“断続渋滞300キロ”を体験

2016年12月26日

大量のクリスマスプレゼントに驚かされたショックもさめやらぬ今日は、昼過ぎからラスベガスに向かいました。Hさんの息子さんを除く14人が車3台に分乗し、出発したのは12時。ロサンゼルス近郊にあるHさんの家からラスベガスまでは270マイル=約430キロなのですが、途中のバーストウという街を過ぎると1本道(I-15)でこれが空前の大渋滞なのです。なんと断続的に300キロ(東京から豊橋あたりまで)で、考えられないような状況を呈していました。アメリカで40年近く暮らすHさんたちもここまでひどい渋滞は初めてだそうです。

 

反対車線も、クリスマスを過ごしたラスベガスからの帰りの車がずっと続いていて、夜になってからは、まるで「光の川」が流れているような塩梅。ホテルに着いたのは、なんと夜の11時半を過ぎていました。空いていれば4時間ほどの道のりですから、いかにすさまじい渋滞かがおわかりになるでしょう。それにしても、この「光の川」、写真に撮りたかった! でも、車に乗っていて、ジリジリながら走っているので、かないませんでした。またの機会に……。いや、もうごめんです。

 

これが本場のクリスマス!

2016年12月24日

初めて本場のクリスマス・イブを経験しました。Hさんご夫妻、お2人の娘さん夫婦(4人)+子ども(合わせて3人)、息子さん、私と家人、私たちの娘と2人の子ども(旦那は仕事のため日本で留守番)の総勢15人です。

それにしても、アメリカのクリスマス商戦はさぞかしすさまじかろうということを改めて感じました。クリスマスが近づくと、どの家も大きなクリスマスツリーを飾り、その前にプレゼントを置いていくのですが、イブの日にはそれが全部そろいます。それを見ると、とにかくハンパな量ではありません。その夜集まる人全員のプレゼントが並べられているのですから、当たり前といえば当たり前とはいえ、わが孫どもも、10以上の人からあれやこれやのプレゼント品をもらい目を白黒させていました。

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これとほぼ同じようなことが、全米のほとんど全家庭でおこなわれているわけです。いまさら掛け算などしてみても始まりませんが、それにしても「クリスマス商戦」とはよく言ったものです。まあ、日本のお正月だと思えばわかりやすいのですが、お正月は「物」が行き交うことはありません。お年玉は現金ですし、「物」といってもせいぜい、お年賀のお菓子くらいです。それからすると、具体的な「物」が行き交うアメリカのクリスマスは、ストレートな感じがします。

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入国するのに2時間待ちとは……

2016年12月22日

夕刻の便でロサンゼルスに向け出発。久しぶりの成田発です。同日朝にロス到着。上空ではわかりませんでしたが、着陸寸前から窓ガラスに水滴が。珍しく雨のようです。気温も低く、東京とほとんど変わりません。

イミグレーション(入国手続き)になんと2時間。相変わらずのスローぶりに呆れます。ブースは50近くあるのに、稼働しているのは半分。スタッフがいても一件処理すると、手を上げて呼んでくれたりはしません。こちらからその前まで行くとすぐ対処してくれるのですが。だれも来ないとなると、そのうち自分からどこかに引っ込んでしまいます。

成田とか羽田で私たちが経験する入管職員の仕事ぶりは日本人が相手なので一概にはいえませんが、それにしても……という気がします。列に並ぶのは仕方ないにしても、それならそれで、並んでいる人数の規模によって職員を増やすとか、ブースを多く開ける(そして、きちんと仕事をさせる)とかしてほしいですね。日本からだと9時間から10時間は、狭い空間に閉じ込められているのですから。マニラやシンガポールなど、もっと長い時間の人もいますし。

でも、それだけでは済まさない、もっとシステマチックな問題がありそうな気もします。ESTAで、こちらの基本的な素性は事前につかんでいるわけですし、機械の前に並んでパスポートを読み取らせ、指紋を取られ、顔写真も撮られ(どうつくろっても、疲れた表情を隠せない、“悪意”の感じられるカメラなのです、これが!)プリント、それを持って窓口に行きます。職員はそれを補う作業をするのかと思いきや、またまた写真を撮ったり指紋を取ったり。同じようなことを繰り返しているので、たっぷり時間がかかってしまうのですね。

ようやく外に出られたのは着陸後ゆうに2時間は過ぎていました。疲れたーーーっ! Hさんご夫妻のお迎えで中華料理店へ。客は中国人がほとんどなので味は信頼できそうです。実際、日本人の私たちの口にも合いました。そのあと同じモールにあるWHOLE FOODS MARKETで買い物。ワンフロアなので、広いこと。買い物を済ませHさんの新居へ。新興住宅地のせいもあって周辺はどの家も広々としており、クリスマスのイルミネーションもそこここに見られます。

床面積が2400スクエアフィート=約223平方メートルといいますから、やはり広い家です。土地はその倍以上、150坪をゆうに超えている感じで、家屋の周りはすべて庭。とくに裏側の庭は、50~60人くらいのガーデンパーティーが余裕でできてしまいそう。

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香港で釜飯を楽しむ

2016年12月12日

今日は香港に移動。高速船に乗っているのは1時間なのですが、チェックインやら何やらで2時間半は見ておく必要があります。数年前から「じき完成する」といわれている橋が完成したら、それがぐんと短縮されるはず。早くできないかなと期待しているのですが、なかなか……。なにせ、海の上に、全長35キロですから。

 

夕食はB級グルメでと、油麻地まで地下鉄で行きました。目標は釜めしです。香港でもキホン秋冬の食べ物のようですが、それが1年中食べられ、しかもめっぽうおいしいというので出かけてみることに。店の名前は「四季煲仔飯」。「煲仔飯」が釜めしを意味する中国語のようです。小さな土鍋で作るのですが、その材料が、スペアリブ、鶏肉、しいたけ、チャイニーズサラミ、カエルなど多種多彩。飾り気もなく、完全なのないシンプルな店内にはテーブルが整然と並び、これぞ専門店という雰囲気。飲み物は店を出たすぐ隣にある売店のようなところで買い、中に持ち込みます。もっとも、中国のレストランの常で、ビールとかを飲みながら食べる人は少数派。

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釜めしは注文を受けてから炊くのですが、でき上がりまで最低20分はかかります。その間は「鴨蛋蠔餅(牡蠣入りオムレツ)」を食べている人が多いようです。私たちのすわったテーブルの隣にいた老夫婦もおいしそうに食べていたので、何かと聞いてみると、それでした。私たちも注文したのですが、これは文句なしGOOD!

各テーブルには専用のかけ醤油のボトルがあります。お好みに合わせてアツアツのご飯にかけるのだそうです。

マカオの下町に繰り出す

2016年12月11日

延期に次ぐ延期、2月に行くはずだったのがとうとうここまで延びてしまった香港・マカオの旅。ようやく実現しました。マイレージの特典航空券を利用しての旅なので、いくらでも変更が許されるからですが、行きは羽田から、でも帰りは成田という行程になってしまいました。

 

マカオはいま過渡期に差しかかっているのかもしれません。習近平政権の「腐敗根絶政策」の影響で、かつてマカオのカジノをにぎわせていた怪しげなお金持ちの姿がすっかり減ってしまったからです。そのため、ハイローラーのエリアは閑散としており、普通のエリアも一時ほどのにぎやかさはありません。ここ1年でオープンしたカジノホテルも、当初よりテーブルの数、マシンの数を減らされたせいでしょうか、カジノ内の空間もゆったりした感じで、場所の移動も楽々です。

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それはそれとして、たまには街中にもということで、今日は下町に繰り出してみました。目標は格安フカヒレ料理。新馬路の西側にある長さ約200メートルほどの通り=福隆新街には、赤い格子窓が特徴の長屋に似た建物がズラッと並んでいます。かつては歓楽街だったようで、いまはレストランやお土産店、安い旅館がに気を並べています。その一角にある「添發碗仔翅美食」が目的地でした。

タクシーを降りた真ん前が別のフカヒレの店で、まるで魅入られるようにその店に入ってしまいました。ただ、ここはここでとてもおいしく、しかもメチャ安。店主は1500円くらいのメニューをすすめるのですが、どう考えても量が多すぎる感じがしたので、それより2レベルほど下のもの(900円ほど)にしました。でも、それで正解。お腹いっぱいになりました。食べ終わったあと、近くを歩き始めると、目的地だった店が。大変な行列ができていましたが、こちらは次の機会にということであきらめました。

 

そこから2分ほどのところに缶詰屋さんがありました。看板はすべてポルトガル語なのですが、何を売っているかはひと目でわかります。昔風のゴチャゴチャした造りとは逆の、いかにもいま風の店がまえ。商品棚、また陳列台もとにかく魚の缶詰がビッシリ。どれをとっても、きれいな色と絵のパッケージです。イワシ、サバの水煮、オリーブオイル漬け、サケの水煮が大半を占めていました。値段も400円足らずのものから、高くても600円ほど。デザインの面白そうなものを中心に10缶ほど選んで買いました。

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この店、実はポルトガルの首都リスボンにある缶詰専門店「Loja das Conservas」がアジアに初めてオープンさせたものだそうで、1853年創設のANICP(ポルトガル魚類缶詰製造業組合)によるアンテナショップ。ポルトガル各地のメーカー19社が製造した300種ほどの缶詰を取り扱っているそうです。パリとウィーンの食品スーパーにもコーナーがあって、大変な人気なのだとか。それが初めてアジアに出店したわけですが、けっこう客が入っていました。

歴史の重みに打ちひしがれました! エジプトから帰国

2016年12月1日
昨日(11月30日)の夜、カイロからカタールの首都ドーハを経由して成田に戻りました。カイロの空港を出発したのは29日の夜7時ですから、まる1日以上はかかった計算になります。ドーハの空港はいかにもいま風の設計で、たっぷりお金をかけているのがひと目でわかります。さすが産油国の首都。それに、できてからそれほど年数も経っていないのでしょう。

それにしても、エジプトではよくもまあ、これほど多くの場所を見てまわったものです。チケットの半券を全部集めてみたら、これだけの枚数になりました。入場券なしで入ったところはどこかと思い出してみたところ、帰国当日の昼間見て回った旧「オールドカイロ」くらい。カイロでもっとも古い市街地で、コプト教徒が多く住んでおり、コプト博物館やギリシア正教会の修道院、ユダヤ教のシナゴーグなどがある場所です。ただ、このエリアの入り口にも、警官数人が厳重に警備線を引いていました。

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ちなみに、コプト教とは、キリスト教のなかでも、「東方諸教会」といって、中東・ギリシア・アナトリア・東ヨーロッパに広まった諸教派のうち、エジプトで発展した一派を指すのだそうです。といってもよくわかりませんが、要は、イスラム教が広まるより前に、キリスト教やユダヤ教が入ってきていたのです。

 

 

 

 

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観光スポットをここまで厳重に警備しているのは、エジプトという国が「観光」を頼りにしているから。観光なくしてエジプトは成り立たないはずで、今回のツアーが、日本から同行している添乗員さん、現地のガイドさんのほか、「ツーリストポリス」という耳慣れない人もずっと一緒だったのは、その「観光」をおびやかす存在に対抗してのことにほかなりません。

エジプトには世界遺産が6つもあります。「メンフィスとその墓地遺跡─ギーザからダハシュールまでのピラミッド地帯」「古代都市テーベとその墓地遺跡」「アブ・シンベルからフィラエまでのヌビア遺跡群」「カイロ歴史地区」の4カ所は、全域ではありませんが、今回行きました。行っていないのは、「アブ・メナ(地中海に面した港町アレクサンドリアの南西にある、古代エジプトにおけるキリスト教巡礼の中心都市)の遺跡」と「聖カトリーナ修道院(シナイ山の麓にある峡谷の河口、シナイ半島に位置する正教会の修道院)地域」の2カ所です。どれもみな、歴史の長さからすれば、大変ハイレベルの世界遺産ばかり。一つをくまなく見るだけでも、2、3日はかかりそうです。

貴重な世界遺産を守り、なおかつそこを訪れる内外の観光客の安全にも万全の配慮をしなければならない警備陣の責任は重大です。しかし、そこまでしてでも保護しなければならないのがエジプトの観光産業だといえます。

それだけに、観光客の足を一気に遠のけてしまった2011年1~2月の「エジプト革命(アラブの春)」による社会の混乱は、国全体に大きなダメージを与えたようです。しかし、それほど大事な生業を犠牲にしてでも「革命」に打って出た多くの人たちにしてみれば、それまで30年以上も続いたムバラク大統領による独裁体制にはよほど我慢がならなかったのでしょう。人々のそうした心情を思うと複雑な気持ちになります。

しかし、大統領の辞任後、翌年1月以降も、新憲法の制定などをめぐって混乱が続き、結局その翌年7月に軍部クーデターが起こり、ようやく平穏を取り戻したのです。ただ、クーデターが起こったからといって、国内の秩序がすぐさま旧に復したわけではなく、海外からの観光客を受け入れられる態勢が整ったのは、私たちが行くほんのひと月ほど前だといいます。どの観光地の警備線も緊張が感じられたのはそのせいでしょう。場所によっては、軍隊や装甲車が配備されていたことからも、それがわかります。

エジプト国立博物館には、もうあんぐりするしかありません!

2016年11月29日
DSC_0862今日でエジプトツアーも実質、最終日。朝食を終えると、ホテルの目の前に建つ国立博物館の見学です。のっけからもうびっくりしたのは、出土品、それも3000年前、4000年前のものが前庭のあちこちに、陳列というか放置というか、フツーに置かれていたこと。レプリカもあるのでしょうが、それにしても……という感じです。

建物の中に入ってもそれは同じ。見学する前に、ガイドさんが館内の“見もの”について簡潔に解説してくれたのですが、聞こえてくるのは「2000数百年前」「3000年以上前」といった数字。これにはもうあんぐりするしかありません。もちろん、こちらのほうが前庭の出土品より貴重なもののはずですが、それが廊下に置かれていたり、ほかの陳列物が並ぶ隅のほうに半分隠れていたりすると、なんだか信じられないような感じがします。もちろん、きちんと並べられている出土品だけでも数千あるのですから、まる1日かけたとしても、全部を観て回ることなどできません。ただただ、「すごい!」というしかないのです。

よくもまあここまでこまかく精巧に作ったな、よくもまあこんな美しい色が……と二の句が告げないような出土品が次から次へ。気候が乾燥しているせいもあるのでしょう、保存状態の素晴らしさは想像以上のレベルで、古代エジプト文明のすごさ(こんなありきたりの言葉で申し訳ないのですが)にはもう感動するしかありません。

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一つひとつの出土品にまつわる解説は、もちろんその場限りなので、カタログでも買って、日本に帰ってからゆっくり見ればいいと思っていたのですが、期待していたミュージアムショップはほとんど開店休業状態で、これにはがっかり。なんでも、もうじき新しい博物館が完成し、展示品もすべてそちらに移されてしまうのだとか。なるほど、だから、いいかげんな置き方がされていたんだと、妙に納得してしまいました。

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でも、ツタンカーメンの像、それが見つかった部屋に置かれていた棺や宝飾品には度肝を抜かれました。後世のハプスブルク王家やロマノフ王家、ブルボン王家など、どこの国の国王や皇帝ももちろん大変ハイレベルなのですが、古代エジプトのそれにはとてもかなわないのではないでしょうか。

ナイル川の水上レストランでランチののち、オールドナイル地区に立ち寄り、空港まで移動。感動というお土産をたんまり持って、夜には帰途につきます。

アブ・シンベル神殿で朝日を拝んだあとはひたすら砂漠を走る

2016年11月28日

DSC_0766今日は長い1日でした。メインイベントはアブ・シンベル神殿の前から拝む朝日。チョー早起きしていくと、空はどんよりしており、これはダメかと皆、あきらめていました。しかし、日の出の時刻から30分ほどすると、空がうっすら赤く染まってきます。それからはあっという間、太陽が赫々とした光を放ちながら山の間から姿を見せました。湖もそれに合わせて赤い光を反射させ、一気に明るい朝が!

 

世界中どこで見ても朝日は美しいものですが、悠久の歴史を秘めたアブ・シンベル宮殿ですから、テンションもいっそう上がります。衝撃的なシーンを前に、シャッターも数多くは切れませんでしたが、この目で見た神々しい光景は忘れられません。

それにしても、およそ3300年も前に作られた大小2つの神殿、アスワンハイダムの建設工事により本当なら水没してしまうはずだったのに、よくぞ移築に成功したものです。「世界遺産」を守った、人類史上に残る功績ではないでしょうか。祀られているラムセス2世も天上で喜んでいるにちがいありません。

ホテルに戻り朝食もそこそこにチェックアウトし、バスに乗り込みます。ここからアスワンまで、砂漠の中をひた走るのです。エジプトの道路は、車のスピードを落とさせるための突起があちこちに作られています。街中ならともかく、郊外の、左右どちらを見ても砂漠しかないようなところでも、なぜかかならずそれがあるので、時速70~80キロで突っ走るというわけにはいきません。

2時間半ほどのち、ようやくアスワンに到着。ナイル川に浮かぶ小さな島フィラエ島を訪れました。ここには、ほかの神殿に比べると小ぶりなイシス神殿があります。さしものエジプトも、1週間もいると神殿慣れしてしまい、ツアーの面々もテンションが下がり気味。しかし、それでも、壁画に描かれているストーリーはほかとはひと味もふた味も違いますし、建物のこまかな部分には、時代社会が反映されているようです。これもどこかから移動したものだそうですが、古きものをきちんとした形で残そうというのは、西欧人の考えなのでしょうね。

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すぐ近くのホテルでランチを終えると、空港に。ダムで知られる町だけに、ファサードもそれに合わせたおしゃれなつくりです。中もまだピカピカ。ここ数年、内外の観光客の足がパタッと止まっていたため、使用頻度、出入りする人の数も少なかった影響でしょう。いまなお便の数はさほど多くないようで、広いターミナルの中は閑散としていました。

私たちが搭乗手続きを終えたころ、前日当地で試合をした「Al Ahly」というサッカーチームの選手たちの姿が見えました。エジプトのプレミアリーグで過去38回も優勝している強豪で、2015-16年のシーズンも優勝しています。どうやら同じ飛行機に乗るようです。空港の職員やエジプト国内の観光客たちにはなじみの顔らしく、多くの人がカメラを手にしながら待ち受けたり。

DSC_0832同じツアーの人たちも、相手がだれかも知らないのに、ガイドが教えてくれた情報を頼りに、次々と記念撮影をお願いしています。なかでもいちばん多くのファンから声をかけられていたのは、エジプト代表チームの正GKシェリフ・エクラミ選手。女性陣は「イケメン」とみると、どんどん声をかけシャッターを押すジェスチャーを見せながらすぐ隣に立っています。

 

アスワンからカイロまでは1時間ちょっと。飛行機の窓からは砂漠しか見えませんでした。しかし、空港から中心市街に向かう道が渋滞していたため、ホテルまで2時間近くかかりました。ようやく到着したホテルはナイル川沿いに建つリッツ・カールトン。でも、ロビーに入ったとたん、疲れが吹き飛びました。ウェルカムドリンクで出されたザクロのジュースのおいしかったこと。

リッツといえば、昨年だったかシンガポールでひどい目に遭いましたが、ここはまったく違います。ツアーなのでたった1泊しかできないのがなんとも残念。個人旅行なら、最低でも2泊はしたい素晴らしい雰囲気のホテルです。

夕食は、前日のリクエストにもとづき、私たち2人はエジプト料理のコース。豆を多く使うのがその特徴ですが、前菜はやはり豆がメイン。しかし、バリエーションが豊富で、どれを食べても飽きません。メインは肉でしたが、これも当地独特のスパイスが利いていてとても美味でした。久しぶりのツアー客だからということもあるのでしょう、ホテル側のもてなしも通常より気合が入っている感じです。マネージャーや営業担当の上席スタッフとおぼしき人がつきっきりでサービスに務めていました。

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部屋からの眺めも素晴らしいこと。いかにも首都の中心を流れる川らしく、両岸とも華やかな光に満ちあふれています。船をそのままレストランに改造した感じの店もいくつかあり、明日はその中の一つでランチをする予定です。

 

「ワンダラー、ワンダラー」「タカクナ~イ」「アバヨー」「ヤマモトヤマ」

2016年11月27日
どこの観光地に行っても、「ワンダラー、ワンダラー」という声が聞こえてくるのがエジプトです。エジプトの通貨はかつてイギリスの保護国だった時代の名残で「ポンド」なのですが、土産物屋の客引きが口にするのはいつも「ワンダラー」。ワンダラー=1ドルはざっくり100円。かといって、どの店も「100均」なのかというと、そういうわけではありません。要するに、「安いよ、安いよ!」の決まり文句のようなものです。

日本人が相手の場合、その亜流「タカクナ~イ」「ヤスイヨー」を繰り出してくることもありますが、こちらはいまひとつインパクトに欠ける感じ。そうした声かけを無視して通り過ぎようとすると、「アバヨー」という言葉をかけてきます。どこかの日本人観光客が教えたのでしょうが、発音はどれもたいそう達者です。

ギザのピラミッドでは「ヤマモトヤマ」というのも聞きました。日本人観光客を相手にするときの「シャチョウ」は世界共通ですが、ときどき「サトウさん」とか「ヤマモトさん」と固有名詞っぽい呼びかけをされることもあります。「サッポロのスズキさん」とか「ナゴヤのナカノさん」というのも耳にしました。そのバリエーションが「ヤマモトヤマ」なのでしょう。これもどこかの日本人が教えたからにちがいありません。でも、笑えてしまいます。

それにしても、あの手この手で声をかけ、一つでも二つでも買ってもらおうという商魂のたくましさはどこの観光地も同じ。もちろん、そうした言葉につられて店の中に入るほどこちらも甘くはないのですが、声の調子が独特で、そのうちすっかり慣れてしまいました。逆に、何も声をかけられないと落ち着かなくなったりして……(笑)。

DSC_065224・25・26日と3泊したナイル川クルーズも今日で終わり。朝アスワンに到着しました。朝食後、ナイル川をオールドスタイルの帆船(=ファルーカ)に乗って楽しむメニューは楽しかったです。長さ7~8メートル、幅3メートル足らずと小ぶりな帆船の船長は先祖代々の稼業だそうです。クルーズで乗った大きな船でもそれは同じで、民族衣装(ガラベーヤ)に身を包み、ゆったりした感じで舵を取る船長も2代目だと話していました。

ガイドさんの話では、この一帯=ヌビア地方の人たちは気質も言葉も違うといいますが、私たちにはわかりません。ヌビア人はふだんとても物静かなようですが、手先の器用さは素晴らしいらしく、かなり精巧な仕上がりの民芸品を作って売っています。ファルークの中にも置かれていて、いくつか購入しました。

そのあとはバスで市内観光。アスワンの町は、人も車もカイロよりゆったりした感じ。地方都市ですから、そんなものなのかもしれません。途中、石切り場で未完のオベリスクを、さらに、空港近くにあるアスワンハイダムを見学しました。

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DSC_0692アスワン空港から南のアブ・シンベルまでは飛行機で1時間ほど。できて間もないアブ・シンベル空港のターミナルビルはかわいらしい建物でした。そこからバスでレストランへ。ランチを済ませると、ナセル湖の湖畔に建つホテルに。午後2時過ぎと早かったので、ほとんど全員、午睡のようでした。私は仕事をしました。部屋ではインターネットがつながらないので、ロビーやカフェまで行くとすんなりつながります。

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夕方からアブ・シンベル神殿に向かいました。ラムセス2世がこれを造らせたのは紀元前1250年ごろといいますから、3000年以上昔。砂岩をくり貫いた大小2つの神殿が並んでいます。どちらもそのスケールには驚くほかありません。

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夜はこの神殿の前でおこなわれる「光と音のショー」を楽しみました。ギザのスフィンクス前でおこなわれたショーはパスしていたので、今日は私たちも行ってみたのですが、自然の岩の表面を利用してのショーというのはなかなか難しい感じがします。ナレーションが日本語だったのはありがたかったです。

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ナイル川に浮かぶ船の上でHAPPY BIRTHDAY!

2016年11月26日
ナイル川クルーズ2日目。どちらの岸を見ても景色にさほど変化はないのですが。思っていたほど飽きは来ません。まあ、ここまでゆっくりできる時間は、ふだんなかなか経験できないせいもあるのでしょう。

この日の朝は、エドフという街を観光しました。船を降りると馬車が待っていて、それに乗ってホルス神殿まで行きます。時間にすれば10分足らずなのですが、大変なスピードを出して走るので、少し怖い感じもしました。

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ホルス神殿はエジプトに多く残されている遺跡のなかでも、保存状態がとてもいいのだそうです。入口近くの空間は天井や壁が真っ黒で、せっかくの壁画もほとんど見えません。その昔──といっても2千年ほど前のことでエジプト的には比較的「最近」のこと──、キリスト教徒がエジプトに入ってきたころ、台所として使ったため煤で分厚く覆われてしまったためとのこと。しかし、そこ以外は、外壁も含め、素晴らしい壁画や彫刻が堪能できます。

DSC_0582いったん船に戻り、しばらく川を下ったところにあるコム・オンボ神殿が次の訪問地。2千年前にできた神殿なので、エジプトではもっとも新しいというか、ギリシア風のにおいがただよってきます。外壁に彫られたプトレマイオス13世のレリーフの大迫力にはたまげました。

クルージングの旅というのは、船が走っている間はただただボーッとしていればいいので、体も目いっぱいゆるんできます。今日は私の誕生日で、朝からフェイスブックに「おめでとう」のメッセージが次々と届いていました。

夕食も今日で3回目なのですが、適当に変化があり、それなりに楽しめます。そして、今夜はクルーたちが歌を歌いながら、大きなケーキを手に私たちのテーブルまでやってきました。こんなふうにお祝いしてもらったのは、人生でも数えるほど。なんだかんだいっても、祝ってもらえるのはうれしいもの。子どものような気持になってロウソクの火を消しました。

海外で誕生日を迎えたのは30年近く前、マドリッドで経験したことがあります。このときもツアーでしたが、「HAPPY BIRTHDAY」を歌われたときの気分、やはりいいですね。素直に喜べました。今日も同じ。なんだか「明日からまた頑張ろうー」という気分に……というのはウソです。

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「王家の谷」に行きました!

2016年11月25日

今日はいよいよ「王家の谷」の見学です。早朝からバスに乗り1時間ほどで到着。その手前に大きな石造の立っている場所がありましたが、要は、べらぼうに広い土地に墓地を作ったわけで、その入り口というか、玄関のようなものなのでしょう。ガイドさんの話を聞いていると、ひと山丸ごと一人の王の墓、隣の山は王女の墓……といったことのようでした。

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DSC_0400「王家の谷」の本当の入り口まではトラムに乗って。数十も墓があるのですが、そのうち、比較的容易に見られるのはいくつかしかないようで、そうした墓をセレクトしながら観て回ります。棺はたいていいちばん奥に安置されているのですが、そこまではスロープや階段を降りていく途中の壁画の美しさといったらありません。4千年近くも経っているのに、いささかも色彩が衰えていないところもあり、これには驚きました。残念ながら写真は撮れないので(警備員にちょっと袖の下をつかませれば、見て見ぬふりをしてくれるようですが)、絵ハガキを買いました。

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ここではやはり、ツタンカーメンの墓とネフェルタリ王妃の墓が双璧です。ツタンカーメンの墓は驚くほど小ぶりでしたが、そこに副葬品として金銀財宝がびっしり置かれていたのだそうです。その全貌は数日後、カイロの国立博物館に行けばわかるはず。ネフェルタリ王妃の墓は、その壁画の美しさに深く感動しました。つい最近まで観られなかったそうですが、ようやく一般にも公開されるようになったとかで、とても得をした気分です。ここの観覧料はほかのところの数十倍とかで、たしかにそれに見合う価値はありました。

DSCN07343時過ぎに船に戻り、夕食の時間までゆっくりできました。デッキに並べられたソファーや安楽イスにめいめいが寝そべったり体を横たえたり。私にとっては存分にタバコが吸えるので、大変ありがたいひとときでした(船の中はもちろん禁煙)。

途中、川の高低差をクリアするための閘門があり、そこを通過するときはほとんど全員がデッキに上がってきました。9月に旅したフランスのストラスブールでも目にしましたが、さすがナイル川、スケールが段違いです。

 

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息を呑まずにはおれないカルナック神殿の迫力

2016年11月24日
今日は飛行機でルクソールに移動。ルクソールから、ツアーのもう一つのメインといっていい、アスワンまでのナイル川クルーズ(3泊4日)の起点です。

カイロの国内線ターミナルはたいそう立派な建物なのですが、なぜか閑散としています。喫煙所で一緒になったガイドさんの話によると、完成したのは10年ほど前。しかし、「エジプトの春」によって国全体が混乱し始めた5年前から、観光客の足がパタッと止まってしまったため、キャパシティーに見合う利用客がいなくなったということのようです。エジプトは国民の4割ほどが観光関係の仕事に就いているので、この5年間は本当に大変だったといいます。ようやく、ひと月ほど前から安心して観光が楽しめるようになり、関係者もひと安心したところ。これからが稼ぎ時というか、人々の生活も多少は安定してくるのではないかと期待していると語っていました。

ルクソールはカイロから700キロ南にあり、飛行時間は1時間。エジプト航空の飛行機の窓は砂ぼこりで茶色くなっていますが、下を見ると、ほとんど全行程が砂漠の上を飛んでいるのがわかり、それも当然と納得しました。ルクソールの空港ターミナルは素晴らしいデザインの建物で、国が観光に力を入れているのがひしひしと感じられます。

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ターミナルを出てバスに乗り、ナイル河畔の港まで。サトウキビ畑が広がっていて、川もきれいですし、カイロやギザと違い、道端にゴミがほとんどありません。この街に2、3泊してゆっくり楽しむコースもあるようですが、私たちは1泊(ただし船にです)するするだけ。ちょっと惜しいとも思います。

桟橋には川に沿って3隻ずつ、とりあえず6隻ほどのクルーズ船が接岸していました。でも、その後方にも桟橋があり、そちらに向かってくるクルーズ船も見えます。私たちが乗る「アムワジ・リビングストーン」号は川岸から2列目なので、1隻を通り抜けてロビーに入ります。おしぼりと冷たいお茶をいただきほっとくつろいだ気分になったところで、添乗員さんからもろもろ説明を受け、それぞれ部屋に。まだ改装して間もないのか、部屋の中は新しい感じで、快適そうです。

DSC_0285荷ほどきを済ませるとランチ、そして最初の観光に出ました。行き先はナイル川東岸にあるカルナック神殿とルクソール神殿。この2つの神殿、どちらも息を呑んでしまいました。とくにカルナック神殿の壮大さといったら……。よくもまあ、これほど大量の石を高く積み上げ、あるいは切り、何十本、何百本もの柱を立て、そこに大小さまざまな彫刻をほどこし、さらに絵(しかも色付き)を描き文字を刻んだものです。

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DSC_0336古代ローマの建築物もたいそうなもので感動しましたが(ギリシアにはまだ行ったことがないのでわかりません)、これほどの域には到達していないでしょう。まして、日本の城の比ではありません。日本の城はせいぜい10数年で作り上げますが、こちらの神殿は何百年、場合によっては千年以上の時間をかけているというのですから、当然でしょう。しかし、それにしても、です。古代エジプト文明の、静かな、迫力というか奥深さをいまさらながら思い知らされた気がします。

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ピラミッド漬けの1日

2016年11月23日

朝は広い庭を抜けたところにあるレストラン棟でバイキングの食事。砂漠のただ中にあるので、肌寒さすら覚えます。しかし、空気は澄んでいてさわやか。別館から会場まで移動する際に、見えました! かの有名なクフ王のピラミッドが。ホント、目の前にあったのです。

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DSC_0147朝食を済ませると出発。今日はピラミッド漬けの1日です。まずは、ギザから30キロほど南にあるダフスールへ。ここでは「赤のピラミッド」と「屈折ピラミッド」を外から観るのですが、ピラミッドといっても“序の口”の印象。続いて訪れたのは、ギザの方向に戻る途中にある古都メンフィス。ここにはこじんまりした博物館があり、中に、ラムセス2世の巨大な像が横たわっています。

DSC_0103「メンフィス」と聞くと、アメリカ南部テネシー州、エルヴィス・プレスリーの生まれ故郷の名前と同じですが、それはここ、エジプトのメンフィスにちなんで名づけられたそうです。片やミシシッピー川、片やナイル川どちらも大河の河畔にあったからでしょうか。博物館を出た外にあるアラバスター(大理石の一種)製のスフィンクスは、小さいながらも、元の姿をとどめています。ほかにも、さまざまな石像が立っていて、一つひとつ見ていても飽きません。

DSC_0103バスの窓から外に目をやると、どこを走っていてもヤシ(ナツメヤシ)の林、森があり、その間にモロヘイヤの畑が広がっています。道路にはトゥクトゥク(小型のタクシー)がいっぱい。一つ、悲しくなったことがあります。それはゴミの多さ。インドでもそうでしたが、どこの道路も両端はゴミでびっしり。大きなゴミ置き場やボックスもあるのですが、そこは満杯といった感じです。回収車が走っていても、追いつかないのでしょう。しかも、石油原料のケミカルなゴミが目につきます。これがこの先さらに増えていくのかと思うと大変だろうなと考えさせられてしまいました。

DSCN0679メンフィスの次はサッカラ。ここは、ジュセル王のピラミッド・コンプレックスで知られるところです。「コンプレックス」というくらいですから、さまざまな施設が合わさってピラミッドを構成しており、なかでも柱廊の素晴らしさには感動しました。

 

 

 

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DSC_0197昼食のあとは、いよいよ本命のギザへ。これまで写真で何度も見たことのあるクフ王のピラミッドからスタートです。ピラミッドの下に建って見上げると、そのスケールの大きさに驚きます。高さは140メートルほどで、階段を10メートルほど昇ったところに入口がありました。中に入ると、昔耳にした「ピラミッドの中は狭くて、臭い」といった印象はありません。女王の部屋まで行くのにゆるい、でも長いスロープを昇るのですが、このとき中腰の姿勢を保たなくてはならないのがつらかったです。ここはやはり、若いうちに訪れたほうがよさそうです。

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続いてカフラー王、そしてメンカウラー王のピラミッド。合わせて3つのピラミッドがまとめて観られる場所、さらにスフィンクスも。エジプト観光のハイライトで、どこも皆、大変にぎわっていました。最初にギザを観てしまうと、あとは皆「なーんだ」ということになってしまいそうですが、徐々にスケールが大きくなってくるので、感動もひとしお。このあたりがツアーの妙味かもしれません。

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エジプトのカイロまではまる1日

2016年11月22日

 
DSC_0026前日の夜遅く出発したカタール航空(このキャリアは初めてです)は早朝4時半ドーハ着。4時間近く待ってエジプト航空に乗り継ぎ、カイロに降り立ったのは今日の昼前でした。出迎えのバスで中心部まで行き、まずはアズハル公園内にあるレストランで食事。アウトドアなので快適です。地元のタジン料理というやつで、豆がふんだんに使われていました。

 

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そのあとは高台にある城塞シタデルへ。中に入ると、壮大なムハンマド・アリ・モスクが。ドームがいくつも連なり、両サイドにミナレットが立っています。こうしたスタイルのモスクはとても珍しいのだとか。中に入り、床に座ってガイドさんの説明を聞きましたが、座ると、そのスケールの大きさに驚きます。

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次に訪れたのは、ハーン・ハリーリというバザール。ちょっと油断するとすぐ迷子になりそうな、狭く入り組んだ商店街です。水タバコを吸いながらくつろいでいるおじさんがそこかしこにいました。一度体験してみたいのですが、今回、かなうかどうか。

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バザールをあとにして、途中ナイル川を渡りギザ地区へ。今日・明日と2泊する「メナ・ハウス」にチェックインしました。1869年創業の老舗ホテルで、1943年にここで開かれた「カイロ会談」にはルーズヴェルトとチャーチル、蒋介石が出席したとか、第4次中東戦争(1973)の停戦合意を決めたとか、歴史的な政治判断がなされた由緒深い場所だそうです。いかにもといった感じの気品あるロビーから、私たちのグループにあてがわれた別館まで移動。どの部屋からもピラミッドが見えるというのですが、夜だったのではっきりわかりませんでした。

「北前船寄港地」フォーラムで北海道・江差へ

2016年11月11・12日

「江差追分」というのは、中学校のころだったか、音楽の時間に習った覚えがあります。もともとは信州で生まれた馬子唄が越後に渡り、それが北前船の船乗りによって各地に伝えられ座敷唄に変化したものなのだとか。その本拠地・江差で「北前船寄港地」フォーラムが開催されるので取材に。せっかくの機会でもあり、帰りは、3月に開通した北海道新幹線を利用する予定を立てました。

行きは飛行機で函館空港まで。ホテルには4時ごろチェックインできたのですが、抱え込んでいる仕事が山ほどあって、この夜函館市内でおこなわれる「前夜祭」に参加できないのが残念です。翌日のフォーラムもさることながら、「前夜祭」はさまざまな出会いがあり興味深いのですが、やむを得ません。

ただ、夜ひとりで食べに出たラーメンはおいしかったです。8時半を回ったところで、ホテルから東のほうに向かって夕食を食べに出たのですが、予想していたほど店がありません。全国チェーンの居酒屋は論外。屋台横丁のようなところが唯一食指をそそりましたが、これはこれでけっこう入りにくいものです。

仕方なく、駅からほど近いラーメン屋に入ったのですが、たいそうにぎわっており、食べる前から期待が高まります。餃子とセットで食べましたが、しょうゆ味のラーメンはとても美味でした。

DSC01123翌日は有名な朝市で海鮮丼をたいらげ、送迎バスで江差町へ。函館からは峠を越えていくので、1時間以上かかります。途中はほとんど何もありませんが、下り坂にさしかかると、見えてきました、日本海が! 上から見渡す海の景色というのは、とにかく美しいものです。

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DSC01141江差町の町長は全国でも最年少だそうですが、元気いっぱい。「北前船」というツールを有効活用して町の活性化、観光振興につなげていきたいとの意欲と情熱が体の奥深くからたぎっています。といって、ギラギラした風はありません。たしかに、江差の町自体は、近ごろの地方の常で、さびれた感じですが、ここから「北前船フォーラム」がきっかけとなって元気を取り戻せば、素晴らしいなと思いました。

DSC01146夜のレセプションは、そうした熱気がそこかしこにあふれ、なかでも食事のメニューは、地元に古くから伝わるソウルフードが目白押し。それだけでも楽しさいっぱいでした。

翌日は江差のホテルから送迎バスで新函館北斗駅まで。まわりはほとんど何もない場所に建つピカピカの駅のまぶしいこと。5時間余で東京まで戻りました。木古内【きこない】と新青森の間は30分近くトンネルなので退屈ですし、東海道・山陽新幹線に比べれば遅いのは否めませんが、わたし的には「初めて」ということに意義があるので、それもよしとしましょう。

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欲張りメニューの3日目は

2016年10月19日

DSC00994今日で熊野古道チャレンジも最終日。残る一つ「熊野那智大社」に向かいます。那智の滝があるところですが、それを見るのに、たいていの人は車で「那智山」まで上がってしまうとのこと。でも私たちは「チャレンジャー」ですから、歩いて登ることにしました。

 

DSC01001スタートは、山のふもとにある「大門坂【だいもんざか】」。手前の駐車場に車を止め、降りて歩き始めると、澄んだ空気の中、杉木立に囲まれ苔むしている坂は荘厳な雰囲気に包まれています。最初のうちはゆるやかでしたが、途中からかなりきつい勾配に。あまりのしんどさにリタイアしている人もいましたが、私と家人はあえぎながらも30分歩き、なんとか途中の那智山駐車場まで登りました。

 

DSC01006ここからは石段です。10分ほどで「那智大社」に到着。本殿は熊野権現造りの朱塗りですが、どことなく神聖な雰囲気があります。八咫烏【やたがらす】が石に姿を変えたといわれる烏石、那智大社と青岸渡寺【せいがんとじ】の間、社務所の向かいに立つ樹齢850年以上という大楠も見ました。根もとは空洞で祠のようになっているのがなんとも不思議。

那智の滝はそこからさらに下っていきます。興味深いのは欧米からやってきたとおぼしき人の目立つこと。家族連れ、カップル、ひとり旅と、いろいろな人がいましたが、こんな場所にまでやってくるのを見ると、インバウンドの急増は事実だということをまざまざと感じます。

那智の滝は、予想にたがわぬ迫力です。高さ400m近いのですからそれも当然。下から見上げると、みごとなものです。水量がさほどでもなかったので、これが雨のあとだったりすれば、かなり水しぶきを浴びそう。帰りはバスで駐車場まで移動し、そこからはまたレンタカーで白浜の空港まで海沿いの道を走ります。

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DSC01043ただ、途中、休憩を兼ねて立ち寄った橋杭岩【はしくいいわ】は意外な穴場というか、そのロケーション、姿かたちに感動しました。ガイドブックにおもしろそうな写真が出ていたので、軽い気持ちで寄ったのですが、海面からなんとも奇妙な形の岩が顔を出していて、しかもそれがずらっと横に並んでいるのです。だれもが、その前に立てば写真を撮りたくなるのは必至。私も、迷わずその前に立ってみました。長い旅の疲れも一瞬で吹き飛んだような気がします。

DSC01062橋杭岩のすぐ対岸に浮かぶ紀伊大島(といっても橋でつながっている)には、トルコ記念館がありました。なぜこの地(串本町)にトルコなのか、これには深い理由があります。1890年9月、日本から帰国の途にあったトルコの軍艦エルトゥールル号が折からの荒天のあおりで座礁、沈没してしまったのがこのあたりだったのです。地元住民が献身的な救助活動にあたりましたが、乗組員656名のうち587名が死亡(69名は救助された)しました。

引き揚げられた遺体は、遭難の現場を真下に見下ろす丘に埋葬されたと伝えられ、翌92年3月、和歌山県知事など有志が資金を出し合い墓碑と追悼碑を建立、追悼祭もおこなわれました。そして1937年、トルコ建国の父ケマル・アタテュルク(初代大統領)の発議で慰霊碑が現在のような立派なものに作り替えられました。慰霊碑の斜め前には彼の銅像が建っています。その後、1974年には記念館が作られました。

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DSC01076トルコ軍艦遭難記念碑の次は最後の目的地・潮岬灯台。台風情報などでその名前は耳にタコができるほど聞いていますが、実物を見たことはありません。行ってみると、広い駐車場に止まっている車は2、3台。灯台自体は特別な形をしているわけでもありませんが、実際中に入り、狭くて急な螺旋階段を上がると、すぐ目の前に熊野灘が広がっています。「これが潮岬なんだ」と、妙な満足感を覚えました。一度この目で確かめてみたいという思いが心の底にずっと息づいていたのでしょうね。

「熊野古道」2日目

2016年10月18日

今日はまず本宮の少し奥(京都からやってくる際は本宮=ゴールのすぐ近く)まで旅館のバスで送ってもらい、そこから熊野古道のいうならば“チョー短縮版”を体験しました。それでも、1時間少々、なだらかな登り下りで構成されているコースはけっこう楽しめます。

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DSC00949こからはレンタカーで、美術館分館が建つ中辺路まで戻ります。本堂から少し外れた近露王子【ちかつゆおうじ】という場所にあるのですが、まわりは畑と雑木林しかないところに突然あらわれる美術館にびっくり。外装もえらくモダンで、ちょっと浮いた感じは否めません。祖父の作品も三つ、展示されていました。

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DSC00978美術館をあとにし、二カ所目の「熊野速玉神社」へ。こちらは新宮市の街中にあるので、山あいの地にある本宮大社と違い、それほど神秘的な雰囲気はありません。ただ、訪れる人が少ないせいか、落ち着いた感じがします。

DSC00976ついでに、始皇帝の時代、皇帝から「不老不死の薬を見つけてこい」との命を受けて遣わされこの地にたどり着いたという徐福を祀る公園をのぞいてみました。新宮の町自体とても地味な感じがするので、徐福公園の楼門の極彩色は異彩を放っています。中はきれいに整備され、徐福の像や墓などがありました。

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今日の宿は勝浦市の海岸近く。典型的なオールドスタイルの温泉旅館ですが、2日続けての温泉という、ふだんはなかなか経験できないぜいたくをさせてもらい、久しぶりのドライブの疲れも即解消。明日に備えます。

長年のあこがれ・熊野古道に“チャレンジ”??

2016年10月17日
今日から3日間かけて、長年の課題だった「熊野古道」にチャレンジします。「チャレンジ」というにはいささかおこがましいのですが、それでも細い山道を1時間以上かけて歩くなど、東京にいてはまず経験できないこと。それを実行してみるだけでも、とても意義深いことのように思えます。

きっかけは、ひと月ほど前に和歌山県田辺市立美術館から届いた「開館20周年記念コレクション展2 現代絵画─戦後の抽象─」の案内状。同美術館に収蔵されている祖父・德次郎の作品が3点、今回分館のほうに展示されるというのです。分館は「熊野古道なかへち美術館」という名前のとおり、熊野古道の途中・中辺路【なかへち】にあります。せっかくの機会なので、観にいったついでに、前々から行きたいと願っていた熊野古道にも足を延ばすことにしました。

お昼前に着いた南紀白浜空港でレンタカーを借り、紀伊半島のほぼ東端にある「熊野本宮大社」に向けて出発。位置関係からすると、初日の今日、美術館に行くほうが効率はいいのですが、月曜日のためあいにく休館です。全国どこでも、このパターンは変わらないようで、仕方なく、本宮を先に訪れることにしました。もともとは山深い地のはずですが、いまでは道路がばっちり整備されているので、いとも簡単に行けてしまいます。道路もガラガラで、途中ランチに立ち寄った店も、客は私たちだけでした。

 

DSC00901  本宮大社も人の姿はまばら。本殿まではもっと険しい階段とか坂道を想像していたのですが、それほどでもなく、楽に昇り降りできました。本殿の裏側が熊野古道のゴール地点になるようで、木々がうっそうと生い茂っていますが、こちらは明日のお楽しみ。1日目なので、あまり張り切りすぎてもあとに響きそうなので、ちょうどころあいの感じです。

DSC00944階段を降りると、もともと本宮大社が建っていた場所に残されている巨大な鳥居が目に入ってきました。田んぼの真ん中といった感じなので、とても目立ちます。飛鳥時代の615年に本宮大社が創建されたのは、熊野川・音無川・岩田川という三つの川が合流するあたりの中洲(大斎原【おおゆのはら】という)で、いまの本宮大社の8倍という広大な敷地だったそうです。上・中・下社の三つから成り、五棟十二社の社殿、楼門、神楽殿や能舞台もあったといいます。

それが1889年8月の大洪水で大きな被害を受けました。2年後、上四社がいまの地に遷座し復興したのですが、創建当時の大きな鳥居は元の場所にそのまま残されているのです。高さ約34m、幅約42mという大きさなので、真下のあたりから見ようとすると首が痛くなります。

DSC00926本来の今日の宿泊は本宮の近くに三つある温泉地の一つ。道路から坂を下りていった川っぷちに建つ、一見保養所風の建物でした。川の両岸に施設が広がっており、温泉に入るには、川に架かる吊り橋風の橋を渡っていきます。幸い好天だったのでよかったのですが、雨でも降っていたら、ちょっと躊躇するかもしれません。また、風が吹いたらさぞかし揺れそうです。

それでも、食事の前に1回、食後に1回、翌朝に1回と、いつものとおり3回、お湯につかりました。食事もけっこう充実しており、空いている時期だったので、ていねいなおもてなしを受けられ、よかったです。

乗り継ぎ2回も、届いていた預け荷物に安心

2016年10月7日

昨夜は18時10分のルフトハンザ便でフランクフルトに。そこで乗り継いで一路香港へ向かいました。フランクフルトで1回、香港→マカオへの荷物もスルーなので、実質的には2回の乗り継ぎ、最初の出発地がスペインということもあって、預け荷物のことが心配でしたが、さすがルフトハンザ、大大丈だったようです。それでも、実際に荷物を受け取ったときの安心感は何ものにも代えがたいものがあります。

マカオは1年半ぶりですが、その間に新しいカジノホテルができていました。半月ほど前にオープンした「パリジャン」です。ホテルの前にエッフェル塔のミニチュアが立っているので、そこだけトリミングしたら、だれもがパリだと思い込んでしまうかもしれません。

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香港とマカオとを結ぶ橋もいよいよ最終段階に入ってきているようで、その日が待ち遠しいですね。そうなると、マカオはますます変わり、人もさらにたくさんやって来るのではないでしょうか。

 

 

バルセロナの空港はスモーカーの天国!

2016年10月5日

昨日は郊外の奇勝地「モンセラット」に行ってきました。現地の旅行会社がやっているツアーを前日、予約しておいたのです。「凱旋門」からバスに乗って出発、1時間少々で到着。標高1235mとあって、バルセロナの市街地より心なしか涼しい感じがしました。1000年近く前に建てられた修道院があり、その中に有名な「黒のマリア像」がありました。自力で鉄道を乗り継いでいくのは大変そうですが、バスはその点とても楽です。

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モンセラットに向かう途中、ツアーの添乗員さんが折々にガイドをしてくれrのですが、聞いていて驚いたことがあります。それは、ちょっと目に着く建物があると、「あれは△△の設計」「こちらは〇〇の設計」と、名前を教えてくれたことです。バルセロナはそれほど、名だたる建築設計士が腕を振るった都市なのだということを知りました。

 

今日でバルセロナともお別れです。乗り継ぎ地フランクフルトに行く便が夕方発なので、それまではフリー。朝イチで、タクシーに乗って「グエル邸」まで行ってきました。ここは地下に馬小屋があり、1階に馬車庫、2階・3階と上に昇るにつれ、随所にふんだんな工夫がほどこされているのが見て取れます。そして、きわめつけは屋上。煙突の凝りっぷりには声も出ませんでした。

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「グエル邸」から「ランブラス通り」を歩いてホテルへ。

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預けておいた荷物を受け取り、タクシーで空港に向かいました。バルセロナの空港は世界でも最高に心地いいのではないかと思います。まだ完成してさほど時間が経っていないのでしょうが、ターミナルビルの屋上が全面的に喫煙スペースになっているのです。これまで観てきた空港の喫煙室はどこも皆、せせこましいところばかりでしたが(例外はシンガポール)、ここはそれこそお天道様の下で堂々と胸を張って吸えます。しかも、レストランやカフェまで付設されていました!!! こんな空港があるのなら、何時間早く着いてもOKでしょう。

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圧巻! 感動! タラゴナの「人間の塔」

2016年10月1日

さて、今日はいよいよ、「人間の塔」を観にタラゴナ(Tarragona)に行きます。今回の旅行の“メインイベント”と言っても過言ではありません。もともとは、数年前、自宅1階のリビングでテレビを見ていた家人が、「ちょっとー、お父さ~ん!」から始まった話。そのとき教えてくれたのがタラゴナの「人間の塔」という、カタルーニャ地方独特の行事でした。

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「人間の塔」とは文字どおり、100人を超える(多いときは300人近く)人が、腕と腕とをタオルのような布(革かも)でつないで肩を寄せ合って腕を組んだ上に次の集団が乗っかり、さらに何段も積み上がって「塔」を作るというもの。写真をご覧くださればわかるでしょうが、低いもので6段、高いと8段くらいになります。各地域ごとにチームがあり、それぞれが「塔」を作っていくスピード、手際のよさ、全体の形の美しさ、そして解体のスピード等を競い合うという催しが2年に1回おこなわれるのが、バルセロナの南にあるタラゴナ。カタルーニャ語では、「人間の塔」を「城」に見立て、「Concur de Castells(城のコンクール)」と呼んでいるようです。

 

春先からカタルーニャ地方全域で予選が始まり、毎年10月の初めに決勝がおこなわれるのですが、どこの地元も懸命に取り組んでいるといいます。決勝ラウンドが開催される今日と明日はもう大騒ぎで、地元のテレビも解説者付きで完全実況中継。今日は決勝ラウンドの前半で、予選の24位から13位までのチームによる演技でした。本当は明日の決勝ラウンド後半(同12位から1位まで)を見たかったのですが、チケットが手に入れられなかったのです(カタルーニャ語で書かれたウェブサイトには悪戦苦闘しました)。

しかしそれでも、私たちの目の前で繰り広げられたパフォーマンスはもう圧巻のひと言。そろいのユニフォームに身を固めた12チームが次々と塔を作り上げていく様子はなんともスリリングです。作り始めて3段目くらいで、いったん解体して最初からやり直すチームもあれば、最後の最後、7段目、8段目の選手が乗ろうとしたところで崩れてしまうケースも。また、首尾よく塔が完成したのに、上から順に人が降りて塔を解体していく途中で全体が一気に崩れてしまったり。全体を指揮するディレクターのような人がいて、下からこまめに指示を出しているのですが、なかなか思いどおりには行かないのでしょう。

見ていると、いちばん上に乗る一人は小学校低学年の、それも女の子が多いようです。そのすぐ下もやはり若い女性で2人か3人。その下が軽量の男性1人に女性2~3人といった感じで、中段は男女がほぼ均等、そしていちばん下の2段は全員が屈強そうな男性です。段の数にもよりますが、いちばん下の土台を作っているのは80人から120人くらいでしょうか。これまでも死者が出ることが何度もあったといいますが、なるほど、崩れ方によってはそれもあり得そうです。

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アリーナスタイルの広い円形体育館の上、塔を組み上げていく横には、一段一段高くなっていく様子をすぐ近くからテレビ映像に収めるためのカメラを取り付けた機材が、塔が高くなっていくのに合わせながら動いていました。それぞれ自分の地元のチームを応援している人たちも手に汗を握りながらの数分間。うまく組み上がり、塔が完成したときの喜びようはハンパではありません。最上段に昇った子どもが軽く手を上げるのが完成の合図で、その瞬間、場内は大拍手と喝采に包まれます。

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「人間の塔」の大会は夕方からだったので、それまでは町をあちこち見てまわりました。バルセロナのサンツ駅からタラゴナ駅までは電車で1時間。駅を降り地中海沿いに歩いていくと(途中からは石の階段)、地中海を見渡せる丘の上の公園に着きます。その下には、古代ローマの時代に作られた「円形競技場」の跡が。

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町の中心へ向かう広い通りの中央部は公園のようになっていて、両サイドは出店がぎっしり。途中、少し脇に入ったところにある広場では、大会に出ないローカルのマイナーなチームがミニチュア版「人間の塔」を作り、近くでお茶を飲んだり買い物をしている人たちを喜ばせています。しかし、こんな小さな塔でも、すぐ脇に警察官と救急隊員がスタンバっていました。

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そこをあとにし、タクシーで「ラス・ファレラス水道橋」に。これも古代ローマ時代に作られたもので、いまなおそっくり残っているのがすごいですね。全長200m以上、高さが26mですから、かなりの迫力です。橋の上には幅1mの通路があり、そこを往復してみましたがけっこうスリリングでした。

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水道橋がある場所は陸の孤島のようなところだったので、電話でタクシーを呼びました。こういうふうにタクシーを呼んだのは海外では初めての経験。相手はカタルーニャ語(スペイン語かも)しか話しませんが、なんとか通じたようなので、来たときにおろしてもらった場所で待つこと15分。来てくれた車で町に戻れました。

大聖堂の裏側でタクシーを降りて中を見学し、外に出るとちょうど結婚式を終えたカップルが。なんだか私たちはこういうシーンによく出くわします。そこからてくてく歩いて会場の「タラッコ・アリーナ」へ行くと、周りはもう人でいっぱいです。警察官、消防自動車、救急車があちこちに止まっていました。

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「人間の塔」を見終え、7時前の電車でバルセロナへ。ホテルの近くで気になっていた建物があったのですが、そこに入るとレストランがびっしり入っていました。どの店も大変なにぎわいで、私たちもその中の一つを選んで夕食。昼間タラゴナで食べたガスパッチョもおいしかったですが、この日食べたシーフードもたいそう美味でした!!

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文化と経済はやはり比例しているようです

2016年9月30日

今日も朝から市内を回ります。最初は、世界遺産にもなっている「カタルーニャ音楽堂」。アールヌーヴォーの様式で、もともとの建物と増築されたモダンな建物とがよく調和しています。中をちょっとのぞいてみると、お洒落な感じがしたので、できればホールに入ってみたいと思いました。果たして、私たちが滞在している間に適当な催しがあればいいのですが……。

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音楽堂から少し南に下がると「大聖堂(カテドラル)」。バルセロナが全盛期を誇った時代に建てられただけのことはあります。内部は広く、左右には祭壇がいくつも並んでいます。次に訪れたのは「ピカソ美術館」。ピカソが子どもだったころの絵やデッサンを見ると、「天才」といわれたのが納得できました。

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そこからタクシーで、かの有名な「サグラダ・ファミリア」へ。30年以上前に訪れたことがあるのですが、その当時に比べると大きく変わっており、空に向かって突き出ている塔の数が増えていました。完成まであと何年かかるのかわかりませんが、どれだけ寄付金が集まるかによってそのスピードも変わるのでしょう。

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私が初めて訪れたころは、世界の経済水準もいまほどではなく、工事も遅々として進まずにいたはず。でも、その後は相当お金が集まったようです。屋根の上に並んでいる重機(クレーン)の数も違います。素晴らしく整備された内部、1階のホールに、教会の建設が始まった1882年以来の進捗状況が写真とともに展示されているのですが、ここ20年ほどのスピードは驚くばかり。文化はやはり経済と比例していることを痛感しました。

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それにしても世界中から見物客が訪れているのはさすが。これなら、事前に予約しておかなければならないというのもよくわかります。

 

「サグラダ・ファミリア」をあとにし、「グエル公園」へ。しかし、ここは大失敗の巻でした。というのも、私たちが持って行ったガイドブックは3年も前のもので、そこにはグエル公園が「有料」「事前に予約しておくと待たずに入れる」などということは書かれていなかったのです。2年ほど前からシステムが変わったようで、行ってみてびっくり。人がたくさん並んでいます。入場料を払うと「入場は1時間半後になります」と。仕方なく外周を歩いて時間をつぶしましたが、ガイドブックはやはり最新のものを用意しておかなくてはいけませんね。

「グエル公園」もガウディの設計ですが、とても親しみが持て、気持ちも癒されます。外周を取り囲むように作られている石と木による工作物は一つひとつ姿が異なり、なんとも不思議な感じ。広場から見下ろせる地中海も美しいですし、広場を取り囲むようにしてしつらえられているベンチにすわると、ほっとした気持ちになります。

公園の一角にある住宅にガウディ自身も住んでいたそうです。あまりに多くの曲線が使われている公園や建物を毎日目にしていて、飽きることはなかったのかとも思っていたのですが、そうでもなかったのでしょう。もう1カ所、帰りがけにタクシーで行ってみた「カサ・ビセンス」は外装の修復工事中でシートで覆われていました。本物が見られず残念なことをしました。

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古いものを大切にする感性に脱帽

2016年9月29日

今日はまずモンジュイックの丘。その一角にある「オリンピック・スタジアム」に入ってみました。昨日バスでひとめぐりして興味をそそられたからです。岩崎恭子が200m平泳ぎで金メダルを取ったのはもう24年も前。そのプールの横に、マラソンの有森裕子が2番目にゴールを駆け抜けた陸上競技のスタジアムがそのまま残されています。

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このスタジアムはもともと、1929年に開催された万国博覧会のために作られたそうですが、92年のオリンピックのために改修。周囲が整備されたのもそのときで、さすが建築のレベルが高いスペイン、それもバルセロナとあって、何十年経ったいまでも古めかしい感じはまったくしません。おそらく100年後もそうではないかという気がします。「オリンピック」の名のもとに由緒ある国立競技場をいとも簡単に、それも跡形もなく壊してしまうどこかの国とは、およそ発想が違うようです。せめて聖火台とか柱の1本や2本は……と思うのですが。

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スタジアムから坂を少し下ると「カタルーニャ美術館」があります。こちらも万博のとき政府館として作られた立派な建物。国内各地の小聖堂から集められてきた壁画が、もともと飾られていた教会の内部をそのまま再現した中に展示されているかというのですから凝っています。壁画を単体で観るのとはまったく趣が異なり、観る側も心がまえが違いました。

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美術館からさらに下ったところが広いスペイン広場。これも万博のときに整備されたものだそうです。高さ47mの2本の塔(ヴェネチアンタワー)が印象的で、その間に3つの噴水が。左右対称の設計が気持ちを落ち着かせてくれます。

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その北東角にあるショッピングモール「アレナス。デル・バルセロナ」は元の闘牛場。3階建ての内部はみごとなまでに改装され、かつてのスタンドにはお洒落な店が並んでいます。屋上には、パノラミックに市街地を見渡せる、素晴らしい展望デッキがあるそうです。天気のいい日は「サグラダ・ファミリア」も見えるといいますが、そちらには上がれませんでした。でも、古い施設もこういうふうに利用する手があるのだと、いまさらながら感心させられます。

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初体験の乗り継ぎ10時間

2016年9月28日

羽田から香港・チューリヒ経由でバルセロナにやってきました。羽田を出たのは昨日(9月27日)の朝10時35分、バルセロナ到着は朝8時55分ですから30時間以上かかったことになります。

なんでまたそんなややこしい……と思うかもしれませんが、これはキャセイパシフィックのマイレージを利用した(東京・香港往復の特典航空券)からです。それに香港・バルセロナの往復(こちらはルフトハンザ便)を買い足せばいいわけで、このチケットがえらく安く買えました。

もう一つ、ここしばらくマカオもご無沙汰しているので、帰りに、香港から足を延ばすこともできます。どのみち日本からバルセロナからの直行便はないので、一石二鳥ではないかと。

ただ、香港に着いたのは14時10分、香港→チューリヒ乗り継ぎ→バルセロナ便の出発は23時35分ですから10時間近くの待ち時間があります。この時間を利用して空港近くの観光スポットを訪ねる手もあろうかと思い、リサーチしてみました。ネットにも香港乗り継ぎ時間の過ごし方があれこれ紹介されています。それもチェックはしていたのですが、結局、ずっと空港で過ごすことに。ラウンジを利用して仕事もできるので、働きましたよ! 家人は得意の「数独」三昧。

バルセロナの空港から市内まではバス。宿泊先のホテルのほとんど目の前にある「カタルーニャ広場」が終点だったので、助かりました。幸い、部屋も空いており、チェックインを済ませ荷物を置くとすぐ市内観光に。乗り降り自由の「ホップオン・ホップオフ」の2日券を購入して出発。最初はこれでひと巡りし、町の概要をつかんでおくのが私たちのパターンです。

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真っ赤っ赤に燃えていた広島

2016年8月31日
昨日・今日と広島に行ってきました。昨日は夕方4時過ぎに広島駅に着いたのですが、駅に入る直前、進行方向左側にマツダスタジアムが見えます。驚くなかれ、まだ夕方早い時間なのに、スタンドにはかなりの数のお客が入っていました。ほとんどが赤いTシャツを着ています。

駅を降り、タクシーを拾おうと南口に出ると、ここもまた真っ赤。スタジアムに行く人のほとんどが赤いTシャツ、赤のレプリカユニホームを着込んでいるのです。グッズを売る店も出ていましたが、その看板もほとんどが赤。売り子も赤のTシャツ。赤、赤、赤で燃えまくりという印象でした。

この日の試合は楽勝だったようで、マジックは1減って12に、またクライマックスシリーズへの出場権も確保したとのこと。今日の中国新聞朝刊も1面から大盛り上がり。18・19面(見開き)のスポーツ面は、記事も下段の広告も赤、赤、赤。企業や商品の広告も、ベースの色はどこも皆赤。35面(社会面)の下には「カープ優勝記念中国新聞特別セット 500円」などという、気の早い広告も出ています。どのページを繰っても、前夜の熱気がひしひし伝わってくる感じがしました。

日本とはまるっきり違う、沖縄のお盆

2016年8月17日
8月10日から沖縄分室に来ています。この時期に来るのは初めて。期待していたほどさわやかでない1週間で、あまり外を出歩くこともなかったのですが、さすがに今日くらいはということになり、車で沖縄市まで行ってきました。というのも、昨日乗ったタクシーの運転手さんからそうせざるを得なくなるような話を聞いたからです。

「いま沖縄はお盆の真っ最中。昨日・今日・明日は道路がメッチャ混みます。昨日・今日は皆、嫁さんの実家に行くでしょ。そして、今日・明日は長男の実家に行くんですよ。どの家も家族全員、車に乗っていきますからね。ふだんは走っていない車まで全部出てくるんです。

明日(17日)の夜は“ウークイ(送り)”でしょ、長男の家で飲んだり食べたりして、そのあと儀式がありまして。これは、何があっても出ないわけにはいきませんから。お盆だけは、沖縄の人はきっちりされてます。明日、ほとんどの店は早じまいか休みですよ」

そういえば、14日ごろから、スーパーがいつになく込み合っているなと思っていました。お盆の準備に駆け回っていたのでしょうね。ふだん見たこともない食べ物が山と積まれ、線香やロウソクも箱入りで大量に売られていました。また、17日は、分室のあるマンションの「管理業務」もお休みしますという貼り紙がされていました。皆、仕事を休んで、奥さんの実家や長男の家に出かけるわけです。

dsc00817その「ウークイ」が今日17日。どうりでおとといも昨日も、車がやたら多かったはずです。とくに午後3時過ぎくらいからは猛烈な込みようでした。というわけで、今日は食事もままならないことがわかり、早めに買い出しに行って食べ物を確保しておこうと。まったく外に出ていなかったこともあって、沖縄市の「ローズガーデン」という店に行くことにしたわけです。

 

dsc00816「ローズガーデン」は、いかにも「アメリカ」を感じさせる店。復帰前はこういう雰囲気の店がそこいら中にあったのでしょうね。何がいいかというと、おいしいこと。ボリュームがアメリカ仕様なのが私たちにとっては玉にキズなのですが、残ればドギーバッグ(持ち帰り)もOKなので、その点は助かります。最近、店の近くライカムにイオンのモールができたため、この界隈は以前とは比べものにならないほど車で混んでいます。それでなくとも、土日は朝から込み合い、駐車スペースがいっぱいになっていることが多かったので、これから先はウイークデーに行くしかなさそうです。今日も、お盆の最中でやはり満席でした。

 

沖縄で「アメリカ」を感じる場所の筆頭かも

2016年8月17日

前にも書いたかもしれませんが、高速道路の北中城【なかぐすく】か沖縄南インターから10分ほどのところ(屋宜原【やぎばる】)に、「ローズガーデン」というレストランがあります。9年前、沖縄に活動拠点を設けて以来、来ればかならずといっていほど足を運んでいるお気に入りの店です。

基地にすぐ近くというロケーションもあって、お客の多くがその関係者なのでしょう、アメリカ人の姿が目立ちます。メニューは、パンケーキとかフレンチトーストをベースにしたアメリカンブレックファスト。朝8時からオープンしており、ブレックファストメニューは終日、ステーキも朝から食べられるのがありがたい! 店ができたのは40年以上前のようで、イタリア系アメリカ人が創業したと聞きました。

土曜日や日曜日のお昼近い時間帯になると、ブランチのためか、店の前に行列ができるほど繁盛しています。おかげで、狭い駐車場は大混乱。道路に車を止めて待っている人も少なくありません。

ただ最近は、せっかく注文した料理も食べ切ることができず、“ドギーバッグ”をお願いするようになってしまいました。元来がアメリカ人向けですから、繊細な味ではありません。でも、パンケーキやフレンチトーストとなると、「アメリカ」風でないと満足できないところがあるのも事実。これから先もまだまだ通い続けそうです。

学生の町フライブルクに立ち寄って日本食

2016年8月4日
今日で「アルザス・ロレーヌで(フランスとドイツの)境界を体験する旅」も最後。コルマールからフランクフルトまで一気に移動します。ただ、時間的に余裕があったので、途中、ドイツのフライブルク(Freiburg)という町に立ち寄ってみることにしました。出発前、学生時代の先輩Sさんが研究のために留学してところだそうで、「せっかく近くまで行くんだったらぜひ」とのお話を聞かされていたからです。

DSC00804ドイツのこのあたりでは比較的大きな町で、人口も約22万。そのうち3万人は学生だそうです。世界的に有名な大学がいくつもあり、研究機関も多いようです。と同時に、音楽も盛んで、なかでもフライブルク・バロックオーケストラは世界でも最高レベルだとか。ただ、滞在時間が限られていたので、私たちが足を運んだのは朝市が開かれている広場とランチを食べる日本食レストランのみ。

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このレストランはSさんに教えてもらっていたので、すぐわかりました。ようやくありつけたタテ飯には感動。普仏戦争でフランスに勝ったときに作られたという記念碑だか大砲の彫刻高だかが駅の前に置かれていると聞いていたので行ってみたのですが、残念ながら駅前の整備工事中とやらで、どこか別のところに保管されているとのこと。あきらめて、フランクフルトの空港に向かいました。

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途中渋滞があったりしましたが、助手席で家人がスマホをちょこちょこっといじると、すぐ渋滞情報が出てくるではないですか。これには驚きました。情報はNAVIより早いですし、しかも正確。いずれ私もスマホのお世話になりそうだなぁ……と思いつつ走り抜けました。

コルマールで観たピカソの『ゲルニカ』

2016年8月3日

ホテルで朝食を済ませ、近くのウンターリンデン美術館に。もともとは修道院だった建物を改装してできたそうです。実はこの美術館こそが、今回の旅を実行する最大の動機でした。家人が“女子会”旅で沖縄に行った折、県立美術館に特別展示されていた『ゲルニカ』のタピストリー──世界に3つあるそうです──を観たと。その1つがここに展示されているという話をしてくれました。素材は布ですから、当然絵とは趣がまったく違うけれども、一見の価値はあるというのです。残りの1つは群馬県立美術館が所蔵しているそうですが、残念ながら常設展示はされていません。となると、その現物を観るには……ということになったわけです。

それとは別に、私は以前から「アルザス・ロレーヌ」というところに行ってみたいという思いがありました。小学生のころ国語の授業で習った『最後の授業』という話が頭の片隅に残っていたからです。

プロシア(いまのドイツ)との戦争(普仏戦争)で負けたため、アルザス地方の領有権がフランスからドイツに移されることになった。明日からドイツ領になるという日、この地の小学校の教師が「今日はフランス語で授業ができる最後の日」という話を子どもたちにする。でもみんなはフランス人なんだから、フランスを愛し続けるんだよ──。そんな内容だったと記憶しています。

この話を習ったとき、私は子ども心にこう思いました。「明日から授業は全部英語になる」なんてことになったら、どうしよう……。そんなことが起こるのは、実際どんなところなのかこの目で確かめてみたい。というわけで、『ゲルニカ』と『最後の授業』がくっついたわけです。「ついで」というか「つなげること」は旅の大きなポイントになるというのが、私の持論ですから。

もっとも、そういう場所だからこそ、『ゲルニカ』も展示する意味があるのでしょうね。家人の話では、タピストリーのほうはオリジナルの絵よりふた回りほど小さく、色合いも違うとのこと。ここでは、前面がガラスで保護されていました。布のほうが傷みやすいからでしょう。それでも、そこに描かれているメッセージは強く伝わってきます。ほかにもピカソの作品がいくつか展示されていましたし、来て本当によかったと思いました。

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午後はコルマールから車で30分足らずのところにあるエギスハイム(Eguisheim)へ。ここもまた「フランスの最も美しい村(Les plus beaux villages de France)の1つに選ばれているだけあって、おとぎ話の舞台のような街並み。

ここでもまた、日本語音声ガイド付きのプチトランが走っていました。それによると、4世紀にローマ人が初めてぶどうの苗を植えたことで、アルザスワイン発祥の地として栄え、現在でも40軒ほどのワイナリーが営業を続けているのだとか。なるほど、そういわれて観てみると、深い歴史が感じられます。

DSC_0380何より素晴らしいのは花を活かした景観美。どの家の窓にも鉢植えの花が美しく飾られ、道路端にも大小さまざまな花が。その色彩に合わせたかのようなコロンバージュ(木組みの家)の家も壁の色が微妙に異なっています。日本でも近ごろは、花を活かした町づくりがあちこちでおこなわれていますが、こちらはやはり年季が違います。花の種類はもちろん、色彩や配列のセンスだけでなく、その周りの建物や噴水、街灯などとも実によくバランスが取れているのです。何より、建物が風格(お金をかけているという意味ではありませんよ)歴史を感じさせるものばかりですから、深い味わいがあります。

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夕食は、そろそろ“縦メシ”(日本料理もしくは中華料理)が食べたかったので、街中探し歩きましたが、ネットで見つけた店は全部、消えていました。結局、ホテルのレストランにします。中庭に置かれたテーブルで食べた食事は最高! 最初は「予約でいっぱいなので」とお断わりされたのですが、「泊まっているんだから」と、半ば強引にすわってしまったら、まったくノープロブレムでした。

アール・ヌーヴォーのレストランで朝食

2016年8月2日
DSC_0153朝は、「エクセルシオール」という老舗のレストランで。外側はそれほどでもないのですが、内装が素晴らしい! 各テーブルにコート掛けがしつらえられていて、朝はコーヒーとクロワッサンか何かを食べながら新聞を読む──そんな時代の名残がそっくり残っているシックな空間です。装飾はもちろんアール・ヌーヴォーなのですが、さほどけばけばしい感じはしません。落ち着いた時間を過ごせました。

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ナンシーからコルマールに行く途中、立ち寄ったのがカイゼルスベルク(Kaysersberg)。フランス語風に「ケゼルスベール」などと記されているガイドブックもあります。音だけ聞くといかにもドイツ(ドイツ語で「皇帝の山」という意味)といった印象がしますが、この地に城を建て村を作ったのはやはりドイツ人だったのでしょうね。ただ、いまではれっきとしたフランス・アルザスの村なので、発音も変わってしまっているのです。

DSC_0183この村には、アフリカでの人道活動でノーベル平和賞を受賞したアルベルト・シュヴァイツァー博士が、この町で生まれたのは1875年。その生家が「博物館」として残っているほか、15~17世紀に建てられた古い家々が軒を連ねています。村の中心には小川が流れ、水車が。立派な教会があることからしても、かつてはこの一帯の中心地だったのでしょうね。

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DSC_0220村内を散策している途中、たまたまその前を通りかかった金属装飾品の店で、キリンに出会いました。家の外に飾り付ける(もちろん部屋の中でもOKでしょうが)ため錆びにくくする加工を施した鉄製の品。これまで出会ったぬいぐるみや木の細工とはまた異なる趣があり、スーツケースになんとか入りそうだったので、買って帰ることに。

コルマールのすぐ手前に、もう一つ、アルザスっぽい町があるので、そこに立ち寄りました。リボーヴィレ(Ribeauvillé)という町です。人口5000人足らずの小さな町ですが、ワイン生産の中心地。中世の時代からブドウの栽培がおこなわれ、最高級のブドウを産出するグラン・クリュに認定された畑も多くあるそうです。

DSC_0285そして、ここにも日本語音声ガイド付きのプチトランが走っていました。まさかこんなところにまでと思いつつ乗ってみると、きっちり聞こえてくるではありませんか。マルセイユやミラノ、エディンバラでも経験しましたが、この種の音声ガイドから流れてくる日本語はなぜか大時代的というか、難解な語句が多いのが特徴です。その昔、その街で数少ない日本人(音楽や美術を学ぶために留学していたとか……)が地元の関係者から頼まれ、まったく専門外のことをさせられてできたシロモノといった印象がします。まあ、なんとかかんとか理解はできるのですが、聞いていてどうも落ち着きが悪い印象は否めず、いまひとつ身に入りません。

 

DSC_0278それはともかく、小さな町なのであっという間に市街地を抜け、すぐ隣のユナヴィール(Hunawihr)の村(人口は600人弱)へ。ここは“フランスで最も美しい村”の一つに数えられ、観光客に大変な人気なのだとか。途中は一面のブドウ畑で、これならワインもたくさんできるだろうなと納得です。高い建物のいちばん上にはコウノトリの巣が。やはりアルザスの象徴なのですね。

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夕方の早い時間にコルマールに到着。この町は1日もあれば十分に見尽くすことができそう。というか、町の主だった観光スポットを走るプチトランに1回乗れば、とりあえずポイントは十分おさえられるのです。あとは自分で歩いて、もう一度ゆっくり見たいところ、行ってみたいと思ったところまで歩いていけばOK。しかも、このプチトランが安くて、しかも日本語の音声ガイド付き。

私たちが予約したホテル「ラ・メゾン・デ・テートゥ(La Maison des têtes=頭の家)は由緒ありげな建物で、外壁に人間の頭の彫像がたくさん嵌め込まれています。なんでも、17世紀に建てられたとかで、彫刻の数は全部で105個。「頭の家」と呼ばれているのはそのためのようです。お土産屋で売られている絵ハガキにもその写真がありました。

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夕食は、なぜかいちばん店の数が多いイタリアンの店へ。なんで、アルザスでイタ飯を……とも思いましたが、アルザス料理は食材もレパートリーもごく限られているので、これは致し方ありません。でも、おいしかったですよ。余談ですが、ホテルの近くになぜか「NAGOYA」という名のアジア料理店がありましたが、さすがパスしました。KYOTOとかHAKATAというのならまだしも、よりにもよって名古屋ではねぇ。