「バルト3国」とひとくくりにするのは無理があるかも

2019年7月9日

昨日が今回のツアーも実質最終日。それでもタリンを出るのは午後なので、午前中は家人と二人でゆっくり見て回ることができました。昨日の街歩きでは足を踏み入れなかったエリアを中心に歩きます途中、次から次と、「世界遺産」に指定されている建物と遭遇。これまでタリンは2回訪れたことがあるのですが、町全体の様子がようやくつかめた感じがします。

 

3月に訪れたノルウェーもここからさほど遠くはないものの、雰囲気や香りはまったく異質です。フェリーに乗って1時間も走ってバルト海を渡ればフィンランド。町の看板などを見ると、そこに書かれている言葉はフィンランド語とごく近いことが見て取れますが、空気はビミョーに違います。エストニアはエストニア、フィンランドはフィンランドなのです。バルト3国を「北欧」に含めるのはむずかしいかもしれません。

しかも、南隣のラトヴィア、さらにその南にあるリトアニアと比べても、違いがあり、「バルト3国」とひとくくりにしていいものなのか、にわかに判断できません。ただ、この3国に共通するのは、第2次世界大戦が始まって間もなく旧ソ連の支配下におちいり、戦後もずっとそれが続いたこと。そして、民族の自立が奪われ、文化も抑圧され、言葉さえ奪われてしまったことです。そのことに対する怒りは当然、ずっと燃え続けていたにちがいありません。しかし、その表現のしかたはそれぞれで、最終的には3国すべて旧ソ連の支配からは脱することができましたが、いま歩んでいる道はそれぞれ異なります。そして、これは「3国」をいっぺんに訪れないと見えてこないように感じました。私たちは幸か不幸か、エストニア(といっても首都だけ、それもほんの一部ですが)に2回来ており、ほんの断片しか見ていませんでした。しかし今回、駆け足とはいえ「3国」をいっぺんに訪れ、そうした歴史的背景や文化的な基盤を目の当たりにすることができ、本当によかったと思います。

 

これで、この3国を語るときけっして抜きにできないポーランドを訪れてみると、また別の受け止めもできるように思えます。いつの日にか、ポーランド、さらには、リトアニアと地続きでありながら、いまなおロシアの飛び地になっているカリーニングラード(ケーニヒスベルク)にも足を運んでみたいものです。ケーニヒスベルクは北方十字軍の時代、ドイツ騎士団によって建設された町で、その後長らくプロイセン公国の首都でした。バルト海に面する不凍港として、ロシアはのどから手が出るほど欲かったところだったため、第2次世界大戦が終わるとすぐ、その一部を領有化することに成功し、いまもその状態が続いています。3国を取り囲むどの国も例外なく、ロシアに、ポーランドに、スゥエーデンに、デンマークに、またドイツに長い間影響を受けながらも、独自性を保ってきたことの意味。地続きで国境を接することの意味を改めて考えてみる必要がありそうです。

 

最後に。タリンの空港もコンパクトですが、機能性・利便性にかけてはかなりレベルが高いように感じました。ターミナルビルの真ん前までトラムが来ているのが象徴的。中も明るく広々としています。空港内では利用者ならだれでも、無料のWi-fiが提供されているといいますし、この国で開発されたスカイプ(Skype)のブースが設置されていました。

この空港はACI(国際空港協議会=国際空港の管理者の団体で、179カ国・地域にある1650の空港を運営する580団体が加盟)が毎年実施している「利用客が選ぶ優れた空港」部門で、2018年、ナンバーワンに選ばれた(年間利用客500万以下のカテゴリー)のも納得できる。当然、成田空港のように、ゲートまで行く通路が前面カーペットで覆われているようなこともありません。キャリーケースを引きながら歩く旅行者にとってあれはホント迷惑なんですね。カーペットを敷き詰めていいのは、せいぜいラウンジくらいのものでしょう。空港というのは豪華である必要はまったくありません。使い勝手がよくてナンボなのですから。これからますます発展していきそうなこの空港に、ぜひまた降り立ってみたいものです。

同じ場所も、コースが変わると初めてのよう

2019年7月8日

朝7時過ぎから、添乗員さんと一緒にホテル近くを小1時間散歩しました。「トームペア城」「キーク・イン・デ・キョク・ネイツィルトン」塔の横にある坂を上って下るだけでしたが、上り切ったところで目にした風景を見て、4年前のことを思い出しました。旧市街の中心エリアから客を乗せて30分ほど走る馬車に乗ったとき通った道を横切ったのです。国会議事堂の前を走る通りの手前のところでした。同じ場所でも、どこからどうアプローチするかでまったく印象が違うので、気がつくまで少々時間がかかった次第。日本大使館があるのも初めて知りました。

朝食後の観光も最初は早朝と同じコースをたどります。「アレクサンドル・ネフスキー聖堂」(ロシア正教の教会できらびやか)「大聖堂」(こちらはプロテスタントのため質素な造り)を見て展望台へ。その先は急な坂を下り、「聖ニコラス教会」を経て旧市庁舎のるラエコヤ広場へ。4年前のときと違い、今日は広場が小さなテントで埋め尽くされていました。衣料品や民芸品、アクセサリーや小物、お土産品など、40近くあったでしょうか。

     

  

今日のランチは事前に用意されておらず、「自由」。ただ、ヴィリニュスでもそうでしたが、参加者のほとんどは知識がないので、ほとんどが添乗員さんの教えてくれる店に行くことになり、結果としては通常と同じスタイルになります。

この日は広場近くの“中世料理”を食べさせる店とのこと。「中世」とくれば、たぶんジビエっぽい感じでしょう。こちらに来てからずーっと“肉攻め”にあっていたので、現地ガイドの女性に「どこか、近くに中華のお店はないですか?」と聞いてみました。すると。「あるにはありますけど、ちょっとお勧めできません」とのこと。しかたなく、とりあえず添乗員さんについて行ってみると、広場の裏手にある「Olde Hansa」という店でした。

店構えは、いかにも“中世”っぽい感じで、前を通れば「おやっ」となるような店ではあります。しかし、中に入るともっとリアルな“中世”で、照明はすべてロウソク。テーブルやイスも分厚い木で造られていて、ギシギシいう階段を上がり2階へ。ちょっと……という感じがしたので、席に着く前にリタイアを宣言、店を出ました。これといってアテがあるわけではなかったのですが、4年前に入ったカフェを思い出し、そちらに行きました。小さな店ですが、幸い混み合ってもおらず、オープンサンドとサラダ、カプチーノで済ませることに。肉、肉、肉でかなり疲れていたので、ライトな量がころあいでした。デザートのカプチーノ・ケーキも、ほどよい甘さ。

 

午後はバスで15分ほど走り「野外博物館」へ。海っぷちの森の中にある施設なのですが、とてもよくできており、ひと回りすると当地の人々が昔どのように暮らしていたのかがよく分かるというコンセプト。農家、漁師の家、風車、学校、教会などが点在する中を1時間ほどかけてゆっくり歩きます。どの建物も単に保存されているだけでなく、それっぽい服装をした係員が中におり、いまもそこで誰かが暮らしているかのような感じがします。木々の中を縫うようにして整備された遊歩道も広く、フィトンチッドが目に見えてるよう。日本で夏の真昼にこんなところを歩けば汗びっしょりでしょうが、最高気温が20℃にも行かない今日のタリンでは、そんな目に遭うこともありません。

 

圧巻のひと言! 「歌と踊りの祭典」

2019年7月7日

朝7時半にパルヌの町を出発、バスに2時間半ほど揺られ、3カ国目エストニアの首都タリンにやってきました。途中、小雨が降り出し霧が出てきたときはホント心配になりましたが、到着したときはすっかり雲が消え青空が。午前中は、旅行会社が用意してくれた、今回の目玉「歌と踊りの祭典」の「踊り」部門の出演者と交流するプログラム。会場は、さすが4つ星ホテル、ゴージャスなヒルトンです。

 

「歌の祭典」は1869年に始まり、そのときはオーケストラと合唱団が合わせて51、参加者は845人だったといいます。1934年から「踊りの祭典」が加わり、その後は不定期開催。それが5年に1回」となったのは1990年(第22回)から。ベルリンの壁が崩壊したその前年、エストニア、ラトヴィア、リトアニアの「バルト3国」では、「独立」の波がいやおうなしに高まります。そして、旧ソ連から「独立を回復」したのが翌1991年8月でした。

エストニアでは、「歌」は、それぞれの人生にとって、また社会全体にとって、とてつもなく重い意味があるようです。”singing revolution”=「歌う革命」によって、この国の人々はラトヴィア、リトアニアとともに、旧ソ連から自由を勝ち取りました。エストニアでは一滴の血も流されなかったといいます。

映像や写真で見るのと違い、各人が身に着けている民族衣装の素晴らしいこと。デザイン的にはごくシンプルなのですが、どの人の衣装も、それぞれの出身地域や出自が反映されているそうで、強い印象を与えます。女性のスカートのストライプ、ブラウスの形や模様、柄、またベストのデザインや色合い、スタイルによって、その人がどの地域の出身なのか、即座に分かるとのことでした。

私たちの質問にうれしそうに、また丁寧に答えてくださる様子から、5年に1回開かれるという今回の祭典に対する並々ならぬ思い入れが感じられました。現地ガイドの女性の日本語ははなはだつたないものでしたが、それでも出演者の気持ちはひしひし伝わってきました。東京オリンピックに出場する選手以上の熱さとでもいいますか。エストニアの人たちにとってこの祭典に出場するのはなんとも誇り高いことなのでしょう。

ヒルトンホテルを出て、旧市街の中心部「ラエコヤ広場」近くにある老舗レストランで昼食。大きな店とあって、私たちのテーブルに17人、すぐ隣にはおよそ40人、後ろにも40人、さらに別室にも20~30人ほどの団体が。しかも、すべて日本人です。少なく見積もっても100人近くの人が日本からやって来ているのですね。一瞬、ここは日本か? と錯覚しそうになりました。

ランチを済ませるとバスに乗り、郊外にある「歌の広場」へ。周辺は人、人、人、車、車、車、バス、バス、バスで、道路は大渋滞。会場に入っても、人であふれ返っていました。私たちの一行は1等席、しかもイスにすわって聴けるとのこと。地元の人は皆、芝生の上にそのまますわっています。家族連れ、カップル、出演者の近親者とおぼしき人たち、外国から帰国してきたエストニア人など、それこそ千差万別。その数合わせて、なんと9万人以上だそうです。そのうち出演者が3万5千人といいますから、それも当然かも。エストニアの全人口は140万足らずであることを考えると、とてつもないイベントであることがわかるでしょう。

何よりも、こういう場所があることにまず驚きました。会場に奥に設けられている野外ステージも度肝を抜く大きさ。少年少女たちによる合唱のときはなんと7000人近くの人(+オーケストラ)が上がるというのですから、想像してみてください。これだけの人数の歌声を──しかも合唱ですよ!──ひとまとめにすること自体、至難の業でしょう。ステージの橋に立つ少年少女から指揮者の動きを見るのも大変そうですし。

開会時間の午後2時ちょうどに到着したのですが、現地ガイドの不手際というか、事前のリサーチ不足というか、入り口を間違えたようです。結局、席にすわるまで30分以上も、人ごみの中を歩かされたのは残念でしたが、ステージには数百人から数千人の歌い手が入れ代わり立ち代わり上がってきます。そして、15分ほど歌い次の演目にという流れなのですが、歌によっては、聴衆のほうも一緒に歌ったり手拍子を送ったりと、言葉では表現できない一体感が伝わってきました。なかには、全員が口ずさんでいる曲もあり、ひょっとすると国歌かと思いきや、実際は違ったりします。それにしても、これだけの人数がそろってアカペラで歌える曲がいくつもあるというのも大きな驚き。日本にそういう曲があるのかなぁとふと考えたのですが、『ふるさと』くらしか思い浮かびません。それだって、1番はともかく、2番、3番となると、ソラで歌詞が出てくるかあやしいものでしょう。

 

私たちが会場にいられるのは午後5時半まで。それから夕食を済ませホテルに戻ったのは8時を回っていましたが、テレビのスイッチを入れるとまだ中継が流れていました。結局終わったのは10時を回っており、なんと8時間以上も続いていたことになります。しかも、朝からずっとCMなしで中継していたようですから、これもまたすごい! その夜遅く、EURONEWSのニュースでも報じられていましたので、ご参考までに。
https://www.euronews.com/2019/07/08/tens-of-thousands-of-estonians-perform-mass-folk-singing

日本語にチョー堪能な現地ガイドにびっくり!

2019年7月6日

リーガには1泊しかしません。旅行会社のスケジュールによると、今日の午前中は旧市街を歩いて回るだけ。1890年から1910年ごろに造られた新市街に足を踏み入れる予定はなし。それでは……と思い、朝早めに起き、新市街のユーゲントシュティール(アール・ヌーヴォー)建築が集中して建つエリアにひとりで行ってみました。ホテルからは歩いても10分足らずのアルベルタ通り、エリザベテス通り一帯には、これでもかというくらいそれ風の優雅な建物が。ミハイル・エイゼンシュタインの作品がズラリと並び、ほとんど野外美術館の様相を呈していました。

一つひとつの建物にそれぞれ趣向の異なる飾りがほどこされ、見ていても飽きません。つい数か月前に訪れたノルウェーの町オーレスンでもいくつか目にしたものの、質量とも圧倒的に凌駕しています。また、フランスのナンシーほど、道路の幅が広くないので、印象も強烈。もちろん、総本山的な存在であるブリュッセルにはかないませんが。

 

旧市街を歩いて回る観光をリードしてくれたラトヴィア人のガイド(ウギス・ナステビッチさん)は秀逸な方でした。日本語のうまさ・おもしろさもさることながら、話の内容が深いのです。聞けば、日本の神道を研究するために留学していたとのこと。大学の卒業論文も、ラトヴィア神道と日本神道との関係がテーマだったといいます。「ラトヴィア神道」とは、先にも触れましたが、この地の人々に古くから伝わる自然信仰のこと。日本と同じような“神社”の様式や“巫女【みこ】”の舞いを映像で見ると、ビックリ、日本そのものと言ってもおかしくありません。
https://ameblo.jp/toshi-atm-yamato/entry-12444314597.html
www.youtube.com/watch?v=ftzrNKJMSho

ウギスさんの本業は研究者らしく、いまでもたびたび日本を訪れ、さまざまな活動をしているようです。You Tubeにもこんな映像があがっていました。
https://www.youtube.com/watch?v=AUyw4QiJ0VQ
ネットに出ていた略歴には次のようなことが書かれています。
高校時代に独学で日本語を学び始め、日本語弁論大会で優勝。2007年の夏、さらに日本語力を磨こうと初訪日。日本では写真に打ち込み、なかでも人物写真と空撮に熱を入れる。現在はリーガに住み、写真家のかたわら、大学の日本語講師、翻訳家、通訳案内士として日本とラトヴィアの交流活動を展開中。
著書に『ラトヴィアに神道あり』など。修士論文のテーマは『日本神道とラトヴィア神道の神典における徳育体系』。映画『ルッチと宜江』(2016)『ふたりの旅路』(2017)他で通訳を担当。

どうりで日本語が上手で、話の内容も深いわけです。衣服や帽子などに見られる独特の模様も実は、古き時代のラトヴィア神道に由来するものが多いのだとか。しかも、よく見てみると、琉球(沖縄)人、さらにはアイヌ民族に伝わるそれとよく似た感じも。世界がどこでどうつながっているかわからない不思議さを学んだ気がします。

旧市街には、第2次世界大戦のさ中、空襲から逃れようとする市民たちのために急遽作られた「避難指示」標識(左向きの矢印)の跡もあれば、キリスト教が広まる前に信仰されていた神道由来の石像など、長い歴史を象徴するさまざまな事物が。旧ソ連から独立を回復するきっかけとなったバルト3国の“人間の鎖”のスタート地点を示す足跡のモニュメント、「自由記念碑」など、少し歩くだけで1000年近い歴史を体感することができ、興味は尽きません。

            

ステンドグラスが美しい「大聖堂」の中は広い回廊になっています。そこには古くから使われていた事物が展示されており、不思議なことに、日本の神社で目にする狛犬【こまいぬ】を思わせるような石像も。たまたま催されていたパイプオルガンのコンサート(30分間)も楽しむことができ、ラッキーでした。

ランチを終え、バスは一路エストニア屈指の保養地パルヌへ。港湾都市であると同時に観光都市でもあり、国内だけでなくフィンランドなどからも多くの観光客も訪れているようです。18世紀の大北方戦争(1700~21)によってロシアの統治下に入ってから、貴族たちのリゾート地としての開発が進められたとのこと。たしかに、町のそこかしこでキリル文字を目にしますし、ロシア正教の教会もありました。

ただ、リーガを出たのは今日の午後で、しかも明日も早朝出発ですから、ここでは寝るだけ。町にはさまざまな歴史もあるそうですし、家並みも面白いと聞いていたのでとてももったいない気がするのですが、このあたりがツアーの泣き所と言えるかもしれません。せめてバルト海に沈む夕日が見える、波の音が聞こえてくるとかいうのならまだ救いもありますが、それもナシ。宿泊するだけなら、もう少し気の利いたところがあるのではないかと思ったりもします。

夕食を食べに行ったのはロシア貴族のかつての別荘。いまではホテルとしても使われているようですが、広い敷地の中に建ち、素晴らしい庭園も備えた贅沢な店でした。ここまでは行かなくとも、周囲にはそのミニチュアのようなかつての別荘がいくつも立ち並んでいました。

 

 

   

ホテルに戻りテレビのスイッチを入れると、日中タリンの街中でおこなわれていた「歌と踊りの祭典」出演者(+家族・友人や関係者も?)によるパレードの模様が報じられていました。すると、日本から来ている参加者の姿が! 国内だけでなく、エストニアとつながりのある海外の国や町からも来ているようです。ネットで調べてみると、日本からやってきている一団はどうやら和歌山の児童合唱団のよう、昨年8月、エストニアラジオ放送少女合唱団が和歌山市内で開催された「国際児童合唱フェスティバル」に出演したのだとか。そうした縁があったのかもしれません。そういえば、去年の夏から秋にかけて、エストニアの合唱団が全国各地で公演していたような記憶がうっすらよみがえってきました。

カウナスで“日本のシンドラー”杉原千畝に思いを馳せる

2019年7月5日

朝食を済ませると、私たちを乗せたバスはヴィリニュスをあとにし、一路北に向けて走ります。まず立ち寄ったのが「聖ペテロ&パウロ教会」。雨が降り始めましたが、バスが駐車した場所からすぐ近いので、ほとんど濡れずに済みました。内部は、白漆喰【しっくい】の彫刻が壁から天井からびっしり覆い尽くしています。教会というと薄暗く、金や銀をふんだんに凝らした内装、天井画、ほこりっぽい感じの旗やカーテンが目につくところが多い中、内部がとても明るいこの教会は印象的です。この地域の人たちに共通する清楚さを象徴しているかのようです。

 

次の訪問地はカウナス。“日本のシンドラー”とも呼ばれる、かの杉原千畝【ちうね】で有名な町です。ヴィリニュスに次いで人口の多いカウナスですが、1920年ヴィリニュスがポーランドに占領(のちに併合)されてしまったため、臨時の首都になり、領事館が置かれたとのこと。そこへ杉原が領事代理として赴任したのは1939年8月28日。ドイツのポーランド侵攻により第2次世界大戦が始まるわずか3日前のことです。

日本の大使館は当時、憲法上の首都ヴィリニュスに置かれていました。ただ、実質的にはカウナスの領事館がその役割を果たしていたようです。ドイツの占領下にあったポーランドからリトアニアに逃げてきた多くのユダヤ系難民に、日本(この時代は大日本帝国)がビザを発給するようになったのもそのためです。

 

 

当時リトアニアを占領していたソ連は、同国に大使館・公使館・領事館の閉鎖を各国に求めていました。そうした中、まだ業務を続けていた日本領事館にユダヤ人難民たちがビザの発給を求めて殺到する事態になったのです。日本の発給したビザがあれば、シベリア鉄道でソ連を横断しハバロフスクまで行き、そこから日本海を船で渡り横浜、神戸、敦賀など日本まで行けます。その先は、希望する国に移動することができたからです。ユダヤ人難民の多くは、カリブ海にあるオランダ領キュラソー、スリナム、アンティルなどを名目上の行き先にし、日本の通過ビザを発給するよう求めたのです。

それは1940年7月18日から、杉原がカウナスを去る8月31日まで続いたそうです。その間、杉原がサインしたビザの発行枚数は2000を越え、それによって国外に出て難を逃れたユダヤ人の数は6000とも8000とも言われています。のちに“命のビザ”として称賛されたのも当然のことで、杉原は「諸国民の中の正義の人(正義の異邦人)」(=ナチス・ドイツによるホロコーストからみずからの生命の危険を冒してまでユダヤ人を守った非ユダヤ人であることを示す称号)を授与されています。全世界で2万6千人余いる中で、杉原はただ一人の日本人です。

そうした歴史的事実にちなみ、2000年に作られた「杉原記念館」を訪れました。閑静な住宅街の一角に建つかつての領事館兼住居をそのまま記念館にしたものです。当時、杉原よりひと足早く同じことをしていたオランダ領事ヤン・ズヴァルテンディクがそれ以前勤務していたフィリップス社の財政的なバックアップもあり、この記念館は維持されているようです。

中に入ると、最初ビデオを見ることになっており、それで事の次第がはっきり見えます。1階に当時の執務室がそのままの状態で保存され、2階はさまざまな展示が。執務机に向かって座り写真など撮ってもらいましたが、とてもにこにこ笑ってなどいられません。

 

杉原は岐阜県の八百津(やおつ)町の出身だそうですが、カウナスと姉妹提携を結んでいる都市が世界に15ある中には含まれていません。地元には杉原を顕彰する「杉原千畝記念館」「人道の丘公園」という施設があるのに、なんとも不思議ではあります。

記念館が建つ周辺は当時そのままとおぼしき建物がいくつか残っており、その姿を見ていると、杉原やその妻子も80年前、このあたりをきっと歩いたこともあるのだろうなぁと、感慨にとらわれました。

杉原記念館の見学を終え、カウナス市内で昼食。落ち着いた中に、長い歴史と現代感覚が感じられる町で、強い印象を受けました。食事をいただいた店は昔そのままといった雰囲気。

カウナスを発ち、バスは隣国ラトヴィアの首都リーガをめざします。途中「十字架の丘」という観光名所を訪れました。リーガまでの間、立ち寄るに値するスポットはここくらいしかないようです。この間の道のりはほとんど北海道! 右を見ても左を見ても、山がないせいかずーっと畑が続いています。ときおり森や林があるにはありますが、キホン真っ平ですから、心地よく走るバスの座席でうとうとしていてハッと目が覚めたとき外を見ると、一瞬錯覚してしまうほど、北海道の風景によく似ています。

 

 

それにしても、雨が降らずに何よりでした。「十字架の丘」までは駐車場から15分ほど歩いていくのですが、まわりは何も立っていない原っぱのような場所です。この日は風もかなり強く、そこに雨でも降られたら、大変なことになっていたでしょう。十字架の丘を出てしばらく走るとラトヴィアとの国境です。かつては厳しい出入国チェックがおこなわれていたであろう検問所も、いまではカフェやガソリンスタンドがあるのどかな雰囲気。こういう場を実際に通ると、検問が厳しかった時代はさぞかし重苦しい雰囲気がただよっていたのでしょう。それに比べるといまのこの明るさは……といった感じです。しばらく走ると、空に大きな虹が! リーガの町が近づいてくると、この町でいちばん高い建造物=テレビ塔が見えてきました。

 

 

町に入ると、リトアニアの隣国であるにもかかわらず、町の雰囲気が一変した印象を受けます。同じく「旧市街」と呼ばれるエリアがあるのですが、とても洗練されているのです。リトアニアのヴィリニュスが内陸の町であるのに対し、こちらは港町なので開放的というか、商業・ビジネスと縁が深かったのでしょう。

バルト3国はもともと“異教の地”で、なかでもラトヴィアは自然信仰が強い地域だったようです。12世紀に入ると、その一帯にもキリスト教を広めようと、デンマーク、スウェーデン、ポーランド、ドイツ騎士団などによって作られた北方十字軍は先住民に対し情け容赦なく振る舞ったといいます。そのためキリスト教徒は最初のうち、悪者としか思われていなかったとのこと。しかし、信仰心そのものは篤かったのでしょう、ひとたび帰依するとその信仰は深く、そこいらじゅうに教会を建てたようです。

 

その教会の合い間合い間に洒落た建物が立ち並び、行き交う人々やカフェで談笑している人たちの顔を見ても、いきいきとした表情。そんな旧市街を出てすぐ、新市街とのほぼ境界あたりに、今日泊まるホテルがありました。その名も「Grand “Poet” Hotel by Semarah」というところを見ると、その昔、著名な詩人が泊まったりしたのでしょうか。と思って調べてみたのですが、要は建物だけが古く、その内部をリノベーションして Semarah という会社が昨年オープンさせたばかりのデザインホテルのようです。

まあ、それはそれとして、ロケーションは最高。前と後ろがともに大きな公園で、「国立劇場」や「博物館」「自由記念碑」といったスポットのすぐ近く。町の中心部から歩いても30分はかからないくらいなのに、空気も澄み切っていて、都会の喧騒とはほとんど無縁といった感じがします。ただ、団体で泊まるツアーの客にさほどよい部屋が供されるはずもないわけで、私たちの部屋も外側の景色は一切見られませんでした。

 

そこかしこに教会が建つ世界遺産の街・ヴィリニュス

 

2019年7月4日

朝、正規の街歩き観光の前、添乗員さんが「よかったらご一緒に少し散歩しませんか」という声をかけてくださり、一も二もなく参加。ホテルから歩いて15分ほどのところにあるマーケットまで行きます。夏とはいえ、朝7時を過ぎたばかりですから、少し肌寒い感じも。マーケットの中はまだそれほど人が来ておらず、ゆっくり見て回ることができました。新聞・雑誌を売っているコーナーをのぞくと、リトアニア語のものに混じってロシア語版もけっこうあることに気づき、驚きます。独立を回復してから30年近くたっているのに、ですね。

そこから、昼間は観光客で混雑するという「夜明けの門」に。祈りをささげる人が朝早くから訪れています。すぐ近くには「聖テレサ教会」「精霊教会」「聖三位【さんみ】一体教会」「聖カジミエル教会」など、名だたる教会がいくつも立ち並んでいました。私たちのホテルの真ん前には「ロシア正教教会」、裏手には「聖ヨハネ教会」……と、右を見ても左を見てもとにかく教会だらけ。尖【とが】ったアーチが特徴のゴシック様式ではないので、どれも皆まろやかな印象を与えます。

 

午前中は旧市街を本格的に歩きます。「旧市庁舎」を手始めに、再び「夜明けの門」、「ヴィリニュス大学」「ゲディミナス城」「王宮」「大聖堂」「大統領官邸」など、さほど広くもないエリアでしたが、見どころは多々あります。それにしても、教会の多さには驚くばかり。なにせ、大学の中にも教会があるのですから。

  

街歩きはさらに続きます。ヴィリニュスではごく珍しいゴシック様式で建てられている「聖アンナ教会」は息を呑むほど新鮮。その隣に建つ「ベルナルディン教会」のファサードがのっぺりしているので、その鋭角的なたたずまいがよけい強調されて見えます。

 

2つの教会の先に、都心とは思えない渓流が。そこに架かる橋を渡ると、なんとも不思議な空間がありました。その名も「ウジュピス共和国」。長らく橋が架けられていなかったため、古い時代の雰囲気がそのまま残っています。ジョークで「独立共和国」を名乗っているのが面白いですね。

食食後、旧市街からバスで40分ほど走ったところにある古都トゥラカイへ。長らく放置され荒廃していたのが整備された古城が湖に映える美しいところです。城があるのは湖に浮かぶ小島。そこに渡る木製の橋が情緒たっぷり。湖水もほとんど透明で、水鳥がのんびりと泳いでいました。

 

 

 

 

 

トゥラカイから戻ると夕食まで休憩。それでも休憩できないのが私。旅先でボーッとしていることなど、できないのです。そこで、夕方から私ひとりで、旧市街でも別のエリアを探検してみることに。ステポノ通りといういちばんにぎやかな通りを歩きました。アール・ヌーヴォーの建物がけっこう目につくのが印象的でした。これも、旧市街が世界遺産に指定されている所以でしょう。

ただ、どの都市もそうですが、石畳の道なので、長く歩くと疲れてきます。それを忘れさせてくれるのが、町を行き交う人たちの生き生きとした笑顔。さすが首都の目抜き通りといった感じがします。若い人たちは夢と希望にあふれているせいか、だれもがいい笑顔を見せていました。

 

鉄道駅のようなヴィリニュスの空港

2019年7月3日

成田を11時過ぎに出発、途中フィンランドのヘルシンキで乗り継ぎ、リトアニアの首都ヴィリニュスの空港に降り立ったのは午後6時過ぎでした。さすがここまで来るとやはり北国、気温も、16℃という機長のアナウンスにもあったように、日本に比べるとかなり低め。半袖シャツ1枚では少し寒いくらいです。といっても夏ですから、それほどこたえはしませんが。

空港の規模は、日本の地方空港、そう、最近利用したところでいうと鳥取とか秋田あたりの感じでしょうか。内部も、空港とは思えないようなゆるりとしたしつらえが見られます。それでも、一国の首都ですから、出発・到着を示す案内ボードを見ても、イスタンブール、アムステルダム、ロンドン、パリ、ウィーン、バルセロナなど、国際線もかなり行き来しているようです。全体としてこじんまりした感じ、それ故タイト。外に出て空港ビルを見ると、ほとんど鉄道の駅のような印象を受けます。屋根の上から、四方がガラス張りの塔めいた部分がちょこんと飛び出ているのですが、これがひょっとして管制塔なのかもしれません。

ホテルまではバスで10分少々。最初は畑と森でしたが、途中からだんだん都会らしい雰囲気に。といっても、ビルはあまり見かけません。高い建物といえば教会くらいでしょうか、その数の多さには驚きます。同じバルト海に面しているスカンジナヴィア諸国やドイツと比べても、かなり多いのではないかという気がします。ホテル到着は夜の8時前。この時期のヨーロッパはどこでもそうですが、時刻のわりに太陽の位置がまだ高いので、時計を見ると驚きます。今日の日の入りは夜10時少々前だそうです。

インド大使館でおこなわれた「インド舞踊の会」

2019年4月29日
とりたててガンディーを尊敬しているわけではないのですが、今年は「生誕150年」ということもあって、インド関連のイベントには皆それが謳われているようです。今日は家人の友だちが主宰しているインド舞踊教室が大使館で発表会をするというのでお供してきたのですが、そこでも入口にはガンディーの有名な写真がパネルにして飾られていました。

その昔インド大使館は高田馬場にあったように記憶しているのですが、いつの間にか、皇居にも近い九段下に移転してきたようです。それも立派なビルになっていて驚きました。正確に言うと、大使館は昔からいまの場所にあったようで、高田馬場に合ったのは大使公邸だったみたいです。

さて、その中にある小さなホールが今日の会場。インド舞踊というと、映画でよく見る集団踊りのようなものをイメージしてしまうのですが、今日は違います。2~5、6人くらいの、比較的スローテンポの踊り。独特のメイクと衣装が印象的です。楽器も、あまり見たことのないものばかりで、独特のメロディーに合わせ、優雅な踊りが次々と披露されていました。

昨年から今年にかけて、ヨーロッパのメジャーなテレビ局では「Incredible India」というキャッチコピーのCMを盛んに流していましたが、大使館の建物にも、同じ文字を刷り込んだ大きなポスターが。インドはやはり“信じられない(ほどの不思議さを秘めた)”国なのでしょう。

カレーライスも“インドの叡智”

2019年4月20日
私も含め日本人が大好きなカレーライス。そのルーツがインドというのは、どなたもご存じのことでしょう。東京都心の神田神保町を中心としたエリアには、いまや500軒を越えるカレーライスの店があるのだとか。毎年11月に開催される「神田カレーグランプリ」も年を追うごとに参加者が増えているといいます。

といって、神田神保町とインドとの間に深いつながりがあるわけではありません。この一帯が昔から学生街だったことでカレーの店が増えたと言われています。手軽で安く食べられるのは、ふところのさびしい学生にとって最大の魅力だからです。

その日本で初めて本場インド流のカレーを提供したのは新宿中村屋だそうです。そう、寺山修司がその昔、「週刊プレイボーイ」の人生相談を担当していたとき、自殺したいという男性に、「君は新宿中村屋のカリーを食べたことがあるか? なければ食べてからもう一度相談しなさい」と答えたという、中村屋のカリーです。

中村屋が新宿にレストランをオープンしたのは1927年。そのときのメニューに登場したのが「純印度式カリー」でした。その当時、カレーはすでに広く食べられていましたが、それはあくまで欧州式、正確には英国式のもの。インドの宗主国だったイギリスが、現地のスパイスを小麦粉と一緒に使いシチュー風のカレーを国内に広めたのですが、そのレシピを日本人が持ち帰り、日本人好みのアレンジをほどこしたものです。

しかし、インド人からしてみると、それは本来のカレーとはほど遠いものでした。「東京のカレー・ライス、うまいのないナ。油が悪くてウドン粉ばかりで、胸ムカムカする。~略~カラければカレーと思つてゐるらしいの大變間違ひ。~略~安いカレー・ライスはバタアを使はないでしョ、だからマヅくて食へない」(中村屋ウェブサイト)と嘆いたのが、インド独立運動の志士ラース・ビハーリー・ボース(1886~1945)。 ボースは1912年、独立運動の中でイギリスのハーディング総督に爆弾を投げつけたカドでイギリス政府に追われ、15年に日本に亡命します。日英同盟を結んでいた日本政府はボースに国外退去命令を出しましたが、そのときボースをかくまったのが中村屋の創始者・相馬愛蔵。逃避行を続けるボースを支えたのが相馬の娘で、二人はやがて結婚しました。

その後、“無罪放免”となったボースは日本に帰化、中村屋の役員に。そして、相馬が新宿にレストランを開くとき、メニューに「純印度式カリー」を取り入れたのです。最初はその味を敬遠する日本人も多かったようですが、ひとたび慣れ始めると大好評を博するように。このころ町の洋食屋のカレーが10~12銭だったのに対し、中村屋のカリーは80銭しましたが、飛ぶように売れたそうです。

ボースは同じくインドの独立をめざして活動していたマハトマ・ガンディーとは考え方を異にしていたため別々の道を歩み、1945年、独立を見届けることなくこの世を去りますが、その伝記『アジアのめざめ─印度志士ビハリ・ボースと日本─』(相馬黒光【こっこう】・相馬安雄共著 1953)に今日出会いました。場所は文京区・本駒込の東洋文庫。たまたま見に行った「マハトマ・ガンディー生誕150周年記念 インドの叡智展」に展示されていたのです。

  

ひょんなことでひょんな知識が得られるのは大きな喜びですが、これもその一例。まして好きなカレーにまつわる話ですから、テンションは大いに上がりました。ちなみに、ボースの腹心として活動していたのが、同じ時期に京都大学に留学中のA・M・ナイル(1905~1990)で、ナイルは1949年、東京・銀座に日本初のインド料理店「ナイルレストラン」を開業しています。

帰り道、家人の案内で、“日本一ショートケーキがおいしい”という「フレンチパウンドハウス 大和郷店」に立ち寄ったのも利いたかもしれません。店名に見える「大和郷(やまとむら)」という言葉のいわれも深いものがあるようです。大和郷はいまは文京区本駒込六丁目になっていますが、都内でも屈指の高級住宅街のこと。場所は六義園【りくぎえん】のすぐ近く。六義園は、もともと加賀藩の下屋敷を幕府側用人【そばようにん】の柳澤吉保が拝領したあとに造らせた庭園です。吉保は隠居後もそのまま住み続ける一方、柳澤家が大和郡山へ転封となったため「大和」の名が残ったといいます。

明治に入り六義園も新政府に返上されましたが、それを購入したのが旧三菱財閥の祖・岩崎彌太郎。彌太郎は六義園の修築に力を入れるとともに、周辺の土地も購入し、その一角に別宅も構えたそうです。 その後、三菱の3代目・岩崎久彌が1922年、それらの土地を「大和郷」として分譲し、近代的住宅地として造成したといいます。三菱の関係者はもちろん、第24代首相・加藤孝明、第25・28代首相・若槻礼次郎、第44代首相・幣原喜重郎【しではらきじゅうろう】と、歴代首相が3人も住んでいたことでも知られています。

 

 

 

外はチョー寒くても、人々の心は温かい

2019年3月29日
最後の寄港地キルケネスに到着したのは朝9時。ここまで走った距離は2465km。青森から石垣島までの距離とほぼ同じです。今日は昨日以上の天気で、空は真っ青、雲ひとつない快晴です。ロシアと国境を接するこの町は、一定の範囲内なら両国民がビザなしで行き来できるそうで、お互い、安いものを求めてキルケネスに行ったり、隣のムルマンスクからロシア人がやってきたりするとのこと。シンガポールとマレーシアの国民が行き来するジョホールバルのような感じでしょうか。

空港から国内線で首都オスロまでは1時間30分。最初は真っ白だった地上の景色が、南へ降りるにつれどんどん緑色と茶色とグレーのまだらに変わっていきます。オスロの空港からは途中、車窓観光をしながらホテルまで。最初は「おやっ」と思った程度でしたが、部屋に入り、窓から町を見下ろすと、5年間に来たときに泊まったホテルかも……と。

荷ほどきを済ませホテルの近くを歩くと、家人は記憶がどんどん蘇ってきたようで、「あのATMでお金を引き出そうとしたらできなかったのよ」とか「その店で買ったミネラルウォーターが1本500円もしてびっくりしたでしょ」などと言います。それでようやく、私も思い出すという始末で、記憶力が落っこちているのにガックリしました。

夕食は素晴らしい店でいただきました。最後なので旅行会社もいいところを用意したくれたようです。市庁舎前広場の最南部、湾に面したエリアに、小さな船が行き来する桟橋が。「Aker Brygge」という、えらくおしゃれなショッピングモールの周りに、ガラスをいっぱいに使った建物がいくつも並んでいます。その一角にある「Lofoten」というレストランでしたが、シーフードもおいしく、ワインもGOOD! 全員お腹いっぱい大満足で食べ終えました。

店の名前にもなっているロフォーテン(諸島)は、明るい時間帯に航行しなかったので、いちばん美しい景色は見れずじまいでしたが、ツアーに参加していた方で、それをとても悔しがっている方もいたほどですから、よほどのものなのでしょう。しかし、それを差し引いたとしても、今回経験した6泊7日のクルーズは、私自身のクルーズに対するイメージを大きく変えたと言えます。

それは、大きな海を走っていても、船の左右どちらか一方にでも陸地が見えると、私たちを飽きさせないということです。当たり前といえば当たり前ですが、フィヨルドの場合はその変化が大きく、少しも油断できないところがあります。ボーッとしているとまったく景色が変わっており、新しい楽しみを発見できるのです。夏も冬も、これほど変化に富んだフィヨルドという大自然を満喫できるノルウェーをうらやましく思いました。外はチョー寒いですが、温厚な笑顔を見せてくれるかの国の人たちの心根には、そうしたことに由来するやさしさが強く息づいているような気がします。