2013年2月17日
さて、今日で「オリエント・エクスプレス」の旅も終わり。予定では、午前10時ごろカンチャナブリという駅に停車し、そこから、映画『戦場にかける橋』で知られているクワイ川を観光するはずなのですが、列車の進行が遅れてしまっていたようで、先にランチを済ませました。お昼前に駅に着き、そこからしばらく歩いたところにある桟橋で船に乗り換え、甲板にしつらえられた野外教室のようなところに一同着席。ガイドさんの英語によるレクチャーがあります。
内容は、私たち日本人にとってはかなり辛辣です。韓国人慰安婦や強制労働、中国・南京での大虐殺など、戦争というのはしばしば日ごろの常識では考えられないような行為を平気でしてしまう恐ろしさを秘めていますが、ここで起こったこともそれに似ています。それも、冷静な理性が稼働している状況下のことなので、悲しさと恐ろしさがいっそう強く感じられます。
太平洋戦争当時、東南アジアに侵攻した日本軍は、タイとビルマ(現ミャンマー)とを結ぶ全長415㎞の鉄道(泰緬【たいめん】鉄道)を建設しようとしました。それまでビルマの宗主国だったイギリスが、何度も計画したものの、過酷な自然条件のためにあきらめていた鉄道です。しかし、日本陸軍にとってこの鉄道は、物資や兵員の輸送のため、何がなんでも作る必要がありました。そして、実際にそれを実行に移したのです。
陸軍は、各地の戦いに勝って捕虜にしたイギリス、アメリカ、オーストラリア、オランダの兵士6万2千、タイ、ミャンマー、マレーシア、インドネシアから徴用した現地人労働者30数万、合わせて40万人ほどを動員し工事が始まったのですが、過酷な自然や厳しい地形、劣悪な労働環境などで、その半数が犠牲となりました。なかでも、このカンチャナブリ近くを流れるクワイ川に鉄橋を架けるは困難をきわめ、ことのほか多くの犠牲者が出ました。しかも皮肉なことに、彼らが作った橋を、軍事作戦上の必要から、最後は彼ら自身の手でその橋を爆破してしまうのです。当然のこと、これは捕虜の保護を義務づけているジュネーブ協定に違反した非人道的な残虐行為として、東京裁判などで厳しく糾弾されました。
レクチャーが終わると船が出発、チーク材で作られた昔風の家々を見ながらクワイ川を下り、降りるとバスに乗り換えて博物館「泰緬鉄道センター」へ。そのあとはすぐ向かい側にある「ドンラック戦没者墓地(鉄道建設で亡くなった人たちの共同墓地)」を訪れて献花、再びカンチャナブリ駅に戻りました。
さて、列車は、住宅が建ち並ぶバンコク郊外から終着駅が近づくにつれ、スピードが大幅にスローダウンします。予定の16時45分より2時間近く遅れて、バンコクのフアランポーン駅に到着。ちょうど日が沈むころでしたが、50数時間、2160kmの豪華列車旅の終わりです。
ステップを降りると、ホームの出口に向かって歩き始めます。すると、旅の間、私たちのお世話してくれた担当スチュワードを始め、車掌、食堂車・売店・バーのスタッフが全員、プラットホームに立ち並び、「Thank you」といいながら手を振って見送ってくれるのです。最初から最後まで、真心あふれるホスピタリティーに強く感心させられました。姿・形は「列車」ですが、その空間は1から10まで上質の高級ホテルそのもの。料金だけは高級でも、サービスは2流以下というホテルも少なくありませんからね。
ホームの端で荷物を受け取り、あとはそれぞれの旅路へ。私は高校時代の友人で、バンコクで会社を経営しているSくんの出迎えで、予約していたグランドハイアット・エラワン・ホテルまで送ってもらいました。本当は夕食をともにするはずでしたが、Sくんがその夜のフライトで大阪に行かなければならなくなり、ホテルのロビーでお別れ。残念ですが致し方ありません。そもそもお腹が減いておらず、夕食は結局、近くのショッピングモールにあったアメリカの老舗ハンバーガー店で済ませました。