サッカーW杯でベルギーに負けた理由

2018年7月4日
今回のサッカーW杯@ロシアは、これまでになく面白いゲームの連続でした。私のようなラグビー派はどちらかというとサッカーを好まない者が多いのではないかと思うのですが、スリリング度という点では、正直、サッカーのほうがラグビーを上まわっているかもしれないと感じました。

一昨日の決勝トーナメントで日本はベルギーと戦い、2-3で惜しくも敗れました。後半34分までは2-1とリードし、これはひょっとして……とも思わせたのですが、ゲーム終了前の10分間で立て続けにシュートを2本決められ、万事休す。善戦を称える者もいましたが、やはり「地力の違い」「鍛えられ方が足りない」など、シビアな意見が多数を占めていたようです。そうした中、日本代表の元監督ザッケローニのコメントには共感を覚えました。ちょっと長くなりますが、そっくり引用します。

「ザッケローニ氏、V弾許したのは日本人の性格も影響
サッカー元日本代表監督のアルベルト・ザッケローニ氏(65)は、ワールドカップ(W杯)決勝トーナメント1回戦でベルギーに敗れた日本について「残念だった」と語ったと、4日付の伊紙ガゼッタ・デロ・スポルトが報じた。
2点を先行しながらも、後半ロスタイムに決められて初のベスト8入りを逃した日本にザッケローニ氏は「残念だ。最後に日本は無邪気なところを見せてしまった。彼らの文化やDNAにはマリーシア(ずるがしこさ)は存在しないからだ。(カウンターを仕掛けられた時に)戦術的なファウルで(失点を)防げたが、彼らには(ファウルで止めることは)理解できないことだ」とコメント。日本人の性格では決勝点となったカウンターを止められないと主張した。
「ベルギー戦で、私はまだベンチに座っているように、日本を応援し、期待した」と、日本を離れて4年が経過したが、いまだに愛着を持って見ていることを明かした。
さらに今回の敗戦が日本にとって失望ではなく、今後の成長につながる希望の敗戦になるという。
「この敗戦が日本にとって問題となるわけではない。日本国民の代表に向けるリスペクトと情熱は常に高く、8強に近づいたことは誇りをさらに持たせ、この敗退を最悪の事態とは受け取らずに、経験をより豊富にし、さらに向上するためのチャンスと受け取るだろう」と、日本人のひたむきな性格が日本のサッカー界をさらに押し上げるだろうと語った。」
https://www.nikkansports.com/soccer/russia2018/news/201807040000661.html

「無邪気なところ」というのは、もう少し突っ込んだ言い方をすれば「勝負弱さ」とか「厳しさの不足」といったニュアンスなのでしょうが、要は、農耕民族の日本人はキホン「お人好し」なところがあるということなのかも。狩猟民族とは本質的に違う文化・環境の中で生を営んできた日本人に「malizia(マリツィア)」を求めることはできないと。

もちろん、日本のプレーヤーにも「勝負への執着・こだわり」はあります。でも、それはあくまで、お互いが生き延びるという前提があってのことで、相手を蹴落としたり叩きのめしたりことにはならないのですね。蹴落としたり叩きのめさなければ生き続けることのできない「狩猟文化」社会においては、それもまた人間に求められる重要な資質なのだと言われてしまえば、黙るしかありません。ザッケローニは、日本代表の監督を務めている間ずっと、そうした部分を、勝負とどのように調和させるかで悩み抜いていたのでしょう。サッカーは、ほんの10秒かそこらで勝負が決まることも少なくないので、怖いと言えます。

王室の元植物園が動物園に

2018年6月30日
昼間はドゥシト動物園に行ってみました。
国王ラーマ5世(在位1868~1910)の私庭(植物園)だったものを1938年、動物園としてオープンしたものだそうです。この界隈は「ウィマンメーク宮殿」(動物園と背中合わせ)や「アナンタ・サマーコム宮殿(旧国会議事堂)」など王室の施設が数多くあり、一般人とはあまり縁がなさそうな場所といった感じがします。

こちらは普通の動物園ですが、もともと植物園だっただけに、木や花がびっしり生えています。そのため木蔭が多く、歩いていても暑さがそれほど気になりません。また、園内にはカートも走っており、疲れたと思ったときはそれに乗れば楽に移動できます。

こちらもひととおりの動物がそろっており、昨日行った「サファリワールド」の動物たちより心もちおとなしそうな印象を受けました。「サファリワールド」の動物たちはのびのびしており、より“野生”が息づいているように感じましたが、こちらは“野生”よりも人間との“共生”を意識しているとでも言えばいいでしょうか。当たり前といえば当たり前ですが、動物も人間と同じく、どんな環境に置かれているかによって影響を受けるのですね。

 

予定では、このあと先に記した二つの宮殿を訪れるつもりでしたが、ギラギラ照りつける太陽のもとではそこまで行く気持ちも失せ、早々にリタイア。すぐ近くにあって場所もわかりやすい「ワット・ベーンチャマボピット(大理石寺院)」に立ち寄ってみました。イタリア産の大理石というだけあって立派な造りの建物ですし、境内に人工の水路があったりして、もう少し涼しければゆっくりくつろぐこともできたのでしょうが、ここもまた太陽から逃れるすべがありません。結局、早々にホテルに引き揚げることに。

夜は高校時代の友人Sくんの手配でフカヒレを食べに行きました。空港にほど近い場所のようでしたが、さすが在住30年近いSくんのメガネにかなった店、おいしかったです。食べても食べてもお皿の中からフカヒレが湧いてくるような感じがたまりません。日本だと、フカヒレは高級店でしか食べられないといったイメージがありますが、以前のマカオもそうだったように、中国文化圏では大衆料理=山ほど食べるのがフカヒレなのでしょう。

ちなみに、「マンダリン・オリエンタル」の一件をSくんに話したところ、こう言われました。「マンダリン・オリエンタルに行きたいときは「オリエン(タル)」とだけ言えばいいのだそうです。以前の名前のほうが通りがいいのですね。

外国人でいっぱいのバンコク

2018年6月29日
前回来てから5年(3年前にも立ち寄ってはいますが、このときはトランジットのためだけ)しか経っていないのに、バンコクは大きく変わった感じがしました。いちばんの変化は外国人旅行者が多いこと。大半は中国人で、見た目よく似ているのでさほど目立ちはしないものの、それでも団体で動いているとすぐわかります。今回はバンコクでも超有名なスポットは避けていますが、それでも、です。

今日行ったのは、「サファリワールド」。空港から比較的近いエリアにあるようで、ホテルからはゆうにタクシーで30分はかかりました。しかし、ここのサファリは大規模です。アフリカのそれとはもちろん比ぶべくもありませんが、広さがすごい。しかも、インドやオーストラリアなど、海外からの客も目につきます。

 

 

タクシーの運転手さんと帰りのことを打ち合わせしたあと、チケットを買う場所など、詳しく説明してくれたので助かりました。要するに水族館と動物園がセットになっていて、片方だけでもOKであると。ただし、その旨をはっきり窓口で伝えなくてはいけない。また、カートに乗って見学するのと、中を歩いて回るのとでは、コースも違えば料金も違う……といったたぐいのことです。私たちはカートで回るほうを選びました。

所要時間は1時間弱。広い園内を屋根付き・ガラス貼りのカートで移動していくのですが、どの動物も大変な数がいます。キリンに至っては100頭近くいましたし、ライオンやトラも軽く20頭以上。これだけの数のキリンですから、間近で見たかったですし、エサやりなどというイベントもあったようなので、そちらにも参加したかったのですが、時間の制約もあります。それでも、次から次へ、窓の向こうにあらわれる動物たちを見て満足しました。

  

「サファリワールド」からホテルまで戻り、午後はゆっくりすることにしました。とにかく、暑かったのです。ホテルの中は寒いくらいエアコンが利いていますし、それより何より、このホテルのアフタヌーンティーはとても人気があると知っていたので、早いうちに席を確保する必要があります。広々としたコーヒーラウンジ(3つくらいのエリアに分かれている)の一角に案内され、手渡されたメニューを見ると前菜風のパートが3パターン。私が選んだのはオリエンタル風の品々でそろえたものです。本場のイギリスでも、もちろん日本でも目にしたことのない内容で、新鮮な感じがしました。

 

夜は、ホテルの船着場から川を下ったところにある「アジアティーク・ザ・リバーフロント」に行ってみました。もともと倉庫街だった場所を巨大なショッピングモールにリノベーションしたようです。といっても、中は1坪ショップのような小さな店がびっしり(1500軒もあるのだとか!)。どの通路も細く、すれ違うのがやっとといった感じです。周りはほとんどがレストランで、日本食の店(“もどき”も含めて)もあります。そして、ここもまた外国人客でいっぱいでした。

バンコク「マンダリン」ホテルのミステリー

2018年6月28日
久しぶりにタイのバンコクを訪れました。雨季で暑い時期でもありますが、キャセイパシフィックのマイレージが貯まっていたので、その消化もかねての訪問です。キャセイなので、羽田からは香港を経由し、バンコク到着は夕方です。飛行機代が浮いたので、バンコクでの宿泊は最高級と言われるマンダリン・オリエンタルを奮発。もちろん、家人のためですよ。

市内までは空港からタクシーに乗ったのですが、このドライバーが「?」でした。「着きましたよ」とドアを開けてくれ、トランクからおろした荷物はドアマンがさっさと建物の中に運び込みます。さっそくフロントでチェックインしようとしたのですが、係員が「お名前が見当たりませんが……」と。予約確認書のプリントアウトを取り出して見せると、これがなんと「マンダリン」違い。実はバンコクにはもう一つ、「マンダリン」と名のつくホテルがあるのだそうです。私たちが予約していたのは「マンダリン・オリエンタル」で、こちらはただの「マンダリン」でした。ドライバーが早合点して後者のほうでおろしてしまったわけですが、「じゃあ、移動しなくては」となったときは、そのタクシーの姿はありません。仕方なく別のタクシーで移動したのですが、こんなこともあるのですね。

「オリエンタル」のほうはチャオプラヤ川のほとりにあり、たしかに「超高級」といった感じがありあり(念のため書き添えておきますが、ただの「マンダリン」のほうもそこそこ高級そうでしたよ)。なにせバンコクで初めて(1887年創業)の西洋風ホテル(名称は「ジ・オリエンタル・バンコク」)ですから当然でしょう。その後「マンダリン・オリエンタルホテル」グループに買収された後も長らく創業当初のままでしたが、2008年から「マンダリン・オリエンタル・バンコク」に変わったのだそうです。

それはともかく、部屋に案内されると、立派なウエルカムフルーツが置かれ、部屋からの眺めも最高。高層ビルの姿が水面に美しく映え、川を行き交う大小の船もロマンチックな雰囲気を醸し出しています。

 

東京湾に浮かぶ、唯一の自然島・猿島へ

2018年6月23日
今日は、太平洋戦争の悲惨さを象徴する沖縄の地上戦が終わった日。なんとはなしに厳粛な気持ちになります。それと直接の関わりはありませんが、今日、こんな話を聞きました。8月15日に日本が無条件降伏を受け入れ、その文書に調印したのは9月2日。場所は東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリの艦上です。連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーがこの船を選んだのは、時の大統領ハリー・S・トルーマンがミズーリ州の出身だったからだそうです。しかも、同船が停泊していたのは、かつてペリーが日米和親条約調印の際に旗艦ポーハタン号を停泊させていたのと同じ位置。

それだけではありません。ミズーリ号が掲げていた星条旗は、1853(嘉永6)年、ペリーが浦賀に来航した際に乗っていた旗艦サスケハナ号に掲げられていた星条旗だったといいますから、なんとも念が入っています。日本人はすぐに歴史を忘れてしまうと言われるのに対し、アメリカ人はこういうふうにして、歴史を忘れない=風化させないようにしているのです。

今日から明日の1泊2日で、恒例の「東京明和会・大人の社会見学」。今回の行き先は横須賀で、三笠桟橋から小さな船に乗って10分ほどの沖合にある猿島がメインの目標です。ガイドさんから先の話を聞きながら、無条件降伏の署名がおこなわれた場所を見ることもできました。

猿島は東京湾に浮かぶ、唯一の自然島で、面積は横浜スタジアムのグラウンドの4倍ほど。旧日本海軍の要塞だったため、戦前は一般人の立ち入りが禁止されていたといいます。木々が生い茂る中、レンガ積みのトンネルや砲台跡などの旧軍施設が残っていました。どちらかというとマイナーなスポットでしょうが、意外や意外、若い人がけっこう来ているのには驚きます。

猿島からそろそろ横須賀に戻ろうというときに雨が降り出しました。三笠桟橋に戻り、係留されている「戦艦三笠」を見学。数年前、取材で訪れたところですが、今日はたまたまボランティアガイドさんの説明付きの時間帯だったため、たっぷり1時間半、詳しいお話を聞きながらの見学となりました。

下船したときは2時をとうに回っており、予定していた横須賀海軍カレーの昼食に間に合うかどうか。案の定、その店に行ってみると、「CLOSED」の看板が……。アチャーッとなりましたが、幹事のNくんが店主にかけあい、半ば強引にドアを開けてもらいました。そこまでした甲斐があり、おししい横須賀海軍カレーを食べることが。牛乳とサラダと一緒に食べるというのがミソのようです。かつては、ビタミン不足で死に至る海軍の兵士が多かったからなのだとか。

続いて行ったのがヴェルニー公園。構内に階段がまったくなく、改札口からそのままホームに行けるようになっていることで知られるJR横須賀駅の手前にあります。園内にはフランス式花壇や音楽に合わせて水が動く噴水、洋風のあずまやも。少しずつ時期を変えながら花開くバラの数は2000株ほど。この日も、雨の中、美しい花を咲かせているバラが数十本見られました。「日本の都市公園100選」「日本の歴史公園100選」に選ばれているそうで、海沿いのボードウォークを歩けば、潮風がさぞかし心地よいのではないでしょうか。

   

ところで、ヴェルニーというのは1865から76年まで日本に滞在したフランス人技師の名前です。横須賀製鉄所、横須賀造兵廠、横須賀海軍施設ドックや灯台など、さまざまな施設の建設を指導し、日本の近代化に貢献した人物。その横須賀製鉄所が対岸に望めることにちなんで公園の名がつけられたそうです。

横須賀本港に係留されている船やアメリカの海軍基地、海上自衛隊地方総監部を見ながら公園を抜けたところに建つのが「ヴェルニー記念館」。幕末、同製鉄所に持ち込まれたスチームハンマー(国指定重要文化財)が保存・展示されています。そう言われても理解できない私はじめ文科系出身の仲間に、理科系出身のMくんやNくんがきちんと説明してくれました。急傾斜の屋根と石の壁は、ヴェルニーの故郷ブルターニュ地方の住宅の特徴を取り入れているのだとか。

ラグビーはやっぱり空の下がいい!

2018年6月16日
前週から次週にかけて、ラグビーのテストマッチが3試合組まれています。日本だけでなく、このひと月ほどの間は、世界各国の代表チームがそれぞれテストマッチをおこなうよう、「ワールドラグビー=WR」という統括団体がスケジューリングしているのです。ちなみに、次の予定は今年の10月下旬から1カ月間です。

前の週、日本代表はイタリア代表との試合で快勝しました。2015年のW杯で南アを破り、「奇跡」と言われてからまだ3年弱。それでも、この間に日本代表が強くなったのは誰もが認めるところです。今週もそのイタリアと対戦するというので、名古屋でのインタビュー取材のついでに、神戸まで足を延ばしてみました。

新神戸から地下鉄を乗り継いで行ったのが御崎【みさき】公園という駅。そこから10分ほど歩くと会場のノエビアスタジアムがあります。もちろん初めてなのですが、なんと、屋根が付いているではありませんか。もともとはメインスタンドとバックスタンドだけに屋根が設けられていたようですが、サッカーW杯(2002年)がおこなわれたあと、開閉式の屋根が作られたとのこと。

 

夜のゲームならそれほどでもないでしょうが、この日は日中のゲームで、外はピーカンなのに、グラウンドの上が3分の2ほど屋根に覆われていると、どうにも違和感を禁じ得ません。雨でも少々の雪でも試合がおこなわれるラグビーですが、私自身がプレーしていた時代はキホン、夏を除く3シーズン、なかでも秋から冬にかけての時期の昼間というのが常識でした。しかし、時代を経るにつれ、夜の試合も増え、季節にもこだわらなくなっています。

それでもやはり、昼間のラグビーの試合は青空の下でというのが、いまなおわたし的な常識なので、どうにも気になって仕方ありません。来年の9月26日、このスタジアムでラグビーW杯予選Cプールの「イングランドvsアメリカ」の試合を観ることになっていますが、そのときはどうなるのか、いまから気がかりです(ただし、試合は夜)。

ラグビーで室内のスタジアムというと、ニュージーランドのダニーデンという町にある「オタゴ・スタジアム(現フォーサイスバー・スタジアム)」が有名です(まだ行ったことはありません)。こちらは、ピッチの37メートル上に太陽光を通す透明の天井があり、さらにその上にも可動式の屋根が設けられている完全な屋内スタジアムで、スーパーラグビーの強豪ハイランダースの本拠地。ニュージーランドでは唯一の室内球技場で、それでいて100%天然芝といいますから、素晴らしいですね。一度、このスタジアムで観戦してみたいと思っているのですが、まだまだ先のことになりそう。ちなみに、コベルコスタジアムは日本では初めてというハイブリッド芝(天然芝96%+人工芝4%)だそうです。

復活した名古屋城「本丸御殿」

2018年6月15日
小・中・高と名古屋で過ごしたにもかかわらず、名古屋城を見たのはこれまで1回だけ。数年前のことで、このときは取材で訪れました。2回目の今日は、「本丸御殿」が江戸時代のままに再建されたと知ったからです。太平洋戦争末期の名古屋大空襲で、天守閣は幸いほとんど焼けずに済んだのですが、「本丸御殿」はすべて焼け落ちてしまったとのこと。しかし、写真や設計図が残っていたので再建は可能であるということから話は始まったといいます。

河村たかし市長の強力なリーダーシップで、10年前に話が決まったのですが、いちばんの問題点は建設資金の調達です。総工費150億円を、どこで、どのように確保するのか。お金にはうるさい名古屋ですから、かなりすったもんだがあったと聞いています。

そうした中、市民の寄付も募りながら、なんとか実現に漕ぎ着けたのですから、名古屋もまんざらではありません。というわけで、オープンしてまだ10日しか経っていない「本丸御殿」をじっくり見学することにしました。この日はすぐ近くである方のインタビューがあったのですが、午前の部と夕方の部に分かれていたため、その合間の時間を利用させてもらいました。

 

当初の熱気もやや落ち着き、しかも平日だったので、予想していたよりすんなり入場できました。中に入ってびっくり! 襖絵や天井画、家具調度、欄干の彫刻など、すべてレプリカと複製・復刻ですが、往時の華やかさがみごとに再現されています。つい数か月前、京都・二条城(こちらも徳川家が作ったもの)を見ているだけに、つい比べてしまうのですが、けっして遜色はありません。

観終わったあと、城のまわりをゆっくり歩いてみました。まあ、私が最後に名古屋城とその周辺を歩いた頃とは比べものにならないほど、きれいに整備されているではありませんか。ゆったりした敷地の中には大きな花壇やウォーキングコースが作られ、サイクリングロードまであります。ところどころにオブジェも置かれているのは、世界デザイン博や愛知万博を開催した影響かもしれません。そういえば、20世紀の終わり頃(1992年)には愛知県芸術劇場などという代物も建てられましたね。要するに、市の中心部エリアはすっかり大都市っぽくなったということです。

ロシア語のオペラに新鮮な感動

2018年6月12日
オペラなどほとんど観る機会のない私が、自身の関わっているNPO法人のツテで、「2018ロシア年&ロシア文化フェスティバル」のオープニング公演にお招きいただきました。演目はチャイコフスキーの歌劇『イオランタ』(演奏会形式・日本語字幕付)。演奏はロシア・ナショナル管弦楽団で、指揮は同楽団の創設者であり音楽監督でもあるミハイル・プレトニョフ。1988年、当時のゴルバチョフ大統領に招かれ、ワシントンで開催されたサミットでも演奏したといいますから、期待大です。

舞台は15世紀の南フランス。道に迷ったロベルト公爵とヴォーデモン伯爵は、その一帯を治めるルネ王の城に迷い込んでしまいました。ルネ王には、生まれつき盲目で、そのことを知らされぬまま育った美しい王女イオランタがいます。ヴォーデモンはそこで偶然出会ったイオランタにひと目惚れ。別れ際にヴォーテモンが、「記念に赤いバラをください」と言うと、イオランタは白いバラを手折って差し出しました。「赤ってなんのこと?」と口にするイオランタ。彼女が盲目であると知ったヴォーデモンは、イオランタに明るい光の世界を見せてあげたいとの切なる願いを抱きます。果たしてイオランタは光を見ることができるでしょうか……。

そんなストーリーなのですが、普通のオペラと違い、演奏会スタイルなので、歌い手は皆、ほとんど動きません。しかも、なじみのないロシア語ですから、頼りになるのは、左右に設けられた日本語字幕を映し出す縦長の画面だけ。ところが、たかだか30字ほどの翻訳文が実に的確で、わかりやすいのです。訳したのは一柳富美子という方ですが、これには感心しました。これまで50作品以上の大曲を翻訳しているベテランだそうですから、それもむべなるかなでしょう。以前、ニュルンベルクの国立劇場で『椿姫』を見ましたが、このときは英語の字幕だったので、えらく難儀したのを思い出したりしました。

王女イオランタ、ルネ王、ヴォーデモン伯爵はロシア人の歌手でしたが、3人とも迫力満点。私が素晴らしいと思ったのは、ロベルト公爵を演じたバリトンの大西宇宙【たかおき】です。まだ32歳という若さですが、武蔵野音楽大学からジュリアード音楽大学院を修了。『エフゲニー・オネーギン』『フィガロの結婚』『マタイ受難曲』など多くの作品に出て好評を得ている歌い手のようです。脇を固めていた二期会のメンバーも美しい声を響かせてくれました。

通常、オペラというと3時間以上はかかります。しかしこの作品は1時間半ほどで、私のような初心者にはほどよい長さ。こうした演奏会形式でオペラを楽しむ機会はそうそうないでしょうが、本当にラッキーでした。

「アドベンチャーワールド」から「アジサイ曼荼羅園」へ

2018年6月4日
正直、田辺市の「アドベンチャーワールド」にはほとんど興味がありませんでした。どうせ「富士サファリワールド」の亜流だろうくらいにしか思っていなかったからです。ただ、昨年、大分の「九州サファリワールド」に行ってから、次第に認識が変わりつつありました。今回ぜひ一度……と思うようになった決め手は、ハバナの「サファリ」です。車(バスやカートもあり)に乗って、放し飼いになった動物たちに接するのも、街中にある普通の動物園とはまた違う楽しみがあるということに気がつきました。実は、先月訪れた山口県の秋吉台にもサファリパークがあったのですが、時間の関係で行けなかったので、今回を楽しみにしていたのです。

前夜泊まったホテルからは車で20分ほど。今日も朝からピーカンで、温度計のメモリもぐんぐん上昇。午前10時にはおそらく28℃はあったでしょう。「アドベンチャーワールド」は、「サファリ」の部分もさることながら、ほかに多種多様な遊戯施設があるので、1日中いても楽しめる施設です。今年で開園40年を迎えたそうで、月曜日だというのに朝からけっこうな数のお客さんが並んでいました。動物園・水族館・遊園地の3つをあわせ持つテーマパークは珍しいといいますし、それに広さがハンパではありません。

ここで有名なのはジャイアントパンダで、東京・上野動物園と違い、親と子どもたちが別々に飼育・展示されています。園内の随所にある売店もたいそう充実しており、それはそれで飽きさせません。そうしたこともあってでしょう、親子連れ、カップルはもちろん、祖父母・父母・子どもといった3世代連れの姿も目立ちます。

園内は、ケニア号という4両編成のトラムに乗って草食動物ゾーンから肉食動物ゾーンを30分ほどで回るのですが、頭数も多く、けっこう楽しめます。キリンも数頭、シマウマと一緒にいましたよ。

目と鼻の距離で観られ、しかも5頭いるのでパンダの子は本当にのびのびした様子。並んだり待ったりする必要もなく、あっけないほど簡単に対面できるので、観る側も余裕です。それがパンダにも伝わるのでしょうか、サービス精神たっぷりで、えさを食べたりゴロゴロしていたり。ここまでリラックスしたパンダはなかなか観られないのではないでしょうか。

関西空港から乗る飛行機の出発時間まで多少余裕があったので、車で10分ほどのところにある「アジサイ曼荼羅園」というところまで行くことに。西牟婁【むろ】郡上富田【かみとんだ】町にある救馬溪【すくまけい】観音の敷地内にあります。ここは飛鳥時代、修験道【しゅげんどう】の開祖・役行者【えんのぎょうじゃ】が開山したといい、その後953年空也【くうや】上人がみずから刻んだ観音像を奉安、のちに熊野詣に行幸された鳥羽天皇が堂宇を建立されたという歴史を持つ由緒深い寺院です。その一角に2002年オープンしたのが「アジサイ曼荼羅園」で、最盛期には約2000坪の敷地に120種・1万株のアジサイが咲き誇るとのこと。

ちょうどいまごろが真っ盛りでは……と期待しつつ行ってみましたが、最盛期にはもうひと息といったタイミングでした。それでも、けっこうアップダウンのある園内は花見客でにぎわっており、私たちも十分楽しませてもらいました。

「曼荼羅園」から関空まで車を飛ばし、レンタカーを返却。夕方の便で沖縄に。あわただしくも充実した1日でした。

紀伊田辺・白浜で南方熊楠にひたる

2018年6月3日
昨日は京都での仕事を終えたあと、近鉄電車で大阪に移動しました。上本町【うえほんまち】という近鉄発祥の地(1914年に同社最初の路線である上本町・奈良間が開業=現・近鉄奈良線)ともいえる駅近くにホテルを取ったのですが、なんばや天王寺の近くにあるエアポケットといった感じがします。近鉄が開業した当時はそれなりのにぎわいが見られたようです。

今朝はホテル近くの、すこぶる居心地のいい喫茶店で朝食を食べ、レンタカーで紀伊田辺に向かいました。先日、東京・上野の「国立科学博物館」で観て刺激を受けた南方熊楠の聖地を訪ねるためです。田辺市とすぐ隣の白浜町には熊楠ゆかりの施設があります。市にあるのが「顕彰館」、町にあるのが「記念館」で、まず行ったのは「顕彰館」。

 

熊楠が後半生を過ごした居宅の土蔵に、生涯をかけて集めた人文・自然科学の膨大な研究資料と蔵書のほとんどが遺されています。これらがほとんど、当時使っていたであろう大きな木箱に入っていたり、自作の棚に並べられていたりなど、そのままの状態で保存されているのです。

居宅と庭も同じです。庭には高い楠や柿、熊楠自身が好んで食したという安藤ミカン(ミナカタオレンジとも呼ばれる文旦の一種で、徳川時代、田辺藩士・安藤治兵衛の屋敷内に自生していたことにちなんで名づけられた。熊楠がグレープフルーツの代わりにと普及に努めたことで知られる)の木のほか、顕花植物も数百種あります。柿の木から新種の変形菌(粘菌)を発見した……といったエピソードをボランティアガイドの方からお聞きしました。雑然としている庭ですが 、まさしく研究の場といった観を呈しています。

「顕彰館」を後にし、旧城下町である田辺の町を歩いてみました。地方都市の常ですが、ここもまた昼間は人通りがほとんどありません。日曜日となればなおさらです。それでも、この神社とゆかりの深い弁慶の立像は印象的ですし、その名前が興味をそそる「闘鶏神社」にはそれなりに人が訪れていました。

「闘鶏神社」はもともと、熊野権現(現・熊野本宮大社)を勧請【かんじょう】し田辺宮と称したのに始まるそうです。平安時代の末、熊野別当・湛快【たんかい】がさらに天照皇大神以下十一神を勧請して新熊野権現と称し、湛快の子の湛増【たんぞう】が田辺別当となりました。弁慶はその子どもと伝えられています。

 

治承・寿永の乱(源平合戦)のとき、湛増はどちらにつくべきか迷ったといいます。そこで、鶏を紅白2色に分けて闘わせたところ、白の鶏が勝ったので源氏に味方しようと決め、熊野水軍を率いて壇ノ浦へ出陣したとのこと。それから「闘鶏権現」と呼ばれるようになったと、境内の看板に書かれていました。

田辺市から白浜町に移動し、「南方熊楠記念館」へ。もともとはこちらのほうが先に作られたようですが、「顕彰館」とはコンセプトがまったく違います。子どものころに描いた絵や作文、アメリカ、私自身つい先日訪れたキューバ、イギリスに渡ってから書き綴った論文や、読んだ本のメモ書き(というには膨大すぎるボリュームですが)、日本帰国後に書いた著書の下書きや採集品など、もっぱら展示にウエイトが置かれています。「国立科学博物館」で目にしたものもありましたが、その量には圧倒されました。

1911(明治44)年起こした神社合祀反対運動の詳しい経緯も知ることができました。その中で書き綴った柳田國男ほか宛の書簡の中でエコロジーまたはエコロギーという言葉を使っていることを知り、この時期に早くもそうした考え方を持っていたことに驚かされます。

「記念館」の屋上にある展望台から周囲を見ると、熊楠がはぐくんだ壮大な知識欲の根源が息づいているようにも感じました。島々や海岸の砂や石・岩肌、土、森、草花など、目に入ってくるものすべてが、「客観的に観察してほしい」と訴えているかのような表情をしているのです。熊楠としては「わかった、わかった。いまこちらの絵を描いているから、そのあとで」といったような心境だったのではないでしょうか。