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寒いところには、寒い時期に行くのがいちばん!

2012年1月24日
 長年あこがれていた冬の日本海。昨日から明日まで、2泊3日の予定で、ようやく実現することができました。「リゾートしらかみ」というJRの特急に乗って、秋田から鰺ヶ沢を経て、青森までという行程です。
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 この特急、なかなか予約が取れないので、今回はパック旅行にしました。本意ではないのですが、やむを得ません。23日の早朝に出発、上野から秋田までは新幹線。秋田で食事をして、14時10分発の特急で鰺ヶ沢着は17時18分です。3時間少々の旅ですが、やはり真冬の日本海沿いを走るのですから、迫力があります。雪こそ降っていませんでしたが、とにかく波のすごいこと。それだけ風が強いわけですが、海岸の岩にぶち当たって跳ね上がるしぶきの強烈さは、なんともいいようがありません。

Photo_2 途中、深浦で待ち合わせのためしばらく停車しますが、昨日は鰺ヶ沢に泊まりましたが、魚はこの季節、やはりおいいしいです。今朝は宿を早く出て、近所の物産センターに行ったり、元小結の舞の海の博物館(というほどでもありませんが)を訪れたり。旅に出ると、どうしようもなく早起きになってしまうのが面白いですね。見知らぬ土地だと、少しでもそこで長い時間“生きた時間”を過ごそうというのは、貧乏根性なのかもしれませんが、もはや完全に習性となっています。

 鰺ヶ沢をあとにし、木造、五所川原、弘前を経て青森まで2時間少々。どこも皆、関取が数多く輩出している町で、なじみがあります。冬の東北、それも津軽となると、外を歩くのもはばかられそうです。実際、青森についたときは大変な雪で、凍えそうでした。しかし1時間も経つと天気は一変、まるで春を思わせるような日差しになり、積もった雪がなんともまぶしく感じられました。
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 寒い季節はやはり寒いところに行くのがいちばん楽しいように思えます。来月はカナダ、それも北極にかなり近いところまでオーロラを観に行く予定なのですが、いまから楽しみです。

ナマの安住紳一郎さんと一緒に

2012年1月22日
 TBSラジオで毎週日曜日の朝10時から放送されている「安住紳一郎の日曜天国」の「ゲストdeダバダ」という30分ほどのコーナーに出演させていただきました。可能なときはほとんど毎週聞いている番組ですからもともと非常に親しみがあり、依頼を受けたときは一も二もなく引き受けました。

 テレビと違って、ラジオは事前の打ち合わせも比較的アバウトで、自分自身の泥気をストレートに表現できます。テレビは事前の打ち合わせに加え、録画の場合、スタジオでカメリハだマイクテストだといって、番組の中で話そうと思っていることを、最低でも3回、へたをすると4回も5回も口にしなくてはなりません。

 ところが、そうこうしているうちに自分で面白いと思っていたことも、まったくつまらなく感じられるようになってしまい、本チャンの時はテンションが最低になっていることがほとんどです。そのため、私はテレビの出演はたいがいお断わりしています。

 今日の番組はその意味では自分でも楽しめましたし、安住さんの誘導はまごうことなくプロフェッショナルですから、テンションの高い状態で話すことができ、とても満足できました。もっとも、聞いてくださっていた方がどこまで面白いと思ってくださったかはわかりませんが。

http://www.tbs.co.jp/radio/nichiten/

九州新幹線「グリーン車」への疑問

2012年1月18日
 鹿児島から福岡まで九州新幹線に乗りました。それも、奮発してグリーン車です。東海道山陽新幹線のグリーンは、普通の指定席とは歴然とした差があります。乗るとすぐおしぼりがもらえます。シートは大きくて広く、リクライニングの角度も深いので、大いにリラックスできます。その気になればぐっすり眠ることも可能でしょう。

東北新幹線ともなると、コーヒーや紅茶が1杯、ついてきます。お客さんの数が少ないからできるサービスでしょうが、コーヒー好きの私にとってはとてもありがたいことです。

 それに比べると、九州新幹線のグリーン車のなんともプアなこと。シートは普通指定席と大差ないですし、おしぼりもコーヒーもなし。何が違うかというと、床の敷物だけです。それとて、ほかの車両と格段の違いがあるようには思えません。フットレストなど、私にとってはあってもなくてもほとんどどうでもよいことです。

 まあ、逆にいうと、普通指定席車両のレベルが高いのです。東海道山陽や東北のように片側3列、片側2列でなく、左右両方とも2列ずつですから、それだけでもシートの幅が広いことがわかります(測ったことはありませんが)。

 それでほかの新幹線と同じ額のグリーン料金を取るのですから、JR西日本はいったい何を考えているのかといいたくなります。私より前に、ほかの乗客からクレームが寄せられているのではないでしょうか。

「データDE県民性」の連載がスタート

2012年1月17日
 長年「県民性」をテーマに著作活動をおこなってきた私。けっして「学」などというシロモノではないのですが、面白さにかけては何にもひけをとりません。

 講演などではいつもお話しているのですが、「県民性」というのは、「地理と歴史の掛け算」で成り立っているもので、子どものころからいちばん好きだった科目の延長線上にあるのですから、楽しいに決まっています。

 しかも、現地に行くといつも新しい発見があり、それがまた、これまでの蓄積の上に加わります。すると、これまでの自分の見解をひっくり返すとまではいきませんが、場合によっては、かなり大きく揺るがすこともあり、恥じ入ることになります。

 そんな状況ですから、このたび聖教新聞社から頂戴した、県民性をテーマとしたコラム連載のお話は非常にありがたいと思いました。これでまた、勉強ができる、取材にあちこち行けると思うと、胸が躍るのです。

 「県民性」にかぎりませんが、何かを書く場合、現地取材は絶対に欠かせません。そこで触れる空気がいちばん強烈に自分を揺さぶるからです。見るもの・聞くもの・出会う人・食べるもの……すべてが材料になります。その材料をもとに、その県の人がどう発送し、どう行動するのか、またどんなことをしてきたのか、どんな歴史を残してきたのか。それこそキリがないのですが、決まった理論や見解があるようでないだけに、自分の人生経験も投影させることができます。面白いというのは、まさしくそのあたりに理由があるのかもしれません。

 ともあれ、毎月第1・第3月曜日の掲載なので、ぜひ目を通してくださればと思います。下記のウェブサイトにアクセスしてみてくだされば幸いです。
http://www.seikyoonline.jp/lifestyle/life/2012/1199838_1631.html

大震災から9カ月──やっと仙台に行きました

2011年12月18・19日
 「3・11」から9カ月以上が過ぎた12月19日、初めて被災地を訪れました。これまでは、正直、怖くて行く気になれなかったのです。怖いというのは、余震がどうのこうのという意味ではありません。破壊された町や村、建物や施設、海岸や山を目にしたくない──そんな気持ちが私を支配していたといいますか。

 でも、さすがに、ノンフィクションを書くという仕事にたずさわっているのに、いつまでも被災地を全然見ずにいるのは卑怯ではないかという思いがきざしてきました。そこで意を決して、1泊2日で宮城県に行くことにしたのです。1日目は、途中、村田というところに立ち寄り、その夜、仙台に入りました。仙台、それも駅の周辺は予想以上の復興ぶりで、本当に地震に遭ったのかと思ったほどです。

 翌19日、私が足を運んだのは仙台のすぐ南にある名取市閑上【ゆりあげ】地区。すぐ東側が海岸なので、震災の被害もひときわ大きかったそうです。実際、その惨状はすさまじいのひと言。復興もまだまだで、道端には漁船が放置されていますし、津波に流されてぶつり合ったのでしょう、ひどく傷ついたクルマがごっそり集まっていたりなど、目を覆うばかりの状況です。海辺の集落にあったと思われる家々は土台だけが残ったまま。もう9カ月が建っているのに、家財道具や子どものおもちゃや電話帳など、ごく平凡な日常を感じさせる物がそこらに散らばっていました。

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 いまなおあまりに悲しい状況をこれ以上書き記すのは忍びない気がするのでここでやめますが、みごとなまでに何もなくなってしまった町。津波の恐ろしさは想像を絶するものがあります。遅まきながら、謹んで、亡くなられた人びとのご冥福を祈らせていただきます。

映画はやはり、爽快感のある作品にかぎる!

2011年11月18日
各種メディアの映画欄で絶賛されている『サウダーヂ』を、渋谷まで観にいきました。これを観ずに映画を語るなかれといわんばかりのコメントを信じてのこと。でも、うーん…?…?? という感じです。私が映画を観始めた40年以上前から、このテの作品はありますが、とてもではありませんが、ついて行けません。もちろん、映画に何を求めるか、その違いもあるでしょう。2時間30分という長い時間を無駄にしてしまったというのが正直な感想です。

私にとって映画とは、やはり楽しみ(エンタテインメント)以外の何ものでもありません。ストーリーが単純であろうが複雑であろうが、それはいいのです。でも、観終わったあと爽快感が味わえない作品は私的には“失格”です。1960年代末から70年代半ばにかけて、アメリカンニューシネマの波が映画界に押し寄せました。『俺たちに明日はない』『ワイルド・バンチ』『イージー・ライダー』『明日に向って撃て』『真夜中のカウボーイ』『いちご白書』など名作が目白押しですが、それでも観終わったあと、なんとも合点が行かない、思い描いていたとおりに終わらない、不条理とでもいうのでしょうか、そうしたフラストレーションを感じたことが少なくありません。

ラブストーリでもアクションでもサスペンスでも、ジャンルに関係なく、爽快感が得られない作品は受け容れられないのが私です。単純といわれればそれまでですが、こういうファンはけっして少なくないのではないでしょうか。それと、いまさらですが、映画評論をやみくもに信じて観にいくのはやめたほうがいいようです。グルメガイドにもあてはまりそうですが、こうしたものは自分の感性だけを信ずるべし、ということでしょう。映画のあとで食べた道玄坂くじら屋のなつかしいクジラ料理の数々が、相変わらずおいしかったのがせめてもの救いでした。

「広島+京都 文化フォーラム」のパネラーを務める

2011年11月12日
昨日(2011年11月11日)の午後1時11分は、100年に一度という、「1」がズラリ並ぶ時刻だったそうです(だからといって、どうということはないのですが)。昼過ぎに東京を出て夕刻広島入りしたのですが、夜は、『広島学』の執筆にあたり、事前の取材準備段階で貴重なアドバイスを頂戴した、明和高校の同窓・同期でもあるKくんと食事をしました。今年は4月からニュージーランドに留学していたそうで、それを知らなかった私は、5月末に本が完成してすぐ、Kくんの勤務先に送ったのですが、連絡がなかったので、おかしいなと思っていたのです。しばらく経って、奥さんからお礼のハガキが届き、そこに海外留学している旨が書かれていました。

そして、10月の初めごろ帰国したKくんにメールをしたところ、留学先がニュージーランド、それもオークランドであったことを知り、また驚きました。ラグビーのワールドカップ観戦のためニュージーランドに行き、しかもオークランドで8泊もしたのですから、事前にわかっていれば現地で会うこともできたのに……と、残念でなりませんでした。それでも、話は大いに盛り上がりました。

さて、今日は広島の中国新聞社5階ホールで、「広島+京都 文化フォーラム」という催しがあり、私もパネリストの1人として出席しました。今年は、拙著『広島学』が大いに売れたこともあってか、例年になく参加申し込み者が多かったようで、告知後3、4日で締め切ったとのこと。多少は貢献できたということでしょうか。

内容は12月8日付の中国新聞、同じく15日付の京都新聞に詳しく紹介されるそうなのでここでは割愛しますが、広島と京都には意外な共通点もあり、私はそのあたりについて話をさせていただきました。

鹿児島で「チェコ」に出会ってびっくり!

2011年11月4日
11月2日から1回目の鹿児島取材をスタートしました。鹿児島に着いた夜は、市内随一の繁華街・天文館で、鹿児島最大の行事「おはらまつり」の前夜祭を見学。花電車を観るなんて、何十年ぶりのことでしょうか。そして、昨日は一日中、おはらまつり漬けでした。

L1020382 それにしても、鹿児島市内を走る路面電車の軌道には芝生が植わっていて、えらく風情があります。路面電車というのは近ごろ全国的に注目されていますが、都会に暮らす人間にとって落ち着きを取り戻させてくれる貴重な装置であることを実感しました。その軌道に芝生があるのですから、ますます存在感があります。先だって訪れたウィーンもプラハも路面電車が市内を縦横無尽に走っていましたが、芝生までは見られませんでした。

さて、3日目の今日は、天文館のホテルから鹿児島中央駅まで路面電車で移動し、そこから甲突川近くにある公園を抜け、町のあちこちに立つ幕末から明治にかけての偉人たちの銅像や記念碑を見ながらの取材です。L1020402 最後、天文館の近くにあるフランシスコ・ザビエル公園に行くと、そこには凛々しい顔つきをしたザビエルの像がありました。公園の向かい側には教会もあります。ほんの数日前プラハのカレル橋で見たザビエルの銅像と引き比べながらじっくり見てみると、なんだか不思議な気持ちになりました。

おもしろかったのは、天文館から空港に行くバスで、空港到着の直前、道路に「チェコ村」と記された看板を見つけたことです。「なんでまた、こんなところにチェコがあるわけ? ひょっとしてザビエルつながりか?」と思ったのですが、横にすわっていた家人が、つい最近使い始めたスマートフォンでインターネットにアクセスして調べ、画面を見せてくれました。それによると、「焼酎を中心とした鹿児島の文化と、チェコのピルスナービール文化を融合させた鹿児島空港至近のテーマパーク」だそうで、中では、焼酎、チェコのビールはもちろん、チェコ料理も楽しめるとのこと。これはぜひ一度、足を運ばなくてはとメモしたしだいです。

行くところ行くところ、なぜか不思議につながっていることに驚きを覚えるとともに、やはり、何を取り上げるにしても、実際、現地におもむき、しかも注意深く観察することの大切さを思い知らされました。市内から空港へ行くバスなどというのは、普通は格好の居眠りチャンスなのでしょうが、私はそういうことはしない、というかできない気質なのです。何も見逃さない、聞き逃さない──これからもこの鉄則は守っていこうと思います。

それにしても、天文館の一角にある黒豚専門店で食べた豚カツは絶品でした。黒豚のカツに真っ黒なソースがかかっているのですが、こればかりは、その見た目に驚き、きっちり写真に撮りました!

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ヴァーツラフ広場で〝プラハの春〟に思いを寄せる

2011年10月29日
チェコソロヴァキアはかつて、共産圏ではソ連に次ぐ工業国として知られていました。シュコダという自動車もつくられ、ひょっとして当時のイタリアやフランスの車より性能がよかったとのではないかとの説もあります。そのシュコダもいまでは、プラハの街中を観光のために走っています。

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そうした時代、1968年の春から初夏にかけて、私などまだ高校生のときです。ベルリンの壁がなくなるはるか以前のことですから、プラハは旧チェコスロヴァキアの首都でした。その中心にあるヴァーツラフ広場にワルシャワ軍事同盟軍(といっても、ほとんどは旧ソ連軍ですが)の戦車が乱入、共産主義政治の民主的な改革を唱えていた時のドプチェク政権に有無をいわせぬ圧力をかけました。その結果、ドプチェク首相はスボボダ大統領とともに失脚、またまた旧来のかたくなな共産主義政治体制が復活してしまいます。

ベルリンの壁が消え東欧全体が民主化されたあとは国もチェコとスロヴァキアの二つに分かれました。チェコの首都となったプラハで最大のヴァーツラフ広場は、若い人たちであふれ返っていました。広場の両側にはやたらカジノが目につき、お洒落な店も少なくありません。L1020295 広場に建つ正面に国立博物館(改装のため休館中)の前にあるヴァーツラフの像のすぐ近くに、ワルシャワ軍事同盟軍の侵入に抵抗して命を失った2人の青年の碑がありました。だれが手向けたのか、花束も置かれています。チェコの若者たちの多くはそうした歴史があったことすら知らないかもしれませんが、日本から来た私たちがそんな記憶をよみがえらせたことに年齢を感じてしまいました。

今日はプラハ最後の夜なので、夕食は思い切り豪勢にということで4人の意見が一致。しかし、どこで食べようかとなると、頭を抱えてしまいます。しかたなくインターネットで探し出した、ホテル近くの店に行ってみました。しかし、残念ながら満席で、1時間半待ちとのこと。あきらめて、そのまわりにある、これはとひらめいた店を2、3軒あたってみたのですが、土曜日の夜とあって、どこも皆、入れませんでした。しかたなく、いかにも地元の人が出入りしていそうな居酒屋風の店に。しかし、ここが意外にも“当たり”だったのです。とにかく、量がべらぼうに多く、しかも値段はバカ安。ソーセージや肉のグリルなど地元のメニューを堪能し、大満足でホテルに戻りました。

L1020310 この日の朝、プラハ滞在も最後ということもあり、ホテル近くにあるスメタナ博物館のところまで散歩しました。結局、中は見ることができなかったのですが、早朝だったせいもあり、肌寒さを感じながら、なんとなく凛とした気持ちになったのは、ヴルタヴァ川の雄大な流れのせいでしょうか。

プラハ城観光後、カフェの窓からからくり時計を楽しむ

2011年10月28日
今日は、これも前日予約した、日本語ガイド付きの市内観光です。お昼近くにホテルを出発し、まず、プラハ最大の観光名所として知られるプラハ城に行きました。私たちがガイドに連れられて入城したのは北門。L1020104 この日はちょうどチェコの建国記念日(休日)にあたっていたため、正門周辺や城内にある大統領府の周辺では国軍も参加しての記念行事が朝からおこなわれていたようで、私たちが着いたときも、兵士の姿が目につきました。しかし、それ以上に多かったのが国内外からの観光客で、城の内外は人でいっぱいです。

城の内部には入れないのですが、その敷地の広さには驚きました。大きな教会や修道院が建っているだけでなく、屋敷や元の牢獄もあり、ひとつの街といった感じです。L1020150 職人たちの仕事場兼住居が軒を連ねていた黄金の小道は、「道」といっても、人ひとりがやっと通れるほどの幅しかなかったそうです(いまは拡幅されている)が、とても味わいのあるエリアでした。フランツ・カフカが住んでいたという家の前で写真を撮ったのですが、地下室を合わせても15坪、あるかないかでしょう。でも、優秀な作品はそうした条件とは無関係に生まれてくるもののようです。

驚いたのは、教会の中がことのほか明るかったことです。それというのも、天蓋に近い壁面部分に窓が大きく取られているからで、床のあたりからその窓のあたりまで延びるステンドグラスもえらく大きなものでした。絵柄も色彩もほかの教会とは趣きがかなり異なり、独特の印象を与えます。

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広いプラハ城を抜け、車でもう一つの観光名所であるカレル橋に移動すると、ここも人でいっぱいでした。ヴルタヴァ川に架かる橋の両側の欄干には30もの銅像が建てられており、そのいちいちに「いわく」があるようです。驚いたのはフランシスコ・ザビエルの銅像と一体になっている日本人でした。L1020181

銅像のザビエルは二人の男に担がれていますが、二人とも、17世紀当時この地域でイメージされていた東洋人だそうです。ただ、頭には丁髷があり、腰には二本の刀を差しているところからすると、日本人ではないかとの説もうなずけないことはありません(顔はちょっと違う気がしますが)。

だとすれば、ザビエルとともに鹿児島に上陸し、通訳を務めながら布教に歩いたヤジロウ(薩摩か大隅出身の海賊といわれる)あるいは、来日したザビエルから洗礼を授かって信者となり、その後ともに布教に歩いただけでなく、ザビエルが日本を去っていったあとも同行、さらにヨーロッパに留学したという薩摩出身の日本人ベルナルド(洗礼名)ではないかということになります。ちょうど「鹿児島」の取材を始めようかというときなので、写真に収めておきました。

カレル橋のたもとに、とてもいい香りを放っている小さなカフェがありました。店の外に屋台のようなものがあり、そこで焼き上げられているお菓子(名前は忘れましたが、近ごろプラハっ子の間では大人気とのこと)の匂いです。L1020238 街中を歩いていても、焼いたソーセージや、それをパンでくるんだものなど、素朴な感じのおやつを売っている店や屋台があちこちにあります。どれも皆すこぶるいい香りで、つまらないスナック菓子を食べるよりよほどおいしそうです。

カレル橋から旧市街広場に移動、教会や、宗教改革で有名なフスの像などを見学、レストランやカフェ、みやげ物屋などがびっしり並ぶ一角に、正時を告げる旧市庁舎のからくり時計があります。L1020199 このあたりではいちばんの見もので、地上は何百人もの見物客でごった返しています。私たちは、その様子を正面にあるカフェの2階の窓から、コーヒーを飲みながら見ることができました。

共産政権時代の匂いがするプラハの人形劇場

2011年10月27日
今日はウィーンから鉄道に乗ってプラハに移動です。中央ヨーロッパのほとんど森と畑しかない退屈な沿線ですが、急行で5時間。夕方早い時間にプラハ中央駅に到着しました。さて、ホテルまでどのように行こうかとタクシー乗り場まで荷物を引いていったのですが、どうにも怪しい雰囲気です。だいいち、タクシーに乗る客が1人もいません。

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ヒマを持て余している運転手たちは車を降り、喫煙所でタバコを吸いながら雑談しているだけ。たまに近づいてくる旅行客に声をかけ、私たちにも、「どこまで行くんだい?」と英語で話しかけてきました。ホテルの名前を告げると、900コルナ(1コルナは約4・5円)とのこと。事前に観光案内所で確かめたときは300コルナほどという話だったので、とんでもない吹っかけぶりです。

「いや、案内所では300コルナといってたよ」と断わると、「それはクレイジーな値段だ」と、最初はせせら笑っていたのですが、私たちがかたくなに断わり続けると、「じゃあ、600でどうだ」と言ってきます。「ダメダメ」と突っぱねたら、「なら500にまけるよ」とさらなるダンピング。結局、「話にならない」と突っぱね、ホテルに電話を入れて事情を説明しました。すると「絶対、乗らないでください。こちらから迎えの車を出しますので」とのこと。ようやくメルセデスが来てくれ、ホテルまで無事行き着きました。もちろん、無料ではなく、400コルナかかりました。

観光ガイドブックにも、「駅のタクシーはボッタクリが多いので要注意、事前に金額の交渉を」と書かれてはいましたが、ここまでひどいとは! まして、首都の玄関口、中央駅なのにこのありさまでは、初めてプラハを訪れた旅行客の印象はグンと悪くなります。オーストリアとのえらい違いにあきれてしまいました。

ホテルはヴルタヴァ(モルダウ)川に架かるプラハ一の観光名所カレル橋のすぐ近く、ほとんど川のたもとにありました。部屋の窓からは対岸のプラハ城もそっくり見え、ロケーション的には文句なしといっていいでしょう。

L1020174 今夜は、あらかじめ予約を入れておいたチェコ名物の人形劇(マリオネット)鑑賞を予約していたのですが、小腹がすいていたので、その前にアウトドアのカフェ(ただし、秋冬はテントで覆われ、電気ヒーターも置かれている)に立ち寄ってビールを流し込み、軽いつまみを口にしました。人形劇鑑賞は夕食とセットになっており、国立マリオネット劇場近くのレストランでチェコ料理を食べ、それから劇場へ。モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』を楽しみました。客は世界中からやって来ている感じで、内容も理解しやすいのですが、共産政権時代そのままといった感じで、イスのすわり心地や設備はいまイチです。

世界でいちばんゆったりパンダが観られる動物園

2011年10月26日
今日はウィーン最後の日。まず、午前中は動物園です。朝方からあいにくの雨でしたが、それもなんのその。タクシーを飛ばし、開園とほぼ同時に入りました。場所はなんとシェーンブルン宮殿の一角。「現存する世界最古の動物園」だそうで、マリア・テレジアの夫フランツ=ヨーゼフ1世が1752年、初めてお客を迎え入れたという記録があるため、開園はこの年になっています。

L1020001 入口を入ると、真正面に黄色いパビリオンが見えます。動物園にはあまり似つかわしくない建物なのですが、この当時は、中央に芝生を作り、そこから放射状に動物の飼育場を設け、パビリオンの中からぐるりと動物たちの姿を見わたせるという配置でした。放射状に16の区画があり、そのうち13区画に動物がいたそうです。

その後、大規模に拡張され、いまではたいそう大きな動物園に生まれ変わっています。マリア・テレジアは夏の間、毎朝、宮殿から子どもたちを連れてパビリオンを訪れ(もちろん、その中にはマリー・アントワネットもいたそうです!)、動物をながめながら朝食をとっていたとか。なんと優雅な生活なのでしょう!

L1010992 ここの見ものはやはりパンダです。この日は雨だったので、2頭とも室内にいましたが、孟宗竹をおいしそうに食べている様子をすぐ目の前で見ることができました。子パンダは外の木の上におり、東京の上野動物園とはまったく違う楽しみ方ができます。

ウィーン最後の夜は楽友協会ホールでのコンサートです。毎年お正月におこなわれるニューイヤーコンサートは世界的に知られていますが、チケットはプラチナもいいところですから、とりあえず、会場の雰囲気だけでも味わえたらと思い、行ってみました。ウワサにたがわぬ豪華で気品のある会場に観劇。もちろん、演奏のほうもハイレベルで、モーツァルトの名作の数々を堪能できました。

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ウィーンで“綾小路きみまろ”? に遭遇

2011年10月25日
午前中はハプスブルク家の王宮(Hofburg)を隅から隅まで見てまわりました。私たちが泊まっているグランドホテルからは歩いて行ける距離にあるのですが、あまりの広さにヘトヘトです。L1010891 昨日行ったシェーンブルン宮殿はあくまで“別荘”。こちらは本家のほうですから、それも当然でしょう。といっても、私たちが観てまわったのは旧王宮だけで、いまでは博物館やら図書館になっている新王宮まではとても手がまわりませんでした。こちらは次回のお楽しみということで。

L1010894 王宮の敷地内には熱帯植物園がありますし、そこここに芸術家の像が、なにげに建っています。モーツァルトの銅像の前で写真も撮りましたが、ほかにも写真に収めたい銅像やブロンズ像があちこちにあり、もう追いつきません。

食後は「ウィーンの森」観光です。前日、予約を入れたので、客は私たち4人だけ。メルセデスのミニバンは貸し切り状態でした。シェーンブルン宮殿の南、市の中心部からクルマで40分ほど走ると、そこはもう都会の喧騒とまったく無縁、まだ手つかずの自然がたっぷり残っている静寂なエリアです。

最初に立ち寄ったのは、1000年近くも前に建てられたリヒテンシュタイン城。次が、ヒンターブリュール(Hinterbruehl)にある、ヨーロッパ最大(6200㎡)の地底湖ゼーグロッテで、ここは船に乗って観光しました。湖といっても、1848年から20世紀初頭まで石膏が採掘されていた跡だそうで、1912年の洪水で地底湖になったといいます。

L1020029 それから、シューベルトが「菩提樹」などを作曲したといわれる、ガストホーフ・ヘルドリッヒスミューレ(以前ここに水車小屋があった)で記念撮影のあと、ハイリゲンクロイツ修道院(1133年創建)を見学、最後にマイヤーリンクの山荘を訪れました。ここはかつてハプスブルク家の狩猟用の館として使われていたとのことですが、皇太子ルドルフが愛人と自殺した場所としても知られています。

おもしろかったのは、この半日ツアーのガイドをしてくれた倉永建男さんという方が綾小路きみまろにそっくりだったこと。ウィーンでは有名な日本人ガイドのようで、終わって解散するとき自己紹介をしてくれたのですが、ホテルに戻ってインターネットで検索すると、たいそうな学識の持ち主で、上智大学でドイツ哲学を学んだのちドイツのハイデルベルグ大学、ミュンヘン大学を経て、ウィーン大学哲学部博士課程で学んだそうです。同行したHさんと年齢も大学も同じであることがわかり、事前にそうと知っていたらもっと盛り上がったことでしょう。

岡山のデパートが経営する日本料理店

2011年10月24日
今日のメインイベントは、ハプスブルク王家の夏の別荘シェーンブルン宮殿見学です。都心からタクシーで15分ほどのところにあるこの宮殿、ウィーンのランドマークの一つとされているように、正門から目に飛び込んでくる黄色い建物の大きさ、その前庭の広さには圧倒されました。L1010915 しかし、これはまだ序の口で、その裏手に広がる庭園がべらぼうに広いのです。ただ今日は、内部で公開されている40室のすべてをガイドが案内してくれるツアー。3時にスタートし終了は5時をまわってしまいますし、あいにく雨模様なので、外の庭園エトセトラを観るのは後日にまわさざるを得ません。

それでも、ハプスブルク家の家系図の説明から始まるガイドツアーは、その説明ぶりのわかりやすさ・詳しさもあって、十分楽しめました。これほど大規模な夏用の宮殿をつくった后マリア・テレジアの気概が随所にあらわれるという感じです。内部のきらびやかな様子は観光ガイドブックにも詳しく掲載されていますが、ヴェネツィアングラスの技術を駆使して作られた鏡の間や、当時のヨーロッパがあこがれていた中国、さらには日本の陶磁器や漆を配した部屋の迫力には圧倒され、ため息の連続。別荘でここまでのレベルですから、旧市街にある宮殿のほうはいかばかりかと、思わず想像をめぐらせてしまいました。

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地下鉄でホテル近くまで戻り、夕食を食べる店を探します。ふた晩続けてウィーン料理でしたから、さすがあっさり・さっぱり系のものがほしくなり、結局、日本料理店をチョイス。ウィーンでは数少ない、日本人の経営になる店で、名前はTENMAYAといいます。

「岡山のデパート同じ名前なんですね」と、なんの気なしに聞いたら、「そうです。同じ経営です」との言葉にびっくり。今年で開店20周年だそうですが、20年前、天満屋の社長一家がウィーンを訪れた際、日本食を食べられる店がないというので、みずから店をつくったといいます。社長の娘さんがウィーンに留学していて、その縁でこちらにやってきたらしいのですが、ウィーンと岡山という組み合わせには驚きました。肉まみれの食事が続いていただけに、久しぶりの日本食(冷奴、酢の物、サンマの塩焼き等)に舌鼓を打ちました。

ハプスブルク王朝の力を実感させるウィーン旧市街

2011年10月23日
今日は日曜日。ドイツと同じく、ここウィーンでも、基本的に日曜日は店が休業で、飲食店以外で開いているのはおみやげ屋くらいしかありません。それでも、オペラ劇場の脇を走るケルントナー通り、コールマルクト界隈、シュテファン広場の周辺は大変な人出です。

残念なことにお天気はいまイチで、夕方遅くからは雨も降り始めました。それでも、観光客の数はいっこうに減る気配もありません。しかし、店が閉まっているので、皆、何かを買いたくてもこの日は我慢。観光客の大半はウィーンに滞在する日数も限られているのに、もったいないなという気がします。宗教的な理由もあるのでしょうが、古くからの決め事だそうですから、いたし方ありません。

この日はまず、オペラ劇場の前から出て1時間ほどで市内の有名観光スポットをざっとめぐる観光バスに乗りました。L1010876 インナーリンクと呼ばれる旧市街をめぐる路線で、ホーフブルク(王宮)、マリア・テレジア広場、国会議事堂、市庁舎、パスクヴァラティハウス(ベートーヴェンが住んでいたアパート)、ドナウ運河にある水中翼船乗り場(スロヴァキアの首都ブラチスラヴァ行き)、ループレヒト教会(ウィーンで最古)、シュテファン大聖堂(写真)、応用美術館、市立公園などをバスから観ることができます。これで、旧市街の様子を、ざっとではありますがつかむのが目的です。

王宮はもちろん、どの建物もたいそう立派なつくりで、外壁は下から上まで多くの彫刻で飾られるなど、それぞれ凝っています。それにしても、よくもまあ、これだけ多くの建物がつくられたものだと感心させられました。13世紀の始めごろこの地を本拠地としていたかのハプスブルク王朝の力を思い切り見せつけられた感じで、ウィーンがヨーロッパの一大中心都市であったことがうかがい知れます。

バスを降りたあと、シュテファン大聖堂近くにある、ディグラスという1875年創業のカフェに立ち寄りました。ピンク色の外装もユニークでしたが、中は150年以上の歴史を感じさせる落ち着きを感じさせます。4人それぞれ、思いおもいのコーヒーを注文、とんでもないボリュームのスイーツも2種類オーダーしました。

L1010871 縦・横・高さがそれぞれ7~8センチはあろうかというメレンゲの下に大きなアプフェルシュトゥーデル(リンゴのパイ。ただし、日本のアップルパイをイメージしては×)にはたまげました! どのコーヒーもえらくおいしく、ホイップクリームやミルクをふんだんに使っているのが特徴です。カップではなくグラスに入って出てくるものがけっこう多いため、いろどりというか見栄えもきれいで、ただコーヒーを飲むだけでなく、ケーキ等と一緒に楽しむという食文化がよくあらわれています。

そういえば、行きに乗ったオーストリア航空の機内食の最後にデザートとコーヒーが供されるのですが、そのコーヒーもなんと10種類ありました。コンシェルジュのようなスタッフが、一つひとつ、どんな中身なのか詳しく説明してくれるのが、ほかの航空会社にはないサービスで、感心させられます。

初日はウィーン料理を堪能

2011年10月2日
今日の午前11時発のフライトで約11時間、ウィーンにやってきました。時差の関係で、到着は同じ日の午後4時。ウィーン国際空港のしょぼさにはがっくりきました(リノベーションの途上のようです)が、空港から都心まではノンストップの電車が走っており、わずか16分でミッテ駅に到着します。宿泊先のグランドホテルまではタクシーで5分ほど。L1010841 1870年創業という老舗のホテルですが、見た目も内部も、古めかしい感じはまったくありません。ホテルの裏口はそのままショッピングモールに通じており、その階下にはスーパーマーケットもあって使い勝手はよさそうです。何より、ほとんどの有名観光スポットまで歩いて行ける便利さが助かります。

ロサンゼルス郊外に住む学生時代の先輩で、ひと足先に到着していたHさん夫婦とホテルで合流、さっそく夕食を取りに出ます。私たちのホテルの並びが国立歌劇場(オペラ座)で、そのすぐ裏に建つアルベルティーナ美術館の1階にある、Augustinerkeller(アウグスティナーケラー)という店に行きました。“keller” という言葉から想像されるように、もともとは修道院の地下室(ワインをつくり寝かせておくところ)だったようです。

内陸国のオーストリアですから、メニューは肉が中心。シュニッツェル(薄切りカツレツ)、ターフェルシュピッツ(牛ほほ肉の煮込み)、ツヴィーベルブラーテン(焼いた豚肉の上にカリカリに焼いたタマネギを乗せたもの)の3大ウィーン料理プラス、自家製(というか、このあたりの国では、自家製しかないようです)のソーセージを堪能しました。

アコーディオンによるシュランメル音楽の生演奏も楽しめるなど、非常にカジュアルな雰囲気が、最初の日の夕食に興を添えてくれました。シュランメル音楽というのは、当地特有のホイリゲ(ワイン居酒屋)や昔からある宿屋で演奏されていた民謡や行進曲、ワルツ、ポルカなどの舞曲のことだそうです。そういえばウィーンを紹介するテレビの旅行番組などでバックに流れているのを耳にしたことがあります。

さて、いつもそうなのですが、国内でも海外でも、旅先で食べるものの写真を撮ろうと思っているのに、まず実行できたためしのない私。運ばれてきた料理を見ると、食欲のほうが圧倒的な勝利を収めてしまい、今回も写真を撮るのはかないませんでした。

キャセイの帰国便で最新型ビジネスクラスシートを体験

2011年9月29日
今回のニュージーランド行き、フライトはキャセイパシフィックでした。羽田→香港→オークランド、そしてオークランド→香港と、すべてビジネスクラスではありましたが、ここまではどうにも不満でした。キャセイの空港ラウンジはたしかに素晴らしいのですが、肝心の座席がこれでは……と、乗るたびに思っていました。

ビシネスクラスの座席はシートの幅が広く、前後の座席とのスペースが十分にあり、リクライニングが最大限180度(フラット)に近いというのが基本条件ですが、キャセイのビジネスクラスは、座席の配置そのものが違い、窓を背に斜めにシートが配列されています。言葉は悪いのですが、棺桶を斜めに並べたような印象です。隣とはパーティションで仕切られているので、1人で乗るビジネスマンには好都合なのでしょうが、私たちのような2人連れにはちょっと……という感じが否めません。

座席の幅も、普通のビジネスクラスのそれよりやや狭い感じがしました。ただ、座席は180度になりますし、テレビが大きな画面で見やすいのもいいと思います。でも、なんというか落ち着かないのです。窓を背にしているせいでしょうか。

ところが、最後の香港→羽田便は素晴らしい座席でした。基本コンセプトは先のそれと変わりませんが、窓が前方横にあるので、何より落ち着きます。座席はやや斜めになっていますが、配席が左1+中央2+右1(通常は2+2+2のパターンが多い)なので、正方形のスペースに収めてあるので、窓側に大きな余裕が生まれます。それを利用して靴入れや書類入れなどのボックスが設けられ、テーブルも広々、テレビ画面も大きく、じつに快適でした。詳しくは、下記のウェブサイトをご覧ください。
http://www.cathaypacific.com/cpa/ja_JP/whatonboard/newbusinessclass

基本コンセプトが従来のビジネスクラス座席とまったく異なる故のとまどいもあったのですが、それまでの3回のフライト経験からすると、やはりアイデア倒れといった感じがしてなりません。しかし、4回目に乗った新型ビジネスクラスは、それを大きく改良したもので、うまく行ったのではないかと思います。

フィジー対サモア戦はハカの応酬

2011年9月25日
同じ南太平洋に浮かぶ島国どうしの対決、しかも両チームとも、試合開始前にハカを披露するということもあってか、チケットは早々に売り切れたそうです。
L1010814 当地のニュース番組でも数日前、そのことを報じていました。私たちも当初、この試合を観る予定はありませんでした。しかし、今日がたまたまポッカリ空いてしまったので、急遽、旅行会社を通じてチケットの手配をお願いしたところ、幸い2枚入手できたということで、さっそく買い求めたのです。

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南半球はラグビーの強豪が多く、ニュージーランド、オーストラリア、そして南アフリカと、3カ国がこれまでワールドカップで優勝を果たしています。アルゼンチンも前回のフランス大会で、大方の予想を裏切って3位に食い込みました。ふだんからそうした国々と相まみえているこの両国も実力的には日本より明らかに上を行っています。ただ、南国ゆえのアバウトさがあり、パスがいいかげんになったりすることも少なくありません。それでも日本は、同じようなラグビーをするトンガに歯が立ちませんでした。

雨模様だったこともあり、キックオフ直後から、どちらもパスミスが目立ちました。しかし、現時点ではサモアの実力が勝っているのはまちがいなく、徐々に差を広げていきます。両チームとも、その魅力はスピードです。サモアは選手が皆相撲取りのような体格なのですが、それでもスピードはすさまじいものがあります。

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フィジーはかつて「フィジアンマジック」という言葉があったほどで、教科書どおりとはほど遠い、変幻自在のパスまわしを得意としていたのですが、近ごろはそうした面影はなく、この試合ではサモアに圧倒されていました。ときおり見せる、スピードに満ちた突破力も、ここぞというところでミスが出てしまい、生かしきれません。結果は27対で7でサモアの勝利に終わり、予選プール突破に希望を残しました。

ワラビー、スプリングボックスの実物に遭遇

2011年9月23日
このところ、海外に出ると、できるかぎり動物園に足を運ぶことにしています。ベルリンで感動したのがきっかけですが、今回は初めて、南半球の動物園に行ってみました。

L1010733 オークランド動物園はさほど大きくはないのですが、中はひじょうに工夫されたつくりをしています。入口を入ってすぐにキリンと出くわしたのには驚きました。それも見物客のための通路が上にあるのです。キリンの背が高くても、通路からは見下ろす形になります。ロンドンの動物園もよく似ていましたが、向こうは、キリンがいる場所のまわりのごく一部に、階段を上って降りるスタイルの箇所があるだけですから、こちらとはかなり趣きが異なります。

L1010764 しかし、いちばんおもしろかったのはワラビー、そしてスプリングボックスという、南半球ならではの動物でした。日本ではせいぜいカンガルーまでしか見られませんが、さすがオーストラリアのすぐ近くですから、ワラビーがいるのも当然でしょう。ちなみに、ラグビーのオーストラリア代表チームの愛称はワラビーズといいます。また、スプリングボックスは、南アフリカの代表チームの愛称ですが、実物を見たのは初めてでした。

マオリ族について学んだこと

2011年9月22日
さて、今日はパイヒアをたち、2百数十キロ南のオークランドに戻ります。途中、ワイポウア・フォレストとカウリ博物館に立ち寄りました。ワイポウア・フォレストはさすがヒーリング・スポットといわれるだけあって、神秘的な雰囲気に満ちた森の中に立つカウリの巨木の姿には胸を打たれました。

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午前中は、ホテルのすぐ近くにある史跡(ワイタンギ)を訪れました。ニュージーランド発祥の地というか、1769年にイギリスの海軍士官ジェームズ・クック(ハワイを発見したことで有名)が初めて訪れたとされる場所です。以後、イギリスはじめヨーロッパ諸国の捕鯨遠征基地となり、移民も始まりました。その後、1840年にイギリスは、先住民族マオリとの間にこの地で条約を結び、直轄植民地としたのです。

L1010669_2 ただ、先にロトルアを訪れたとき、ガイドからマオリ族についていろいろ教えてもらったのですが、マオリ族自体、最初からニュージーランドにいたわけではなく、単にイギリス人よりは早かったということだと今日、知りました。もともとはポリネシのどこかから船に乗ってやってきたのだそうです。たしかに、その船はたいそう大きく、それを何艘も連ねてニュージーランドに上陸したわけです。ラグビーの試合前にニュージーランド・チームが披露するハカもマオリ族のものですが、踊りのスタイルは部族ごとですべて違っているようで、マオリ族の内部でも対立や抗争があったようです。

その後訪れたカウリ博物館が出色でした。ツアーの予定では、ランチを取るのに適当な場所がないのでしょうことなしに立ち寄るかのような印象しかありませんでしたが、どうしてどうして、これがなかなかの施設なのです。カウリの巨木は家具をつくるのには素晴らしい素材だったようで、それによって作られた家具も展示されていましたが、それもみな素晴らしいものばかりでした。

L1010666 マオリ族の風貌は、北海道にいるアイヌ、また琉球の先住民族ともどこか似ているところがあります。顔も含め、からだ全体に入れ墨をする風習があったようですが、それもアイヌと共通しています。おそらくははるか昔に流れ着いたか移動してきたのかわかりませんが、元をたどれば同じ民族だったのではないかと想像をかき立てられました。

トンガにも、やっぱり負けたJAPAN

2011年9月21日
今日は、予選プールで日本代表が勝てそうだと目されている相手トンガとの試合。そのためか、ニュージーランド戦をはるかに上まわる日本サポーターがスタジアムに駆けつけていました。パイヒアからバスで南へ1時間少々、フワンガレイという町にある素朴なスタジアム(ノースランド・イベンツセンター)は3万人収容ですが、おそらく1000人以上の日本人がいたでしょう。

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だが、しかし、です。今日もまた日本代表は、「らしさ」をまったく発揮できないまま負けてしまいました。ボールのハンドリングミスは相変わらず。パスも必然性に欠けるというか、パスのためのパスのような印象を受けます。家人はそれを見て、「勝てない時代の日本のサッカーと同じよね」というのですが、的確な表現だと思いました。なんというか、なぜ、このタイミングで、この相手に──その意図が見て取れないのです。

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トンガは世界ランクでは日本とさして変わりありません。しかし、体格的には日本を上まわっていますし、スピードもあります。ただ、プレーに粗っぽさがあるのが難点で、そこに日本のつけ入るスキもあったように思えたのですが、それと同じレベルでしか戦えませんでした。フランス相手のときはそこそこ戦えたのに、トンガのレベルに合わせてしまうものですから、日本の持ち味が出せるはずもありません。

試合前、ヘッドコーチのカーワンを先頭に代表チーム全員で、ヒーリング・スポットともパワースポットともいわれるワイポウア・フォレストに行ったそうです。ここには、樹齢2000年というカウリの巨木(タネ・マフタという)があるのですが、そのパワーを得て精神面を強化しよう(要は厄払いですかね)としたそうですが、それもとうとう実りませんでした。どうにも欲求不満の試合でしたが、あとはカナダ戦の勝利を祈るしかありません(おそらく負けるのではないかと思いますが)。

海辺の素晴らしいホテルに移動

2011年9月20日
今日でとりあえずオークランドを離れます。というのも明日の日本対トンガの試合は、同じ北島でも、さらに北にあるフワンガレイという町でおこなわれるからです。しかし、フワンガレイはごく小さな町で宿泊施設も少ないため、私たちはそこからさらに北に行ったパイヒアというところで泊まります。

バスでオークランドを出てすぐ、クメウというところにあるソルジャンズ・ワイナリーで、ワイン醸造の現場の見学がてらランチをし、そこからえんえん移動するのですが、やはり人の姿はほとんどありません。ただ、ロトルアへの道のりと違い山や丘が多いですし、そのぶん木々の姿も目立つので、それほど退屈はしませんでした。

L1010610パイヒアはニュージーランドでも屈指のリゾート地で、ベイ・オブ・アイランズの一角にある町。美しい海岸線、静かな湾がセールスポイントのようです。オークランドからたかだか200数十キロ北へ上がっただけなのにオークランドより気温も高く、世界各国から観光客が訪れるというのもわかるような気がします。 私たちが泊まるホテルは海っぷちにあり、窓を開けると目の前が浜辺という、素晴らしいロケーションでした。 しかし、フワンガレイを過ぎてから小1時間ほどの道は山また山で、それこそ夜になれば漆黒の闇といった感じです。今日は移動が夕方でしたのでまだよかったのですが、明日の試合が終わったあとの帰り道は……。

オークランドに坂や丘が多い理由

2011年9月19日
オークランドに来て今日で6日目、やっと市内観光をしました。たまたま、昨日ロトルア日帰りツアーのガイドをしてくれた方がまたまたガイド役で、しかも客は私たち2人だけ。最初からアットホームな雰囲気で、かなりわがままをしました。途中、海に近い超高級住宅街を走ったのですが、「実は私も、この隣のエリアに住んでいるんです」などという、ごくプライベートな話まで披歴してくれ、実際、ガイドさんの自宅の前を走ってくれました。

L1010390 これまでオークランドの町をあちこち歩きながら思っていたのは、とにかく坂や丘(高台)が多いなということです。ガイドさんの説明によると、オークランドの一帯はもともと、火山が噴火した跡にできた町なのだそうです。あちこちに見える丘は、大規模な噴火で吹き飛ばされた、山の一部とのこと。市内になんと40カ所以上あるという話えした。

L1010578 その一つ、標高196メートルのイーデン・マウンテンにも登ったのですが、頂上が展望台になっています。そこから360度のパノラマでオークランドの町全体が見下ろせるのですが、美しい海と複雑に入り組んだ海岸線が見えました。高層ビルがほとんどないため、見晴らしも抜群。アイルランドvsオーストラリアの試合を観た、ラグビーの聖地イーデンパークも見えましたが、住宅街のど真ん中にあることがよくわかります。つまりは、ラグビーが日常生活のごく一部であるということです。こういう国を相手に戦ったとしても勝てるわけがない──納得しました。

人はどこ? 目に入ってくるのは牛と羊だけ

2011年9月18日
今日はオークランドからクルマで3時間ほどのところにあるロトルアという観光地を訪ねました。地元旅行会社が主催している現地ツアーに参加したのです。日本列島と似て、島内に火山がいくつもあるニュージーランドには温泉も多く湧いています。ロトルアもその一つで、観光の目玉は間欠泉でした。

L1010550 間欠泉がある一帯は、温泉地独特の硫黄の匂いがただよっていて、目をつぶれば日本ではないかと錯覚しそうです。小さな池を取り囲むようにして、ときおり熱い湯と水蒸気を噴き出すのですが、あたりの岩に腰をおろして、その瞬間を待ちます、岩は地熱でホカホカ温かく、こういう楽しみ方は日本にはなさそうです。残念ながら、アメリカのイエローストーン国立公園で見られるような華々しい噴き上げは見られませんでしたが、それでも温泉地の雰囲気はそこそこ堪能できました。

それにしても、オークランドからロトルアまでの道のりときたら……。人が住んでいるのは最初の30分ほどだけで、それ以後3時間は牛と羊しか目に入ってきません。見渡すかぎり牧草地が広がっているだけで、それはそれは退屈きわまりない風景でした。情報として知ってはいましたが、実際にそれを体験すると、なんとも不思議です。街路灯も何もないのですから、夜走ればかなり不気味な感じがするでしょう。そうした中を走っている道路の制限速度が100キロというのには驚きました。カーブが多少きついところは60キロくらいになっているのですが、それもこれも交通量の少なさによるものでしょう。

L1010512 間欠泉を見たあと、マオリ族の迎賓館のような建物に立ち寄りました。古式ゆかしいセレモニーを済ませないと、中に入ることはできません。いまでこそ観光の一部になっていますが、本来は非常に重要視されていたものなのでしょう。それに参加すると、なんとなく改まった気持ちになるのが不思議でした。

アイルランド対オーストラリア戦に見たケルト魂

2011年9月17日
アイルランド対オーストラリア戦に見たケルト魂
今日はオークランド市内にあるイーデンパークで、予選プールでも注目の試合、アイルランド対オーストラリア戦です。雨模様の中、会場に着いたのは試合開始の2時間前。前日のワイカトスタジアムなど足もとにも及ばない本格的なスタジアムです。この国で「ラグビーの聖地」と呼ばれているのももっともだと思いました。

試合はアイルランドのケルト魂が炸裂し、優勝候補の一つに数えられているオーストラリアは序盤からたじたじ。試合もアイルランドの勝利で終わりました。大変な番狂わせです。

それにしても、ケルト魂の素晴らしさには脱帽するしかありません。アイルランドはもちろん独立国ですが、その一部はイギリスに含まれています。イングランドとは異なる民族で、長い間しいたげられてきたこともあり、反骨精神とでもいうのでしょうか、イングランドに対する敵愾(てきがい)心はことのほか強く、ラグビーの試合にもそれが露骨にあらわれます。そのあたりは同じケルト民族の国ウェールズ、スコットランドとよく似ており、それ故にこの三つの国の戦いぶりはしばしばファンをうならせるのです。

L1010494 タックルも低いですし、ブレイクダウンのときに展開される肉弾戦ではとてつもない粘っこさを発揮します。最近ではすっかりリッチな国になったオーストラリアも、イングランドの流れを引いた国ですから、アイルランドにとっては何がなんでも叩きのめしてやりたい相手。この日の試合はその気持ちがプレーにストレートに結びついたのでしょう、オーストラリアはほとんどいいところを見せられないままノーサイドのホイッスルを聞くことになりました。初めて目の当たりにした極めつけのケルト魂、その奥深さに改めて感動させられたナイスゲームでした。

予想どおり! ニュージーランドに完敗

2011年9月16日

緒戦のフランスとのゲームを落とした日本代表、昨日はオールブラックス戦でした。もちろん、勝てる見込みなどまったくありません。それでも、2005年大会の145対17という最大得点差の試合をされた屈辱を少しでもいいから晴らしてほしいという願いが日本人の私にはあります。

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試合会場は、オークランドからバスで2時間ほどのハミルトンという町にあるワイカトスタジアム。L1010397今回の大会は、予選プールの試合がニュージーランド全土でおこなわれるようになっています。といっても、どこもみな交通の便がそれほどよくないため、移動の手段はバスがほとんど。クルマとか鉄道もなくはないのですが、海外からやってきて、そうしたことに慣れていない私たちのような者にとってはバスしかありません。

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小さなスタジアムですから、会場はギッシリ満員。日本のサポーターも、圧倒的な少数派ではありますが、そこここにいます。残念ながら結果は83対7。内容的にもいまイチ、いやいま2でした。L1010433ニュージーランド代表チームは試合前にハカという短い踊りを披露するのですが、その迫力に負けないよう、日本代表は事前に周到な準備をしたと、地元の新聞には書かれていましたが、それも功を奏さなかったようです。L1010445_2

大事な場面どころか、なんで? と首をかしげたくなるようなところで単純なハンドリングミスをしたりペナルティーを犯したりなど、最初から最後までほとんどいいところなしといった感じでした。

しかも、このあとのトンガ戦やカナダ戦のことを考えてなのか、主力メンバーを温存、リザーブの選手を中心に起用していました。私にいわせるなら、ニュージーランドに対し失礼というか、せこいやり方ではないでしょうか。おそらく日本でもさまざま議論が起こるでしょうが、なんとも残念な一戦でした。

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ラグビーは、ニュージーランドの国技

2011年9月15日
昨日の夕方、羽田を出て香港経由でニュージーランド北島の中心都市オークランドに着きました。我が人生で3度目の南半球ですが、日本と季節が真逆なので、いまどきはちょうど日本の春本番前といったころ合いです。日本を出るときは半袖でしたから、空港のビルを出るとやはり肌寒く感じます。それでも、時差がわずか3時間ですから、アメリカに着いたときのような、頭がボーッとした風はまったくありません。それが救いといえば救いでしょうか。

ニュージーランドという国は、想像していた以上に都市的な交通基盤が整っていません。空港からオークランド市内に行くのも、バスかタクシーしかありません。私たちは、その中間的な乗合タクシー(こちらでは「シャトル」と呼ばれている)を利用して中心部にあるホテルに向かいました。シャトルは8~9人乗りで、客が行き先を告げると、空港に近い順でおろしていきます。料金は均一で1人20NZD。タクシーよりは断然割安です。

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空港からもうラグビーのワールドカップ(RWC)一色で、ホテルに向かう道路は、今回出場する20カ国の国旗で飾られていました。地元ニュージーランド代表=オールブラックスの旗を庭に立てている家、窓に貼っているビル。クルマも、オールブラックスの小旗を窓に付けて走っています。もともと大英帝国の植民地でしたから、イングランドやスコットランド、ウェールズの旗を掲げている家も少なくありません。近隣のサモアやトンガ、フィジーといった国々の旗も目につきます。

L1010388ラグビーというスポーツはサッカーと違い、基本的にイギリス文化圏のものです。サッカーもイギリスが発祥の地とされていますが、ルールが単純明解なせいか世界の隅々にまで広がり、そんなことを気にかける人などいないでしょう。これに対してラグビーは、ルールが難解と思われているせいか、いまでも数えるほどの国々でしかおこなわれていません。また、おこなわれていたとしても、競技人口がサッカーにくらべ圧倒的に少ないというのが現状です。

しかし、オーストラリアやここニュージーランド、さらにかつてイギリスの領土だったトンガやフィジーなどの小さな島国ではラグビーがしっかり根づきました。また、サモアは第1次世界大戦以降長らく、ニュージーランドの国連信託統治下にあった国です。ニュージーランドではラグビーが国技ですから、同じワールドカップでも、2007年のフランス大会のときと違い、その重みが圧倒的に違います。フランスでは、数あるスポーツの中の一つでしかなく、ワールドカップを開催していても、それ一辺倒ではありませんでした。ところがニュージーランドはまさしくラグビー一色。だからこそ、どこに行っても出場国の国旗が目につくのでしょう。

齢(よわい)57で農業デビューした弟

2011年9月12日
長野県東御(とうみ)市で今年からブドウ(巨峰)の栽培を始めた弟から、初出荷の品が届きました。うつ病を克服し、社会復帰の道をさまざま模索していた弟ですが、ひょんなことから農業に縁し、一昨年からかの地で、ブドウ栽培の手伝いを始めました。その時点では、まさか自分がその栽培を手がけるなどとは思っていなかったようですが、これまでの農園主が引退したため、とりあえずその後を引き継いでみることになったのです。

7月、軽井沢に行った際、様子を見にそのブドウ園に立ち寄ったのですが、300坪という広さに驚きました。それでも、ブドウの迂遠としては狭いほうだとか。まあ、初めての者にとっては手ごろなサイズなのかもしれません。それでも、ブドウの木が生え、一定の高さ以上にしないように手入れし、その下で作業に励む姿を目の当たりにしたときは胸が熱くなりました。前の農園主の背丈に合わせて、ブドウの木の高さも抑えられているため、その下で作業するとなると、中腰というか、なんとも中途半端な姿勢にならざるを得ないわけです。その姿を想像しただけで、「これは大変だわ」と感じます。

専門的なことは何度聞いても覚えられませんが、それはそれは面倒くさそうですし、何より自然が相手ですから、作り手の思い描いているように育つわけでもありません。台風や長雨、異常な暑さやらに襲われたら、実の大きさやそのそろい加減、甘さ(糖度)など、ありとあらゆる面に影響するそうです。しかも、すべて初めての体験ですから、送られてきた今年の初ものを見たときは、なんともいえない気持ちになりました。

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しかし、そのでき具合はどうあれ、私としては、弟が何年かぶりに「社会」と接点を持てたことに感動しました。もともとが土木設計という、農業とはまったく縁もゆかりもない分野で生きていた弟です。年齢(57歳)からしても、初めてのことにチャレンジする苦労は想像を絶するものがあったにちがいありません。それをどうにか乗り越えての〝デビュー作〟ですから、私にとっては無条件でうれしい、というのが正直な気持ちです。

さあ、待ちに待ったラグビーW杯がスタート!

2011年9月10日
昨日からラグビーW杯が始まりました。4年に1回のイベントですが、残念ながらサッカーほどのパワーには欠けているいようです。それでも、私のようなラグビーファンにとっては待ちに待ったW杯です。

開幕第1戦は、予選で日本と同じプール(組)に属している地元で優勝候補筆頭のニュージーランド対トンガ。予想どおりNZが41対10で勝ちましたが、ハイライトのビデオを観ていると、NZはまったくモノが違うことがよくわかります。かつて日本はそのNZに17-145という、1試合最多失点の大会記録となる大敗(史上最多得点差)したことがあるのですが、その理由がよくわかります。バスケットボールでいうブラインドパスをばんばん見せてくれますし、とにかく、そのスピードが違います。ボールが完全に体の一部分になっているというのが最大の特徴でしょう。

L1010379 今日は日本の第1戦、相手はフランスです。試合前、両国の国歌が演奏されるのですが、なんと歌もついているのには驚きました。でも、いいものですね、歌つきも。試合は、後半16分の時点では21対25まで迫る善戦を見せましたが、最後は自力の差が出てしまい、結局21対47で負けました。じつは、21対25の時点、スタンドオフのアレジがほぼ正面からのPG1本とコンバートをミスらなければ、5点加わっており、1点リードしていたはずなのです。アレジは今日、ちょっとさえがありませんでした。攻撃のときキックの使いすぎではないかと、私は思ったのですが。それでリズムが崩れてしまった風にも見えました。

さあ、私たちも14日にニュージーランドに出発します。今日の朝、旅行会社からチケットも届きました。全身全霊、声をあげて応援してきます!

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ロープ付き財布と携帯電話ホルダーで安心の毎日

2011年9月9日
財布を取り替えてから今日で1週間、携帯電話ホルダーを持つようになってから半月が経ちました。財布はソウルで買い求めたもので、革のロープ付きです。ズボンのループに固定し尻ポケットに入れて持ち歩く式なのですが、なんでまた?

恥ずかしい話なのですが、私には、どういうわけか財布をよく落とす癖があるのです。これまで覚えているだけでも4回、一度など、銀行から現金をおろしたばかりで、中に10万円以上は入っていたこともあります。現金は、気分を持ち直せばあきらめがつくのですが、後を引くというか、面倒なのはクレジットカードを無効にする届け出だの、免許証や健康保険証の再発行手続きです。これは経験してみないとわからないでしょうが、気持ちがひどく落ち込みます。「オレって、なんでバカなんだ!」と、自分で自分を呪いたくなってしまうのです。

実際に落とさずとも、飛行機のシートや映画館・劇場のイスにすわっている間に、尻のポケットから抜け落ち、シート(イス)の上に出ていたなどというケースはそれこそ数え切れません。

また、携帯電話も、これまでずっと、ストラップをつけて首からぶら下げていました。しかし、これもうっとうしく、最近では年齢のせいもあってでしょう、それだけで首筋が凝るような感じがしていたのです。真夏ともなると、ストラップに汗がしみてしまい、ぶら下げ心地の悪いことといったらありません。といって、ポケットに入れていると落としたりなくしたりするリスクがあるので、悩んでいました。それに、Tシャツや、最近流行りの胸ポケットのついていないポロシャツやワイシャツだと、タオルハンカチ、タバコ、ライターなどでズボンのポケットがぼっこりふくらんでしまい、不愉快になります。

そんな私を見かねた家人が半月ほど前、携帯電話用のホルダーを買ってきてくれました。ズボンのベルトを通すスタイルなので、落っこちるということがなく安心です。そのとき、「ついでに、財布も紐のついたものに変えたら」と半分冗談で口にしたのです。そういうものがあるのかと思い、さっそく探してみました。GOOGLEで「落としにくい財布」と入力し検索してみると、いくつかヒットしたのですが、ほとんどは金属製のチェーンの付いたものでしたが、中に、革製のロープ付きというのがいくつかあったのです。

しかし、日本のデパート、ショップをあたってみると、「旧モデルでいまはもう作っていない」との話。ガックリ来ていたのですが、ソウルの免税店で、ダメ元と思いながらたずねてみると、それと同じものをまだ売っていたので、即買いました。外国製なので、日本の並行輸入専門の通販ショップで買えなくもなかったのですが、それよりさらに安い値段で手に入れることができました。

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韓国から帰国し、さっそく使い始めたのですが、「これなら落とさずにすむ」という安心感も手伝ってか、心地のいいことといったらありません。また、携帯電話も、ホルダーのおかげで、これまでのように持って出るのを忘れるということがなくなりました。ベルトを通すスタイルなので、存在感があるのです。持つべき者はやはり家人ですね。ありがとうございます!