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高野山には青い目の外国人がいっぱい!

2014年8月8日

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朝食を済ませると、昨晩泊まった「普門院」をチェックアウト。高野山のメインというか、金剛峰寺・奥之院まで足を運びました。話には聞いていましたが、そこら中に、歴史上の有名人の墓や供養塔があります。有名企業の社墓地も多いようです。

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しかし、何より驚かせられたのは外国人の多いこと。聴けば、年間15万人近く、外国から観光客がやってくるのだそうです。しかも、青い目をした外国人の姿が目につきました。家族連れもいれば、学生風の若者などさまざまでしたが、なかには1カ月、2カ月かけて修行していく人もいるとのこと。「世界遺産」の強みを改めて感じました。

二人お昼前に高野山をあとにし、山を下ります。480号線で道の駅「紀の川万葉の里」へ立ち寄ると、何十年ぶりかで黄色いメロンを見つけ、迷わず購入しました。子どものころメロンといえば、これしか食べたことがありませんでした。プリンスメロンや夕張メロンなどというのは、見たこともないという時代だったのですね。桃も安かったので、一緒に買います。

大和郡山をめざすも、家人のスマホで調べると、城の天守閣は登れないことがわかり、予定を変更して法隆寺に行くことにしました。ところが、法隆寺近くはひどいというか、「本当にこんなところに国宝が、世界遺産があるのか?」といった感じの環境。でも、渋滞する国道25号からちょっと入ると、そこはまったくの別世界です。生れてこのかたなぜか行く機会のなかった法隆寺を初めて目にし、その造形美に感動しました。

金堂、宝物館、夢殿をじっくり見てまわり、4時ごろ法隆寺をあとにし、京都に移動します。複雑な道のりでしたが、ほとんど高速道路で行けたため、スムーズに到着。しかし、京都はひどい雨で、外出は無理な状態。夕食はホテル内のレストランで済ませることに。1日に二つの世界遺産を訪れる旅は、こうして終わりました。

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伊勢神宮から世界遺産の高野山へ

2014年8月7日
今回のドライブ計画でいちばんハードな1日です。伊勢神宮を見たあと、さらに高野山まで移動してしまおうというのですから、それも当然でしょう。

伊勢神宮はもともと、地名も何もつかない、ただの「神宮」と呼ばれていたそうです。明治時代から戦前までの近代社格制度においても、すべての神社の上に位置する、別格の扱いを受けていました。

太陽を神格化した天照大御神(アマテラスオオミカミ)を祀る皇大神宮と、衣食住の守り神である豊受大御神(トヨウケノオオミカミ)を祀る豊受大神宮の二つの正宮から成っています。皇大神宮は内宮(ないくう)、豊受大神宮は外宮(げくう)と呼ばれており、内宮と外宮は離れているものの、まず外宮を参拝し、そのあとで内宮に詣でるのが正しいのだそうです。

また、もっともよく知られている伊勢市だけでなく、その周辺、度会(わたらい)郡大紀(たいき)町・玉城(たまき)町・度会町、志摩市、松阪市、鳥羽市、多気(たき)郡多気町と合わせた4市2郡に合計125の神社があります。

内宮の前にある「おかげ横丁」のにぎわいは大変なものです。内宮の鳥居前にかかる宇治橋から五十鈴川に沿って続く800mほどの参道があり、かつては大変なにぎわいを見せていました。江戸時代の参詣客は1年間で200~400万人を数えたといわれています(当時の日本の人口は3500万ほどでしたから、かなりの割合です)。

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江戸時代の庶民は皆、伊勢をめざしていたといっても過言ではありません。「生きているうちに一度でいいからお伊勢さまにお参りを」という言葉もあったほどです。地方の農村では、「伊勢講」といって、参詣の旅費や宿泊費を積み立てるための講を作り、毎月講員が集まっては一定の費用を積み立て、年に1回、クジ引きで参詣者を選ぶ仕組みがあったといいます。

選ばれた人は、初春か晩秋の農閑期や年末から年頭の時期に伊勢に行きます。出発するときは、講員が餞別を渡し水杯を酌み交わして村境まで見送り、留守家庭にはお見舞いが届けられました。帰ってくると、村境まで迎えに行きそこで酒宴を張り、伊勢音頭を歌ってにぎやかに村に入ります。お伊勢参りに行かせてもらった人は神宮のお札と伊勢のおみやげを講員に配りました。村を代表としてお伊勢参りに行く人はそれこそ責任重大。まわりの人たちからは羨望の眼で見られました。

全国から集まってくる参詣客は、御師(おんし)と呼ばれる世話役に手厚いもてなしを受けました。伊勢の御師は全国各地に派遣され、現地で伊勢講の面倒を見、その地の人が伊勢参りに訪れた際には自己の宿坊で迎え入れ、あれこれ便宜を図った。ときにはお祓いや神楽までおこなうこともあったので、その一帯を「おはらい町」と呼んだそうです。

ところが、高度経済成長の時代を過ぎた1970年代後半になると、最盛期にはおはらい町を訪れる参詣客が500万人もいたのに、なんと20万人に激減。せっかく参詣に来てくれても、そのほとんどは「おはらい町」通りと平行して走る国道23号でバスやクルマで宇治橋前まで乗りつけ、参拝を終えるとおはらい町には立ち寄らず、鳥羽や志摩半島方面に行ってしまうようになってしまったからです。年々進む近代化の波に飲まれ、伊勢らしい建物がすっかり姿を消した「おはらい町」が魅力を失っていたことも大きな理由といわれています。

そうした状況に地元の関係者の多くが頭を痛めていた中、この地で江戸時代から営業を続けていた名物「赤福」が、大胆なプロジェクトを立ち上げました。最初に手がけたのは、
古い街並みの保存活動です。1979(昭和54)年からスタートした活動は、市の協力も得ながら順調に進み、「おはらい町」は、この地に特有の妻入・切妻・入母屋造りの木造建築物が建ち並ぶようになり、すっかり様変わりしたもです。

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それだけではありません。「赤福」は多額の費用を投じ、「おはらい町」の中央エリアに別の「町」を作ったのです。1993(平成5)年=式年遷宮の年に完成したこの「町」は「おかげ横丁」と名付けられ、いまや大変な観光スポットになりました。往時の建築物や蔵、桑名の洋館などを忠実に再現、あるいは移築されているのでまるで小さなテーマパークのような印象を与えます。

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内宮の見学を済ませたあと私たちも、そこで名物の伊勢うどんなどを食したあと、外宮に向かいました。戦前日本を訪れた建築家のブルーノ・タウトは、その著『日本美の再発見』に「日本がこれまで世界に与えた一切のものの源泉、あくまで独自な日本文化を開く鍵、完成した形の故に全世界の賛美する日本の根源? それは外宮、内宮および荒祭宮を持つ伊勢である」と記しつつ、とりわけ外宮を絶賛しています。たしかに、外宮は内宮とは対照的に落ち着いた風情の中に神秘的な空気がただよい、やはり両方をセットにして楽しんだほうがいいなと感じました。

午後3時ごろ、伊勢をあとにし、次の目的地・高野山に向かいました。ただ、これが予想をはるかに上まわる難行苦行。最後の25キロほどはとんでもない山道、、しかもくねくねした坂が続いていたので目がまわりそうになりました。結局、宿坊に着いたのは、夕食の時刻を2時間も過ぎた夜8時。荷解きもそこそこに、私たち2人のためにだけ用意された精進料理の夕食を広い部屋に正座していただいたのですが、なんだかとても申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

それでも、ベッドがしつらえられた部屋は快適そのもの、お風呂も温泉で、それはそれは心地よく眠りに就くことができました。

まだ見ぬ本籍地を訪ねて

2014年8月6日
今日から大ドライブ旅行です。初日は、西伊豆から戻ってきた家人を三島駅でピックアップし、一路西へ移動。第一目的地は伊勢神宮なのですが、せっかくの機会なので、その前にぜひとも済ませておきたいことがありました。それは、長年、私の本籍地だった「三重県志摩郡阿児町鵜方441」を訪ねること。本籍があったにもかかわらず、生まれてこのかた、一度も行ったことがないからです。

平成の大合併で、志摩郡阿児町は現在「志摩市」になってしまっていますが、鵜方以下は変わっていないので、ナビさえあればOKのはず。名古屋から伊勢自動車道を伊勢西ICで下りて、そこから国道167号線を20kmほど走ったあたりが目的地のようです、表通りからは引っ込んだところにあるようで、探しに探し、やっと見つけました。

周囲はまだ畑や森で、住宅はポツリポツリとしか建っていません。それでも、宅地開発が始まっているらしく、土地分譲の看板がそこここに見えます。どこが「鵜方441」なのか、探し回っていると、ようやくそれらしいところにたどり着きました。

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父から聞かされた話では、祖父が戦後間もないころから、この地で自給自足の生活を営んでいたそうです。自力で畑を開墾し、そこで米や、野菜・果物など食べ物を作り、本業である絵を描く──そうした暮らし方を選んだといいます。きっとこのあたりに質素な家を、やはり自力で建て、そこに暮らしていたのだろうなと思いをはせながら見ていたのですが、心が熱くなりました。

一級建築設計士だった私の父親は、現場監理か何かがあって、たぶんこの近辺にやってくることになったのでしょう。そして、どうせならということで、しばらくの間祖父の家に厄介になっていたのではないか……。父の生前、正確な事実関係を聞く機会はなかったので、想像をたくましくするしかありませんが、そうでもなければ、こんなところに本籍があるわけがなさそうです。そして、生まれて3カ月もしないうちに東京まで戻ったといいますから、おそらくそんな流れだったような気がします。

自分の誕生のことなのに、正確なことがはっきりわからないというのも不思議ですが、そういうことをきちんと聞く機会もなかったわけで、いい加減な親子だったといわれても仕方ないですね。

鵜方訪問を済ませ、そこからクルマで15分ほどの宿泊先へ。今日は、英虞(あご)湾に面した賢島(かしこじま)にある「志摩観光ホテルクラシック」(近鉄系)。その名のとおり、1951(昭和26)年創業という古いホテルで、かつてはこのエリアの迎賓館的な存在だったそうです。現在でも、皇族方が三重県に泊まる際に利用されているといいます。建物の設計も村野藤吾ですから、それもむべなるかなでしょう。そういえば、山崎豊子作の『華麗なる一族』の舞台にもなっていましたね。

いかにもといった感じのフロントでチェックインを済ませて部屋に入ると、窓からはリアス式の海岸が一望できます。その向こうに現代的な外観の新館(こちらは「志摩か恩候補手売るベイスイート」という名称)が見えました。しかし、内装やしつらえに年季が入り格調も高い「クラシック」のほうが落ち着けそうな気がします。

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しかも、「ベイスイート」に比べ、「クラシック」のほうは値段も格安。どちらも、地元の上質な食材を活用したフランス料理が広く知られているので、料理目当てで来る客も多いとか。なかでもアワビのステーキやはこのホテルの看板メニューとして有名ですよね。

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娘一家と箱根へ

2014年8月5日
昨日は箱根へ。20年ぶりくらいになるでしょうか、箱根の小涌園に泊まりました。孫がここのところ鉄道車両にはまっているようなので、小田急ロマンスカーで行きました。といっても、3歳ですから、乗ってしばらくすると飽きてしまいます。箱根湯本からの登山鉄道で多少は興奮していましたが、小涌谷の駅に着いたころはもう限界。駅で、別途クルマでやってきた娘のダンナと合流、一緒にホテルまで行きました。

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小さな子どもたちの相手は、正直疲れます。まして、1泊2日という長い時間を一緒に過ごすので覚悟はしていましたが、やはり大変です。

10時ごろチェックアウトし、娘一家はクルマで帰路に。私と家人は一緒にバスに乗り、まず小田原まで。家人は今日・明日と、西伊豆の温泉で1泊する「女子会」に行くので、駅で別れます。明日からは伊勢志摩・高野山・京都・名古屋というコースでドライブ旅行に出るので、今日はゆっくり体を休ませなくてはなりません。夕方は映画でもとおもっていましたが、結局あきらめ、自宅でのんびり過ごしました。

『グランド・ブダペスト・ホテル』は面白い!

2014年6月16日
映画を観てきました。タイトルは『グランド・ブダペスト・ホテル』。第1次世界大戦と第2次世界大戦との間の時期、ヨーロッパ東部の架空の国ズブロフカ共和国に1軒の高級ホテルがありました。そこを仕切る伝説のコンシェルジュとベルボーイが繰り広げるミステリアスな冒険をコメディータッチで描いた作品です。とはいっても、ヨーロッパでナチスドイツが台頭してくる様子なども盛り込まれていますし、ホテル業界の影のネットワークのようなものも巧みに描かれ、最後まで飽きません。

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作品の面白さ。楽しさもさることながら、私が興味を抱いたのは、この映画が撮られた場所。ベルリンとドイツ・チェコ・ポーランド3国の国境に近いゲルリッツ(Gorlitz)であるとwikipediaに記されていますが、実際のホテルすべてを覆う大規模なセットが作られたのはゲルリッツだそうです。

ゲルリッツとはスラヴ語で「燃やされた土地」(町を切り開く際に土地が焼かれたことから)を意味するそうで、最初に文献に登場するのは1071年といいますから、千年近くも前のことです。13世紀以降は交易によって大いに発展したともありますが、さまざまな写真(下の写真はwikipediaから)を見ていると、たいそう美しい町であることがわかり、機会があればいつか行ってみたいと思いました。

新緑の山形・金山町へ

2014年5月20日
昨日・今日と山形県に行ってきました。新幹線で新庄まで行き、そこからクルマで30分ほど。目的地は秋田県境に近い金山町。同じ名前の町は全国で3カ所(あと2つは福島県と岐阜県)あるようです。

江戸時代は羽州街道(福島の桑折から、小坂、金山の2つの峠を越えて秋田県を縦断し青森に至る)の宿場町として栄えたとのことで、その雰囲気をいまもとどめています。クルマのなから見ていても、白壁造りに土蔵など、ほかの町とはちょっと違うなと感じたのはそのためです。戊辰戦争のときは戦場にもなったと聞きました。

昨日は、シェーネスハイム金山というリゾート施設でコンサートが開かれ、それを楽しませてもらいました。親しくしているAさんから声をかけていただいたのですが、そういうことでもなければ、たぶんここまで来ることはなかったでしょう。冬はスキーも楽しめ、春から秋にかけてはハイキングの基点といった感じです。雄大な杉の森に囲まれたこのホテル、木造で、内装も木がふんだんに使われているせいか、とても居心地がよく、しかも食事がおいしくて。長期滞在する人も少なくないと聞きましたが、それもよくわかります。

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今日は、東京に帰るまでの数時間、街歩きを楽しみました。1878(明治11)年の夏、イギリスの女性作家イザベラ・バードがこの地を訪れ、その著『日本奥地紀行』 にも、「険しい尾根を越えて非常に美しい風変りな盆地に入った。ピラミット型の杉の 林で覆われ、その麓に金山の町がある。ロマンチックな雰囲気の場所である。私はここ2、3日ここに滞在したいと思う……」と書かれていますが、たしかにそのとおり。町の側も、そうした雰囲気を残すべく、古い建物や通りを当時のままに残そうと努めています。町の中を流れる水路をベースにした親水公園には鯉がいました。

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物好きも極まれり! またまた足利へ

2014年5月13日
先月末に行ってきて感動した「あしかがフラワーパーク」にまた行ってしまいました。今度は夕方現地着。目的はライトアップされた大藤を見るのがメイン。それと、前回はまだ花が咲いていなかった白藤と黄藤を見るためです。残念ながら、白藤はゴールデンウイーク、それもほんの数日間しか見ることができないようで、今日は完全に姿を消していました。

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黄藤は残念ながら満開を過ぎていたようですが、それでも8割かたはまだ花をとどめており、初めて目の当たりにすることができたしだい。その色の美しさたるや、なんとも表現しがたいものがあります。黄色なのですが、気品を感じさせるというか。

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それよりすごかったのはシャクヤクです。いたるところで満開になっていたのですが、色彩もバラエティー豊かで、大変な迫力でした。それよりちょっと丈の短いボタンもさまざまな色の花を咲かせています。バラも、開花の早い品種が妍を競っており、なかにはかぐわしい香りのするものも。まあ、どこを見ても花のない場所はないといった感じで、大いに楽しめました。

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台北市立動物園

2014年5月8日
昨日は、日月潭をあとにし、台中を経て新幹線で台北へ。今回は、最近オープンした、日本のホテルオークラ系ホテルに泊まりました。台北の駅にも近く、まわりはけっこうな繁華街ですから、とても便利ですし、何より新しいのがGOODです。

今日は、まだ行ったことのない台北動物園に行ってきました。台北の地下鉄(MRT)路線図に「動物園」という駅があり、以前から気にはなっていたのですが、まだ行ったことがなかったからです。

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開園は、日本統治時代の1914(大正3)年といいますから、先の「The La-Lu(涵碧樓)」のもとになった休養施設がオープンする2年前です。もともとは北部の圓山公園(現在は「花博公園」となっている)内にあったため圓山動物園と呼ばれ、いまの場所に移転したのは1986(昭和61)年。

台北の中心部から地下鉄の「動物園」駅までは20分ほど。ここからロープウェーが出ていて、お茶の名所「猫空」にも行けます。

さて、動物園の入口にはかつての門柱がモニュメント的に置かれています。しかし、中に入るとビックリ。なにせ広いので、動物園につきものの鉄柵がまったくありません。どの動物も広いエリアに放し飼い状態といった感じで、たぶんストレスもないのでしょう、のびのびとした感じがします。

人気はやはりジャイアントパンダのようで、休日ともなると、観るには、パンダ館に入るための整理券をもらわなくてはなりません。2008(平成20)年12月に中国から團團(オス)と圓圓(メス)が寄贈されたのが最初で、いまでは子ども「圓仔」もいるので3頭に増えたそうです。

すべてを観てまわるのは大変ですが、お目当てのキリンも観ましたし、2時間ほどいて帰りましたが、動物園のスタイルはどうやら大きく変わりつつあるのを痛切に感じました。

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夕食はホテルの近くにある「新葡苑」という上海料理の店で。普通の値段でとてもおいしく食べられます。台北市内はもちろん、東京の赤坂にも支店があるようです。

日月潭の湖上を船で遊覧

2014年5月7日
日月潭は、標高749mのところにある台湾最大の淡水湖で、水深は23・5m。ふだんは深緑色の水に覆われているのですが、日射しの具合で、翡翠色や紺碧に見えることもあります。いちばん美しいのは夜明けどきだそうです。

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湖の真ん中にあるのが拉魯(ラルー)島という小さな島。ここは、先住民のサオ族の人たちの間で精霊の集う場所としてあがめられていたとのこと。日本の植民地だった時代は玉島、戦後は光華島と呼ばれていたそうですが、いまはサオ族の呼称=ラルー島と呼ばれています。この島を境に東側は円形なので「日」潭、西側は三日月形なので「月」潭といい、それが日月潭という名称のもとだそうです。

 

湖畔にはいくつか船着き場があり、そこから全行程1時間半ほどの遊覧船でまわります。途中、蒋介石の母親を祀ってあるという慈恩塔、三蔵法師の遺骨が安置される玄光寺、玄奘寺、大きな獅子の像が立つ文武廟など、いくつかの名所がありましたが、私たちは船着き場近くの寺院をいくつかかじっただけ。

昨夜は中華料理を食べましたが、今朝はビュッフェ形式の朝飯。寿司や点心なども充実しています。そして、遊覧船から帰ってきてからは中華料理を軽く食べ、夕方近く、ホテルをあとにしました。

台中から日月潭へ

2014年5月6日
台湾3大観光地の一つ日月潭──。以前からウワサには聞いてはいましたが、なんとも素晴らしいところです。台中の駅からバスで行くのですが、途中までは高速道路。最後は山道を20分ほど走り、トータル1時間20分ほどで今回泊まる「The La-Lu(涵碧樓)」というホテルに到着。有名なアマングループ系に属しているだけあって、とんでもなく素晴らしいリゾートホテルでした。台湾国内でも大変な人気を誇っているようです。



20世紀の初め、日本が日月潭に水力発電所を開発していたころ、一人の日本人がこの地に休養施設を設けたのですが、それが始まりだそうです。1923(大正12)年、皇太子(昭和天皇)が台湾を視察で訪れることになり、それを機に2階建てにに改築、東と西に8室のVIPルーム、レストラン、会議室などを含めた施設とし、政府の宿泊所となったのです。



太平洋戦争が終わり、1949(昭和24)年、国民党政府が台湾に移ったあとは蒋介石総統の別荘になり、ときには、台湾を訪れてくる外国用心を接待する場所として利用されてたといいます。この施設が1998(平成10)年、民間に売却され、宮殿式の6階建ての建物の梁と柱と床だけを残し大改装をほどこされ、2002(同14)年3月、新しいリゾートホテルとしてオープンしたのだそうです。

 

エントランスは竹藪をイメージさせる造り。コンクリート打ちっぱなしの建物に入ると左側にフロントがあるのですが、そのバックのガラス窓には日月潭が。右奥にあるカフェに案内され、しばしウェルカムドリンク(中国茶)を飲みながらゆっくりしていると、スタッフがやってきてそのままチェックインの手続き。

 

客室は広いバルコニー付きのスイートのみ。私たちの部屋は2人用でしたが、それでも31坪もあるというのですから、たいそうゆったりした造りです。窓を開けてバルコニーに出ると、目の前には湖が広がっています。ホテルの名前の由来となっている拉魯(ラルー)島も見えます。そこを遊覧船がゆったりと行き来していて、向こう岸にはなだらかな山々が。

 

インテリアはナチュラルシックというのでしょうか、落ち着いた中に気品がただよう感じで、ある程度年齢の行った客には落ち着きます。ベッドの脇にバスルームがあり、バスタブからも外の景色を楽しむことができるようです。バルコニーの一角にも寝転がっていられるベッドが。さすが、「アマン」ならではの緻密な計算というか。



部屋をひととおりチェックしたあとは、ホテルを見学。茶藝館スタイルのティーハウスで、中国茶をいただきました。

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初めてのLCC体験

2014年5月5日
沖縄から、最近流行りのLCC(ローコストキャリア)で台湾に行くことにしました。ピーチアビエーション(ピーチ航空)というANA系の会社です。沖縄・台北間は1時間半ほどなので、ビジネスクラスでなくてもいっこう気になりません。これがなんと往復で1人2万4千円ほど。GWのまっただ中ですから。これでも比較的高い運賃設定です。ハイシーズンを外せば、もっと値段は下がります。

数年前、イギリスで easyjet というLCCに乗ったことがあるのですが、乗客は人間というより荷物感覚で扱う雰囲気がありありと感じられました。ただ、easyjet はもうメジャーになっていますし、アメリカの Southwest もドイツの Air Berlin も、元をたどればLCCです。

さて、ピーチ航空です。那覇空港国内線ターミナルのすぐ隣に以前あった国際線ターミナルが一度取り壊され、2年足らずで新しいビルに建て替わったので、そちらから出発するのかと思い込んでいたのですが、これが違っていました。なんと、貨物ターミナルの一角に間借りしているような感じのLCC専用ターミナルを使っているのです。

「間借り」と書きましたが、ホントその言葉がピッタリ。天井が非常に高い倉庫の一室のようなスペースがロビーとしてあてがわれていて、そこまでは国内線ターミナルビルの前からシャトルバスで移動。もちろん出国の手続きもあるので、それなりの緊張感はあるのですが、何かいじけた感じで、「だから安いんだ」という印象を受けます。

普通のフライトのように、空港ビルと飛行機を結ぶ蛇腹の通路もありません。滑走路に停まっている飛行機の近くまで歩き、タラップを上って機内に入るというスタイルです。この日は折しも大変な雨と風で、全員が傘をさして歩く姿は、なんだかおかしな感じがしました。

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それでも中に入れば、そんなこともすっかり忘れてしまいます。最低限の飲み物は無料でもらえますし、1時間半ですから、退屈するヒマもありません。客席はフルに埋まっていて、見たところ若い人がほとんどでした。台湾に戻るお客の中には、不動産の物件情報を熱心に読んでいる人がいたりします。「富裕層」の人なのでしょう、那覇とかで投資用物件を見に行った帰りなのかもしれません。

 

朝の9時55分出発予定時刻でしたが、雨で遅れたこともあり、台北に着いたのは予定の10時20分(現地時刻)を大きくまわり11時過ぎでした。そこから、今回の第一目的地である台中へ移動します。空港からバスで高鐡桃園駅まで30分ほど、そこから鉄道(新幹線)で。

台湾には何度も行っているのですが、台中は初めて。もっとも、観光的にはそれほど見るべき場所はないようです。もう少し早ければ「桐花祭」のタイミングと合ったのですが、すでに桐の花は散ったあと。そこで1泊だけにし、明日からの日月潭がメインです。楽しみです。

沖縄にも温泉が──瀬長島「龍神の湯」体験記

2014年5月4日
日本最南端の温泉は宮古島にあるそうです。以前は西表島にあったようですが、こちらはすでに廃業してしまっているため、繰り上がったのだとか。

しかし、沖縄本島にも最近(2012年12月)、天然の温泉がいくつか掘られ、営業を始めています。その中でもいちばん新しい豊見城市・瀬長島の「龍神の湯」に行ってきました。

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私たちが沖縄にやってきたのは2日前のこと。さっそく、いつものように「燕郷房」での夕食を楽しみ、昨日はのんびり過ごしました。そして、今日は、その温泉を楽しもうと、クルマで30分もかからずに行ける瀬長島に行ってみたのです。

瀬長島──。「島」といっても、本島と海中道路で結ばれているためクルマでも徒歩でも往き来できます。那覇空港に隣接していることから、離着陸する飛行機を間近で見られます。野球場もあるし、潮干狩りや釣りも楽しめるので、休日ともなると行楽客でにぎわうそうです。ここから15㎞ほど西の慶良間諸島に沈む夕日と那覇空港の滑走路が一望できる露天風呂が売りだそうです。

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クルマでしか行きにくい場所のようなので、そうしました。ホテルも敷設されていて、日帰り温泉の私たちも入口近くに駐車場があるのですが、この駐車場からの景色はGOODです。

露天風呂も素晴らしいのですが、温泉につかったあとの楽しみという点ではいまイチの感があります。風呂と受付の間に狭い和室スペースがあるのですが、壁に囲まれていて開放感がありません。ベンチとかイスがあればいいのですが、何もなし。ただ、すわるか横になるか(これも正直、厳しいかも)しかありません。もちろん、レストランもあるのですが、日中はランチバイキングのみ。3時を過ぎないとカフとしては使えないのです。

日帰り入浴よりホテルのほうがメインといった感じがするので仕方ないといえば仕方ないのですが、せっかく素晴らしい場所にあるだけに惜しい気がしました。

驚きの大藤@「あしかがフラワーパーク」

2014年4月28日
 もう、とんでもない藤です。というか、この「あしかがフラワーパーク」そのものが、これまでの常識では考えられないようなエンタテインメントの場です。

 

 朝5時起床、6時半過ぎには出発してわざわざ出向いたかいがありました。広大な──といっても、歩ききれないほどではありません──園内には、これでもかこれでもかというほど藤が植えられ、とりあえずは紫藤だけでしたが、目を楽しませてくれました。これからしばらくすると、白藤、さらに黄藤と、時期を追って順に花を開き、さらにカラフルな空間になるとのこと。初めてでしたが、半月後にまた来てみようと思ったしだい。「再入園割引券」がもらえたのも納得です。

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 家人が教えてくれた「あしかがフラワーパーク」。日本一の藤の花が楽しめるところだそうです。高速で行けば自宅から1時間ちょいで行けるというので、朝イチで出発。午後になると駐車場に車を止めるだけのために1時間以上も待つこともあると聞けば、多少の早起きは苦になりません。

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8時過ぎには到着し、クルマも難なく止められました。ゲートにもほど近く、大正解でした。まあ、聞きしに勝るとはこのことで、紫や白の大藤が大きな棚から下がっています。なかには半円形のゲート状の棚もあり、フォルム的にも変化に富み、たいそう楽しめました。黄花藤はまだちょい早かったようで、ほとんど見られませんでしたが、このゴールデンウイークに合わせて順序よく咲かせるための努力は並大抵のものではないでしょう。

 

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 いちばんすごかったのはシャクナゲです。クレマチスもあちこちで花を開いていました。バラも品種によっては見頃のものがあり、隅々まで楽しむことができました。

 

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 「足利」というところは初めてでしたが、行きつけの寿司屋の大将から事前に予備知識を仕込んでおいたのが役に立ちました。フラワーパークからクルマで15分ほど走ったところに史跡足利学校、鑁阿(ばんな)寺という名所があり、そこに立ち寄りました。

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 とくに足利学校には感動しました。地味な観光スポットなのですが、訪れてくる人の多さには驚きます。いつ、まただれによって作られたのかがはっきりしていないほど古くからあるようなのですが、とりあえずは日本で最古の学校のようです。一時期取り壊されそうになったのをなんとか残した田崎草雲という人物は尊敬に値します。

 

 
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 鑁阿寺の境内にある茶店のようなところで、足利名物のシュウマイ──といっても、刻んだタマネギに片栗粉をまぶし、皮で包んだもの──にトライ。ソースをつけて食べるべしと聞いていたのでそのとおりにしました。まあ、いうならばシュウマイもどきですか。もう一つがいもフライという名のフライドポテト。これもいかにもB級といった感じのメニューでした。

 

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 もう一つおまけがあります。今日は行きが関越、帰りが東北道を使いました。行き帰り同じ道というのはなんともイヤな私なので、たとえ遠回りでも別の道を選ぶのが常なのですが、今日は理由があります。それは、帰り道の東北道上り。羽生パーキングエリアに興味深い施設があったからです。名付けて「鬼平江戸村」というのですが、ここが大当たりしているようで、実際大変なお客がいました。池波正太郎の『鬼平犯科帳』に登場する食べ物やが軒を連ねるつくりになっていて、しかも、その作りがおそらくは江戸時代そのまま。外観を見ただけで興奮してしまいそうです。

 

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 そこの立ち寄りたかったものですから、先のようなコースを選んだのですが、たしかに面白く、これはアイデアの勝利だと感じました。本来はしょぼいPAなのでしょうが、それも工夫しだいでが集客につながるという素晴らしい教訓を学びました。

14回目を迎えた「北前船フォーラム」に参加

2014年4月19日
 昨日は秋田市で「北前船フォーラム」がありました。不定期開催のこのイベント、今回が14回目なのですが、始まったのはまだ8年前。これまでにかほ市(2008年4月)、佐渡市(2010年3月)でおこなわれた会に出席しています。ですから、私としては3回目になるのですが、日本海から日本史を振り返る、とても意義深い会なのです。

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 会場は秋田市北部の土崎にある県立大学。基本的には2日間の催しなのですが、会を追うごとに内容も充実しているようで、今回も明日まで6部に分けてパネルディスカッションや講演など、さまざまあります。「秋田を東アジアの一大拠点に」と題されたフォーラムに、急きょ代役でパネラーを引き受けたのですが、これから先、明示の初めまで日本経済を担っていた北前船について真剣に学ばなければいけないなと思ったしだい。

 そして今日は、秋田空港からセントレアまで飛んで私鉄とJRを乗り継いで京都に。3日間かけての大移動でしたが、こういう動きが個人的には大好きなのです。

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念願の「花見山公園」に

2014年4月17日
 ここ10年ほどずっと、「行きたい」と願っていた場所の一つに福島の「花見山公園」があります。その昔、写真家の秋山庄太郎が絶賛する記事を読んだことがあり、以後「いつかは……」と思っていたのですが、毎年スケジュールが合わなかかったり、合えば合ったで花がまだしていなかったりなど、なかなか縁がなかったのですが、とうとうそれが実現することになりました。

 早起きして東北新幹線で福島に着いたのは午前8時48分。9時からピストンバスが運行されており、それに乗っていざ「花見山公園へ。9時半からはもう、あたり一面を覆うさまざまな花に包まれていました。「梅と桃と桜が一斉に花を開く」というのが売りなのですが、今日もほぼそれに近い状況。さすがに、梅はほとんど散ってしまっていましたが、桃はまだまだ残っていますし、桜はほぼ満開。それ以外にもツツジにサツキ、モクレン、レンギョウ、ボケが花を咲かせており、それはそれは感激です。

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 花を堪能して、昼過ぎには福島駅前のそば屋で昼食。普通はこれで帰るのでしょうが、今回は翌日秋田、さらに翌々日は京都で仕事がありました。そこで、持ち前の「ついでに」精神が頭をもたげ、まずは田沢湖の温泉旅館「都わすれ」を訪れました。2008年4月以来ですから7年ぶりでしたが、相変わらずの充実ぶりで、食事は最高、湯も最高。前回と違い、部屋にインターネット回線が引かれていたので、ズバリ「都わすれ(=仕事忘れ)」というわけには行きませんでしたが、それだけに利便性もアップし、またいつか来ようという気持になりました。

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ごくごくシンプルなコメディーに爆笑

2014年4月16日
三谷幸喜が書き下ろした舞台劇『酒と涙とジキルとハイド』を観ました。

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19世紀末のロンドンが舞台で、人間を善悪二つの人格に分ける画期的な薬を開発したジキル博士が主人公。本当はそれを飲むと、別人格のハイド氏に変身するはずでした。ところが、学会での発表を明日に控えているというのに、薬がまったく効かないことに博士は気づきます。さあ、どうするか──!? 追いつめられた末の、起死回生の策とは? というのがストーリー。

ジキル博士を演じるのは歌舞伎俳優の片岡愛之助、脇は今回が初舞台となる優香(博士の恩師の娘で婚約者イヴ)と藤井隆(学会発表で実験台になる俳優ヴィクター)、迫田孝也(博士の助手)です。「ただ面白いだけの、笑ったあとに何も残らない喜劇を」と三谷はコメントしていたそうですが、筋立てがとてもシンプルだったこともあり、理屈抜きで笑えました。こういうエンタテインメントもいいですね!

小石川植物園に行ってみました

2014年4月13日
40年近く東京に住んでいながら一度も行ったことのない場所はまだまだ数多くあります。今日はその中の一つ、小石川植物園に行ってみました。桜はもうとっくに散ってしまっていますが、ほかの花が見られるのではないかという期待もあったのです。

「小石川植物園」というのは通称で、正式には「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」という長ったらしい名称だそうです。日本でもっとも古い植物園で、世界的に見ても、有数の歴史があります。320年ほど前、1684(貞享元)年に徳川幕府が設けた「小石川御薬園」がその前身で、1877(明治10)年、東京大学が設立された直後に附属植物園となり一般にも公開されてきました。

4万5千坪ほどの敷地には、台地や傾斜地、低地、泉水地などさまざまな地形が見られ、そこに4千種ほどの植物が栽培されているとのことです。

広い園内にときおり、大きな表示のある木があります。たとえば、「ニュートンのリンゴ」。物理学者のニュートンが、リンゴの実が木から落ちるのを見て「万有引力の法則」を発見したという逸話は有名ですが、それにちなみ、1964(昭和39)年に英国物理学研究所長ゴードン・サザランド卿から贈られた枝を接ぎ木したものだそうでです。

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また、「精子発見のイチョウ」は、1896(明治29)年、理学部植物学教室助手の平瀬作五郎が精子を発見したことで知られるイチョウ。イチョウには雄株・雌株があり、精子が発見された株は雌株で、秋にはギンナンがたくさん実るとのこと。

「メンデルのブドウ」は、遺伝学の基礎を築いた(グレゴール・ヨハン・)メンデル(1822~84、オーストリア)が実験に用いた由緒あるブドウの分株だということで、名前だけ見ていると、いきなり生物の教科書の中に飛び込まされたような感じがしますね。

さらに、園内には「日本庭園」もあります。もともとは徳川5代将軍綱吉が幼いころ住んでいた白山御殿の庭園がそれで、江戸時代の代表的庭園の一つといわれています。

まあ、とにかく広大な植物園ですから、「花ごよみ」(http://www.bg.s.u-tokyo.ac.jp/koishikawa/koyomi/)を見ると、何月ごろなんの花が楽しめるかがよくわかります。そのあたりに的を絞って出かけると、それほど長い時間をかけず、効率的に楽しむことができるかもしれません。

100歳のいまも矍鑠! 女性写真家の個展

2014年4月12日
笹本恒子氏さんという女性写真家の存在を今日初めて知りました。東京新聞に笹本さんの「100歳展」という催しがおこなわれる告知広告が出ているのを家人が見つけ、教えてくれたのです。会場は横浜の新聞博物館だそうです。

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なんでも、笹本さんは“日本最初の女性報道写真家”といわれているそうで、いまもなお元気に取材・執筆活動を続けているとのこと。戦前、20代で財団法人写真協会所属の報道写真の仕事を始め、日独伊三国同盟の婦人祝賀会やヒトラーユーゲントの来日、日米学生会議など、日米が戦争に突入する前の貴重なイベントの写真を撮影しています。戦後はフリーの写真家として、「60年安保」闘争の模様や画家の岡本太郎、評論家の大宅壮一、作家の宇野千代、美容化の吉行あぐり、画家の三岸節子などを撮影しました。
 
土曜日でもあるので、さっそく観に行きました。久しぶりに車に乗り、首都高を一路横浜へ。新聞博物館という会場は初めてで、ナビだけが頼りでしたが、日本大通りに面して建つ由緒ありげな建物です。

会場には笹本さんの作品134点が、「明治生まれの女性たち」「あの時代、あの人」「笹本恒子が見た時代」「いつまでも現役……笹本恒子さんの今」という4つのテーマに分けて展示されていました。まったくの偶然ですが、途中、笹本さんご自身が会場にやってこられ、お顔を拝見することができました。100歳とは思えぬ足取りで、矍鑠としておられます。居合わせた客とも気さくに言葉を交わしていましたが、まだまだこれからも仕事をされるのではないかと思えたほど元気です。

展示を見終わったあと、せっかくの機会だからということで、新聞博物館のほうもまわってみました。そういえば、中学生のころだったか、日本で最初の日刊新聞は横浜で生まれたということを教わった記憶があります。それを記念し、2000年10月にオープンしたのだそうです。新聞の歴史や新聞が作られるまでのプロセスをわかりやすく展示していました

 

博物館が設けられている「横浜情報文化センター」は、関東大震災の復興記念として建てられた商工奨励館を保存しつつ高層棟を新たに増築した歴史的建造物とのこと。近くには、横浜開港50周年を記念して建てられた開港記念会館や神奈川県庁本庁舎といった、味わい深い建物がいくつかあります。そのほか、横浜スタジアムや山下公園、大桟橋、中華街も歩いてすぐのところでした。

 

昼食どきになったので、何年ぶりかで中華街に足を運び、食事をし、さらにそのあと、赤レンガ倉庫で開催されていたHoli Festivalをのぞいてみました。こちらは、春の訪れを祝い、相手かまわず、色粉を塗り合ったり色水をかけ合ったりして祝う、ヒンドゥー教のお祭りらしいです。

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調べてみると、横浜ではこれより前から、「ディワリ(Diwali)」というお祭りが、毎年秋になるとおこなわれているとのこと。古代インドの叙事詩『ラーマーヤナ』に起源を持つ、ヒンドゥー教で最大のお祭りで、「光の祭典」とも呼ばれているとか。“横浜がインドになる”というのがキャッチフレーズのようですが、インド商人が日本で初めて拠点を設けたのが横浜ということにちなんでいるといいます。一度、足を運んでみたいと思いました。

初めて見た「源平桜」

2014年4月11日
桃の花には紅白に咲き分ける「源平桃」と呼ばれる品種があるそうです。同じ幹から色の違う花が咲くこと自体、大きな驚きです。だったら桜にも……期待したくなりますが、残念ながら、紅白の花を咲かせる桜はありません。

ただし、桜にも「源平桜」と呼ばれるものがあるとのこと。しかしこちらは、別々の木がたまたま隣り合わせで育ち、枝がからまり合ったもので、一瞬、白とピンクの花が同じ幹から咲いているのではと錯覚してしまいます。

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その「源平桜」を、今日訪れた国立博物館で初めて見ました。たしかに、なんとも不思議な感じがします。もちろん、白=源氏、赤=平家という、それぞれの旗の色にちなんで名づけられているのですが、いかにも日本人好みのネーミングではありますね。

初めての豊橋、そして三河湾から京都へ

2014年3月9日
 3月8日に京都で仕事があったので、その前に三河湾で温泉でもと思い立ち、6日に東京を出ました。そのついでに、豊橋というところに行ってみたいというのもありました。
 

 

 豊橋は私の出身地・愛知県にありますが、とんと用事がなく、一度も行ったことがない町なのです。旧城下町で、『城下町の人々』という著書でも、それなりの記述はしたものの、やはり実際に行ったことがないと、きちんとしたことは書けません。

 

 というわけで、新幹線を豊橋で降り、レンタカーを借りました。まずは昼飯と、市役所近くのウナギ屋で腹ごしらえして吉田城跡へ。ここもまた川を見下ろす、いかにもという場所に建っていたしろのようです。そこからクルマで、三河湾沿いを西浦までゆっくりドライブ。愛知県はトヨタ自動車の本拠地ですから、とにかく道路がやたらよく整備されていて、走りやすさにかけてはこの上ないといった感じがします。西浦の温泉も海を見ながらのお湯で、十分楽しめました。

 

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バレンタインの日、男4人で伊豆の温泉へ

2014年2月15日
 昨日・今日と、高校時代の同期生4人で伊豆の温泉に行ってきました。ま、、この年になるとバレンタインも何も関係ありませんし。もともとは伊豆でゴルフをという話だったのですが、この寒い時期のゴルフも辛かろうというわけで、「19番ホールのみ」のゴルフ会=アフターゴルフだけの会に企画を変更したのです。

 ところが昨日の関東地方は、朝から猛烈な雪。はたして伊豆までたどり着けるのやらという感じでしたが、東京駅を午後3時過ぎの新幹線で出発。相変わらずけっこうな降りではあったのですが、小田原を過ぎると一変、猛烈な雪。これはこれは、今晩は雪見酒かと一同興奮したものの、どういうわけか、三島で新幹線を降りるころにはすっかりあがっていました。

 三島から伊豆急で長岡まで行き、旅館に着いたころからまた雪が激しくなり始めたのですが、部屋で食事を食べ酒を飲んでいるうち、そんなこともすっかり忘れていました。食後のカラオケで大盛り上がりし、最後、寝る前にひと風呂浴びるころはもう止んでいました。

 前日の話で、昼は三島でうなぎを食べることで一意していたので、その間の時間をつぶす必要があります。そこで、「社会科見学」に出ました。「韮山の反射炉」「江川邸(江戸時代の代官・江川太郎左衛門の屋敷)」「源頼朝配流の地跡(=蛭ヶ島)」を見学し三島広小路の駅で下車。そこから3、4分歩いて目的の「桜家」へ。近ごろはうなぎも品不足のようで、年々値根も上がっていますが、この店もけっして安くはありません。ただ、それに見合うだけのレベルで、もうとにかくおいしかったです。

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 「韮山の反射炉」は幕末、欧米諸国が日本の開国を求め、次々とやってきたのに備え、当地の代官・江川太郎左衛門が幕府に進言して築いた大砲鋳造炉です。反射炉というのは、熱をアーチ型の天井に反射させて鉄の溶解温度(1700度)を得る構造をしているため、その名で呼ばれたのだとか。山口県の萩にもありました。

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 韮山では江戸・品川沖に造られたお台場(砲台)に据える大砲を鋳造。安政4(1854)年の完成から約10年間、大小の大砲数百門を作ったといいます。炉体と煙突が完全な形で現存している世界唯一の産業遺産だそうです。

 うなぎでお腹いっぱいになった4人で、「楽寿園」(明治維新で活躍したという小松宮彰仁親王が明治23年に別邸として造営したもの)、三島大社をのぞきながら駅までぶらぶら歩き。充実した2日間の旅を終えました。

映像化された『とびだす100通りのありがとう』

2014年2月12日

 
前にこのブログで紹介したミュージカル『とびだす100通りのありがとう』のDVD映像が公開されることになり、今日がその日。というか、今日しかチャンスがないのです。会場は日本橋の三越劇場。

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主催している高校時代の同期生Sさんの話によると、会場探しにはえらく苦労したといいます。昨年3月のミュージカルは大成功でしたが、なにせ1回こっきりのイベント。実際に被災した人たちが出演していた作品だったので再演がききません。出演者を変えればいいという性質のものではないわけですし。

 


しかし、「なんとかならないか」との声もあちこちで聞かれたようです。というわけで、記録としてとどめておこうと撮っておいた映像を編集し、DVDにまとめることになり、それが今日お披露目なのです。

 

 


しかし、しかし……。それは本チャンの舞台も顔負けの作品に仕上がっていました。私など当日、本番の舞台を観たはずなのに、まったく違うもののように感じたほど。映像化といっても、もともと2台の固定カメラで撮っただけですから、映像にはほとんど変化がありません。せいぜい寄ったり引いたりだけで、早い話4パターンつの映像しかないのですが、それでも感動で目頭が熱くなりました。

 

初めて見ました!「妻夫木聡・北川景子」

2014年2月8日

これまでならあり得ませんでしたが、なんとまたまた同じ中華料理店に。もちろん、目的は「辣子鶏」。食べ方もすっかり心得たので、今日は完食できました。

 

 一昨日まで、映画を3本も観れ、これも疲れを取る効果が絶大。その中でいちばん面白かったのは『ジャッジ』でした。

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広告業界の裏側で繰り広げられるドタバタを描いたコメディーです。北川景子と妻夫木聡がニセの夫婦役で共演しています。妻夫木が演じるのは落ちこぼれ広告マン・太田喜一郎。業界でもクセ者として知られる上司から、「世界一のテレビCMを決めるサンタモニカ国際広告祭」の審査員を務めるように命じられるのですが。期間中、現地で毎夜開かれるパーティーに同伴者が必要ということから、北川演じる同僚・大田ひかりがニセの妻として同行することに。やがて華やかな広告祭が開幕しますが、太田は自分の会社が制作したチクワのCMがグランプリを取らなければクビになってしまうということを知り、駆け引きや小芝居に四苦八苦。ひかりの手助けを借りるうちに2人の距離も次第に縮まって……というストーリー。

 

ふだんドラマなどまったく観ませんし、邦画もほとんど観ない私としては、妻夫木も北川も、演技を観るのは初めて。でも、脚本がよくできており、大いに楽しめました。

ようやく片付けのメドもつき、沖縄へ

2014年2月3日
 今日から1週間は沖縄。引っ越し疲れを癒すためです。
 いつも書いていますが、沖縄の不思議さは、行っただけで気分が一新されること。仕事が佳境に入っているといきも、疲れて休みたいと思っているときも、何もしたくないというときも、とにかく「沖縄」へ。空港に降り立ったときに全身で浴びる亜熱帯の空気が心地よいのです。

 沖縄に着いた日の夕食はほとんど、県庁近くの中華料理店で食べます。この日も同じ。でも、今回は新しい発見がありました。四川風の鶏唐揚げ(「辣子鶏(ラーズーチー)」といいます)を初めて食したのです。これが、得もいわれぬおいしさ。山ほどの唐辛子の中に唐揚げの姿がかろうじて見えるというメニューなのですが、これまで一度も注文したことがなく、今回が初めてでした。

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 以前上海に行ったとき、これと同じような魚料理を食べたことがあります。唐辛子だけでなく山椒もたっぷり入っていました。日本なので、辛さの点では上海ほどではありませんでしたが、それでもかなりの辛さで、一つ口にしただけで、頭のてっぺんからは猛烈な汗が噴き出していました。

 結局、全部は食べきれず、残りは唐辛子ごとテイクアウトしましたが、これはハマってしまいそうです。

昨日、創業以来5回目の引っ越しをしました。

2014年1月17日
 

昨日、創業以来5回目の引っ越しをしました。

初が千代田区二番町(番町ハイム107号室)。次に同じ町内で、麹町駅の真上(麹町駅プラザ8F)。次が豊島区目白3丁目のヒカリハイツ3F。さらに、同じ町内のDAIGOの4F。ここまではすべてマンションかビル。そして、西池袋2丁目の一戸建。そして、今回です。

 

 10年前、豊島区南長崎に自宅を借りたのですが、家族が2人減って空室ができてしまいました。しかもそれが物置状態になっており、なんとももったいないと思っていました。一方、西池袋の一戸建ても、仕事が年々バーチャライズし、スタッフが交通費を使って、毎日決まった時間にわざわざ出勤する必要が薄れてきました。というわけで、自宅と事務所を一体化することにしたのです。

 

 上記のような無駄が省ける半面で、デメリットもあります。それは、私自身のメンタルな面ですが、公私のメリハリがつかなくなるということです。極端な話、朝から晩まで同じ格好でいることもかのうですし、それが高じると、顔も洗わない、歯も磨かない、ヒゲも剃らないという、ひどい状況におちいる恐れもあります。

 

 そうしたことにならないようにするには、自分なりのルールを決めれば済むのですが、元来がいい加減な性格ですから、果たしてどうなるか、自信がありません。まあ、それはそれ、出たとこ勝負ということで、昨年夏に、この方針を決め、事務所の荷物減らしに入りました。自宅に移れば、これまでのように、事務機器も減らさなければなりませんし、何より資料用の書籍や印刷物も大幅に減らす必要があります。書籍は4000冊は処分しましたし、不要な書類も大半は捨てました。

 

 事務所にデスクを置いていた2名の制作スタッフも、それぞれ不要な(=自宅に持ち帰れない)資料等を処分、最後はほとんどの部屋が空っぽになったしだい。逆に考えるなら、それだけ無駄なものを保管していたわけですから、物のスリム化は大成功。しかも、それが出費のスリム化にもつながるのですから、会社的には画期的なコスト減らしになります。

 

 1月16日の朝イチからスタートした引っ越しは夕方にはすべて完了。これからは荷ほどきとなりますが、さてさて、どうなることやら。気分が大きく変わり、仕事がこれまでよりはかどるようになるといいのですが。

静かでおだやか、そして何より暖かい沖縄で迎えた新年

2014年1月1日
明けましておめでとうございます!

 

新年のスタートは沖縄から。12月26日の夕方から昨日の午前中までは2人の孫(3歳と1歳)も一緒だったので、嵐のような5日間でした。先に東京に戻る孫たちを那覇空港まで送って戻ってくると、今回初めて、のんびりした時間を過ごすことができました。

 

 

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2人の孫は可愛いことこの上ないのですが、年齢が年齢だけに聞き分けがなく、しかも、大人の都合などおかまいなしに朝早くから起き、騒ぎ、散らかし、泣き、叫び続けます。こちらに来る前、家人が「これでゆっくりできるわ」などと夢まぼろしのようなことを口にしていました。内心、何を考えているのかとも思いましたが、ふだんせわしない日々が続いているので、そうありたいと願う気持ちもわからないではないので、何もいわずにいました。

 

 

夜は夕食を兼ね、以前からよく行っているライブハウス「鳩間島」へ。初めて行ってからもう6年が過ぎ、店長は息子さんに替わっている様子。ライブハウスではありますが、海ブドウ、もずくの天ぷら、ゴーヤチャンプルーなど、食事がことのほかおいしく、とても重宝しています。

 

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ライブの最後は、いつもどおり、「鳩間の港」。店のスタッフのリードで客全員が曲に合わせて踊ります。手をずっと上げっぱなしの動かしっぱなしなので、4番になると完全に息切れてしまい、手拍子だけに。久しぶりに泡盛を飲んだ影響もあるかもしれませんが。

 

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今日は今回でいちばん暖かい一日でした。初日の出こそ見られませんでしたが、天気はどんどんよくなり昼前にはほぼ快晴。気温は20度にまで上がり、しかも風もありませんから、おだやかな元旦になりました。

 

 

せっかくなので、これまでずっと行きたくて行けなかった福州園に行ってみました。琉球は中国が明の時代、福州との交流が深かったそうです。そこで、那覇市の市制70周年・福州市との友好都市締結10周年の記念事業として、1992年に開園した中国式庭園。設計から施工まで福州市の職人たちが、福州市の資材を使用して作ったのですが、 小さな園内に、三山(千山、烏山、屏山)、二塔(白塔、烏塔)、一流(閩江)など、福州を代表する風景を模したものが凝縮して収められ、独特の風情が感じられます。周囲は白壁で囲まれ、そこに一つひとつすべて異なる形をした窓があるのも印象的でした。

 

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そのあと世界遺産にもなっている識名園へ。ここは2度目でしたが、1799年、琉球王家の別荘としてつくられ、 王族の人たちの保養や中国皇帝の使者である冊封使の接待に利用されていたというだけあって、たいそう立派な庭があります。

 

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池のまわりを歩きながらさまざまな景色を楽しむスタイルの庭園ですが、池に浮かぶ島に中国風の六角堂(これは美しいです!)や琉球石灰岩でつくったアーチ橋など、中国の様式をふんだんに取り入れ、独特の味わいがあります。第2次世界大戦で園内のほとんどの建造物が破壊されたため、復元されたものですが、近くの首里城とともに、「琉球」を感じさせるスポットになっています。

 

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1年ぶりのBEGINコンサート

2013年12月22日
昨年は中野サンプラザでしたが、今年は昭和女子大・人見記念講堂でした。いまどき珍しい、全年齢入場可のコンサートということもあってか、聴きに来ている人の幅広さは屈指でしょう。それでも今年は、コンサートの中身にかなり変化が見られ、前半はソロ中心、後半がいつものBEGIN風でした。エンタテインメントの度合いは相変わらずで、それなりの成長も見られます。印象に残ったのは、リーダー比嘉栄昇の「ぼくのお師匠さんはバタやん(田端義夫)」という言葉。「なるほどなー」と感心しました。それに加えること、「レッドツェッペリンが少し」というのは泣かせます。

 

 

 

島袋優と上地等の2人で繰り広げたソロかけ合いの場面では、いまさらながらブルースの影響が強いんだと感心。沖縄だけに、本土以上にアメリカ音楽の影響がおそらく強いのでしょう。来年がさらに楽しみになりました

ほのぼのとした「尾車親方の快気を祝う会」

2013年12月21日
私が(正確にいうと、フラッシュアイデアは家人なのですが)プロデュースした尾車親方(元大関・琴風)の本『人生8勝7敗 最後に勝てばよい』の完成に合わせ、「快気を祝う会」が開かれました。出席者はなんと265人。飯田橋のエドモントホテルの大きな宴会場が、文字どおり芋の子を洗うほどビッシリという大盛会で、ホントよかったなと思いました。

 

当初は『復活力』という仮タイトルでスタートしたものの、途中、月刊誌にインタビュー記事が掲載され、その中に出てきた「人生8勝7敗」という名文句にタイトルを変えたのも正解。頸髄損傷(捻挫)という重傷からおよそ2年かけて立ち直った精神力を支えたのは、家族(奥さんと2人の子ども)の団結。精神科クリニックを開業している、大学時代の友人がいつも口にしている「病気は、家族で治すもの」という言葉があるのですが、まさしくそのとおりといった経過をたどってきたように思えます。

 

そんな闘病の様子を彷彿させるかのように、今日の「祝う会」も、会場の隅々にまでほのぼのとした空気が流れ、お歴々の挨拶も、ビジネス色がただよう通常のパーティーとは大違い。それがまた色を添える結果になったのではないかと感じました。

 

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予定を30分以上もオーバーする長丁場でしたが、いいパーティーでした。この種の会は主客一体となって成り立つものですが、やはり主人公である親方の人徳がその最大の要因でしょう。これがきっかけで、本がガーンと売れるといいのですが。

来日外国人がどんどん増えているのですが

2013年12月20日
訪日観光客が1000万人を突破。BUT……。
政府がここ数年大きな国家目標として掲げていた「訪日外国人観光客1000万人」。それがとうとう実現したと報じられました。何はともあれ、おめでたいことです。



しかし、いつもこのブログでも触れているように、けっして手放しで喜ぶことはできません。それは「お・も・て・な・し」という点では、そのレベルがかなり低いと思われるからです。たしかに、私たち日本人が外国を観光で訪れたときも、100%満足できるような「おもてなし」を受けるわけではありません。それは日本人が求める「おもてなし」のレベルが高いからですが、それと同じようなことを、海外から日本にやってきた人たちも感じるのではないかと思うのです。

 

高級レストランならフランス語のメニューがあれば十分なのでしょうが、「1000万人」といったら、ごく普通の人たちが大半を占めているにちがいなく、そうなるとフランス語などとはまず無縁。英語でさえどうかなという気がします。ただ、韓国や中国の人たちも、とりあえず「英語」の表記があればなんとかついて行けるでしょうから、せめて食事のメニューくらいはかならず英語バージョンがそろえておくのが最低限の「おもてなし」ではないかという気がします。

 

ひと月ほど前だったか、東京の通りや各種施設の名前を外国人にもわかりやすく表記しようというので、これまでの「○○ dori」を「○○ Avenue」と改めるとのニュースが報じられていました。でも、これだって、外国人から「ヤマテアヴェニュー?」とたずねられ、とっさに「山手通り」のことだと察知できる人はまだ少ないのではないでしょうか。「アラリヴァーは?」と尋ねられ、それが「荒川」だと気づくのも時間がかかりそうです。「Yamate Dori Avenue」とか「Arakawa River」というふうに表記しないとかえってわかりにくくなる、というか肝心の日本人のほうがとまどってしまうのでは……と心配になってしまいます。「六本木」を「Six Trees」とは表記しないにしても、「青山1丁目」を「Aoyama One chome」とか「第三京浜」を「The Third Keihin」などといわれたときのことを考えると、そのおかしさに気づくことでしょう。

 

街を歩いていて、外国人からいきなり「Please show me the way to the National Theater」といきなり聞かれても、平河町の「国立劇場」のことだと思う人はそうそういないはずです。こうした類はほかにも枚挙にいとまがありません。日本語の難しさといってしまえばそれまででしょうが、単純に英語にすればOKというものでもなさそうです。もともとがアルファベットではない、外国人にとってはおそらく判じ物としかいいようのない漢字・ひらかな・カタカナという3種類の文字から成っている日本語なのですから、私たち日本人がもっと悩まなくてはならないのではないかとも思えます。



これが首都高などの高速道路、バスなどになると、ほとんど野放しというか手つかず状態もいいところ。外国に行っても比較的楽にクルマで走ることのできた経験と照らし合わせてみると、どうにも心配になります。もっとも、街中を走る路線バスは、外国に行っても、同じように不親切で、そのあたりは日本だけが困った状況にあるわけではありません。



ただ、首都・東京でさえそうなのですから、これが地方の小さな都市だったりすると話はさらにややこしくなります。7年後にオリンピックを開こうという東京こそ、道路や施設の表記だけでもいいので、まずモデルになるようなパターンを確立する必要があるのではないでしょうか。

街の真ん中にある動物園は一見図書館・博物館風でした


2013年12月11日
いよいよ今日が最後。帰国便は夜なので、それまでの時間を利用してフランクフルトの動物園に行きました。ホテルからタクシーで行きましたが、着いたところはとても動物園の入口には見えません。えらく立派な建物が建っているのです。つい何年か前までは、まさしくその建物が動物園の入場口とのこと。見た感じは図書館か博物館・美術館といった印象です。

 

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入場料が安いのは、小ぶりだからでしょう。たしかに、中に入ってみるとコンパクトなサイズで、全部見てまわるのに1時間もあれば十分といった感じです。日中の予想最高気温が4度でしたから、それはそれで助かりました。

 

寒さのせいか室内にいたトラの子どもの可愛いこと。見学に訪れていた小学生の集団たちが大騒ぎしていました。キリンは外にいましたよ! ここは全部で5頭ですが、アフリカ原産の動物のなかでは、どこの動物園でもいちばん動きが活発なのが共通しています。

 

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キリンにお別れを告げ、地下鉄で都心に。最初行ったのは「クラインマルクトハレ」という食品マーケット。小さな店がビッシリ入っているのですが、ちょうどランチタイム時だったこともあり、けっこうな人でにぎわっていました。その中の1軒でパンを買い求め、日本に持ち帰ることにしました。

ドイツはやはりパンです。ホテルのビュフェスタイルの朝食でも10種類くらい出ているでしょうか、とにかく多種多様。しかも、どれも皆すこぶるつきのおいしさです。面白いのは、日本のような真っ白のパンをほとんど見かけないこと。地でつくられているのはすべて茶色というか、皮の部分も中身も天然の感じがします。となると、どのくらいの期間もつかはわかりませんが、この季節ですから、まあ4、5日は大丈夫そうだということで、2種類、それぞれ500グラムずつ購入したしだい。

 

ランチは昨日同様、日本食。近くに「にしき」という名前の店があったので、そこで食べました。前夜とはうって変わって真っ当な店で、値段もごくリーズナブル。それでいて味もよく、ここなら安心して利用できます。焼き魚定食は久しぶりに「日本」を感じさせてくれました。

いま世界中が寿司を中心にした日本食への関心が強いようで、ここフランクフルトも回転寿司やラーメンの看板が目につきます。しかし、外国の人はともかく、日本人の胃袋を満足させてくれる店となると、なかなか見つかりません。ニュージーランドではありませんが、看板には「日本料理」とか「寿司」とあっても、経営者は韓国人・中国人、作っているのはミャンマー人・ベトナム人といったパターンが多く、でき上がってくる料も、「これが日本かよ!?」といったものばかり。それでも醤油さえきちんとしていれば、私たちの舌もなんとかごまかせるものです。その点、昨夜の店は醤油がおかしいというか、どこ仕様なのかはっきりしない感じで、それも不満を抱いた理由です。看板には「Kikkoman」とあったのですが……。

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