福岡→台北→嘉義→高雄を1日で移動

2017年10月15日

昨日は昼間がルワンダ、夜がメソポタミア、そして今日は台湾です。昨日ここでご紹介した二つの催しが福岡で開催されたが故に実現した旅といっていいでしょう。福岡というところは、日本の中にあって独特の立ち位置を占めています。さまざまな魅力にあふれた都市なのですが、それとは別に交通の便がメッチャいいのです。東京に行くより上海に行くほうが早いというのがその象徴で、中国、台湾、香港、韓国といった東アジアはもちろん、ベトナム、タイ、インドネシア、フィリピン、シンガポールなど東南アジア、さらに、夏だけですがヨーロッパにも、ここから飛び立つことができます。

 

IMG_2150福岡空港で国際線を利用するのは初めてですが、国内線ターミナルとはまったく別になっていて、場所も国内線ターミナルと滑走路をはさんだ向かい側です。まだ新しいだけあって、明るくて広めなのも快適でした。ただ、完成した当時は、十分に余裕があるはずだったのでしょうが、いまとなっては若干狭い感じもします。要するに、利用する人が予想をはるかに上回るスピードで増えたということでしょう。

 

それでも、年末年始やゴールデンウイークの羽田・成田ほどは混雑していません。私たちが乗ったのはキャセイパシフィックの香港行き。ただし、台北で途中下車、いえ途中降機です。降りたのは台北でも、郊外にある桃園国際飛行場。こちらも近年どんどん整備が進んでおり、今年の春、空港から台湾高鐵(新幹線)の桃園坫(駅)まで行けるMRT(新都市交通システム)が開通したそうです。

私たちは従来から走っているバスで行きましたが、15分ほどで高鐵桃園坫に到着。そこからまず高鐵嘉義まで移動します。目的地は台北にある故宮博物院の別館・故宮南院(正式名称は「國立故宮博物院南部院區・亞洲藝術文化博物館」)。高鐵嘉義には新幹線で1時間ほど。毎度思うのですが、台湾の新幹線は外側も内側も日本(東海道・山陽新幹線)とそっくり。表示だけが中国語なのですが、それを無視してしまえば、一瞬、日本にいるような気持ちになります。

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故宮南院は高鐵嘉義の駅からバスで10分ほど。まず驚いたのはその敷地の広さです。入ってすぐのところに大きな人工の池が設けられ、その向こう岸に美術館が建っているのですが、そこまでは数百メートルほどありそうです。ゆるやかな上り坂もあるので、家人のために車イスを借りました。

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オープンしてまだ2年足らずですが、駐車場には観光バスがぎっしり並び、ひっきりなしに客が訪れている様子。この日は日曜日の午後とあってさほど混んではいませんでしたが、日中あるいは土曜日だったらどうかという感じがします。

 

台北の本院と違って、全体がゆったりした造りになっており、展示スペースも広いので、圧迫感がまったくありません。全体は9つに区切られていて、一つひとつ、特定のテーマに基づいて展示されています。そのため、とても観やすく、台北のように「今日はここまで」ということにはなりません。3時間もあればおそらく隅から隅まで鑑賞することができるのではないでしょうか。

IMG_2172私たちは2時間弱滞在しましたが、6つの展示室を訪れ、最後はミュージアムショップもゆったり回ることができました。台北の売りは「翠玉白菜」ですが、こちらは「肉形石」。台北とは比べものにならないほど、ゆったり、ゆっくり、じっくり、それこそ四方八方から観ることも可能です。

 

 

 

IMG_2166それとは別に興味深かったのは、中国に持ち込まれた伊万里焼の数々。また、インドやアラビア、トルコの皇帝から中国の皇帝に贈られた品々でした。どちらも初めて目にするものばかりでしたが、いわれてみれば、そうしたもの(とくに後者)が中国にあってもまったくおかしくありません。皇帝から皇帝への贈り物ですから、どれ一つとっても、まさしく贅の極みといった感じの品ばかり。今回はそのなかでもインドからの品々に焦点が当てられていましたが、台北の本院では、展示されていたとしても、ここまでゆっくり楽しむことはできないでしょう。

 

美術館の見学は、たいていの場合、荷物を預ける必要があります。ここも同じですが、そのためのコインロッカーがユニーク。どの扉にも、日本でいうなら家紋のような文様があしらわれているのです。どれも皆、由緒のあるものなのでしょうが、これは驚きました。

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IMG_2188南院を出て再びバスで高鐵嘉義まで戻り、今日の最終目的地である高雄の左営坫(駅)へ。30分ほどで到着しましたが、途中停車するのは台南だけ。台湾の南北縦断はホント楽になりました。小腹が空いていたので駅の売店で売られていた「便當」を買い求め、二人でつまみました。これで100台湾ドル(約400円)はお値打ち! 素朴ですが、味もバッチリでした。

 

 

古代メソポタミアの人たちが食べていたのは……

2017年10月14日

今日は一日でビッグイベントが二つあるという日。場所はいずれも福岡市内でした。

最初は、私のプロデュースした単行本『ルワンダに灯った希望の光 久美子のバナナ和紙』の著者・津田久美子さんが講演される会合です。今年の3月、福岡のユニークな出版社「書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)」から出版されたこの本の内容については、このブログでも前に触れたので割愛しますが、今日の会は、男女共同参画社会を作り上げようと60年も前から活動している団体が開いたもの。

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60年前といえば、まだ女性が社会に出て仕事をするなどということ自体が珍しがられた時代です。でも、実際はそのころからすでに、近ごろは当たり前のように言われていることを実現しようと行動していた人がいたことに驚きました。

女性が働く、社会に参画するのは、建前として理解できても、いざ自分が……と思うと、さまざまな障害が立ちはだかります。津田さんの場合も40代に入ってから、得意の英語を活かせる仕事に就いていたわけですが、それだけで終わらなかったのが、ユニークなところ。50歳を過ぎてからは、NPO法人を立ち上げ、アフリカのルワンダという国で、新しい「仕事」を生み出す活動にたずさわってきたのです。

資源もそれほど豊かなわけではない国の中で、それまでだれひとり思いもつかなかったことに取り組んだ勇気と実行力、そしてそれを実現するまであきらめない粘りには感服させられます。会合で津田さんのお話を聞かれた方々も大いに共感を覚えたようで、本を出して本当によかったと思いました。

 

夜は、すぐ近くのホテル(といっても、最近増えているホステルスタイルですが)で開かれた、最近話題の『歴メシ! 世界の歴史料理をおいしく食べる』という本の出版記念パーティーに参加しました。著者の遠藤雅司さんは、国際基督教大学教養学部で音楽を専攻しましたが、現在は音楽とはほとんど無関係な“歴史料理”の研究をされているとのこと。そして、初めて出されたこの本の販売促進のため、全国各地で「歴メシ」のイベントを開催しているのだそうです。

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今回の会をプロデュースしたAさんは、『博多学』を書くためにおこなった取材の折、ひとかたならぬお世話になった方。“おもしろがり”という部分で、彼女ほどセンスがあり、またそれを実際の形にする力に長けている人はそうそういません。そのAさんが最近とみに興味を引かれたというのがこの「歴メシ」。

 

世界各国の歴史に残されているさまざまな料理を再現するプロジェクトを「出版記念お食事会」と銘打って、Aさんの地元・福岡でもぜひ開きたいということで企画・プロデュースしたそうです。話をちょっと聞いただけで、とても面白いと思った私はすぐに参加をエントリー。ちょうど先の津田さんの講演する日と同じだったので好都合でした。

本の中身は、オリエント世界とヨーロッパ世界の8つの時代に実際に食されていた料理40品のレシピと、当時の食文化や社会背景などを解説したもの。その該博な知識もさることながら、けっして豊富にあるとは思えない資料からレシピを確定させ、それを実際に料理として作って出す努力には脱帽です。

「ヴェルサイユ宮殿の晩餐会」で出されたメニューとか、「中世イングランドの王がふだん食べていたもの」などは、なんとなくイメージできる気もしますが、この日出された「古代メソポタミア」の料理となると、ティグリス&ユーフラテスという川の名前くらいしか知らない私などにはおよそ想像もつきません。

 

この日、食したメニューは次のとおり。●かぶの煮込みスープ ●アカル(ビール風味のパン) ●メルス(古代メソポタミア風ガレット) ●レンズ豆と麦のリゾット ●古代小麦とラム肉のシチューの5品です。世界史の教科書で目にした楔形文字を解読し、そこに記されていたことから推測しながら割り出されたレシピの中には、塩・コショウを使うという記述はまったくなかったそうで、味はもっぱら、コリアンダーやらクミンといった調味料から引き出していたようです。そのため、はっきり言って、現代人の舌には物足りません。

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ただ、そのことは。著者も料理の作り手も十分承知していたのでしょう。私たちの舌を満足させようと、当日はオリジナル版とともに、塩とコショウを加えた現代人向けバージョンを作って出してくれました。豆類、ナッツ、果物など、身近で入手できるあらゆる食材をさまざま工夫することで料理に変化をつけていた様子もうかがえ、貴重な経験となりました。

 

この日の参加者は40人ほどでしたが、20代・30代の人が9割。60歳を過ぎているのは数えるほどで、別段指示されたわけではありませんが、その数人がなんとなくひとところに集まった(イスが置かれていたせいもありそう)のは自然の流れでしょう。正直、メソポタミア料理に舌鼓というわけにはいきませんでしたが、同世代の方々とのお話は、軽やかに舌が回りました(笑)。

「豪風関と語る会」に参加

2017年9月30日

4年前にプロデュースした単行本『人生8勝7敗 最後に勝てばよい』の著者は大相撲の尾車親方。そのご縁で、親方や弟子の方々とも親しくさせていただいているのですが、その一人・豪風関の「語る会」に出席しました。昨年、故郷・秋田県から県民栄誉賞を授賞した豪風関ですが、その1周年記念行事です。

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IMG_2003さまざま興味深いお話を聞かせていただきましたが、いちばん印象に残ったのは、「ベストだと自分で思い込んでいても、そうでないときがある。それは結果としてはっきりあらわれる」という言葉でした。豪風関は今年3月の春場所後、痛めていたヒジの手術を受けたそうです。場所後のことですから、5月の夏場所までは6週間しかありません。その間に回復を待ち、それからはリハビリです。これ以上は無理というほど懸命に取り組み、「自分ではベストと思える状態にこぎつけて夏場所に臨みました。ところが結果は大きく負け越し。「こんなはずじゃ……」と思ったそうですが、すぐ思い直したといいます。「ベストだと思い込んでいた自分が悪い。ケガから回復するのはそんな簡単なことじゃない」と。

 

もちろん、体の状態をいちばんよく知っているのは本人なのですが、実際の結果はごまかしがききません。勝負の世界の厳しさを改めて思い知らされたと語っていましたが、幕内最年長の関取でさえ、そうしたことがあるのです。念には念を入れるというか、いつ、どんな状況にあっても、「ベストを尽くす」のは、そうそう簡単なことではなさそうです。「これで大丈夫」と、ついつい自分を甘やかしてしまう私にとっては、耳の痛いお話でした。

ユニークな秋田美術館と藤田嗣治の巨大壁画

2017年9月29日
明日開催の「豪風と語る会」というイベントに出席するため、秋田にやってきました。会場は、秋田駅に隣接するホテル。私たちもそこに宿泊するのですが、すぐ近くに秋田県立美術館があります。そこでちょうど「特別展 レオナール・フジタとモデルたち」が開催されているのを家人から聞き、せっかくだからというので、観に行くことに。私自身、美術にさほど興味があるわけではありませんが、数日前NHKテレビで、その展覧会のことが紹介されていたのも引き金になりました。

藤田嗣治については、フランスで最も有名な日本人画家ということぐらいしか知りません。その藤田が、秋田の資産家・平野政吉の依頼で描いた「秋田の行事」という壁画が、この美術館に展示されているのです。1937年、平野家の米蔵で15日間、174時間で描き上げたこの壁画、制作当時は“世界最大”(高さ3・65m、幅20・5m)だったとのこと。吉永小百合がその前に立ち、「たった一枚の絵を見に行く。旅に出る理由は簡単でいいと思います」と語る、JR東日本のテレビCMを記憶している方もいるかもしれません。

秋田の行事

たしかに、わざわざ観に行くだけの価値はありました。私も家人も藤田のファンというわけではありませんが、その素晴らしさには息を呑みました。全体が5つに区切られており、その一つひとつに秋田の伝統行事が描かれています。藤田は秋田の出身でもなんでもありませんが、依頼した平野の郷土愛が乗り移ったかのような、藤田の温かな気持ちが込められているのがひしひしと感じられます。

美術館自体も素晴らしいものでした。平成25年9月にオープンしたばかりで、場所は、秋田駅のすぐ近くにある千秋公園(かつて秋田城があったところ)と広い道路をはさんだ向かい側。斬新なコンセプトで設計された建物は、世界的な建築家・安藤忠雄の設計です。

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IMG_19852階にカフェとミュージアムショップが併設されているのですが、カフェのイスに腰をおろすと、目の前に広がる千秋公園の木々や旧県立美術館の建物(これがまた味わい深い外観をしています!)が、1階の屋上に作られた池というか水槽というか、その水面にそっくり映っているのです。

 

 

天気の具合にもよるでしょうが、水と景色の絶妙なバランスに感動しました。立つと、視線の高さにもよりますが、イスにすわったときとは別の角度でそれを楽しむことができ、それはそれでまた興趣をそそります。極端な話、この光景を観に行くためにだけ美術館に入ってもいいといった感じです。今回は「豪風と語る会」の“ついで”にやってきたのですが、ここまで行くと、“ついでの極致”ではないかと思いました。

藤田は1968年に亡くなる数年前、フランス北東部の町ランスの地にある「ノートルダム大聖堂」(フランス3大聖堂の一つで世界遺産にも指定されている)で洗礼を受けたそうですが、こんどパリに行く機会があれば、その“ついで”にぜひ訪れてみたいと思いました。ルイ13世、14世、16世など歴代のフランス国王の戴冠式がおこなわれた由緒深いところです。また、藤田が、スポンサーの依頼で設計した「ノートルダム・ラ・ペ教会」というこじんまりした教会もあるといい、それもぜひ観てみたいと思います。

36年ぶりに観た加賀まりこにドッキリ!

2017年9月22日


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ここのところ映画館からすっかり足が遠のいてしまっています。「これじゃ感性が錆びついちゃうよなぁ」という職業的な危機感があったのですが、今日は「決意」して早起きし、「午前10時の映画祭」に行きました。観たのは1981(昭和56)年公開の『泥の河』。宮本輝の同名の小説を小栗幸平監督が映画化した作品で、小栗のデビュー作でもありました。その年『キネマ旬報』の最優秀監督賞も取っています。

 

 

 

!cid_1C6FCCAD4841B36B71A9B8AA37BF17C755B4C05D@edithousejp_onmicrosoftその気になったのは、先週、「大人の社会見学」で一緒に寝泊まりした高校時代の友人Sくんのひと言=「『泥の河』を最近見たんだけど、ロケは中川運河だったんだって」がきっかけ。中川運河というのは、私が育った名古屋の市内を流れる、文字どおりの「泥の河」でした(ちなみに、このページに出したのは、映画館のすぐ近くを流れる“泥の河”)。Sくんは定年退職後、年間400本も映画を観ているといいます。昨日から来ている沖縄で、たまたま上映されているのがわかり、「よし、行こう」と。

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面白いもので、36年前に観たときとはまったく違うことを感じました。太平洋戦争の匂いがまだ濃厚に残っている昭和31年の大阪が舞台ですから、「そうそう、オレもこんな格好で(メリヤスのランニングシャツにズック靴)遊んでたよな」とか「子どもにとって50円は大金だった(1日5円のお小遣いが普通)」とかいったようなことばかり。モノクロの作品だったのも影響していますが、自分自身がまだそういう年齢だったからでしょう。

でも今回、66歳のジージになっているせいか、「親は、子どもにああやって接しなくちゃな」など、いまとなってはまったく詮無いことを思ったりしたのです。親の子どもに対する適切な気遣いというか、小学3年生に対しても人格を認め、傷ついたりいじけたりしない、成熟した大人としてその場をコントロールしていくことがいかに大切か。40歳を過ぎてからできた自分の子どもと、泥の河に浮かべた船で生活する2人のきょうだい(姉弟)を相手に言葉をつむいでいく田村高廣の名演が光ります。妻を演じる藤田弓子も、脇を固める殿山泰司も初音礼子も好演。蟹江敬三も芦屋雁之助もいいですね。藤田以外は全員鬼籍に入ってしまいましたが、皆、味わいのある演技で存在感を示します。

!cid_D23EB54E5B9C7A5F7AA92C1141A8EB18CE4B9D89@edithousejp_onmicrosoftでも、最大のインパクトは加賀まりこ。この作品で助演女優賞を取りましたが、画面に出てくるのは5分もなかったのではないでしょうか。苦悩と不本意とが詰まった過去を背負いながら、いまは二人の子を持つ娼婦として生きていく役どころを、妖艶ここに極まれりといった空気を味わわせてくれました。

それにしても、この作品を観たスピルバーグに「あの3人の演技がこの上なく素晴らしい」とまで言わしめた子どもたちはどうしたのかなぁ……。

広島カープの連覇は、「いま」の時代を象徴する出来事

2017年9月20日

 広島カープが昨年に続き、セ・リーグ優勝を果たしました。シーズン初めからほぼ独走に近い状況で、ほとんど危なげのない横綱野球。他球団には打つ手がない感じで、古い話で恐縮ですが、ジャイアンツのV9時代を彷彿させます。

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でも、決定的に違うのはカープが名実ともに「市民球団」であるということ。V9時代のジャイアンツは、言うならば「国民球団」でした。ジャイアンツが存在しなければ日本のプロ野球そのものが成り立たなかったのです。ジャイアンツが勝つことで日本の経済がまわっていたかのような感すらしました。もちろん、勝負ですから八百長とか出来レース的なことはなかったにしても、ほかの球団はジャイアンツの露払い・太刀持ちといった域に自分たちの立ち位置をとどめていたように思えます。もちろん、ファンも同じ。誤解を恐れずに言うなら、審判も、役人も、メディアもその後押しをしていたのではないでしょうか。

そんな日本のプロ野球がいつしか嫌いになった私は、大リーグに興味を持ち始めます。すると、野茂英雄が単身でチャレンジしたではありませんか! 他人事ながら、これほどうれしいことはありませんでした。

大リーグと当時の日本プロ野球との決定的な違いは「フランチャイズ」についての考え方です。日本では、企業やメディアが「フランチャイズ」でした。もちろん、東京とか大阪とか名古屋とか、大きな都市に本拠地球場を持ってペナントを戦ってはいましたが、それは便宜上であって、「地域」がある球団をバックアップしていたわけではありません。その地域に拠点を構える企業やメディアがサポートすることで、球団の経営も成り立っていたにすぎません、それが先に記したような「ゆがみ」の元でした。

ところがアメリカ大リーグは、それとは真逆と言うか、まったく次元が違っていました。どの球団も「地域」、それも「住民」が球団をバックアップしていたのです。その典型例が、これは野球ではありませんが、NFL(アメリカンフットボール)のグリーンベイ・パッカーズです。本拠地は、シカゴの北300キロほどのところにある小さな町グリーンベイ(ウィスコンシン州)。人口は10万余ですから、北米4大プロスポーツリーグの中で最も小さいフランチャイズです。

 

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「パッカー」とは缶詰工という意味しています。チーム結成当時は地元の缶詰製造会社から援助があったからその名がつきました。人口10万余というと、広島県の三原市とほぼ同じです。その三原市で、サッカーでもバスケットボールでもいいのですが、たとえば「三原オクトパス(=たこ)」というプロスポーツのチームが存在し得るでしょうか。

パッカーズはそれでいて、リーグ最多の優勝13回(2016年現在)。スーパーボウルでも4回優勝しています。昨年でなんと創立100周年を迎えました。何より素晴らしいのは、これが完全な“市民球団”であることです。プロスポーツ先進国のアメリカでも、一般市民が100%の株式を保有しているチームは一つしかありません。パッカーズの場合、1960年以後、ホームグラウンド(1シーズン8試合)での試合の入場券は毎年すべて完売。シーズンチケットのキャンセル待ちの人数は、あらゆるプロスポーツチームの中でいちばん多い(6万5000人以上)。シーズンチケットの入手までには40年かかるといいます。このため、ファンがシーズンチケットの購入権を相続する人を遺言で指名することも珍しくないのだとか(写真はMilwaukee Journal Sentinel 掲載されたもの)。

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広島カープに、それに似たようなところがあります。詳しくは拙著『広島の力』に記しましたが、広島市内の公立小中学校では、子どもたちが「広島カープ」を素材にして勉強しているそうです。全国どこにもこんな例はありません。いや、世界的に見てもないのではないかと思います。唯一、そういう可能性がありそうなのがグリーンベイです。これくらいの町ですから、学校教育の中にそうしたことが取り入れられている可能性もありそうです。

 

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パッカーズほどではないにしても、広島の人々にとってカープは生活の一部といっても過言ではありません。仕事も学業も、家事も何もかもがカープの勝ち負け、強い弱いに深く関わってくるのが広島の人たちです。こう書くと、なんだかファナティックな印象を与えるかもしれませんが、もちろん一般社会の常識は踏まえてのことです(といっても、広島、また西日本では、全体的にそのタガはゆるいでしょうが)。そうしたことによって生まれる空気が、選手の、監督・コーチに影響しないわけがありません。

 

その市民の応援を受けてセ・リーグを連覇したカープ。そのエネルギーが「国民球団」だったジャイアンツをもしのぐのは、いかにもいまの時代を象徴しているように思えます。小さくても大きくても、「地域の住民」に根差していないスポーツはいずれ朽ち果ててしまうのではないでしょうか。

ようやく帰路に

2017年8月14日

さて、出発が丸1日延びたのですが、それまでいったいどうしていればいいのだという話になります。時間的にもハンパですから、結局チェックアウトの時間を夕方まで延長してもらい(もちろん追加料金を支払って)ました。その時間を利用して書いたのが「8月13日」のブログ「生涯最悪の経験──エールフランスの対応に唖然・呆然」です。

 

ただ、私たちが今回こうした事態におちいったのには、もう一つ別の要因もあります。それは、ANAのマイレージ特典航空券の取りにくさです。マイレージの会員を増やすため、どこの航空会社も「貯めればいつでも、どこにでも無料で行ける1」といった式の宣伝文句をアピールします。ただ、「いつでも」には制限があり、お正月の時期は利用できません。かつては年末年始、ゴールデンウイーク、お盆休みのときなど、そうしう期間(「ブラックアウト」と呼ぶ)がけっこう多くあったのですが、利用者からの声もあったのでしょう、いまではお正月の2日間だけになりました。ただ、国内線はいまでも使えない期間が設定されています。それに比べると、外国系の航空会社はそうした制限がないところがほとんどです。

 

まあ、それは日本人の旅行事情を考えればやむを得ない部分もあります、今回の私たちのように夏休み期間中だと、そうは簡単に行きません。今回の特典航空券はもともと2月に使う予定でした。このときはオフシーズンですから、羽田・パリの往復チケットはあっさりGETできました。ところが、2月のフランス行きを取りやめ、8月に変更することにしたため、難儀したのです。

 

行きはすぐ予約が取れましたが、帰りの便がずっと「空席待ち」の状態。白黒がはっきりするのは、実際に乗りたいと思っている日の10日(かそこら)前といった感じですから、予定が立てられません。旅の最後がパリならいいのですが、ダブリンだったので、ダブリンからパリに移動するチケットもセットで予約・購入する必要があります。半月ほど前の時点でANAに連絡を入れてみると、8月13日も14日も「空席待ち」という状況。そこで、もう一歩突っ込んで、「どちらが空席の出る確率が高いか?」と尋ねてみました。すると「14日は20人近く空席待ちをしているので難しいかも」とのこと。そこで、13日に希望をつなぎ、その時点でダブリン→パリのエールフランス便チケットを取ることにしたのです。

 

この時期はほとんど毎日、朝と夜の2回、ANAのマイレージ特典航空券の状況をチェックしていました。そして、やっと13日にアキが出たことがわかり、即手続きをして帰りの航空券を予約。やっとダブリン→パリ→羽田とつなげることができました。ただ、見かけはつながっていますが、航空会社(間)の運送約款的にはつながっていないでしょうから、先に書いたような厄介な事態を招いてしまったわけですね。

 

時期や目的地にもよるのでしょうが、ANAのマイレージ特典航空券はなかなか取りにくいというのは、多くの利用者が感じていることのようで、これからも頭を抱えるような事態に遭遇しそうです。取りやすいのは近場のアジア方面。台湾や香港、ハノイなどは往復ともあっさり取れることが多いように思います。無料で乗れる席はおそらく一つの便でいくつまでと決まっているからでしょうが、なんとかもう少し取りやすくしてほしいものです。

 

IMG_1810まあ、それはともかく、この日は空港へも早めに行き、チェックインの手続きを済ませました。ANAで手配してくれた空港係員が家人を車イスに乗せ、ラウンジまで押していってくれましたが、やっとこれで間違いなく帰国できそうです。スターアライアンスのラウンジは、外国の空港にしては珍しく、タバコも吸えるようにっていました。ラウンジの一部が中庭になっており、そこに出ればお日様のもとで吸えるのです。またまた新しい穴場の発見に、前日の怒りも吹き飛んだのでは思うかもしれませんが、そんなことはありません!! しばらくの間は「エールフランス」の文字も見たくないというのが正直な気持ちです。

生涯最悪の経験──エールフランスの対応に唖然・呆然

2017年8月13日

今日で長い旅も終わり。アイルランドのダブリンからパリ経由で日本に帰ります。キルケニーのホテルから2時間。レンタカーを走らせ、無事リターン。4日間の通算走行距離は1800kmでした。

帰国は、ダブリン発14時15分発のエールフランス(AF)便でパリ(シャルル・ド・ゴール空港)まで行き、そこから羽田行きのANA便です。それがなんと、パリで丸1日足止めを食らうハメに。

AF便の出発が遅れたことからそれは始まりました。ダブリンを離陸したのは予定より1時間以上遅れの15時30分で、パリ到着は18時。着陸したのは、第2ターミナルのビルから遠く離れた場所で、バスでの移動になります。ただ、今回は家人のために車イスをお願いしておいたので、特別仕様の車両で移動。ビルに着いたのは18時35分。そこからAFの職員が、ANAのチェックインカウンターがある第1ターミナルとを結ぶシャトル(CDGVAL)の乗り場まで連れていってくれる段取りのようでした。

ところが、ダブリン→パリとパリ→羽田のフライトをバラで入手していたのがネックになりました。預け荷物はダブリンから羽田までスルーの扱いにしてもらったのですが、私たち自身はパリで一度「入国」し、ANAのカウンターで手続きしなければならないと言われていました。eチケットの控えは持っているのですが、搭乗券がないため、「トランジット」にならないのでしょう。このあたりの仕組みは私たち素人にはわかりません。

まず第2ターミナルにあるAFの“車イス利用者カウンター”と思しきところまで連れていかれ、「しばしお待ちを」と。そこの職員がだれが相手かよくわかりませんが、電話していましたが、私たちはずっと待たされたまま。時間はどんどん過ぎ19時をまわってしまいました。ANA便の搭乗開始は19時35分なので、こちらは焦ってきます。AFの係員は「Stay here。シャトルの乗り場までは別の係員が案内するから」と言い置いて、その場から姿を消してしまいました。しかし、10分経っても20分経ってもだれも来てくれません。そのうち、「ウソ・でたらめ」を言って、私たちを放り出していったことに気がつきました。このままではANA便に乗れないと思い、ANAのマイレージカードのデスクに電話を入れて問い合わせている間にタイムアウト!

IMG_1806幸い、ANAのほうで翌日の同じ便の座席をすぐ確保してくれたのですが、AFのほうからは謝罪どころか、「何がどうなって、こういう事態になってしまったのか」についてまったく説明がありません。20時5分を過ぎてから、日本語を話す職員が電話に出てきて「ANA便とコネクションがないので、私たちの責任はパリまで。よろしいですね! ANA便があなた方を乗せずに出発したことになんら責任はありません。おわかりですね! 今日の便に乗れなかったために、あなた方はこちらにひと晩泊まらなければならなくなりましたが、そのためのホテルは、私どもで確保して差し上げましょう。空港近くのハイアットなら1泊100ユーロで予約できますが、それでよろしいですか?」と聞いてきました。こちらは四の五の言ってられませんから、「OK」と。しかも、その場で予約確認の書類をプリントして渡してくれます。対応が迅速だったのはこれだけ。

 

しかし、そうなると私たちがAFに預けたスーツケースをもう一度引き取らなくてはなりません。それについて尋ねると、「当然です。すぐ荷物を確保しお渡ししますので、ここで30分ほどお待ちください」と。AFの係員が2人、私を連れて階下の荷物受け取り場近くにある「ロストバゲージ」処理カウンターのところまで連れていき、担当者相手に荷物の所在を調べ始めました、スーツケースの色を尋ねられたのでそれに回答し、しばらくコンピューターに向かうと、うなずきながら、私を連れていった係員に何やら告げました。すると、その係員が「30分後にはお渡しできますので、上の階の先ほどの場所でお待ちください」と。

 

その言葉に従って待ちました。30分、1時間、1時間半。気がついたら22時近くになっています。先ほど私を階下に連れていった係員はそのあとまったく姿を見せません。近くにいる別の職員に聞いても、「私の責任ではない」と言うだけ。担当していた係員にコンタクトを取るわけでもなければ、何か手立てを講じるわけでもなし。「ANAのほうに荷物が行ってしまっているので、それを取りに行って戻るのに時間がかかっている。受け取るのに手間取っているようだ」と、もっともらしいことを言います。しかし、こちらも心配になったので、もう一度ANAに電話で問い合わせると、「こちらにはそのスーツケースはまったく来ていません」と、あちこち確認を取ってくれた上での返答が。

要するに、AFの職員はその場しのぎの「ウソ・でたらめ」を言っていただけなのです。そして、22時になると、その職員もさっさと帰ってしまいました。このままでは荷物なしにひと晩ホテルで過ごさなくてはなる……と、もう一度、階下の荷物受け取り場近くの「ロストバゲージ」のカウンターに行くと、すぐ近くに私たちの2つのスーツケースだけが放置されているではありませんか! AFの係員が私たちのところまで持ってきてくれるというのは「ウソ・でたらめ」だったのです。海外旅行で、たとえひと晩でもスーツケースがないと途方もなく落ち込みます。これまで何度かその経験をしているだけに、荷物が無事見つかって安心はしたものの、怒りが猛烈にこみ上げてきました。

この日は昼食もきちんと取っておらず、飲まず食わず状態だったので、お腹も空いてきます。仕方なく、待たされている間にすぐそばの売店でサンドイッチとサラダを買ってきて口にしましたが、とてもとても……。ついでながら、重いスーツケースを2個持ち、足の不自由な家人を連れながらシャトル乗り場まで移動するのはしんどそうだったので、先のところに、夜勤なのでしょうか一人だけいた職員に「車イスを使わせてもらえないか」とお願いしてみました。「いいですよ。係員をよこしますから、お待ちください」と言うのですが、もうこれ以上待たされるのはイヤだったのでお断わりしました。

こんどはハイアットホテルまで行かなくてはなりません。もちろん、場所を教えてくれていたわけでもないので、空港のINFORMATIONカウンターまで行ってたずね、なんと10分近く離れたホテル行きのシャトルバスが出る場所まで歩きに歩き、チェックインしたのは23時近く。レストランも閉まっていて、結局この夜は何も食べずじまいで終わってしまいました。

キルケニーで「アイリッシュパブ」を初体験

2017年8月12日

今日でアイルランドも実質最後の日。リメリックから北東に数十キロ走ったところにあるキルケニー(Kilkenny)をめざします。出発前に足を運んでみたのがリムリックの中心部にある「ミルクマーケット」。もともとは青空市場だったのでしょうが、そのまわりに建物が立ち、いまでは広場全体を覆う巨大なテントが。その結果、屋内・屋外一体となった市場になっています。毎週金・土・日の3日間開催されているマーケットはたいそうなにぎわいです。

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IMG_1712野菜、肉、パン、調味料、食料加工品が中心ですが、台所用品や衣服、アクセサリーなどを売る店も。昔は当たり前だった有機栽培の野菜や果物が所狭しと並べられ、その隣ではやはり、自家製のパン、チーズ、スイーツなどを売る店が。どれを見ても食欲をそそりますが、土曜日の朝とあって、とにかく人の多いこと。昼近かったこともあり、市場の2階に作られたフードコート風のスペースもほぼ満杯といった感じです。人口9万ほどの町ですが、人々の表情は生き生きしており、こうした場が存在することの意味を考えさせられました。

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DSC03085そのあと「ジョン王の城(King John‘s Castel)」の素晴らしい外観を眺め、「条約の石(The Treaty Stone)」と名づけられた記念碑をチェック。そして、市内を出てまず行ったのがキャッシェル(Cashel)という町です。ここには「ロック・オブ・キャッシェル」という有名な城があります。500年ほど前までこの地方の政治と宗教の中心地であった町を象徴する城は立派の一語。中の庭に広がる墓地に立つケルト十字やかつての聖堂跡の素晴らしさには感動しました。

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キルケニーに着いたのは5時少し前。市内で観たいところが2つあり、最初は「キルケニー城」を外から。いかにも立派なたたずまいで、前にある庭園も心が和みます。そこから車で5、6分の所にある「大聖堂」は、あいにく時間切れで中に入れませんでしたが、外壁の装飾は質素でも、歴史を感じさせる建物でした。ホテルにチェックインしたのは6時半ごろだったでしょうか。

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DSC03119私たちが止まったホテルはノア川のたもとに立っているのですが、そのいちばんの売りは、別の角度から観られる城の姿。ホテルはちょうどその向かい側にあるので、美しい姿を観ることができます。この城を観られる側と観られない側とでは宿泊料に4、5千円の違いがあるほど。ギリギリまで粘り、3、4日前にキャンセルが出て、やっと城が観える側の部屋を確保することができました。せっかくのチャンスですから、家人にも喜んでもらわないと(笑)。

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夕食は、ホテルの入口から道路を挟んだ向かい側、これも川べりにあるアイリッシュパブで。ほんの少し時間が早めだったせいか、あっさり席を確保でき、ゆっくり食事を楽しめました。夏休みでどこもかしこも混んでいる中、これはラッキー! 店の奥のほう、バーカウンターの前ではバンドの生演奏が。途中休みなしで、私たちが店を出る2時間後もまだ続いていました。

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IMG_1786店はその後どんどん客が入ってきます。なかには、タクシーに乗って駆けつけてくる人も。そのうち、店内は、立ち飲み客も出てきて、足の踏み場もない状態に。ウェイター、ウェイトレスはわき目もふらずに動いています。私たちのテーブルを担当してくれたのは、いかにもアイリッシュといった雰囲気のおやじさん。私はその男性に「アイルランドのテキパキおやじ」と勝手に名づけました。この道ウン十年といった感じの小気味よい動きがこちらを心地よくさせてくれます。こういう人が世界中に散らばっているのだろうなと。アイルランド人の誇りを感じさせるウエイターでした。

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IMG_1787アイルランドの名物パブでも、2、3年前から建物内でのタバコは禁止されています。そのため、スモーカーたちはちょっと時間があると店の外に出て、入口近くに置かれた大きな灰皿のまわりで一服。私も何回かそこに行きましたが、入れ替わり立ち替わり客が出てくるのには感心しました。それにしても、愛煙家というのは世界中どこに行っても、まめですね。

勘定を頼むころになると、店の混雑はいっそうひどくなっていましたが、テキパキおやじはさっと勘定書きを持ってきてくれました。現金で払い、しっかりチップをはずんだことは言うまでもありません。

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霧に煙っていた「モハーの断崖」

2017年8月11日

朝からあいにくの雨模様。今回の旅で雨に降られたのは初めてです。今日はアイルランドでも屈指の絶景「モハーの断崖(Cliff of Moher)」に行くというのに、残念! 雨のせいか気温も低く、肌寒ささえ感じます。それでも気を取り直し、一路南西へ向かいました。

カーナビの指示に従って走るのですが、なぜか田舎道が多いのにはとまどいます。道路にはいちおう名前がついているものの、幅が狭く、くねくね曲がった道ばかり、道の左右は畑か森のどちらかで、たまに小さな集落がある──そんな感じです。にもかかわらず制限速度が80キロだったりするので、日本人の感覚ではどうにも納得が行きません。もちろん、街中に入ると60キロ→50キロとダウンするのですが、そのエリアから出るとまた80キロに。なかには、センターラインがないのに制限速度100キロなどという道路もありました。速く走れるのはありがたいものの、こうなると逆に神経を使わされ、いささか疲れます。

もう一つ、アイルランド(ヨーロッパではほかの国もほぼ同様ですが)の道路は、バンプというのでしょうか(ハンプとも呼ぶらしい)、道路が隆起している箇所がやたら多いのです。スピードを出したままでいるとガクンと揺れ不愉快きわまりないので、だれもがそこではブレーキを踏みます(そういえば、エジプトの砂漠を走る道でも見かけました)。もちろん、事故の防止が目的でしょうが、これもあまり多いとうんざりしてきます。逆に、日本も学校の近く、閑静な住宅街ではもっと導入したほうがいいのではないでしょうか。

IMG_1693さて、ようやく到着した「モハーの断崖」は人気観光スポットですから、大変な人の数。広い駐車場もびっしり埋まっていました。駐車場のはるか先、丘を昇ったところから、「断崖」らしきものが見えるようですが、あいにくの曇り空で、最初はうっすら、というよりほとんど何も見えません。それでも、2、3分経つとさっと霧が晴れ、姿をあらわすことがあります。ただ、絵ハガキやポスターで見るような美しく迫力のある姿とはほど遠い状態です。

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家人は早々にあきらめ、杖をつきながら入口近くにあるビジターセンターに戻り始めました。それでもあきらめきれない私は、「もうちょっと粘ってみよう」と思い、いちばんよさそうな場所で待ちました。2、3分経つとふいに霧が晴れ、わずかの間でしたが、絶壁がその姿をあらわしたのです。大西洋上に切り立つ断崖が海面から最上部まで見えると素晴らしい迫力。夢中でカメラのシャッターを押しましたが、その間にもまた雲に隠れてしまったりします。結局、それからは曇りっぱなしで、その姿を目にすることはできませんでしたが、一瞬とはいえその姿を観られ、遠路はるばるやってきた甲斐がありました。

「モハーの断崖」をあとにし、そこから車で20分ほどのところにあるバレン(Barren)へ。ここにある「巨人のテーブル」を観たかったからです。想像していたほどには大きくなかったものの、それでもその造形の不思議さには驚きました。何千年も前のお墓だそうですが、雨の中、駐車場から数百メートル歩き、間近で観たときの感動はなかなかうまく表現できません。

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今日の行程は以上。ここからホテルがあるリメリック(Limerick)の町までは30分ほど。天気もようやく回復し、最後は気持ちよく走れました。昨日泊まったゴールウェイの喧騒に比べると、リムリックの町はなんとも静かで落ち着いています。今日も早くからお腹が空いていたので、すぐ夕食に出ました。ホテルの近くで見つけたステーキレストランが大当たりで、味はもちろん、サービスのレベルも高いこと。大満足で店を出ました。

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