壱岐島内を観光ののち対馬へ

2015年5月14日
朝8時20分にホテルを出発し、今日の前半は壱岐の島内観光の続きです。もともとが小さな島ですから、1日もあれば十分まわり切れるのでしょうが、昨日はその3分の1程度ですから、見るべきスポットはまだまだあるのでしょう。

まずは半城【はんせい】湾を横目に見ながら黒崎へ。ここには太平洋戦争のときに作られた砲台跡がありました。東洋一の規模だそうで、対馬海峡を航行する敵の軍艦を攻撃するためのものだったとか。ちなみに、その前に見た半城湾は、日露戦争当時、入り組んだ海岸線を隠れみのに駆逐艦が停泊したところ。いまは真珠の養殖がおこなわれています。

L1020239黒崎をあとにしたバスは西から東に向けて一気に島を横断、ほぼ東端に位置する左京鼻まで移動します。その途中には、元寇(弘安の役)のとき元軍と戦って亡くなった少弐資時【しょうにすけとき】の墓がある公園が見えました。左京鼻は眺めのいい場所で、海岸線を見下ろすと海女【あま】たちが貝類を採るべく何度も何度も海に潜っている姿が。壱岐島には80人ほどの海女がいまも健在だといいます。

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ここまでで壱岐の島内観光は終わり。それにしても神社の数はハンパでない印象を受けました。バスで走っていても、右を見ると神社と古墳、左を見ても神社と古墳といった感じでした。『延喜式』には、西海道9国2島には107座98社の神社があったとありますが、そのうち壱岐だけで24座24社(対島が29座29社)あったといいますから、この2つの島で半分以上を占めているわけで、その多さがうかがい知れます。

島の北部の食堂で昼食後、郷ノ浦の港から対馬に向けて出発。フェリーで2時間少々走り厳原【いずはら】の港に着いたのが午後3時少し前。壱岐と違い対馬は全島が丘陵といった感じです。なるほど、太平洋戦争が終わるまでの間、この島が“海上の大要塞”とされていたのもよくわかります。元寇のときも2度とも、元軍に蹂躙された経験がそうさせたのかもしれません。いまはほとんど面影はないようですが、竹敷(対馬空港の、浅芽【あさじ】湾をはさんだ向かい側)は明治期、横須賀、舞鶴、呉、佐世保と合わせ「五大軍港」の一つに数えられていたそうです。

L1020285さて、港から城下町・厳原の町を北上、対馬を南北に分かつ運河の上に架けられた万関【まんせき】橋を渡り、和多都美【わたづみ】神社に。和多都美神社は名前のとおり、海の神を祀る神社です。潮が満ちてくると海水が本殿のすぐ近くまで流れ込んできます。逆に、引き潮のときは100m先の沖合までほぼ干潟のような状態で、そこに、参道を示すかのように鳥居が2つ建てられています。

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神社のあと烏帽子岳展望台を訪れ、夕方5時半ごろ宿泊先の対馬グランドホテルにチェックインしました。