セビリヤに新幹線で移動

2013年10月7日
今日はセビリヤに移動します。午前11時にアトーチャ駅を出て10分も走ると、車窓に見えるのは荒野というか、背丈の低い木が生えているだけでほかには何も見えなくなります。テレビの旅行番組などではよく目にしていたのですが、実際に見てみると、単調すぎて退屈してしまいます。私たちの乗ったAVEは途中、コルドバにしか停車しないので、途中1時間半ほどじっくり本を読んだりしながら過ごしました。

定刻の13時30分より6、7分早くセビリヤのサンタフスタ駅に到着。こじんまりしてすっきりとした駅です。地上に出ると、まぶしい光にびっくり。時間も時間なのでしょうがありませんが、気温も高そうです。タクシーの運転手は「30度」といっていましたが、たしかにそのくらいはありそうです。Photo_42

10分足らずでホテルに到着。セビリヤでは「アルフォンソ・トレッセ」という、クラシックホテルです。Photo_41

「トレッセ」は「XⅢ」で、国王アルフォンソ13世の名前を冠したことからも想像されますが、いかにも重厚な外観が印象的。バロック様式やムーア様式を採り入れた客室はいかにも上品で、格式のある豪華さがただよっています。

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朝食はパティオで食べるのですが、それがまたフンイキで。

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中庭の見下ろせる部屋にチェンジしてもらい、さっさと荷ほどきを済ませ、すぐ町に出ました。カテドラルは時間が足らずに翌日まわしにしましたが、アルカサルというスペイン王室の宮殿は息をのむほどの美しさ。イスラム時代の宮殿の跡地に作られたもので、グラナダのアルハンブラ宮殿にもどこか似た雰囲気があります。

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そのあと名物の馬車で市内をめぐりました。セビリヤ万博のときに作られたパビリオンがいまでも残っているスペイン広場の周辺は心地よく、世界中から多くの人がこの町を訪れてくるのがよくわかります。それに、なんといってもすべての観光スポットに歩いて行けるのがありがたいです。かつてはユダヤ人が住んでいたというなサンタクルス街はほとんど迷路のようで、歩くというよりを探検するといった感じでしょうか。ガイドブックに出ている地図もほとんどアテになりません。

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歩き疲れホテルでひと休みののち、再び町へ。夕食は結局、近くのレストランでパエリヤを選び、今回のスペイン旅行で初めてワインを飲みました。さすが、パエリヤ発祥の地といわれるだけあって、えらく美味でした。

Photo_25このレストランの界隈は、地図と首っ引きで歩いてもワケがわからなくなる感じで、カンを頼りに歩くしかありません。この店もそうした中で見つけたのですが、BINGOでした。

食べ終わると疲れがどっと出てきたのか即座に酔いがまわり、ホテルに戻ると即就寝。

サッカー応援の成熟度

2013年10月6日
今日は日曜日。サッカー(リーガ・エスパニョーラ)の試合観戦です。出かける前に、昨日と同じくカフェで軽い朝食。今日の店は昨日と違い、多少本格的なカフェで、オレンジジュースの味もひときわ本格的。やはりしぼりたてのオレンジジュースは最高です。

地下鉄を乗り継いでピラミデス(Pyramides)という駅で降りると、試合開始2時間前だというのに、まわりはもう人、人、人。男性が7割かたを占めていましたが、家族連れもけっこう目立ちます。Photo_16

日本から予約しておいたチケットを受け取るのは、スタジアムの地下にあるスポーツレストランの一角。なんとも狭苦しいところに、同じようにチケットを受け取る客がひしめくように並んでいます。パスポートを見せて受け取り、さっそくスタジアムの中へ。5万人収容という大きさですが、設計がよくできているせいか、非常に見やすいつくりです。

試合は今シーズン絶好調、ここまでリーグ戦では負けなしのアトレティコ・マドリード対セルタ。2対1でマドリードが勝ちましたが、そのスピードには驚くばかりでした。日本も強くなったとはいえ、まだまだというのが正直な印象です

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おもしろいのはサポーターの応援スタイル。スペインらしくないというか、実に整然としています。見る前は、もっと勝手気ままというか、ワインかなんかを飲んで全員酔っぱらっているのかと想像していたのですが、これがあにはからんや。ラッパの類は一切なしで、鳴りものといえば太鼓だけ。そのリズムに合わせてサポーターの集団が声を出す、歌う、旗を上下に振る、腕を突き上げる……統一された動きの素晴らしさを久しぶりに目の当たりにしました。こういう点でもヨーロッパは日本より先を行っているのかもしれません。

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サッカー場から地下鉄でプエルタ・デル・ソルに戻り、昨日見つけた、行列のできるお菓子屋へ。店外のショーケースに並べられている各種ケーキやらクッキーやら、どれも皆、見ただけでよだれが落ちそうになるほど。今日はその中の選りによったアイテムを食してみたのですが、やはり見た目と実際の味とは違うもの。もっとも、日本人の舌に合わないということもあるのかもしれませんが。

あたりをブラブラしたあと、遅めの昼食でウドンを。その名も「UDON」という店だったのですが、ここもやはり不発に終わってしまいました。でも、スペイン人は皆、おいしそうに食べています。このあたりも味覚の違いでしょうか。

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元気なマドリードのキリン5頭

2013年10月5日
今日は、恒例の動物園訪問。ホテルを出て地下鉄の駅まで歩いて行く途中に、いかにも安手のというかお手軽なカフェがあったので、そこでごく軽目の朝食をとりました。家人はしぼりたてのオレンジジュースのみ。私はクロワッサンのサンドイッチとチュロス。
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こちらはチュロスの本場というか、日本で食べるそれとはまったく違い、ちょっと塩味がします。これをホットチョコレートにつけて食べるらしく、それゆえ塩味になっているのでしょう。たしかに美味です。

朝食を済ませ地下鉄に。といっても15分ほど乗ると高架になってしまい、あっという間に到着。駅から動物園までは歩いて15分ほどですが、土曜日とあってけっこうな人出でした。

お目当てのキリンは、えらく数がいます。これまで見た動物園のなかでも最多でしょう。エサを食べるのが近くで見られるように、地上から3~4mほどの高さに観覧席のような場所があります。どこの動物園で見ても、可愛さはキリンがいちばんです!Photo_10Photo_11

動物園の帰り、王宮に。ヴェルサイユ宮殿ほど大きくはないのですが、それでもといった感じです。王宮の中はどこも皆似たりよったりですが、まあ金にあかせて作ってありますから、「参りました!」としかいいようがありません。

王宮のあとは近くにある有名なスペイン広場に立ち寄りました。プエルタ・デル・ソルとはうって変わり、周囲に近代的なビルがいくつも目に入ります。ドンキホーテとサンチョ・パンサの像があって撮影スポットとして、世界中からやってきている観光客でいっぱい。どこの国の人なのかを確かめようと、その言葉に耳を傾けていると疲れてしまいます。Photo_12

駅の中に熱帯植物園が!

2013年10月4日
今回つごう5泊する Palace Hotel の豪華朝食に舌鼓を打つと、さっそくプラド美術館に行ってきました。
Photo_8ここも20数年前に来たことがあるのですが、なんとも立派なつくりの建物で、しかも展示作品は一流のものばかり。客も世界中からという感じで、小雨の中を30分ほど並んでチケットを購入しましたが、それだけの価値は十分にあります。ただ、中が広い、というかゆったりした展示になっているせいか、サンクトペテルブルグのエルミタージュ美術館ほどには混んでいません。

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プラド美術館をあとにしたのは昼過ぎ。後日のセビリヤ行きに備え、アトーチャ駅までぶらぶら歩いていきました。ヨーロッパでは駅の構造が日本と大きく異なる場合が多いので、せめて大きさくらいはチェックしておかなくてはなりません。

案の定、とてつもなく大きな駅で、びっくりしました。外側はレンガ造り、4階建てほどの高さののシンプルな建物なのですが、中は大きな吹き抜けになっています。

Photo_4しかも、そのエリアには、なんと「熱帯植物園」になっています。壁に沿った部分は回廊風になっていて、列車の乗り場があるのは2階と3階。切符売り場は1階、熱帯植物園のまわりです。

どのホームから乗るかは、発車20~30分前にならないとわからないようで、電光掲示板をよく注意しながら見ておく必要がありそうです。乗る前に手荷物のX線検査もあるようで、このあたりは日本とだいぶ違います。もっとも、幹線の特急でも1時間に1本ほどですから、日本の新幹線の駅のようなせわしなさはまったくありません。のんびりとしたものです。

Photo_5アトーチャ駅をひとととおり見物したあと、ピカソの「ゲルニカ」を観に、近くのソフィア女王美術館に行きました。ただ、ここは私たちにはとてもついて行けない感じで、「ゲルニカ」だけを観てさっさとおさらばです。

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そのあと、地下鉄に乗ってプエルタ・デル・ソルへ。周囲のどこを見渡しても人、人、人です。雨もすっかりあがってほとんどピーカン状態になり、それなりに暑いのですが、空気が乾燥しているのが救いで、日陰に入るとゾクッとくることもあるほど。それだけに、ビールのうまさは格別です。

家人はもっぱらサングリアですが、スペインのビール=セルベッサには感心しました。しかも値段がコーラやジュース、ミネラルウォーターと同じ。「酒」としては扱われていないようです。

ヘビーな朝食がまだ十分こなれていないようだったので、そこらの店で軽く、タパスをつまみました。スペイン人というのはなんでも1日5回は食事するそうで、タパスのようなものをちょちょいつまんでは、その間にケーキを食べたりビスケットをつまんだりして、遅い夕食に備えるのだそうです。

この日の夜、私たちが「今日は遅めに」といって8時過ぎに店に入っても、閑散としている店が少なくありません。「こんなガラ空きで大丈夫だろうか」と、疑問を抱きながら食べていると、9時ごろから客がボチボチやってきます。そして、私たちがお勘定を済ませる10時ころ、ようやく店の中がいっぱいになるのですから、かなり感覚が違うことがよくわかります。

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さて、プエルタ・デル・ソルから数分歩くと、かの有名なマヨール広場(Plaza de Mayor)です。旧市街のど真ん中にあるこの広場、プエルタ・デル・ソルとセビリャ広場から数ブロックしか離れていません。129m×94メートルの長方形をしており、広場に面して237カ所のバルコニーを持つ3階建ての建築物に取り囲まれていると、ガイドブックにはあります。マドリード最大の市場が開かれていたそうで、闘牛やサッカーの試合、公開処刑もおこなわれた広場を取り囲みように、老舗の商店やカフェがいっぱい並んでいます。

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夜はホテルから20分ほど歩き、元のマーケットをリノベーションして作ったバールの集合店舗といった感じのところで店を探して食べました。シーフード中心、肉中心など、それぞれの店に特徴があり、そこから好きなものを自分で選び、その場で支払うシステム。どの店も客でギッシリ、ようやく見つけた席で体を小さくして食べた次第。値段はなんとも安く、2人でお腹いっぱい食べても1500円ほどでしょうか。

スイスは“喫煙先進国”

2013年10月3日
マドリードは日本から直行便がないため、ヨーロッパのどこかの都市で乗り継がねば行くことができません。今回はスイス航空を利用したので、チューリヒ経由。2時間の待ち合わせです。となると、スモーカーの私にとっては、何がなんでもタバコを吸うチャンス、というか吸わずにはいられません。チューリヒまでの飛行時間が11時間30分ともなると、それも当然でしょう。

しかし、美しい自然の国、清潔好きの国民性が売りのスイスというと、国をあげて、喫煙(者)に対しは厳しいのではないか──そんなイメージを抱きがちです。ところが、あにはからんや。飛行機を降りたすぐそこの通路に、「スモーカーズラウンジ」と名づけられたコーナーがあったのです! それも、日本の空港のように、いじけた、暗い、そして何より臭い(当たり前か!)喫煙コーナーとはほど遠い、滑走路に向けて目いっぱい広く取られた窓があり、すわり心地もよい長イスが備わった“天国”のようなスペース。さっそく、そこへ飛び込んで一服。気持ちが癒されることはいうまでもありません。Photo

これならあと2時間弱はなんとか我慢できそうだと思いながら、国内線のターミナルに移動すると、なんとなんと。もう、そこかしこに「スモーカーズラウンジ」が。それもすべて滑走路に向けて設けられているので開放感に満ちています。これは喫煙者にとってはありがたいというか、心が休まるというか。別にそこで吸いまくるわけではないのですが、そういうスペースが目につく場所にあるという、その事実だけで、安心できるのが大きいのです。

Photo_2ついでながら、私たちはスイス航空のラウンジを利用できたのですが、その一部にも「スモーカーズバー」という、禁煙になっているラウンジよりはるかに広々とした、ゆっくりくつろげるスペースがありました。ドイツのフランクフルト、ミュンヘン空港にも喫煙コーナーはありますが、数が少ないため、そこへ行くのにえらく難儀しますし、ロンドンやパリなど、そうした施設そのものがありません。これからのヨーロッパ出張はいつもチューリヒ経由にしようか……と、真剣に考えてしまいました。

噴水は「夏」へのあこがれ?

2013年8月13日
今日も絶好の晴天。午前中から船に乗って「ペテルゴーフ」まで行きました。エルミタージュ美術館の前にある船着場から高速艇で30分ほど走ったところにある、ピョートル大帝の「夏の宮殿」です。L106084520130814

ここは要するに王室の別荘です。もちろん、別荘といっても、ハンパな大きさではありません。そして、冬は極寒の地となるサンクトペテルブルグですから、暖かさ、太陽の光に対するあこがれがそこかしこに感じられます。それを象徴するのが噴水です。

とにかく、どこに行ってもあるのは噴水、また噴水。よくもこれほどといいたくなるほど、ありとあらゆるスタイルの噴水があります。朝のオープンも、噴水から水が噴き上がるのがその合図になっているほど、それは徹底しています。たしかに、私たちもそうですが、「夏」の盛りに噴水、zるいは滝を目にすると、大いに涼しさを感じます。サンクトペテルブルグの夏はけっして暑くなどないはずなのですが、それでも噴水が象徴する冷涼感が、短い夏をフルに楽しみたいという強烈な願いに通じているのでしょう。

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再び市内に戻り、夕方からは世界でも屈指の作品が展示されているエルミタージュ美術館。L106091720130814

夏のエルミタージュは世界でも指折りの混雑ぶりだそうですが、それにしても人であふれ返っていました。なんでも、冬に来るとガラ空きだそうで、これは真剣に考えたほうがいいかもしれないと思ったしだい。冬は、市内を流れるネヴァ川、それが注ぎ込むフィンランド湾がすっかり凍りついてしまい、人も歩けるのだそうです。大きな川や海が凍ってしまうなど、目にしたことがないので、一度確かめてみたいという好奇心が湧き起こってきたしだい。

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しかし、ここに残されている膨大な数の貴重な美術品も、先のドイツ軍のレニングラード包囲戦の直前、市民有志が列車でウラル地方まで待避させていたために守られたものだそうです。この戦いで街は荒廃したものの、今日なお歴史的、文化的価値のある建造物が残されているのは、自分の命さえ危うい激戦のさなかにあっても、そうした価値ある遺産を後世に残そうと努めた市民たちのおかげでしょう。

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L106094520130813夕食を済ませたあとはネフスキー大通りで買い物と散策。さすがサンクトペテルブルグの目抜き通りだけに、クラシックでしゃれた建築物がいっぱいあります。ほかにも、ペトロパヴロフスク要塞、クンストカメラ(博物館)、アレクサンドル・ネフスキー大修道院、アレクサンドリー劇場、カザン聖堂、血の上の救世主教会など、当初予定していたところの大半が行けずじまいにおわってしまっただけに、せめてこの通りを少しでも観たかったのです。

ホテルに戻る前に、近くの食料品店で水やらビールを買い求めました。空気が乾いているので、そうしたものがとてもおいしく感じられるのです。ビールは基本的に2種類あって、アルコール分の少ないものと濃いもの。日本でも最近はプレミアム系のビールが人気のようですが、ちょっと油断するとコーンスターチなどという、本来ビールとはまったく関係のない成分が混ざっています。その点、ヨーロッパではそういう裏切りには遭いませんから安心できます。子の日も、就寝前に、乾いた喉をうるおしてくれる1杯を。

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エカテリーナ宮殿を堪能

2013年8月12日
午前中は、Eさんのご主人が懇意にしておられるポポワ東洋学研究所所長を訪問。門外不出の資料を特別のはからいで拝見しました。その価値は専門家であればあるほど理解できるようですが、ど素人の私たちでも、その希少性、重要性というか価値は多少理解できるつもりです。

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午後は隣のプーシキンという町にある「エカテリーナ宮殿」の見学です。マイクロバスで40分ほどで到着しましたが、それはそれは贅を尽くしたところで、私たちは事前に予約していたので特別の入口から入場、ゆっくり観てまわることができました。

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帰途、早めの夕食(ロシア料理)を済ませましたが、ここもけっこうレベルが高く、こうしてみると、ロシア料理も捨てたものではないということがよくわかります。ただ、ボリュームのすさまじさはここも同じ。人数分を頼んだりすると、半分以上は残してしまうのではないでしょうか。

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予定より早く街に戻ったので、夜は運河クルーズを楽しむことに衆議一決。夜といっても、緯度が高いせいか、8時ごろだとまだ十分明るく、実感がありません。ただ、さすが、屋根のない船に乗って走れば足もとが冷えるので毛布を貸してくれます。そして、これがとても重宝しました。

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海側からながめるサンクトペテルブルグの街並みはなんとも味わい深いものがあります。さすが“北のベニス”と呼ばれるだけのことはあります。大都会ではありますが、高層ビルがないため、無機質な部分がありません。それが最大の要因でしょうが、都会らしいにぎわい、力強い輝きのようなものが十分感じられるので、私は一発でファンになりました。共産政権の時代を何十年も経てきたにもかかわらず、よくぞここまでクラシックな分行きの街並みがきちんと残ったものだと、むしろそのことに感心しました。

ちなみに、今朝訪れた東洋学研究所の全景を船上から確認することができました。たいそう立派な建物で、感動を新たにした次第です。

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雨のサンクトペテルブルグは重い1日に

2013年8月11日
今日がサンクトペテルブルクの実質的な初日。しかし、あいにくの雨で当初の予定を変更、今日は市内にとどまることになりました。

最初に行ったのは、旧市街の東北端、ネヴァ河畔にあるスモーリヌイ聖堂。18世紀に女帝エリザベートが女子教育の場として創設、その後エカテリーナ2世が女学校を開き、革命直前まで貴族の令嬢たちの教育がおこなわれた修道院だそうです。L106056220130811 いまはコンサートホールとして使われているとのことですが、1917年10月のロシア革命のとき、レーニンに率いられた革命派の作戦本部がここに置かれ、ソビエト政権の樹立を宣言(10月25日)、首都がモスクワに移るまでは、政権の中心だったという場所です。そういえば、もともと「サンクトペテルブルグ」という名前だったこの町は、ロシア革命のあと「レニングラード」というふうに改められたことを思い出しました。

ここからバスと地下鉄、さらにバスに乗ってピスカリョフ墓地に足を運びました。驚いたのは地下鉄の深いこと、深いこと。この町はもともと、ネヴァ川がフィンランド湾に注ぎ込む湿地帯に築かれた人工都市です。そのため、地下鉄を作る際、掘っても掘っても水が出てきて、結局、とんでもない深さに軌道を設けることになったのだとか。東京の地下鉄千代田線の小川町という易があり、初めてこの駅に降りて行ったとき、あまりの深さに驚きましたが、その比ではありません。近ごろは、都営大江戸線に代表されるように、ちょっとやそっと深くても、「あとで作ったんだから仕方ない」とも思うようになりましたが、それすらも上まわる深さです。

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駅も荘重というか、えらく豪勢なつくりです。そのわりに車両はかなり古く、騒音がすごいですし、乗り心地もいまイチ。でも、料金が25コペイカ(約8円)であることを考えればいた仕方ないのかも。

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さて、ピスカリョフ墓地ですが、ペテルブルク市街の北部にある広大な戦没者墓地です。第2次世界大戦のさなか、1941年6月の独ソ開戦によってドイツ軍の攻撃を受けたレニングラードは、9月8日からなんと872日間、1944年1月27日まで包囲されていました。この間、投下された爆弾の数は15万を超え、電気も水道もストップしたこの街で、多いときには1日3万人近くの人が餓死したというのですから、そのすさまじさは想像を絶します。そうして亡くなっっていった市民をそれぞれの遺族が仮埋葬していたのがやがて墓地になったそうです。

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広大な敷地には、「墓地」というにはあまりに悲しい、幾多の市民・兵士がひとまとめにして葬られた大きな盛り土が連なっています。墓標には、遺体・遺骨が見つかった年が記してあるだけで、「個」の存在はほとんど感じさせません。それでも、第2次大戦で死んだアメリカ軍兵士を上まわる数の市民が葬られているとのこと。「★」は、埋められているのが兵士であることを示しているそうです。

いちばん奥に立つモニュメントの背後の壁には、「“Никто не забыт и ничто не забыто”(=だれ一人忘れまい、何ひとつ忘れまい)」という、女流詩人オリガ・ベルゴーリツの鎮魂の詩が刻まれていました。

墓地の入口の脇にこじんまりした資料館があります。レニングラード包囲戦の模様をつぶさに記録した展示の中に、両親・兄弟・おじ・おばなど家族を次々と失い、やがて疎開先で自身も亡くなった少女ターニャ・サビチェワの残したメモ「ターニャの日記」がありました。L106058520130811 日記の最後は「サヴィチェフ家は死んだ みんな死んだ 残ったのはターニャだけ」となっているのですが、そのあまりにシンプルな文言は百万言の言葉を費やすより圧倒的なパワーで、戦争の悲惨さを示しているように思えました。

その後、同じ経路で都心に戻り昼食。店に入るとまず席を決め、トレイを持って料理がずらっと並べられている中からほしいものを選んで店員に告げます。最後に飲み物を決め、レジ支払いを済ませるキャッシュオンデリバリー方式。ごく普通の市民生活を送っている人たちの朝食や昼食はjこうしたスタイルなのでしょう。でも、どれも皆そこそこおいsく食べられました。パリで抱いた不安はどうやら杞憂に終わりそうな感じがしてひと安心です。

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腹ごしらえをすませ、近くにあるドストエフスキー文学記念博物館を訪れました。いまでも、日本の若い人たちには人気がるかどうかわかりませんが、私が大学に行っていたころは、必読文献といった扱いで、ドストエフスキーの作品をひととおり読んでいないと、仲間の話についていけないという感じでした。

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L106061720130811 博物館を出てすぐのところにクズニェーチヌイ市場というマーケットがありました。市民の台所の一つのようですが、時間帯のせいもあって、中は比較的空いていました。食料品だけでなくおみやげを売っている店もあり、Eさんご夫妻は大量にマトリョーシカを購入されていました。

夕方近くになっても天気はまだ回復しません。市場のあとは美術館です。サンクトペテルブルク最大の美術館はいわずと知れたエルミタージュですが、今日はロシア美術館に行きました。もともとは宮殿だった建物ですから、内部の豪華なこと。ヨーロッパにはこうしたタイプの美術館や博物館が多く、作品もさることながら、建築物としても十分楽しめるのがうれしいです。

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この美術館はロシア美術の作品がふんだんに所蔵されているようです。パリのオルセー美術館で観た印象派の作品ももちろん素晴らしいのですが、個人的には、ロシア美術の“明緻な暗さ”とでもいうのでしょうか、わかりやすさが好きです。83歳で亡くなるまでなんと6000点もの絵を描いたというイヴァン・アイヴァゾフスキーの海をモチーフにした作品はその代表。

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ロシア美術館をあとにし、バスに乗ってホテルに戻ったのですが、考えてみれば、サンクトペテルブルグというところは街全体が美術館・博物館のようなもの。目に入ってくる建物いちいちが好奇心を刺激します。

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ただ、天候ともあいまって、なんとも“重い1日”でした。

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パリからサンクトペテルブルグへ

2013年8月10日
今日午後のエールフランス便でサンクトペテルブルグに移動してきました。パリからは3時間半ほどのフライトです。国際線が離着陸するわりにはさほど大きくないプルコヴォ空港からあらかじめお願いておいた迎えのクルマに乗って30分ほど走ると、ホテルに到着。都心に近づくにつれ、この町の美しさが伝わってくる感じがしました。

荷ほどきをして、近くをぶらぶら歩いてみると、運河が流れ、その両側は300年も昔に建てられた建物がびっしり並んでいます。L106052320130810 ほんのちょっと垣間見ただけですが、「パリに負けない街をつくる」との思いでこの都市を築かせたピョートル大帝のすさまじいまでの意欲が感じられます。

街をブラブラすると、とんでもなく古いクルマが走っていたり停まっていたりするのがなんともおもしろかったです。トウモロコシをゆでて食べさせる屋台があったので、さっそく買い求めてみました。2ルーブルですから、60円ほどでしょうか。トウモロコシ自体は奄美にかけ、どうということもなかったのですが、こういうものを売っているのが、古きヨーロッパとでもいうのでしょうか、そうしたものを感じさせます。

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とりあえず情報がほとんどないので、夕食はホテルの最上階にあるレストランで済ませましたが、思っていたとおり、どれも皆たいそうなボリュームで、注文の品数を抑えてよかったと胸をなでおろします。予想外だったのはそのおいしさ。「ロシア」というので、基本的に無知ですし、なんの根拠もない先入観というか、ほとんど期待していませんでした。しかし、ボルシチもビーフストロガノフもハイレベル。感動でした。
夜9時近くになって、今回ロシア9日間の旅のプランニングをはじめ、滞在期間中全体のプロデュースをお願いしたEさんご夫妻とホテルのロビーでドッキング。今日からのスケジュールを確認しました。

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ジヴェルニーの庭園に「日本」が!

2013年8月9日
今回のヨーロッパ旅行の前、高校時代の友人Nくんから教えてもらったジヴェルニーに行ってきました。「(クロード・)モネの家があって、その浮世絵コレクションがすごい! 一見の価値はある」ということでした。

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切符を買うのにひと苦労し、出発は結局お昼近くになってしまいました。パリのサン・ラザール駅から列車に乗り15分ほど走ると完全な田園地帯です。ヨーロッパの都市に多いパターンですが、住宅が密集しているエリアはほんのわずかで、今回も家が見られるのはセーヌ河畔まで。そこを過ぎるとほとんど畑ばかりです。

45分ほどでヴェルノンという駅に着き、そこからバスで15分。停留所からさらに5、6分ほど歩くと、一帯は「モネ・タウン(というよりヴィレッジです)」といった感じになっているのですが、もう完全な田舎です。L106046020130809

平屋の家がほとんどなので、それも当然でしょうか。その一角に、印象派画家の代表モネが43歳のときから86歳で亡くなるまで、人生の半分を過ごした家があります。それが当時のまま保存され、アトリエをはじめ、広大な庭園など、モネの生活がうかがわれる施設になっています。

さほど大きくもない建物に入ると、いきなり壁いっぱいに浮世絵が。その数はハンパではありません。日本人の私もいまだかつて見たことのないような作品が、これでもかといわんばかりに並んでいます。さらに幕末から明治初期にかけて描かれた錦絵もありました。なるほど、モネはこういう作品に刺激を受けて絵を描いていたのです。

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モネは16歳のころ、オランダの商船によって運ばれてきた日本の浮世絵版画に夢中になったそうです。以来モネの「日本」への傾倒は変わらず、ジヴェルニーのこの家にある庭園はほとんど日本庭園といってもいいくらいのつくりになっています。L106048920130809

しだれ柳が植えられ、池には太鼓橋が架かっています。「睡蓮」というモネの代表作はこの池に浮かぶ睡蓮を描いたもなのです。

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L1060490201308093時間ほどの滞在でしたが、心が洗われた感じがしました。パリの喧騒も楽しいのですが、思いもかけずフランスの片田舎の空気に触れることができたのはNくんのおかげ。やはり持つべきものは友だちです。ちなみに、Nくんは高校3年生のとき同じクラスでした。陸上競技部で中距離を走っていたのですが、大学に入ってからは駅伝(あまり有名ではないのですが、「六甲山駅伝」という関西のレースです)を走ったそうです。卒業後は小社に勤め、世界中をまわってきただけに、幅広い分野の知識・情報を持っています。直感と粘り強さが持ち味、近ごろは家庭菜園にもエネルギーを注いでいるとか。

L106050020130809_2今日は今回のパリ滞在最後の夕食ですが、昼間歩きまわった──万歩計によると20000歩を超えていました!──ので、かなり疲れがきています。そこで、夕食はホテル近くの小ぶりなタイ料理店で済ませました。 ところが、これが意外にもけっこうなアタリで、なかでもオードブル盛り合わせはグーでした。明日からはロシア。食べ物はあまり期待できそうにないので、おいしい食べ物を口にできたのはラッキーそのもの。

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日本にはない「川」の楽しみ方かも……

2013年8月8日
今日もまたピーカン。まずは恒例の動物園訪問です。ホテルから地下鉄で20分ほどで到着したのですが、残念ながらキリンはいませんでした。L106038620130808 仕方なく、園内のそこここに置かれているオブジェの中にカバがいたので、ツーショットで。それにしても、この動物園は植物園と一体になっており、これがまたえらく立派な建物でした。もともとすべて「王立」というか、ブルボン王朝の時代につくられた施設ですから、それも当然。ウィーンの動物園のときもそうでしたが、要は王様や王妃の道楽の一つでしかなく、庶民は、楽しむどころか、足を踏み入れるのもご法度だったにちがありません。

動物園の近くにモスクがありました。パリはご承知のとおり、かつてフランスがアフリカに多くの植民地を持っていた関係で、アラブ系の人たちが数多く済んでいます。そうした人たちが自身の信仰を建負ける場として、この種の施設がいくつかあるようです。時間があったのでちょっと立ち寄ってみたのですが、ちょうどお昼前で、モスクそのものはクローズ。本当は中をちょっとのぞいてみたかったのですが、残念なことをしました。

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その代わり──でも、なんでもないのですが──、入口近くにカフェあり、そこで、あまり見たことのないアラブ系のスイーツを見つけました。好奇心旺盛な私ですから、試してみないわけがありません。というわけで──。

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朝から午後は「サンマルタン運河クルーズ」を楽しみました。前日の夜、ネットでいちおう予約を入れておいたので、乗船はスムーズ。 バスチーユ近くのアーセナル船着場から出発する小さな船──といっても乗客は200人ほどいました──で出発です。

低いところから上流に向かってさかのぼっていくので、途中何度も閘門があり、そのたびに水深を調整するためストップします。L106041020130808 それを近くでながめている人たちもおり、とにかくのんびりとしたクルーズでした。

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2時間余をかけてようやく目的地ラ・ヴィレットに到着。ここにはパリの最西北にある大規模な公園があり、その真ん中を運河が走っています。L106043420130808 音楽博物館とラ・ヴィレット公園、片方にはジェオード(球形映画館)と科学産業博物館など、モダンな建築が数多く並んでいます。その建設と同時につくった人工湖の岸辺では、ヴァカンス時期と重なっているためか近在の人たちが遊んでいました。

そこからさらに上流に向かっていくクルーズもあるようですが、日本ではなかなか見られない遊び方といえます。ヨーロッパというのは、どこの国に行ってもこの種の運河が張り巡らされており、それを利用すると、それこそフランスからブルガリアあたりまで行けるとも聞いたことがあります。

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帰りは地下鉄で一路都心へ。30分も経たないうちに戻ることができました。デパートをのぞき、靴などを買い求めましたが、さすがプランタン。その大きさは半端でなく、日本からの客もけっこう目にしました。

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夕食はホテル近くの中華料理店で。

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もったいなさすぎのオルセー美術館

2013年8月7日
パリ2日目。早朝から雨で、出かけるときは降りがひどかったので、タクシーでオルセー美術館まで行きました。前回来たときは、昨日のヴェルサイユ宮殿と同様、地下鉄や国鉄職員のストライキのため観られなかったところです。美術館の職員が、ストライキで出勤できないという理由でした。日本ではあまり考えられない理由ですが、フランスではけっこう当たり前みたいです。ただ、そのおかげでリノベーションを済ませた新オルセー美術館をゆっくり観ることができました。

L106034120130807 10時前に着いたのですが、美術館のチケット売り場は早くも長蛇の列。私たちは「ミュージアムパス」のおかげですんなり入れました。それでも、中はもう大変な数の客。荷物チェックを受け、リュックサックをクロークに預けてスタート。5階か6階の建物のほとんどが吹き抜けというあまりのスケールの大きさに最初から驚きの連続です。

L106034320130807 それも当然で、もとの建物は1900年に開催された万国博覧会に合わせて作られた鉄道駅舎兼ホテルなのです。かまぼこ状の大屋根の地下に10以上のホームを備えていましたが、狭かったため、一時は取り壊しの話もあったとのこと。しかし、政府が保存活用のプランを検討、19世紀の美術作品を展示する美術館として生まれ変わることになり、1986年、オルセー美術館としてオープンしたというわけです。

しかし、それにしても、いきなりミレーの「晩鐘」に「落穂拾い」ですから。あとはもう、盆と正月がいっぺんにやってきた感じというか。セザンヌ、モネ、ドガ、クールベ、ゴーギャン、ロートレック、ルノアール、マネ、シスレーといった印象派の巨匠の、美術の教科書とかでさんざん観た作品が、これでもかこれでもかというぐあいに、そこらじゅう展示されているのですから。途中、イスが随所に置かれて休憩もできるのですが、その脇に彫刻が置いてあるので、ふと作品名を見ると、ロダンとかマイヨールとかで。なんだか、ありがたみが感じられず、いい意味で呆れてしまいました。

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日本にいたら、それこそ一人ひとり3、4カ月の期間で国立美術館あたりで展覧会ができるような作家ばかりです。それがここまでそろってしまっているとなると、入った瞬間、これは1日、それも何時間かで観てしまってはいけない、罪悪感とはまた違うのですが、とりあえず半分くらいにしておこうということにしました。残りは「また次回!」です。

L106035520130807 美術館を出てセーヌ川を渡るとそこはルーブル美術館。こちらは初めてパリに来たとき一度行っているので、とりあえず今回はパスします。夜はホテル近くを探し、歩いてすぐのパサージュに中で見つけたお気楽フレンチの店に。セットメニューで13~14ユーロほどでしたが、前菜と肉料理だけでほぼ満腹。デザートは残念ながらパスでした。敷地の中を抜けて「グランパレ」近くのカフェでランチ。 ここはかつて1900年のパリ万博の際に建てられた美術館だったそうです。その後はすっかり廃れてしまったものの、2005年に大幅なリノベーションがなされ、さまざまなイベント用の施設として生まれ変わったとのこと。L106036220130807_2

そのあと「グランパレ」の中を通りながら、すぐ北側にいくつかある「パサージュ」へ。いちおう屋根付きの商店街というスタイルなのですが、昔の面影はないようで、人通りはまばらです。そのまま歩き続け、昨夜歩いた日本料理の店が集中しているあたりを抜けてホテルに戻りました。L106037020130807

予約していたホテルが消滅!?

2013年8月6日
6年ぶりのパリです。羽田発の深夜便で来たので、シャルル・ド・ゴール空港到着はなんと朝の5時50分。空はまだ暗かったです。そんな時間ですから、空港にいる人は少なく、入国手続きも税関もスイスイ。6時半には、ターミナルビルの外で、コーヒーを片手に一服できました。

空港内の観光案内所でミュージアム・パスなど必要なものを購入し、タクシーで一路、市内へ。渋滞もなく30分ほどで、オペラ座近くにあるホテルに着いたはずなのですが、ホテルの名前が違っていいます。3カ月前に予約しておいたのは「Radisson Blu Ambassador」というホテルなのですが、タクシーが止まったのは「Marriott Opera Ambassador」。でも住所は間違いありません。念のため、近くをひとまわりしてもらったのですが、やはり間違いなさそうです。

とりあえずタクシーを降り、フロントで聞いてみると、「間違いありませんよ、ここです。ひと月前に名前が変わりました」とのこと。日本でいうなら、ホテルオークラを予約しておいたはずが、行ってみたら帝国ホテルに変わっていたようなものです。まあ、欧米ではホテルの買収は当たり前のことではありますが、それにしても驚きました。L1060509ambassador20130809

でも、幸いなことに部屋が空いていたので、すぐにチェックインでき、荷物も部屋に運び込んでもらいました。さっそく行動開始で、長年の課題であるヴェルサイユ宮殿に行きました。前回来たときは行けなかったので、今度こそです。L106029020130806 ホテルを出てオペラ座の駅からメトロと電車を乗り継いで1時間。着きました! ヴェルサイユに。

ところが、まあ、ある程度は予想していたとはいえ、その聞きしに勝る混雑ぶりにはびっくり。入場券を買うのに30分くらいは待つ感じでしょうか。ミュージアムパスを購入しておいたので、その部分はスルーできるのですが、今度は、中に入るための行列に並ばなけれがなりません。まともに待っていたら1時間以上はゆうにかかりそうです。L106033420130806

そこで、宮殿の中に入るのは後回しにし、その奥にある庭園や王妃のための離宮のほうから先に観ることにしました。しかし、さすが世界遺産、宮殿ほどではないにしても、どこも人が多く、しかも夏休みのただ中。世界中から人が来ているのですから、やはりこの時期は鬼門といった感じです。

「宮殿は次来たときに」と、またのパリ旅行の理由づけもできました。「今回しかない」と思えばそういうわけにも行かないのですが、最近はだんだんずうずうしくなってきています。

木々と水で構成されている庭園はやはり大変なスケール。噴水のショーなどもあり、ゆっくりした時間を過ごすことができます。なにせ、真夏のこの時期なのに最高気温が25℃ほどですから、体の楽なこと。歩き疲れはしても、暑さにやられることはありません。結局3時半ごろまでいて、市内に戻りました。

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L106032420130806 夕方部屋に戻り、ひと休みしたあと、夕食に出ました。歩いて15分のところの界隈はやたらに日本料理の店が多かったのですが、結局は昨年の同じ時期、ブリュッセルで食べたムール貝の店の支店があったので、そちらに。ただ、同じところで取れた貝を使っているはずなのに、ブリュッセルの店のほうが数段おいしかったです。

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沖縄──まだまだ行くところがありそう

2013年7月2日
これだけ何度も沖縄に来ているのに、まだまだ行っていないところが多いのに驚いてしまいます。まあ、よく考えてみるまでもなく、一つの県なのですから、そうそう簡単に“制覇”するなんて、そもそも無理な話かもしれません。

というわけで、今日も那覇港泊埠頭のちょい北にある泊魚市場に行ってきました。それに隣接して、一般人向けの卸売りの店が30軒ほどあります。まあ、安いこと安いこと。何人かで沖縄に行ったと時はここで材料を仕入れればえらく安上がりで、おいしい魚が楽しめそうです。

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その真ん中に通称「まぐろ食堂」(那覇地区漁業協同組合まぐろセンター)があり、これまたえらく安い値段で、まぐろ丼や海鮮丼が食べられます。しかも、新鮮なことといったらありません。

L1060270帰りはとまりん(泊埠頭旅客ターミナルビル)まで海っ淵を歩いて帰ったのですが、最初、左手、泊高校のすぐ隣に墓地が見えました。白い十字架が並んでいていかにも外人墓地風なので、確かめたら、そのとおり。通称「ウランダ(琉球方言でオランダのこと)墓」といい、アメリカ人や中国人、イギリス人など5カ国22人が葬られているとのことです。いちばん古いものは1718年に埋葬された中国(清)人の墓であることもわかりました。中にはペリー上陸地の碑も立っており、ペリー艦隊の乗組員も5人眠っています。戦後はアメリカ軍人・軍属の墓地として使われているようで、1979年には那覇市の文化財に指定されています。

L1060271墓地を過ぎると、同じ側にボロジノ食堂も見えました。南大東島の料理が食べられると聞いていますので、今度機会があったら行ってみようと思っています。国道58号の手前を右に曲がり泊港橋を渡るととまりんです。この橋はまだ新しいようで、欄干に竜(ドラゴン)があしらわれているのが印象的。そこから、港の出口に見える泊大橋も素晴らしく美しく、夕日のころ見れば感動するのではないでしょうか。東京には明日、戻ります。
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暑い、熱いの「うたの日コンサート」に大感動!

2013年6月29日
おととし以来2年ぶりの「うたの日コンサート」です。会場は嘉手納の兼久(かねく)海浜公園。那覇のバスセンターから路線バスで行ったものですから1時間20分たっぷりかかりました。

会場に着いたのはほとんど2時。開演の1時間半も前です。この日はまさしくピーカンで、屋根も何もない会場は完全な熱帯状態。32、3度は間違いなく行っていたでしょう。地面の上はおそらく40度近いはずで、ブルーシートを通じてジワジワと熱くなってきます。

L1060265 それでも会場はけっこうな数の客で埋まっていました。会場の後ろにズラリ並んだ屋台で飲み物や軽い食べ物を仕入れ、水分補給に励んだのですが、飲んでも即蒸発していくような感じですから、開演してからも、何度も何度も屋台と席とを往復していました。

今年で13回目だそうですが、内容は年々充実している様子。呼びかけ人というか、いいだしっぺのBEGINはもちろん、古謝美佐子、パーシャクラブのレギュラー陣に加え、毎年、高橋優、虎姫一座、ボロジノ娘……と、方向性もジャンルもまったく違う面々が入っていて飽きさせません。今年はプログラムに「完熟トリオ」とあったので、だれかと思ったら、これがなんと、小坂忠+鈴木茂+中野督夫の3人。小坂忠は『エイプリル・フール』、鈴木茂は伝説の『はっぴいえんど』ですから、たまげました。

13年前の第1回は、もっとマイナーなイベントだったようです。でも、こんなビッグな名前も出ているくらいですから、これから先もっとメジャーなコンサートになるかもしれません。でも、トータル的にはなにげにバランスが取れていて、気楽に、それでいて心ゆくまで楽しめました。

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ただ、公演のただ中に、嘉手納の基地に出入りするアメリカ軍用機の爆音が響いてくるのはいただけないというか、不快でした。でも、嘉手納の人たちはそうした中で毎日の生活を営んでいることを思うと、そんなことで不満を抱いてはいけないと、自分を戒めました。

L1060264 3時半からスタートしたコンサートが終わったのは夜8時半。最後はカチャーシーで締めくくるのはいつもどおりなのでしょう。場所が沖縄ですから、日の入りも遅く、7時半まではまだ明るかったです。ちょうどそのくらいのころだったでしょうか、西の空に奇妙な形をした雲が出てきて、思わず写真を撮ってしまいましたが、何を意味しているのでしょうか。

『旅立ちの島唄~十五の春』に出演した大竹しのぶも登場し、歌っていましたが、けっこううまかったです。そういえば大昔、彼女もミーハーな曲を歌っていたのを思い出してしまいました。

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帰りも路線バスで那覇まで。でも、行きよりは早かったですね。今年は3年ぶりの沖縄本島での開催ということでしたが、来年、石垣島での開催ならぜひ足を運びたいと、将来スケジュールにインプットしたしだい。(最後の写真は「デイリースポーツ」掲載のものです)

生まれて初めて観た「闘牛」

2013年5月12日
 今日は日曜日。前日から行動予定は決まっていて、午前中にローズガーデンというアメリカンレストランでブランチをして、それが終わったらうるま市で開催される「沖縄闘牛」の観戦という流れでした。20130517091230418_0001 なにせ、数日前の「沖縄タイムズ」など、まるまる1ページを使って「県知事杯争奪 第99回春の全島闘牛大会」の記事を掲載しています。沖縄での闘牛の位置づけがありありと感じられ、それを見つけた家人は迷うことなく、「今回の目玉は闘牛!」と口にしていました。

 ところが、ちょっと出遅れたのがたたってか、11時にローズガーデンに着くと、ウエイティングの客が店の外にたむろしているではありませんか! あろうことか、駐車場には整理のための係員まで出ています。ウエイティングリストのエントリーをして戻ってきた家人によると「私たちの前に10組」。20分ほど待ったのですが、なかなかハケません。しかも、その場でエントリーして待っている10組のほか、予約が5組もいるといることがわかりました。結局あきらめ、闘牛を観終わった帰りに寄ろうということに方針転換。L1060204

 すぐ車に乗って高速道路で石川インターまで10分。闘牛の会場「石川多目的ドーム」はインターからすぐのところなのですが、駐車場はとっくの昔に満員。しかたなく、近く(といっても歩けば10分)に路上駐車し、会場にとって返しました。3000円(女性は2000円)の入場料を支払って中に入ると、始まったばかりにもかかわらず、早くも大変な熱気です。ただ、3000円も入場料を取るのですから、プログラムはもう少し、それなりのものを作ってほしいですね。凝らなくてもいいので。こんな紙切れ1枚だけでは、ショボすぎます!

20130518101837386_0001  この日の取り組みは全部で13番。最後の3番は優勝決定戦なのですが、いったいいつになったらそこまで行くのか、皆目見当もつきません。勝負はそれこそ30秒で決まるものもあれば、10分、15分経っても決着がつかない対戦もあります。

 観客の8割は男性でしょうか。なかにはアメリカ人と思しき人もいました。なかには、片手に分厚い札束を握り締めながら声援を送っている人もおり、これは賭けをしてりにちがありません。どうりで、熱くなっているはずです。まして、屋台で売られているオリオンビールや泡盛が入っているとなればますますテンションはUP。

 沖縄の闘牛と、スペインのそれとはまったく異なり、牛と牛とが頭をくっつけ、お互いタイミングを計りながら押し合うだけ。ときには引くこともあり、それは勝負のチャンス。その瞬間、観客席がどっと沸きます。そして、一方が相手を押し続け、丸い土俵の際まで追い詰め、相手がひっくり返ったりお腹を見せたりすると勝負あり。それ以前に、背中を見せて逃げる動きをしても負けというルールのようです。
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 ただ、ひとたび勝負に出て押し始めると、やはり闘争本能に火がつくのでしょう、相手をとことん倒すまでぶつかっていく牛もいました。土俵を囲むフェンスにドシーンとぶつけられ、半分動けなくなった相手を、さらに尖った角で刺す──そんな牛もいました。相手はそれで気絶してしまい、まったく動けません。体重が1000㎏(1トン)近くもあるのですから、それも仕方ないでしょう。ロープを体にかけ、勢子(闘牛士)たちが20人ほどで引っ張っても動かない牛のお腹からは真っ赤な血が出ていました。

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 この日の大会は春と秋の2回おこなわれる全島チャンピオンを決めるものでしたが、4000人もの観客は大いに楽しめたのではないでしょうか。

L1060214  観戦を終え、ローズガーデンまで戻ると、午前中の混雑はウソのように、すんなりテーブルに案内されました。「パンケーキ2枚+ハムステーキ+フライドエッグ」のモーニングセット(といっても一日中食べられる)を注文。家人は「ロシア風ビーフストロガノフ」にsたのですが、どちらもめっぽうおいしく大満足で帰途につきました。

 そうそう、もう一つ、この店のメニューで見逃せないのが「グリーントマトのフライ」です。小麦粉が違うのか、揚げ方が違うのかよくわかりませんが、えらくサクっとした歯ざわりが心地よく、前菜に最適。これも一度試してみてください。

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香港は相変わらずの活気

2013年5月11日
 9日の夕方、沖縄・那覇空港から香港ドラゴン航空の飛行機で香港へ。2時間少々で着くのでとても楽です。泊まりはいつもと同じ、九龍半島側尖沙咀のインターコンチネンタルホテルのハーバービューの部屋。家人は、このタイプの部屋に入り、窓いっぱいに広がるヴィクトリア港、対岸の高層ビルを見ると、「あー、香港に来た!」と心から実感するそうです。それと、朝食が最高!

Photo_5  今回は観光的な要素はほとんどなく、取材と雑用。10日は雨の中、それでかけずりまわっていました。昼食はこれまた私たちにとっては定番の一つ、対岸にあるIFC(国際フィナンシャルセンター)内の「正斗」。この店はいつ行っても行列ができているのですが、さすが午後3時近い時間となるとそれも一段落し、並ばずに入れました。

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Photo_4  今回は、最近その味を知った福州炒飯にトライしてみたのですが、もう最高! 写真も撮りましたので、いちおう出しておきます。家人は、写真上の焼きそばでしたが、これもまた素晴らしく美味。

Photo  着いた日の夜は尖沙咀の路地裏の店で済ませ、そのあと香港最大の人気スイーツチェーン店「許留山」で買い求めた「單吊西芒果 (マンゴ入りジュース)」に舌鼓を打ちました。「ジュース」と呼んでいいものやら、とにかく、中にはマンゴーの切り身がこれでもかこれでもかというほど入っています。それがすべてストローから上がってくるのですから、もう大満足。

 この日は昼食でほぼお腹いっぱい。結局、夜はホテルのバーでということになり、ヴィクトリアハーバーと対岸の夜景を見ながらカクテルやらビールやら。それにつまみを少々というスタイルで済ませてしまいました。

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 そして今日のお昼過ぎの便で沖縄に戻ったのですが、なんともライトな海外旅行でした。

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「灯台もと暗し」とはまさしく……

2013年4月29日
 今日でGWの前半も終わり。家人がたまたま何かの雑誌で見つけた“観光スポット”に行ってみることにしました。といっても、自宅からそれこそ30分ほどで行けるところで、大手町にある皇居東御苑です。

Photo いまでこそ天皇・皇后両陛下のお住まいがある皇居ですが、明治維新までは江戸城で、徳川将軍家の本拠地でした。しかし、「江戸城址」より「皇居」といったほうがピンと来るくらいですから、徳川将軍家の住まいだったことなどつい忘れてしまいがちです。しかし、実際に行ってみると、その巨大な権勢を改めて感じずにはいられません。たしかに、江戸城は300年近い間、日本の実質的な中心だったのです。

 とにかく、その大きいこと。ほかのどの城もかないません。江戸城の総構え全体の面積は230万平方メートルで、ヴェルサイユ宮殿(195万平方メートル)よりも広いといいますから、世界一といってもよさそうです。先日外装の修復工事が完成したJR東京駅や現在JPタワー(中央郵便局がある)が建っているあたりまでスッポリ総構えの中に含まれていたのですから、当然といえば当然です。

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 石垣も、ほかの城とは比べるべくもないほど立派で、きちんと整形されているものがほとんど。野連(のづら)積みのように、切り出してきたまま積み上げた石垣とは天地雲泥の差があります。さすが、将軍が住まわれていただけのことはあります。

Photo_2 本丸まで行く途中に大小の番所がいくつもあるところをみると、セキュリティーにも万全を期していたことがうかがえます。内堀通り沿いに建つパレスホテルの向かい、大手門から本丸の天守台までは、歩いてゆうに20分はかかります。その途中、いまは広場になっているところに大奥や中奥、政務所が建っていたわけですから、実際にはもっと時間がかかったにちがありません。

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 皇居東御苑というのは、広い江戸城の一部分、本丸と二の丸、三の丸があったエリアを公園として公開したものですが、それにしても広いことといったらありません。天守台はそれほど高い位置にあるわけではないのですが、まわりの広さを考えると、高くする必要もなかったのでしょう。台にのぼっただけで、まわりはかなり広範囲に見渡せますし、ましてそこにかつて建っていた天守閣に登れば、それこそ当時の広い、しかもビルなどまったくない江戸の市街地すべてを目に入れることができたことでしょう。

 これまで全国各地の有名な城・城下町を数多く取材してきた私ですが、さすが江戸城の大きさ、広さ、そして立派さには舌を巻かざるを得ません。自分の暮らしている東京の、それもど真ん中にこんな素晴らしいスポットがあったとは、まさに「灯台もと暗し」です。実際、ここを訪れているのは、そのほとんどが、連休を利用して地方から上京してきた観光客のように思えます。また、外国人の多さも目につきました。都民は意外と、訪れたことがないのではないかという気がします。

Photo_5 江戸城址に意外な喜びを感じたをあと、話題のJPタワーの展望台にも上ってみましたが、GWのせいか人、人、人でぎっしり。レストランもすべて満席で、とても入れません。それでも、上からながめる東京駅の駅舎は味わいがあり、けっこう楽しめました。結局、そのまま有楽町の朝日ホールまで歩き、イタリア映画祭に。『フォンターナ広場 イタリアの陰謀』という映画を観たのですが、これが最悪。喜びも半ばといった感じで帰路についたしだい。

せっかく月曜日を開けてくれているのですが……

2013年4月21日
 前日の夕方から京都へ。今日は朝早くに所用を済ませ、9時4分京都駅発園部行きの嵯峨野線(=山陰本線)ローカル電車に乗り、福知山へと向かいました。途中、亀岡という駅で特急「はしだて1号」に乗り換え、10時40分着。京都から30分も走らないのに、保津峡の駅を過ぎると、都会の喧騒とはまったく無縁といった感じの田園風景が広がり始めることに改めて驚きます。

 それでも特急が停車する亀岡とか綾部はまだ「町」で、福知山ともなると、駅もえらく大きくて立派です。それもそのはず、福知山は山陰本線、福知山線、北近畿タンゴ鉄道(KTR)の3線が交わる交通の要衝ですから。その昔、ここには旧国鉄の大きな車両基地があったため、いまでも駅のすぐわきにJR西日本の支社があります。

 まだ小学生のころ、母親と弟の3人で名古屋から東海道線で京都まで行き、山陰本線の夜行寝台に乗り換えて山口県の萩市(東萩駅)まで行ったことがあります。そのとき、この福知山駅でけっこう長い時間停車し、興奮して眠れずにいた私は列車の窓から、信じられないくらい多くのSL(蒸気機関車)を目にした記憶がかすかにあるくらいですから、よほどその数が多かったにちがいありません。いまでも駅前にはSLが1台飾られていますし、市内にはその時代をしのぶ記念館もあります。

 L1060047 さて、福知山です。北近畿の交通の要衝というわりには、それほど多くの人を見かけるわけではありません。10年ほど前に完成した駅舎はまだ新しく素晴らしくきれいなので、レストランや商業施設もさぞかしたくさんあるのかと思いきや、餃子の王将と和民、あとは小さなローカルのカフェがあるのみ、昼食を食べようにも、選択肢がありません。結局、美しくはあるものの人通りがほとんどない駅前で唯一存在感を示していたインド料理店でカレーを食べたのですが、これがえらくおいしかったです。満席だったのも無理ないことです。

 市内を2時間半かけて歩いて取材しました。駅を背にかつての中心商店街を抜け、明智光秀を祀った御霊(ごりょう)神社を観たあと、寺町(といっても3カ寺)から川沿いの旧城下町へ。そこに治水記念館という、あまり観光スポットらしくない名前の施設がありました。この町は古くから、市内を流れる由良川という川の氾濫・洪水に苦しめられていたそうです。2003(平成16)年10月、日本列島を直撃した台風23号で、福知山より少し下流にある舞鶴市でこの川の堤防が決壊、あふれた水のためにツアー客ら37人を乗せた観光バスが立ち往生し、乗客全員がバスの屋根に避難して約9時間後に救出されたということがありました。その川なのです。

 治水記念館では、毎年のように襲ってくるそうした水害とこの地の人たちがいかに戦い、いかに克服してきたかということが学べるのですが、けっこうおもしろかったです。川の堤防のすぐ脇にあるのですが、もともとは旧城下町の呉服屋さんだった建物は、1953(昭和28)年の大洪水のときも流されずに済んだとかで、説得力があるのです。それにしても、「最初の治水は明智光秀が城を築き、城下町をつくったとき、川を付け替えたのが始まり。ですから、ここでは光秀は大恩人なんです」という言葉には心がこもっていました。

 治水記念館の裏手はすぐ堤防。その上を歩いて城に向かいます。途中、なぜこんなところに? と思わせる洋館に出くわしました、えらく広い敷地に建っているのですが、重要文化財のようです。「足立音衛門」という名の洋菓子(私も古いですね、「スイーツ」のことです!)屋さんの持ち物のようで、店舗は、堤防の下を走る城下通りに面して建っていました。L1060068 見てのとおり、普通よくあるスイーツの店とはまったく趣が違うので、ちょっと見ただけでは何の店かわからないのではないでしょうか。結局、時間もなく立ちよることはできませんでしたが、通販でも商品は買えるようですし、東京・銀座の松屋デパートにも店を出していることがわかりました。えらく人気のあるお店みたいです。

 さて、戦国末期に明智光秀が築いた福知山城。外側は木造なので、大変味わいがあります。つい最近目にした木造の大洲城はまだ新しい感じがありありとするのですが、ここは修復された25年以上を経ているせいか、それなりの風格も感じました。もちろん、丸岡城(福井県)ほど風雪に耐えてきた歴史は見て取れませんよ。中身は例によって、全国どこでも同じ風でどうということはないのですが、外装のユニークさはやはり出色でしょう。Photo

 この福知山城は年中休みなしですが、ほかの施設の休館日が「火曜日」に設定されていることに感心しました。観光地であろうがなかろうが、全国どこでも、美術館や博物館といった公共施設は月曜日が休館とほぼ相場が決まっています。

 ところが、これだと困ることがあります。それは、たとえば週末から月曜日までというスケジュールを組んでも、そうした場所には行けないからです。外側だけ見ればOKという建物もなくはないのですが、内部もきちんと見学したい場合はそれが大きなネックになり、日程を短縮あるいは変更せざるを得ません。その点、福知山の場合は火曜日ですからとてもありがたいのです。自分たちの町を観光地として位置づけるのであれば、ほかのところも大いに見習っていいのではないでしょうか。ただ、福知山の場合、行きたいと思う施設が少ないのが難点でした。

こんな田舎(失礼!)に素晴らしい城が

2013年4月1日
 「津山」という町をご存じでしょうか? 岡山県にあるのですが、中国山地の盆地にあるせいか地味な存在です。ところがどうして、この町には大変な魅力があります。その第一は、西日本随一の桜の名所であること。第二には、とんでもなく立派な城(跡)があることです。

 もう一つ、2012年11月、姫路でおこなわれたB級グルメの全国コンテスト「第6回B-1グランプリ」でシルバーグランプリを受賞した「津山ホルモンうどん」もよく知られています。というか、最近ではこちらのほうで市民権を得ているといっていいかもしれません。

 しかし、今回この地を訪れた目的は城下町の取材。江戸時代の初め、森忠政(森蘭丸の弟だそうです)が18万6千石で入封し津山藩がスタートし築城に着手、13年の歳月をかけて完成した城なのですが、5層の天守のほか、櫓や城門など合わせ80を超える建造物から成る大規模な近世城郭でした。こんな山奥になぜ……と不思議でならないのですが、姫路城も真っ青といってもいいほど、大きな、また立派な城です。当時の石垣がそのまま残っているのですが、高さは12mを超え、城門から天守までは500段近い階段を上る必要があります。Photo_6

 たまたま、今日から恒例の「津山城桜まつり」が始まったこともあり、平日にもかかわらず大変な人出でしたが、2000本近い桜もたいそうなものでした。聞けば、明治期には5000本もあったといいますから、それはそれは壮観だったにちがいありません。取材でもなければ、ここまで足を運ぶことはなかったでしょうが、素晴らしい場所を訪れることができ、幸福感でいっぱいでした。

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“1日3城”にチャレンジ!

2013年3月31日
 昨日は徳島城址を訪れた今回の四国取材。その後、四国を横断して宇和島へ。昨夜は宇和島名物のタイ飯やじゃこ天に舌鼓を打ちました。

 今日もまたハードな取材です。まずは宇和島城に登城。昨夜、ホテルの近くから見えた城はまさしく空中の楼閣で、ライトアップされた姿が夜空の中に浮かんでいました。きっとかなり高い場所にあるのだろうと予想はしていましたが、そのとおり。入り口から急な坂道を歩いていった先に城はありました。復興天守とはいえ、その立派な姿はやはり風情があります。

 城のあと、伊達博物館、天赦園などを見て、こんどは一路大洲へ。高速で20分も走ったところにある大洲の街も桜が満開。日曜日なので、多くの家族連れがお花見にやってきていました。こちらも復興天守ですが、できたのが新しいので、天守の中は床も壁も天井も柱もまだ真新しい感じがします。すぐ近くを流れる肱川が外堀代わりだそうですが、その流れの立派なことといったらありません。

 大洲を見終えるとまだ時間に余裕があったので、予定を変更して今治に向かいました。ここは海のすぐそばに建っている城で、堀には海水が流れ込んでいます。復興されてそれほど時間も経っていないため、新しい感じがします。

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ここなら勉強に集中できる!

2013年3月11日
 今日はフェリーに乗って、サンフランシスコ対岸に浮かぶアルカトラス島へ。この島は1861年から1963年まで、最初は軍事刑務所、のちに連邦刑務所が設けられていたのですが、その建物がそっくりそのまま残され、いまは観光地になっています。

 L1050630 世界でも珍しい例なので、1年中、見物客が訪れます。込んでいる時など、事前に予約しておかないと、フェリーに乗るのに何時間も待たなければなりません。私たちも桟橋に着いたときは、「2時間ほどあとに出発する便にしか乗れない」といわれ、それまでフィッシャーマンズワーフをぶらぶらして時間をつぶしたほどです。

 アルカトラス島から戻り、タクシーで10分足らずのエンバーカデロという駅まで行き、そこからBART(Bay Area Rapid Transit)に乗ってバークレーに行きました。目的はUCB(カリフォルニア州立大学バークレー校)の見物です。4月から2人の甥っ子が大学(日本の)に入るので、「アメリカの大学というのはこんな感じ」というのを実際に体感してもらえればとの思いから計画したしだい。

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 私たちは2回目でしたが、やはり素晴らしかったです。いかにも勉強していますという雰囲気の学生がウジャウジャいます。といってアカデミックに片寄っているわけではありません。「知性の府」とでもいうのでしょうか。本当の勉強はこうした環境のところでするものといった感じが漂っているのです。2人とも、かなりインパクトを受けたように思いました。

 L1050673夕食はサンフランシスコに着たらかならず足を運ぶピア近くのSCOMASへ。シーフードはどれを食べても、相変わらずおいしかったです。もちろん、例によって写真はなし。すみませんが、せめて店の入り口の写真で我慢してください。

久しぶりのサンフランシスコ

2013年3月10日
 オークランドからサンフランシスコへレンタカーで移動。といっても、海峡を橋で渡るだけです。フリーウェイから見える景色は、オークランド側が工場や倉庫一色なのに対し、橋を渡ると同時にガラっと一変。歴史を強烈に感じさせる街になります。ダウンタウンをかすめながら港の南側を通り抜け、ゴールデンゲートブリッジを渡り、目的地ソーサリートへ。日曜日ですが、午前中とあってまだ人出が少なく、クルマもすんなり駐車できました。

 ソーサリートは15年ほど前訪れたときと趣きがまったく変わっておらず、東京でいうと鎌倉のような感じでしょうか、のんびりした雰囲気です。鎌倉は観光客が多すぎ、ゴチャゴチャしていますが、アメリカですから、そういうことはありません。

 L1050590 1時間ほどあたり一帯を散策、桟橋近くの公園から対岸のサンフランシスコの街並みを遠くに見ながら、ソーサリートをあとにしました。クルマをレンタカー会社のオフィスに戻し、ホテルへ。チャイナタウンの南門のすぐ隣で、ユニオンスクェアのすぐ近くなので、しごく便はよさそうです。

 荷物を預け、オファレル通りにある堂島庵で昼食。ここも10年以上前に来たときとまったく変わっていません。ただ、客は9割かた、いやそれ以上かもしれません、外国人で、日本人はほとんど見かけず。久しぶりのしょうゆ味に感動しました。

 そのあとユニオンスクェアからホップオンホップオフの観光バスで市内をひとまわり。このタイプのバスで回るのはここでは初めての経験で、知らない場所の多さを改めて感じさせられました。

 それにしても、カリフォルニアでもここまで北上すると、この季節はやはりまだ寒いです。L1050601 地上でじっとしていればむしろポカポカするのですが、屋根なしダブルデッカーの2階にすわっていると風が強烈で、体の芯まで冷え切ってしまいました。信号待ちで止まっているときはポカポカ温かいのですが、走り始めるともう凍えそうなほどの冷たさ。ゴールデンゲートブリッジの上を走り抜けるときなど、思わず体をかがめてしまいました。

 3時間ほどの観光を終え、ユニオンスクェアに戻ったときは、寒さでぐったりの感。ホテルにチェックインすると同時に風邪薬です。

 夜はすぐそばのチャイナタウンで夕食。オバマ大統領も来たことがあるらしい「迎賓閣」という店で中華料理。日本人にはいまイチの味でしたが、いかにもアメリカらしく量の多いこと。甥っ子たちがいなければ食べ切れなかったでしょう。

アメリカで見つけたデンマーク

2013年3月9日
 今朝、早く起きたので、朝食の前にホテル近くを散歩してみました。小さな町なりに、こぎれいな通りがあり、家々もスペイン風の趣きがします。L1050552
ホテルから15分も歩けばそこはもう太平洋。といってもおだやかな海ですから、荒々しさはまったくありません。こんな町を拠点にしたキリスト教の伝道師たちはいったいどんな気持ちで布教に歩いたのか、考えてみると不思議な気がします。たしかに人々の生活は貧しかったでしょうし、そうした人々にとっては何より心の支えが必要だったにちがいありません。

 さて、今日のスケジュールはかなりハードです。サンタバーバラからオークランドまで600キロ近くのドライブ。ハンドルを握るのは私ひとりです。途中、何か楽しみでも見つけておかなければ、とてもではありませんが、走り切れないだろうということで、あらかじめ仕込んでおいたのが「西海岸でいちばんおいしいパンケーキを食べさせるカフェ」。それは、サンタバーバラから数10キロの途中のソルバングという町にあるとのことです。「よ-し、食べてみようか」というわけで、サンタバーバラのホリディインエクスプレスを出発しました。

 アメリカはむずかしくいうと複合民族国家、わかりやすくいうなら、いろいろな人種・民族がゴッタ煮のように暮らしている国です。かつて宗主国だったイギリスはよく知られていますが、それ以外にも、たとえばニューオーリンズ(ルイジアナ州)はフランス、サンアントニオ(テキサス州)はドイツ、エル・パソ(同)はスペイン、ニューヨークはオランダ……と、それぞれ、その地に定住し始めた国の人たちがいます。ニューヨークなど、もともとはニューアムステルダムと名づけていたのを、イギリス人がそこを買って名前を変えた町です。

 また、カリフォルニア州の南部はスペイン人がやってきてこさえた町がほとんどです。町の名前からしてスペイン語のオンパレード。ロサンゼルス(Los Angeles)もサクラメント(Sacramento)もそうです。それぞれ「天使たち」「秘蹟」という意味ですが、いちばん多いのはキリスト教(カトリック)の聖職者にちなんだもの。サンディエゴ(San Diego)、サンフランシスコ(San Francisco)がその代表でしょう。San(=聖)とかSanta(=聖なる)という言葉が頭につけられている町が多いのは、スペイン人がキリスト教を布教するため、そこに伝道所を設けたことにちなんでいるからです。
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  昨日泊まったサンタバーバラ(Santa Barbara)にしても同類です。ロサンゼルスからクルマで1時間半ほどしか離れていないのですが、なんとも落ち着きがあります。その気になれば、ロサンゼルスから鉄道(AMTRAK)という鉄道で訪れることもできます。といっても、1日数本しか走っておらず、日本でいうならローカルのお、それも第3セクターが運営しているような感じでしょうか。駅(下の写真)もどこかのんびりした感じでしょう?

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 そんなことを考えながら今日、足を踏み入れたソルバング(Solvang)というところはアメリカでは珍しい、デンマーク人の作った町でした。ソルバングとは、デンマーク語で「日の当たる平地(sunny field)」という意味だそうですが、これは1911年、中西部に移民していたデンマーク人たちがこちらに移りコミュニティーを作ったことによります。いまでもその当時の街並みがほぼそのまま保存されていて、一瞬ここはどこだったっけ? と錯覚してしまうくらい、かなり広い
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エリアがデンマーク風になっています。L1050563 風車がこの町のシンボルのようで、その合間にパン屋、チョコレート屋、ワイン店、雑貨品店、食器店など、若い女性が涙を流しそうなかわいらしい店が立ち並んでいます。

 そうそう、パンケーキです。店の名前は「Paula’s Pancake House」といいます。町の中心にあるので、すぐわかります。たしかに、店の前には行列ができていました。日曜日、それも11時ごろという時間帯もあってでしょう、ブランチを食べにやってくる近所の家族連れがほとんど。もちろん近郊からクルマを飛ばしてやってきた観光客の姿もあります。私たちも20分ほど待たされて店内に。といってもアウトドアのテーブルで、天気がよくてホントよかったです。

 パンケーキの味は……。「西海岸一」なのでしょう。もちろん、日本のそれよりはおいしいです。ただ「アメリカ一」でも「世界一」ではけっしてありませんから。ちなみに、私はオランダのロッテルダム、運河を走る「パンケーキボート」で食べたほうが好きですね。L1050580

 ソルバングを昼過ぎに出て、あとは一路オークランドへ。夕方6時前、空港の近くにあるにホテル「コートヤードバイマリオット」に到着しました。荷ほどきもそこそこに、ホテルのすぐそばに建つオラクルアリーナに移動。目的はNBAです。すぐ隣がMBAアスレティックスの本拠地球場、その奥のアリーナも美しいフォルムで、素晴らしく立派でした。

 お腹が空いていたので、入場口の手まで立ち売りしていたホットドッグをとりあえずほおばります。入口の荷物チェックはけっこう念入りで、私が背負っていたリュックは預けさせられました。食べ物の持ち込みもNGだそうで、夜食用にとソルバングで買っておいたデンマーク風のパンも没収──悔し~い! チケットはかなり前にネットで買っておいたのですが、中はほぼ満員でした。L1050587 ゲームのレベルはもちろん高いのですが、観客を楽しませるための演出となると、ロサンゼルスのレイカーズなどのほうがはるかに上を行っているという感じを受けました。 


 

太平洋を背景にのびのび遊ぶキリン

2013年3月8日
 ラスベガスからJETBLUE便でロングビーチへ。JETBLUEという航空会社はいま流行のLCCの先駆者的な存在ですが、機材が非常に清潔なのが売り。同じLCCでも、サウスウェストと比べるとかなり差があります。

Photo_7  ロングビーチの空港は改装なって、えらくきれいになっていました。といっても、日本の地方都市の空港よりこじんまりした、かわいい空港です。ここでレンタカーを借り、今日はサンタバーバラまで走ります。目的はサンタバーバラの動物園。
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  時間ギリギリでしたがなんとか入園させてもらい、一路キリンのところへ。動物園自体が海に面しているので、ほかの町とは趣がかなり違います。キリンも温かい日差しを浴び、えらくリラックスしていました。環境自体がせせこましくないので、キリンにかぎらずどの動物もそうした感じがします。L1050513

 動物園の中は、たいていのところがそうですが、トラムや、ここサンタバーバラのようなミニレールが走っています。大人も子どもも、気持ちを一つにして園内をあちこと見まわしながら楽しめるわけですが、ホント、いい光景が見られます。

 さて、閉園ギリギリまで楽しんだあとは、町のちょっとはずれにある観光スポット集中地域へ急ぎました。明日の出発が肺ので、今日のうちにできるだけ町の中を見て歩かないといけんません。まずは、その昔スペインからやってきた伝道師たちが根拠地にした教会(伝道所)を見学。1786年にネイティブアメリカンに布教活動をするために建築され、現在はアメリカの歴史的建造物へ登録されているそうです。白いレンガの壁と赤い屋根のコントラストがなんとも美しい建物です。

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 夜になると猛烈な風。そして気温の低いこと。海辺のシーフードレストランで魚や貝を目いっぱい食べました。

初めて行った「コカコーラストアー」で

2013年3月6日
 日本出発が3月5日の午前0時5分だったので、時差の関係で、ラスベガスに着いたのは前日の夜9時過ぎ。1日儲けたような気分ですが、帰りに帳尻を合わせなくてはならないのでトータルとしては損も得もありません。

Photo_11  さて、そういうわけで、今日はラスベガス2日目。朝食を済ませるとストリップを歩き、「コカコーラストアー」に行きました。甥っ子の1人が、飲み物としてではない「コカコーラ」文化としての「コカコーラ」にハマっているようで、ぜひ行ってみたいというのです。ガラス張りの巨大なコカコーラボトル(中はエレベーター) が入口の前にドーンと構えるこの施設は以前、コカコーラのすべてがわかるミュージアムと、ロゴ入りグッズなどを売るオフィシャルギフトショップだったのですが、2000年にミュージアムは閉鎖され、現在はショップだけが営業しています。

 小さなものから大きなものまで、また古いものから新しいものまでさまざまなロゴ入りグッズを取り扱っており、その品ぞろえはマニアも驚くばかりとのこと。何十年も前の広告要看板やロゴの入ったプロモーション用グッズなど、骨董の域に達しているものもありました。

 あっという間に2時間ほどが過ぎ、大いに楽しませてもらいました。不思議なことに、中に入ってしばらくすると無性にコカコーラが飲みたくなり、つい口にしてしまいました。だれだって、そういうことってありますよね?

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Photo_10  その後はストリップ沿いでショッピングとホテル見学。まあ、大変な距離を歩きました。夜はトレジャーアイランドでショーです。今回はシルクドゥソレイユの『Mystere』。堪能しました。ショーが終わったあとは食事を楽しみ、そのあとはトレジャーアイランドの隣にあるミラージュへ。名物の「火山大爆発」を見て、甥っ子たちはびっくり仰天。ラスベガス2日目の夜も終わりです。興奮のあまり、眠れなかったなどということがなければいいのですが。明日、2人は早朝から「グランドキャニオン遊覧飛行」ツアーですから。

初の海外旅行先がラスベガスって、どうなのか?

2013年3月5日
 甥っ子2人を連れてアメリカに来ました。高校を無事卒業し、4月から大学に入る2人へのささやかな(いや、ビッグか!?)プレゼントです。もちろん2人にとっては初めての海外旅行。ただ、その初訪問地がラスベガスとなると、我ながら不安というか、疑問があるのもたしかです。

 なぜそうなったのかといえば──。このブログにもすでに何回か登場しているロサンゼルスのHさん夫妻に日本からあるものを届ける必要があり、最初の寄港地がどうしてもロサンゼルスになります。羽田発の便なので、夕方にロサンゼルス空港着。いままではそこでひと晩泊まり、翌日から動き始めるのですが、今回は甥っ子2人とも、「ロサンゼルスにはとくに観たいものはありません」ということでした。

 まあ、そういわれればたしかにそうで、ディズニーランドもユニバーサルスタジオも日本にありますし、ジョン・ウェインもマリリン・モンローも知らないいまどきの高校生にチャイニーズシアターもさして魅力はなさそうです。というわけでロサンゼルスは完全パスということになり、着いた時間が夕方はやいこともあって、Hさん夫妻とお会いしただけで、そのままラスベガスに移動することになったしだい。じつは、Hさん夫妻とも翌々日ラスベガスで会いましょうということで話がついていました。ラスベガスへはLCCの優等生サウスウェスト航空の便です。カウンターの前で取ったのが甥っ子2人が海外で初めて撮った写真。やっぱ、うれしそうですよね!

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 夜9時過ぎに着いたのですが、空から見るラスベガスの夜景はもう最高で、それだけで興奮をかき立てます。ホテルは今回、Hさん夫妻がそこにロハで泊まれるという事情もあり、それに合わせてParisというところにしました。日本からのツアーではよく使われているようです。かつてAraddinという名前だったころ一度泊まったことがありますが、さほど好きなホテルではありません。ふところに余裕があれば、向かい側のBellagioとかがよかったのですが、致し方なしということで。

Photo  このホテルの売りは、ホテルの中にエッフェル塔(の下部)があるということ。エッフェル塔の上の部分はホテルの天井を突き抜け、空に向かって立っています。それはそれでいいのですが、何より気に入らないのは、空(といっても、要は天井なのですが)に下でギャンブルをするというコンセプトです。これでは、どうにも気が進まないのです。やはり派手なシャンデリアやギラギラの照明の下でやるのがギャンブルというものではないかと。そのせいか、初日はまったくいいところなしで終わりました(言い訳にしか聞こえないでしょうが)。

 甥っ子2人は未成年ですから、もちろんカジノでは遊べません。軽めの夕食を済ませたら即就寝とあいなりました。

初めて、タイをきちんと観光してみました

2013年2月19日
私がタイを初めて訪れたのは、四半世紀以上も前のこと。当時私がかかわっていた出版社で、客家に詳しい著者による単行本を企画、そのインタビュー取材でシンガポールに来たとき、ついでにということで、先のSくんと再会するためでした。このときは観光などする時間はまったくなく、ひと晩過ごしただけです。

というわけで、ほとんど初めて同然(家人は正真正銘の初訪問)のタイですから、今回は多少「観光」を盛り込みました。それでもわずか2泊しかできないとなれば、イキているのは1日だけといっても過言ではありません。

「王宮」、そして「ワット・プラ・ケーオ」「ワット・アルン」「ワット・ポー」の4カ所をまとめて観たのですが、どこがどこだったかも思い出せません。アジアの宗教建築はおそらくどこもそうなのでしょうが、とにかくきらびやか。外壁にびっしり仏像や神さまの彫像がほどこされているパターンが多いので、新しかったり保存状態がよかったりすると、それこそ光り輝いています。

「ワット・プラ・ケーオ」は「王宮」に隣接しており、別名をエメラルド寺院といいます。その昔、国王がラオスから戦利品として持ち帰ってきた翡翠【ひすい】の仏像がエメラルドグリーンをしていたことからその名がついたようです。境内にはどれも皆派手な金箔がほどこされており、見る角度によってはまぶしくて仕方ありません。

もともとは仏教寺院だったのが、その後ヒンドゥー教の影響を受けたため、そちらの神様なんぞも祀【まつ】られています。極彩色で覆われているのは、そうした影響もあるのでしょう。とにかく目立つこと、目立つこと。同じ仏教であるにもかかわらず、日本の禅宗っぽい質素さ、渋さといったものは微塵も感じられません。

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次に行ったのが「ワット・アルン」寺院。王宮の脇にある桟橋から渡し船でチャプラヤ川を渡って行く「ワット・アルン」。こちらは外壁が中国陶器で覆われていて、きらびやかさとはほとんど無縁です。もちろん、外壁を覆う小さな彫刻は一つひとつ細やかな細工がほどこされており、全体としては派手なのですが、金ピカなイメージはありません。高さ81mという仏塔の途中まで歩いて登れるのですが、階段が急でかなりのハードワークでした。

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このあともう一度渡し船で川を渡り、最後に訪れたのが「ワット・ポー」。こちらは本堂に安置されている“寝仏”が有名なようです。巨大な仏像は頭のてっぺんから足先まで金箔が塗られていて、まばゆいばかり。ただ、顔の表情はなんとも柔和で、成仏を示す半眼半口(目と口が半分開いている)の表情が印象的です。足の裏には精巧な螺鈿【らでん】の細工がほどこされていました。

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夕食の前に、ホテルの隣にあるヒンドゥー教寺院「エラワン・プーム」をのぞいてみました。ここは、日本でいえば町中の神社風の場所で、1日中参詣の人が。だれもが線香を焚くのですさまじい煙と香りが漂っています。日本の線香と成分が違うのでしょう、香りもドぎついというか、独特です。
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食事は、そのすぐ近くにあるショッピングモール「セントラルワールド」へ。ここには伊勢丹が入っているせいもあってか、日本の食べ物屋(フランチャイズチェーン系)もイヤというほど出ています。ただ、タイ飯をまだ食べていなかったので、スープやら麺やら、軽いメニューで済ませました。昼間まばゆいものをずっと見続けていた疲れもあったのかもしれません。

今回は時間がなかったのであきらめましたが、次に来たときは、都心の官庁街のただ中にあるという「ドゥシット動物園」にぜひ行ってみたいいなと思いながら、バンコク観光は終わりました。この「次に来たとき」というのが、大事なのですね、海外旅行では。

「オリエント・エクスプレス」の旅・3日目

2013年2月17日

L1050264さて、今日で「オリエント・エクスプレス」の旅も終わり。予定では、午前10時ごろカンチャナブリという駅に停車し、そこから、映画『戦場にかける橋』で知られているクワイ川を観光するはずなのですが、列車の進行が遅れてしまっていたようで、先にランチを済ませました。お昼前に駅に着き、そこからしばらく歩いたところにある桟橋で船に乗り換え、甲板にしつらえられた野外教室のようなところに一同着席。ガイドさんの英語によるレクチャーがあります。

内容は、私たち日本人にとってはかなり辛辣です。韓国人慰安婦や強制労働、中国・南京での大虐殺など、戦争というのはしばしば日ごろの常識では考えられないような行為を平気でしてしまう恐ろしさを秘めていますが、ここで起こったこともそれに似ています。それも、冷静な理性が稼働している状況下のことなので、悲しさと恐ろしさがいっそう強く感じられます。

太平洋戦争当時、東南アジアに侵攻した日本軍は、タイとビルマ(現ミャンマー)とを結ぶ全長415㎞の鉄道(泰緬【たいめん】鉄道)を建設しようとしました。それまでビルマの宗主国だったイギリスが、何度も計画したものの、過酷な自然条件のためにあきらめていた鉄道です。しかし、日本陸軍にとってこの鉄道は、物資や兵員の輸送のため、何がなんでも作る必要がありました。そして、実際にそれを実行に移したのです。

陸軍は、各地の戦いに勝って捕虜にしたイギリス、アメリカ、オーストラリア、オランダの兵士6万2千、タイ、ミャンマー、マレーシア、インドネシアから徴用した現地人労働者30数万、合わせて40万人ほどを動員し工事が始まったのですが、過酷な自然や厳しい地形、劣悪な労働環境などで、その半数が犠牲となりました。なかでも、このカンチャナブリ近くを流れるクワイ川に鉄橋を架けるは困難をきわめ、ことのほか多くの犠牲者が出ました。しかも皮肉なことに、彼らが作った橋を、軍事作戦上の必要から、最後は彼ら自身の手でその橋を爆破してしまうのです。当然のこと、これは捕虜の保護を義務づけているジュネーブ協定に違反した非人道的な残虐行為として、東京裁判などで厳しく糾弾されました。

レクチャーが終わると船が出発、チーク材で作られた昔風の家々を見ながらクワイ川を下り、降りるとバスに乗り換えて博物館「泰緬鉄道センター」へ。そのあとはすぐ向かい側にある「ドンラック戦没者墓地(鉄道建設で亡くなった人たちの共同墓地)」を訪れて献花、再びカンチャナブリ駅に戻りました。

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さて、列車は、住宅が建ち並ぶバンコク郊外から終着駅が近づくにつれ、スピードが大幅にスローダウンします。予定の16時45分より2時間近く遅れて、バンコクのフアランポーン駅に到着。ちょうど日が沈むころでしたが、50数時間、2160kmの豪華列車旅の終わりです。

ステップを降りると、ホームの出口に向かって歩き始めます。すると、旅の間、私たちのお世話してくれた担当スチュワードを始め、車掌、食堂車・売店・バーのスタッフが全員、プラットホームに立ち並び、「Thank you」といいながら手を振って見送ってくれるのです。最初から最後まで、真心あふれるホスピタリティーに強く感心させられました。姿・形は「列車」ですが、その空間は1から10まで上質の高級ホテルそのもの。料金だけは高級でも、サービスは2流以下というホテルも少なくありませんからね。

ホームの端で荷物を受け取り、あとはそれぞれの旅路へ。私は高校時代の友人で、バンコクで会社を経営しているSくんの出迎えで、予約していたグランドハイアット・エラワン・ホテルまで送ってもらいました。本当は夕食をともにするはずでしたが、Sくんがその夜のフライトで大阪に行かなければならなくなり、ホテルのロビーでお別れ。残念ですが致し方ありません。そもそもお腹が減いておらず、夕食は結局、近くのショッピングモールにあったアメリカの老舗ハンバーガー店で済ませました。

「オリエント・エクスプレス」の旅・2日目

2013年2月16日

L10501762日目の朝。私たちのキャビンを受け持つスチュワードがドアをノックします。さあ、朝食です。温かいクロワッサンとデニッシュ、オレンジジュース、コーンフレーク、ヨーグルト、コーヒー、水。どれも皆、気品のある器とともに供されました。見ているだけでも優雅な気分にひたることができます。

午前9時、バターワース駅に到着。ここで専用バスに乗り換え、近くのペナン島まで観光に。橋を渡ると、島の中心・ジョージタウンという港町でバスをおり、こんどはトライショー(人力車)に乗って街の中をひと回り。イギリス人の造った町はどこも皆共通していますが、美しいのが特徴です。町自体は6年前に大学時代の先輩夫妻と来たことがあるのですが、トライショーに乗って動くと、また異なる印象を受けます。これ以上はないというほどの好天で、気持よい時間を過ごすことができました。

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11時15分、ジョージタウンを出発、バターワースの駅に戻り再び列車に。涼しい車内でひと息ついたころがランチタイムで、食堂車へ移りました。

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今日のランチは「トム・ヤム・ヴィシソワーズ」「うずらのメダイヨンと野菜のタリアテッレ」、メインは「白身魚のフライ 四川風野菜添え」、デザートは「ラズベリー入りライチのムース バナナソース添え」+コーヒー(または紅茶。けっこうヘビーな内容で、ただじっとしているだけだったら、半分は残していたでしょう。でも、観光で適度に体を動かしているので、サクサクいけてしまいました。

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午後からはいよいよタイに入ります。マレーシア出国、タイ入国の手続きは担当スチュワードにパスポートを預け、そちらで済ませてくれます。その間、私たちはアフタヌーンティーをゆっくり楽しめるというわけです。窓にはタイの田舎の景色が広がり、農作業にいそしんでいる人々や学校帰りの子どもたちが列車に向かって手を振っています。

L1050232タバコを吸いに展望車まで行くと、それこそいろいろな国からやってきている乗客に出会います。だれもがリラックスしているというか、そうそう体験できない優雅な列車旅を堪能している様子。天気にも恵まれ、いうことなしです。

地続きなのに、マレーシアとタイとでは外の景色が大きく違います。タイのほうが村々も田畑も豊かな感じがするのは、産業構造のせいもあるのでしょう。マレーシアはだだっ広い熱帯樹林が続くだけ、たまに見えてくる畑もどことなく殺伐とした印象です。それに対しタイのほうは田んぼあり、野菜畑あり、果樹園ありと変化に富んでいるためか、気持ちがおだやかになってきます。国民性の違いもあるのかしれません。「風土」という言葉の持つ意味を考えさせられました。

今日の夕食は遅めのスタート。でも、お腹の空き具合からしてちょうどよかった感じがします。たっぷり2時間近くかけてのディナータイムなど、日本にいるとなかなか味わえません。たいそうなボリュームなのですが、話をしながらゆっくり食べると、すっかり完食。これには自分でも驚いてしまいました。でも、正直、そろそろ日本蕎麦が食べたい心境です。「2泊3日」のコースにして正解でした!