言ったらありません。しかも、これが時間の経過とともにどんどん大きくなり、一時は船の周囲がまったく見えないほどでした。

 

 

セント・フランシスヴィルからニューオーリンズまではわずか70~80キロなのですが、クルージングはなぜか後戻りします。時間稼ぎ=売り上げ増なのでしょう。それで訪れたのがノッタウエィ・プランテーションです。かつてのプランテーション経営者一族の屋敷で、数日前に見たロザリーマンションよりさらに上を行っている感じがしました。とはいえ、この屋敷を見るためにだけわざわざ1日費やすというのは、どうにも理解に苦しみます。

このテの邸宅の所有者のほとんどはその後没落するか、子孫が絶えるかしているようで、この屋敷も維持するのが大変のようです。ただ、ここは結婚式場、あるいは宿泊施設として利用されているようで、なんとか持っているようです。

中にあるレストランで、昨日に続き“船内食”以外のものを口にすることができました。久しぶりの食事らしい食事に大満足。船に戻ると、霧もすっかり晴れ、ここ数日続いている穏やかな川面の風景に。夕方になると、空はきれいな茜色に。明日はいよいよニューオーリンズです。

 

 

 

 

ひなびた町で出会った海苔巻きに感動!

2019年11月30日
昨日は「そろそろ我慢の限界に近づきつつあります」などと書きましたが、今日は、それがよい方向に戻りました。というのも、上陸したセント・フランシスヴィルという小さな町に癒されたからです。

この町はいまでこそルイジアナ州に属していますが、その昔(1810年)は「西フロリダ共和国」の首都だったそうです。といっても、同国が存在したのはわずか90日間。それでも、住民たちは当時の国旗に強い誇りを持っている様子。

セント・フランシスヴィルはもともと、スペイン人が入植していたフロリダの一部でした。1803年の「ルイジアナ買収」で今日のアメリカ合衆国の形がほぼ定まったわけですが、それ以降もフロリダ半島から西の一帯はまだスペインの支配下にありました。しかし、少数の役人と軍隊しかいないこの地域に入っていったイギリス人たちが1810年、独立を求め反乱を起こします。それによって生まれたのが「西フロリダ共和国」。

反乱軍はバトンルージュ(現在はルイジアナ州)のスペイン守備隊を打ち負かし、新しい国=「西フロリダ共和国」を作りました。その首都が置かれたのがセント・フランシスコヴィルで、のちに「ボニー・ブルー・フラッグ(青地に単一白星)」と呼ばれる国旗を定めました。しかし、西フロリダ共和国は3カ月しか続かず、その一帯は新しく設けられたオーリンズ準州に組み入れられることになります。つまりこの地域はアメリカでもなくスペインでもない、独立した国だったのです。

小さな町ではありますが、観光には力を入れているようで、上陸してバスに乗る際にはバッグと割引券を配るなどしています。観光スポットが多いわけではないのですが、アメリカ聖公会教会には、1700年代に作られたとおぼしきお墓がぎっしり並び、驚きました。中に置かれていたパイプオルガンも、アメリカ南部では最古のものなのだとか。割引券を配っていただけあって、このサンクスギビングのさ中にどの店もオープンしていたのもよかったですね。ロイヤルストリートに建つ古い銀行を改造したお土産物屋さんはSALEをしていたこともあり、大繁盛でした。

しかし、私にとって最大の喜びは、この町ではおそらく唯一のスーパーマーケットで寿司とカップ麺を買えたことです。11月24日から約1週間続いていた“アメリカ南部メシ”からやっと解放され、ほっとしました。それでなくてもアメリカの食べ物は期待値が低いのに、南部のエリアですから、正直ほとんどゼロもしくはマイナス。それが朝・昼・夜の3食ですから、どんな我慢強い人でもネをあげてしまうのではないでしょうか。それが一気にプラス30くらいにまでは回復しました。単純といえば単純ですが、食事の大切さを改めて感じされられた気がします。この写真に海苔巻きは写っていませんが、スーパーのイートインコーナーでもう食べたあとだからです。キュウリで巻いたこちらのカニ(もどき)ロールはいまひとつでした。残念! でも、缶入りのビールは最高でしたよ。

数日ぶりに触れた、“町らしい町”

2019年11月29日
それにしても、今回のクルージング、とにかくテンションが上がりません。そのせいか、時間の経過とともに疲労感が強まります。時差ボケがなかなか回復せず、毎晩長い時間眠れないせいもありそうです。

今日も朝4時過ぎに目が覚めてしまいました。しかし、デッキに出てみると、目の前に煌々とネオンの明かりが見えるではありませんか。「RIVER CENTER」の文字がまぶしいこと。バトンルージュの町です! やっと「都会」の匂いを感じさせる場所を訪れることができるのかと思うと、気持ちも多少は上向きに。これまで上陸した3つの町はどこも皆、歴史的・文化的にそれなりの意義はあっても、私たちのような異国の観光客にとってはいまひとつ満足できないところがありました。でも、今日こそは!

 

バトンルージュ(Baton Rouge)はもともとフランス語で、「赤い杖」を意味しています。先住民族のインディアンが狩場の境界に杉の木を赤く染めて標識としたのにちなんあだ名前だとか。この地に初めて植民してきたのはフランス人で1699年のこと。小さな町でしたが、1803年の「ルイジアナ買収」でアメリカ合衆国の領土となってから発展し、1817年には市になり、1849年にはルイジアナの州都に。南北戦争中は一時ニューオーリンズ市に移されたものの1882年、州都に戻っています。

 

そうした歴史とは別に、この町の名前が記憶に残っているのは、1992年10月に起こった日本人留学生射殺事件のためです。殺されたのは、当時この町に留学していた名古屋の男子高校生。私の出身校のすぐ隣の高校だったので、よく覚えています。彼がハロウィンのパーティに参加しようとし、間違って訪れた家の当主に不法侵入者と誤解され、射殺されてしまったのです。当主に英語で「Freeze(動くな)!」ととがめられたのですが、それを「Please」と聞き間違い動いたため引き金をひいたという新聞記事はいまでも覚えています。たしかに、日本の高校英語では、「freeze」イコール「凍る」としか教えていられないでしょうから、理解できなかったとしても、致し方ない気もします。

それはともかく、事前にネットで調べたかぎりでは、この町に観光的な興味を満たしてくれそうなスポットはほぼ皆無。私としては、ツアー一行が利用するバスでの観光には参加せず、ダウンタウンからクルマで15分ほどのところにあるという動物園にでも行って気分転換をと思っていました。しかし、いざ船を降りると……。サンクスギビングのさ中で町はほぼお休み状態。頼みの観光案内所にも「CLOSED」の看板が出ています。仕方なく、数少ない名所の一つであるルイジアナ州庁舎をめざし歩いていくと、ヒューストンから家族4人でやってきたという日本人の一家族と遭遇。私たちが話している日本語を耳にし、「まさか」と思い話しかけてみたそうで、びっくりしていました。あまり見るべきものもないこんな町に日本人が! と思ったのでしょうね。

私たちが下船したのはダウンタウンの一角で官庁街。役所ならやっているかと思いきや、そこも皆お休みしています。そのため、歩行者の姿はなく、車もまばら。事前にツアーの添乗員さんから「間違いなくオープンしています」と教えられた州庁舎まで行ってみました。34階建て、下層階はギリシャ・ローマ時代を思わせるようなファサードが特徴的な建物はとにかく立派。国定歴史建造物に指定されているそうです。中に入り、まずは展望デッキに行くためエレベーターで27階へ。天気は素晴らしくよかったので、360度のパノラマが楽しめました。

 

 

しかし、もっと新鮮だったのは入口のホールと州議会の議場のつくり。日本でも県庁・県議会の建物はどこも立派ですが、アメリカの州庁・州議会にはかないそうにありません。ここには州議会上下両院の議場のほか、州知事室、および一部の州行政機関が置かれているそうで、10万9千m²の敷地に建つ、高さ137mの庁舎(1932年に完成)は、アメリカ合衆国の州庁舎としてはいちばん、またバトンルージュ市内でもいちばん高い建物とのこと。

 

1階のホールには、州や合衆国の歴史に名をとどめる人たちの大きくて立派な彫像が何体も置かれていました。正面玄関に昇っていく階段には、合衆国50州の名前が、州に昇格した順に刻まれています。たかだか南部の1州でしかないのに、そこまでやるかとも思うのですが、フランス人が入植したこの一帯は、現在の「アメリカ合衆国」にとって大きな意味を持つ地域のようなのです。

いまでこそルイジアナ州はさほどでもありませんが、18世紀前半はそれこそ「大ルイジアナ」(地図の緑色の部分すべて)の言葉どおり、とんでもない広さでした。1803年、その大ルイジアナ(面積にすると210万㎢)をフランスから1500万ドルで買収したことで、今日の“大アメリカ合衆国”が生まれたと言っても過言ではないのです。高校生のとき世界史の教科書でこの図を目にしたときとても驚いたのを、いまでも鮮明に覚えています。

 

それはともかく、今日もまた帰船は正午過ぎ。よく考えてみると、船から離れるのは毎日せいぜい3~4時間。これで7泊するのですから、正直“軟禁”状態に近い感じすらします。もともとがアメリカ人向けの商品と言ってしまえばそれまでなのですが、そろそろ我慢の限界に近づきつつあります。

 

こじんまりしながらも味わいのあるナッチェス

2019年11月28日
今日上陸したナッチェスも、こうしたツアーにでも参加しないかぎりまず行くことのない町の一つ。この地に先住民であるナッチェス族が住み始めたのは10世紀だそうで、なんと1000年以上も前。しかし、15世紀にそこへフランス人がやってきて彼らを追い出し、新しい町を築いたといいます。

 

 

いまでも郡庁が置かれているようで、それなりの姿かたちが整っています。“自由奴隷”となって理髪店を開業したウィリアム・ジョンソン(1809~51)の住居はいま博物館に。11人目の子どもが生まれて数日後に殺され41歳の生涯を終えてしまった悲劇の人物ではありますが、彼が26歳のときから書き綴った日記の草稿が展示されていました。文字に加えユニークな絵も描かれており、その幅広い才覚の一端がうかがわれます。

ジョンソンは理髪店のほかにも浴場、書店を保有し、それ以外にも不動産業を営むなど、長生きしていたらもっと多くの業績を残したかもしれません。彼の成功をやっかんだ白人に銃で撃たれ死んだのですが、事件の現場にいて一部始終を目撃した遺族が、犯人を裁く場で証言することは当時の法律で許されていなかったといいます。そのため、いったんは捕えられた犯人はそのまま無罪放免に。奴隷制度の不条理を象徴するような事件だったという、添乗員ガイドの説明を聞いていると、どうにも不愉快な気持ちになります。そのあとで訪れたロザリー邸(マンション)が、444人もの奴隷を使って大成功を収めたイギリス人の大邸宅だっただけに、そうした思いをいっそう深くしました。

途中で船に戻ったツアーの一行と別れ、私ひとりで街を散策しました。とにかくきれいな町で、綿花の積み出し港として繁栄した名残がそこここに感じられます。商売上手なことにかけては世界に冠たるユダヤ人が活躍していたのでしょう、ユダヤ教の教会や集会所がいまも残っていることからしても、よほど潤っていたのでしょう。

 

船はキホン、毎夕5時ごろ港を出発するのですが、出航の合図は、屋上デッキにしつらえられた蒸気パイプオルガンです。5階のオルガンの鍵盤をたたくとデッキのパイプが蒸気を吹き出しながら音を出します。見ているとなんだか不思議な感じがし、思わず写真を撮ってしまいました(動画を見たほうがその不思議さはよくわかるでしょうが)。

 

5時を過ぎるとあたりは夕日に包まれ、この場面だけ見ていると、さぞかしロマンチックな旅かと思わせるのですが、実際はそうでもないというのは、皆さんもご想像のとおり。それでも、船のユニークなデザインの煙突は美しいというか、「明日はどんなところに行くかな……」という夢をかき立てます。

最初の上陸地ヴィックスバーグは南北戦争の激戦地

2019年11月27日

今日はクルージング3日目。25日の夕方、船はメンフィスから静かに出発しました。最初の小一時間ほどは両サイドに光も見えましたが、そのあとはもう何もなし。どちらも真っ暗です。ずっとこんな感じなのかなぁと、悪い予感がしました。しかも、昨日はどこにも寄港することなく、ひたすら走るだけ。添乗員さんは「体をゆっくり休め、時差ボケをなくしてください」と言っていましたが、まるまる1日、船の中でボーッとしているのも疲れます。私にとっては69回目のバースデーでしたが、なんだか気が抜けてしまいました。

さて、今朝着いたのはヴィックスバーグという町です。1862・63年の二度にわたりこの地で繰り広げられた激戦に北軍は勝利します。そのとき南軍を率いていたのがJ・ペンバートン将軍で、南軍を包囲した北軍の指揮官がU・グラント将軍。北軍が勝ったことで、ミシシッピー川は北軍の制圧下に置かれることになり、南部連合は地理的に分断されたといいます。以後は北軍が優勢に戦いを進めたことで、大きなターニングポイントとなりました……。というのですが、南北戦争についてほとんど知識のない私のような者にとっては、いまひとつピンと来ません。ほぼ焼け落ちたときの状態をとどめているペンバートン将軍の屋敷を見ても、「はあ、そうですか」とうなずくだけです。

それよりわかりやすかったのは、「コカコーラ博物館」。といっても、見かけはごく普通のスタンド喫茶といった感じです。1894年、この地で菓子屋を営んでいたジョセフ・ビーデンハーンがコカコーラを初めて瓶詰めしたのだそうです。この当時のボトルなど、内部は古い時代の関連グッズがぎっしり。コレクターにとっては垂涎の的なのでしょう。

25日の夜からクルーズ船の食事が続きそろそろ飽きを感じ始めていた私は、どこか食事のできる店はないかと探してみましたが、2つ、3つある店の看板を見ても、食指が動きません。サンクスギビングで休業中という店が多いですし、そもそも店の数が圧倒的に少ないのです。町を歩いている人も私たちと同じ船に乗っている一団だけで、さみしいことさみしいこと。お腹も空き始め、テンションがまったく上がらないまま船に戻るしかありませんでした。

辛辣な気持ちにさせるメンフィスの公民権博物館

2019年11月25日
今回のミシシッピー川クルーズはテネシー州メンフィスからルイジアナ州ニューオーリンズまで600数十キロを7泊8日で下っていくというもの。リバークルーズですから、もちろんゆっくりではあるのですが、今回はそのゆっくり度がきわだっています。というのも、船が外輪船で動くスタイルだからです。かつてのような蒸気船ではなくディーゼルを用いてはいるものの、外輪船なのでゆっくり、そして風情もある──という触れ込みです。

メンフィス(Memphis)という地名は、古代エジプトにちなんだものだそうです。そういえば、カイロからピラミッドを見に行ったことを思い出しました。たしか、古代エジプトのメネス王によって建設され、古王国の首都だったこともある由緒のある町で、世界遺産にもなっています。いまでも当時の遺跡が博物館として残されており、ラムセス2世の巨大な石像が横たわった姿で展示されているのが印象的でした。ナイル川沿いに築かれたそのメンフィスにちなみ、ミシシッピー川沿いに築かれたこの町を同じ名前で呼んだのかもしれません。なんと、博物館のすぐ近くにピラミッドの形をした大きな建物まで建っていました。

ホテルからそのピラミッド型の建物近くにある観光案内所まで歩き、中に入ると当地が生んだロックンロールの大スター=エルヴィス・プレスリーとブルースの大御所B・B・キングの大きな像が。ただ、真ん前を流れるミシシッピーの流れはたしかに雄大ですが、対岸が見えないほどの川幅ではありません。

そこから再び町に戻り、トラムに乗車。そして、1968年遊説中のマーチン・ルーサー・キングJr.牧師が暗殺されたロレインモーテル306号室(現在その部屋を含め建物全体が「公民権運動博物館」として公開されている)に行きます。

館内に入ると、17世紀の初め西アフリカから最初にアメリカに奴隷が連れてこられたときから南北戦争が始まる1861年までの奴隷制度に関する資料が展示されています。しかし、その後も南部一帯では人種分離政策がおこなわれ、学校やレストラン、病院などすべての公共の場で、有色人種は差別されていました。そうした社会状況の起こったのが「ローザ・パークスの逮捕とバスボイコット事件(1955~56年)」です。

アラバマ州モンゴメリー市内で、混雑していた市バスに乗っていたローザ・パークスは、運転手から席を空けるように命じられましたが、それを拒み逮捕されました。彼女は拘置所に入れられましたが即日保釈となり、後日、罰金刑を課されます。しかし、これに抗議した黒人たちが「バス乗車ボイコット運動」を始めたのです。そのため市バスの運賃収入が絶たれたモンゴメリーの財政は大きなダメージをこうむります。黒人たちが、バス車内における人種分離条例は違憲であると認めるように求めた裁判で、翌年連邦最高裁判所は違憲判決を下し、公共交通機関における人種差別は禁止されることになりました。このボイコット運動をリードした一人がキング牧師でした。

この当時のバス(レプリカですが)が展示されており、実際その中に乗ることもできます。テープで「そこの女! 席を立て! 立たないと警察に通報するぞ!」というバスの運転手の声も再現されています。その横柄でぞんざいな口調を聞くと、当時の黒人がどのような差別を受けていたのかが実感できます。

 

 

その後キング牧師が主導し全米に広がっていった公民権運動の様子や、1963年8月28日のワシントン大行進、そのときの有名な演説「I have a dream.……」が記録映像とともに流れているのですが、アメリカにおける黒人差別→市民権の奪還の様子がよく理解できる、非常にユニークな施設になっています。

そのあとランチを取った店は、メンフィスでも最古のカフェ(というかダイナー)だそうで、歴史を感じさせる造りをしていました。メニューはハンバーガーで、案の定大変なボリューム。とてもではありませんが食べ切ることはできません。今年で創業100周年ということで、記念のグッズも売られていたので、マグカップを買いました。

ランチのあとはメンフィスの目抜き通りともいえるビールストリート(Beale Street)へ。夜になると数十軒あるというライブハウスが一斉に営業を始め、大変な盛り上がりを見せるようですが、今日はまだ明るい時間帯なので、その迫力に触れることはできませんでした。

再びホテルに戻りしばし休憩ののち、迎えのバスに乗って船着き場まで行きます。いよいよ乗船開始で、あてがわれた部屋に行ってみると、これが予想していたより広い印象で安心しました。バスルームもバスタブ付き。これなら安心です。

テレビのスイッチを入れWEATHER CHANNELに合わせると、ここ2、3日、アメリカのほぼ全土を襲っているウインターストームの様子が報じられていました。先口がDOROTHY、後口がEZEKIELと名づけられ、日本で言う「爆弾低気圧」、その超大型版といった感じです。大変な猛威を振るっているようで、その影響が及んでいないのは、私たちがいるテネシー州南部からミシシッピー州、そして目的地のルイジアナ州のあたりだけ。それ以外の地域はすべて、豪雨、豪雪、吹雪、竜巻、雷雨などがこのあとも数日は続くようです。

アメリカではクリスマスに次ぐ大々的な休日(11月の第4木曜日)「サンクスギビングデー(感謝祭)」とちょうど重なっています。この時期は、日本でいう「帰省」をする人も多く、航空機の大幅遅れや欠航、道路の通行止め・事故による渋滞は大打撃。また、電気・ガス・水道のライフラインがストップしたり洪水や降雪による事故も起こったりしているようで、大きな混乱をきたさないといいのですが。私たちのような旅する身としても、12月4日のニューオーリンズ出発のときまでは、とりあえず無事であってほしいものです。

13年(以上かも?)ぶりのメンフィス

2019年11月24日

夕方、成田を出発するアメリカン航空便でダラス・フォートワース経由でメンフィス空港に着いたのは同じ日の夜8時前。気温は6℃で、日本とさして変わりません。空港ビルから外に出てタバコを口にしたのですが、その場所も前に来たときと同じだったような気がします。違っているのは案内表示の中に「UBER(スマホを利用した配車サービス)」の4文字が見られたことくらいでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

旅行会社が用意してくれたバスでダウンタウンにあるホテルへ。気が利いているなと思ったのは「おにぎり弁当」を各自に要してくれていたこと。袋を見ると、「石水」という文字があります。どうやら、前に訪れたとき食事に行った和食レストラン「石水」のようです。これにはびっくり。ネットで見ると、最初この地でレストランから始まったのが、その後発展し、いまでは旅行会社など手広く経営しているようです。

メンフィスは世界の物流の拠点としても知られ、「FORTUNE500」に名前を連ねる大企業のうち、FeDex(輸送)、ServiceMaster(アウトソーシング)、INTERNATIONAL PRINTING(製紙)という3社の本社があるとのことでした。

「バルト3国」とひとくくりにするのは無理があるかも

2019年7月9日

昨日が今回のツアーも実質最終日。それでもタリンを出るのは午後なので、午前中は家人と二人でゆっくり見て回ることができました。昨日の街歩きでは足を踏み入れなかったエリアを中心に歩きます途中、次から次と、「世界遺産」に指定されている建物と遭遇。これまでタリンは2回訪れたことがあるのですが、町全体の様子がようやくつかめた感じがします。

 

3月に訪れたノルウェーもここからさほど遠くはないものの、雰囲気や香りはまったく異質です。フェリーに乗って1時間も走ってバルト海を渡ればフィンランド。町の看板などを見ると、そこに書かれている言葉はフィンランド語とごく近いことが見て取れますが、空気はビミョーに違います。エストニアはエストニア、フィンランドはフィンランドなのです。バルト3国を「北欧」に含めるのはむずかしいかもしれません。

しかも、南隣のラトヴィア、さらにその南にあるリトアニアと比べても、違いがあり、「バルト3国」とひとくくりにしていいものなのか、にわかに判断できません。ただ、この3国に共通するのは、第2次世界大戦が始まって間もなく旧ソ連の支配下におちいり、戦後もずっとそれが続いたこと。そして、民族の自立が奪われ、文化も抑圧され、言葉さえ奪われてしまったことです。そのことに対する怒りは当然、ずっと燃え続けていたにちがいありません。しかし、その表現のしかたはそれぞれで、最終的には3国すべて旧ソ連の支配からは脱することができましたが、いま歩んでいる道はそれぞれ異なります。そして、これは「3国」をいっぺんに訪れないと見えてこないように感じました。私たちは幸か不幸か、エストニア(といっても首都だけ、それもほんの一部ですが)に2回来ており、ほんの断片しか見ていませんでした。しかし今回、駆け足とはいえ「3国」をいっぺんに訪れ、そうした歴史的背景や文化的な基盤を目の当たりにすることができ、本当によかったと思います。

 

これで、この3国を語るときけっして抜きにできないポーランドを訪れてみると、また別の受け止めもできるように思えます。いつの日にか、ポーランド、さらには、リトアニアと地続きでありながら、いまなおロシアの飛び地になっているカリーニングラード(ケーニヒスベルク)にも足を運んでみたいものです。ケーニヒスベルクは北方十字軍の時代、ドイツ騎士団によって建設された町で、その後長らくプロイセン公国の首都でした。バルト海に面する不凍港として、ロシアはのどから手が出るほど欲かったところだったため、第2次世界大戦が終わるとすぐ、その一部を領有化することに成功し、いまもその状態が続いています。3国を取り囲むどの国も例外なく、ロシアに、ポーランドに、スゥエーデンに、デンマークに、またドイツに長い間影響を受けながらも、独自性を保ってきたことの意味。地続きで国境を接することの意味を改めて考えてみる必要がありそうです。

 

最後に。タリンの空港もコンパクトですが、機能性・利便性にかけてはかなりレベルが高いように感じました。ターミナルビルの真ん前までトラムが来ているのが象徴的。中も明るく広々としています。空港内では利用者ならだれでも、無料のWi-fiが提供されているといいますし、この国で開発されたスカイプ(Skype)のブースが設置されていました。

この空港はACI(国際空港協議会=国際空港の管理者の団体で、179カ国・地域にある1650の空港を運営する580団体が加盟)が毎年実施している「利用客が選ぶ優れた空港」部門で、2018年、ナンバーワンに選ばれた(年間利用客500万以下のカテゴリー)のも納得できる。当然、成田空港のように、ゲートまで行く通路が前面カーペットで覆われているようなこともありません。キャリーケースを引きながら歩く旅行者にとってあれはホント迷惑なんですね。カーペットを敷き詰めていいのは、せいぜいラウンジくらいのものでしょう。空港というのは豪華である必要はまったくありません。使い勝手がよくてナンボなのですから。これからますます発展していきそうなこの空港に、ぜひまた降り立ってみたいものです。

同じ場所も、コースが変わると初めてのよう

2019年7月8日

朝7時過ぎから、添乗員さんと一緒にホテル近くを小1時間散歩しました。「トームペア城」「キーク・イン・デ・キョク・ネイツィルトン」塔の横にある坂を上って下るだけでしたが、上り切ったところで目にした風景を見て、4年前のことを思い出しました。旧市街の中心エリアから客を乗せて30分ほど走る馬車に乗ったとき通った道を横切ったのです。国会議事堂の前を走る通りの手前のところでした。同じ場所でも、どこからどうアプローチするかでまったく印象が違うので、気がつくまで少々時間がかかった次第。日本大使館があるのも初めて知りました。

朝食後の観光も最初は早朝と同じコースをたどります。「アレクサンドル・ネフスキー聖堂」(ロシア正教の教会できらびやか)「大聖堂」(こちらはプロテスタントのため質素な造り)を見て展望台へ。その先は急な坂を下り、「聖ニコラス教会」を経て旧市庁舎のるラエコヤ広場へ。4年前のときと違い、今日は広場が小さなテントで埋め尽くされていました。衣料品や民芸品、アクセサリーや小物、お土産品など、40近くあったでしょうか。

     

  

今日のランチは事前に用意されておらず、「自由」。ただ、ヴィリニュスでもそうでしたが、参加者のほとんどは知識がないので、ほとんどが添乗員さんの教えてくれる店に行くことになり、結果としては通常と同じスタイルになります。

この日は広場近くの“中世料理”を食べさせる店とのこと。「中世」とくれば、たぶんジビエっぽい感じでしょう。こちらに来てからずーっと“肉攻め”にあっていたので、現地ガイドの女性に「どこか、近くに中華のお店はないですか?」と聞いてみました。すると。「あるにはありますけど、ちょっとお勧めできません」とのこと。しかたなく、とりあえず添乗員さんについて行ってみると、広場の裏手にある「Olde Hansa」という店でした。

店構えは、いかにも“中世”っぽい感じで、前を通れば「おやっ」となるような店ではあります。しかし、中に入るともっとリアルな“中世”で、照明はすべてロウソク。テーブルやイスも分厚い木で造られていて、ギシギシいう階段を上がり2階へ。ちょっと……という感じがしたので、席に着く前にリタイアを宣言、店を出ました。これといってアテがあるわけではなかったのですが、4年前に入ったカフェを思い出し、そちらに行きました。小さな店ですが、幸い混み合ってもおらず、オープンサンドとサラダ、カプチーノで済ませることに。肉、肉、肉でかなり疲れていたので、ライトな量がころあいでした。デザートのカプチーノ・ケーキも、ほどよい甘さ。

 

午後はバスで15分ほど走り「野外博物館」へ。海っぷちの森の中にある施設なのですが、とてもよくできており、ひと回りすると当地の人々が昔どのように暮らしていたのかがよく分かるというコンセプト。農家、漁師の家、風車、学校、教会などが点在する中を1時間ほどかけてゆっくり歩きます。どの建物も単に保存されているだけでなく、それっぽい服装をした係員が中におり、いまもそこで誰かが暮らしているかのような感じがします。木々の中を縫うようにして整備された遊歩道も広く、フィトンチッドが目に見えてるよう。日本で夏の真昼にこんなところを歩けば汗びっしょりでしょうが、最高気温が20℃にも行かない今日のタリンでは、そんな目に遭うこともありません。

 

圧巻のひと言! 「歌と踊りの祭典」

2019年7月7日

朝7時半にパルヌの町を出発、バスに2時間半ほど揺られ、3カ国目エストニアの首都タリンにやってきました。途中、小雨が降り出し霧が出てきたときはホント心配になりましたが、到着したときはすっかり雲が消え青空が。午前中は、旅行会社が用意してくれた、今回の目玉「歌と踊りの祭典」の「踊り」部門の出演者と交流するプログラム。会場は、さすが4つ星ホテル、ゴージャスなヒルトンです。

 

「歌の祭典」は1869年に始まり、そのときはオーケストラと合唱団が合わせて51、参加者は845人だったといいます。1934年から「踊りの祭典」が加わり、その後は不定期開催。それが5年に1回」となったのは1990年(第22回)から。ベルリンの壁が崩壊したその前年、エストニア、ラトヴィア、リトアニアの「バルト3国」では、「独立」の波がいやおうなしに高まります。そして、旧ソ連から「独立を回復」したのが翌1991年8月でした。

エストニアでは、「歌」は、それぞれの人生にとって、また社会全体にとって、とてつもなく重い意味があるようです。”singing revolution”=「歌う革命」によって、この国の人々はラトヴィア、リトアニアとともに、旧ソ連から自由を勝ち取りました。エストニアでは一滴の血も流されなかったといいます。

映像や写真で見るのと違い、各人が身に着けている民族衣装の素晴らしいこと。デザイン的にはごくシンプルなのですが、どの人の衣装も、それぞれの出身地域や出自が反映されているそうで、強い印象を与えます。女性のスカートのストライプ、ブラウスの形や模様、柄、またベストのデザインや色合い、スタイルによって、その人がどの地域の出身なのか、即座に分かるとのことでした。

私たちの質問にうれしそうに、また丁寧に答えてくださる様子から、5年に1回開かれるという今回の祭典に対する並々ならぬ思い入れが感じられました。現地ガイドの女性の日本語ははなはだつたないものでしたが、それでも出演者の気持ちはひしひし伝わってきました。東京オリンピックに出場する選手以上の熱さとでもいいますか。エストニアの人たちにとってこの祭典に出場するのはなんとも誇り高いことなのでしょう。

ヒルトンホテルを出て、旧市街の中心部「ラエコヤ広場」近くにある老舗レストランで昼食。大きな店とあって、私たちのテーブルに17人、すぐ隣にはおよそ40人、後ろにも40人、さらに別室にも20~30人ほどの団体が。しかも、すべて日本人です。少なく見積もっても100人近くの人が日本からやって来ているのですね。一瞬、ここは日本か? と錯覚しそうになりました。

ランチを済ませるとバスに乗り、郊外にある「歌の広場」へ。周辺は人、人、人、車、車、車、バス、バス、バスで、道路は大渋滞。会場に入っても、人であふれ返っていました。私たちの一行は1等席、しかもイスにすわって聴けるとのこと。地元の人は皆、芝生の上にそのまますわっています。家族連れ、カップル、出演者の近親者とおぼしき人たち、外国から帰国してきたエストニア人など、それこそ千差万別。その数合わせて、なんと9万人以上だそうです。そのうち出演者が3万5千人といいますから、それも当然かも。エストニアの全人口は140万足らずであることを考えると、とてつもないイベントであることがわかるでしょう。

何よりも、こういう場所があることにまず驚きました。会場に奥に設けられている野外ステージも度肝を抜く大きさ。少年少女たちによる合唱のときはなんと7000人近くの人(+オーケストラ)が上がるというのですから、想像してみてください。これだけの人数の歌声を──しかも合唱ですよ!──ひとまとめにすること自体、至難の業でしょう。ステージの橋に立つ少年少女から指揮者の動きを見るのも大変そうですし。

開会時間の午後2時ちょうどに到着したのですが、現地ガイドの不手際というか、事前のリサーチ不足というか、入り口を間違えたようです。結局、席にすわるまで30分以上も、人ごみの中を歩かされたのは残念でしたが、ステージには数百人から数千人の歌い手が入れ代わり立ち代わり上がってきます。そして、15分ほど歌い次の演目にという流れなのですが、歌によっては、聴衆のほうも一緒に歌ったり手拍子を送ったりと、言葉では表現できない一体感が伝わってきました。なかには、全員が口ずさんでいる曲もあり、ひょっとすると国歌かと思いきや、実際は違ったりします。それにしても、これだけの人数がそろってアカペラで歌える曲がいくつもあるというのも大きな驚き。日本にそういう曲があるのかなぁとふと考えたのですが、『ふるさと』くらしか思い浮かびません。それだって、1番はともかく、2番、3番となると、ソラで歌詞が出てくるかあやしいものでしょう。

 

私たちが会場にいられるのは午後5時半まで。それから夕食を済ませホテルに戻ったのは8時を回っていましたが、テレビのスイッチを入れるとまだ中継が流れていました。結局終わったのは10時を回っており、なんと8時間以上も続いていたことになります。しかも、朝からずっとCMなしで中継していたようですから、これもまたすごい! その夜遅く、EURONEWSのニュースでも報じられていましたので、ご参考までに。
https://www.euronews.com/2019/07/08/tens-of-thousands-of-estonians-perform-mass-folk-singing