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福江島の教会にはびっくり!

2015年5月16日

ツアーも今日が最終日。午前中はまず井持浦教会に足を伸ばします。日本で初めて「ルルド」が作られた教会として有名だそうです。「ルルド」とはフランス南部の町の名前ですが、その地の洞窟に聖母マリアが出現 、霊泉で人々の難病を治すなどの奇跡を起こしたことで、あちこちにこの洞窟を模したものが作られるようになったとのこと。

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教会自体は実に素朴で、戦国時代末期から連綿と伝えられるキリスト教信者のピュアな信仰心がいまでも息づいているようです。見学後、島の最西端に位置する大瀬崎断崖に。東シナ海に突き出た大きな断崖の突端に真っ白な灯台が見えるという触れ込みです。この日は霧がかかっており、もうダメかと思いましたが、見学中一瞬晴れ間があり、そのときだけは切り立った断崖とともに灯台が姿をあらわし、一同感激。

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そこから市の中心部に戻り最後に訪れたのが石田城(福江城)跡。江戸時代の最後も最後、1863年に築かれたものの、すぐに明治維新となったため、わずか9年ほどで解体されたといいます。お堀のほか、見た目にも新しさを感じさせる石垣と裏門だけが残され、「もったいないことをしたな」と。

L1020442午後3時前、城からすぐのところにあるフェリー乗り場から長崎に向けて出発。1時間ほどで長崎港に着き、そこからツアーにつきもののお土産屋さん。長崎なのでカステラ屋さんでしたが、そこでしばし時間を過ごす人もいれば、私のように、すぐ近くにある平和公園を散策する者も。しかし、こういうところというのは、まったくその気がなくても、結局あれこれ買い込んでしまうものなのですね。家人も、カステラやら何やらを手提げ袋ほぼいっぱいに買っていました。

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そこから空港に移動し、早めの夕食を軽く取り飛行機へ。羽田に着いたのは夜8時過ぎでした。3泊4日の定番コースなのでしょうが、おいしいところは漏れなく、また無駄なく訪問できますし、食事もこれまた定番ものでしょうが、おいしく食べられるのがツアーの利点でしょう。たまにはこういう旅もいいなと思いつつ、自宅に戻りました。

びっくり仰天、釜山からサイクリングで対馬に!

2015年5月15日
今日もまたいい天気です。朝、ホテルの前には北部の港からやってきた行商のご夫婦が。並んでいる魚の干物はいかにもおいしそうで、しかも安いこと(それでも、観光客相手ですから、地の値段よりは高いのでしょう)。いくつか見つくろって買い求め、友人・知人への配送をお願いしました。

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L1020334今日はまず、万松【ばんしょう】院という、対馬の歴代藩主(宗【そう】氏)の菩提が弔われているお寺です。居城であった金石【かねいし】城跡に隣接しているのですが、ほとんど閑古鳥が鳴いていました。しかし、巨大なお墓が立ち並ぶ墓所には圧倒されました。さすが、通信使の受け入れなど、朝鮮との外交をほとんど一手に取り仕切っていた宗氏の実力を感じました。

万松院の次は万関橋です。対馬はもともと陸続きの島でしたが、島の東側にある厳原から西側まで行くには豆酘【つつ】岬を迂回する必要がありました。ときには、船ごと陸を越え島を横断(何人もでかついだり、綱で引っ張ったりするわけです)することもあったといいます。いまも残る「大船越」「小船越」という地名はその時分の名残り。遣唐使や遣新羅【しらぎ】使もそうした場所を越え、西側の浅茅湾【あさじ】に入ったそうです。

しかし1671年、21代藩主・宗義真によって大船越の運河が掘られ、そうした不便が解消されました。この運河は伊達政宗が仙台に作った貞山【ていざん】運河(松島湾と阿武隈川を結ぶ)に次ぐ、わが国でも2番目に古い運河だそうです。

L1020359さらに、大船越の北にある万関瀬戸が1900年、海軍によって掘削されます。これは、対馬沖の日本海海戦で、水雷艇が浅茅湾奥の軍港・竹敷から東側に抜けるための運河(長さ300m、幅22m、水深3m)として設けられたものです。そこに架かっているのが万関橋。高さ32m、長さ100mの橋の上に立つと、よくもまあこんな険しい場所に運河を築いたものだと感心させられます。
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そのすぐ近くにあるお土産屋さんに立ち寄り、名物の「かすまき」というお菓子(こし餡をカステラ生地で巻いた素朴なもので、江戸時代、藩主をもてなすために考案されたそうです)を食べ終えて外に出ると、なんと、韓国からサイクリングでやってきた一団がいました。格好だけ見ると、日本人の若者たちかと錯覚してしまうのですが、話している言葉が違います。

聞けば、島の最北端には「韓国展望所」というスポットもあるとのこと。釜山までは距離にして49・5kmですから、天気がよくて空が澄んでさえいれば、釜山の北側にある山々も十分に見えることでしょう。それほどの近さですから、北東部にある比田勝【ひたかつ】港と釜山港を結ぶJR九州のフェリーも運航しています。南東部の厳原港とも結ばれているようですが、比田勝・釜山間は1日に2~3便、所要時間はわずか1時間10分(厳原でも1時間55分)ですから、自転車をかついで気軽にやってきても不思議ではありません。

大陸とそれほど近いわけですから、古くから対馬との間に行き来があるのはむしろ当然で、この島が、壱岐とも、もちろん九州北部とも文化が異なっているのは不思議でもなんでもないということになります。もちろん、いまとは違い、ちょっと風が強く波が高ければすぐにでも沈んでしまったのでしょうが、天気にさえ恵まれればいとも簡単に渡れたにちがいありません。

ふだんはおよそ「国境」などというものを意識することのない「日本人」ですが、ここまで間近に異国があれば、おのずと感覚も違ってくるはず。そのことをなんともリアルに感じさせてくれました。

L1020366万関橋から対馬空港に行き、長崎行きの飛行機を待ちます。長崎を経由して、最終目的地である福江島まで行く便に乗り換えるのです。長崎までは30分、そこから福江までまた30分、オリエンタル・エア・ブリッジというローカル航空会社のボンバルディア社ダッシュという小型のかわいらしい飛行機(39人乗り)でした。
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福江島は五島列島の南側にある大きな島。北側は上五島と呼ばれる島々ですが、どちらも戦国時代末に伝えられたキリスト教の教会が数多く残されています。午後の早い時間に福江空港に無事到着し、最初に行ったのは鬼岳展望台。阿蘇山麓に広がるかの有名な草千里を、それこそ百分の一くらいに圧縮したくらいの雰囲気です。500万年前に噴火したという火山・鬼岳の上に広がるこの一帯は芝生におおわれており、すがすがしい空気を吸い込める心地よい場所でした。

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そこから鎧瀬【あぶんぜ】溶岩海岸へ。ここもまた、鬼岳の噴火によって流れ出た溶岩によって作られたダイナミックな海岸です。夕方、カンパーナホテルという、港近くのホテルにチェックイン。夕食はかなり広い宴会場に超大きいテーブルが離れ離れに並べられ、各テーブルに2人ずつという贅沢なセッティング。おいしく魚介類、それと名物の福江牛をいただきました。

壱岐島内を観光ののち対馬へ

2015年5月14日
朝8時20分にホテルを出発し、今日の前半は壱岐の島内観光の続きです。もともとが小さな島ですから、1日もあれば十分まわり切れるのでしょうが、昨日はその3分の1程度ですから、見るべきスポットはまだまだあるのでしょう。

まずは半城【はんせい】湾を横目に見ながら黒崎へ。ここには太平洋戦争のときに作られた砲台跡がありました。東洋一の規模だそうで、対馬海峡を航行する敵の軍艦を攻撃するためのものだったとか。ちなみに、その前に見た半城湾は、日露戦争当時、入り組んだ海岸線を隠れみのに駆逐艦が停泊したところ。いまは真珠の養殖がおこなわれています。

L1020239黒崎をあとにしたバスは西から東に向けて一気に島を横断、ほぼ東端に位置する左京鼻まで移動します。その途中には、元寇(弘安の役)のとき元軍と戦って亡くなった少弐資時【しょうにすけとき】の墓がある公園が見えました。左京鼻は眺めのいい場所で、海岸線を見下ろすと海女【あま】たちが貝類を採るべく何度も何度も海に潜っている姿が。壱岐島には80人ほどの海女がいまも健在だといいます。

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ここまでで壱岐の島内観光は終わり。それにしても神社の数はハンパでない印象を受けました。バスで走っていても、右を見ると神社と古墳、左を見ても神社と古墳といった感じでした。『延喜式』には、西海道9国2島には107座98社の神社があったとありますが、そのうち壱岐だけで24座24社(対島が29座29社)あったといいますから、この2つの島で半分以上を占めているわけで、その多さがうかがい知れます。

島の北部の食堂で昼食後、郷ノ浦の港から対馬に向けて出発。フェリーで2時間少々走り厳原【いずはら】の港に着いたのが午後3時少し前。壱岐と違い対馬は全島が丘陵といった感じです。なるほど、太平洋戦争が終わるまでの間、この島が“海上の大要塞”とされていたのもよくわかります。元寇のときも2度とも、元軍に蹂躙された経験がそうさせたのかもしれません。いまはほとんど面影はないようですが、竹敷(対馬空港の、浅芽【あさじ】湾をはさんだ向かい側)は明治期、横須賀、舞鶴、呉、佐世保と合わせ「五大軍港」の一つに数えられていたそうです。

L1020285さて、港から城下町・厳原の町を北上、対馬を南北に分かつ運河の上に架けられた万関【まんせき】橋を渡り、和多都美【わたづみ】神社に。和多都美神社は名前のとおり、海の神を祀る神社です。潮が満ちてくると海水が本殿のすぐ近くまで流れ込んできます。逆に、引き潮のときは100m先の沖合までほぼ干潟のような状態で、そこに、参道を示すかのように鳥居が2つ建てられています。

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神社のあと烏帽子岳展望台を訪れ、夕方5時半ごろ宿泊先の対馬グランドホテルにチェックインしました。

壱岐・対馬・五島列島の旅へ

2015年5月13日
この1カ月というもの、原稿執筆でアリの這い出るスキもありませんでした。とりあえずのゴールをゴールデンウイーク明けに設定してはみたものの、なかなか想定どおりに進まないのがこの稼業。GW明けというのにはワケがあり、今日から、「手つかずの自然が残る九州の秘島 壱岐・対馬・五島列島めぐり4日間」というツアーに出かけることになっていたからです。

私としては珍しい団体ツアー(それも国内)への参加なので、スケジュールを自由気ままに変更するわけにはいきません。もともと以前から「いつかは行きたい」と思っていたコース内容でもあり、新聞広告でたまたま見つけたときは即決で、すぐ申し込みの電話を入れました。幸い、催行も決定したため、予定どおりの出発となりました。


今日はその1日目。早朝、羽田空港の団体カウンターに集まり点呼を済ませると、出発の時刻までは自由時間。その間に朝食を取り、まずは空路福岡へ向かいます。福岡空港から唐津東港までバスで移動し、そこから2時間ほどフェリーに乗って最初の訪問地・壱岐島の印通寺港に到着したのは午後3時過ぎでした。

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壱岐というのは、驚くほど平坦な島です。島というとなぜか山並+狭い平地といった地勢を思い浮かべてしまうのですが、そういう予断はフェリーが港に近づくころから打ち砕かれます。船を降りるとすぐバスに乗って、観光がスタート。まずは「原の辻遺跡(一支国王都復元公園)」を通って「一支国博物館」へ向かいました。

壱岐(かつては「一支」と表記していたそうです)は『魏志倭人伝』にも登場するほど長い歴史を持つ島です。2100年前、当時朝鮮半島を支配していた「魏」の使節が、北九州にあったと思われる「倭」の国(邪馬台国)をめざす途中、対馬と壱岐に立ち寄ったようです。そのため、島内には古墳が散在しており、その数は260を超えるとのこと。


それにより中国・朝鮮からさまざまな産業・技術・文化が持ち込まれ、壱岐でもいち早く稲作が始まったといいます。それを示すのが「原の辻遺跡」で、そこには東アジア最古という船着場跡があります。そうしたことから、壱岐の中心地(首都)がこのあたりにあったことは間違いないらしく、そこに遺跡公園や博物館が設けられたしだい。


博物館を見学したあと訪れたのは「岳ノ辻展望台」。壱岐でもっとも標高の高い場所、といっても213mですから、それほど高いという感じはしません。それでも天気がよければ対馬はもちろん呼子(佐賀県)まで見通せるといいますから、展望台を名乗るのに疑問をさしはさむ余地はないでしょう。

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展望台をあとにしバスで10分足らず走った郷ノ浦というところに1日目の宿(=ホテルステラコート太安閣)があります。海辺の丘に建つホテルのテラスからの眺めは最高。私たちにあてがわれた部屋は本館から一度外に出て海岸近くまで降りていき、そのすぐ脇に建つ別館のようなところだったので、よけいです。食事も島の名物がずらり並び、堪能しました。ホテルのすぐ近くに「春一番の塔」という場所があるのですが、これは1859年の春、強風(地元ではこれを「春一」と呼ぶ)で海難に遭って命を落とした53名の漁師を弔うためのもので、「春一番」という言葉はこの島で生まれたのだそうです。

外国人の多いことに感心

2015年5月7日

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今日でカンボジアともお別れです。午前中はホテルからクルマで1時間ほど走ったところにあるバンテアイ・スレイ遺跡へ。「東洋のモナリザ」で有名なところです。アンドレ・マルロー(作家・のちのフランス文化相)がそれを見て国外に持ち出そうとしたという話ですが、それもむべなるかな。なんとも魅力的な顔が彫られていました。

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最高気温は連日36℃以上。地表近くではおそらく40℃を」遺跡のいくつかを見てまわったのですから、体調に異常をきたすのはある意味当然かもしれません。

ホテルに戻り、シャワーを浴びて荷造りを済ませチェックアウト。シエムリアップ国際空港まではクルマで15分ほどです。空港に着いたら、トゥクトゥクに大きなスーツケースを積んでやってきた外国人のカップルがいました。どのあたりのホテルに泊まっていたのでしょうか。さぞかし足もとが狭かったのではないかと心配になりました。

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それにしても、アンコール遺跡は欧米系の外国人の姿が目立つところです。もちろん、日本人も多いですし、中国人、韓国人も目につきました。なかには、こちらに定住しビジネスに携わっている人も少なくないようです。私たちが、ガイドさんに連れて行かれたおみやげもの屋さんの店員はパキスタン人でしたし、マネージャーも北欧系の男性でした。日本人女性が起業したクッキー屋さんはいまでは、カンボジア国内にいくつもお店を展開、さらに各地の旅行会社と組んで、ツアーの客はかならずといっていいほどそのクッキー屋さんに連れていかれていました。

また、本国での仕事をうっちゃらかしてしまったのかわかりませんが、こちらで何かしらの方法で日々をしのいでいる外国人も多い感じがします。週に1、2回ホテルのレストランでバンド演奏をしている者もいました。なかには、タトゥーを入れていたり、どう見てもまっとうな稼業とは思えない人も。タイもそうでしたが、このテの、もろスピンオフしたという感じの欧米人が目につきます。


その点、日本人はまともで、きちんとした仕事やボランティア、NPO法人などで活動している人が多いようです。クッキー屋さん以外にも、居酒屋や食料品店、ミニスーパーなど、そこここに「日本」が見えましたから。

シェムリアップの空港は小さいながらも、世界中から観光客がやってきているところだけあって、けっこう立派です。ターミナルの建物と飛行機とをつなぐ蛇腹こそないものの、けっこう夜遅くまで便が行き来していますし、私たちが帰国する前日など、成田行きのチャーター便まで出ていました。


私たちのような前期高齢者層もさることながら、若い人の姿が多かったです。でも、実際行ってみてわかったのは、こういう場所は若いうちに来ておくべきだということです。年中かなり暑いようですし、そこを歩いてまわるのは大変です。外国人などもっと元気で、40℃近い中を自転車に乗って走り回っていましたから。

「アンコール」遺跡で有名なのは「ワット」と「トム」の二つですが、実際には100を越えるスポットが散在しています。ここへ来て1週間とか10日間とか滞在し、その間、朝となく昼となく、ガイドの世話にならずに、そうしたスポット片っ端から訪れている欧米人も少なくないようです。こちらに居ついてしまうのは、そうした中で、母国よりも居心地がよさそうだと感じた人たちなのでしょう。

シェムリアップからLCCのJETSTAR便でシンガポールへ。2時間ほどで着きましたが、日本行きのANA便の出発まで3時間以上あります。チェックインを済ませると、まずは食事。そのあとでラウンジに入ったのですが、ANAはシンガポール航空のそれを拝借しています。ところが、これがめっぽう充実していました。世界ナンバーワンといわれる香港のキャセイパシフィック航空も真っ青といっても過言ではありません。こんなことなら、わざわざお店でお金を払って食事などしなくてもよかったと後悔してしまいました。

ただ、そのお店(中華料理)もけっして悪くはありませんでした。「Seafood Paradise(楽天海鮮)」という名前でしたが、店構えは立派ですし、味や材料のわりに価格もそれほど高くはありません。バンコクの空港にあった「金グループ(ラーメンがメインのお店)」とけっこういい勝負かも。

ネットで調べてみると、ちゃんと出ていました。「Seafood Paradiseは2002年、当時25歳だったEldwin Chua氏と弟のEdlan氏がDefu Lane工業団地内のコーヒー・ショップに開いた海鮮料理屋。兄弟2人で切り盛りする25席ほどの小さな店だったのだが、兄のEldwin氏が考案したクリーミー・バター・クラブが大ヒット。以来、パラダイス・グループは当地で7つのコンセプトのもと、20店舗近くを展開する大手中華料理チェーン店として成長を続けている」(AsiaX GOURMET『シンガポール「飲食店」情報』)のだそうです。店員のしつけもいいですし、何よりインテリジェントを感じさせる店でした。

 

チャンギー空港で感心したものの一つが喫煙コーナー。「コーナー」などというちゃちな代物ではなく、一大スモーキングサロンの感があります。しかも、滑走路に面したエリアにしつらえれているため、大きな窓が外に向けて半分開かれており、まあ、空気のきれいな(!?)ことといったらありません。たまたま私たちが乗る便の出発ゲートに近くにあったのでよけいですが、チューリヒの喫煙コーナーもこれにはかなわないでしょう(もっとも、チャンギーも、もっと数が多ければ満点なのですが)。

 

ワットより多少は涼しいトム。でも……

2015年5月6日

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午前中はトゥクトゥクでオールドマーケットまで行ってみました。おみやげ屋はもちろん、レストランやカフェもいやというほどたくさんあります。昨夜のミスチョイスを改めて思い知らされました。マーケットの一角でTシャツやらアリババパンツなどを買い、ホテルに戻ります。

今日の観光は「アンコールトム」。クルマで行きました。暑い中にもかかわらず自転車で走りまわる欧米人が多いのには驚きます。それでも、アンコールトムは昨日のワットに比べると、建物の中を歩くことが多い分、暑さも多少はしのぎやすい感じ。

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昨日も今日もガイドはカンボジア人です。現地でのツアーを予約する段階で「日本語ガイド付き」をリクエストしたのですが、2人ともまずまずのレベル。「どこで日本語を勉強したのですか」と聞くと、「シェムリアップの山本学校です。授業料はかかりませんでした」と答えます。「山本学校」というのは、カンボジアで現地ツアーの手配を専門に営業している旅行会社の会長(山本宗夫氏)が私財を投じて1996年3月に設立した「山本日本語教育センター」のこと。カンボジアの各地から選ばれた学生が、3カ月もしくは1年間という2つのコースのどちらかで日本語を学んでいるといいます。日本語を学んだあと、ガイドの国家試験に合格した者がこの仕事を務めているわけです。

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夜はオールドマーケットで夕食をと思い、けっこう客の入っている店を選びましたが、またもやハズレでした。

ただ、2日目にしてようやっと暑さにも慣れてきた感じがします。

日本人に大人気の世界遺産「アンコールワット」

2015年5月5日
午前中はホテルの近くを見てまわろうと、ホテルの前に立つと、スタンバっているトゥクトゥク(3輪タクシー)のドライバーが声をかけてきました。ホテルの周辺をひととおりまわってくれるように頼んだのですが、料金は10ドルとのこと。いわれるがままに乗り1時間ほど走ってもらいました。ガイドブックに紹介されている川はほとんどドブ川の体。熱帯地方特有のモワーっとした空気、未舗装の道路など、1時間ほど回っただけで、体中ホコリだらけになった感じがします。

午後からは、日本人にいちばん人気のある世界遺産「アンコールワット」へ。午前中も乗ったトゥクトゥクです。15分ほどで到着しましたが、建物が立ち並ぶところまでは日をさえぎるものは皆無。ペットボトルの水がどんどん減っていきます。もちろん、素晴らしい美しさですし、そのスケールの大きさにはただただ感動するばかり。

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それにしても、暑さにはほとほとまいりました。ガイドさんの話によると、1年でも4・5月はいちばん暑いそうです。10分動いては5分休憩といった感じで。メニューには夕日の鑑賞が組み込まれていたのですが、とてもそんな体力はなく丁重にお断わりし、早々にホテルに戻りました。

夜は徒歩5~6分のところにあるレストランへ。ガイドブックに紹介されている店です。ところが、ホテルを出るとすぐスコールが降り始めました。近くの別のホテルのロビーでしばらく雨宿りをしていたのですが、いっこうにやむ気配がなく、結局トゥクトゥクを拾ってて移動しました。その店はなぜか、前も中も真っ暗。電気が来ていないのではという雰囲気で、テーブルも厨房もすべてロウソクの明かり。迷ったあげく、結局そこに入ったのですが、味は案の定いまイチ、いま2でした。

日本とは大違いの暑さ、それもむしむししているので、体がまだついて行けない感じがするところへまずい食事ときては、どっと疲れるのも当然でしょう。寝る前にバーでビールとカクテルを飲って早々に就寝。

最後までアウト! リッツ・カールトンの情けないサービス

2015年5月4日
最後の最後まで、リッツ・カールトンはやってくれます。32階でチェックアウトしたのですが、最後の最後まで「今回は申し訳ありませんでした」とか「本当に失礼いたしました」といった謝罪の言葉はなく、営業的なスマイルで「よい旅を」と声をかけただけ。シンガポールという国は国民のインテリジェンスが高いとされています。しかし、このリッツ・カールトンにかぎっては、「ハイ・インテリジェンス&ロー・ハート」でした。

今日はカンボジアのシェムリアップに移動する日です。LCCのタイガーエアは非常にスムーズに乗れました。事前にチェックインを済ませておいたからです。それと驚いたことが一つ。日本ではまず手荷物の検査を受け、その後で出国手続きという順番ですが、チャンギー空港では手荷物の検査がありません。というか、出国手続きを終えるすぐゲートまで行けます。そのゲートの中で手荷物検査があるのです。ですから、長~い行列はあり得ません。

L1010918バンコクで乗り換えなのですが、一度タイに入国した上で、再度バンコクエアウェイズ(これもLCC)の便にチェックイン。2時間ほどのタイ滞在なのですが、パスポートには二つのスタンプが。カンボジアのシェムリアップまではひとっ飛び。

空港に到着すると、入国手続きの前にビザをもらいます。あらかじめ用意しておいた写真と30ドル(一人)を渡すと、ものの5分でビザを貼ったパスポートが返ってきます。

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頼んでおいた迎えのクルマでホテルまで20分。空に浮かぶ美しい満月がなんとも印象的でした。緯度が低いせいでしょうか、月が心なしか低い位置に浮かんでいます。ホテルは熱帯リゾート風の造りと雰囲気。チェックインのときに手渡されたおしぼりに感動。またレモン風味のジュースもありがたかったです。食事はホテルのレストランで食べましたが、これがめっぽうおいしく大満足。

MRTの表示は、日本も真似たほうがいいのでは

2015年5月3日
朝食後、まずはギャレットの店があるというサマセット駅まで。前は町の通りにある屋台の趣でしたが、えらく出世して、MRTの駅の上にあるショッピングモールの中に。相変わらず行列ができていました。

L1010877次に市庁舎駅へ。ここを起点に歴史地区を歩こうと、聖アンドリュース教会から南へ下り、最高裁判所、市庁舎を見て、さらに南へ。川岸はあっちもこっちも工事中でした。このあたりはシンガポール発祥の地といった趣で、いちばん古い鉄の橋やフラートンホテルなどがあります。そこから北西へ川沿いを歩いていくと、一風変わった雰囲気のエリアが。看板も漢字がほとんど見えず英語ばかりです。どの店も欧米系の客が昼間からガンガン飲んでいます。英国のニューカッスルからサッカーチームが来ているようでした。

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L1010894そこから橋を渡って、BODビルへ向かいます。目的は、60階にある「四川豆花飯荘」。東京・丸の内にある店ですが、その本店です。その中にある「茶芸館」で「ハイティー」を。8品から成るおやつといった感じで、お茶が、ウーロン、ライチー、白毫銀針茶と3種類出ます。すべてとても美味。何より量がちょうどよかったです。8種類の味が少しずつ楽しめ、大満足でした。

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L1010898そこを後にし、ホテルに向かいます。シンガポールのMRTは、駅が広くて明るいのが特徴。台北のMRTとよく似ています。それと、表示がわかりやすいのもいいです。日本は「□□行き 何時何分」とあるのに対し、シンガポール(というかほかの国はどこも皆同じで)「◎◎行き ●MIN」「△△行き ×MIN」とあるので、いちいち時計を見て時刻を確認する必要がありません。ワンアクション少なくて済むのです。この点についてはガラパゴス状態といっていい日本は、見習ったほうがいいのではないでしょうか。

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もう一つ、それと関連しますが、改札口の手前にも同じような表示が出ています。時計を見ながら改札を駆け抜け、ホームに着いたらちょうど電車のドアが閉まったところだったなどという悔しい目に遭うことはありません。「2分後に出るのなら走っても意味ないな」とわかるので、無駄なエネルギーを使うこともないというわけです。

夕方からマリーナベイサンズへ。途中で夕食にしようと、探し回りましたが適当な店がなく、結局ピザ屋で済ませました。そのあともうひと勝負して、私は昨日・今日とタダで遊んだどころか、トータルでは少しプラス。逆に、家人は今回大負け。でも、楽しく遊べてよかったです。シンガポールはまだ総じてナマのテーブルゲームが人気なようで、その分、マシンがいまイチの感がしました。

ユニバーサルとカジノの組み合わせに感心

2015年5月2日

 

昨夜に続き、ホテルでは今日も出鼻をくじかれるできごとが。朝食をとるため、32階のクラブラウンジまで上がってみると、2組4人の先客が入口で並んでいます。私たちも部屋番号と名前を聞かれ、「いま混んでいるので1階のレストランではいかがですか」と。お勧めに従って降りてみたら、こちらはなんと20人近くの行列が。「上のクラブラウンジの方にいわれて来たのですが、並ばなくてもいいのでしょうか」と質問したら、「いえ、そういうことはございません」とつれない返事。「なーんだ」ということでまたまた32階へ。こんどはすんなり入れました。

 

それにしても、ラウンジ入口の係員がしばしば姿を消してしまう理由がよくわかりません。「ちょっとお待ちを」といい残し、すぐどこかに行ってしまうのです。耳につけているインカムはいったいなんのためなのでしょうか? 私たちのあとからもラウンジ入口には何人もお客が来ていましたが、困惑した顔をしていました。

 

L1010831ようやく朝食を済ませ、MRT(地下鉄)でまずアラブストリートまで行きました。ここは初めて行くところです。モスクもあり独特の雰囲気を醸【かも】しています。続いてチャイナタウンへ。ひとつ前の駅で降りて歩き始めたのですが、なんだか見たような景色です。ヒンドゥー教寺院もあり、さらに歩いていくと、ますます見覚えのある景色が。そのあたりから、2年前に来たときその一帯を歩いたことがあるのに気がつきました。

 

 

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L1010845すぐにとって返し、ランチにしようと、予定していた店のほうに向かいました。行く途中、かつては人力車のたまり場だったことを示す看板を見つけ、古きよき時代の風情を感じたり。
目標は、チャイナタウンの端っこにある「京華」という店。餃子が絶品だそうですが、評判どおりえらくおいしかったですよ。繁盛しているのでしょう、隣の店舗も一緒に借りているようでした(中ではまだつながっていない)。

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食事を済ませたあと、MRTに乗って終点まで。そこでセントーサ島まで行くモノレールに乗り換え、ユニバーサルスタジオとカジノが一緒になっている駅で降ります。子どもはユニバーサル、親はカジノということなのでしょう。荷物をロッカーに預けるのに15ドル。外国人なのでパスポートのチェックを受けてから中に入ると、マリーナベイサンズより広くゆったりしていました。マシンも新しいものがまずまずそろっており、いい感じです。5000円くらいで始めたのですが、この日の私はバカヅキで2時間ほどで10万円まで増えました。しかも、そこでやめたので大勝ちです。やったーっ!

 

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夕方までカジノで遊び、タクシーでオーチャード通りのマンダリンホテルへ移動。お目当ては家人の大好きな海南鶏飯。私はホワイトカレーを。こちらも出色の味。

 

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前回来たときに知ったギャレットのポップコーンの店を探したのですが、結局見つからずあきらめてホテルに。ネットで調べたら、別の場所に移っていることがわかり、明日行ってみることにしました。

ホテルのチェックインでつまずき、どっと疲れが……

2015年5月1日

L10108242007年11月、2013年2月に次いで、家人とは3回目のシンガポールです。チャンギー国際空港からタクシーでホテルへ。今回はかなり奮発、リッツ・カールトンに泊まることにしました。
ところが、です。着くやいなや、とんでもなく不愉快な経験をしてしまいました。カードキーの不具合で、部屋に入るまでに1時間以上もかかったのです。

その前兆は、3階のチェックインカウンターですでにありました。タクシーでホテルに到着、ベルボーイが出てきて荷物を運びながら「チェックインですね? お名前は」と聞きながら、カウンターの前まで案内してくれました。そこで待つこと10分。いざカウンターのところまで行き、パスポートを見せたところ、「クラブラウンジのお客様なので、32階でチェックインできますよ(してください)」と。10分も待ったのですから、そのまま手続きしてくれればよかったのにです。「気が利かないなぁ……」と思いました。

ただ、こちらも、「クラブラウンジ」ならば冷たいおしぼりでもサービスしてくれるのではないか、お茶の1杯でも飲めるのではないかと、色気を出したものですから、32階までエレベーターで上がりました。ただ、2席しかないカウンター前のイスには先客が。そのまますぐ奥にあるラウンジに案内され、「何かお飲みになりますか」と聞かれたので、当方はビール、家人はアップルジュースを。

のどをうるおしながら待つこと10分、係員がテーブルのところまでやってきてキーを渡してくれました。チェックインの用紙にサインすればいいだけだったので、そのまま30階に。3005号室のドアをカードキーで開けようとしたのですが、もらった3枚とも作動しないのです。

たまたま廊下を通りかかった従業員に、「キーが作動しない」といってカードを渡しました。その彼が3枚すべてトライしてみたのですが、やはりダメでした。彼の持っていたカードでとりあえず部屋の中に入ることはできました。彼は最初、「ここにいらしてください。キーを直させて、お持ちしますので」といってくれたのですが、たまたま、予約していたはずのマリーナビユーの部屋でなかったこともあり、ついでに部屋も替えてもらおうと、その申し出を断わり、荷物を持って再び32階まで上がりました。ここまででさらに20分が経過。

32階のクラブのデスクにいたスタッフに、「作動しない」といってカードキーを渡しました。そして、「予約した部屋と違うので、変更を」とも。すると、「いえ、マリーナビューのご予約は頂戴しておりません。もしご希望なら、1泊だけ、スイートが空いていますが、どうされますか」とのこと。しかし、途中で部屋を替わるのも面倒なので、それは辞退しました。

キーを受け取り、再び30階へ。ところが、またそのキーが作動しないのです。エレベーター近くにあった電話から「3005号室のキーが作動しない。これで2回目ですよ! 至急なんとかしてください」と告げると、「わかりました。しばらくお待ちください」と。しかし、5分待ってもだれも姿をあらわしません。しびれを切らし、32階まで上がり、「キーが作動しない」旨を告げると、すぐ直してくれました。

「ホテルに到着してからすでに1時間が経っている。まだ部屋に入れない。どうなってるのですか、このホテルは!?」とひと言苦情もいい添えました。30階まで降りて部屋の前まで行くと、さっきの電話に対応したと思われる従業員がようやく、新しいカードキーを持ってきたのですが、32階で直してもらっていたので、お引き取り願いました。ただ、部屋に入るのに1時間とは! もう信じられません。

とりあえず荷ほどきをし、ノートPCをチェックしたあと、気分直しにと、歩いて10分ほどのところにある、マリーナベイサンズへ行きました。ちょっとギャンブルでもと思ったのですが、マカオに比べマシンがどれも古いタイプでいまイチの感があります。それと、人が多いせいか、なんとも狭苦しいこと。2年前、初めて行ったときはそれほど感じなかったのですが……。カジノの一角で軽い夕食を済ませ、10時過ぎにホテルに戻りました。もちろん、こんなツキのない日ですから、負けましたよ。

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『KANO』、観ましたよ!

2015年4月8日

去年台湾で大ヒットした映画『KANO 1931 海の向こうの甲子園』を観ました。「KANO」は、台湾に戦前あった嘉義農林学校のこと。中等学校野球(いまの高校野球)は戦前、日本が統治していた台湾をはじめ、朝鮮、満州からも代表校が出ていましたが、嘉義農林は1931年、台湾代表として初出場を果たします。それまで一度も勝ったことがないチームを、かつて強豪・松山商業(愛媛県)のコーチとして甲子園で戦ったことのある近藤兵太郎が監督として率いることになり、なんと1年で甲子園に出るまでに成長させていくというストーリーです。

 

当時の甲子園も、いまと負けず劣らずすごかったことがよくわかりますが、私自身は、台湾と日本のつながりをまたまた学ばせてもらった点で、とてもよかったと思っています。原住民(高砂族)と中国人、そして日本人の3民族が一緒のチームでプレーすることの難しさも当然あったのでしょうが、それはおそらく台湾だけのはず。朝鮮や満州ではせいぜい2民族でしょうから。スポーツに民族の違いなど関係ないことも、この映画を観るとよくわかります。

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台湾からはプロ野球にもけっこう多くの選手が輩出しました。この映画にも出てきた呉昌征(呉波)は、私も子どもの時分から名前だけは知っていた選手です。映画の最後、文字と写真でその後のエピソードを紹介する場面がありましたが、そこにも登場していました。たしか、裸足でプレーしたので話題になったと、どこかで読んだ記憶もあります。

 

プロ入り(最初は巨人、のちに阪神)してからは投手と野手の両方の2刀流も務めたこともあるそうで、いまでいうなら日本ハムの大谷と同じ。戦前は好打・俊足の外野手として名を馳せ、首位打者を2回も取っています。ところが戦後、プロ野球はどのチームも選手不足でした。そのため、外野手だった呉も、その強肩を買われピッチャーをさせられたのです。それがなんと、戦後初めてのノーヒットノーランを達成するなど大活躍(http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1206/kiji/K20120616003458240.html を参照してください)。そうした功績もあって、外国人として初めて野球殿堂入りも果たしています。

 

初出場にもかかわらず甲子園では決勝まで進み、中京商業に敗れた嘉義農林ですが、最後までマウンドに立っていたのが呉明捷。こちらは卒業後早稲田大学に進み、打者として活躍、1936年春のシーズンで通算7本目のホームランを放っています。これは、東京六大学野球のタイ記録で、1957年に長嶋茂雄(立教大学)に更新(8本)されるまで破られませんでした。

 

映画の中に出ていた八田與一は、前もこのブログで触れたことがありますが、台湾に多大な貢献をした技術者です。嘉義から台南県にかけて広がる大きな嘉南平野は、水不足のためほとんど不毛の地だったそうです。その一帯の灌漑事業に取り組んだ八田は、烏山頭に当時としては画期的なダムを建設、それによってこの平野は大穀倉地帯に変わったといいます。八田の存在なくして今日の台湾はないといっても過言ではないでしょう。実際、地元の人たちの間ではいまなお神様のように崇【あが】められ、歴代の総統も彼の墓参に訪れるとのこと。近いうち、烏山頭をぜひ訪れてみようと思いました。

 

太平洋戦争で日本の無条件降伏で終わるまで、この台湾と朝鮮、そして満州(中国東北部)は日本の統治下にあったわけですが、台湾だけは、日本に対し総じて好意的です。その背景にはこうしたことの積み重ねがあるのでしょう。

 

ラジオに出演して、高校時代の仲間と新潟の温泉へ

2015年3月29日

Photo3月27日はチョー早起きして、有楽町へ。ニッポン放送の朝の帯番組『垣花正のあなたもハッピー!』に出演させていただきました。2月13日に同じ局の『テリー伊藤のフライデースクープ そこまで言うか』という番組に出させていただいたときも同じテーマだったのですが、ネタは「県民性」です。 

この時期、「県民性」はけっこうメジャーなテーマになりやすいのですね。年度が替わって人が入れ替わるからです。あちこちで、新しい人との出会いがあるこの時期、そのとき格好のテーマになるのです。「どちらのご出身ですか?」「えーー、私はどこそこ県の出身で……」という話があちこちで出ますから。

 

でも、拙著の多くをすでに読んでくださっていたという垣花さんのお話はうれしかったです。「県民性」が好きというのも変ですが、強い興味を抱いているという人はかなりいることがよくわかりました。いつもお話するのですが、少なくとも血液型占い(4パターン)や星座占い(12パターン)よりは信憑性が高いと思っています。最低でも47パターンはありますからね。もちろん「占い」とはまったく違いますが、といってサイエンスでもありません。経験値やざっくりした傾向性のようなものではありますが、やはり的中率は高いのではないかと思っています。 

8時50分から9時半ちょい前まで出演し、そのあとは八重洲口の喫茶店で新聞を読んだり、原稿の構想を練ったりして過ごし、正午に「銀の鈴」に行きました。ここで高校時代の仲間4人と待ち合わせ、新潟に行くのです。新幹線の車中で昼食を兼ねた小宴会をということで、大丸地下の食品売り場をおじさん5人でウロウロ。各自の昼食と別に、ビールにワイン、つまみ用の食べ物を買い揃え、MAXときに乗り込みました。

 

予想と違い、列車は大変な込みようで指定席が取れなかったので、自由席(春休みのさ中だということを忘れていました)。当然、並ばなければすわれませんので、発車30分前にはホームに上がり並んでいました。仕切り役のMくんが「ふたてに分かれて動こう。狙いは1階の車両(MAXなので2階建て、2階より1階のほうが眺めが悪いので当然こちらのほうが籍の埋まるのが遅くなる)」と言うので、それにしたがって、すばやく動き、1号車の出入り口付近に3席×2=6席をGET!

  

L1010730発車ベルが鳴る前にもうビールの栓を抜き、さっそく小宴会がスタート。あっという間に新潟着で、そこから特急「いなほ6号」に乗り換えて白新線の豊栄まで。そこからさらに、旅館差し回しのマイクロバスで20分ほど走り、4時前には到着。月岡温泉の「華鳳」という、えらく立派な旅館でした。

 

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温泉→食事→尽きることのない話→再度の温泉という流れで、床に就いたのは12時前。ただし、日頃の生活パターンで10時過ぎには眠っていた者(Sくん)もいます。翌28日Sくんはいつもどおり、午前4時前には起床、4時からスタートする大浴場に。もう1人のMくんも早起き組みの1人で4時過ぎには早くも起床し、温泉へ。というわけで、5時半には5人中4人が目を覚まし、朝の酒盛りです。

 

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そのうちの一人N君は、この日の夕方、成田からアメリカのヒューストンに出張ということで、朝ごはん抜きでチェックアウト。Mくんも午後3時から新国立劇場でオペラ鑑賞の約束があるということで早々に引き揚げました。残った4人で恒例の社会科見学となり、今回は「豪農の館(北方文化博物館)」に。「北方文化」とは、東京から見て「北の方」という意味だそうです。

L1010742旅館からタクシーで30分足らずのところでしたが、戦前は3000人近い小作農を抱えていた豪農・伊藤文吉の屋敷(敷地8800坪、建坪1200坪、部屋数65)をそのまま改造した施設ですが、まあとにかくすごいところでした。ぜひ、ウェブサイトをチェックしてみてください。
http://www.hoppou-bunka.com/museum_gou.html 

 

 

L1010746ウェブサイトにはこうあります。「昭和20年(1945年)8月の終戦直後、伊藤邸土蔵内に旧日本軍の隠匿物資があるという情報で、進駐軍のライト中尉が調査に来ました。調査で会話を交わすうちに、偶然にも七代文吉がライト中尉のペンシルバニア大学の先輩であることがわかり、それ以後、ライト中尉は伊藤家(北方文化博物館)に絶大な支援を与えてくれることになります。ライト中尉は北方文化博物館草分け期の素晴らしい後援者となりました。……」

 

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アメリカの大学の先輩・後輩がよくもまあ、こんなところで、しかもこのタイミングで出会ったものだという不思議な運命を感じさせられましたが、その後、昭和63年、このライト中尉をこの地に招いたというのですから、この施設に寄せる伊藤家の思いの強さを感じさせます。

 見学を終え、バスに1時間乗り、新潟市内へ。駅前の寿司屋でランチを兼ねての酒盛り。3時ごろ、新潟を出発し、大宮まで帰る着いたときは夕方5時半をまわっていました。もちろん、新幹線の中でもワインを空けたりしたので、着いたときはもうかなりのヘベレケ状態。自宅に帰り着いたときは疲れだけが残っている始末でした。 

相変わらず大混雑の浅草ですが

2015年3月23日

Attachment月に3回ほど通っている温熱療法のため、浅草に行きました。ここ2年ほどずっとそうですが、今日もまた大変な数の外国人でにぎわっていました。「ASAKUSA」はいまや世界的なブランドですから、よくわかります。それにしても、「VISIT JAPAN」キャンペーンは大当たりのようですね。やはり円安が利いているのでしょう。

これだけ多くの外国人が足を運んでくれるのですから、地元にしてみればなんともありがたい話です。ただ、いい場所に店をかまえて外国人観光客にも入ってもらおうというのなら、少なくとも「ENGLISH MENU AVAILABLE」を掲げ、きちんとしたものを用意してほしいなぁと思います。「いまごろになって」とか、「遅すぎる」とはいいませんが、こういう地道な手間を惜しんでいてはいけないのではないでしょうか。難しいことをたずねられても、それを見せながら、「You can read……OK?」とでもいえばいいのですから。


台湾は、どんな田舎、こんな場末の屋台でというようなところのおじちゃん、おばちゃんでも日本語がほぼOK。青い目の外国人には英語でやり取りしていました。根性が違うというか、世界中どこででも商売をしてきたCHINESEの強さを感じさせられます。


その点、日本はどうなのかなぁと心配でなりません。都会はこれから先、急速にこうした準備が進むはずです。東京都も政府も必死ですから。でも、「2020」を「東京」だけで終わらせてしまうのはあまりにもったいない話ではないでしょうか。東京で競技を観るのも目的の一つにちがいありませんが、それ以上に、「日本」全国に足を運んでもらい、いろいろな場所を観て、いろいろなことを経験してほしいと私は思います。

それには、最低限の英語がマストツールでしょう。受験英語とはまったく違う中身ですから、ちょっとトレーニングすればOKのはず。

事のついでに、公共輸送機関で使われている言葉について触れておきましょう。台湾で使われている言語は、いわゆる中国語です。当然、台北市内とその周辺を走る地下鉄MRTでも、車内には中国語のアナウンスが流れています。

ただ、アナウンスを聞いていて「ちょっと長すぎないか?」と思う人もいるのではないでしょうか。よく聞くとわかるのですが、実は4つの言語が使われています。ただ最初の3つは、その違いが歴然としているときもあれば、ほとんど同じに聞こえる場合があります。要するに、中国語のバリエーションということです。

4つの言語のうち1つ目はもちろん、台湾の公用語=中国語(北京官話)です。ただし、大陸中国とは大きな違いがあります。それは、使われているのが、漢字は漢字でも「繁体字」(日本でいう旧漢字)だということです。大陸中国では「簡体字」といって、本来の漢字をもとにして作った文字が使われています。これは、中国革命のあと、教育がまだ行き届いていない状況を踏まえ、人々がより覚えやすいようにということで、共産党政府が簡略化したからです。

2つ目が台湾語。台湾の中国人の多くは17~18世紀にかけて中国南部の福建省閩南【びんなん】地方から海を越えて渡ってきた人たちです。彼らがもともと使っていた言葉がルーツの台湾語は、日常どこでも耳にします。南部に行くと、一般市民はだいたい台湾語を使っているようです。

3つ目は客家【はっか】語といい、主に広東省・福建省・河西省から渡ってきた「客家」と呼ばれる人たちの言葉です。客家系中国人は台湾の総人口の6分の1を占めています。これがタイ、マレーシア、シンガポールあたりではなんと3分の1にもなるので、もう一大勢力といっていいでしょう。


そして最後は、ご想像どおり英語です。

ただ、最初の3つは発音こそ違いますが、文字にすると同じです。通常の会話では、文法構造や使用単語、表現方法にビミョーな差があるのですが、駅名のような固有名詞はすべて同じ。ですから、MRTでも、構内や車両、あるいは車内の表示は「漢字」と「英語」の2種類で済んでいます。

パカタにも紙幣がある! 当たり前か……

2015年3月10日
昨日午後の便で台北からマカオにやってきました。マカオでは今回初めて日本の「オークラ」に泊まってみました。ここの「オークラ」には、当たり前といえば当たり前なのですが、中華料理レストランはありません。あるのは和食の「山里(日本では鉄板焼きレストランの店名ですね)」とメインダイニングっぽい「TERRAS RESTAURANT 和庭餐庁」の二つ。台北の「オークラ」には中華料理レストラン「桃花林」があるのですが、日本人以外だれが利用するのだろうかと考えると、不思議でなりません。たぶん、日本からの宿泊客と現地駐在の日本人ビジネスなのでしょうね。

さて、それはともかく、今回はギャンブル三昧の2日間を過ごしました。ただし、「オークラ」にはカジノがないので、遊ぶのは隣り合わせのホテル「GALAXY」になります。ラスベガスでもそうですが、マカオでは最近は、カジノを併設していないホテルが目につきます。「FOUR SEASONS」「MANDARIN」「HYATT」「RITZ CARLTON」など、すべて超高級ホテルです。こうしたところは、宿泊と食事だけを提供し、遊ぶのはほかのホテルでというスタンスを取っているわけです。


ただ、「GALAXY」ホテルのカジノはなぜか異常に照明が明るく、遊んでいてもいまイチ落ち着きません。カジノが不健康な遊びなどとは毛頭思いませんが、それでも、もう少し“怪しげ”な雰囲気があったほうが、遊ぶ側にとって心地よいのではないかと、私は思います(はなはだ勝手な見解であることは百も承知の上でですが)。なんだかんだいっても、要は鉄火場なのですから。


それと、狭さというか広さも、遊び心を刺激する上でけっこう大事な要因です。狭すぎても息苦しさを感じ、長くいたいと思いませんし、広すぎたら広すぎたで、熱がさめやすくなってしまいます。その分、冷静になりすぎ、「早く部屋に戻って寝よう」とか「ここらでもう引かなくては」などと、理性が頭をもたげてきてしまうのです。ころあいの広さというのは、負けを忘れさせるほどではないが、かといってカジノから早く離れようという気にもさせない──適度の緊張感を保たせることをいうのではないでしょうか。もっとも、根っからのギャンブル好きである中国人にとっては、こういうデリケートなことなどまったく気にならないかもしれません。


Photo今日、初めてマカオの紙幣を手にしました。マカオのカジノで使われているのはなぜか香港ドル紙幣だけです。これも細かな理由はよくわからないのですが、香港の紙幣は発行元によって、それぞれ絵柄が違っています。ただ、どこが発行元であっても、香港ドルは香港ドル。こちらは香港でもマカオでも使えます。ところが、カジノでは、なぜか地元のマカオ紙幣は使われていないのです。そもそも、最近まで紙幣があることすら知りませんでした。というのも、ショップでコーヒーや食事をしたときの釣り銭としてしかマカオの通貨=パカタは触ったことがないからです。しかし、硬貨というのはあくまで補助通貨にすぎないので、紙幣があっても不思議ではありませんよね。こんな当たり前の事実にいまさら気がつくというのも、おかしな話です。ギャンブルに熱くなりすぎていたのかもしれませんね(笑)。

“ロマンチックな観光スポット”のはずなのですが

2015年3月8日

一昨日、台中のランタン・フェスティバルに行って正解でした。昨夜の混雑ぶりは大変なものだったようです。おまけに、城内に展示されている巨大な羊の像の首から上の部分が地上に落っこちてしまい、修復工事までおこなわれたとのこと。さぞかし騒ぎになったにちがいありません。

L1010642さて、台湾の観光ガイドのどれを見ても、「デートスポットとして人気」とか「台北からわずか40分。日常の喧騒から離れて散策してみるのも……」とか書かれているのが淡水です。たしかに、名前もそれっぽいですし、実際、私たちが泊まっている中山からもMRTで40分足らず。

たまたま日曜日だったこともあるのでしょう、まあ、人、人、人でした。駅のすぐそばから始まる老街(旧市街)など、身動きが取れないほどでした。道路幅が狭いのでよけいです。

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そこで、海に近い川岸の遊歩道に移動したのですが、こちらはまた飲食店、みやげ物店、ゲームセンターや射的場などがびっしり並び、さながら夏の湘南海岸の態。カップルもいるにはいますが、それより家族連れ、グループ連れのほうが圧倒的に目立ちました。

ロケーション的には間違いなしに「デートスポット」です。前にはゆったりした川があり、対岸には美しい姿の山(=観音山)。その間を小ぶりの白いフェリーがゆっくり渡っていきます。夕日の名所でもあるらしく、天気さえよければもう最高でしょう。

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ただ、日曜日の午後とあって、日本でよく目にする“団体の中国人”的な光景がそこにはありました。もっとも、ここは台湾ですから、私たちのほうが部外者なのですが……。それに、いまさらロマンチックな雰囲気を求めてきたわけでもないので、そんなことはちっとも気にはなりません。

川岸の遊歩道から老街に戻り、しばらく歩くと有名な店が。「蝦倦(エビ巻き)」が名物で、長い行列ができていました。

L1010655そこからしばらく歩くと、マッケイ博士の銅像があります。札幌のクラーク博士のような存在だったらしく、台北の街中にもその名前を冠した病院がありましたが、こちらがその発祥の地だそうです。

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そこから坂を登っていくと、ようやく「ロマンチック」な雰囲気を漂わせたエリアに到達。教会、最初に開いた医院、旧関税事務所などが点在するあたりは、人通りも少なく、建物もクラシックな雰囲気をただよわせており、散歩するには絶好でしょう。

ミッション系の大学の校舎を過ぎると急な坂道を下ります。そこにあるのがこの界隈最大の観光スポット・紅毛城。旧イギリス領事館だった建物ですが、それ以前は川岸の防衛を担う要塞だったといいます。ズラリと並んだ大砲がその時代をしのばせます。城を見終えるとはや夕刻。バスで淡水まで行き、MRTで都心まで戻りました。

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といってもホテルではなく、雙連で降り、前夜も行った寧夏夜市で早い夕食を取ろうと。さすが時間も早かったので、前夜ほどの混雑ではありません。今回まだ食していない「粽」や「下水湯」などにトライしてみたかったのですが、その前に「芋丸」です。昨夜は50人近い行列であきらめたのですが、今日はそれほど多くはありません。それでも、20人以上は並んでいたでしょうか。

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芋丸には2種類あり、ふかしたサツマイモを練って丸くしたものをさっと揚げたのと、中にゆで卵の黄身と肉鬆を詰めて揚げたもの。最初は前者をオーダーしたのですが、やはり後者のほうがおいしそうだったので、変更してもらいました。揚げ立てをその場でトライしてみましたが、これも上々の味でした。

デザート的なメニューですが、こんなところで順番にこだわる必要もありません。次は「粽」です。夜市の端っこに近いあたりにある屋台の看板に「粽」と「猪腸湯」の文字を見つけ、おばちゃんの前にすわりました。発音ができないので、看板を指さしての注文です。こちらもまたまたおいしく、十分に満足。帰りがけ、これまた前夜も買って帰った「紅豆芝麻湯圓」を。ホテルでゆっくりいただきました。

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どうりで、台湾から日本に多くの人が来るはずです

2015年3月7日
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台湾に来るとかならず立ち寄るお茶屋さんがあります。忠孝復興という駅の近くにある「和昌茶荘」というお店ですが、いまの店主のお父さんのころから出入りしているので、もう20年近くのお付き合いでしょうか。今日もそこに行って凍頂烏龍茶のパックや高山茶など、買い込みました。

そのあと立ち寄った「誠品書店敦南店」(忠孝敦化駅近く)という、いま台湾全国で勢いを伸ばしている本屋さんに行きました。日本でもあちこちで真似されていますが、書店とこじゃれたカフェ、あるいは雑貨品、文房具屋、骨董品、民芸品屋、インテリア・家具、カルチャーセンターなどを複合させた、ちょっとお洒落なショッピングモールになっています。

しかも、ここは台湾で初めて24時間営業を始めた書店だそうで、宵っ張りが多い台湾神の間ではとても重宝しているとのこと。1989年の誕生といいますから、もう25年以上経っていることになります。

その書店で驚くものを見つけました。旅行ガイドの本を集めたコーナーです。そこには日本の旅行ガイドが、よくもまあというくらい数多く並べられていました。しかも、その内容たるや、精緻をきわめています。日本人でも知らない人がいてもおかしくない、かなりマニアックなところまでカバーしているのには感心しました。

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最近、東京でも沖縄でも、それこそ日本のどこに行っても台湾、あるいは中国の人の姿を見かけますが、「なるほど、こういうガイドを読んでから来ているんだ」と納得させられました。タイトルも『東京達人天書』とか『沖縄王』とか、そのものズバリといった感じです。

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Photo_3試しに、浅草の項を見てみました。「雷門」「浅草寺「仲見世通商店街」「伝法院通」「合羽橋道具街」はもちろん、有名な店(たとえば浅草今半、鮨よしだ、大黒屋天麩羅、駒形どぜう、前川、色川、犬印鞄製作所、時代屋など)、さらに「人力車」「屋形船」まで掲載されています。天ぷらで有名な「三定」の説明には「一に浅草、二に観音、三に三定」などという、私も知らないような言葉も出ていてビックリ。

銀座、浅草、渋谷、新宿、池袋、赤坂、原宿、青山、六本木といったメジャーな場所だけではありません。お台場、汐留、恵比寿、代官山、中目黒、自由が丘、下北沢、中野、秋葉原、上野、吉祥寺、築地など、渋いエリアまで漏れなくガイドされてしまっていました。どこに行っても「台湾語」や「中国語」「広東語」を耳にするはずです。

ついでに『沖縄王』のほうものぞいてみました。私の会社の分室がある「首里」の項に沖縄料理の店「富久屋」が出ていたのには、目が点になりました。国内の観光客でも、かなりの通【つう】というかリピーターでも知らないはずの店です。ここまでカバーしているとは!!! たしかに、那覇の国際通りで、夜すれ違う旅行者の3分の2は台湾、中国からの人たちですものね。なんでも、週に1回だか2回だか、クルージングの船が那覇の港に立ち寄り、3~4000人の乗客が降りるという話をタクシーの運転手さんから聞いたことがあります。そういう人たちが、先のようなガイドブックを手にしながらあちこち行くのでしょう。

本を子細に見てみると、裏表紙には香港での値段も出ていましたから、同じ内容のものが香港でも売られているわけです。大陸にも出回っているかまではわかりませんが、少なくとも北京や上海あたりでは売られているのではないでしょうか。

今日の夜は台中でランタン・フェスティバル

2015年3月6日

明日・明後日は土・日なので混みそうということで、今日、台中の「ランタン・フェスティバル(台灣燈會)」に行ってきました。ランタン・フェスティバルという名称から、昨日楽しんだ「天燈」と一緒くたにされることも多いようですが、これはまったくの別物です。ただ、その起源は、おそらく「天燈」にあるのではないでしょうか。「平渓天燈祭」がおこなわれる時期に合わせ、台湾のほぼ全域でおこなわれるイベントのようですから。

 

 

L1010489日中は迪化街に行ってみました。MRTの駅からやや遠くこれまで一度も行ったことがなかったので、今回は初めての挑戦。ホテルからタクシーで3メーターほどでたいした距離ではなかったのですが、さすが19世紀半ば、清朝末期の時代に開けた街ということで、旧市街のなかでも突出した感じがします。

 

20世紀の初め、台湾は日本統治下にありましたが、この当時は台湾全土から乾物、漢方薬、茶、布などを扱う商店が集中、大規模な商業エリアを形成していたといいます。通りの左右にバロック調の建築物が並び、裕福な商人たちが店を開いていました。

 

その入口にある永樂市場からスタートしました。建物自体はたぶん8階建てで、4階までがショッピングフロア。5階だか6階には演芸場がありました。きっと、ここで仕事をしている人たちのための施設なのでしょう。

 

 

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L1010508_2下の方は1階と4階が食べ物屋で、4階のほうはフードコート風の造り。まず1階の入口を入ってすぐのところにある「林合發油飯店」で、今回念願の「油飯」を買いました。「飯店」と名乗ってはいますが、実際は売店です。売り場には行列ができており、お目当てはだれもが名物の「油飯」。ずっしりとした重さに驚きました。調べてみると、なんと600グラムだそうです。本当は、「少な目」とか「半分の量で」といった具合に注文すればいいそうですが、台湾語がわからないので仕方ありません。

 

 

 

 

 

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それを手に持ってエレベーターで4階まで上がります。日本語の上手なお姉さんの誘いに応じ、水餃(水ギョーザ)と炒麺(焼きそば)を注文。水餃はこれまで食したなかでいちばん美味でした。中身もぎっしり詰まっていて、皮とのバランスも抜群です。炒麺の味付けもユニークでした。

 

降りて会館を出ると、まわりには屋台風の飲食店がびっしり。しばらく行くと「青草茶 茅根茶 苦茶」の看板が。滋生青草店です。そこで、風邪予防に最高という「苦茶」を呑んでみたのですが、まあ、苦いこと苦いこと。あまりの苦さに途中であきらめ、歩き始めました。
迪化街を北に向かうと、両側に「医食同源」の国らしく、漢方関係の食材を売る店がびっしり。しかも、北へ上がれば上がるほど建物が古くなります。そこらまでは観光客も足を延ばさないからでしょう。

 

 

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もうここまでかというところまで北上したところに突然、こじゃれた店がありました。それが李香亭という餅(お菓子)屋さん。中秋節や旧正月の前になると、長蛇の列ができるほどの老舗だそうです。「平安亀」という名のお菓子は、亀の甲羅を型どり、中央には寿の文字。ピーナッツ風味の生地の中に胡麻餡が入っています。地元の人に人気があるのは「平西餅」。これは、オリジナル、ミルク味、カレー味の3種類ありました。

 

 

L1010504_2この店を右折すると、日本の昭和30年代を彷彿させる一角につきあたります。途中「家庭理髪」という看板がありました。どうやら、家の一角を使って散髪をしてあげている店のようです。それにしても、写真右上にある看板の「山本頭」とはなんのことでしょうか。

さらにそのまままっすぐ進むと民楽街。そこを北に上がったところが民権路で、上には高速道路が走っています。右に曲がってすぐにMRTの大橋頭駅が。「大橋」とは、すぐ西にある台北大橋のことのようです。したがって「大橋頭」とは「台北大橋のとっつき」といった意味でしょうか。

 

ホテルに戻り、ネットで「山本頭」を調べてみました。なんと「山本」は連合艦隊の司令長官「山本五十六」のことでした。「山本頭」自体は、職人さんなどに見られる丸刈りのことだといいます。ちなみに、「平頭」は角刈りだそうです。

 

 

さて、少し早目に台中までということで、MRTで台北車站まで行きました。ところが、午後3時過ぎだというのに、構内は大変な混雑です。なかでも高鐵(新幹線)の切符売り場にはえらい行列が! 「えーー、これ、みんな、台中へ行くわけ?」と思いつつ自動販売機で乗車券を購入。

 

L1010523_3台中までは1時間ほど。5時前には到着しましたが、予想以上の人出です。広大な敷地に所狭しと光のオブジェが並べられているのは壮観のひと言。この時間はまだ明るいのですが、あと1時間ほど経てば暗くなりますから、さぞかし美しいにちがいないと期待を抱かせます。

 

写真をご覧いただけばおわかりのとおり、これでもかこれでもかといった感じの、光、光、光。「燈會」などという平凡なネーミングではとても追いつかない感じでした。会場内には2カ所、野外フードコートのようなスペースがあり、ここはもう完全な夜市状態。どこも皆、大変な人でごった返していました。

 

 

 

 

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今回のメインイベントは「平溪天燈」

2015年3月5日

今回は台北で同じホテルに5泊しますが、朝食込みにしませんでした。街中で食べたいと思ったからです。


L1010429今日がその最初。MRT雙連駅まで歩くと、その脇に青空市場があります。両脇にびっしり店が並んだ細い道をぶらぶらしながら物色していると、狭い路地の一角に、おじさん・おばさんの夫婦でやっているお粥の店が

「粥BAR」の看板には笑ってしまいました。メニューは10種類で、鶏肉と魚仔とあと皮蛋を足すかどうかの組み合わせ。「請付◎款」なので先払い。待つこと30秒。出されたお粥は最高でした。

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店を出たところに「潤餅」の専門店があり、そこで家人が1個買ってきたのを立ち食い。こちらも美味でした。

ホテルに戻り、午後からは西門へ。MRT中山駅でパス=EASY PASSを購入。100元のデポジットを払い、そのあと好きな金額を足して作るシステム。日本のsuicaと同じようなものですが、大きな違いは運賃が2割引きになること。とてもありがたく、suicaも見習ってほしいものです。新しく開通した地下鉄で2駅目が西門です。前にも来たことはありますが、相変わらず若い人の姿が目立ちます。その昔行ったことがある「阿宗麺線」の店のあまりの変貌ぶり=大発展に驚きました。

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私たちが入ったのは路地にある小さな店。おばあさん一人と息子夫婦+お手伝いさんが。説明なしの壁貼りメニューから、米苔目と魯肉飯(小)。まったく言葉が通じない店でしたが、ジェスチャーと指差しでなんとか突破しました。

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西門からMRTを乗り継いで動物園駅。空は雨模様で、気温もけっこう低く、寒いくらいです。ここが、今回のメインイベント=「平溪天燈」への出発地点。次々と出発するバスに乗り込みます。平溪線という人気のローカル鉄道で行く手もあるのですが、インターネットで調べると、かなり混雑するようですし、時間も遅れたりするというので今回はパスしました。

会場は台北市を取り囲むようにしてある新北市平溪の十分広場。新北市は「新しい台北市」の略だそうで、人口(396万)は台北より多いとのこと。以前行った烏来の温泉もこの新北市内にあります。

その平溪でおこなわれるのが「天燈」。気球と同じ原理で作った紙製の天燈(=ランタン)の外側に、自分の願いを書き込み、夜空に飛ばすというものです。毎年、旧正月から15日目、最初の満月の日=元宵節の夜に開催され、10万もの人たちが観に訪れるといいます。

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台北市内を出て郊外に出ると、どんどん上っていくのがわかります(平溪の標高は600mほど)。それにつれて空も雲でいっぱい。現地はどしゃ降りかも……と不安に駆られながらの小1時間でしたが、あにはからんや
、そうでもありませんでした。

始まるまで2時間以上もあり、その間、近くの商店街(十分老街)をぶらついたり立ち食いをしたりしながら時間をつぶし、会場に。そのすぐ手前に「台湾のナイアガラ」と呼ばれる「十分大瀑布」があるのですが、この日は残念ながらクローズしており、そこへの入口にある、滝もどきで我慢するしかありません。


時間が経つにつれ、どんどん人が集まってきます。日本人の姿も目につきますが、それより多いのが青い目の人たち。「天燈」はいま、世界的にもユニークなイベントになっているようです。打上げは夜6時過
ぎから8回に分けておこなわれ、1回あたり250個が夜空に上がっていきます。今回最大のものはなんと高さ8メートル。この「天燈」のイベントを考案した方とその娘さんの二人で作り上げたとのことです。

L1010470台北市と新北市の2市(=合わせて「雙北」という)合同による天燈もありました。いま台湾では、この隣り合う2つの市が、国全体の牽引力になっているようで、いかに連携し合っていくかが大きな課題になっているからです。2人の市長がそれぞれ「雙北合作 神采飛羊」「雙北合作 天佑台灣」という文字を赤い墨汁で書いていました。

イベントのMCが大きな声で「さあ、いよいよ上がります。1、2、3!」のかけ声とともに一斉に夜空に上がっていく様は壮観、そしてなんとも幻想的でした。

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2回目まで見て、帰ることにしました。これからますます混み合ってきそうな感じがしたからです。行きもそうでしたが、帰りのバスも冷房がガンガンに利いています。なんでも、バスの中のエアコンが利かず体調を悪くしたりする人が出ると、バス会社の責任が問われるのだそうで、それを防ぐために、外気温に関係
なく冷房を全開にしておくのだとか。でも、寒かったです。


途中の停留所の名前が前の電光掲示板に次々と出てくるのですが、「菁桐坑」とか「五坑」とか「深坑」など、このあたりでかつて石炭が採れたことを偲ばせる名前が次々に。石炭産業が1970年代を過ぎ急速に衰え
、十分の町がすっかりさびれてしまったのをなんとかしたいということで始まったのが「平溪天燈」の由来だそうです。なるほど、と思いました。日本の“消滅”しかかっている町や村も見習いたい話です。

台湾グルメ旅に出発、1日目の夜は?

2015年3月4日

L1010410何度来ても思うのですが、台湾はやはり近い! 時差がマイナス1時間なので、よけいそれを実感します。

午前9時20分のANA便に乗り、12時過ぎには台北松山空港着。午後1時過ぎにはホテルでチェックインしていました。

予報と違い気温が低く、いつ降り出してもおかしくない空模様。夕食も近場でということになり、ホテルから歩いて5分ほどの「青葉餐庁」という店に行きました。事前に読んでいたユニークなガイドブックに、この店の名メニュー「卵焼き」が出ていたからです。

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店は、台湾では珍しいけっこうきちんとした造り。日本のビジネスマンの接待・打ち合わせ用に使われているという、ガイドブックの説明に納得。味も、日本人向けにアレンジされているそうで、たしかに、「炒四糸」も「炒空芯菜」も、皆GOODでした。

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最後の麺も、おまけで出されたデザート「緑豆湯」も◎でした。何より、ボリュームが半分になっているのがありがたかったです。

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タッチの差でウィリアム王子と……

2015年3月1日

単行本のインタビュー取材で宮城県の石巻を訪れました。場所は石巻日日【ひび】新聞の資料館的な施設=「絆の駅NEWSee(ニューゼ)」。私が着いた3時間ほど前まで、イギリスのウィリアム王子が同じ場所を訪問されていたと聞きビックリ。

インタビューは2階のカフェでおこなったのですが、同じテーブルに、小さなトレーに乗ったティーカップが置かれていました。「すみません、こちら、片付けていただけますか」とお願いしたところ、お店の人が「いえ、これは今日1日だけ、このままに……」。「ひょっとして、王子が飲まれたカップとか」というと、「そーなんです!」。

さっそくカメラを取り出しシャッターを押してしまいましたが、このイスにすわるのは遠慮しました。まだ王子のオーラがそのあたりに残っているような感じもする中、インタビューはさくさく進み、予定より早く終えることができました。

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家に戻り、ネットをチェックしてみると、資料館の館長・武内さん(1月にインタビューさせてもらった方)が、王子を相手に汗をかきながら説明しているニュース映像や写真がいっぱい。当然、本国のBBC→http://www.bbc.com/news/uk-31681184でも報じられていました。

なんだか不思議な縁を感じてしまい、今年の9月に予定しているイギリス行きが急に待ち遠しくなりました。

新宿にも中国人がいっぱい!

2015年2月20日

旧正月=春節の休暇に入った中国・台湾から、いま日本中に旅行客が訪れています。テレビや新聞のニュースで知ってはいますが、今日、新宿に行ったら、その一団に出くわしました。やはりナマで見るとすごいです。

とくに新宿3丁目から新宿駅に向かう通りの歩道には、2人連れのカップルから20人近くのグループ・団体客まで、中国のそこかしこに。両手に買い物袋をいっぱい持った人もいれば、配送にしたのか何も持っていない人もいますが、それにしてもその数の多さには圧倒されます。どの店も、外側には「?烈?迎(=熱烈歓迎)」や「?迎(=歓迎)光臨」「免税」の文字を大書したポスターや看板を掲げ、客寄せに必死のようです。

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たまたま立ち寄った伊勢丹デパート1階の化粧品売り場も、この日はほとんどが中国人女性客。どこかの学生なのか、全員が黒い制服のようなものを着ており、しかも前のエリにはバッジが。どのカウンターでも大量に商品を買っている人が目立ちました。おかげで日本の経済もうるおっているわけですから、中国人さまさまであることは間違いありません。

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“残念な”JRの「グランクラス」車両

2015年2月18日

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ホテルの近くにあるコンビニで地元の新聞=「デーリー東北」を買いました。1面トップはもちろん、前日の「えんぶり」です。青森県では「東奥日報」のほうが有名ですが、この地域では「デーリー」のほうが上。八戸市での普及率は75%とのことです。

3月に開通する北陸新幹線でも導入されるようですが、「グランクラス」の車両に、試しで乗ってみました。見たところは国際線飛行機のビジネスクラス(それも上級の)を思わせるシートが、ゆっくりしたピッチで並び、「お-っ!」という印象。腰をおろすと、ついシートベルトをしなくては……なんて気にさせられます。

すわってしばらくすると、アテンダントと呼ばれている女性が席までやってきて、熱いおしぼり(しかもタオル地が厚い)を渡してくれました。これは日本人にはうれしいですね。次に、「お食事は?」「お飲み物は?」といった型どおりの質問をしてきます。飲み物はアルコール、ソフトドリンクなどからいくつでも自由に選べます。食べ物は和か洋のどちらか一方とのことでした。私のチョイスした「洋」はサンドイッチとフルーツの組み合わせ。

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ただ、恩着せがましいとまではいいませんが、いかにも大仰な印象がするのは否めません。たしかに、普通のグリーン車より5000円以上(!!)高い(八戸→大宮間)ので、そうしたサービスを提供しようというJRの気持ちもわからないではありません。でも、「はやぶさ」や「はやて」は、普通のグリーン車に乗ってもソフトドリンクは無料で1杯いただけます。アルコールや軽食、ちょっと贅沢な感じのシートだけでこれだけの金額を上乗せするのは、どうかなぁと思いました。

前にもこのブログで紹介しましたが、スペインのビジネスクラス車両のほうが、金額は日本のグリーン車よりも割安で、サービスもお気楽な感じがして心地よさは上。もっとも日本には、ヘビーで、ウェットな感じのサービスを好む客も多いのかもしれませんが。

そういうサービスより、私は、駅にラウンジを用意するとか、新聞は無料にするとか、無料のWI-FIサービスをつけるとかいったほうが大事ではないかという気がします。それに、リクライニングやランバーサポートなどシートのグレードは高いものの、肝心のすわり心地が皮張りの割にはいまイチ。これなら普通のグリーン車で十分ではないでしょうか。

まだ試行錯誤の段階なのかもしれませんが、大騒ぎしていたわりには中途半端。「ファーストクラス」などと呼ぶにはいささか残念なレベル。早晩姿を消すか、大々的に改められるかという思いを抱きながら、下車しました。

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「えんぶり」にはやはり雪がよく似合いそう

2015年2月17日
今日が「えんぶり」の本番です。「えんぶり」という言葉は「いぶリ(揺り)」に通じているとかで、大地を揺さぶる、揺さぶり起こす、かき混ぜるといった意味が込められているそうです。けっして派手な催しではないのですが、鎌倉時代以来という長い伝統があるだけに、様式はきちんと整っています。

この日はまず、町の中心にある長者山新羅【しんら】神社に朝早くから、30いくつかのえんぶり組(阿波踊りでいうなら「連」のようなもので、親方以下総勢20~30人から成る)が集まり、本殿の前で順番にえんぶり摺【ず】り=舞いを披露します。「えぶり」と呼ばれる農具を使って田んぼの土を平らにならすことを「摺る」ということから来ているそうです。舞うのは「太夫【たゆう】」と呼ばれる3人もしくは5人。それに「お囃子【はやし】(太鼓、笛、手平鉦、歌い手、太鼓持ちなど)」が加わります。

L1010247_2神事が終わると、各組が一定の間隔で町中に繰り出し、お囃子に合わせて舞いながら練り歩きます。もともとがその年の豊作を祈願するための舞い。太夫が馬の頭をかたどった烏帽子(全体に地味めの衣装の中でこれだけは派手で華麗)をかぶり、頭を大きく振る独特の所作に特徴があります。また、舞いも、種まきや代掻【しろか】き、田植え、刈り取りなどの動作を表現したもので、飛んだり跳ねたりといった派手派手しさはありません。

L1010293それでも、練り歩きの途中、中心街の大通りで「のろし」を合図におこなわれる「一斉摺り」は迫力があります。すべての組が行進をやめ、それぞれ舞いを披露するのですが、その中で演じられる子どもたちの祝福芸(「松の舞」「えびす舞」「えんこえんこ」「大黒舞」)も、ユーモラスでけっこう楽しいものです。

L1010331これとは別に「お庭えんぶり」という行事があります。その昔は、「だんな様」と呼ばれる大地主や有力商家などの土間や座敷で
「えんぶり」が披露されていたそうです。それをもとに、その時代の風情を観光客にも感じてもらおうという目的でおこなわれるようになったのが「お庭えんぶり」で、会場も、国の登録有形文化財になっている「更上閣(明治期の財閥・泉山家が1897年ごろに建てた木造の純和風建築)」の庭園が使われます。

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午後は「八食センター」で昼食を取り、すぐ近くの日帰り温泉(「新八温泉」)でひと風呂浴びたあと(途中で地震があったのにはびっくり!)、夕刻になって更上閣に出向くと、丁重なお出迎えを受けます。靴を脱いで座敷に上がると、甘酒と八戸せんべい汁が振る舞われ、それこそ「だんな様」気分でえんぶりの一部始終が楽しめます。ただ、この時期の八戸では珍しく雪がいまイチ不足気味。雪がもっと深ければ、「えんぶり」の動きも一段と冴えたにちがいなく、それが残念でした。

このあとは、代表何組かによる「かがり火えんぶり」が、日の暮れた市役所前の広場でおこなわれます。市役所の職員による「組」もあり、こちらはこちらでそれなりの練習を積んできたようで、けっこう楽しめました。

地方都市はどこでもそうですが、八戸の楽しみもやはり食事です。この日の夜は、江戸時代創業の酒蔵「河内屋」の旧本社で、大正年間に建てられたという歴史的建造物(国の登録有形文化財)を利用した「ほこるや」という店。なんでも、当時流行したロシア風建築とアールデコ調の様式を取り入れた建物だそうで、外観も内装も非常にユニークです。なるほど、「八戸市まちの景観賞」を最初に受賞しただけのことはあります。ここでも、土地の料理をふんだんに楽しみました。なかでも、この地方に伝わる郷土食「蕎麦かっけ」は最高! 「秘蔵酒」も心地よい味わいでしたよ。

L1010315八戸は、地方にある数多くの都市のなかでも、「観光」という部分では成功している部類ではないでしょうか。東北新幹線の青森延伸を機に、途中駅であるがために通り過ぎていってしまいそうな観光客を下車させて引き止めるのはけっして容易なこととは思えません。それを、「八食センター」や「はっち」といった施設を武器に呼び込むことに成功しているのです。私たちもこの日「八食センター」に足を運びましたが、昭和55(1980)年に開業したというわりには、多くの客が訪れていました。明るく広々とした市場の雰囲気は素晴らしく、いればいるだけお腹がいっぱいになります。買った魚介を、その場で炭火で焼いて食べることができるのもウケているのでしょう。青森県で断トツの入込客数を誇っているのもうなずけるというものです。

初めての八戸訪問です

2015年2月16日
今日から青森県・八戸の一大行事である「えんぶり」を見に来ました。「えんぶり」はこの地方を代表する民俗芸能で、国の重要無形民俗文化財にも指定されているそうです。また、青森冬の三大まつり、みちのく五大雪まつりの一つにも数えられています。

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本番は明日なのですが、朝のスタートが早いので前日から泊まることにしました。八戸を訪れたのは初めて。17世紀の半ばを過ぎたころに作られた城下町ですが、遺構としては土塁、本丸跡などくらいしか残っていません。角【かど】御殿表門だけが長らく風雪に耐えてきたものの、昭和53年に倒壊してしまい、2年後に復元されたそうです。しかし、道筋や町の形、名前はいまも変わらないまま残されています。

町自体はこじんまりしています。1時間もあれば隅から隅まで歩いて回れる感じで、ちょうどいい運動になりました。それでもさすが旧城下町、どことなく気品というか風情がありますし、これまた城下町らしく、かつての呉服店(いまはほとんどが洋品店かアクセサリーの店)も目につきます。おしゃれな書店もありました。


私たちが泊まるホテルのすぐ近くに「はっち」という名前(正式には「八戸ポータルミュージアム」といいオープンは2011年)の観光案内所っぽい施設があったので、そこに立ち寄ってみました。とてもおしゃれな建物で、中も充実しており、八戸に関する情報はほとんどここで手に入ります。

L10102433階の展示の中に、いま住んでいる「豊島区」の文字を見たときは驚きました。日本の女性ジャーナリストの草分けである羽仁もと子が始めた「女性の解放」「自由教育の推進」運動の拠点「婦人之友社」は、以前私がオフィスを借りていた豊島区西池袋にありますが、その羽仁もと子はここ八戸の出身だったのです。

地元の小学校在学中は成績優秀で文部省から表彰され、女子でただ一人高等科へ進学したもと子は、明治22(1889)年に上京、東京府立第一高等女学校に入り、在学中にキリスト教の洗礼を受けます。その後当時の報知新聞社に入社し、女性記者として活躍しましたが、同34(1901)年に同じ職場の羽仁吉一と結婚し退職。そして同36(1903)年に「婦人之友」の前身である「家庭之友」を創刊したとありました。羽仁もと子記念館には行けませんでしたが、もと子ゆかりの場所にオフィスを構えていたことの縁にうれしくなってしまいました。

夜はホテル近くの屋台広場「みろく横丁」の一角で魚介類を堪能。さすが海のすぐ近く、とてもおいしかったです。

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ニッポン放送に出演しました

2015年2月13日

ニッポン放送の『テリー伊藤のフライデースクープ』という番組に出演させていただきました。毎週金曜日の夕方4時から5時30分までオンエアされている番組で、この日のタイトルは「県民性の不思議」。“困ったときの県民性”と私はひそかに思っているのですが、番組の企画ではいちばん無難で、しかも内容に幅があります。もちろん、リードする人の才覚にもよるのでしょうが、その点、テリー伊藤さんのようなキャラクターは適任です。


聴視者からもメールがバンバン届いていたようですし、あらかじめ済ませた打ち合わせのとおりにはまったく行かないところが面白く感じます。このあたりは、予定調和が重んじられるテレビとの大きな違いでしょう。


テレビはやはりその影響力の大きさからでしょうが、とにかく打ち合わせが綿密です。本番のときに話すネタを、事前に3回も4回も話すと、どんどんテンションが下がってきて、本番のときは、かなり面白いネタのはずなのに、話している本人も、つまらなそうな感じになってしまっています。もっとも、そこがプロとの違いなのでしょうが。


その点ラジオは、「一過性」の魅力が最大限に生きる媒体という気がします。1分前に電波に乗った話を覚えている人などまず一人もいません。だからといって言いたい放題というわけではないのですが、その場のノリやとっさのひらめきだけでどんどん進んでいくのがスリリングですし、面白いように思えます。

とりあえず当日の中身がかいつまんで紹介されていますので、下記ウェブサイトをご参照ください。

http://www.1242.com/program/terry/2015/02/13184500.html

それにしても、さすが、江戸っ子のテリー伊藤さん、進行スピードの速いこと、速いこと。驚きました。

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アンベール城──生まれて初めて象に乗る

朝7時半にホテルを出発。こんなに早いのはワケがあります(後述)。「ピンクシティーという別名を持つジャイプールの市街地を抜け、バスは郊外へ。なぜそんな別名があるかというと、19世紀後半、インドがイギリスの植民地だったころ、本国から王子様が来られるということで、ピンクが好みだった王子のために、町中の建物をピンクに塗ったからだそうです。

L1000620最初に訪れたのは「風の宮殿(ハワー・マハル)」。かなり色褪せてはいるものの、ここも確かに外壁はピンク色でした。ジャイプルを支配していたマハラジャの居宅で、あとで行く「シティ・パレス」の一部だといいます。

インドは古いだけあって、城が多い国です。しかも、絶対権力者が支配した王朝が多いせいか、ハンパな規模ではありません。今日訪れたアンベール城もその一つ。もともと砦があった場所に、ムガール帝国第3代皇帝アクバルの軍司令官であったラージプート族のラージャ・マーン・シングが大きな城を築き始めたのは1592年。その後も150年間にわたり、ずっと改築が続けられたそうです。

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岩の丘の上に立っているのですが、その全景は、城よりかなり手前にある場所からしか観ることができません。すぐ近くに着いても、本体はその150m上。しかも、大変急な坂です。歩いていく人もいるにはいますが、私たちはもちろん、名物の「象のタクシー」を利用しました。

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その昔は、象もヘトヘトになるまで仕事をさせられたのでしょうが、いまは1日の回数が制限されているとのことで、昼前には任務終了。仕事を終えた象は城から長い道を村まで戻るのですから、たしかに大変でしょう。

象のドライバーはえらく愛想がよく、日本語も達者。私たちが乗った象のドライバーは「ナマムギナマゴメナマタマゴ」という早口言葉を披露してくれたりしました。愛想よくしておけばチップをはずんでくれるのではという下心でしょうね。

時間にすればわずか数分の道中なのですが、妙にゆっくりした感じがします。途中、カメラを持ったインド人が次々とあらわれ、私たちの写真を撮ります。ポーズを指示する人もいました。

降りる際にチップ(早口言葉の割り増しはなし!)を支払い、中庭から周囲を見渡すと、「世界一美しい門」と言われるガネーシヤ門が目に入ってきました。まあ、それ以上に目につくのはみやげ物売り。まあ、次から次へ、絵ハガキ、民芸品、ボールペン、額に貼りつける「ビンディ」(既婚女性はかならず貼りつけている)、そのほかなんだかワケのわからないものまで、いろいろなものを手に大声を出していました。

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Img_0054_2ガネーシャ門を観ながら、城の中に入っていきます。見ものの一つが、小さな鏡の散りばめられた「鏡の間」。天井や壁に無数の壁が埋め込まれているのですが、これだけたくさんあれば、電灯のなかった時代でも、ロウソクの明かりがあちこちに反射・増幅し、室内はさぞかし明るかったことでしょう。

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いちばん奥には舞台があり、ここでは毎晩、宴会があったとか。ハーレムの各室も、壁や天井など、平らなところにはすべて手の込んだ装飾がほどこされていました。床には水路を通して涼しい空気が入ってくるようになっています。暑い国は暑いなりに、それと付き合うための工夫を編み出すというわけです。

帰りはジープ。とんでもなく年代物も多く、道も悪いので、まあ揺れる揺れる。麓の集落まで行き、そこでバスに乗り換えます。 街に戻る途中のマン・サガール湖に「レイクパレス(水の宮殿)」が浮かんで見えました。5~6月は、夏の別荘として王家一族が涼を求めて住んだといわれる建物です。そこを通り過ぎ再び街に入ると、着いた先が天文台=ジャンタル・マンタル。
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インドでは古代から天文学が発達していたらしく、日時計やら12星座のオブジェやらが屋外に並んでいます。ガイドさんがいろいろ説明してくれましたが、もともとそちらの分野にほとんど関心のない私にはほとんど理解不能。申し訳ありませんが、近くを勝手に歩き回ったりしていました。唯一理解できたのは12星座のモニュメント(?)。そこを見学したあとは「シティパレス」。マハラジャの宮殿です。いまでもその末裔の方(41代目とか)が住んでいると聞き驚きました。

さらに衣裳博物館や武器博物館、大会議場などを見学したあと、昼食を取りに再びアンベール城へ。パレスの出口近くにヘビ使いがおり、ずうずうしく一緒に写真を撮ってもらったり。

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Img_0093_2もう午後になっていましたから、アンベール城へは最初からジープで登ります。途中、仕事を終えた象と何頭もすれ違いました。昼食は城内の一角にあるレストラン。えらく、高級そうな内装でした。「ターリー」と呼ばれるインド独特のランチ。丸か四角い皿にいくつかの仕切りがあり、その一つひとつにライスやチャパティ、カレーなどが盛られているもので、さまざま楽しめます。

Img_0094主人公はやっぱりカレーです。カレー好きの私にはもうたまりません。これを別々に食べるのではなく、一緒に混ぜて食べるのがインド式だとか。こうすると、さまざまなスパイスが混じり合い、単独で食べるのとは別の風味が出てくるといいます(ただし、ホウレン草カレーは例外))。さっそく試してみましたが、これはイケます。だからインドの人は手で食べるんだと、納得してしまいました。フォークよりすばやく混ぜられるのです。

ターリーに十分満足したあとは、朝のときと同じようにジープで麓の集落まで行き、そこでバスに乗り換えて街に戻ります。途中、インド更紗、細密画、宝石店などに立ち寄りながらホテルに戻ったのは夕方5時半。今日の夕食は同じレストランですが、内容はセットメニュー―でした。ワインもけっこういけます。なんでも、インドでは最近ワインに力を入れているそうです。そういえば、私の自宅近くでひいきにしているインド料理の店でも最近、ワインのメニューが増えていたことを思い出しました。

初めてのインドにGO!

2015年2月5日


昨日の夕方、成田を17時15分に出発するANA便でインドにやってきました。同じANA国際線でも、インド便はなぜかキャビンアテンダントの質がいまイチという感じがしました。サービスのクオリティーがまだ発展途上なのでしょうか。

今日の午前0時過ぎ、デリーに到着。空港近くのJWマリオットホテルで、いちおう「宿泊」ではあるのですが、実質は休憩に近い感じです。モーニングコールが7時ですから。


今回のインド旅行は「世界の旅情」のツアー(JTB)です。インドとなると、あまり知識もなく、個人旅行では難しそうな気がしたからです。もともとは、昨年秋の南アフリカ旅行(同じく「世界の旅情」ツアー)で一緒になった方々が口をそろえて「インドはよかった」と話していたので、私たちも、予定を大幅に前倒して決行した次第。本当は、まだまだ当分先、おそらくは、70歳近くになってから元気なら……といった位置づけでした。


さて、朝9時にホテルを出発し、まずは市内観光です。この季節、朝の時間帯は霧が出ることが多いらしく、この日も出発してしばらくの間は、霧で窓の外の景色がよく見えませんでした。しかし、車道のすぐ脇、歩道を歩く人々の姿はよく見えます。歩道を通っても未舗装で、雨でも降ったら大変だろうなと思わせます。

L1000538中心部は美しく整備されており、とくに官庁街は素晴らしく整備されています。そこを抜けて旧市街(=オールドデリー)へ。最初の見学スポットは「ラール・キラー(英語名はレッドフォート=赤い砦)」。周りにはおびただしい数のおみやげ売りが、手に手に何かしらを持って声をかけてきます。バイクや三輪タクシー、普通のクルマ、バスなどごったになって渋滞している道路を渡ったところから、美しい赤砂岩でつくられたレッドフォートがその全貌を見せてくれます。ホントきれいな赤です。世界遺産だそうですが、すぐ隣にあるのはヒンドゥー教寺院のようでした。

1526年から北インド、17世紀末から18世紀の初めごろはインド南端部を除くインド亜大陸のほぼ全域を支配し、1858年まで存続したトルコ系イスラーム王朝=ムガール帝国の第5代皇帝シャー・ジャハーンが築いたものです。

1639年、アーグラ(今回のツアー後半で行く)から都を移したとき、そこをシャージャハーナーバード (Shahjahanabad=シャーじゃハーンの町)と名づけたのですが、その居城として9年の歳月をかけて築いたそうです。残念ながら、内部には入れませんでしたが、えらく広大なようで、中には市場もあったとのこと。というか、町全体が城壁で囲まれていたのですね。ちなみに、インドの地名によくある「~アバード(-abad)」は、ヒンディー語で「城砦」とか「集落」「都市」「移住地」「植民地」といった意味とのことです。アーメダバードとかハイデラバードとか、地図で見た覚えがあります。

L1000552次に行ったのは「ラージガート」。ここはガンディーが埋葬されたところで、いうならば神聖な場所ですね。墓碑の前には記念のトーチがあり、火が燃えてウづけていました。靴を脱いですぐ近くまで行きましたが、人々は皆、神妙な面持ちです。

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その後はインド門(第1次世界大戦で戦死した9万人のインド兵士を顕彰するために建てられた)で、これも立派な建築物でした。今日の見学はこれで終わり、ランチタイムになりました。「Moti Mahal Delux」という、タンドリーチキン発祥とされる店で、本場のインド料理を初めて食べました。もちろん、カレー系です。カレーにはやはりビールがよく合います。日本人のツアーではだいたい訪れる店のようです。

午後1時半ごろ、再びバスに乗り、270キロほど南西の大都市(人口320万ほど)ジャイプールへ。途中、州を越えるたびに通行税のようなものを徴収されるようで、検問所でバスもしばし停まります。

ジャイプールまでの景色は退屈でした。たまに目につくのは日本でいう祠【ほこら】ヒンドゥー教の寺院です。もう一つ、壊れて人が住まなくなっている家も目立ちます。とくに、道路に面したところが多いようです。

ときどき街を通り過ぎるのですが、とにかく人の多いこと! 国土が広いとはいっても、日本の人口の10倍ほどですから、それもいたしかたないでしょう。もちろん、牛も羊もヤギも犬もラクダも、そこいら中にいます。猿もいました。だれかにきちんと飼われているのでなく、「野良」もいるといいます。そこに自転車、歩行者、バイク、クルマなどが加わりますから、もうごった煮状態。まさしく「カオス」そのものといった感じでしょうか。

なぜか、外で見かけるのは男性が8割といった感じです。男尊女卑の風習が根強く残っているインドでは、女性が外を出歩くのはまだまだタブー視されているとかで、たまに見かけても顔を隠している人がほとんどといった感じです。もちろん、デリーのような大都会では、そういうことはないですよ。


カオスといえば、インドの交通事情に触れておかなくてはいけませんね。テレビの映像などでも見た記憶がありますが、それはもう想像を絶する状況です。まず、「乗車定員」がほとんど無視されています。日本でいう軽自動車に定員いっぱいは当たり前、だいたいはプラス2~3人、場合によっては倍の人数が乗っています(もちろん、うち1~2人は子ども)。軽トラックの運転席に3人、荷台に8~10人などというのはごく当たり前です。普通のバスもほとんどがすし詰め状態。すわっている人とほぼ同じ数の人が立ったまま乗っています。私が今日見た最高は、50人近くが乗っていたマイクロバスでしょうか。おそらく、定員は15人ほどと思われるのですが、タイヤなどかなり扁平になっていましたから。


L1000517_3それだけならまだしも、それが道路の上をびっしり埋め尽くしています。重体のときなど、本来3車線しかないはずの道路が4車線、ひどいときは5車線になってしまっているのです。ちょっとでも隙間があれば、すぐに割り込んでいくのですから、当然でしょう。もちろん、渋滞が緩和するとあら不思議、ごく自然に本来の車線数に戻ります。バスに乗って走っていて、その“変化”の様子を目の当たりにしたときはビックリしました。走っているドライバーにしてみると、一瞬たりとも気が抜けないので、くたびれるにちがいありません。それに、多くのクルマが、丸坊主のタイヤを履いていました。そういうことはまったく気に懸けていないようです。

L1000589L1000539_2普通の乗用車に加え、インド特有の車がタクシー。といっても、日本で見るようなタクシーはまれで、ほとんどは「(オート)リクショー」という小型3輪トラックを改造したもの。その昔、日本でも目にしたダイハツミゼットをもうひとまわり小さくしたくらいでしょうか。これもまた、運転席に3人、後部の客席に3~5人乗っていたりするのですから、ほとんど曲芸の世界。普通のクルマの間を縫うようにしながらスイスイ走っていきます。どの道路脇にも客待ちの「リクショー」が止まっていて、利用者もかなり多い感じがしました。

「リクショー」の起源は日本の人力車です。明治40年代には、年間1万台が日本から輸出され、「リキシャ」、それがなまった「リクショー」といった名前で広く根づきました。いまはその多くが「オートリクショー」という名の軽三輪トラックを改造したものに代わっています。どのリクショーも車自体がかなり古く、安全性の点では心配ですが、道路上にはそれ以上の心配がいっぱいあるので、たいした問題ではないのかもしれません。

夜7時前にホテル着。夕食はホテルの中のレストラン。バフェットスタイルなので、ほとんどなんでもありでした。でも、やはりカレー系がおいしかったです。

『100歳の華麗なる冒険』に詰まった世界史

2015年1月21日

Poster2沖縄に来たら映画──これは私と家人の定番です。今日は、東京で予告編を見て、「これは」と思っていた『100歳の華麗なる冒険』を観ました。どちらかといえば、マイナーな映画でしょう。しかし、最近はインド映画と並んで、スウェーデン映画がけっこう注目されています。そういえば、ミステリー小説もここ数年、スウェーデンの作品が次から次へ翻訳。・出版されていますね。

その昔は「マルティン・ベック」シリーズくらいしかありませんでした。マイ・シューヴァル(Maj Sjowall)とペール・ヴァールー(Per Wahloo)夫妻による『ロゼアンナ』『蒸発した男』『バルコニーの男』『笑う警官』『テロリスト』など、とても面白く読んだ記憶があります。コルベリ、ラーソン、メランデル、ルンといったそれぞれ個性的な刑事を率いるのが殺人課主任のマルティン・ベック警部。全編、いかにも北欧らしいクールさにあふれているのが印象的でした。

そのスウェーデンで100万部以上売れたというベストセラー小説『窓から逃げた100歳老人』が原作の映画。子どものころから病的な爆破狂だった主人公アランが、100歳の誕生日に老人ホームから脱出するところから物語は始まります。なけなしの小銭をはたいて、最寄りのバスターミナルからバスに乗ろうとしたとき、ふとしたことから大金入りスーツケースを手に入れます。

それは麻薬か何かでギャングが稼いだお金らしく、そうとは知らないアランは、行った先々で珍道中を繰り広げます。それを面白おかしく描いたこの作品、本国ばかりかヨーロッパ各国で大ヒットを記録したそうです。

主人公アランは100歳ですから、2度の世界大戦、そして冷戦も経験しており、フランコもスターリンもお友だち。スパイ稼業に身をやつしたこともあるようで、歴史のお勉強もできたりします。

嘉手納のアメリカ軍基地を上からながめてみました

2015年1月20日

昨日から沖縄に来ています。1月ですから、沖縄といえども、肌寒い感じがします。気温は19度ほどで、東京などより6、7度は高いのですがね。

今日は、嘉手納のアメリカ軍基地に行ってきました。もちろん、中に入ったわけではありません。基地と道路をはさんだところに、「道の駅かでな」というところがあるのです。

4階建ての建物の最上階が「展望台」になっており、そこから広大な基地の空港部分がほとんど全部見渡せます。見学に訪れている人も多く、私たちが行ったときも100人近い高校生の修学旅行で来ており、大変なにぎわいでした。

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それにしても、4000mの滑走路が2本というのは、大変なものです。成田空港でも、4000mのA滑走路ができたのはつい2、3年ほど前ですし、B滑走路はまだ2500mのまま。また、横風用のC滑走路はいまだ滑走路になっておらず、誘導路のままです。

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もちろん、軍用ですからターミナルビルとかは一切ありません。そのため、成田のほうが全体としては広々とした印象(総面積は現在940ha)はありますが、嘉手納のほうは1995haで倍以上。日本最大の羽田空港(1270ha)と比べても1・5倍ほどです。

しかも日中は、戦闘機や偵察機、哨戒機、燃料輸送機などがひっきりなしに離着陸しています。戦闘機の離陸はとりわけひどい騒音を出すので、住民たちはほとほと困り果てているにちがいありません。戦闘機が急上昇したり加速したりするときの騒音は、1回聞いただけで耳がおかしくなりそうです。飛び去ったあとしばらくは耳の中がキンキンしていました。

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「道の駅」の入り口に騒音のレベルを表示する電光掲示板があるのですが、交差点のそばなので、通常でも60~75デシベルほどです。しかし、戦闘機がすぐ上空を飛んでいるときは100近くまで上昇します(ただ、なぜか、そのときは掲示板の電光表示が消えてしまいます)。騒音レベルは毎日公表されているようで、多いときは1日に200回を超えていますから、羽田や成田の比ではないでしょう。http://www.mod.go.jp/rdb/okinawa/03soon/H26/2701k.pdfでチェックしてみてください。

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いくら慣れたとしても、いつしか精神的なバランスが崩れてしまうのではと、他人事ながら心配でになってしまいます。3階の資料室では、『基地の町・嘉手納』というタイトルのビデオ(5分間)が上映されていました。もちろん、そういうことには触れていません。あくまで「基地」と共存しながら暮らしている嘉手納町民といったニュートラルな内容なので、住民の実感とはかなりズレがありそうです。

基地の外で墜落事故でも起こったら、悲惨な状況になるのは目に見えています。基地内から汚染物質が外に流れ出てくる恐れもあります。事実、これまでも危機一髪というレベルの事故が何度か起こっていますし、すぐ近くにある弾薬庫も心配です。沖縄、沖縄と、政治家や有識者がよく口にしていますが、遠目からほんのちょっとだけでも、肉眼で見、肉耳で聞けば、うかつな発言はできないでしょう。

嘉手納にいまアメリカ軍の基地があるのは、1944年(昭和19)年9月に、旧日本陸軍航空隊の中飛行場として開設されたことに起源があるようです。沖縄戦が終わりアメリカ軍が上陸してきてから、嘉手納のこの飛行場をそのまま徴用、戦後どんどん拡張していきました。4000m級滑走路を整備したのは1967(昭和42)年。米ソ冷戦がピークの状態にある時代で、アジアではベトナム戦争の真っただ中でした。それから50年近くが経過しているのに、まだそのままというのは、どう考えても間尺に合わない気がします。