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キューバ最大の国家行事「メーデー」に遭遇

2018年5月1日
キューバ滞在の最後の日。大きなお土産を手にすることができました。といっても、「もの」ではありません。「こと」です。

朝テレビをつけると、地元の局はどこも「メーデー(Primero de Mayo)」一色。日が昇り、空が明るくなったと同時に、「革命広場」で大規模な集会が始まったようです。キューバ全土からやってきた90万もの人々が行進するさまは迫力満点、しかも、どの人も笑みをたたえています。

社会主義の国ですから統一が取れているのは当然でしょうが、北朝鮮のように“強いられた風”ではありませんし、旧ソ連・東欧のような暗さは微塵も感じられません。踊り抜きのリオのカーニバルといえばわかりやすいでしょうか。唯一カーニバルと違うのは、式典冒頭の演説。つい半月ほど前新しく国家評議会議長(元首)に就任したミゲル・ディアスカネルでした。そのあとは、前任のラウル・カストロとともに満面の笑顔で壇上に立ち、キューバ国旗を振っています。その前を次から次へ、人々が旗を振りながら横断幕を掲げながら行進していく人々も皆笑顔。ラテンの国であることを改めて実感させられました。

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式典の最後に、「インターナショナル(国際労働者協会)」を全員で歌っていました(下記
YouTube の1:51:00~1:53:50 あたり)。
https://www.youtube.com/watch?v=hySkTNtFA00
この曲を最後に耳にしたのはもう40年以上前のことですが、こちらもまたキューバ音楽独特のリズムが反映してか曲調が明るく、どこか違った風に聞こえてきます。日本語の歌詞「起て 飢えたる者よ いまぞ日は近し 醒めよ 我が同胞(はらから) 暁(あかつき)は来ぬ 暴虐の鎖 断つ日 旗は血に燃えて 海を隔(へだ)てつ我ら 腕 (かいな)結びゆく いざ闘わん いざ 奮い立て いざ あー インターナショナル 我らがもの……」とはストレートには結びつきません。試しに、聞き比べてみてください。
https://www.youtube.com/watch?v=KFlGfHCCZdQ

IMG_2118そのあと「オビスポ通り」に出てみましたが、休日のため、午前中はほとんどの店が閉まっているようでした。見ただけではわかりませんが、国営の店もけっこうあるのですね。お土産を買おうと、何軒かお店をのぞいてみました。定番のTシャツを探すと、ユニークな絵柄のものもいくつかあります。さっそく買おうとサイズを見ると、どれを取 ってもLサイズ。「Mはありませんか」と尋ねると、「この商品はLだけなんです」。そんなことあり得ないと思い、再三聞き直しても答えは同じ。ほかの商品も同様で「これは男性用のSしかありません」……。日本のように、きちんとした品ぞろえ、というか品
作りをしていないようなのです。「なければあきらめればいいじゃない」──やはりここは南国、それもキホン社会主義の国なんだなと改めて実感しました。

途中、のども渇いたので、ホテル「アンボス・ムンドス」と並ぶヘミングウェイゆかりの店「ラ・フロリディータ」に立ち寄ります。砂糖抜きのダイキリ「パパ・ヘミングウェイ」を1杯ひっかけ、カウンターいちばん奥にある銅像の隣にすわってみました。ここがヘミングウェイ指定席だったそうで、えらくリアルな感じがします。

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午後2時半にホテルにガイドさんがピックアップにやって来て、ハバナ最後のスポット=革命家エルネスト・‟チェ”・ゲバラ(アルゼンチン・コルドバ生まれ)の足跡をたどろうと、「カバーニャ要塞」「ゲバラ第一邸宅」の見学へ。そこでゲバラが少年時代からラグビーをしていたことを知り、急に近しく感じました。

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持病の喘息を克服したいとの思いからだったようですが、ほかにもいろいろなスポーツに挑んだといいます。でも、ラグビーには強い情熱を向けたようで、ブエノスアイレス大学で医学を学んでいた頃も、友人とともに『タックル』という雑誌を編集・発行していたそうです。

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DSC06528博物館で知ったことがもう一つあります。1959年7月、革命から半年後にゲバラが
来日したとき、広島の平和記念公園と原爆資料館を訪れていたのです。広島から妻に送った絵ハガキには、「平和のため断固戦うには、この地を訪れるべきだ……」と書かれていたといいます。

 

 

そして、キューバに戻ったゲバラは、カストロに原爆の実態を報告するとともに、医師という立場から、その恐ろしさをキューバ国民に伝えたとのこと。キューバでは現在も、毎年8月6日と9日に国営放送で特別番組を流し、小学校では広島・長崎への原爆投下について教えているのだそうです。メーデー当日にキューバにい合わせた上に、ゲバラの知られざる生涯にも触れることができ、今回のキューバの旅は大きな成果がありました。

最後に、ゲバラの言葉の中で心に響いたものを二つ。
「人は毎日髪を整えるが、どうして心は整えないのか?」
「人間はダイヤモンドだ。ダイヤモンドを磨くことができるのはダイヤモンドしかない。
人間を磨くにも人間とコミュニケーションをとるしかないんだ」

夕方の便でメキシコシティーまで戻り、ANAの成田行きに乗り換えます。その間、出
発前に読んでおこうと思っていたキューバの歴史を書いた本をひもといてみました。

1492年、この地を「発見」したスペイン人が先住民をいとも簡単に滅ぼし、1511年
から完全な支配下に置きます。以来およそ400年、1902年になってようやくスペインから独立を勝ち取ります。しかし、その後はアメリカの半植民地状態が続き、実質的な支配者として半世紀ほど君臨。それにピリオドが打たれたのは1959年、キューバ(社会主義)革命によってでした。

当時キューバはアメリカの傀儡【かいらい】だったバティスタ大統領が独裁政治をおこなっていましたが、1956年、メキシコから船で上陸したフィデル・カストロ、エルネスト・“チェ”・ゲバラ等が国内に組織した革命軍を率いて内戦に突入。59年1月、バティスタを国外に追放し、ようやく真の独立を勝ち取ったのです。そして同年5月から徹底的な農地改革を実施したのですが、アメリカが経済封鎖措置を講じられたため、当時アメリカと全世界で対立していた旧ソ連に接近、60年には正式な外交関係を結びました。

その後ろ盾も得ながら、キューバ政府は国内からアメリカ資本の全面排除を図ります。
結果、石油精製会社、製糖会社、電話会社、金融、商業など大企業のすべてを国有化しました。アメリカはただちに報復措置を講じ、国交も断絶。その結果、アメリカからの車の供給もストップしたのです。

旧ソ連の援助でそうしや苦境をなんとかはねのけ、国家の建設にいそしみます。1989年、旧ソ連が崩壊してからは援助もほとんどゼロになりましたが、独自の路線を貫き今日に至っています。現在世界全体で社会主義の体制下にある数少ない国(ラテンアメリカでは唯一)の一つですが、なぜか、国民はそれほど不満を感じていないようです。国の経済を支えているのはいまもサトウキビですが、それに加え観光が大きく伸びています。また、医療のレベルが非常に高く、医薬品の輸出も貢献していると聞きました。

たしかに、国民性もあるのでしょうが、当地の人たちの表情を見ていると、かつての東欧=社会主義国特有の暗さは微塵も感じられません。それは1にも2にも、いまの暮らし向きにそこそこ満足しているからだろうと思います。お金があっても、家族仲よく暮らせなければ、近所の人や職場の仲間と親しく話せなければ、ちっとも楽しくはないでしょう。その国はその国の「満足水準」というのがあるようで、その点、日本は少し贅沢が過ぎるような気もします。

 

スモーカーとして、本場の葉巻農場を訪問

2018年4月30日
タバコを吸い始めて今年で51年目。そんな私がタバコの本場・キューバにやってきたのですから、やはり葉巻のことを学ばずにはいられません。ハバナから120km、車で3時間かけ、「ビニャーレス渓谷(Valle de Vinales)」というところに行きました。高速道路で2時間、そのあと一般道を1時間走るのですが、車が断然少ないキューバでは、高速道路でも自転車、馬車、歩行者の姿が当たり前のように見られます。皆、堂々と、また悠々としているのがキューバらしいですね。

軽い傾斜の山道を登り、到着したのは渓谷を見渡せる展望台。この一帯は独特のカルスト台地で、その独特の美しさで世界自然遺産にも認定されています。もともとは、スペイン人がワインの生産地にしようと考えたらしく、地名のビニャーレスというのも、Vinales(=ぶどう棚)から来ているのだとか。ただ、気候条件が合わずブドウはあきらめ、葉タバコを栽培することにしたようです。

カルストですから、その地下には鍾乳洞ができているのが常。私たちもその代表ともいえる「インディヘナの洞窟」を見学しました。つい3週間ほど前に観た山口県の秋芳洞と違い、ボートに乗って見学します。しかも、乗ったまま出口に出られるのです。それにしても、自然の造形のすごさは人智でははかり知れないものがあります。

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昼食後、この辺りでは一番大きいという「葉巻農園フィンカ・ケマド・デル・ルビ」を訪ねます。葉っぱの刈り取りは終わったばかりで、畑は赤い土で覆われていた畑しか見えませんでしたが、刈り取ったタバコの葉を乾燥・発酵させている大きな倉庫のような建物に案内してもらいました。オーナーの息子さんがまず葉巻をくれ、それをくわえながら、タバコの栽培から葉の出荷まで説明してくれるのを拝聴。

葉タバコの種は、すべての植物の中で2番目に小さいのだそうです。半年かけて育てたものを刈り取り乾燥させたあと発酵させて香りをつける、その後1枚1枚吟味しながらまずはクラス分けする。どのクラスでも、巻くのはいい部分だけなのだとか。
葉巻として使えない部分は切り落として、紙巻タバコの原料として出荷するのですが、その切り落とされ方が、いかにも十把ひとからげといった感じです。私もスモーカーのはしくれですから、知識としては知っていましたが、目の前で、そうした部分をカッターでばっさばっさ切り落としていくのを見ると、一瞬うーんと、考えさせられてしまいました。
先ほどもらった葉巻は、たしかにいい香りがします。

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IMG_2063見学を終え、母屋に案内されると、オーナーのベニトさんの歓迎を受けます。「葉巻に合うのはラムだよ」と言いながら、ショットグラスに注いでくれました。気さくな笑顔が素敵なおじさんです。ストレートのラムを口に飲んだあと吸う葉巻は一段とおいしく感じます。値段のことを考えなければホント、葉巻に変えたいとも思いました。

刈り取りの終わった葉タバコの畑の隅に、花を咲かせた葉タバコが2、3本、残されていました。楚々としたきれいな花です。こんなきれいな花を咲かせる葉タバコが、人間 に悪さをするわけない! と身勝手な確信さえ抱くほど。

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ほかにもこの農園では、マンゴーやカカオなど、これまで原木を見たことのない木を間近で目にすることができ、有意義な1時間半を過ごしました。そういえば、昼食を食べた地元のレストランでは、生まれて初めてハチドリも観ることができましたよ。

ハバナ旧市街を歩きに歩く

2018年4月29日
今日はまる1日かけて、ハバナの町を歩き回りました。朝から気温は27、28℃という中だったので、さすがに疲れました。ハバナにはあちこち見どころがありますが、集中しているのは旧市街。車が走っている道路はどこもかしこもアメ車、アメ車、アメ車!半分以上は観光用のタクシーとして使われているようです。もちろん、一般市民用にのタクシーも走ってはいますが、そちらは観光用ほど派手派手しさがありません。いかにも生活用というか、塗装もくすんだままだったり……。もちろん、世界中どこでも見かける黄色く塗った車も走っています。

ホテルを出て「パルケ・セントラーレ(中央公園)」から路地を入り、目抜き通り「オビ スポ通り」に入ります。東西を貫く1kmほどの通りですが、歩行者天国になっているので、車と接触したりする心配はありません。また、自転車タクシーや馬車も入れないようで、歩行者がのんびり歩いているだけです。しかし、道路がボコボコというか、引っ 込んだり飛び出ていたりで、気をつけないと転んだりよろけたり足を取られたり。歩きにくいことと言ったらありません。

DSC06021ヘミングウェイの定宿「アンボス・ムンド」の中はこぎれいで、要所要所にその写真
が貼られています。なんといっても涼しいのがありがたい! そこから2ブロック進むと「アルマス広場」。“独立戦争の父”と言われるセスペデスの立派な像が建っています。その背後には「旧総督官邸(市立博物館)」の立派な建物が。1519年、ハバナの町が作られたとき最初のミサがおこなわれたという教会の横を抜け海のほうに近づくと、左側に要塞があり、右側に、なんと支倉常長の立派な銅像があるではないですか。

 

 

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その周りに建てられている碑文を読むと、仙台藩主・伊達政宗の命を受け遣欧使節としてローマに向かう途中、ハバナに立ち寄ったことにちなみ、仙台育英学園が創立100周年記念事業の一環として像を寄贈したようです。その周囲もきれいに整備され、さながらミニ公園のような趣になっていましたが、足を踏み入れるのは日本人だけかもしれません。それにしても、支倉常長がこの地を踏んだ初めての日本人だったとは……。

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近くのショッピングモールに立ち寄り、お土産品を少々買ったりしながらひと休み。そこからこんどは「カテドラル」に向かいます。1704年創建ですが、中には入れませんでした。そこからコロニアル風の建物に囲まれた「ビエハ広場」へ。お店もちらほらありましたが、長く放置されていたとのことで、これから整備されるのでしょう。

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ビエハ広場を後にし、自転車タクシーに乗って、かつての鉄道中央駅近くに建つ倉庫をK利用して作ったサン・ホセ民芸品市場に建物の前には蒸気機関車が置かれていました。いちばん奥は海に面しており涼しい風も入ってきますが、中は小さな店がびっしり。絵画やオブジェなどアート系の物が目立ちますが、土地のお土産から民芸品、Tシャツなど、ありとあらゆる物が並んでいました。

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IMG_E4219そこからホテルに戻ったのですが、再び自転車タクシーに。ただ、安いのはいいのですが、道路がデコボコなので、あわやという場面もしばしば。しかし、運転手は上手にそれを避けながら私たちを乗せて走ります。交通規制があるのか、ホテルの真ん前までは乗り付けられないらしく、近くで降りて歩きましたが、値段の安さ120円ほど) にびっくり。それでもこれは外国人旅行客向けの料金で、ハバナ市民はそれこそ20円、30円といったところなのでしょう。

“ヘミングウェイさまさま”のキューバ

 2018年4月28日
ハバナといえばヘミングウェイ、ヘミングウェイといえばハバナというくらい、両者の関係は密接です。それまでアメリカ・フロリダ州のキーウェストに住みながら、趣味の釣りを楽しむため、キューバに足しげく通っていたそうです。何せ、キーウェストからハバナまではわずか140km。飛行機に乗ればそれこそあっという間で行ける距離です。彼の定宿は、旧市街にある「アンボス・ムンドス(Ambos Mundos)」というホテル。
通りに面した最上階の角部屋がお気に入りだったようで、空きがあればかならずそこに滞在し、執筆と釣りにいそしんだとのこと。

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そして、1939年、スペイン内戦の取材から戻ると、3人目の妻とともに移り住むことに。ハバナの南東にあるフィンカ・ビヒアに9000冊の本、57匹の猫、4頭の犬、そして妻たち(1944年からは4人目の妻に)とともに、22年間住んでいました。広大な敷地に建つ自宅は、『武器よさらば』で稼いだ印税で購入したといいます。

DSC05844そこから毎日のようにコヒマルという漁村に出て釣りを楽しみながら、『誰がために鐘は鳴る』『老人と海』を書き上げたそうです。革命後キューバを離れたため、現在は「ヘミングウェイ博物館」になっています。

 

コヒマルというのは小さな漁村で、ヘミングウェイが通っていた当時とさほど変わっていない様子。村の中にある「La Terraza」は、ヘミングウェイがしょっちゅうやって来て、お酒を飲んだり食事をしたりしていたといい、観光客も訪れるコースが組まれています。

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キューバには観光資源が多々ありますが、「ヘミングウェイ」はアメ車とともに、その中でも筆頭格といった感じがします。先のホテルや、食べたり飲んだりしに行った店、そのメニューがいまもなお世界中の人を惹きつけているのですから。まさに“ヘミングウェイさまさま”でしょうか。アメリカからの実質的独立をめざして革命を成功させたキューバですが、いまなおその「アメリカ」で稼いでいるのは歴史の皮肉としか言いようがありません。

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コヒマルで時間があったので、漁船が係留されているっぷちまでガイドさんに連れて行ってもらいました。すると、その一角で「サンテリーア」の宗教儀式がおこなわれています。「サンテリーア」は西アフリカに起源を持つ宗教で、奴隷としてキューバに連れてこられた人々が持ち込んだものだそうです。キューバやドミニカ、ハイチといったカリブ海諸国は住民のほとんどは、16~19世紀にかけて、アフリカから奴隷として連れてこられた黒人がそのルーツ。当然、彼らも信仰を持っていたわけで、それが今日まで営々と続いているわけです。

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彼らを支配していたスペイン人はそうした信仰を禁じカトリックに改宗させようとしまし
た。しかし、表向きはキリスト教を信じるふりをしながら、密かに受け継がれていた「サ
ンテリーア」がいまなお息づいているのです。ハイチのブードゥー教に似て呪術的な
要素が強い(いけにえを捧げたりする)ため、白人にはうさんくさく見られているようですが、何せ先祖代々の信仰ですから、そう簡単には廃れません。

 

IMG_E4190ハバナに戻った私たちが行った先は「国立動物園」。「国立」などというと、いささかも
のものしい印象を受けますが、社会主義の国ですから、キホンすべては国立です。ところが、この動物園が出色。広大な敷地の中をバスに乗って走るのですが、どの動物もたいそうな数がいるのです。シマウマに至ってはおそらく200頭近いのではないでしょうか。

 

もちろん、キリンもいましたよ(バスで、遠い側の席にすわっていたので写真は撮れませんでしたが)。高くて頑丈な柵で囲まれたエリアには20頭近くのライオンが、昼ひなかだというのに、皆起きています。こういう時間帯で目を覚ましているライオンを目にしたのは初めてですが、そこかしこにいるのを見ると、なんだかうれしくなってしまいます。絵になりそうな場所に近づくとバスが停車し、写真もゆっくり撮らせてくれるなど、社会主義国らしからぬサービス精神も発揮してくれたのには感心しました。

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今日の午前中は、市民が食料品を買い求める「市場」をのぞきました。キューバでは、パンや砂糖、米、卵、牛乳などは配給制になっています。「配給手帳」を持って配給所に行くと、一定の量が無料でいただけるという仕組みです。

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DSC05806れ以外の肉や野菜・果物は市場で購入しますが、値段はべらぼうな安さ。これもアメリカの経済制裁の“おかげ”とでも言えばいいのでしょうか、農畜産物はすべてオーガニック。日本の野菜や果物のように美しい形もしておらず、色もくすんでいたりしますが、質的には安心です。「世界幸福度指数」というデータがありますが、キューバは6位(日本は95位!)。物は、量より質なのかもしれません。

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そんなキューバですから、音楽も陽気そのもの。アメリカが我が物顔でこの国を支配していた時代は、もっぱらそちらのほうが強調されていたのでしょう。夜行った「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ(Buena Vista Social Club)」のコンサートは、食事をしながらライブを聴くというスタイルですが、3時間近く、心行くまで楽しむことができました。

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私たちが泊まっているホテルからライブがおこなわれる「オテル・ナシオナル」までは海沿いの道を走っていきますが、土曜日の夜だったこともあり、防波堤の上には人がびっしり。ビール片手のグループもいれば、家族連れ、カップルなど、近在の人は皆ここに集結しているのではないかと思われるほどの人出でにぎわっていました。

驚いたのは帰り。夜の11時を過ぎているというのに、行きに見たときより人の数がさらに増えているようです。キューバの人々は週末になると、こういう時間の過ごし方をするのですね。バーもなければカラオケハウスもない、コンビニもない……となれば、こういうシーンは不思議でもなんでもありません。

真っ赤なオープンカーが出迎えてくれたハバナ空港

2018年4月27日

朝、メキシコシティーからインタージェット便でハバナに向けて飛び立ちました。4時間
足らずでハバナ着。モダンなメキシコシティーの空港とは大違いで、さながら日本の
地方空港(それもふた昔ほど前)の趣です。

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キューバの首都ハバナは、町中どこに行ってもアメ車だらけとよく言われます。それも、1950年代の車です。映画やテレビで何回か観たことはあるものの、空港ビルから一歩外に出て、実際にそれが目の前に停まっていたり走っていたりするのを見るとやはりびっくり。「キャデラック」とか「ダッジ」「ビュイック」「シボレー」あたりなら名前くらいは知っていますが、「プリムス」とか「マーキュリー」「サターン」となると、ほとんど小 林旭の『自動車唱歌』の世界です。いまの時代、世界中のどこを探しても、こんな車が走 っているところはないでしょう。現在世界を席捲しているドイツ車も、日本車の姿もまったく見かけません。

もちろん、これにはしかるべき理由があります。1959年の「キューバ革命」で、アメリ カとは国交断絶。それと同時に経済封鎖が始まったため、アメリカからの車の輸入は完全にストップしれしまいます。それに代わって、60年代以降は旧ソ連製のラーダという車が入ってきました。経済制裁自体はいまでも続いているのですが、いまやソ連も存在しないので、いったいどこから車を輸入するのかということになります。でも、なぜかドイツや日本の出る幕はなし。キューバの車事情がとてつもなくユニークなのは、そうした背景があるのですね。ちなみに、いまキューバを走っているのは、先に名前をあげた1950年代のアメリカ車、旧ソ連車、そして韓国と中国の車だけです。

というわけで、私たちが旅行会社にお願いしておいた空港・ホテル間の送迎もアメ車、それも真っ赤なオープンカーでした。スーツケースをトランクに入れて乗ろうとしたのですが、外側からはドアが開かないようで、ドライバーが内側に手を伸ばし開けてくれます。2ドアですから、前のシートを倒し、わずかな隙間から後部座席に移動。もちろん、シートベルトなど、ありません。

IMG_4133運転席前のインパネもオールドスタイル。コラムシフトのレバーも皮や塗装が剥げ落
ち、大丈夫なの? と、少し不安になります。でも、これが立派に走るのです! 排ガス
規制などない時代の車ですから、排煙をがんがん出します。エンジン音もかなりの大
きさで、「こういう時代もあったんだ~」という感心と驚きが。市内に向かう高速道路も
ガラガラです。車それ自体の数が少ないのですね。

IMG_4135前を走る車、横から追い越していく車、すれ違う車も、半分近くは私たちと同類のアメ 車。途中で立ち寄った自然公園内の休憩所にも、何台か並んでいました。道路事情が悪いためパンクもしょっちゅうのようで、そのときも1台、修理の真っ最中。でも、そういう車に乗ることで得られる興奮を思えばご愛嬌というか、許されてしまいそうです。

休憩所をあとにし「革命広場」に。北京の「天安門広場」とどちらが広いかはわかりませんが、5月1日のメーデー式典の予行演習がおこなわれていました。といっても、緊張感のゆるさは否めません。ここはラテンもラテン、キューバですからね。DSC05773

周囲には国の建物が立ち並んでいますが、情報通信省の壁面にはファイデル・カストロらとともに戦ったカミーロ・シンフエゴスの肖像が描かれています。シンフエゴスは革命直後、飛行機事故で亡くなったとのこと。肖像の右下に、“Vas bien, Fidel(=いい
だろ、フィデル)”という言葉があるのを見ると、その気さくな性格がうかがえ、カストロ
とも仲よしだったことがわかります。

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DSC05771もう一つ、内務省のビルにはゲバラの肖像が。こちらの右下には、“Hasta la victoria
siempre(=常に勝利に向かって)”とありました。ゲバラはいつどんな状況にあっても
死を恐れず、革命に向かって前進しなくてはいけないという考え方をしていましたが、
その心情がよく示されているのでないでしょうか。空港からここまでくる途中、あちこち
でゲバラの肖像を目にしましたが、ここで見たゲバラはなんともユニークな印象を受
けます。

そこから10分ほどで宿泊先のホテル・サラトガに到着。由緒あるホテルのようで、チェックインで応対してくれた女性スタッフもしっかりした印象です。キューバは、インターネットがまだ普及して間もないので、wi-fiが確実に使えるかが気がかりでしたが、それも大丈夫そうで、とりあえず安心しました。

夕食は、ガイドさんに教えてもらった近くのレストランで。あまりの量に圧倒され、半分以上は残したでしょうか。もったいないからと一部をテイクアウトしましたが、こんな量の食事を毎日しているとしたら、驚きです。

本場のタコスのおいしさに舌を巻く!

2018年4月26日
朝から下半身、とくに太ももと膝に鈍い痛みがあります。前日の「月のピラミッド」に登
ったのが響いているのでしょう。しかし、そんなことに負けてはいられません。今日は
朝から博物館と動物園の見学です。私たちの泊まっているホテル周辺は、広大な「チ
ャプルテペック公園」。その一角に、当地では最大の観光スポットとされる「自然史博
物館」があります。

この博物館の規模の大きさは世界的に見ても屈指と言えるでしょう。テオティワカン、
マヤ、アステカなど、古代から中世に至るまでの遺跡から発掘された品々が、全部で
12の部屋に分けて、所狭しと展示されています。エジプトやギリシャほど、私たちに
はなじみがないものの、それと匹敵する、あるいはそれ以上に発達した文物の存在
を目の当たりにすると、メキシコ文明の奥深さを感じざるを得ません。

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ペルーのインカ文明やその遺跡マチュピチュもそうでしたが、この地球上で、場所こ
そ違え、数千年前からこれほど高度の文明が発達していたことを知ると、眼前の出来事ばかりに気を取られながらちまちま生きている自分がなんとも小さく見えてきます。

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ただ銀だけが目的でこの地にやってきたスペイン人も、初めてメキシコの文明に触れ
たときは腰を抜かしたにちがいありません。しかも、武力でもってそれを根こそぎ破壊
してしまったのですから、当時のメキシコ原住民たちは声も出なかったのではないで
しょうか。

 

ほぼ午前中いっぱいかけて「人類学博物館」を見終えたあとは、同じ園内にある「動物園」へ。1923年の開業ですが、生物学者が設計しただけあって、広々としたつくりになっています。動物を保護する伝統は15世紀にこの地を支配していたアステカ王 国以来のものだそうで、動物たちがのびのびしているのもそのためでしょう。ジャイアントパンダの繁殖を手がけた最初の施設の一つでもあるとのこと。中心街のすぐ近くにありながらそうした時間と場所が与えられている動物たちは幸せそうに見えます。
キリンもどこかしらのびのびとした表情を見せてくれました。

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ちょっと遅めになったランチはメキシコ料理の店。メキシコ料理というと、タコス、トルテ
ィーヤ、サルサソース、ナッチョスなどを思い浮かべます。最近でこそメキシコ料理の店も目につくようになったとはいえ、まだまだ数は多くないでしょう。また、食べられるものも本格的なのかどうかおぼつかないところもあります。

というわけで、ガイドさんおすすめのタコス専門店に案内してもらいました。まわりはそこそこの高級住宅地らしく、それほど店が集中しているわけではありません。店はユニークなデザインの建物の2階。日本ではタコスといっても、半分に丸めた固い皮にひき肉やこまかく刻んだ野菜が載っているものがほとんどですが、ここでは、何を載せるかはこちらの注文次第。もちろんその素材が大きな皿に並べられてくるのですが、そこから食べたいものを選んで、やわらかい皮に載せ、さらに3~4種類あるソースの中から自分の好きなものを選んでかけた上で丸めながら食べます。素材もソースも上々、ビールとの相性も抜群で、これほどおいしいタコスは初めてでした。

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DSC05623食後、アステカ帝国の中央神殿跡である「テンプロ・マヨール」や「ラテンアメリカ・タワー」「メトロポリタン大聖堂」「三文化広場」なども訪れ、2日間、めいっぱい詰め込んだ旅となりました。2000mを超え酸素も薄い土地だけに、そのときは気づかなくても、あとになってジワジワと疲れが襲ってくるのではないかという心配も無きにしもあらず。
余裕があれば、もう少し時間を取ってゆっくり見てみたいところです。

【メトロポリタン大聖堂】

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【テンプロ・マヨール】

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【三文化広場】

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メキシコシティー市内観光の始まり

2018年4月25日

DSC05391朝食はホテルの中庭にあるレストラン。スペースの半分は室内ですが、半分は外に
テーブルと椅子が並んでいます。ただ、この時期は日の出が遅いようで、7時ごろは まだ暗いため、朝食という気持ちになれません。やっと8時が近くなって下に降り、おいしく食べることができました。充実した朝食は元気のもと)、とくに旅先ではそれを強く感じます。

 

午前中はまず、郊外にある「国立自治大学」へ。郊外といっても、車で20分ほどですから、都心からはほぼ一本道で行けます。1551年9月に王立メキシコ大学として創立されたといいますが、これはペルーの国立サンマルコス大学に次いで、アメリカ大陸で2番目に古いとのこと。いまのキャンパスは2007年に整備されたそうですが、もう世界遺産になっているのには驚きました。大学があるのは、1968年に当地で開催されたオリンピックのメインスタジアムの向かい側で、町全体が大学のキャンパスといった感じがします。

そうなんだ、アメリカ大陸ではアメリカ合衆国などというのは新参者でしかないという事実に、改めて気がつかされます。ただ、合衆国との根本的な違いは、片やラテン系のスペイン、片やアングロサクソン系のイギリスが宗主国だったこと。歴史に「たら・れば」はないといいますが、アメリカ合衆国も、最初に足跡を残したスペイン人や、一時期かなり広い地域を支配していたフランス人がそのまま支配し続ければ、いまとはまったく趣の違う国になっていたことでしょう。

この大学の中央図書館に素晴らしい壁画が描かれていると聞いていたので、案内してくれるよう事前にリクエストしておいたので連れてきてもらったのですが、たしかにそのとおり。

東京駅の真ん前にあった旧の丸ビルほどの大きな・高さがある建物の4面すべてが壁画で、フアン・オゴルマンの作品。一人の画家がよくもまあこれだけ大きな作品を描けたものです。制作日数はおそらく1年、いやそれ以上かかったでしょうね。

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DSC05402これ以外にも大学本館や学長棟など、キャンパス内のほとんど建物に大小の壁画が
描かれています。ダビッド・シケイロスの『民衆から大学へ、大学から民衆へ』『腕と鉛筆』という有名な作品もありました。彫刻などのオブジェもそこここに展示されており、大学というより野外美術館にいるような錯覚におちいりました。向かいのオリンピック・スタジアムに描かれたディエゴ・リベラの壁画も印象的です。岡本太郎や北川民次もこうした作品に少なからず影響を受けたと言われていますが、たしかに大阪の万博の『太陽の塔』など、そんな気がしますね。

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そのあと町の中心に戻り、午後はまず「テオティワカン遺跡」を訪れました。シティからはいちばん近くにある遺跡ということで、時間の関係上、今回の遺跡見学はここだけ。期待に燃えながら行ってみると、素晴らしいところでした。

IMG_1911紀元前2世紀に作られたという宗教都市国家テオティワカンは、最盛期20万もの人
が暮らしていたといいます。さもありなんと思ったのは、遺跡の広大さ。いま地上に残
され観光スポットになっているのはそのごく一部でしかありません。ほかにも大小さま
ざまな神殿や墓所などさまざまな施設があったのでしょうが、発掘されていないのか破壊されてしまったのか……。それでも、今回見た「太陽のピラミッド(高さ65m、底辺220m×230m)」「月のピラミッド(高さ47m、底辺130m×155m)」、「死者の道(南北を貫くメインストリート。長さ4km、幅40mほど)」を見ても、当時としては度肝を抜くような壮大な空間だったことがよくわかります。
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二つの大きなピラミッドのほかに、「ケツァルコアトル(羽の生えたヘビ)」「ケツァルパパロトル」「ジャガー宮殿」という三つの宮殿(の一部)があります。神官の住まいだったとも言われますが、これがまた、想像以上に美しく、とくに石の壁に彫られた人物や動物の表情の豊かなことといったらありません。柱に彫られている鳥や人物の目が黒曜石で真っ黒なのが印象的でした。

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DSC05437私は年齢も顧みず、「月のピラミッド」に登ってみました。最初はそれほどでもありませんでしたが、途中からは予想以上の急角度で一瞬ためらいました。それでも、臆する
ことなくチャレンジ。最後はほとんど這うようにして途中の最高地点(それ以上は登る
ことが禁じられています)まで行きました。ただ、さすが2300mを超える高地ですか
ら、息が切れそうでした。家人は最初からパス。マチュピチュのときもそうでしたが、最
近はどうも、この手の高所を避けているようです。しかし、上から見下ろすと、この遺跡の広さが実感できます。それが疲れを忘れさせてくれるのですがね。

テオティワカンから市内に戻ったあとは、「オペジャス・アルケス宮殿」や「ディエゴ・リベラ壁画館」「シウダテラ市場」などの見学です。宮殿もそうでしたが、どこに行っても「壁画」が目につきました。

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メキシコはご承知のとおり、けっこう地震が多い国です。今日車で走った街中も、そこ
ここにその痕跡が見られました。日本のようにきっちり元に戻す、あるいは作り直すと
いったことはなされていません。そのため、車の中から通りを見ると傾いたままの建
物があったりします。まあ、石造りなので大丈夫なのでしょうが、もう一度地震に襲わ
れたら……と心配にもなります。

夕食は、街の中心部、かつては銀行やら郵便またかつてのスペイン人の屋敷などが立ち並ぶエリアの一角にある老舗のレストランです。入ると目に飛び込んでくるのが壁にびっしり架けられている肖像画。シャンデリアも高価な感じがします。

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隣のテーブルは家族・親族が一堂に会してのバースデーディナーなのか、彼らの周りに楽団が立ち、さまざまな曲を演奏していました。マリアッチではなさそうですが、10人ほどの編成でけっこう本格的。こういうお店があちこちにあるようで、家族のつながりを何より大切にする欧米的な志向が深く根づいている印象を受けました。これもまた、かつての宗主国スペインが残していったものなのでしょう。

直行便でも遠~い! メキシコシティー

2018年4月24日


ANAが昨年から成田・メキシコシティー間に直行便を就航させたことを知った時点で、マイレージの特典航空券を使っていくことにしていました。2月の初めごろ予約を入れたところばっちり押さえられたのはラッキーでした。行きと帰りの日にちさえ決めれば、その途中にキューバを挟み込むだけ。全行程が10日間なので、メキシコシティー3泊+ハバナ4泊と決めます。帰りは乗り継ぎなので機中2泊となり、9泊10日のプランで組み立てることにしました。

今回はどちらも初めての国ですし、メキシコは安全面でやや心配もあったので、両国とも、現地の旅行会社の空港送迎や市内観光の手配をお願いしました。こちらで考えたプランを向こうで検討してもらい、無理のあるところは修正やら入れ替えやらをほどこします。実際にツアーがスタートしてからも、「ここは飛ばしますか」とか「こっちにも立ち寄ってください」といったやり取りをしながら現場で適宜調整していくということで話はまとまりました。

初日の今日は、成田から12時間30分のロングフライトでメキシコシティーまで。旅行会社のスタッフが私たちの名前を書いたボードを手に持って待ってくれていました。
もしいなかったらどうしよう……という不安はありませんが、やはり実際に目にしたときの安心感はひとしおです。ホテルに行く前に立ち寄ってほしいところがあったので、そちらに回ります。

DSC05350まあ、普通の観光ツアーではあまり行きそうにないスポットなのでしょうが、幅の広い
(4車線×2)高速道路をまたぐ歩道橋の上から、中央分離帯の真ん中にそびえ立つ
5本の巨大な塔(「サテリテ・タワー」)が目的の場所。世界的にも有名な建築家ルイ
ス・バラガンとその友人2人が1957~58年に作ったものだそうです。たしかに、60年も前のことですから、斬新なアイデアだったにちがいありません。どの角度から見るかによって3本に見えたり4本に見えたりするのも面白いですが、何よりもその色彩のあざやかさが長旅の疲れを癒してくれました。

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そこを見終わりホテルに着いたのは夕方。チェックインカウンターから迷路のような廊下を行くと、ようやく私たちの部屋にたどり着きました。大きなバルコニーが付き、天井も高く広々としています。

夕方、ホテルの近くをぶらぶらしてみました。オフィス街らしく、会社を終えたビジネスマン、OLがいっぱい歩いています。幅の広い道路の真ん中が公園になっており、近代都市といった印象がします。街路樹もかなり密度濃く植えられており、気持ちがなごみます。多少気になるのは車の排気ガスの匂いでしょうか。

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メキシコシティーは、ガイドさんのお話では、猛烈な車社会だそうで、2800mの高さに広がる盆地なので、排気ガスがなかなか消えず、空もほぼ1年中、ガスで曇っているそうです。PM2・5に覆われてほぼ何も見えなくなる北京ほどではありませんが、やはり盆地特有の状況のようですね。まあ、地上を歩いている限りはそれほどシビアではないものの、それでも道路はびっしり渋滞。さしもの広い道路もかすんで見えます。

ついに完成した中国語版の「県民性」!

2018年4月15日
一昨年の春からスタートした企画がようやく“形”になりました。拙著『新 出身県でわかる人の性格』『鹿児島学』『新 不思議の国の信州人』など7冊、さらに新聞・雑誌等への寄稿したものを再編集し、中国語に翻訳した『細説日本』全4巻が完成したのです。

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全国を東西南北4つのエリアに分け、都道府県別に県民性や歴史・地理、独特の食べ物、中国(秦の時代から)と由緒のある観光スポットなどを紹介する内容で、読者ターゲットは、近頃どんどん増えている訪日中国人観光客。「日本を訪れる前にぜひ予習を」という狙いです。何せ人口が日本とひと桁違う国ですから、1000人に1人が買ってくださったとしてもかなりの部数になります。

再編集の作業はもちろん、私自身がおこなったのですが、これが予想以上に手間取り、版元の当代世界出版社(北京)に原稿を渡すまでにほぼ1年。さらに、翻訳作業に1年かかり、やっと刊行までこぎつけた次第。翻訳文のクオリティーを判断できないなど、歯がゆい部分もあります。それはそれとして、全4巻となると、形になってみるとやはり壮観です。

中国の出版事情も日本とよく似ているらしく、版元の編集長は「人口より、出る本の点数のほうが多いくらいで」と、ジョークを言っていました。そうした状況の中、売れるといいのですが……。
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「石見銀山」をあきらめ、広島へ

2018年4月12日
前夜テレビのニュースで、つい4日前この地方で起こった地震のため、「石見銀山」もかなり被害を受けていることを知りました。いちばん観たいと思っていた「龍源寺間歩【りゅうげんじまぶ】」(「間歩」とは鉱山の掘り口)も立ち入り禁止になっているというではありませんか。石垣や狛犬【こまいぬ】の台座が割れたり崩れたりと、映像で見てもたしかに危険な印象を受けました。

こうなると、今日の動きを練り直さなければなりません。結局、午前中は津和野で昨日回れなかった「森鴎外記念館」「乙女峠マリア聖堂」「太皷谷稲成【たいこだにいなり】神社」を訪れ、早めに広島に移動することに。

DSC05291「乙女峠マリア聖堂」は、津和野駅の近くにある小高い山の中腹にひっそりと建っていました。なぜ、こんなところに? と思いながら山道を5分ほど歩くと、なんとも質素な木造の教会がありました。「聖堂」の周囲にはいくとも石碑や石像が立てられており、その一つひとつに碑文が刻まれています。この「聖堂」は、1939年、この土地を購入したカトリック教会広島司教区が、殉教した隠れキリシタンを偲ぶため質素な記念堂を建て、それがのちに「聖堂」と呼ばれるようになったのだとか。

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幕末の1865年、長崎で隠れキリシタンに対する大規模な弾圧があり、長崎・浦上の信者153人を津和野への流刑に処したのです。彼らは、当時廃寺になっていた光琳寺に連行・収容されました。改宗させるために連日連夜厳しい拷問をおこない、最終的には37人が命を奪われたのだそうです。

「聖堂」の前を掃除する老女に挨拶しドアを開けて中を見させてもらうと、30畳足らずの広さしかありません。質素な祭壇をはさむ左右の壁に8枚のステンドグラスがあり、そこには拷問の様子が描かれていました。

「森鴎外記念館」は「乙女峠マリア聖堂」とは対照的に、すばらしくモダンな建築の建物です。津和野に生まれ育ったものの、10歳で故郷を離れ東京で陸軍軍医になった鴎外は、「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と遺言したそうです。そのため、墓地は東京・三鷹とここ津和野の寺院にあるのですが、津和野と鴎外とのつながりを事細かに示す展示は充実した内容でした。この夏、鴎外が留学したベルリンに行く予定があるので、現地でぜひ下宿して家を訪れてみたいと思います。

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DSC05301「太皷谷稲成〔たいこだにいなり〕神社」は、京都の「伏見稲荷大社」と同じような千本鳥居が山のすそを縫うようにして立ち並んでいるので、前日、山口から走ってきた道路からもはっきり見てとれました。ちょうど新緑の季節にさしかかっている時期なので、余計に朱色が冴えています。山の中腹から約300m続く石段を登ったところに本殿があるのですが、そのすぐ近くに駐車場もあるので、階段を上らなくてもお参りはできるようです。今日もまた天気はよく、ここから見渡せる津和野の町は素晴らしかったですよ。

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広島に出発する前に道の駅「津和野温泉 なごみの里」に立ち寄ってみました。地域住民のコミュニティーセンター的な感もありますが、天然ラドン温泉、レストラン、野菜市場、お土産屋、体験工房などから成っていて、けっこう客がやってきます。このひ休業していた温泉が開いていれば、もっと多いのでしょう。まわりも素晴らしい自然に恵まれ、津和野がリッチであることがよくわかります。

広島までは2時間少々。予定より4時間も早く着いたので、かの有名な「八丁座」で映画を観たりして過ごし、夜は流川の「さわ田」で、おいしい洋風夕食を楽しみました。