スイスは“喫煙先進国”

2013年10月3日
マドリードは日本から直行便がないため、ヨーロッパのどこかの都市で乗り継がねば行くことができません。今回はスイス航空を利用したので、チューリヒ経由。2時間の待ち合わせです。となると、スモーカーの私にとっては、何がなんでもタバコを吸うチャンス、というか吸わずにはいられません。チューリヒまでの飛行時間が11時間30分ともなると、それも当然でしょう。

しかし、美しい自然の国、清潔好きの国民性が売りのスイスというと、国をあげて、喫煙(者)に対しは厳しいのではないか──そんなイメージを抱きがちです。ところが、あにはからんや。飛行機を降りたすぐそこの通路に、「スモーカーズラウンジ」と名づけられたコーナーがあったのです! それも、日本の空港のように、いじけた、暗い、そして何より臭い(当たり前か!)喫煙コーナーとはほど遠い、滑走路に向けて目いっぱい広く取られた窓があり、すわり心地もよい長イスが備わった“天国”のようなスペース。さっそく、そこへ飛び込んで一服。気持ちが癒されることはいうまでもありません。Photo

これならあと2時間弱はなんとか我慢できそうだと思いながら、国内線のターミナルに移動すると、なんとなんと。もう、そこかしこに「スモーカーズラウンジ」が。それもすべて滑走路に向けて設けられているので開放感に満ちています。これは喫煙者にとってはありがたいというか、心が休まるというか。別にそこで吸いまくるわけではないのですが、そういうスペースが目につく場所にあるという、その事実だけで、安心できるのが大きいのです。

Photo_2ついでながら、私たちはスイス航空のラウンジを利用できたのですが、その一部にも「スモーカーズバー」という、禁煙になっているラウンジよりはるかに広々とした、ゆっくりくつろげるスペースがありました。ドイツのフランクフルト、ミュンヘン空港にも喫煙コーナーはありますが、数が少ないため、そこへ行くのにえらく難儀しますし、ロンドンやパリなど、そうした施設そのものがありません。これからのヨーロッパ出張はいつもチューリヒ経由にしようか……と、真剣に考えてしまいました。

モスクワのホテルでスターリンの肖像画に遭遇!

2013年8月14日
4泊したサンクトペテルブルグとも今日でお別れ。サンクトぺテルブルグからモスクワへの移動です。午前中はホテル近くを散策。L106095520130814 マリインスキー劇場など、今回ゆっくり観ることのできなかったスポットを少しでもカバーしようと、ギリギリまで粘ります。ホテルに戻り、おみやげ品選びにしばし悩みました。結局、ホテル内の売店で見つけたグラスを選んだのですが、豪華な雰囲気の中に感じられる繊細な色使い、紋様はさすが、王室があったためでしょう。

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L106097220130814 モスクワへは、市内の「モスクワ駅」から午後1時30分発の特急「サプサン(Сапсан=はやぶさ)」号に乗りました。所要時間は3時間余。途中3つほどの駅に停車しますが、その周辺以外の沿線は白樺の林など、森か原野でほとんど何もありません。いまさらながらロシアのだだっ広さに感心します。

しかし、モスクワ版新幹線の乗り心地は意外とよかったです。時間も正確のようですし、安全という観点からも、きちんとした対策が施されているようです。鉄道では初めての経験ですが、ホームに行く前に荷物検査もあります。そこを通過しないといけませんし、乗るときにも車掌がチケットを一人ひとり確認して乗せていきます。このあたりは、だれでもすぐに乗れる日本の新幹線とはだいぶ事情が違うなと思いました。

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モスクワ着は午後5時前。レニングラード駅といいます。行き先が駅名になっているので、わかりやすいといえばわかりやすいのですが、レニングラードはいまはもうない都市名ですから、なんだかおかしい気もします。

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駅から迎えの車でホテルへ。しかし、道路は聞きしにまさる大渋滞で、ドライバーはすぐ裏道に迂回し、予想の半分、30分ほどで着きました。「Historical Hotel Sovietky」は、予想はしていましたが、えらく古めかしいホテルです。

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外の看板には「1950年創業」とあるので、私の生まれ年にオープンしたことになります。当時はまだ東西冷戦の時代。1階から2階、2階から3階に上がっていく階段の広い踊り場にフルシチョフやブレジネフ(いずれも首相を務めた)の肖像画が麗々しく飾られていましたが、その名残でしょう。L1070076 それにしても、スターリンの肖像画まであったのには驚きます。

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古きよき時代をしのばせる高い天井、幅の広い廊下に敷かれた赤い絨毯。部屋の家具やカーテン等々。たしかに、「historical」の名に恥じないといえます。事実、フロントの前には、これまで60余年間にこのホテルに泊まったお歴々の写真がさりげなく貼ってありました。

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この日は、そろそろ日本メシか中華が食べたいタイミングだったので、歩いて15分ほどのところにある日本料理店「一番星」に行きました。ホテルのスタッフがすすめてくれたのですが、味はバッチリ。しばらく前にモスクワを訪問した安倍首相のレセプションで、料理を出した店のようですから、それも不思議ではありません。久方ぶりの「日本」に心がなごみました。

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部屋に戻ってバスタイム。ただ、さすが「historical」、バスタブに十分な量のお湯を入れるのになんと30分以上かかりました。待ち切れず、途中で飛び込んでしまいましたが、洗面台のほうがお湯の出はよかったようです。おそらくオープン当時のものがそのまま使われているのでしょう。

噴水は「夏」へのあこがれ?

2013年8月13日
今日も絶好の晴天。午前中から船に乗って「ペテルゴーフ」まで行きました。エルミタージュ美術館の前にある船着場から高速艇で30分ほど走ったところにある、ピョートル大帝の「夏の宮殿」です。L106084520130814

ここは要するに王室の別荘です。もちろん、別荘といっても、ハンパな大きさではありません。そして、冬は極寒の地となるサンクトペテルブルグですから、暖かさ、太陽の光に対するあこがれがそこかしこに感じられます。それを象徴するのが噴水です。

とにかく、どこに行ってもあるのは噴水、また噴水。よくもこれほどといいたくなるほど、ありとあらゆるスタイルの噴水があります。朝のオープンも、噴水から水が噴き上がるのがその合図になっているほど、それは徹底しています。たしかに、私たちもそうですが、「夏」の盛りに噴水、zるいは滝を目にすると、大いに涼しさを感じます。サンクトペテルブルグの夏はけっして暑くなどないはずなのですが、それでも噴水が象徴する冷涼感が、短い夏をフルに楽しみたいという強烈な願いに通じているのでしょう。

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再び市内に戻り、夕方からは世界でも屈指の作品が展示されているエルミタージュ美術館。L106091720130814

夏のエルミタージュは世界でも指折りの混雑ぶりだそうですが、それにしても人であふれ返っていました。なんでも、冬に来るとガラ空きだそうで、これは真剣に考えたほうがいいかもしれないと思ったしだい。冬は、市内を流れるネヴァ川、それが注ぎ込むフィンランド湾がすっかり凍りついてしまい、人も歩けるのだそうです。大きな川や海が凍ってしまうなど、目にしたことがないので、一度確かめてみたいという好奇心が湧き起こってきたしだい。

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しかし、ここに残されている膨大な数の貴重な美術品も、先のドイツ軍のレニングラード包囲戦の直前、市民有志が列車でウラル地方まで待避させていたために守られたものだそうです。この戦いで街は荒廃したものの、今日なお歴史的、文化的価値のある建造物が残されているのは、自分の命さえ危うい激戦のさなかにあっても、そうした価値ある遺産を後世に残そうと努めた市民たちのおかげでしょう。

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L106094520130813夕食を済ませたあとはネフスキー大通りで買い物と散策。さすがサンクトペテルブルグの目抜き通りだけに、クラシックでしゃれた建築物がいっぱいあります。ほかにも、ペトロパヴロフスク要塞、クンストカメラ(博物館)、アレクサンドル・ネフスキー大修道院、アレクサンドリー劇場、カザン聖堂、血の上の救世主教会など、当初予定していたところの大半が行けずじまいにおわってしまっただけに、せめてこの通りを少しでも観たかったのです。

ホテルに戻る前に、近くの食料品店で水やらビールを買い求めました。空気が乾いているので、そうしたものがとてもおいしく感じられるのです。ビールは基本的に2種類あって、アルコール分の少ないものと濃いもの。日本でも最近はプレミアム系のビールが人気のようですが、ちょっと油断するとコーンスターチなどという、本来ビールとはまったく関係のない成分が混ざっています。その点、ヨーロッパではそういう裏切りには遭いませんから安心できます。子の日も、就寝前に、乾いた喉をうるおしてくれる1杯を。

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エカテリーナ宮殿を堪能

2013年8月12日
午前中は、Eさんのご主人が懇意にしておられるポポワ東洋学研究所所長を訪問。門外不出の資料を特別のはからいで拝見しました。その価値は専門家であればあるほど理解できるようですが、ど素人の私たちでも、その希少性、重要性というか価値は多少理解できるつもりです。

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午後は隣のプーシキンという町にある「エカテリーナ宮殿」の見学です。マイクロバスで40分ほどで到着しましたが、それはそれは贅を尽くしたところで、私たちは事前に予約していたので特別の入口から入場、ゆっくり観てまわることができました。

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帰途、早めの夕食(ロシア料理)を済ませましたが、ここもけっこうレベルが高く、こうしてみると、ロシア料理も捨てたものではないということがよくわかります。ただ、ボリュームのすさまじさはここも同じ。人数分を頼んだりすると、半分以上は残してしまうのではないでしょうか。

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予定より早く街に戻ったので、夜は運河クルーズを楽しむことに衆議一決。夜といっても、緯度が高いせいか、8時ごろだとまだ十分明るく、実感がありません。ただ、さすが、屋根のない船に乗って走れば足もとが冷えるので毛布を貸してくれます。そして、これがとても重宝しました。

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海側からながめるサンクトペテルブルグの街並みはなんとも味わい深いものがあります。さすが“北のベニス”と呼ばれるだけのことはあります。大都会ではありますが、高層ビルがないため、無機質な部分がありません。それが最大の要因でしょうが、都会らしいにぎわい、力強い輝きのようなものが十分感じられるので、私は一発でファンになりました。共産政権の時代を何十年も経てきたにもかかわらず、よくぞここまでクラシックな分行きの街並みがきちんと残ったものだと、むしろそのことに感心しました。

ちなみに、今朝訪れた東洋学研究所の全景を船上から確認することができました。たいそう立派な建物で、感動を新たにした次第です。

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雨のサンクトペテルブルグは重い1日に

2013年8月11日
今日がサンクトペテルブルクの実質的な初日。しかし、あいにくの雨で当初の予定を変更、今日は市内にとどまることになりました。

最初に行ったのは、旧市街の東北端、ネヴァ河畔にあるスモーリヌイ聖堂。18世紀に女帝エリザベートが女子教育の場として創設、その後エカテリーナ2世が女学校を開き、革命直前まで貴族の令嬢たちの教育がおこなわれた修道院だそうです。L106056220130811 いまはコンサートホールとして使われているとのことですが、1917年10月のロシア革命のとき、レーニンに率いられた革命派の作戦本部がここに置かれ、ソビエト政権の樹立を宣言(10月25日)、首都がモスクワに移るまでは、政権の中心だったという場所です。そういえば、もともと「サンクトペテルブルグ」という名前だったこの町は、ロシア革命のあと「レニングラード」というふうに改められたことを思い出しました。

ここからバスと地下鉄、さらにバスに乗ってピスカリョフ墓地に足を運びました。驚いたのは地下鉄の深いこと、深いこと。この町はもともと、ネヴァ川がフィンランド湾に注ぎ込む湿地帯に築かれた人工都市です。そのため、地下鉄を作る際、掘っても掘っても水が出てきて、結局、とんでもない深さに軌道を設けることになったのだとか。東京の地下鉄千代田線の小川町という易があり、初めてこの駅に降りて行ったとき、あまりの深さに驚きましたが、その比ではありません。近ごろは、都営大江戸線に代表されるように、ちょっとやそっと深くても、「あとで作ったんだから仕方ない」とも思うようになりましたが、それすらも上まわる深さです。

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駅も荘重というか、えらく豪勢なつくりです。そのわりに車両はかなり古く、騒音がすごいですし、乗り心地もいまイチ。でも、料金が25コペイカ(約8円)であることを考えればいた仕方ないのかも。

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さて、ピスカリョフ墓地ですが、ペテルブルク市街の北部にある広大な戦没者墓地です。第2次世界大戦のさなか、1941年6月の独ソ開戦によってドイツ軍の攻撃を受けたレニングラードは、9月8日からなんと872日間、1944年1月27日まで包囲されていました。この間、投下された爆弾の数は15万を超え、電気も水道もストップしたこの街で、多いときには1日3万人近くの人が餓死したというのですから、そのすさまじさは想像を絶します。そうして亡くなっっていった市民をそれぞれの遺族が仮埋葬していたのがやがて墓地になったそうです。

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広大な敷地には、「墓地」というにはあまりに悲しい、幾多の市民・兵士がひとまとめにして葬られた大きな盛り土が連なっています。墓標には、遺体・遺骨が見つかった年が記してあるだけで、「個」の存在はほとんど感じさせません。それでも、第2次大戦で死んだアメリカ軍兵士を上まわる数の市民が葬られているとのこと。「★」は、埋められているのが兵士であることを示しているそうです。

いちばん奥に立つモニュメントの背後の壁には、「“Никто не забыт и ничто не забыто”(=だれ一人忘れまい、何ひとつ忘れまい)」という、女流詩人オリガ・ベルゴーリツの鎮魂の詩が刻まれていました。

墓地の入口の脇にこじんまりした資料館があります。レニングラード包囲戦の模様をつぶさに記録した展示の中に、両親・兄弟・おじ・おばなど家族を次々と失い、やがて疎開先で自身も亡くなった少女ターニャ・サビチェワの残したメモ「ターニャの日記」がありました。L106058520130811 日記の最後は「サヴィチェフ家は死んだ みんな死んだ 残ったのはターニャだけ」となっているのですが、そのあまりにシンプルな文言は百万言の言葉を費やすより圧倒的なパワーで、戦争の悲惨さを示しているように思えました。

その後、同じ経路で都心に戻り昼食。店に入るとまず席を決め、トレイを持って料理がずらっと並べられている中からほしいものを選んで店員に告げます。最後に飲み物を決め、レジ支払いを済ませるキャッシュオンデリバリー方式。ごく普通の市民生活を送っている人たちの朝食や昼食はjこうしたスタイルなのでしょう。でも、どれも皆そこそこおいsく食べられました。パリで抱いた不安はどうやら杞憂に終わりそうな感じがしてひと安心です。

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腹ごしらえをすませ、近くにあるドストエフスキー文学記念博物館を訪れました。いまでも、日本の若い人たちには人気がるかどうかわかりませんが、私が大学に行っていたころは、必読文献といった扱いで、ドストエフスキーの作品をひととおり読んでいないと、仲間の話についていけないという感じでした。

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L106061720130811 博物館を出てすぐのところにクズニェーチヌイ市場というマーケットがありました。市民の台所の一つのようですが、時間帯のせいもあって、中は比較的空いていました。食料品だけでなくおみやげを売っている店もあり、Eさんご夫妻は大量にマトリョーシカを購入されていました。

夕方近くになっても天気はまだ回復しません。市場のあとは美術館です。サンクトペテルブルク最大の美術館はいわずと知れたエルミタージュですが、今日はロシア美術館に行きました。もともとは宮殿だった建物ですから、内部の豪華なこと。ヨーロッパにはこうしたタイプの美術館や博物館が多く、作品もさることながら、建築物としても十分楽しめるのがうれしいです。

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この美術館はロシア美術の作品がふんだんに所蔵されているようです。パリのオルセー美術館で観た印象派の作品ももちろん素晴らしいのですが、個人的には、ロシア美術の“明緻な暗さ”とでもいうのでしょうか、わかりやすさが好きです。83歳で亡くなるまでなんと6000点もの絵を描いたというイヴァン・アイヴァゾフスキーの海をモチーフにした作品はその代表。

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ロシア美術館をあとにし、バスに乗ってホテルに戻ったのですが、考えてみれば、サンクトペテルブルグというところは街全体が美術館・博物館のようなもの。目に入ってくる建物いちいちが好奇心を刺激します。

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ただ、天候ともあいまって、なんとも“重い1日”でした。

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パリからサンクトペテルブルグへ

2013年8月10日
今日午後のエールフランス便でサンクトペテルブルグに移動してきました。パリからは3時間半ほどのフライトです。国際線が離着陸するわりにはさほど大きくないプルコヴォ空港からあらかじめお願いておいた迎えのクルマに乗って30分ほど走ると、ホテルに到着。都心に近づくにつれ、この町の美しさが伝わってくる感じがしました。

荷ほどきをして、近くをぶらぶら歩いてみると、運河が流れ、その両側は300年も昔に建てられた建物がびっしり並んでいます。L106052320130810 ほんのちょっと垣間見ただけですが、「パリに負けない街をつくる」との思いでこの都市を築かせたピョートル大帝のすさまじいまでの意欲が感じられます。

街をブラブラすると、とんでもなく古いクルマが走っていたり停まっていたりするのがなんともおもしろかったです。トウモロコシをゆでて食べさせる屋台があったので、さっそく買い求めてみました。2ルーブルですから、60円ほどでしょうか。トウモロコシ自体は奄美にかけ、どうということもなかったのですが、こういうものを売っているのが、古きヨーロッパとでもいうのでしょうか、そうしたものを感じさせます。

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とりあえず情報がほとんどないので、夕食はホテルの最上階にあるレストランで済ませましたが、思っていたとおり、どれも皆たいそうなボリュームで、注文の品数を抑えてよかったと胸をなでおろします。予想外だったのはそのおいしさ。「ロシア」というので、基本的に無知ですし、なんの根拠もない先入観というか、ほとんど期待していませんでした。しかし、ボルシチもビーフストロガノフもハイレベル。感動でした。
夜9時近くになって、今回ロシア9日間の旅のプランニングをはじめ、滞在期間中全体のプロデュースをお願いしたEさんご夫妻とホテルのロビーでドッキング。今日からのスケジュールを確認しました。

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ジヴェルニーの庭園に「日本」が!

2013年8月9日
今回のヨーロッパ旅行の前、高校時代の友人Nくんから教えてもらったジヴェルニーに行ってきました。「(クロード・)モネの家があって、その浮世絵コレクションがすごい! 一見の価値はある」ということでした。

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切符を買うのにひと苦労し、出発は結局お昼近くになってしまいました。パリのサン・ラザール駅から列車に乗り15分ほど走ると完全な田園地帯です。ヨーロッパの都市に多いパターンですが、住宅が密集しているエリアはほんのわずかで、今回も家が見られるのはセーヌ河畔まで。そこを過ぎるとほとんど畑ばかりです。

45分ほどでヴェルノンという駅に着き、そこからバスで15分。停留所からさらに5、6分ほど歩くと、一帯は「モネ・タウン(というよりヴィレッジです)」といった感じになっているのですが、もう完全な田舎です。L106046020130809

平屋の家がほとんどなので、それも当然でしょうか。その一角に、印象派画家の代表モネが43歳のときから86歳で亡くなるまで、人生の半分を過ごした家があります。それが当時のまま保存され、アトリエをはじめ、広大な庭園など、モネの生活がうかがわれる施設になっています。

さほど大きくもない建物に入ると、いきなり壁いっぱいに浮世絵が。その数はハンパではありません。日本人の私もいまだかつて見たことのないような作品が、これでもかといわんばかりに並んでいます。さらに幕末から明治初期にかけて描かれた錦絵もありました。なるほど、モネはこういう作品に刺激を受けて絵を描いていたのです。

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モネは16歳のころ、オランダの商船によって運ばれてきた日本の浮世絵版画に夢中になったそうです。以来モネの「日本」への傾倒は変わらず、ジヴェルニーのこの家にある庭園はほとんど日本庭園といってもいいくらいのつくりになっています。L106048920130809

しだれ柳が植えられ、池には太鼓橋が架かっています。「睡蓮」というモネの代表作はこの池に浮かぶ睡蓮を描いたもなのです。

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L1060490201308093時間ほどの滞在でしたが、心が洗われた感じがしました。パリの喧騒も楽しいのですが、思いもかけずフランスの片田舎の空気に触れることができたのはNくんのおかげ。やはり持つべきものは友だちです。ちなみに、Nくんは高校3年生のとき同じクラスでした。陸上競技部で中距離を走っていたのですが、大学に入ってからは駅伝(あまり有名ではないのですが、「六甲山駅伝」という関西のレースです)を走ったそうです。卒業後は小社に勤め、世界中をまわってきただけに、幅広い分野の知識・情報を持っています。直感と粘り強さが持ち味、近ごろは家庭菜園にもエネルギーを注いでいるとか。

L106050020130809_2今日は今回のパリ滞在最後の夕食ですが、昼間歩きまわった──万歩計によると20000歩を超えていました!──ので、かなり疲れがきています。そこで、夕食はホテル近くの小ぶりなタイ料理店で済ませました。 ところが、これが意外にもけっこうなアタリで、なかでもオードブル盛り合わせはグーでした。明日からはロシア。食べ物はあまり期待できそうにないので、おいしい食べ物を口にできたのはラッキーそのもの。

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日本にはない「川」の楽しみ方かも……

2013年8月8日
今日もまたピーカン。まずは恒例の動物園訪問です。ホテルから地下鉄で20分ほどで到着したのですが、残念ながらキリンはいませんでした。L106038620130808 仕方なく、園内のそこここに置かれているオブジェの中にカバがいたので、ツーショットで。それにしても、この動物園は植物園と一体になっており、これがまたえらく立派な建物でした。もともとすべて「王立」というか、ブルボン王朝の時代につくられた施設ですから、それも当然。ウィーンの動物園のときもそうでしたが、要は王様や王妃の道楽の一つでしかなく、庶民は、楽しむどころか、足を踏み入れるのもご法度だったにちがありません。

動物園の近くにモスクがありました。パリはご承知のとおり、かつてフランスがアフリカに多くの植民地を持っていた関係で、アラブ系の人たちが数多く済んでいます。そうした人たちが自身の信仰を建負ける場として、この種の施設がいくつかあるようです。時間があったのでちょっと立ち寄ってみたのですが、ちょうどお昼前で、モスクそのものはクローズ。本当は中をちょっとのぞいてみたかったのですが、残念なことをしました。

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その代わり──でも、なんでもないのですが──、入口近くにカフェあり、そこで、あまり見たことのないアラブ系のスイーツを見つけました。好奇心旺盛な私ですから、試してみないわけがありません。というわけで──。

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朝から午後は「サンマルタン運河クルーズ」を楽しみました。前日の夜、ネットでいちおう予約を入れておいたので、乗船はスムーズ。 バスチーユ近くのアーセナル船着場から出発する小さな船──といっても乗客は200人ほどいました──で出発です。

低いところから上流に向かってさかのぼっていくので、途中何度も閘門があり、そのたびに水深を調整するためストップします。L106041020130808 それを近くでながめている人たちもおり、とにかくのんびりとしたクルーズでした。

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2時間余をかけてようやく目的地ラ・ヴィレットに到着。ここにはパリの最西北にある大規模な公園があり、その真ん中を運河が走っています。L106043420130808 音楽博物館とラ・ヴィレット公園、片方にはジェオード(球形映画館)と科学産業博物館など、モダンな建築が数多く並んでいます。その建設と同時につくった人工湖の岸辺では、ヴァカンス時期と重なっているためか近在の人たちが遊んでいました。

そこからさらに上流に向かっていくクルーズもあるようですが、日本ではなかなか見られない遊び方といえます。ヨーロッパというのは、どこの国に行ってもこの種の運河が張り巡らされており、それを利用すると、それこそフランスからブルガリアあたりまで行けるとも聞いたことがあります。

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帰りは地下鉄で一路都心へ。30分も経たないうちに戻ることができました。デパートをのぞき、靴などを買い求めましたが、さすがプランタン。その大きさは半端でなく、日本からの客もけっこう目にしました。

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夕食はホテル近くの中華料理店で。

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もったいなさすぎのオルセー美術館

2013年8月7日
パリ2日目。早朝から雨で、出かけるときは降りがひどかったので、タクシーでオルセー美術館まで行きました。前回来たときは、昨日のヴェルサイユ宮殿と同様、地下鉄や国鉄職員のストライキのため観られなかったところです。美術館の職員が、ストライキで出勤できないという理由でした。日本ではあまり考えられない理由ですが、フランスではけっこう当たり前みたいです。ただ、そのおかげでリノベーションを済ませた新オルセー美術館をゆっくり観ることができました。

L106034120130807 10時前に着いたのですが、美術館のチケット売り場は早くも長蛇の列。私たちは「ミュージアムパス」のおかげですんなり入れました。それでも、中はもう大変な数の客。荷物チェックを受け、リュックサックをクロークに預けてスタート。5階か6階の建物のほとんどが吹き抜けというあまりのスケールの大きさに最初から驚きの連続です。

L106034320130807 それも当然で、もとの建物は1900年に開催された万国博覧会に合わせて作られた鉄道駅舎兼ホテルなのです。かまぼこ状の大屋根の地下に10以上のホームを備えていましたが、狭かったため、一時は取り壊しの話もあったとのこと。しかし、政府が保存活用のプランを検討、19世紀の美術作品を展示する美術館として生まれ変わることになり、1986年、オルセー美術館としてオープンしたというわけです。

しかし、それにしても、いきなりミレーの「晩鐘」に「落穂拾い」ですから。あとはもう、盆と正月がいっぺんにやってきた感じというか。セザンヌ、モネ、ドガ、クールベ、ゴーギャン、ロートレック、ルノアール、マネ、シスレーといった印象派の巨匠の、美術の教科書とかでさんざん観た作品が、これでもかこれでもかというぐあいに、そこらじゅう展示されているのですから。途中、イスが随所に置かれて休憩もできるのですが、その脇に彫刻が置いてあるので、ふと作品名を見ると、ロダンとかマイヨールとかで。なんだか、ありがたみが感じられず、いい意味で呆れてしまいました。

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日本にいたら、それこそ一人ひとり3、4カ月の期間で国立美術館あたりで展覧会ができるような作家ばかりです。それがここまでそろってしまっているとなると、入った瞬間、これは1日、それも何時間かで観てしまってはいけない、罪悪感とはまた違うのですが、とりあえず半分くらいにしておこうということにしました。残りは「また次回!」です。

L106035520130807 美術館を出てセーヌ川を渡るとそこはルーブル美術館。こちらは初めてパリに来たとき一度行っているので、とりあえず今回はパスします。夜はホテル近くを探し、歩いてすぐのパサージュに中で見つけたお気楽フレンチの店に。セットメニューで13~14ユーロほどでしたが、前菜と肉料理だけでほぼ満腹。デザートは残念ながらパスでした。敷地の中を抜けて「グランパレ」近くのカフェでランチ。 ここはかつて1900年のパリ万博の際に建てられた美術館だったそうです。その後はすっかり廃れてしまったものの、2005年に大幅なリノベーションがなされ、さまざまなイベント用の施設として生まれ変わったとのこと。L106036220130807_2

そのあと「グランパレ」の中を通りながら、すぐ北側にいくつかある「パサージュ」へ。いちおう屋根付きの商店街というスタイルなのですが、昔の面影はないようで、人通りはまばらです。そのまま歩き続け、昨夜歩いた日本料理の店が集中しているあたりを抜けてホテルに戻りました。L106037020130807

予約していたホテルが消滅!?

2013年8月6日
6年ぶりのパリです。羽田発の深夜便で来たので、シャルル・ド・ゴール空港到着はなんと朝の5時50分。空はまだ暗かったです。そんな時間ですから、空港にいる人は少なく、入国手続きも税関もスイスイ。6時半には、ターミナルビルの外で、コーヒーを片手に一服できました。

空港内の観光案内所でミュージアム・パスなど必要なものを購入し、タクシーで一路、市内へ。渋滞もなく30分ほどで、オペラ座近くにあるホテルに着いたはずなのですが、ホテルの名前が違っていいます。3カ月前に予約しておいたのは「Radisson Blu Ambassador」というホテルなのですが、タクシーが止まったのは「Marriott Opera Ambassador」。でも住所は間違いありません。念のため、近くをひとまわりしてもらったのですが、やはり間違いなさそうです。

とりあえずタクシーを降り、フロントで聞いてみると、「間違いありませんよ、ここです。ひと月前に名前が変わりました」とのこと。日本でいうなら、ホテルオークラを予約しておいたはずが、行ってみたら帝国ホテルに変わっていたようなものです。まあ、欧米ではホテルの買収は当たり前のことではありますが、それにしても驚きました。L1060509ambassador20130809

でも、幸いなことに部屋が空いていたので、すぐにチェックインでき、荷物も部屋に運び込んでもらいました。さっそく行動開始で、長年の課題であるヴェルサイユ宮殿に行きました。前回来たときは行けなかったので、今度こそです。L106029020130806 ホテルを出てオペラ座の駅からメトロと電車を乗り継いで1時間。着きました! ヴェルサイユに。

ところが、まあ、ある程度は予想していたとはいえ、その聞きしに勝る混雑ぶりにはびっくり。入場券を買うのに30分くらいは待つ感じでしょうか。ミュージアムパスを購入しておいたので、その部分はスルーできるのですが、今度は、中に入るための行列に並ばなけれがなりません。まともに待っていたら1時間以上はゆうにかかりそうです。L106033420130806

そこで、宮殿の中に入るのは後回しにし、その奥にある庭園や王妃のための離宮のほうから先に観ることにしました。しかし、さすが世界遺産、宮殿ほどではないにしても、どこも人が多く、しかも夏休みのただ中。世界中から人が来ているのですから、やはりこの時期は鬼門といった感じです。

「宮殿は次来たときに」と、またのパリ旅行の理由づけもできました。「今回しかない」と思えばそういうわけにも行かないのですが、最近はだんだんずうずうしくなってきています。

木々と水で構成されている庭園はやはり大変なスケール。噴水のショーなどもあり、ゆっくりした時間を過ごすことができます。なにせ、真夏のこの時期なのに最高気温が25℃ほどですから、体の楽なこと。歩き疲れはしても、暑さにやられることはありません。結局3時半ごろまでいて、市内に戻りました。

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L106032420130806 夕方部屋に戻り、ひと休みしたあと、夕食に出ました。歩いて15分のところの界隈はやたらに日本料理の店が多かったのですが、結局は昨年の同じ時期、ブリュッセルで食べたムール貝の店の支店があったので、そちらに。ただ、同じところで取れた貝を使っているはずなのに、ブリュッセルの店のほうが数段おいしかったです。

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台湾に行きたくなってしまいます

2013年7月15日
久しぶりに東中野ポレポレに行きました。知る人ぞ知るミニシアターです。収容人員100人余、スクリーンまで、いちばん後ろの席からでも10mほどでしょう。

今日は『台湾アイデンティティー』という、妙に固いタイトルのドキュメンタリー映画。3、4年前だったか、同じ酒井充子【あつこ】監督(1969年・山口県生まれ)の『台湾人生』を観たことがあり、その続編です。台湾という、実はとても複雑な国で生まれ育ち、その上に日本軍兵士として出征したり、日本統治時代に現地の師範学校で学んだり、奥さんが日本人だったり、父親が台湾人で母親が日本人だったりなど、さらに輪をかけて複雑な環境で育った人たちが、太平洋戦争終了後どんな人生を追いかけたもの。

スクリーンに登場してくるのは82歳から91歳までの台湾人(厳密には違うのですが)のお年寄りばかり、でも全員日本語ペラペラです。全員元気で、各人が自身の人生を語る口調には、それぞれの感慨があります「生まれた時代が悪かった」というのが共通した思いのようですが、といって、それをことさら悲しんでいるわけでも悔いているわけでもありません。「幸せだった」と確言するのです。

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台湾の持つ独特の雰囲気は、やはり大陸中国とは異なる歴史を刻んできたからでしょう。先住民族の顔つきを見ると、南太平洋系が混じっていることもありありと感じられ、そういう人たちの集落に漢字だけの垂れ幕やポスターしかない冒頭の場面など、なんともおかしな感じがします。観念の上ではわかっていても、実際それを目にすると、不思議な感覚にとらわれてしまうのですね。

父親が蒋介石・国民党政府の弾圧を受け銃殺された女性に、生前の父親が送っていた手紙の文章(日本語)の達筆で、しかも読みやすいこと、それと、小学校の教師をしていた男性が話している画面の後ろに見える机の上に「広辞苑」がさりげなく置かれていたのが印象的。台湾の摩訶不思議な部分がスクリーン全体から伝わってきて、また行きたくなりました。

登場人物の一人に、台北市内で旅行会社を経営する男性がいたのですが、その会社が画面に映ったとき、見覚えのある街が。家に帰って調べてみると農安街とわかりました。いつも止まるホテルから歩いて数分のところですから納得です。その会社が入っているビルの1階に「三井日式餐庁」とかいう文字が出ていたので、そこにも一度行ってみたいと、ひらめいた次第。いけたらまた、お知らせします。

激しい夕立の中で盛り上がった「琉フェス」

2013年7月14日
それはいまから42年前の1971年7月17日、いまの東京ドームがあるその場所にあった後楽園球場を思い出させました。猛烈な雷雨に雹【ひょう】まで落ちてくる中、GFR(グランドファンクレイルロード)の野外ライブコンサートがあったのです。ロングヘアー、Tシャツ、ジーンズという観客が9割かた。グラウンド上に設けられたアリーナ席にいた人はもちろん、スタンド席ももう全身びしょ濡れになりました。“wet to the skin”とはまさにこのことかと納得。それより、メンバーの楽器や、特設ステージに所狭しと置かれた音響機材にいつ雷が落ちるのではと、正直怖かったです。

GFRのときは観客が4万人だったことを思えば、今夜の「琉球フェスティバル」@日比谷野音の4千人はちゃちい感じもしますが、雷鳴の怖さはまったく同じ。始まって1時間を過ぎたころから30分ほど続いたでしょうか、それほど凄い降りでした。ただ、だれ一人帰る人はいません。この季節の野外ライブですから、皆カッパやポンチョ持参。上半身が濡れるのはなんとか防げたのですが、足もとは完全アウト。靴の中までびしょびしょになりました。半月ほど前の「うたの日コンサート」とは対照的な天候ですね。

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でも、オープニングの「きいやま商店」も、「よなは徹」も「大工哲広」も「パーシャクラブ」も、ずぶ濡れの私たちを十分に楽しませてくれました。また、途中、元世界フライ級チャンピオンの具志堅用高も飛び入りで、盛り上げに貢献しました。相変わらずのとぼけたキャラが冴えていました。Photo_3

さえなかったのは、12年ぶりの登場という触れ込みだった、沖縄音楽界の大立者「的」存在「喜納昌吉+チャンプルー」。もう彼の時代は“終わった”というのが実感です。トリだったのですが、観客のノリもいまイチ。あれだけの豪雨にもめげずにいたのに、「喜納昌吉」には水を差された感じで、テンションが下がってしまった人が多かったように感じます。

去年までは正真正銘の大立者「登川誠仁」がいたのですが、今年3月、帰らぬ人になってしまったため、トリにふさわしいミュージシャンが正直いなかったのかもしれません。「大立者」と「大立者的」とではやはり違います。来年からは、構成というか、ステージメイクの考え方を少し改める必要があるかもしれません。でも、サラ・ブライトマンよりは楽しめましたよ!

今年初めての「しんこ」食べましたよー

2013年7月11日
小肌の稚魚、新子を食べました。ここのところ夢にまで出てきていたので、うれしかったこと。ほぼ初物だったようで、頭の先からしっぽの先までの大きさが、小指の長さの半分くらい。握り一貫に3枚載せてもらう。数あるすしネタの中で、お寿司屋さんがいちばんこだわるのだそうです。私も、その存在を知ったのは、今日食べた池袋の寿司Mです。

今年は2年ぶりで江戸前のものが入っているそうです。江戸前が不良のときは三河湾(愛知県)の三谷【みや】のものを使うといいますが、やはり江戸前がいちばんというのは大将の弁。

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でも、新子は寿司職人泣かせのネタなのだそうです。身の丈3、4センチほどしかないいのに、小骨を抜き取る手間は小肌と同じ。大きさによって締め方も違うようで、その按配がえらく難しいようですが、それだけに、客にはたまりません。新子3枚をのっけた握りを、2カン行ってしまいました!

“高級学芸会”に行ってきました!

2013年7月4日
沖縄の「うたの日コンサート」の感動がまださめやらずにいる今日。サラ・ブライトマンの日本公演に行ってきました。有楽町の東京国際フォーラムAホールですから、お客の数は3、4000人でしょう。チケット代は15000円! 追加公演もあったくらいですから、たいした人気のようです。家人が「1回、聴いてみたい」というので、好奇心の旺盛な私としても、行かないわけには行きません。

歌は素晴らしかったです。オペラ歌手出身ですから、声域が広いのは当然にしても、透明感のある、それでいて奥行きも十分な声は、日本人にはなかなか真似できないかもしれません。

ただ、正直いって、サラ・ブライトマンという名前はよく耳にしていましたが、顔は知りませんし、何を歌っているのかも知りませんでした。2007年の大阪・世界陸上のとき開会式で絶唱していた歌手だということを知ったのもずっとあとの話で、関心のない歌手の典型的パターンですね。

なんでも1991年の紅白歌合戦に出て『オペラ座の怪人』のナンバー「ミュージック・オブ・ザ・ナイト」を歌ったそうですし、翌92年のバルセロナオリンピックの閉会式ではスペインのオペラ歌手ホセ・カレーラスとのデュエットで公式テーマ曲『アミーゴス・パラ・シエンプレ』を歌ったといいます。テレ朝のサッカー関連の番組でも、彼女の歌った曲のメロディーが使われていますし、2008年の北京オリンピックの開会式でも大会公式テーマ曲を歌いましたし、09年のNHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』の主題歌も歌っているとのこと。なのにほとんど何も知らない私はよほど鈍感だったのでしょう。

でも、でも、です。エンターテイナーとしてはどうかなと思います。最初から最後までずっと目をつぶって聴いていても、まったく問題ありません。バックにCGを駆使した映像がバンバン出てくるのと、光のページェント風の照明がその一端を担っているのでしょうが、私のように興味なければ、それもたして意味はありません。とにかく、彼女自身の動きがほとんどないのです。

舞台に出てくるときは両手を肩の高さで開いた姿。歌うときは片手にマイクを固定。MCも「トウキョウノミナサン、コンバンワ。ニホンニコレテシアワセデス……」だけで、ほとんどなし。最初から最後まで歌だけでしたから、彼女の声のファンにとっては大満足のステージなのでしょうが、私にはちょっと……という感じでした。ひいきにしている人には申し訳ないいい方ですが、正直、“高級学芸会”といった趣き。

客層は、はっきりいってお金持ちそうな感じの人が多いです。若いチャラチャラした風にの人はほとんど見かけません。団塊の世代で、最前線からは引いて時間もあって、ふところにも余裕がある人たち。グッズもえらく売れていました。彼女の公式ウェブサイトに世界ツアーの予定が出ていたので、のぞいてみました。アジアからスタートしてアメリカ、カナダ、メキシコ、そして12月の南米までビッシリ。しかも、チケットもよく売れています。でも、つい5日前に心ゆくまで楽しんだ「うたの日」コンサートのほうが、エンターテインメントとしてははるかに上出来です!

沖縄──まだまだ行くところがありそう

2013年7月2日
これだけ何度も沖縄に来ているのに、まだまだ行っていないところが多いのに驚いてしまいます。まあ、よく考えてみるまでもなく、一つの県なのですから、そうそう簡単に“制覇”するなんて、そもそも無理な話かもしれません。

というわけで、今日も那覇港泊埠頭のちょい北にある泊魚市場に行ってきました。それに隣接して、一般人向けの卸売りの店が30軒ほどあります。まあ、安いこと安いこと。何人かで沖縄に行ったと時はここで材料を仕入れればえらく安上がりで、おいしい魚が楽しめそうです。

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その真ん中に通称「まぐろ食堂」(那覇地区漁業協同組合まぐろセンター)があり、これまたえらく安い値段で、まぐろ丼や海鮮丼が食べられます。しかも、新鮮なことといったらありません。

L1060270帰りはとまりん(泊埠頭旅客ターミナルビル)まで海っ淵を歩いて帰ったのですが、最初、左手、泊高校のすぐ隣に墓地が見えました。白い十字架が並んでいていかにも外人墓地風なので、確かめたら、そのとおり。通称「ウランダ(琉球方言でオランダのこと)墓」といい、アメリカ人や中国人、イギリス人など5カ国22人が葬られているとのことです。いちばん古いものは1718年に埋葬された中国(清)人の墓であることもわかりました。中にはペリー上陸地の碑も立っており、ペリー艦隊の乗組員も5人眠っています。戦後はアメリカ軍人・軍属の墓地として使われているようで、1979年には那覇市の文化財に指定されています。

L1060271墓地を過ぎると、同じ側にボロジノ食堂も見えました。南大東島の料理が食べられると聞いていますので、今度機会があったら行ってみようと思っています。国道58号の手前を右に曲がり泊港橋を渡るととまりんです。この橋はまだ新しいようで、欄干に竜(ドラゴン)があしらわれているのが印象的。そこから、港の出口に見える泊大橋も素晴らしく美しく、夕日のころ見れば感動するのではないでしょうか。東京には明日、戻ります。
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暑い、熱いの「うたの日コンサート」に大感動!

2013年6月29日
おととし以来2年ぶりの「うたの日コンサート」です。会場は嘉手納の兼久(かねく)海浜公園。那覇のバスセンターから路線バスで行ったものですから1時間20分たっぷりかかりました。

会場に着いたのはほとんど2時。開演の1時間半も前です。この日はまさしくピーカンで、屋根も何もない会場は完全な熱帯状態。32、3度は間違いなく行っていたでしょう。地面の上はおそらく40度近いはずで、ブルーシートを通じてジワジワと熱くなってきます。

L1060265 それでも会場はけっこうな数の客で埋まっていました。会場の後ろにズラリ並んだ屋台で飲み物や軽い食べ物を仕入れ、水分補給に励んだのですが、飲んでも即蒸発していくような感じですから、開演してからも、何度も何度も屋台と席とを往復していました。

今年で13回目だそうですが、内容は年々充実している様子。呼びかけ人というか、いいだしっぺのBEGINはもちろん、古謝美佐子、パーシャクラブのレギュラー陣に加え、毎年、高橋優、虎姫一座、ボロジノ娘……と、方向性もジャンルもまったく違う面々が入っていて飽きさせません。今年はプログラムに「完熟トリオ」とあったので、だれかと思ったら、これがなんと、小坂忠+鈴木茂+中野督夫の3人。小坂忠は『エイプリル・フール』、鈴木茂は伝説の『はっぴいえんど』ですから、たまげました。

13年前の第1回は、もっとマイナーなイベントだったようです。でも、こんなビッグな名前も出ているくらいですから、これから先もっとメジャーなコンサートになるかもしれません。でも、トータル的にはなにげにバランスが取れていて、気楽に、それでいて心ゆくまで楽しめました。

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ただ、公演のただ中に、嘉手納の基地に出入りするアメリカ軍用機の爆音が響いてくるのはいただけないというか、不快でした。でも、嘉手納の人たちはそうした中で毎日の生活を営んでいることを思うと、そんなことで不満を抱いてはいけないと、自分を戒めました。

L1060264 3時半からスタートしたコンサートが終わったのは夜8時半。最後はカチャーシーで締めくくるのはいつもどおりなのでしょう。場所が沖縄ですから、日の入りも遅く、7時半まではまだ明るかったです。ちょうどそのくらいのころだったでしょうか、西の空に奇妙な形をした雲が出てきて、思わず写真を撮ってしまいましたが、何を意味しているのでしょうか。

『旅立ちの島唄~十五の春』に出演した大竹しのぶも登場し、歌っていましたが、けっこううまかったです。そういえば大昔、彼女もミーハーな曲を歌っていたのを思い出してしまいました。

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帰りも路線バスで那覇まで。でも、行きよりは早かったですね。今年は3年ぶりの沖縄本島での開催ということでしたが、来年、石垣島での開催ならぜひ足を運びたいと、将来スケジュールにインプットしたしだい。(最後の写真は「デイリースポーツ」掲載のものです)

歴史的なウェールズ戦は、残念、テレビ観戦

2013年6月16日
「歴史的瞬間」をナマで体験するチャンスを逃してしまいました。仕事が立て込んでいて、というか〆切に迫られている事情で、息抜きもままならいため、観戦に行くつもりだったラグビーのウェールズ戦@秩父宮。予定表に。今年の2月あたりに書き込み、ずっと青字(「確定していない」の意)だったのですが、とうとう3日前にdeleteせざるを得ませんでした。

結局、テレビで観ることになってしまったのですが、なんと、勝ちました。23対8の快勝で、ウェールズ相手では1973年の初対決以来ですから、40年間かかったことになります。また、SIX NATIONS(6カ国対抗)に属する国相手の「テストマッチ」で勝利したのは1989年のスコットランド戦以来のことですから、すごいことです。

その前の週、大阪・花園での試合もあと一歩だったのですが、PG(ペナルティーゴール)を2本も外してしまい。勝てずに終わってしまいました。それを1週間で修正しての勝利ですから、やはり価値があります。こんどのヘッドコーチ=エディー・ジョーンズの腕がいいのか、選手たちの力が着いてきたのか、それともメンタルな面が成長したのか、それはこれからおいおいわかるのでしょうが、ともかくも、おめでとう! です。

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たしかに、ウェールズのメンバーは“1・5軍”ですし、気候的にも日本独特の蒸し暑さの中という優位さはあったものの、スクラムハーフの田中の動きは素晴らしい物がありました。さすが、日本人ただ一人スーパーラグビーでプレーしているだけのことはあります。田中の果敢な動き、とっさの判断力はやはり「スーパー」で、それに引っ張られるかのように、ほかの14人も動く感じです。それに、イージーミスが減っています。5年前、そして去年のワールドカップのときのように、そこを衝かれて相手に逆襲されるとなす術もなくやられっ放しということはありませんでした。

何より「変わったな」と思わせるのは、チーム全員が声を出していたこと。テレビを通じてでさえ、かけ声が聞こえていましたから、コミュニケーションがよく取れているのでしょう。ですから、15人が1本の糸でつながっている感じがありありと伝わってきました。このまま伸びていけば、もっと強くなれそうです。観客も21062人で、2004年以降の代表戦では最多。あーあ、その1人になれなかったのはホント残念!(写真はサンケイスポーツHPより転載しました)

やっぱり強い村上幸史!

2013年6月9日
 昨日は調布にある味スタに行ってきました。日本陸上選手権の観戦です。世界陸上は何度も観ているのに、日本陸上は初めてというのが、自分でもおかしな気がします。

L1060238  ヤリ投げと男子100メートルの決勝がお目当てですが、同じことを考える人はいっぱいいるようで、観衆はなんと1万7千とか。国内でこれだけ多くの人を集める陸上の大会もそうはないのではという気がします。やはり強い選手が出れば、観に来る人も多いということです。100メートルは日本人初の9秒台が期待される桐生祥秀が出場するというので、S席は大会前に売り切れだとか。といっても、S席自体、150ほどしかないそうです。しかも、その値段も3千円。

 でも、日本陸連も弱気だなという感じがします。いくらこれまでたいした数の観客しか集まったことがないといっても、ちょっと自信なさすぎではないでしょうか。同じ地平で比べるのはかわいそうなきもしますが、世界陸上など、S席から売れ始め、値段も日本円で3~4万円です。

L1060237  さて、気温は多少高いものの、湿度はそれほどでもなく、天気も晴れに近い曇りという、陸上としては絶好のコンディション。今回は、洛南高校(京都)3年生の桐生祥秀が大注目。ゴール近くには100人近いカメラマンが陣取って「その瞬間」を待ち受けていましたが、残念ながら10秒25止まり。優勝はロンドンオリンピックにも出た山縣亮太(慶應大)で10秒11でした。9秒台なんて、そんな簡単に出るものじゃありませんからね。

L1060248 L1060249 ヤリ投げも、ベテランの村上(32歳)が、ここのところ急上昇のディーン元気(早稲田大)を抑え堂々11回目の優勝。6投目での逆転勝利でした。投てき種目は、若さだけでは勝てないのがよくわかります。今日のハンマー投げで日本選手権19連覇を達成した室伏広治も38歳ですからね。でも初優勝は20歳のときということになるので、その非凡さがよくわかります。どちらも、世界陸上が楽しみです。

広島へ。たった10カ月の間に大変化

2013年5月20日
 昨日夕方早く、広島にやってきました。市内でおこなわれる「八丁堀シンポジウム」にパネラーとして参加するためです。Mtfuji20130519_2 東京を出て名古屋まではえらく好天で、新幹線の車窓から富士山がくっきり見えました。なぜか、富士山を見ると興奮してしまう──これはもう日本人の習性でしょうか。

 さて、シンポジウムの会場は「八丁座」。広島の中心部にある老舗デパート福屋の8階、全国でもおそらく唯一の、デパートの中にある映画館です。映画館といってもそんじょそこらのそれとは違います。だいたい、地方都市で中心商店街に映画館があること自体、画期的です。

Hattyouza2_3  近ごろ、映画館といえばちょっと郊外にあるシネコンというのが通り相場ですから。地方都市になればなるほどその傾向は顕著で、それが若い人たちの映画復帰を実現したのもまちがいないのですが、ただクルマで行って帰ってくるというのでは、なんだかさびしい気もします。古い考えなのかもしれませんが、映画というのはやはり、それプラス食事とかお酒とか、もう少し色気があってもいいのではないかと思います。

 こんな映画館をつくったのは地元・広島の蔵本順子さん。まわりからは「素敵な暴挙」ともいわれたそうですが、新しいことに躊躇なくチャレンジする、初めてのことへの挑戦が大好きという広島人の面目躍如といっていいでしょう。昨日のシンポジウムはその蔵本さんもパネラーのお一人でした。

  八丁座のシートはとにかくゆったり(幅85センチ、畳半畳分の大きさ)した造り。ソファー総張仕様と木肘仕様という2つのタイプがあり、最後部には、スタンドバーのような雰囲気のカウンター席、グループで観られる畳席もあって、それだけでまず驚きます。

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Hattyouzaroby  内装もユニークです。日本アカデミー賞最優秀美術賞を2度受賞した広島市出身の映画美術監督・部谷【へや】京子さんがデザインを担当、「江戸時代の芝居小屋」をイメージしたというだけに、東映京都撮影所から譲り受けた襖【ふすま】絵や実際の映画で使われた行燈などの小道具もあしらわれたりしていますし、スタッフも半纏を着ており、非日常の気分がふんだんに味わえます。

 そんな会場で、もうお1人、広島国際学院大学社会学部長の迫勝則さんの計3人で「八丁堀」をテーマにお話しさせていただいた次第。銀幕をバックにしたステージが造られ、そこにすわったのですが、聴衆がああまでゆったりすわっているのを見ると、とてもうらやましく思います。

http://www.mecsumai.com/hatchobori/event.html

L1060226_2  終了後、『広島学』の取材で大変お世話になったNさんと、えびす通りの「忠茶【ただちゃ】」という居酒屋へ。日曜日は休みなのですが、Nさんと懇意ということでわざわざ開けてくれたそうです。「ねぶと(天竺鯛)」「よりエビ」の唐揚げ、焼きカレーなど、お店の名物を次々出してくださり、どれもみな感激の味ばかり。一発でファンになってしまいました。

Dassai  山田錦でない、普通のコメでつくった日本酒もよかったですし、その後飲んだ獺祭【だっさい】の米焼酎(大変なレアもののようです!)がまたまた捨てがたい。焼酎とはとても思えない香りが、アルコール度の高さ(33度)をまったく感じさせません。

 「ねぶと」というのは初めて口にしましたが、身の丈8~10センチにしかならない、鞆の浦特産の小魚だそうで、頭を落とした身だけを揚げたもの。そのサクサク感たるや、ほっぺたが落ちそうになります。

 〆にいただいたのが「鉄皿焼きカレー」。見た感じはグラタンかピザのイメージ。実際、チーズがたっぷり乗っかっていて、カレーは隠れてしまっています。ところが口にすると、中はころあいに混ぜたカレーライス。その心地よい辛さが舌を覆います。あとはもう一気。

L1060231_2 それにしても、たった10カ月来なかっただけというのに、市内の変わりようには驚きました。駅前の再開発が始まっていましたし、八丁堀のデパート天満屋が撤退し、その建物にはヤマダ電機、ユニクロ、丸善+ジュンク堂さんが入っていました。近ごろ、街の変化のスピードは、ホント早いです。

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新装歌舞伎座のこけら落とし

2013年5月17日
Photo_8  新装成った歌舞伎座のこけら落とし公演に行ってきました。以前の歌舞伎座の外装はほぼそのまま残し、それをすっぽりと覆うように「カブキザタワー」という高層ビルが建っています。地下鉄日比谷線の東銀座駅から直で上がれるのでえらく便利なこと。そのため地下のホールが新しくでき、弁当屋さんやおみやげもの屋さんなどが入っています。Photo_9
 こけら落としのせいでしょう、演し物は別段どうということのない有名作品ばかりのようで、私たちが観たのは『鶴亀』という踊りと、『菅原伝授手習鑑 寺子屋』『三人吉三巴白浪』。メインは「寺子屋」ですが、初めて観る者にとっては筋書きと首っ引きでないとよくわからない面倒な作品で、ちょっと退屈してしまいました。20130520205057125_0001

 それを救ってくれたのが、軽い昼食にと買い求めた大阪は新世界(恵比須町)にあるグリル梵【ぼん】の「ビーフヘレカツサンド」! ハーフサイズで下が、これがウワサどおりのおいしさで、大満足でした。一度、大阪の本店でお皿に乗っかったヘレカツサンド、豚カツやらハヤシライスを食べてみたいものです。

 『三人吉三』は名セリフが出てくる場面で、これは菊五郎、仁左衛門、幸四郎という豪華な顔ぶれがそろい、さすがという感じです。

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今年初めて“いい映画”に遭遇

2013年5月13日
 昨夜から沖縄は雨。そろそろ梅雨ですから、仕方ありません。ゴールデンウイークに観た2本の映画はどちらもアウトでしたが、今日はいい映画を観させてもらいました。『旅立ちの島唄~十五の春』という日本映画。舞台は、那覇から東へ360km離れた絶海の孤島、南大東島です。

 この島には高校がないため、中学を終えた子どもたちは皆、十五歳の春に島を旅立ち、沖縄本島の高校に行くことになります。ベテランの小林薫、大竹しのぶと、ほとんど新人に近い三吉彩花という少女を中心に繰り広げられるストーリーは詳しく書きませんが、沖縄が舞台なので、こちらで先行上映されていたのです。

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 観たのは、渋いラインナップが魅力で、国際通りの裏手にある桜坂劇場。テーマは「家族のつながり」ということなのでしょうが、けっこう重い内容で、深く考えさせる作品です。でも、観終わったあとの爽快感はなんともいえません。「考えさせる」映画はたくさんありますが、数日前に観たイタリア映画とはえらい違い。ぜひご覧になってください。

Image1_2   沖縄に来るとかならず1回は行く「燕郷房【えんきょうぼう】」で夕食しました。家人の大好きな、毎度おなじみ香草拌干絲(パクチーサラダ)に、今回はエビ&ニラ饅頭、冷やし鶏など。何を食べても外れはありません。

Photo_2  県庁の近く、泉崎というところにあるのですが、今年でまだ9年目だそうです。しかも、沖縄の人=ウチナンチューでなく、横浜からやってきた人がやっているよう。でも、店の雰囲気は、もう何十年も前から営業しているかのような感じ。調度や内装が古いとかいった意味ではないのですが。こちらも、一度足を運んでみるとよろしいかと。

 
http://www.okinawa-style.com/article.php/20090504150630645

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をチェックしてみてください。

生まれて初めて観た「闘牛」

2013年5月12日
 今日は日曜日。前日から行動予定は決まっていて、午前中にローズガーデンというアメリカンレストランでブランチをして、それが終わったらうるま市で開催される「沖縄闘牛」の観戦という流れでした。20130517091230418_0001 なにせ、数日前の「沖縄タイムズ」など、まるまる1ページを使って「県知事杯争奪 第99回春の全島闘牛大会」の記事を掲載しています。沖縄での闘牛の位置づけがありありと感じられ、それを見つけた家人は迷うことなく、「今回の目玉は闘牛!」と口にしていました。

 ところが、ちょっと出遅れたのがたたってか、11時にローズガーデンに着くと、ウエイティングの客が店の外にたむろしているではありませんか! あろうことか、駐車場には整理のための係員まで出ています。ウエイティングリストのエントリーをして戻ってきた家人によると「私たちの前に10組」。20分ほど待ったのですが、なかなかハケません。しかも、その場でエントリーして待っている10組のほか、予約が5組もいるといることがわかりました。結局あきらめ、闘牛を観終わった帰りに寄ろうということに方針転換。L1060204

 すぐ車に乗って高速道路で石川インターまで10分。闘牛の会場「石川多目的ドーム」はインターからすぐのところなのですが、駐車場はとっくの昔に満員。しかたなく、近く(といっても歩けば10分)に路上駐車し、会場にとって返しました。3000円(女性は2000円)の入場料を支払って中に入ると、始まったばかりにもかかわらず、早くも大変な熱気です。ただ、3000円も入場料を取るのですから、プログラムはもう少し、それなりのものを作ってほしいですね。凝らなくてもいいので。こんな紙切れ1枚だけでは、ショボすぎます!

20130518101837386_0001  この日の取り組みは全部で13番。最後の3番は優勝決定戦なのですが、いったいいつになったらそこまで行くのか、皆目見当もつきません。勝負はそれこそ30秒で決まるものもあれば、10分、15分経っても決着がつかない対戦もあります。

 観客の8割は男性でしょうか。なかにはアメリカ人と思しき人もいました。なかには、片手に分厚い札束を握り締めながら声援を送っている人もおり、これは賭けをしてりにちがありません。どうりで、熱くなっているはずです。まして、屋台で売られているオリオンビールや泡盛が入っているとなればますますテンションはUP。

 沖縄の闘牛と、スペインのそれとはまったく異なり、牛と牛とが頭をくっつけ、お互いタイミングを計りながら押し合うだけ。ときには引くこともあり、それは勝負のチャンス。その瞬間、観客席がどっと沸きます。そして、一方が相手を押し続け、丸い土俵の際まで追い詰め、相手がひっくり返ったりお腹を見せたりすると勝負あり。それ以前に、背中を見せて逃げる動きをしても負けというルールのようです。
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 ただ、ひとたび勝負に出て押し始めると、やはり闘争本能に火がつくのでしょう、相手をとことん倒すまでぶつかっていく牛もいました。土俵を囲むフェンスにドシーンとぶつけられ、半分動けなくなった相手を、さらに尖った角で刺す──そんな牛もいました。相手はそれで気絶してしまい、まったく動けません。体重が1000㎏(1トン)近くもあるのですから、それも仕方ないでしょう。ロープを体にかけ、勢子(闘牛士)たちが20人ほどで引っ張っても動かない牛のお腹からは真っ赤な血が出ていました。

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 この日の大会は春と秋の2回おこなわれる全島チャンピオンを決めるものでしたが、4000人もの観客は大いに楽しめたのではないでしょうか。

L1060214  観戦を終え、ローズガーデンまで戻ると、午前中の混雑はウソのように、すんなりテーブルに案内されました。「パンケーキ2枚+ハムステーキ+フライドエッグ」のモーニングセット(といっても一日中食べられる)を注文。家人は「ロシア風ビーフストロガノフ」にsたのですが、どちらもめっぽうおいしく大満足で帰途につきました。

 そうそう、もう一つ、この店のメニューで見逃せないのが「グリーントマトのフライ」です。小麦粉が違うのか、揚げ方が違うのかよくわかりませんが、えらくサクっとした歯ざわりが心地よく、前菜に最適。これも一度試してみてください。

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香港は相変わらずの活気

2013年5月11日
 9日の夕方、沖縄・那覇空港から香港ドラゴン航空の飛行機で香港へ。2時間少々で着くのでとても楽です。泊まりはいつもと同じ、九龍半島側尖沙咀のインターコンチネンタルホテルのハーバービューの部屋。家人は、このタイプの部屋に入り、窓いっぱいに広がるヴィクトリア港、対岸の高層ビルを見ると、「あー、香港に来た!」と心から実感するそうです。それと、朝食が最高!

Photo_5  今回は観光的な要素はほとんどなく、取材と雑用。10日は雨の中、それでかけずりまわっていました。昼食はこれまた私たちにとっては定番の一つ、対岸にあるIFC(国際フィナンシャルセンター)内の「正斗」。この店はいつ行っても行列ができているのですが、さすが午後3時近い時間となるとそれも一段落し、並ばずに入れました。

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Photo_4  今回は、最近その味を知った福州炒飯にトライしてみたのですが、もう最高! 写真も撮りましたので、いちおう出しておきます。家人は、写真上の焼きそばでしたが、これもまた素晴らしく美味。

Photo  着いた日の夜は尖沙咀の路地裏の店で済ませ、そのあと香港最大の人気スイーツチェーン店「許留山」で買い求めた「單吊西芒果 (マンゴ入りジュース)」に舌鼓を打ちました。「ジュース」と呼んでいいものやら、とにかく、中にはマンゴーの切り身がこれでもかこれでもかというほど入っています。それがすべてストローから上がってくるのですから、もう大満足。

 この日は昼食でほぼお腹いっぱい。結局、夜はホテルのバーでということになり、ヴィクトリアハーバーと対岸の夜景を見ながらカクテルやらビールやら。それにつまみを少々というスタイルで済ませてしまいました。

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 そして今日のお昼過ぎの便で沖縄に戻ったのですが、なんともライトな海外旅行でした。

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「灯台もと暗し」とはまさしく……

2013年4月29日
 今日でGWの前半も終わり。家人がたまたま何かの雑誌で見つけた“観光スポット”に行ってみることにしました。といっても、自宅からそれこそ30分ほどで行けるところで、大手町にある皇居東御苑です。

Photo いまでこそ天皇・皇后両陛下のお住まいがある皇居ですが、明治維新までは江戸城で、徳川将軍家の本拠地でした。しかし、「江戸城址」より「皇居」といったほうがピンと来るくらいですから、徳川将軍家の住まいだったことなどつい忘れてしまいがちです。しかし、実際に行ってみると、その巨大な権勢を改めて感じずにはいられません。たしかに、江戸城は300年近い間、日本の実質的な中心だったのです。

 とにかく、その大きいこと。ほかのどの城もかないません。江戸城の総構え全体の面積は230万平方メートルで、ヴェルサイユ宮殿(195万平方メートル)よりも広いといいますから、世界一といってもよさそうです。先日外装の修復工事が完成したJR東京駅や現在JPタワー(中央郵便局がある)が建っているあたりまでスッポリ総構えの中に含まれていたのですから、当然といえば当然です。

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 石垣も、ほかの城とは比べるべくもないほど立派で、きちんと整形されているものがほとんど。野連(のづら)積みのように、切り出してきたまま積み上げた石垣とは天地雲泥の差があります。さすが、将軍が住まわれていただけのことはあります。

Photo_2 本丸まで行く途中に大小の番所がいくつもあるところをみると、セキュリティーにも万全を期していたことがうかがえます。内堀通り沿いに建つパレスホテルの向かい、大手門から本丸の天守台までは、歩いてゆうに20分はかかります。その途中、いまは広場になっているところに大奥や中奥、政務所が建っていたわけですから、実際にはもっと時間がかかったにちがありません。

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 皇居東御苑というのは、広い江戸城の一部分、本丸と二の丸、三の丸があったエリアを公園として公開したものですが、それにしても広いことといったらありません。天守台はそれほど高い位置にあるわけではないのですが、まわりの広さを考えると、高くする必要もなかったのでしょう。台にのぼっただけで、まわりはかなり広範囲に見渡せますし、ましてそこにかつて建っていた天守閣に登れば、それこそ当時の広い、しかもビルなどまったくない江戸の市街地すべてを目に入れることができたことでしょう。

 これまで全国各地の有名な城・城下町を数多く取材してきた私ですが、さすが江戸城の大きさ、広さ、そして立派さには舌を巻かざるを得ません。自分の暮らしている東京の、それもど真ん中にこんな素晴らしいスポットがあったとは、まさに「灯台もと暗し」です。実際、ここを訪れているのは、そのほとんどが、連休を利用して地方から上京してきた観光客のように思えます。また、外国人の多さも目につきました。都民は意外と、訪れたことがないのではないかという気がします。

Photo_5 江戸城址に意外な喜びを感じたをあと、話題のJPタワーの展望台にも上ってみましたが、GWのせいか人、人、人でぎっしり。レストランもすべて満席で、とても入れません。それでも、上からながめる東京駅の駅舎は味わいがあり、けっこう楽しめました。結局、そのまま有楽町の朝日ホールまで歩き、イタリア映画祭に。『フォンターナ広場 イタリアの陰謀』という映画を観たのですが、これが最悪。喜びも半ばといった感じで帰路についたしだい。

せっかく月曜日を開けてくれているのですが……

2013年4月21日
 前日の夕方から京都へ。今日は朝早くに所用を済ませ、9時4分京都駅発園部行きの嵯峨野線(=山陰本線)ローカル電車に乗り、福知山へと向かいました。途中、亀岡という駅で特急「はしだて1号」に乗り換え、10時40分着。京都から30分も走らないのに、保津峡の駅を過ぎると、都会の喧騒とはまったく無縁といった感じの田園風景が広がり始めることに改めて驚きます。

 それでも特急が停車する亀岡とか綾部はまだ「町」で、福知山ともなると、駅もえらく大きくて立派です。それもそのはず、福知山は山陰本線、福知山線、北近畿タンゴ鉄道(KTR)の3線が交わる交通の要衝ですから。その昔、ここには旧国鉄の大きな車両基地があったため、いまでも駅のすぐわきにJR西日本の支社があります。

 まだ小学生のころ、母親と弟の3人で名古屋から東海道線で京都まで行き、山陰本線の夜行寝台に乗り換えて山口県の萩市(東萩駅)まで行ったことがあります。そのとき、この福知山駅でけっこう長い時間停車し、興奮して眠れずにいた私は列車の窓から、信じられないくらい多くのSL(蒸気機関車)を目にした記憶がかすかにあるくらいですから、よほどその数が多かったにちがいありません。いまでも駅前にはSLが1台飾られていますし、市内にはその時代をしのぶ記念館もあります。

 L1060047 さて、福知山です。北近畿の交通の要衝というわりには、それほど多くの人を見かけるわけではありません。10年ほど前に完成した駅舎はまだ新しく素晴らしくきれいなので、レストランや商業施設もさぞかしたくさんあるのかと思いきや、餃子の王将と和民、あとは小さなローカルのカフェがあるのみ、昼食を食べようにも、選択肢がありません。結局、美しくはあるものの人通りがほとんどない駅前で唯一存在感を示していたインド料理店でカレーを食べたのですが、これがえらくおいしかったです。満席だったのも無理ないことです。

 市内を2時間半かけて歩いて取材しました。駅を背にかつての中心商店街を抜け、明智光秀を祀った御霊(ごりょう)神社を観たあと、寺町(といっても3カ寺)から川沿いの旧城下町へ。そこに治水記念館という、あまり観光スポットらしくない名前の施設がありました。この町は古くから、市内を流れる由良川という川の氾濫・洪水に苦しめられていたそうです。2003(平成16)年10月、日本列島を直撃した台風23号で、福知山より少し下流にある舞鶴市でこの川の堤防が決壊、あふれた水のためにツアー客ら37人を乗せた観光バスが立ち往生し、乗客全員がバスの屋根に避難して約9時間後に救出されたということがありました。その川なのです。

 治水記念館では、毎年のように襲ってくるそうした水害とこの地の人たちがいかに戦い、いかに克服してきたかということが学べるのですが、けっこうおもしろかったです。川の堤防のすぐ脇にあるのですが、もともとは旧城下町の呉服屋さんだった建物は、1953(昭和28)年の大洪水のときも流されずに済んだとかで、説得力があるのです。それにしても、「最初の治水は明智光秀が城を築き、城下町をつくったとき、川を付け替えたのが始まり。ですから、ここでは光秀は大恩人なんです」という言葉には心がこもっていました。

 治水記念館の裏手はすぐ堤防。その上を歩いて城に向かいます。途中、なぜこんなところに? と思わせる洋館に出くわしました、えらく広い敷地に建っているのですが、重要文化財のようです。「足立音衛門」という名の洋菓子(私も古いですね、「スイーツ」のことです!)屋さんの持ち物のようで、店舗は、堤防の下を走る城下通りに面して建っていました。L1060068 見てのとおり、普通よくあるスイーツの店とはまったく趣が違うので、ちょっと見ただけでは何の店かわからないのではないでしょうか。結局、時間もなく立ちよることはできませんでしたが、通販でも商品は買えるようですし、東京・銀座の松屋デパートにも店を出していることがわかりました。えらく人気のあるお店みたいです。

 さて、戦国末期に明智光秀が築いた福知山城。外側は木造なので、大変味わいがあります。つい最近目にした木造の大洲城はまだ新しい感じがありありとするのですが、ここは修復された25年以上を経ているせいか、それなりの風格も感じました。もちろん、丸岡城(福井県)ほど風雪に耐えてきた歴史は見て取れませんよ。中身は例によって、全国どこでも同じ風でどうということはないのですが、外装のユニークさはやはり出色でしょう。Photo

 この福知山城は年中休みなしですが、ほかの施設の休館日が「火曜日」に設定されていることに感心しました。観光地であろうがなかろうが、全国どこでも、美術館や博物館といった公共施設は月曜日が休館とほぼ相場が決まっています。

 ところが、これだと困ることがあります。それは、たとえば週末から月曜日までというスケジュールを組んでも、そうした場所には行けないからです。外側だけ見ればOKという建物もなくはないのですが、内部もきちんと見学したい場合はそれが大きなネックになり、日程を短縮あるいは変更せざるを得ません。その点、福知山の場合は火曜日ですからとてもありがたいのです。自分たちの町を観光地として位置づけるのであれば、ほかのところも大いに見習っていいのではないでしょうか。ただ、福知山の場合、行きたいと思う施設が少ないのが難点でした。

母校ラグビー部が、な、なんと「全国」大会に出場!

2013年4月3日
 今日は母校・愛知県立明和高校のラグビーの試合を観戦しました。場所は埼玉県の熊谷スポーツ公園にあるラグビー場です。明和高校がなんと、「全国高校選抜ラグビー」に出場、予選リーグの最終試合が今日だったのです。

Dsc02320  創部以来60年余の歴史で初の快挙ですから、見逃すわけにはいきません。対戦相手は宮崎県の高鍋高校。試合開始直後、モールを押し込んでトライを奪ったものの、その後はさっぱりで、後半20分まで7対10でリードを許していました。後半など、風下(風速20メートル近い強風でした)であるにもかかわらず、ほとんどずっと攻めっぱなしだったのですが、肝心のところでイージーミスを犯してしまい、このまま負けたら、監督からこっぴどく叱られるだろうななどと、あらぬことまで考えていました。

Photo_3 それが残り10分のところでモールに持ち込み、押すは押すは。あっという間に25メートル近く押し込んで相手ゴール前に。それをやっとのことでものにし、ポスト下にトライ。ゴールも決めて14対10とし、そのまま逃げ切りました。

 勝つには勝ちましたが、けっしてほめられる勝ち方ではなく、監督も試合後、スタンドで声援を送っていた私たちに「お粗末な試合ですみません」などと、謝っていましたが、でも勝ちは勝ち。初めての全国大会で予選リーグ(全部で8組)の2位(2勝1敗)だったのですから、まあよしとしましょう。

 選手たちもタフな試合で疲労困憊の様子でしたが、勝ちな何にも勝る疲労回復剤。さわやかで、うれしそうな顔をしていました。それを目にした私も一緒に喜ぶことができました。何はともあれ、おめでとう!
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こんな田舎(失礼!)に素晴らしい城が

2013年4月1日
 「津山」という町をご存じでしょうか? 岡山県にあるのですが、中国山地の盆地にあるせいか地味な存在です。ところがどうして、この町には大変な魅力があります。その第一は、西日本随一の桜の名所であること。第二には、とんでもなく立派な城(跡)があることです。

 もう一つ、2012年11月、姫路でおこなわれたB級グルメの全国コンテスト「第6回B-1グランプリ」でシルバーグランプリを受賞した「津山ホルモンうどん」もよく知られています。というか、最近ではこちらのほうで市民権を得ているといっていいかもしれません。

 しかし、今回この地を訪れた目的は城下町の取材。江戸時代の初め、森忠政(森蘭丸の弟だそうです)が18万6千石で入封し津山藩がスタートし築城に着手、13年の歳月をかけて完成した城なのですが、5層の天守のほか、櫓や城門など合わせ80を超える建造物から成る大規模な近世城郭でした。こんな山奥になぜ……と不思議でならないのですが、姫路城も真っ青といってもいいほど、大きな、また立派な城です。当時の石垣がそのまま残っているのですが、高さは12mを超え、城門から天守までは500段近い階段を上る必要があります。Photo_6

 たまたま、今日から恒例の「津山城桜まつり」が始まったこともあり、平日にもかかわらず大変な人出でしたが、2000本近い桜もたいそうなものでした。聞けば、明治期には5000本もあったといいますから、それはそれは壮観だったにちがいありません。取材でもなければ、ここまで足を運ぶことはなかったでしょうが、素晴らしい場所を訪れることができ、幸福感でいっぱいでした。

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“1日3城”にチャレンジ!

2013年3月31日
 昨日は徳島城址を訪れた今回の四国取材。その後、四国を横断して宇和島へ。昨夜は宇和島名物のタイ飯やじゃこ天に舌鼓を打ちました。

 今日もまたハードな取材です。まずは宇和島城に登城。昨夜、ホテルの近くから見えた城はまさしく空中の楼閣で、ライトアップされた姿が夜空の中に浮かんでいました。きっとかなり高い場所にあるのだろうと予想はしていましたが、そのとおり。入り口から急な坂道を歩いていった先に城はありました。復興天守とはいえ、その立派な姿はやはり風情があります。

 城のあと、伊達博物館、天赦園などを見て、こんどは一路大洲へ。高速で20分も走ったところにある大洲の街も桜が満開。日曜日なので、多くの家族連れがお花見にやってきていました。こちらも復興天守ですが、できたのが新しいので、天守の中は床も壁も天井も柱もまだ真新しい感じがします。すぐ近くを流れる肱川が外堀代わりだそうですが、その流れの立派なことといったらありません。

 大洲を見終えるとまだ時間に余裕があったので、予定を変更して今治に向かいました。ここは海のすぐそばに建っている城で、堀には海水が流れ込んでいます。復興されてそれほど時間も経っていないため、新しい感じがします。

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ここなら勉強に集中できる!

2013年3月11日
 今日はフェリーに乗って、サンフランシスコ対岸に浮かぶアルカトラス島へ。この島は1861年から1963年まで、最初は軍事刑務所、のちに連邦刑務所が設けられていたのですが、その建物がそっくりそのまま残され、いまは観光地になっています。

 L1050630 世界でも珍しい例なので、1年中、見物客が訪れます。込んでいる時など、事前に予約しておかないと、フェリーに乗るのに何時間も待たなければなりません。私たちも桟橋に着いたときは、「2時間ほどあとに出発する便にしか乗れない」といわれ、それまでフィッシャーマンズワーフをぶらぶらして時間をつぶしたほどです。

 アルカトラス島から戻り、タクシーで10分足らずのエンバーカデロという駅まで行き、そこからBART(Bay Area Rapid Transit)に乗ってバークレーに行きました。目的はUCB(カリフォルニア州立大学バークレー校)の見物です。4月から2人の甥っ子が大学(日本の)に入るので、「アメリカの大学というのはこんな感じ」というのを実際に体感してもらえればとの思いから計画したしだい。

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 私たちは2回目でしたが、やはり素晴らしかったです。いかにも勉強していますという雰囲気の学生がウジャウジャいます。といってアカデミックに片寄っているわけではありません。「知性の府」とでもいうのでしょうか。本当の勉強はこうした環境のところでするものといった感じが漂っているのです。2人とも、かなりインパクトを受けたように思いました。

 L1050673夕食はサンフランシスコに着たらかならず足を運ぶピア近くのSCOMASへ。シーフードはどれを食べても、相変わらずおいしかったです。もちろん、例によって写真はなし。すみませんが、せめて店の入り口の写真で我慢してください。

久しぶりのサンフランシスコ

2013年3月10日
 オークランドからサンフランシスコへレンタカーで移動。といっても、海峡を橋で渡るだけです。フリーウェイから見える景色は、オークランド側が工場や倉庫一色なのに対し、橋を渡ると同時にガラっと一変。歴史を強烈に感じさせる街になります。ダウンタウンをかすめながら港の南側を通り抜け、ゴールデンゲートブリッジを渡り、目的地ソーサリートへ。日曜日ですが、午前中とあってまだ人出が少なく、クルマもすんなり駐車できました。

 ソーサリートは15年ほど前訪れたときと趣きがまったく変わっておらず、東京でいうと鎌倉のような感じでしょうか、のんびりした雰囲気です。鎌倉は観光客が多すぎ、ゴチャゴチャしていますが、アメリカですから、そういうことはありません。

 L1050590 1時間ほどあたり一帯を散策、桟橋近くの公園から対岸のサンフランシスコの街並みを遠くに見ながら、ソーサリートをあとにしました。クルマをレンタカー会社のオフィスに戻し、ホテルへ。チャイナタウンの南門のすぐ隣で、ユニオンスクェアのすぐ近くなので、しごく便はよさそうです。

 荷物を預け、オファレル通りにある堂島庵で昼食。ここも10年以上前に来たときとまったく変わっていません。ただ、客は9割かた、いやそれ以上かもしれません、外国人で、日本人はほとんど見かけず。久しぶりのしょうゆ味に感動しました。

 そのあとユニオンスクェアからホップオンホップオフの観光バスで市内をひとまわり。このタイプのバスで回るのはここでは初めての経験で、知らない場所の多さを改めて感じさせられました。

 それにしても、カリフォルニアでもここまで北上すると、この季節はやはりまだ寒いです。L1050601 地上でじっとしていればむしろポカポカするのですが、屋根なしダブルデッカーの2階にすわっていると風が強烈で、体の芯まで冷え切ってしまいました。信号待ちで止まっているときはポカポカ温かいのですが、走り始めるともう凍えそうなほどの冷たさ。ゴールデンゲートブリッジの上を走り抜けるときなど、思わず体をかがめてしまいました。

 3時間ほどの観光を終え、ユニオンスクェアに戻ったときは、寒さでぐったりの感。ホテルにチェックインすると同時に風邪薬です。

 夜はすぐそばのチャイナタウンで夕食。オバマ大統領も来たことがあるらしい「迎賓閣」という店で中華料理。日本人にはいまイチの味でしたが、いかにもアメリカらしく量の多いこと。甥っ子たちがいなければ食べ切れなかったでしょう。