2011年10月28日
今日は、これも前日予約した、日本語ガイド付きの市内観光です。お昼近くにホテルを出発し、まず、プラハ最大の観光名所として知られるプラハ城に行きました。私たちがガイドに連れられて入城したのは北門。 この日はちょうどチェコの建国記念日(休日)にあたっていたため、正門周辺や城内にある大統領府の周辺では国軍も参加しての記念行事が朝からおこなわれていたようで、私たちが着いたときも、兵士の姿が目につきました。しかし、それ以上に多かったのが国内外からの観光客で、城の内外は人でいっぱいです。
城の内部には入れないのですが、その敷地の広さには驚きました。大きな教会や修道院が建っているだけでなく、屋敷や元の牢獄もあり、ひとつの街といった感じです。 職人たちの仕事場兼住居が軒を連ねていた黄金の小道は、「道」といっても、人ひとりがやっと通れるほどの幅しかなかったそうです(いまは拡幅されている)が、とても味わいのあるエリアでした。フランツ・カフカが住んでいたという家の前で写真を撮ったのですが、地下室を合わせても15坪、あるかないかでしょう。でも、優秀な作品はそうした条件とは無関係に生まれてくるもののようです。
驚いたのは、教会の中がことのほか明るかったことです。それというのも、天蓋に近い壁面部分に窓が大きく取られているからで、床のあたりからその窓のあたりまで延びるステンドグラスもえらく大きなものでした。絵柄も色彩もほかの教会とは趣きがかなり異なり、独特の印象を与えます。
広いプラハ城を抜け、車でもう一つの観光名所であるカレル橋に移動すると、ここも人でいっぱいでした。ヴルタヴァ川に架かる橋の両側の欄干には30もの銅像が建てられており、そのいちいちに「いわく」があるようです。驚いたのはフランシスコ・ザビエルの銅像と一体になっている日本人でした。
銅像のザビエルは二人の男に担がれていますが、二人とも、17世紀当時この地域でイメージされていた東洋人だそうです。ただ、頭には丁髷があり、腰には二本の刀を差しているところからすると、日本人ではないかとの説もうなずけないことはありません(顔はちょっと違う気がしますが)。
だとすれば、ザビエルとともに鹿児島に上陸し、通訳を務めながら布教に歩いたヤジロウ(薩摩か大隅出身の海賊といわれる)あるいは、来日したザビエルから洗礼を授かって信者となり、その後ともに布教に歩いただけでなく、ザビエルが日本を去っていったあとも同行、さらにヨーロッパに留学したという薩摩出身の日本人ベルナルド(洗礼名)ではないかということになります。ちょうど「鹿児島」の取材を始めようかというときなので、写真に収めておきました。
カレル橋のたもとに、とてもいい香りを放っている小さなカフェがありました。店の外に屋台のようなものがあり、そこで焼き上げられているお菓子(名前は忘れましたが、近ごろプラハっ子の間では大人気とのこと)の匂いです。 街中を歩いていても、焼いたソーセージや、それをパンでくるんだものなど、素朴な感じのおやつを売っている店や屋台があちこちにあります。どれも皆すこぶるいい香りで、つまらないスナック菓子を食べるよりよほどおいしそうです。
カレル橋から旧市街広場に移動、教会や、宗教改革で有名なフスの像などを見学、レストランやカフェ、みやげ物屋などがびっしり並ぶ一角に、正時を告げる旧市庁舎のからくり時計があります。 このあたりではいちばんの見もので、地上は何百人もの見物客でごった返しています。私たちは、その様子を正面にあるカフェの2階の窓から、コーヒーを飲みながら見ることができました。