スポーツも政治も、日本のマスメディアは未熟

なんとまあ、時間の経つのは早いことか! 昨日で今年も半分終わってしまいました。今年前半の大ニュース、いろいろあるでしょうが、私個人にとっては、これまでになく多くの映画を楽しめた(今年前半で40本弱)のが最大の〝事件〟です。

映画についてはいずれ、このブログでも発信しようと思っていますが、いまはひと言だけ。映画(演劇やコンサート、小説などもそうなのでしょうが)というのは、やはり人それぞれ、評価が大きく異なるものなのです。だれかが「めっちゃ面白い!」といくら興奮していても、自分にとってはそうでもない、どころか「どこがいいわけ?」といいたくなるようなものもあるということです。そして、その「だれか」には、マスメディアや有名な評論家も含まれます。

それに比べると、社会的なできごとについては、自分と距離が離れている分、マスメディアやそこに出てコメントを発する人にいとも簡単に影響されてしまうのではないでしょうか。鳩山総理が辞めて菅直人政権が誕生したとたん内閣支持率が急上昇したり、一時は「やめろ!」とまでいわれたサッカー日本代表の岡田武史監督に対する評価が、決勝トーナメント進出を決めたとたん「日本一」に一変わしてしまったり。「権威あるものに従う」「まわりの意見に合わせようとする」日本人の国民性のようなものは、昔もいまも変わらないようです。

L1040730 それでもなおかつ、ワールドカップでの日本代表の戦いぶりは、これまでで最高だったように思います。私がいちばん感動したのは「サッカーは団体スポーツであることを示したい」という、岡田監督の言葉でした。サッカーにかぎらず、野球もバスケットボールもラグビーも、団体競技のはずなのに、日本のマスコミはすぐ「ヒーロー」「スター選手」を仕立て上げ、ことさらに持ち上げようとします。それが本人のためになるかどうかはどうでもいいのですが、一緒にプレーしているほかの選手にどんな影響を与えるかまでは考えていないような気がしていました。

これは「個」のレベルについてだけではありません。団体競技にはかならず戦う相手がいるのに、勝ったチームにだけ異常に肩入れするのも同じことです。セ・リーグの巨人や学生ラグビーの早稲田がいい例です。盟主とか伝統とかいったことも大事なのかもしれませんし、負けたチームの努力が足らなかったという見方も間違ってはいないでしょう。でも、負けた相手チームがあっての勝ちチームであって、巨人がいなければプロ野球は成り立たないだの、早稲田あっての学生ラグビーだなどという考え方は本末転倒ではないかと思うのです。

最悪なのは、そうした報道のされ方が長年続くと、知らぬ間に偏った「刷り込み」がなされてしまうということです。コアなファンの間ではそうしたことは起こりにくいでしょうが、「コア」はあくまで少数派でしかありません。3分の2、ときには4分の3もの人が、マスメディアが持ち上げる個人やチーム(団体や組織)を無批判に肩入れしてしまっては、スポーツも、また政治も健全な発展はしないことでしょう。

また、フェアにものを見るという態度も失われてしまいます。(プロ)スポーツに対する人々の立ち位置、政治との関わり方が、世界的に見ていまだに一流の域に到達できずにいるのは、それについての情報を人々に伝えるマスメディアの手法があまりに未成熟であるからのように思えてなりません。

琉球紅型でつくってもらった表札

サッカーのワールドカップで日本代表が決勝トーナメントに駒を進めた興奮がまださめやらぬ昨日、那覇の新都心・おもろまちにある県立美術館・博物館に行きました。今年4月、ひょんなことからその存在を知った虹亀商店(http://nijigame.ti-da.net/)の亀谷明日香(写真中央)さんに製作をお願いしていた「紅型(びんがた)の表札」が完成、それを受け取るためです。L1040704

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受け取り場所をそこにしたのは、この日、「沖縄慰霊の日」にちなむ行事の一つとしておこなわれている「沖縄平和詩歌祭」に、彼女の造った「紅型灯籠」が展示されていたからです。これは、俳句や短歌、詩を一つひとつに、異なる絵柄(文字は同じ書体)の紅型をほどこし、木枠で囲った裏側から電球を点灯するというものです。造形的なコンセプトとしてはそれと似通っているのですが、なんとも味わい深い紅型の絵柄と色づかいによるユニークな表札ができ上がり、感動しました。

65年前、本当の戦争があった場所で

6月23日、ここ沖縄では「祝祭日」の扱いで、役所や学校は休みです。といっても、この日には「祝」の要素もなければ「祭」の要素もありません。太平洋戦争で、日本国内唯一の地上戦がおこなわれた沖縄。その最終決着がついたのがこの日で、沖縄における戦闘で亡くなった、24万人もの戦没者の霊を慰める日なのです。「戦没者」といっても兵士だけでなく、その多くは民間人であったことが、沖縄の大きな特徴です。

L1040699_2 この日を中心として、沖縄県内ではさまざまな行事がおこなわれ、人々が「戦争」に思いをはせる時期になっています。早朝から深夜まで、「戦争は絶対許さない!」という言葉をひんぱんに見聞きします。年に1回といってしまえばそれまでですが、多くの人が「戦争」について深く、真剣に考えさせられるチャンスがあるのは、ほかの都府県では見られない現象といえます。それでも、「戦争体験が風化しつつある。このままでは後世に伝わらない」と危機感を抱く人も少なくないようです。

22日に沖縄入りした私と家人は昨日、菅直人新総理も列席・挨拶をしたという式典が終わったころを見計らって、本当南部の糸満市摩文仁(まぶに)にある平和祈念公園に出かけました。着いたころから雨が降り始めたのですが、この日は早朝から戦没者の遺族をはじめ、多くの人が訪れていたようで、雨を気にするふうはありません。アメリカ軍の砲弾や銃弾、火炎などを雨あられと浴びせられたことに比べればどうということない、との思いでしょう。

L1040695地元沖縄の戦没者は市町村別、それ以外の人は道府県別に、「平和の礎(いしじ)」にその名が刻まれ、どの礎の前にも多くの花束が手向けられていました。もちろん、戦前は日本の植民地だった朝鮮や台湾、樺太、さらにはアメリカ兵のものもあり、こちらの前にも小さな花輪や国旗が置いてあります。すでに65年も前のこととはいえ、実際に戦争がおこなわれた場所で、その当時の悲惨きわまりない状況を想像するのは、遠く離れた場所にいるのとでは、格段の差があることを痛感したしだい。こんなところでも、「アナログ主義」は、人間に深い影響を与えるのです。

天才アラーキーよりもっと天才、その名は荒木一郎

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自他ともに天才と認めるアラーキーこと荒木経惟は写真家です。たしかに、アラーキーの写真は、独特のエロティシズムがあますところなく表現され、間違いなく楽しめます。でも、分野は違うものの、天才度にかけては、アラーキーの上を行くのではないかと思われるのが、苗字は同じ「荒木」なのですが、日本のシンガーソングライターの元祖といわれる荒木一郎です。

若い人にはあまりなじみがないかもしれませんが、私くらいの年齢の者にとって、とりあえずミュージシャンとして、その存在感は圧倒的なものがあるのではないでしょうか。ちょうど私が高校に入ったばかりのころ、ラジオから流れてくる彼の曲を聴いて身震いした人は少なくないはずです。

その荒木一郎が6月13~15日、大胆不敵というか、なんと3日間連続のライブをおこないました。これほど大規模なライブは8年ぶりだそうです。ライブで3日間連続というのは珍しくないでしょうが、日によって内容がすべて違うというところにユニークさがあります。1日目は、10代のころ、まだ歌手になるとかいう話などない時期につくって歌った曲、2日目は歌手として全盛をきわめた20代のころの曲、そして最終日は、それより後、どちらかといえばほかの歌手や俳優のためにつくった曲で構成されていました。

L1040679 会場は、東京・世田谷区の北沢タウンホールという、地味なところです。下北沢の駅から徒歩3分ほどのところにあるのですが、基本は区役所の分庁舎。その2階に400人弱収容のホールがありました。客のほとんどは50代以上でしたが、関西や名古屋あたりから、このライブのためにわざわざ上京してきた人も少なからずいたようで、荒木一郎への支持の根強さが感じられます。もちろん、3日間とも満席。私も毎日通いましたが、なんとも素晴らしい内容でした。

ミリオンセラーになった「空に星があるように」「今夜は踊ろう」「いとしのマックス」「君に捧げるほろ苦いブルース」の4曲は毎日聴かせてくれました。しかし、ほかにも「梅の実」「海」「あなたといるだけで」「傷だらけの栄光」「あなたのいない夜」「ジャスミンの花は咲いてますか」「夜明けのマイウェイ」など、次から次とヒット曲を歌ってくれました。よく知られている作品の中で歌わなかったのは「ジャニスを聴きながら」くらいでしょう。MCもさえさえで、それだけ聞いていても飽きないところなど、たいしたものです。

若いころは気づきませんでしたが、今回思ったのは、その後シンガーソングライターとして名を成していったミュージシャンにも荒木一郎は多大な影響を与えたのではないかということです。たとえば、ひとつの曲の中で何度も転調する手法など、松任谷由実の専売特許のように言われますが、荒木一郎は10代のころからそうしたテクニックを盛り込んだ曲をいくつもつくっていますし、詞に表現される都会性も、こんな時代からと思わせるほど、卓越したものを感じさせます。そんなこともあるからでしょう、いま活躍中のミュージシャンにも、荒木一郎をリスペクトしている人は多いようです。

さすが天才、小説を書いたり、映画とかかわったり(俳優として、また監督として)など、さまざまな分野で活躍してきた荒木一郎。最近は音楽界での活動がめっきり減っていますが、それでも、その天才ぶりはいっこうに衰えを感じさせません。3日間、通しで楽しませてもらい、本当によかった! というのがいつわらざる実感です。

Thank you,荒木一郎!!

今年初めての著作『アナログ主義の情報術』を上梓

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昨年は結局、『名古屋脳』の1点しか上梓できませんでした。それも3月ですから、それからもう1年以上がたっています。これはまずいよなぁ……。そんなことは百も承知、二百も合点なのですが、去年4月から1年間続いた、朝日新聞(東京版)の連載コラム「街見しゅらん」が、週1回だというのに、思っていた以上に重かったのです。でも、ようやく、今年の1点目をこのほど出すことができました。タイトルは『アナログ主義の情報術』といいます。

版元は、ご存じないかもしれませんが梧桐(ごとう)書院といい、ここのところ次々と意欲的な企画を出している出版社。編集長とは20年来の付き合いで、昨年秋、この企画を依頼され、4月初めにようやく脱稿したしだい。カバーはシンプルで、それをはずした表紙(カバーを外した本の本体)には、私自身の仕事場で撮影していただいた写真がアレンジされています。全体としてシンプルな中に上品さがただよっていて、大いに気に入っています。

さて、中身ですが、タイトルから想像がつくように、近ごろ世の中を席捲しているデジタル的な情報収集・処理より、アナログ的な手法のほうがはるかに生産性が高い、しかもこちらの頭も柔軟かつ新鮮な状態を保つことができるから、結局はお値打ちですよという、私の独断的な考えにもとづいています。

詳しくはお買い求めのうえお読みいただくとして、新聞の電子版(日本経済新聞)や電子書籍など、i-Padが発売されたこともあり、デジタルの情報媒体はこれから先、想像を絶するような発展を見せるにちがいありません。しかし、だからといって、そればかりに頼っていては、私のような仕事は立ち行かないでしょう。デジタルの価値を否定するわけではけっしてありませんし、その利点は利点としてフルに活用しながら、これから先も、アナログ主義に足場を置きながら活動を続けていくのがいちばんだと、あらためて自覚したしだいです。

「がーまるちょば」が教えてくれる万国共通語

L1040655 土曜日(5月29日)の夜、新大久保にあるグローブ座でおこなわれた「がーまるちょば 東京凱旋公演」を観に行ってきました。がーまるちょばというのは日本人の2人組(ケッチとHIRO-PON)、国内でもさることながら国際的に有名なサイレントコメディー(パントマイム)の芸人、というよりアーティストです。ちなみに、がーまるちょば(Gamarjobat)とは、「こんにちは」を意味するグルジア語とのこと。

前後半あわせて2時間ほどの公演でしたが、ひとことも言葉を発せず、ただただしぐさと表情だけで観客をクギ付けにするのですから、感動してしまいます。とくに、後半1時間にわたって演じられた「BOXER」という演目は、素晴らしいのひとことです。その意味では、機関銃のようにしゃべりまくるお笑い芸人の、まさに対極的存在といえるかもしれません。

言葉を口にしないことでかえって国際性を持つというのも、考えてみるとおもしろい話です。逆に、しぐさと表情には、それくらい強烈な国際性があるということの証しでしょう。男も女も、大人も子どもも、だれもが楽しめる「がーまるちょば」、ぜひ一度観てみることをおすすめします。これまで海外26カ国で公演しているというのも納得できます。

自分たちで採った山菜を、即座に食べる快感

 エゾヤマザクラ、キタコブシ、ソメイヨシノ、ボケが一斉に満開──なんとまあぜいたくな体験できるのが、いまの札幌。春と初夏が同時にやってくるからその札幌に14日から来ています。朝6時過ぎだというのに、ホテルから歩いてすぐの大通公園には、そうした木々と、色とりどりのパンジーがびっしり植わった大きな花壇、そして、まだ雪をいただいたままの大倉山を遠くに見ながらウォーキングにはげむ市民が多く繰り出していました。

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その日の午後は、市の西端、手稲山まで山菜採りに行きました。地元に生まれ育ち、リタイアした現在は手稲中央連合町内会副会長、自然保護監視員もされている濱谷義昭さんの案内で小1時間ほど山の中腹を散策したのですが、天気も気温も、これ以上はないという最高のコンディションだったことも幸いし、自然を堪能できました。

L1040627  フキノトウもこれほど大きくなると(写真参照)、それとはわからず、濱谷さんに「これはなんの花ですか」と質問したくらいです。私たちが食べるのは、花がまだ開く前のときですから、わからないのむ無理はないでしょう。

 それにしても、終わった後、ふもとの居酒屋さんで料理してもらった山菜の、どれもみな新鮮でおいしかったこと。〝産直の極致〟のような食べ方ですから、当たり前といえば当たり前なのですが、それにしても、野菜(果物もそうですが)は採れたところで食するのがいちばんだとあらためて感じた次第です。

35年前にタイムスリップ

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 5月に入ってほぼ〝映画漬け〟の日々です。といっても、半分はテレビ(NHKのBSハイビジョンとBS2)なのですが、ヒッチコックの『海外特派員』『泥棒成金』『サイコ』、クリント・イーストウッドの『ペイル・ライダー』『トゥルー・クライム』で、計5本。映画館でも『ボーダー』『インビクタス』『プレシャス』『ウイニング・チケット』『ミレニアム』の5本を観ました。

 映画に対する私のスタンスは決まっています。それは、「この男が最後くたばると気持ちいいよなぁ」「こうなると皆ハッピーなんだけどなぁ」という、こちらが期待しているとおりに終わってほしいということです。それと、やはり明るい気持ちになれる作品でしょうか。どれほど巷の評判がよくても、極端な話、アカデミーの作品賞を取っていたとしても、この2つをクリアーしていない作品は、やはりなじめません。

 それにしても、昨日、35年ぶりに入った飯田橋のギンレイホールはなんと、満員でした。学生時代にほとんど毎週のように行っていた映画館なのですが、当時は建物も古めかしく、いかにも学生向けの名画座という感じがふんぷんとしていました。飯田橋はけっして場末ではありませんが、いささか旬を過ぎた作品の2本立て、それでいて値段は安かったからです。今回行ったら、外装はすっかりきれいになっていましたが、中の雰囲気はさして変わっていません。興行スタイルが当時と同じだからでしょう。それに、2本立て1300円(「夫婦50割引」ならなんと1000円)はやっぱり安い!

35年ぶりついでに、これまた学生時代しょっちゅう昼飯を食べていた「インドール」という食堂にも行ってみました【写真参照】。間口1間半・奥行き5~6間の店構えも、カウンターの中でひとり黙々と、名物のしょうが焼きをつくるおやじさんも当時と同じ。味もそのまま、最高にグーでした。昭和の時代に戻った1日でした。

仕事に明け暮れたGW、でも花で心なごむ毎日

 ゴールデンウイークは、かれこれ30年近く、どこにも行かずにいます。お正月とこの時期の東京は、静かですし、空気も澄んできれいなので、居心地がとてもいいのです。

 それで、今年は何をしていたのかというと、やはり仕事でした。結局、そうなってしまうのですね……(笑い)。ただ、仕事の合間に、庭の花をいじるという楽しみが加わったのが、大きな救いになっています。花をいじるといっても、それはもっぱら家人で、私はといえば雑草抜き、土の整備、不要になった鉢植えの処分といった、下働き的なことに専念しています。

L1040620_2  でも、不思議なことに、これがけっこう楽しいのです。人間、やはり土に触れていると心が落ち着くというか、癒されるのでしょうか。爪の先と指との隙間が泥で真っ黒になっても、そのことに充実感を覚えたりします。「雑草のようにたくましい」などと、あちこちに書かれているのを目にするのですが、実際、土中深く、広く根を張っている雑草を抜くのはけっこうハードな作業で、「たくましさ」の本当の意味が実感されます。

 私がいま住んでいる家は片仮名の「コ」の字型で、「コ」の字の中、空いている部分が庭(パティオ)になっています。その一部、3分の1ほどが、灯籠まで立つ日本式の庭。それと別に、3分の1ほどのスペースに石板が敷かれ、残りの3分の1は土の上に小さな石が敷き詰められています。

庭のほうはあらかじめでき上がっているので、新たに手を加えることもありません。そこで、石板の上に大小の鉢を置き、さまざまな草花を育て、咲かせるわけです。しかし、雑草はそれ以外のところに生えてきますから、私の作業はほとんどが土の上になるのです。

L1040602_5 今日の昼間、たまたま立ち寄った八王子の道の駅で、なんともカラフルで可憐なバーベナ5鉢とぽんぽん咲きのマリーゴールドを3鉢ほど買いました。そういえば、5日にもホームセンターまで土を買いに行っています。その前日(4日)、ホテルオークラでこの時期の定番イベントになっている「10カ国大使夫人のガーデニング」にも足を運んでいるので、ほとんど〝花漬け〟の毎日ではありました。

もうじき、花が咲き終わったチューリップを土から引き上げなくてはなりません。その跡に何を植えるか、それも楽しみです。これからは、土とたわむれる機会がますます増えるような気がします。これもやはり、歳なのでしょうね。

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沖縄・伊江島で100万輪のユリに感動!

 3日前の21日から沖縄にやってきています。着いた日は半袖でも暑い日だったのですが、翌日から気温がぐんと下がり、23日は朝から空模様もなんだかあやしい感じ。それでも、前日(22日)の朝、地元の新聞に出ていた広告を見て急遽思いつき予約を入れた「伊江島ゆり祭り日帰りバスツアー」に参加しました。

 伊江島というのは、本島の北西部・本部港からフェリーで30分ほどのところにある小さな島です(それにしても、船に乗るのはここ1カ月で5回目!)。その北側に、かつて日本全国の自治体に1億円ずつ均等にばらまかれて実施された「ふるさと創生」事業によって生まれた「リリーフィールド」という大きな公園があります。8万6千平方メートルという、海沿いの広大な敷地に、日本原産のテッポウユリを10万本も植えたもので、それがいまでは20万本に増え、毎年4月中旬から5月上旬にかけての時期に100万輪もの花を咲かせるのですから、それはもう壮観の一語に尽きます。

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 テッポウユリは、鹿児島以南の温暖な場所でないと花が咲かないとのこと。最近、我が家の庭や、道路に沿って並べた6個の大型プランターに植えた花の手入れをするのが楽しみになっている私と家人。それを知って、バスツアーのおみやげとして頂戴した球根を、東京でもなんとか咲かせてみようとひそかに決意しました。それくらい、花の咲き方がみごとで、独特の甘い香りもすばらしいのです。やはり、南の豊かな太陽の光を浴びているせいでしょうか。

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 リリーフィールド公園の後で訪れたハイビスカス園も大変なものでしたが、こちらは品種があまりに多すぎるのがむしろ難点に感じられ、それならシンプルなユリのほうが興味が湧きます。

 もともと、風に揺られて花がゆらゆらするさま=「揺り」から「ユリ」と呼ばれるようになったのだとか。伊江島のユリのじゅうたんも、東シナ海からの風に吹かれ、さわさわと揺れていました。テッポウユリの花言葉は「正直」だそうです。私たちが花に注ぐ愛に、伊江島から持ち帰る球根が来年のいまごろ、正直に応えてくれるといいのですが……。

もっともっと多くの人が遊びに行ってほしい酒田市

 昨日まで3日間、山形県を旅していました。4月3日は東根市、4・5日は酒田市。東根市は、山形新幹線の開通にともなって唯一、新しい駅がつくられたところで、例によって駅前にはほとんど何もありませんが、それだけに見晴らしは素晴らしく、駅の東から奥羽山脈の山々の美しさを目にすると、東京からやってきた私のような者の心はなごみます。西には月山、湯殿山、羽黒山の出羽三山がそびえ、こちらもまた美しい。東根市は麩とさくらんぼの名所と聞きましたが、麩懐石というのは、一度食べてみたいと思いました。

   4日は、さくらんぼ東根駅から酒田に向かうため、新幹線に乗り、終点の新庄で下車しました。家人の乗った後続の新幹線が東京からやってくるまで3時間ほど空白ができてしまったので、新庄ほどの都市なら、お茶でも飲みながら本を読むとか、それを埋めるのは訳ないと思っていたのですが、どっこい、事はそう簡単ではありませんでした。

L1040482_2 東根と同様、ここも新幹線の開通を機に駅舎を大々的につくり替え、駅前も再開発したのでしょう、美しく整備されてはいました。ただ、人目をひくものがほとんど何もないのです。駅の西口が旧市街らしく、いちおう建物は並んでいるのですが、店がほとんどありません。というか、人通りそのものがないのです。

一方、東口はというと、こちらも駅の前は広大な駐車場と公園があるだけ。わずかにビジネスホテル、パチンコ店+ゲームセンターの複合した施設、そして平屋建ての食品スーパーがあります。それも駅からやや離れているので、駅前そのものは、冬場に来たらさぞかし寒々しさを感じさせるだろうなという感じでした。

 3時間後、その新庄駅で家人と合流し、在来線で酒田に向かいました。酒田といえば、アカデミー外国語作品賞を受賞した映画『おくりびと』の舞台にもなった街です。数年前に訪れたときも感じたのですが、江戸時代、上方との交易でめっぽう栄えた面影がいまなお残る、個性的なところです。当時の栄華をしのばせる、積み出し用の米蔵、料亭、商人屋敷、店などがそのまま保存されており、じっくり時間をかけてまわれば、2日間はあっという間でしょう。

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 上方文化の影響もあってか、どことなくハイカラな雰囲気もただよっています。市内に有名なフランス料理のレストランがあるのを見ても、それはよくわかります。しかも、レベルは高いのに、場所柄だろう、値段は非常に安いのです。

 いまは観光がこの街のセールスポイントになっており、冬場はともかく、春・夏・秋はさぞかし多くの観光客が詰めかけてくるのだろうと思いきや、そうでもないようです。もっとも、首都圏あたりでいう「多くの観光客」とは、およそレベルが違うのかもしれません。押すな押すなというか、どこもかしこも並ばないと入れない、見えるのは人の後ろ姿ばかりといった混みようとはだいぶ様相が異なります。

 それだけに、どの観光スポットもゆっくり楽しむことができますし、食べ物もおいしいとくれば、一度行ってみる価値はあります。

朝日新聞の連載コラムを終えて

 昨年の4月から1年間続いた、朝日新聞のコラム=「街魅しゅらん」(毎週金曜日の「週刊首都圏」のページに掲載)が、今日付をもって終わりました。あっという間の1年間で、一抹のさびしさは否定できません。ただ、週に1回というのは考えていた以上にハードで、その意味では、正直ほっとしている部分もあります。

 この1年、首都圏の各都市に足を運ぶたび、その広さを感じるとともに、現地を実際に取材することの大切さをあらためて痛感させられました。その土地に住んでいる友人・知人から話を聞いたり、インターネットで調べたり、取材に行く前にある程度のリサーチをするのですが、聞く(読む)と見るとでは大違いとはよくいったものです。

 とくにインターネットを通じて得られる情報はもっともらしく、いかにも正しそうに見えます。きちんとした画面に、きちんとした形で出てくるからでしょう。ときには写真や動画までついているので、そのレベルがかなり高いように錯覚してしまうのです。

 新聞記者が最初に教えられるのは、「何度でも、現場に足を運べ」ということだと聞いたことがあります。もう遠い昔の話ですが、NHKでやっていた『事件記者』という人気ドラマでよく耳にしたセリフでした。当時はまだ小学生だったので、もちろん、その言葉の本当の意味など理解できませんでしたが、いまになって思えば、なるほどという気がするのです。

 現場には、現場にしか流れていない空気、風、においがあります。それは、その周辺に暮らす人たちがかもし出すものともいえます。あるいは、その地に古くからつちかわれている、広い意味での文化、風土のようなものかもしれません。

そうした空気や風、においを全身に浴びることで、体の中に強烈なエネルギーが湧いてくるのを感じました。ほぼ毎週そんな経験をしたわけですが、私にとってはとてもいい勉強でした。

マカオでは、赤か黒か、長か半かより、「大小」が人気

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いまマカオに来ています。昨年、カジノの年間総売上げがとうとうラスベガスを抜いたとかで、マカオはいまや世界一のギャンブル都市になりました。なにせ、世界一ギャンブル好きと思われる何億もの人たちがすぐそばにいるのですから、太平洋を横断し、はるばるラスベガスまで行くよりはるかに楽なマカオに行くのは、当たり前といえば当たり前かもしれません。近ごろラスベガスのカジノで、一時期ほど中国人の姿を見かけなくなったのはそうした影響もあるのでしょう。

L1040328 香港からフェリーで1時間、広州からでも高速バス(えらく乗り心地がいいらしいです)で2時間半と交通至便なことも手伝って、毎週末ともなると、これらの地から中国人が大挙押しかけてきます。実際、週末にホテルの予約を取るのはけっこう難儀します。マカオのフェリーターミナルは芋を洗うような混雑ぶりで、各ホテルに宿泊客のためのシャトルバス乗り場まで行くのも大変です。

昔、ギャンブル好きの日本人から「マカオは危険だし、汚らしくて……」という話を聞いたことがあります。その当時のことを知らない私は、行くたびに、新しいカジノホテルが増えているマカオに、日本人もこれからどんどん足を運ぶのではないかと予想しています。

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マカオのギャンブルで人気があるのは、なんといっても「大小(Sic Bo)」と「バカラ」です。バカラはどこのカジノにもありますが、大小のほうは、ここでしか楽しめないといっても過言ではありません。3つのサイコロを用いてその目の合計数字を当てる、ごく単純なゲームなのですが、ルーレット同様、その当て方がいろいろあります。文字どおり、大(11~17)か小(4~10)かを当てる(1のゾロ目=3と6のゾロ目=18はディーラー=カジノ側の総取り)ものから、出た目の合計、その組み合わせなど、難易度によって配当も違ってきます(2倍~181倍)。

家人など、このゲームにすっかりハマっており、私もその影響でファンになってしまいました。マカオのカジノにはどこも皆、この「大小」のテーブルが数多く並んでおり、大変な人が参加しています。主に広東語が飛び交っているのですが、だれもが熱くなっていますから、そのうるさいこと、うるさいこと。例によってマナーがあまりよくないので、テーブルではなくマシンの「大小」で楽しむ人も少なくありません。

それにしても、カジノに遊びに来ている中国人のファッションはここ2、3年の間にすっかり様変わり。本土から来ているのか、香港・台湾あたりから来ているのか、にわかに判別できなくなりました。それだけでも、中国本土の経済の発展ぶりがわかろうというものです。

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今年は、「非常に珍しい」幸運の年?

 元旦の夜、空になんともくっきりと満月が浮かんでいたのを見ましたか? 今月は30日も満月です。ひと月のうちに満月が2度あるのは珍しいことで、幸運の象徴でもあるそうな。それから転じてのことでしょう、英語では、「非常に珍しいこと」とか「非常にばかげたこと」という意味があるとのことです。しかも今年は、3月にも満月が2回あるとのこと。3月の末は、うまくするとお花見とダブルで楽しめるかもしれません。

 この年になって初めて知ったのですが、同じ月の中で2回目に迎える満月を「ブルームーン(blue moon)」と呼ぶそうです。カクテルの名前(あとへ、せいぜいキャバレーの店名──古いですねぇ!)でしか知らない「ブルームーン」にそんな意味があったとは。

 いずれにしても、2010年はブルームーンが2回もある幸運な年のようです。世の中全体、いまひとつ明るさが感じられない中、楽しみがグンとふくらんできました。

沖縄でプロのバスケに触れて興奮

今日、沖縄から戻ってきました。前回行ったとき(11月5~10日)、この期間に魅力的なイベントが連続して開催される情報を得たので、予定をこじ開けて、今月も11日から行くことにしたのです。12日はバスケットボール「bjリーグ」の試合(うるま市)、13日は、今年かぎりで活動にピリオドを打つ原信夫とシャープス&フラッツのラストコンサート(沖縄市)、そして15日は大相撲の巡業(浦添市)でした。

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bjリーグというのは、バスケットボールファンなら知らない人はいないでしょうが、日本唯一のプロバスケットボールのリーグ。2009年12月現在、全国に13チームあり、その1つが琉球ゴールデンキングス(2008~09シーズンは優勝)なのです。

もちろん、プロとはいっても、実力も人気も、またビジネスという面から見ても、アメリカのNBAには遠く及びません。というか、日本ではまだバスケットボール自体が、マイナーなスポーツにとどまっており、競技レベルもいまイチといわざるを得ません。当然のこと、ファンの数も圧倒的に少ないのが実情です。長い間、実業団(社会人)のスポーツとして定着していましたから、プロ化に際してもまだ統一した方向が定まっていないという問題もあります。

ただ、アメリカと日本の人口比(アメリカは日本のほぼ2倍)を考えると、日本のプロスポーツの実態はなんともさびしい感じがします。というのも、日本は野球、サッカー、そしてバスケットボールしかプロがない(個人競技は除く)のに、アメリカはこのほか、アメリカンフットボールとアイスホッケーがあります。アメリカのプロバスケットボール(NBA)のチーム数は30、観客数は1試合平均、最高で2万人を超え、最低でも1万3千人だそうです。

それでも、バスケットボールのスピード感は野球やサッカーの比ではありません。ちょっと下を向いてドリンクを飲んでいる間にもシュートが決まるのですから、試合開始から最後まで、息つくひまもないのです。沖縄は長い間アメリカの占領下にあった影響もあるのでしょう、バスケットボールの人気が高く、観客数もbjリーグの中では断トツです(平均で2千7百人ほど)。ふだん、ゆる~い生活をしている沖縄県民にとって、バスケットボールはとても新鮮に感じられるのかもしれません。

もちろん、応援も力が入っており、部外者の私が見ても、興奮させられます。その日観戦した、うるま市の具志川総合体育館は正直、かなり貧相ですが、それでもひとたび試合が始まればそんなことはすっかり忘れ、声を枯らしながら声援を送らせてもらいました。

日本人があまり行きたがらない街もいいですよ!

L1030995_2  9月29日から昨日まで、アメリカ・テキサス州のサンアントニオという街に行っていました。今回の訪米は、学生時代の先輩の娘さんがロサンゼルスで結婚式をするので、それに参加するためです。ただ、それだけではもったいないというので、以前から、一度行ってみたいと思っていたサンアントニオをくっつけた次第。

 でも、サンアントニオなんて、ご存じない方も多いでしょう。NBAのファンなら、スパーズ(spurs)の本拠地として知っているかもしれません。しかし、これが予想以上に魅力的な街でした。

L1040019_2 まず、今回初めて知ったのですが、テキサス州というのはもともと、アメリカではありませんでした。多くのアメリカ人がテキサス州のことをどこか特別扱いしているように感じられたのはそういうわけだったのです。この地域は16世紀以来、スペインの支配下にあり、1821年メキシコがスペインから独立を勝ち取ったときも、その一部でした。メキシコ政府はその開発を進めるべく、隣接するアメリカからの移民を認めたため、アメリカ人が増えていきます。しかし、彼らとメキシコ政府との間に摩擦が起こります。

奴隷制を認めないメキシコの政策に不満を感じたアメリカ人移民は1835年、メキシコからの分離をめざして反乱を起こし、翌36年、「テキサス共和国」として一方的に独立を宣言しました。これに対しメキシコ軍は、アメリカ人たちがたてこもっていたサンアントニオのアラモ伝道所(18世紀の初めにつくられた)の砦を攻撃、テキサス独立軍の守備隊189人が全滅してしまいました。これが有名なアラモの戦いです。しかし、その後もテキサス独立軍は、「アラモを忘れるな」(“Remember the Alamo”)を合言葉にメキシコ軍と戦い続けます。そして、サンタ・アナ将軍率いるメキシコ軍をサン・ハシントの戦いで撃破、将軍も捕えられたこともあって、メキシコはとうとうテキサス共和国の成立を認めました。

ところがその後、テキサスがアメリカ合衆国28番目の州として併合されたため、翌1846年、メキシコはアメリカに宣戦布告、米墨戦争が勃発します。この戦争はアメリカが終始優勢で、48年、アメリカの勝利に終わります。負けたメキシコはアメリカに現在のカリフォルニア州、アリゾナ州など、南西部をアメリカに割譲させられました。

L1040010_2  というわけで、テキサスはいまのアメリカ領土を確定する引き金になったともいえる存在で、その原点の地がサンアントニオというわけです。それほどの長い歴史があるところですから、街には、ロサンゼルスやサンフランシスコ、あるいはニューヨークなどともかなり趣が異なる、独特の雰囲気があります。

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ロサンゼルスやサンフランシスコにもスペインの香りが多少残っていますが、サンアントニオの比ではありません。メキシコというフィルターを経てではありますが、古きよき時代のスペインの空気が流れているように思えました。いまも高層ビルが少なく、それも、独特の雰囲気を保つのに貢献しているようです。その最大の目玉は、市内を流れるサンアントニオ川沿岸の遊歩道(リバーウオーク)です。リバーウオーク沿いには、こじゃれたレストランやカフェが山ほどあり、どこに行ったらいいのか、毎回迷っていました。

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なお、アメリカに併合されてからこの街を築いたのはなぜかドイツからの移民だったらしく、市の南端には、キング・ウィリアムズ・ヒストリックエリアという、19世紀にドイツ人が住んでいた屋敷がそのまま残され、落ち着いた高級住宅街を構成しています。そこでいまも営業している元製粉所の敷地内にあるレストランが印象的でした。

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広島人にとって「その日」とは?

 8月3日から、取材で広島に来ています。今回のテーマは、「その日」を迎える広島(人)の表情を追うこと。「その日」とはもちろん、8月6日、人類史上初めて、原爆が人間に向かって使われた日(1945年)のことです。

 すでに前々日あたりから、広島市には国内各地はもちろん、世界中から多くの人たちが次々と訪れてきています。ホテルはどこもみな満杯、私も2カ月以上前に予約を入れたのですが、それでも望んでいたところは取れませんでした。「その日」の前日、夕方に平和記念公園を歩きましたが、多くの人たちが精霊流しに加わり、被爆して亡くなった15万人もの人々の霊を慰めていました。

それにしても、「その日」に対する広島人の思い入れは、部外者の思いをはるかに上まわる強さがあるように感じました。前夜、市内随一の盛り場・流川の一角で食事し、そのあと立ち寄った近くのバーのオーナーが、「うちも、おばあちゃんが被爆して亡くなりましたから。店を閉めたら、その足で慰霊祭に行きます」と、しみじみした表情で語るのを聞き、そう思ったのです。

ここでは、いま、どんな状況にあれ、身内に被爆者がいる人はだれでも、「その日」をことのほか敬虔な思いで迎えるようです。それくらい、原爆は重く、また長く人々にのしかかっているのでしょう。人々のそうした素朴な思いに「反戦思想」や「平和主義」といった言葉をかぶせるのは簡単ではあるのですが、それだけではいい尽くせない気がしました。

 今朝、朝食もそこそこに、爆心地である平和記念公園の慰霊祭会場に行ったのですが、早朝からそこを訪れている人のだれもが、いつになく真剣な表情をしていました。かの田母神俊雄・前航空幕僚長は、「あの慰霊祭は実は日本弱体化の左翼運動だ。あそこに広島県民、市民はほとんどいない。原爆被害者も被爆2世もいない。並んでいるのは全国からバスで集まった左翼ばかりだ」と述べているそうですが、少なくとも私の見たかぎり、これはひどい事実誤認のように思えます。

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色あせたイデオロギー的な言辞ほど、広島の「その日」に似つかわしくないものはありません。そして、この一点だけ取り上げても、氏の〝インテリジェンス〟の欠如がはっきり示されているのではないでしょうか。

「衛星都市」になっても埋没しない街

 7月30日に神奈川県海老名市、31日は茨城県の小見玉市に、朝日新聞「街魅しゅらん」の取材で行ってきました。どちらも予備知識がほとんどなく、こんなことでもないかぎりまず行きそうにないところですが、それぞれ大きな発見がありました。

 海老名というところは日本で初のシネマコンプレックスがつくられた街だそうです。小田急沿線とはいえ、東京からはかなり遠く、どちらかというと横浜のベッドタウンでしょう。しかし駅前は、ディズニーランドにでも来たのかと一瞬錯覚しそうになるくらい、えらくお洒落な感じがします。建物やその周囲の施設のユニークなデザインや色使いが、その要因なのでしょうか。

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 そんなことを思いつつ、駅から市役所に向かって歩き始めました。すると、この地域で古くから盛んだった農業に、市や地元の人たちがいまでも力を入れていることがひしひしと伝わってきます。駅から数分も歩くと、あたりはもう畑と田んぼにビニールハウス。しかし、駅前のマンションや商業施設とミスマッチの印象はありません。農業ががっちり根をおろしているという感じがするのです。

大都市近郊にある多くの街が、ベッドタウンであることにひきずられアイデンティティーを失ってしまう中、それを保っていられるのは、できそうでできないことです。それが、駅前の見かけだけでない、この街の魅力を高めているような気がしました。

 翌日出向いた小見玉市は、旧小川町・美野里町・玉里村の2町1村が平成の大合併で一緒になって生まれた街。地元関係者以外でその存在を知っている人がいたらめっけものでしょう。というか、地元出身者でもすでにそこを離れている人は、そのことを知らずにいるようです。

 それというのも、ラジオで、「私は美野里町の出身なのですが、いつの間にか小見玉市になってたんですね。知らない名前なので、びっくりしました」などという声が寄せられていたからです。来年3月には、市内に茨城空港が誕生するので、「小見玉」の名前がマスコミをにぎわすことでしょうが、それまではいまのまま、無名の状態が続きそうです。でも、これは考えてみると不幸な話です。

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 それにしても、こんなところに空港をつくって、利用者がいるのだろうかと心配になってしまいます。市内にもその周辺にもこれといった観光資源はありません。現在定期便の就航が決まっているのはアシアナ航空だけだそうですから、せいぜい、韓国からゴルフを楽しみにくる(需給がアンバランスで料金がえらく高い韓国に比べると、茨城・栃木は格段に安い!)人がいるくらいではないでしょうか。

沖縄で、皆既日食に興奮

 トカラ列島の悪石島に大勢のマニアが訪れているのをよそに、私はたまたま取材で着ていた沖縄本島・那覇で、46年ぶりという日食に出くわす幸運に恵まれました。日食観測用のメガネ(500円!)を片手に、太陽とにらめっこしながら午前中を過ごすことになったのです

 46年前といえば、私が中学1年生のとき。そういわれれば、ろうそくを燃やして出る煤をつけたすりガラスの破片を手にしながら、必死になって空をながめた記憶がよみがえってきました。それ以来のことなのですが、大人になっている分、どこかクールな自分がいます。

 それでも、実際それを目にすると、ドキドキするものです。名古屋でその昔見たのは、おそらく部分日食だったのでしょう。それが沖縄ともなると、92%も太陽が欠けるのですから、あたりがかなり暗くなるのではないかなどとあらぬ想像をめぐらせたりもします。

L1030247 日食が始まって15分ほど経過。もう3分の2以上消えている。

 でも実際は、そこまで行きませんでした。太陽のまわりにまん丸の虹みたいなものができ(これは不思議です!)、メガネを通して見る太陽が時々刻々と欠けていく幻想的な様子を目の当たりにすると、やはり素朴に興奮します。

L1030252 太陽のまわりにこんな神秘的な”虹”が状のものが見える

 本当は、一眼レフに望遠レンズとフィルターを用意したうえで撮るのでしょうが、それほどのマニアではありませんから、コンパクトのデジカメのレンズに、500円の日食用メガネをかぶせて撮る、まったくの急ごしらえ。それでも、まずますの映像が撮れるので、私としては十分でした。

 それにしても、こういう珍しい天体のショーを見ると、ゾクゾクしてしまうのが人間なんですね。いまでこそ、何月何日何時何分何秒まで、皆既日食が起こるなどということが事前にはっきりわかるわけですが、そんな情報など一切なかった大昔の人たちは、いったいどうだったのでしょうか。突然あたりが暗くなり、気温も下がり、気がついたら太陽が姿を消してしまっているのですから、よほど恐ろしいことが起こったと、うち震えたのではないかと思うのです。おそらく、そのとき人々は自然に対する畏怖の念を抱いたことでしょう。

 科学の力ですべてが明かされてしまっている現代人と、そうでなかった昔の人たち。どちらが幸せなのか、そんな疑問もわいてきます。

滋賀大学経済学部同窓会で講演しました

 昨日、名古屋で講演をしました。滋賀大学経済学部同窓会(名前を「陵水会」といいます)の名古屋支部が年に一度開催する総会のゲストとしてお招きいただいたのです。

 もともと、高校3年生のとき同じクラスだったWくんから頼まれ引き受けたのですが、「同窓」という言葉の持つ意味を、改めて考えさせられました。

 感動的だったのは、参加者全員で校歌を斉唱する場面。滋賀大学経済学部は戦前の彦根高商が前身なのですが、高商時代の卒業生まで含め、百数十名が一瞬にして「学生」に戻ってしまうのですから、不思議といえば不思議です。と同時に、この学校の強烈なアイデンティティーの強さを感じました。それくらい、声に力がこもっていたのです。それらの学校とはまったく関係のない私ですら、目頭が熱くなってしまったほどです。

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 いま思うと、『不思議の国の信州人』(KKベストセラーズ刊)という本を書くきっかけになったのも、こうした大合唱でした。長野県出身者は、集まるとかならず全員で「県歌」を歌うという話を聞き、「それはおかしい、おもしろい」と思いました。当の長野県人にたずねると、「なんで? 県歌を歌うなんて、当たり前のことじゃないの」と不思議そうな顔で問い返してきます。

 「いやー。いまどき、校歌だってまともに歌わないのに、県歌ですよ。だいたい、県歌なんてシロモノがあること自体、レア過ぎでしょう」といっても、納得した様子がありません。そこで、信州には他の県にない、おかしなこと、不思議なことがほかにもまだいっぱいあるのではないかということで、取材を始めると、あるわ、あるわ。ということで、それを材料にして、本を書き上げた次第です。もう10年以上前の話です。

 大きな声で歌を歌うだけで、人間そのものが変わる──。この原理は古今東西変わらないようです。先月観たアメリカ映画の中でも、プリンストン大学の同窓生が校歌だか寮歌だかを大合唱するシーンがあったのですが、そこでも、ふだんはきちんとしたビジネスマンや公務員、学者が、酒の勢いもあるにせよ、まるで別人のような顔を見せながら、大声を出していました。

 そういえば、4月末に名古屋であった「ラグビー部創部60周年を祝う会」に集まった面々も、年齢・立場に関係なく、校歌を歌っていたっけ。その輪の中にいる自分は、もちろん高校生でした。

「鉄子さん」に「歴女」……。でも、「地理」だけは永遠に男のもの!?

 最近、「鉄子さん」とか「歴女」といった言葉をよく見聞きします。従来は男性しか興味・関心を示さなかった鉄道や歴史といった分野に、女性がどんどん入り込んできているようなのです。

 私自身も、鉄道や歴史にはそこそこの関心はあります。しかし、「地理」ほどではありません。そして、気がついたのですが、この「地理」の世界にだけはいまのところ女性の浸食は見られないように感じます。

 女性というのは概して旅行が好きです。私は男性ですが、旅行は3度のメシと同じくらい好きです。テレビで少しでも興味を惹かれる映像を目にすると、すぐ、どこの話なのかということが気になり、わかると、すぐにメモします。いずれそのうち、自分の目で見てみたいと思うからです。手近に置いてある地図をめくり、その場所も確認しておきます。

 小説を読んでも同じことをします。とくに、海外の翻訳ミステリーなどを読むと、もう大変です。読むときは付箋がマストアイテムですし、メモ帳やボールペンも欠かせません。許されるのなら、分厚い地図帳も用意しておきます。

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 どんな作品もそうなのですが、かならずどこかの都市やリゾート地が舞台に設定されています。だれも知らないような小さな村や町で物語が終わっているときもあれば、複数の都市、いくつかの国々にわたっている場合もあります。

 すでによく知っている都市や国でも、作品によって、登場してくる場所は異なります。レストラン、バー、ホテル、商店、警察署、道路、細い路地、公園、川、橋、湖沼、港、空港、スタジアム、倉庫街、高層ビル、浄水場、森林、……。それをいちいち確かめながら読んでいくのです。

 小説ですから、何が出てくるかわかりません。でも、海外の小説の多くは、現実の場所を舞台に設定しています。そこに出てくる店なら店、道路の名前なら道路の名前など、すべてメモっていきます。これがまた楽しくてしかたありません。

 ロンドンにサビルロー(Savile Row)というところがあります。スーツやジャケット、ワイシャツなど紳士服関係の店が軒を連ねている、ごく狭いエリアです。明治の初め、日本人が初めてスーツを目にしたとき、そういう服をお国ではなんと呼ぶのかとたずねた日本人がいたのでしょう。質問を受けたイギリス人が、「このスーツはサビルローの店であつらえたんだ」という話をしたのではないでしょうか。

 それを耳にした日本人が、スーツのことを英語では「サビルロー」というのだと早とちりしたにちがいありません。たしかに、ネイティブの人が「サビルロー」と発音するのを聞けば「セビロー」と聞こえるでしょう。以来、日本語では「背広」という言葉がスーツの名称として定着します。

 そのサビルローの一角に「ターンブル&アッサー」という老舗のワイシャツ専門店があります。ワイシャツでは世界的に有名なブランドらしいのですが、そんなことは知る由もありません。私がこの店の存在を知ったのは、1冊のミステリー小説にそこが登場していたからです。

 もう20年ほど前になりますか、初めてロンドンに行ったとき、さっそく、サビルローに行ってみました。すると、本当に「ターンブル&アッサー」という店があったのです。このときの感動といったら……。店の前に立った私は思わず店の中に入り、ワイシャツを1枚買ってしまったくらいです(もちろん、オーダーではなくレディーメイド)。

 店の人にも、なぜこの店に来たのかを、拙い英語で話しました。それを聞いて、その店員が拍手喝采してくれたのはいうまでもないでしょう(といって、特別のサービスがあったわけではありませんが)。

 こんな発見が、世界中どこに行っても味わえるのは地理好きの特権ではないかと思います。そのこと自体、経済的な価値はまったくありません。ミステリー小説に登場してくる場所がすべて、観光ガイドに出てくるところばかりではないのですから。むしろ、自力で探し当てることに楽しみと喜びがあるのです。

 女性の場合、旅行というと、買い物が楽しみなようです。それと、おいしいものを食べることでしょう。もちろん、それが嫌いなわけではありません。でも、それにこうした発見がプラスされることで喜んだりするのは、男性だけではないかと、ひそかに思っています。

 そんなことを思っている私なのですが、今日から、「鉄男」くんならぬ「地理男(ちりお)くん」を名乗ることにしよう。「地理」など、役に立つかどうかということからすれば、それこそ「塵(ちり)」ほどの価値もないでしょうが、少なくとも好奇心を満足させてくれる材料には事欠きません。

40年以上(!)ぶりの山登りに感動

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 一昨日は、「街魅シュラン」の取材で小田原市に行きました。久しぶりに乗った小田急ロマンスカーは、箱根方面に行くグループでけっこう込み合っていました。近ごろどこの観光地に行っても感じることですが、リタイアした団塊カップル、それと熟年世代の女性グループばかりが目立ちます。皆、元気いっぱいです。

 お昼前に小田原駅に到着。ホームの上は総ガラス張りで、規模は及びませんが、ヨーロッパのターミナル駅を彷彿させます。日本とヨーロッパの鉄道、とくにターミナル駅の設計はヨーロッパのほうが断然優れているように思っているのですが、それに負けるとも劣りません。JRの小田原駅と一体ですから、コンコースも広くて明るく、着いただけで、日常から解放された気分を味わえます。
 小田原はもともと城下町。それもハンパな規模ではありません。一時期は関八州全域を治めていた北条氏の本拠地ですから、それも当然でしょう。その小田原城を1年がかりで、さまざまな策略を用いながら落としたのですから、やはり豊臣秀吉の強さはたいしたものです。
 お堀はきれいに整備され、満々と水をたたえています。復興してまだ間もない銅門(あかがねもん)をくぐると、天守閣はもう目の前。その登り口の前にある公園には、なんと象がいました。名前はウメ子といい、推定年齢はなんと62歳。国内では東京武蔵野市の井の頭自然文化園にいる象(こちらは「はな子」)と並んで、最高齢だそうです。象というのはなんとも罪のない顔をしているというか、可愛いこと、この上ありません。思わず、写真など、撮ってしまいました。

 翌日は、高校時代の仲間4人と箱根の山登りに挑戦しました。めざすは標高1213メートルの金時山。およそ2時間かけて登ったのですが、山頂に立つとなんともいえない爽快感を味わえます(天気さえよければ、富士山が、ホント目の前に見えるとか)。山登りなど、高校2年のとき会津の磐梯山以来。そのとき一緒だった仲間も1人いましたが、登りっぷりは当時と雲泥の差でした。

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 とはいえ、こういう自然満喫のレクリエーションもたまにはいいものです。あろうことか、「秋の紅葉の季節にまた来たいね」などという話までまとまってしまったほどですから、それぞれ心地よさを感じたにちがいありません。その夜は温泉につかり、ワインをしこたま飲み、おいしい食事を楽しみました。
 取材は取材で楽しいのですが、こうした、プライベートなイベントと合体させるのもテだなぁなどとひとり合点した次第。でも、明日、明後日あたり、足腰の筋肉に痛みを感じるのでしょうね。

悲しい悲しい所沢……悪いのは西武鉄道か?

 朝日新聞「街魅シュラン」の取材で、所沢市に行ってきました。西武ライオンズ球場がこの地につくられて以来、何かと注目を集めているから、存在感はたしかにあります。
 

しかし、実際に足を運んでみるとガックリ度が大きく、驚いてしまいました。最大の理由は、所沢駅前の商店街の個性のなさにあります。商店街の名前は「プロペ通り」といいます。プロペというのは、プロペラに由来しており、所沢が日本で初めて飛行機が飛んだことにちなんだものだそうです。

 プロペ通りの左右にはびっしり店が並んでいますが、その9割以上が、全国チェーンの店。入口にあるマクドナルドから始まり、カラオケ、居酒屋、焼肉、ファストフード、レストラン、靴、コンタクトレンズ、コンビニなど、ほとんど知らない店は一つもないといった感じです。逆に、所沢の地元の店はほとんど皆無で、わずかにお茶屋さんと和菓子屋さんが一つずつある程度。

 だれがどのようにこの商店街をつくったのかわかりませんが、昔からあったとしたら、こうした店の並び方はしていなかったでしょう。駅の真ん前に立つのは西武デパートですが、西武線なのですからそれはいたしかたありません。でも、商店街にはもっと所沢らしさがほしいなと思いました。

L1030061 こんなに素晴らしい航空公園がある街なのですが……。

 近ごろは、全国どこの駅前に降り立っても感じることですが、ホント似通っているのには驚いてしまいます。文字を見なければ、そこがどこの駅前なのか、判断できないのではないかという気さえします。

 地場の小さなお店がこうまでみごとに姿を消してしまうと、街の個性が感じられません。こういう「一律化」の街づくりの根本にあるのは、地元に人たちの気質や意識、あるいはその地の風土をきちんと考えていないということです。とりあえず、姿かたちがそこそこならそれでOKという、安直な姿勢が目に浮かんできます。

 これなら、同じ商業ベースにもとづいていても、東急線の沿線のほうがまだましかもしれません。

広島に足りないのはサービス精神?

 昨日、イチロー選手が3068安打という、日本人として最高記録タイを達成しました。そして、今日はそれをあっさり更新、これからは記録を伸ばすだけです。日米通算がウンヌンという論議はこの際脇に置いて、まずは「おめでとう!」です。

 しかし、それより私が感心したのは、タイ記録を達成したそのとき、シアトル・マリナーズのホームスタジアムがおこなった、粋な演出です。それまでの記録保持者・張本勲氏を称える映像とアナウンスを流したというのです。もちろん、張本氏が球場に来ていたことを知っていたからです。4万人近い観衆のほとんどは張本氏のことなど知る由もないでしょう。しかし、張本氏たった一人のために、球団はそうしたことをしました。張本氏は思わず目頭を熱くしたそうですが、それはよくわかります。さすが、野球発祥の地だなと思いました。

 この記事を新聞で読んだとき思ったのは、今月10日、新装成った広島市民球場(マツダ・ズームズーム・スヤジアム)で開催された初めての試合(広島対中日)のことです。この日私は、広島ファンでも中日ファンでもないのに、広島まで行き、試合を観戦しました。理由は、新しく完成した球場の第1戦、どんな楽しいセレモニーがおこなわれるのかをこの目で、リアルタイムで見たかったからです。

 ところが、わざわざ書くようなことは何もありませんでした。試合前は両軍の全選手、監督・コーチがグランド上に並んで国旗掲揚・国歌斉唱があっただけ。それらしいイベントといったら、3回裏の攻撃が終わったあと、50数年前、旧広島市民球場が完成し第1戦がおこなわれたときベンチ入りしていた選手が5人、その当時のユニホーム姿でホームベ-ス前に並び、紹介されただけです。スコアボード横の素晴らしいスクリーンに映像が出るわけでもなければありません。

 当然のこと、だれも、トイレに行く足を止めたり、食べ物を買いに行くのをやめようともしません。なかには、そのとき何がおこなわれているのか気づかずにいた観衆もいたことでしょう。

 いくら広島が貧乏なチームだといっても、またスポンサーのマツダが業績不振にあえいでいるといっても、あまりに知恵がないというか、わざわざ足を運んでくれたファンに対して失礼なのではないでしょうか。正直、ガックリしてしまいました。 広島カープにかぎらず日本のプロ野球チームはどこも皆、ファンに対して感謝の念がないというか、楽しませようという工夫がほとんどありません。これでは、プロ野球の観客の数が年々減っているのも当然ではないかという気がします。

 もう20年以上前、アメリカ西海岸を家族で旅したとき、カリフォルニア州アナハイムでエンゼルス対オリオールズの試合を観に行ったことがあります。内野でも安い席でしたが、それでも球場にやってきた全員に入口でノベルティーグッズを配っていました。そのときもらったケネディコイン(1ドル)はいまでも、私の大切な宝物として取ってあります。

 広島カープも、マツダも、何か物を配りなさいといいたいのではありません。でも、何かしら、第1戦の記念になるような「こと」をおこなうくらいのことはしてもいいのではないでしょうか。さほどお金をかけなくても、ちょっと工夫すればいろいろアイデアは生まれたはずです。プロ野球というかスポーツビジネスに対する、日米間の取り組みの大きなへだたり、差をいまさらながら感じさせられました。正直、日本のスポーツビジネスはまだまだ20年近く遅れているなと思ったしだいです。

朝日新聞で連載コラムがスタート

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 新しい年度がスタートしました。世の中なんとなく、リセット気分も感じられますが、それは学生さんとか新入社員とか、ごく一部の人たちのことでしょう。今週月曜日(3月30日)からはテレビやラジオの番組も様変わりしているようですが、テレビなどそうそう観ることもない私にとってはほとんど無関係といえます。

 今週の金曜日(3日)から朝日新聞で「週刊首都圏」というページが始まります。東京版とか横浜版とかいうのはこれまでもありましたが、そうした枠を取っ払った「首都圏」という大きな切り口で、毎回さまざまなテーマを取り上げるのだそうです。その一角に連載のコラムを受け持つことになりました。タイトルは「街魅(まちみ)シュラン」といいます。毎回、首都圏の都市(東京なら区)を一つずつ取り上げ、“都市生態学”の見地から鑑定するというもので、第1回は「相模原市」です。

 一昨年、その全国版といってもいい『都市の通信簿』という本を上梓した(草思社)のですが、反響はいまイチでした、著者としては、熱心に取材もしたし、切り口もユニークだから、けっこういい線行くのではないかと秘かに期待していただけに、残念でなりません。でも、それを読んでくださった朝日の記者さんが、「では、首都圏で」というお話をもってきてくださったものですから、私としては二つ返事でお引き受けしました。
 その取材で、あちこちの街を訪れることになります。一昨日も、千葉県のある市まで行ってきたのですが、私が事前に頭の中で思い描いていたのとはまったく異なる「千葉」を感じました、詳しくは近々、朝日の紙面に書きますが、実際現地に足を運ばないと見えてこないもの、感じられないものがいくつもあります。

 この「現地主義」、私としては何を書く場合も戒めとしているのですが、「県」を扱っているうちは許されていたことが、市とか区になると、そういうわけにも行きません。今回の企画にたずさわることで、そうした部分が改めて実感でき、本当によかったと思っています。読者の皆さんにも、そんな部分を感じ取っていただきながら、ご愛読くだされば幸いです。よろしくお願いします。

念願の「志の輔落語」@パルコ

 今日は、落語を堪能しに行きました。志の輔の独演会が渋谷パルコであり、それを聴きに行ったのです。志の輔落語は、チケットがなかなか手に入りません。これまで何度かチャレンジしてきたのですが、ずっとアウトが続いていました。こんどこそと、ようやく金的を射止めたしだい。

 でも、実際なぜ、そうまで人気なのか、よくわかりました。普通は、独演会といっても、前座や中継ぎ役の落語家がかならず入るものです。しかし、今夜は、そうした助けを借りず、最初から最後まで文字どおりの独演。たった1人で3時間近く、こちらをクギ付けにするのですから、やはり並大抵の噺家ではありません。

 枕にタイムリーなネタを配す臨機応変さも一流なら、落語家の命といってもいい「間」の取り方も抜群、これまでテレビやDVDでは何度も見聞きしているのですが、やはり生の志の輔をリアルタイム、リアルプレースで観る・聴くのにはかないません。3時間近い独演会を終えた後、体が妙に軽くなっているのを感じ、これだからファンが増えるんだと合点しました。

58歳は「アラ還」というらしい

 秋元順子という歌手がいます。「愛のままで…」という歌がブレークし、去年はNHKの紅白歌合戦にまで出場してしまいました。年齢が62歳だというので「アラ還の星」などというニックネームまで頂戴しているようです。

 そういえば、私自身もいつの間にやら、その「アラ還」の一員になってしまいました。学生時代、私より2歳年上で、ともどもに遊んだりした先輩がこのほど、誕生日を迎え、「アラ」ではなく「ジャスト」還暦を迎えるというので、それを祝う会が今日の昼間、新宿のレストランでおこなわれました。日本を離れて20年以上になるHさんですが、会場には50人近くが集まる盛況ぶりです。

 私と妻もその会に参加したのですが、集まってきた人もほとんどが「アラ還」の人たち。改めて「還暦」などという言葉を聞くと、自分もとうとうそんな年になったかと、一瞬落ち込んでしまいそうですが、気持ちだけはまだ一様に若いのが救いです。

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 もちろん、話題はもっぱら40年ほど前のことばかりで、そこからなかなか脱しないのですが、だれしも、20歳前後に経験したことは忘れ難いものなのでしょう。これから先、こうした催しが増えそうな予感がするのですが、それにしても、当時の記憶のなんとも鮮明なことには驚きます。

大相撲初場所後、尾車部屋でチャンコ鍋

 昨年、ある方の紹介がきっかけで、尾車親方(元関脇・琴風)と親しくなりました。去年も、初場所期間中に部屋を訪れ、新年会のような場に参加させていただいたのですが、今年は私と家人、末っ子の3人だけで部屋を訪問することになりました。

 豪風(たけかぜ)、嘉風(よしかぜ)、若麒麟という3人の関取を擁している尾車部屋ですから、勢いがあります。この中から一人でも大関や横綱が生まれれば大変なことになるでしょうが、親方の当面の夢は、幕内優勝の賜杯を手に、国技館からオープンカーで凱旋することだとか。私も新聞やテレビの画面を通じてしか観たことはありませんが、たしかにあの喜びは何ものにも替え難そうです。

 それにしても、尾車部屋のチャンコ鍋はとても美味でした。巷のチャンコ鍋屋と違うのは、ダシの取り方ではないかという気がします。部屋それぞれ、それこそ秘伝の味付けがあるのでしょうが、尾車部屋のチャンコは角界でも指折りの味と聞きました。それを、部屋の中で、若手力士に給仕をしてもらいながら食するのですから、おいしさもひとしおです。

なんば花月で笑いころげる

 沖縄から、所用で関西にやってきました。メインの用事は京都なのですが、せっかくだからと、1日余分にスケジュールを取り、笑いの本場・大阪の花月に行くことにしました。
 お正月とあって、チケットを取るのは大変です。ネットでなんとかゲットし、4日の昼過ぎから3時間弱、たっぷり笑わせてもらいました。

 吉本新喜劇は大阪でしか観られません。テレビではほとんど顔を見ることのない、でも関西では知らない人がいないという役者さんが出演する新喜劇、いつ観ても、大盛り上がりです。ストーリーはどれも単純明快なのですが、役者さんの演技力もあるのでしょう、とにかく笑い転げることができます。

 漫才、それもデビューした手の若手から芸歴ウン十年というベテランまで、落語、マジックなど、飽きさせない構成で、その点も感心させられます。

 浅草にも、新宿ルミネにも吉本が進出してきて入るものの、やはり本場で観るのが一番ではないかという気がします。それは、浅草でも感じたように、笑いに対する人々の感覚の違いによるのかもしれません。笑いが非日常の東京、逆に完全な日常に入り込んでいる関西、それも大阪なんばでは、劇場内の雰囲気からして違います。

 ひょっとすると、隣の座席に坐っているお客さんの言葉や行動が笑いを誘うこともあります。笑いの遺伝子が劇場内を四六時中飛び交っているのかもしれません。そんな中にいるだけで、こちらもおかしくなってきます。

その昔、仁侠映画が全盛を誇ったころ、見終わって映画館から出てくる男性のほとんどが、ヤーさん歩きをしているということが話題になりました。背中がそっくり返り、足もややガニ股、両手をジャケットのポケットに突っ込んだまま外に出てくるというのです。もちろん、しばらくすると平常に戻るわけですが、吉本も、そうした効果があるのかもしれません。

 誰もが、老若男女を問わず、笑いを取れるような言葉を口にします。こうした日常の中で暮らしているからこそ、大阪の人は皆、お笑い芸人の素養がつちかわれるのかもしれません。

広島のイルミネーションもいいぞ!

 何年くらい前からでしょうか、この時期は全国どこでもイルミネーションばやりです。商店街のそれは昔からよく知られていますが、近ごろは住宅街でもエスカレート、なかにはそれを近くの人たちに見てもらうのを楽しみにしているなどという住民もいるようです。

 もう一つ注目を集めているのが、都市そのものが光の装飾を大々的におこなうものです。本格的なものは札幌から始まったようですが、広島のそれも捨てたものではありません。札幌も広島も、街の真ん中を、とてつもなく幅の広い通りが走っているのが共通しています。空間の十分な広さを生かして繰り広げるイルミネーションを見ていると、同じ街でもいっそう魅力的に感じられるのが不思議です。

 広島では「ドリミネーション」というネーミングでおこなわれ、平和大通りのあちこちに光のオブジェが並びます。札幌は、大通公園に植えられている木々に多くのライトをつけるのが主ですが、ここ広島では、地上に直接、動物やら建物やらを光で作り出すスタイルが基本。それはそれで違った楽しみ方ができます。

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 仙台の定禅寺通りの並木を彩るイルミネーションも美しいですが、それぞれ趣が異なっていて、都市の個性の違いを知ることもできます。いずれにせよ、イルミネーションは冬の街歩きのスタイルを大きく変えたのではないでしょうか。

 この種のものを初めて目にしたのはニューヨークのロックフェラーセンターでした。こちらははるか見上げるほどの高さとはいえ、ごく狭いエリアを利用してのものなので、規模という点では日本の都市のほうが上でしょう。
 ただ、ロックフェラーセンターの光に覆われたクリスマスツリーはやはり、私たちの目を奪います。パリのシャンゼリゼ通りのクリスマスイルミネーションも大変な迫力ですし、クリスマスツリーはやはり、欧米のほうが一枚上をいっているのかもしれません。