キューバ最大の国家行事「メーデー」に遭遇

2018年5月1日
キューバ滞在の最後の日。大きなお土産を手にすることができました。といっても、「もの」ではありません。「こと」です。

朝テレビをつけると、地元の局はどこも「メーデー(Primero de Mayo)」一色。日が昇り、空が明るくなったと同時に、「革命広場」で大規模な集会が始まったようです。キューバ全土からやってきた90万もの人々が行進するさまは迫力満点、しかも、どの人も笑みをたたえています。

社会主義の国ですから統一が取れているのは当然でしょうが、北朝鮮のように“強いられた風”ではありませんし、旧ソ連・東欧のような暗さは微塵も感じられません。踊り抜きのリオのカーニバルといえばわかりやすいでしょうか。唯一カーニバルと違うのは、式典冒頭の演説。つい半月ほど前新しく国家評議会議長(元首)に就任したミゲル・ディアスカネルでした。そのあとは、前任のラウル・カストロとともに満面の笑顔で壇上に立ち、キューバ国旗を振っています。その前を次から次へ、人々が旗を振りながら横断幕を掲げながら行進していく人々も皆笑顔。ラテンの国であることを改めて実感させられました。

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式典の最後に、「インターナショナル(国際労働者協会)」を全員で歌っていました(下記
YouTube の1:51:00~1:53:50 あたり)。
https://www.youtube.com/watch?v=hySkTNtFA00
この曲を最後に耳にしたのはもう40年以上前のことですが、こちらもまたキューバ音楽独特のリズムが反映してか曲調が明るく、どこか違った風に聞こえてきます。日本語の歌詞「起て 飢えたる者よ いまぞ日は近し 醒めよ 我が同胞(はらから) 暁(あかつき)は来ぬ 暴虐の鎖 断つ日 旗は血に燃えて 海を隔(へだ)てつ我ら 腕 (かいな)結びゆく いざ闘わん いざ 奮い立て いざ あー インターナショナル 我らがもの……」とはストレートには結びつきません。試しに、聞き比べてみてください。
https://www.youtube.com/watch?v=KFlGfHCCZdQ

IMG_2118そのあと「オビスポ通り」に出てみましたが、休日のため、午前中はほとんどの店が閉まっているようでした。見ただけではわかりませんが、国営の店もけっこうあるのですね。お土産を買おうと、何軒かお店をのぞいてみました。定番のTシャツを探すと、ユニークな絵柄のものもいくつかあります。さっそく買おうとサイズを見ると、どれを取 ってもLサイズ。「Mはありませんか」と尋ねると、「この商品はLだけなんです」。そんなことあり得ないと思い、再三聞き直しても答えは同じ。ほかの商品も同様で「これは男性用のSしかありません」……。日本のように、きちんとした品ぞろえ、というか品
作りをしていないようなのです。「なければあきらめればいいじゃない」──やはりここは南国、それもキホン社会主義の国なんだなと改めて実感しました。

途中、のども渇いたので、ホテル「アンボス・ムンドス」と並ぶヘミングウェイゆかりの店「ラ・フロリディータ」に立ち寄ります。砂糖抜きのダイキリ「パパ・ヘミングウェイ」を1杯ひっかけ、カウンターいちばん奥にある銅像の隣にすわってみました。ここがヘミングウェイ指定席だったそうで、えらくリアルな感じがします。

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午後2時半にホテルにガイドさんがピックアップにやって来て、ハバナ最後のスポット=革命家エルネスト・‟チェ”・ゲバラ(アルゼンチン・コルドバ生まれ)の足跡をたどろうと、「カバーニャ要塞」「ゲバラ第一邸宅」の見学へ。そこでゲバラが少年時代からラグビーをしていたことを知り、急に近しく感じました。

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持病の喘息を克服したいとの思いからだったようですが、ほかにもいろいろなスポーツに挑んだといいます。でも、ラグビーには強い情熱を向けたようで、ブエノスアイレス大学で医学を学んでいた頃も、友人とともに『タックル』という雑誌を編集・発行していたそうです。

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DSC06528博物館で知ったことがもう一つあります。1959年7月、革命から半年後にゲバラが
来日したとき、広島の平和記念公園と原爆資料館を訪れていたのです。広島から妻に送った絵ハガキには、「平和のため断固戦うには、この地を訪れるべきだ……」と書かれていたといいます。

 

 

そして、キューバに戻ったゲバラは、カストロに原爆の実態を報告するとともに、医師という立場から、その恐ろしさをキューバ国民に伝えたとのこと。キューバでは現在も、毎年8月6日と9日に国営放送で特別番組を流し、小学校では広島・長崎への原爆投下について教えているのだそうです。メーデー当日にキューバにい合わせた上に、ゲバラの知られざる生涯にも触れることができ、今回のキューバの旅は大きな成果がありました。

最後に、ゲバラの言葉の中で心に響いたものを二つ。
「人は毎日髪を整えるが、どうして心は整えないのか?」
「人間はダイヤモンドだ。ダイヤモンドを磨くことができるのはダイヤモンドしかない。
人間を磨くにも人間とコミュニケーションをとるしかないんだ」

夕方の便でメキシコシティーまで戻り、ANAの成田行きに乗り換えます。その間、出
発前に読んでおこうと思っていたキューバの歴史を書いた本をひもといてみました。

1492年、この地を「発見」したスペイン人が先住民をいとも簡単に滅ぼし、1511年
から完全な支配下に置きます。以来およそ400年、1902年になってようやくスペインから独立を勝ち取ります。しかし、その後はアメリカの半植民地状態が続き、実質的な支配者として半世紀ほど君臨。それにピリオドが打たれたのは1959年、キューバ(社会主義)革命によってでした。

当時キューバはアメリカの傀儡【かいらい】だったバティスタ大統領が独裁政治をおこなっていましたが、1956年、メキシコから船で上陸したフィデル・カストロ、エルネスト・“チェ”・ゲバラ等が国内に組織した革命軍を率いて内戦に突入。59年1月、バティスタを国外に追放し、ようやく真の独立を勝ち取ったのです。そして同年5月から徹底的な農地改革を実施したのですが、アメリカが経済封鎖措置を講じられたため、当時アメリカと全世界で対立していた旧ソ連に接近、60年には正式な外交関係を結びました。

その後ろ盾も得ながら、キューバ政府は国内からアメリカ資本の全面排除を図ります。
結果、石油精製会社、製糖会社、電話会社、金融、商業など大企業のすべてを国有化しました。アメリカはただちに報復措置を講じ、国交も断絶。その結果、アメリカからの車の供給もストップしたのです。

旧ソ連の援助でそうしや苦境をなんとかはねのけ、国家の建設にいそしみます。1989年、旧ソ連が崩壊してからは援助もほとんどゼロになりましたが、独自の路線を貫き今日に至っています。現在世界全体で社会主義の体制下にある数少ない国(ラテンアメリカでは唯一)の一つですが、なぜか、国民はそれほど不満を感じていないようです。国の経済を支えているのはいまもサトウキビですが、それに加え観光が大きく伸びています。また、医療のレベルが非常に高く、医薬品の輸出も貢献していると聞きました。

たしかに、国民性もあるのでしょうが、当地の人たちの表情を見ていると、かつての東欧=社会主義国特有の暗さは微塵も感じられません。それは1にも2にも、いまの暮らし向きにそこそこ満足しているからだろうと思います。お金があっても、家族仲よく暮らせなければ、近所の人や職場の仲間と親しく話せなければ、ちっとも楽しくはないでしょう。その国はその国の「満足水準」というのがあるようで、その点、日本は少し贅沢が過ぎるような気もします。

 

スモーカーとして、本場の葉巻農場を訪問

2018年4月30日
タバコを吸い始めて今年で51年目。そんな私がタバコの本場・キューバにやってきたのですから、やはり葉巻のことを学ばずにはいられません。ハバナから120km、車で3時間かけ、「ビニャーレス渓谷(Valle de Vinales)」というところに行きました。高速道路で2時間、そのあと一般道を1時間走るのですが、車が断然少ないキューバでは、高速道路でも自転車、馬車、歩行者の姿が当たり前のように見られます。皆、堂々と、また悠々としているのがキューバらしいですね。

軽い傾斜の山道を登り、到着したのは渓谷を見渡せる展望台。この一帯は独特のカルスト台地で、その独特の美しさで世界自然遺産にも認定されています。もともとは、スペイン人がワインの生産地にしようと考えたらしく、地名のビニャーレスというのも、Vinales(=ぶどう棚)から来ているのだとか。ただ、気候条件が合わずブドウはあきらめ、葉タバコを栽培することにしたようです。

カルストですから、その地下には鍾乳洞ができているのが常。私たちもその代表ともいえる「インディヘナの洞窟」を見学しました。つい3週間ほど前に観た山口県の秋芳洞と違い、ボートに乗って見学します。しかも、乗ったまま出口に出られるのです。それにしても、自然の造形のすごさは人智でははかり知れないものがあります。

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昼食後、この辺りでは一番大きいという「葉巻農園フィンカ・ケマド・デル・ルビ」を訪ねます。葉っぱの刈り取りは終わったばかりで、畑は赤い土で覆われていた畑しか見えませんでしたが、刈り取ったタバコの葉を乾燥・発酵させている大きな倉庫のような建物に案内してもらいました。オーナーの息子さんがまず葉巻をくれ、それをくわえながら、タバコの栽培から葉の出荷まで説明してくれるのを拝聴。

葉タバコの種は、すべての植物の中で2番目に小さいのだそうです。半年かけて育てたものを刈り取り乾燥させたあと発酵させて香りをつける、その後1枚1枚吟味しながらまずはクラス分けする。どのクラスでも、巻くのはいい部分だけなのだとか。
葉巻として使えない部分は切り落として、紙巻タバコの原料として出荷するのですが、その切り落とされ方が、いかにも十把ひとからげといった感じです。私もスモーカーのはしくれですから、知識としては知っていましたが、目の前で、そうした部分をカッターでばっさばっさ切り落としていくのを見ると、一瞬うーんと、考えさせられてしまいました。
先ほどもらった葉巻は、たしかにいい香りがします。

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IMG_2063見学を終え、母屋に案内されると、オーナーのベニトさんの歓迎を受けます。「葉巻に合うのはラムだよ」と言いながら、ショットグラスに注いでくれました。気さくな笑顔が素敵なおじさんです。ストレートのラムを口に飲んだあと吸う葉巻は一段とおいしく感じます。値段のことを考えなければホント、葉巻に変えたいとも思いました。

刈り取りの終わった葉タバコの畑の隅に、花を咲かせた葉タバコが2、3本、残されていました。楚々としたきれいな花です。こんなきれいな花を咲かせる葉タバコが、人間 に悪さをするわけない! と身勝手な確信さえ抱くほど。

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ほかにもこの農園では、マンゴーやカカオなど、これまで原木を見たことのない木を間近で目にすることができ、有意義な1時間半を過ごしました。そういえば、昼食を食べた地元のレストランでは、生まれて初めてハチドリも観ることができましたよ。

ハバナ旧市街を歩きに歩く

2018年4月29日
今日はまる1日かけて、ハバナの町を歩き回りました。朝から気温は27、28℃という中だったので、さすがに疲れました。ハバナにはあちこち見どころがありますが、集中しているのは旧市街。車が走っている道路はどこもかしこもアメ車、アメ車、アメ車!半分以上は観光用のタクシーとして使われているようです。もちろん、一般市民用にのタクシーも走ってはいますが、そちらは観光用ほど派手派手しさがありません。いかにも生活用というか、塗装もくすんだままだったり……。もちろん、世界中どこでも見かける黄色く塗った車も走っています。

ホテルを出て「パルケ・セントラーレ(中央公園)」から路地を入り、目抜き通り「オビ スポ通り」に入ります。東西を貫く1kmほどの通りですが、歩行者天国になっているので、車と接触したりする心配はありません。また、自転車タクシーや馬車も入れないようで、歩行者がのんびり歩いているだけです。しかし、道路がボコボコというか、引っ 込んだり飛び出ていたりで、気をつけないと転んだりよろけたり足を取られたり。歩きにくいことと言ったらありません。

DSC06021ヘミングウェイの定宿「アンボス・ムンド」の中はこぎれいで、要所要所にその写真
が貼られています。なんといっても涼しいのがありがたい! そこから2ブロック進むと「アルマス広場」。“独立戦争の父”と言われるセスペデスの立派な像が建っています。その背後には「旧総督官邸(市立博物館)」の立派な建物が。1519年、ハバナの町が作られたとき最初のミサがおこなわれたという教会の横を抜け海のほうに近づくと、左側に要塞があり、右側に、なんと支倉常長の立派な銅像があるではないですか。

 

 

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その周りに建てられている碑文を読むと、仙台藩主・伊達政宗の命を受け遣欧使節としてローマに向かう途中、ハバナに立ち寄ったことにちなみ、仙台育英学園が創立100周年記念事業の一環として像を寄贈したようです。その周囲もきれいに整備され、さながらミニ公園のような趣になっていましたが、足を踏み入れるのは日本人だけかもしれません。それにしても、支倉常長がこの地を踏んだ初めての日本人だったとは……。

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近くのショッピングモールに立ち寄り、お土産品を少々買ったりしながらひと休み。そこからこんどは「カテドラル」に向かいます。1704年創建ですが、中には入れませんでした。そこからコロニアル風の建物に囲まれた「ビエハ広場」へ。お店もちらほらありましたが、長く放置されていたとのことで、これから整備されるのでしょう。

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ビエハ広場を後にし、自転車タクシーに乗って、かつての鉄道中央駅近くに建つ倉庫をK利用して作ったサン・ホセ民芸品市場に建物の前には蒸気機関車が置かれていました。いちばん奥は海に面しており涼しい風も入ってきますが、中は小さな店がびっしり。絵画やオブジェなどアート系の物が目立ちますが、土地のお土産から民芸品、Tシャツなど、ありとあらゆる物が並んでいました。

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IMG_E4219そこからホテルに戻ったのですが、再び自転車タクシーに。ただ、安いのはいいのですが、道路がデコボコなので、あわやという場面もしばしば。しかし、運転手は上手にそれを避けながら私たちを乗せて走ります。交通規制があるのか、ホテルの真ん前までは乗り付けられないらしく、近くで降りて歩きましたが、値段の安さ120円ほど) にびっくり。それでもこれは外国人旅行客向けの料金で、ハバナ市民はそれこそ20円、30円といったところなのでしょう。

“ヘミングウェイさまさま”のキューバ

 2018年4月28日
ハバナといえばヘミングウェイ、ヘミングウェイといえばハバナというくらい、両者の関係は密接です。それまでアメリカ・フロリダ州のキーウェストに住みながら、趣味の釣りを楽しむため、キューバに足しげく通っていたそうです。何せ、キーウェストからハバナまではわずか140km。飛行機に乗ればそれこそあっという間で行ける距離です。彼の定宿は、旧市街にある「アンボス・ムンドス(Ambos Mundos)」というホテル。
通りに面した最上階の角部屋がお気に入りだったようで、空きがあればかならずそこに滞在し、執筆と釣りにいそしんだとのこと。

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そして、1939年、スペイン内戦の取材から戻ると、3人目の妻とともに移り住むことに。ハバナの南東にあるフィンカ・ビヒアに9000冊の本、57匹の猫、4頭の犬、そして妻たち(1944年からは4人目の妻に)とともに、22年間住んでいました。広大な敷地に建つ自宅は、『武器よさらば』で稼いだ印税で購入したといいます。

DSC05844そこから毎日のようにコヒマルという漁村に出て釣りを楽しみながら、『誰がために鐘は鳴る』『老人と海』を書き上げたそうです。革命後キューバを離れたため、現在は「ヘミングウェイ博物館」になっています。

 

コヒマルというのは小さな漁村で、ヘミングウェイが通っていた当時とさほど変わっていない様子。村の中にある「La Terraza」は、ヘミングウェイがしょっちゅうやって来て、お酒を飲んだり食事をしたりしていたといい、観光客も訪れるコースが組まれています。

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キューバには観光資源が多々ありますが、「ヘミングウェイ」はアメ車とともに、その中でも筆頭格といった感じがします。先のホテルや、食べたり飲んだりしに行った店、そのメニューがいまもなお世界中の人を惹きつけているのですから。まさに“ヘミングウェイさまさま”でしょうか。アメリカからの実質的独立をめざして革命を成功させたキューバですが、いまなおその「アメリカ」で稼いでいるのは歴史の皮肉としか言いようがありません。

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コヒマルで時間があったので、漁船が係留されているっぷちまでガイドさんに連れて行ってもらいました。すると、その一角で「サンテリーア」の宗教儀式がおこなわれています。「サンテリーア」は西アフリカに起源を持つ宗教で、奴隷としてキューバに連れてこられた人々が持ち込んだものだそうです。キューバやドミニカ、ハイチといったカリブ海諸国は住民のほとんどは、16~19世紀にかけて、アフリカから奴隷として連れてこられた黒人がそのルーツ。当然、彼らも信仰を持っていたわけで、それが今日まで営々と続いているわけです。

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彼らを支配していたスペイン人はそうした信仰を禁じカトリックに改宗させようとしまし
た。しかし、表向きはキリスト教を信じるふりをしながら、密かに受け継がれていた「サ
ンテリーア」がいまなお息づいているのです。ハイチのブードゥー教に似て呪術的な
要素が強い(いけにえを捧げたりする)ため、白人にはうさんくさく見られているようですが、何せ先祖代々の信仰ですから、そう簡単には廃れません。

 

IMG_E4190ハバナに戻った私たちが行った先は「国立動物園」。「国立」などというと、いささかも
のものしい印象を受けますが、社会主義の国ですから、キホンすべては国立です。ところが、この動物園が出色。広大な敷地の中をバスに乗って走るのですが、どの動物もたいそうな数がいるのです。シマウマに至ってはおそらく200頭近いのではないでしょうか。

 

もちろん、キリンもいましたよ(バスで、遠い側の席にすわっていたので写真は撮れませんでしたが)。高くて頑丈な柵で囲まれたエリアには20頭近くのライオンが、昼ひなかだというのに、皆起きています。こういう時間帯で目を覚ましているライオンを目にしたのは初めてですが、そこかしこにいるのを見ると、なんだかうれしくなってしまいます。絵になりそうな場所に近づくとバスが停車し、写真もゆっくり撮らせてくれるなど、社会主義国らしからぬサービス精神も発揮してくれたのには感心しました。

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今日の午前中は、市民が食料品を買い求める「市場」をのぞきました。キューバでは、パンや砂糖、米、卵、牛乳などは配給制になっています。「配給手帳」を持って配給所に行くと、一定の量が無料でいただけるという仕組みです。

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DSC05806れ以外の肉や野菜・果物は市場で購入しますが、値段はべらぼうな安さ。これもアメリカの経済制裁の“おかげ”とでも言えばいいのでしょうか、農畜産物はすべてオーガニック。日本の野菜や果物のように美しい形もしておらず、色もくすんでいたりしますが、質的には安心です。「世界幸福度指数」というデータがありますが、キューバは6位(日本は95位!)。物は、量より質なのかもしれません。

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そんなキューバですから、音楽も陽気そのもの。アメリカが我が物顔でこの国を支配していた時代は、もっぱらそちらのほうが強調されていたのでしょう。夜行った「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ(Buena Vista Social Club)」のコンサートは、食事をしながらライブを聴くというスタイルですが、3時間近く、心行くまで楽しむことができました。

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私たちが泊まっているホテルからライブがおこなわれる「オテル・ナシオナル」までは海沿いの道を走っていきますが、土曜日の夜だったこともあり、防波堤の上には人がびっしり。ビール片手のグループもいれば、家族連れ、カップルなど、近在の人は皆ここに集結しているのではないかと思われるほどの人出でにぎわっていました。

驚いたのは帰り。夜の11時を過ぎているというのに、行きに見たときより人の数がさらに増えているようです。キューバの人々は週末になると、こういう時間の過ごし方をするのですね。バーもなければカラオケハウスもない、コンビニもない……となれば、こういうシーンは不思議でもなんでもありません。

真っ赤なオープンカーが出迎えてくれたハバナ空港

2018年4月27日

朝、メキシコシティーからインタージェット便でハバナに向けて飛び立ちました。4時間
足らずでハバナ着。モダンなメキシコシティーの空港とは大違いで、さながら日本の
地方空港(それもふた昔ほど前)の趣です。

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キューバの首都ハバナは、町中どこに行ってもアメ車だらけとよく言われます。それも、1950年代の車です。映画やテレビで何回か観たことはあるものの、空港ビルから一歩外に出て、実際にそれが目の前に停まっていたり走っていたりするのを見るとやはりびっくり。「キャデラック」とか「ダッジ」「ビュイック」「シボレー」あたりなら名前くらいは知っていますが、「プリムス」とか「マーキュリー」「サターン」となると、ほとんど小 林旭の『自動車唱歌』の世界です。いまの時代、世界中のどこを探しても、こんな車が走 っているところはないでしょう。現在世界を席捲しているドイツ車も、日本車の姿もまったく見かけません。

もちろん、これにはしかるべき理由があります。1959年の「キューバ革命」で、アメリ カとは国交断絶。それと同時に経済封鎖が始まったため、アメリカからの車の輸入は完全にストップしれしまいます。それに代わって、60年代以降は旧ソ連製のラーダという車が入ってきました。経済制裁自体はいまでも続いているのですが、いまやソ連も存在しないので、いったいどこから車を輸入するのかということになります。でも、なぜかドイツや日本の出る幕はなし。キューバの車事情がとてつもなくユニークなのは、そうした背景があるのですね。ちなみに、いまキューバを走っているのは、先に名前をあげた1950年代のアメリカ車、旧ソ連車、そして韓国と中国の車だけです。

というわけで、私たちが旅行会社にお願いしておいた空港・ホテル間の送迎もアメ車、それも真っ赤なオープンカーでした。スーツケースをトランクに入れて乗ろうとしたのですが、外側からはドアが開かないようで、ドライバーが内側に手を伸ばし開けてくれます。2ドアですから、前のシートを倒し、わずかな隙間から後部座席に移動。もちろん、シートベルトなど、ありません。

IMG_4133運転席前のインパネもオールドスタイル。コラムシフトのレバーも皮や塗装が剥げ落
ち、大丈夫なの? と、少し不安になります。でも、これが立派に走るのです! 排ガス
規制などない時代の車ですから、排煙をがんがん出します。エンジン音もかなりの大
きさで、「こういう時代もあったんだ~」という感心と驚きが。市内に向かう高速道路も
ガラガラです。車それ自体の数が少ないのですね。

IMG_4135前を走る車、横から追い越していく車、すれ違う車も、半分近くは私たちと同類のアメ 車。途中で立ち寄った自然公園内の休憩所にも、何台か並んでいました。道路事情が悪いためパンクもしょっちゅうのようで、そのときも1台、修理の真っ最中。でも、そういう車に乗ることで得られる興奮を思えばご愛嬌というか、許されてしまいそうです。

休憩所をあとにし「革命広場」に。北京の「天安門広場」とどちらが広いかはわかりませんが、5月1日のメーデー式典の予行演習がおこなわれていました。といっても、緊張感のゆるさは否めません。ここはラテンもラテン、キューバですからね。DSC05773

周囲には国の建物が立ち並んでいますが、情報通信省の壁面にはファイデル・カストロらとともに戦ったカミーロ・シンフエゴスの肖像が描かれています。シンフエゴスは革命直後、飛行機事故で亡くなったとのこと。肖像の右下に、“Vas bien, Fidel(=いい
だろ、フィデル)”という言葉があるのを見ると、その気さくな性格がうかがえ、カストロ
とも仲よしだったことがわかります。

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DSC05771もう一つ、内務省のビルにはゲバラの肖像が。こちらの右下には、“Hasta la victoria
siempre(=常に勝利に向かって)”とありました。ゲバラはいつどんな状況にあっても
死を恐れず、革命に向かって前進しなくてはいけないという考え方をしていましたが、
その心情がよく示されているのでないでしょうか。空港からここまでくる途中、あちこち
でゲバラの肖像を目にしましたが、ここで見たゲバラはなんともユニークな印象を受
けます。

そこから10分ほどで宿泊先のホテル・サラトガに到着。由緒あるホテルのようで、チェックインで応対してくれた女性スタッフもしっかりした印象です。キューバは、インターネットがまだ普及して間もないので、wi-fiが確実に使えるかが気がかりでしたが、それも大丈夫そうで、とりあえず安心しました。

夕食は、ガイドさんに教えてもらった近くのレストランで。あまりの量に圧倒され、半分以上は残したでしょうか。もったいないからと一部をテイクアウトしましたが、こんな量の食事を毎日しているとしたら、驚きです。

本場のタコスのおいしさに舌を巻く!

2018年4月26日
朝から下半身、とくに太ももと膝に鈍い痛みがあります。前日の「月のピラミッド」に登
ったのが響いているのでしょう。しかし、そんなことに負けてはいられません。今日は
朝から博物館と動物園の見学です。私たちの泊まっているホテル周辺は、広大な「チ
ャプルテペック公園」。その一角に、当地では最大の観光スポットとされる「自然史博
物館」があります。

この博物館の規模の大きさは世界的に見ても屈指と言えるでしょう。テオティワカン、
マヤ、アステカなど、古代から中世に至るまでの遺跡から発掘された品々が、全部で
12の部屋に分けて、所狭しと展示されています。エジプトやギリシャほど、私たちに
はなじみがないものの、それと匹敵する、あるいはそれ以上に発達した文物の存在
を目の当たりにすると、メキシコ文明の奥深さを感じざるを得ません。

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ペルーのインカ文明やその遺跡マチュピチュもそうでしたが、この地球上で、場所こ
そ違え、数千年前からこれほど高度の文明が発達していたことを知ると、眼前の出来事ばかりに気を取られながらちまちま生きている自分がなんとも小さく見えてきます。

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ただ銀だけが目的でこの地にやってきたスペイン人も、初めてメキシコの文明に触れ
たときは腰を抜かしたにちがいありません。しかも、武力でもってそれを根こそぎ破壊
してしまったのですから、当時のメキシコ原住民たちは声も出なかったのではないで
しょうか。

 

ほぼ午前中いっぱいかけて「人類学博物館」を見終えたあとは、同じ園内にある「動物園」へ。1923年の開業ですが、生物学者が設計しただけあって、広々としたつくりになっています。動物を保護する伝統は15世紀にこの地を支配していたアステカ王 国以来のものだそうで、動物たちがのびのびしているのもそのためでしょう。ジャイアントパンダの繁殖を手がけた最初の施設の一つでもあるとのこと。中心街のすぐ近くにありながらそうした時間と場所が与えられている動物たちは幸せそうに見えます。
キリンもどこかしらのびのびとした表情を見せてくれました。

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ちょっと遅めになったランチはメキシコ料理の店。メキシコ料理というと、タコス、トルテ
ィーヤ、サルサソース、ナッチョスなどを思い浮かべます。最近でこそメキシコ料理の店も目につくようになったとはいえ、まだまだ数は多くないでしょう。また、食べられるものも本格的なのかどうかおぼつかないところもあります。

というわけで、ガイドさんおすすめのタコス専門店に案内してもらいました。まわりはそこそこの高級住宅地らしく、それほど店が集中しているわけではありません。店はユニークなデザインの建物の2階。日本ではタコスといっても、半分に丸めた固い皮にひき肉やこまかく刻んだ野菜が載っているものがほとんどですが、ここでは、何を載せるかはこちらの注文次第。もちろんその素材が大きな皿に並べられてくるのですが、そこから食べたいものを選んで、やわらかい皮に載せ、さらに3~4種類あるソースの中から自分の好きなものを選んでかけた上で丸めながら食べます。素材もソースも上々、ビールとの相性も抜群で、これほどおいしいタコスは初めてでした。

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DSC05623食後、アステカ帝国の中央神殿跡である「テンプロ・マヨール」や「ラテンアメリカ・タワー」「メトロポリタン大聖堂」「三文化広場」なども訪れ、2日間、めいっぱい詰め込んだ旅となりました。2000mを超え酸素も薄い土地だけに、そのときは気づかなくても、あとになってジワジワと疲れが襲ってくるのではないかという心配も無きにしもあらず。
余裕があれば、もう少し時間を取ってゆっくり見てみたいところです。

【メトロポリタン大聖堂】

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【テンプロ・マヨール】

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【三文化広場】

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メキシコシティー市内観光の始まり

2018年4月25日

DSC05391朝食はホテルの中庭にあるレストラン。スペースの半分は室内ですが、半分は外に
テーブルと椅子が並んでいます。ただ、この時期は日の出が遅いようで、7時ごろは まだ暗いため、朝食という気持ちになれません。やっと8時が近くなって下に降り、おいしく食べることができました。充実した朝食は元気のもと)、とくに旅先ではそれを強く感じます。

 

午前中はまず、郊外にある「国立自治大学」へ。郊外といっても、車で20分ほどですから、都心からはほぼ一本道で行けます。1551年9月に王立メキシコ大学として創立されたといいますが、これはペルーの国立サンマルコス大学に次いで、アメリカ大陸で2番目に古いとのこと。いまのキャンパスは2007年に整備されたそうですが、もう世界遺産になっているのには驚きました。大学があるのは、1968年に当地で開催されたオリンピックのメインスタジアムの向かい側で、町全体が大学のキャンパスといった感じがします。

そうなんだ、アメリカ大陸ではアメリカ合衆国などというのは新参者でしかないという事実に、改めて気がつかされます。ただ、合衆国との根本的な違いは、片やラテン系のスペイン、片やアングロサクソン系のイギリスが宗主国だったこと。歴史に「たら・れば」はないといいますが、アメリカ合衆国も、最初に足跡を残したスペイン人や、一時期かなり広い地域を支配していたフランス人がそのまま支配し続ければ、いまとはまったく趣の違う国になっていたことでしょう。

この大学の中央図書館に素晴らしい壁画が描かれていると聞いていたので、案内してくれるよう事前にリクエストしておいたので連れてきてもらったのですが、たしかにそのとおり。

東京駅の真ん前にあった旧の丸ビルほどの大きな・高さがある建物の4面すべてが壁画で、フアン・オゴルマンの作品。一人の画家がよくもまあこれだけ大きな作品を描けたものです。制作日数はおそらく1年、いやそれ以上かかったでしょうね。

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DSC05402これ以外にも大学本館や学長棟など、キャンパス内のほとんど建物に大小の壁画が
描かれています。ダビッド・シケイロスの『民衆から大学へ、大学から民衆へ』『腕と鉛筆』という有名な作品もありました。彫刻などのオブジェもそこここに展示されており、大学というより野外美術館にいるような錯覚におちいりました。向かいのオリンピック・スタジアムに描かれたディエゴ・リベラの壁画も印象的です。岡本太郎や北川民次もこうした作品に少なからず影響を受けたと言われていますが、たしかに大阪の万博の『太陽の塔』など、そんな気がしますね。

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そのあと町の中心に戻り、午後はまず「テオティワカン遺跡」を訪れました。シティからはいちばん近くにある遺跡ということで、時間の関係上、今回の遺跡見学はここだけ。期待に燃えながら行ってみると、素晴らしいところでした。

IMG_1911紀元前2世紀に作られたという宗教都市国家テオティワカンは、最盛期20万もの人
が暮らしていたといいます。さもありなんと思ったのは、遺跡の広大さ。いま地上に残
され観光スポットになっているのはそのごく一部でしかありません。ほかにも大小さま
ざまな神殿や墓所などさまざまな施設があったのでしょうが、発掘されていないのか破壊されてしまったのか……。それでも、今回見た「太陽のピラミッド(高さ65m、底辺220m×230m)」「月のピラミッド(高さ47m、底辺130m×155m)」、「死者の道(南北を貫くメインストリート。長さ4km、幅40mほど)」を見ても、当時としては度肝を抜くような壮大な空間だったことがよくわかります。
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二つの大きなピラミッドのほかに、「ケツァルコアトル(羽の生えたヘビ)」「ケツァルパパロトル」「ジャガー宮殿」という三つの宮殿(の一部)があります。神官の住まいだったとも言われますが、これがまた、想像以上に美しく、とくに石の壁に彫られた人物や動物の表情の豊かなことといったらありません。柱に彫られている鳥や人物の目が黒曜石で真っ黒なのが印象的でした。

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DSC05437私は年齢も顧みず、「月のピラミッド」に登ってみました。最初はそれほどでもありませんでしたが、途中からは予想以上の急角度で一瞬ためらいました。それでも、臆する
ことなくチャレンジ。最後はほとんど這うようにして途中の最高地点(それ以上は登る
ことが禁じられています)まで行きました。ただ、さすが2300mを超える高地ですか
ら、息が切れそうでした。家人は最初からパス。マチュピチュのときもそうでしたが、最
近はどうも、この手の高所を避けているようです。しかし、上から見下ろすと、この遺跡の広さが実感できます。それが疲れを忘れさせてくれるのですがね。

テオティワカンから市内に戻ったあとは、「オペジャス・アルケス宮殿」や「ディエゴ・リベラ壁画館」「シウダテラ市場」などの見学です。宮殿もそうでしたが、どこに行っても「壁画」が目につきました。

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メキシコはご承知のとおり、けっこう地震が多い国です。今日車で走った街中も、そこ
ここにその痕跡が見られました。日本のようにきっちり元に戻す、あるいは作り直すと
いったことはなされていません。そのため、車の中から通りを見ると傾いたままの建
物があったりします。まあ、石造りなので大丈夫なのでしょうが、もう一度地震に襲わ
れたら……と心配にもなります。

夕食は、街の中心部、かつては銀行やら郵便またかつてのスペイン人の屋敷などが立ち並ぶエリアの一角にある老舗のレストランです。入ると目に飛び込んでくるのが壁にびっしり架けられている肖像画。シャンデリアも高価な感じがします。

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隣のテーブルは家族・親族が一堂に会してのバースデーディナーなのか、彼らの周りに楽団が立ち、さまざまな曲を演奏していました。マリアッチではなさそうですが、10人ほどの編成でけっこう本格的。こういうお店があちこちにあるようで、家族のつながりを何より大切にする欧米的な志向が深く根づいている印象を受けました。これもまた、かつての宗主国スペインが残していったものなのでしょう。

直行便でも遠~い! メキシコシティー

2018年4月24日


ANAが昨年から成田・メキシコシティー間に直行便を就航させたことを知った時点で、マイレージの特典航空券を使っていくことにしていました。2月の初めごろ予約を入れたところばっちり押さえられたのはラッキーでした。行きと帰りの日にちさえ決めれば、その途中にキューバを挟み込むだけ。全行程が10日間なので、メキシコシティー3泊+ハバナ4泊と決めます。帰りは乗り継ぎなので機中2泊となり、9泊10日のプランで組み立てることにしました。

今回はどちらも初めての国ですし、メキシコは安全面でやや心配もあったので、両国とも、現地の旅行会社の空港送迎や市内観光の手配をお願いしました。こちらで考えたプランを向こうで検討してもらい、無理のあるところは修正やら入れ替えやらをほどこします。実際にツアーがスタートしてからも、「ここは飛ばしますか」とか「こっちにも立ち寄ってください」といったやり取りをしながら現場で適宜調整していくということで話はまとまりました。

初日の今日は、成田から12時間30分のロングフライトでメキシコシティーまで。旅行会社のスタッフが私たちの名前を書いたボードを手に持って待ってくれていました。
もしいなかったらどうしよう……という不安はありませんが、やはり実際に目にしたときの安心感はひとしおです。ホテルに行く前に立ち寄ってほしいところがあったので、そちらに回ります。

DSC05350まあ、普通の観光ツアーではあまり行きそうにないスポットなのでしょうが、幅の広い
(4車線×2)高速道路をまたぐ歩道橋の上から、中央分離帯の真ん中にそびえ立つ
5本の巨大な塔(「サテリテ・タワー」)が目的の場所。世界的にも有名な建築家ルイ
ス・バラガンとその友人2人が1957~58年に作ったものだそうです。たしかに、60年も前のことですから、斬新なアイデアだったにちがいありません。どの角度から見るかによって3本に見えたり4本に見えたりするのも面白いですが、何よりもその色彩のあざやかさが長旅の疲れを癒してくれました。

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そこを見終わりホテルに着いたのは夕方。チェックインカウンターから迷路のような廊下を行くと、ようやく私たちの部屋にたどり着きました。大きなバルコニーが付き、天井も高く広々としています。

夕方、ホテルの近くをぶらぶらしてみました。オフィス街らしく、会社を終えたビジネスマン、OLがいっぱい歩いています。幅の広い道路の真ん中が公園になっており、近代都市といった印象がします。街路樹もかなり密度濃く植えられており、気持ちがなごみます。多少気になるのは車の排気ガスの匂いでしょうか。

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メキシコシティーは、ガイドさんのお話では、猛烈な車社会だそうで、2800mの高さに広がる盆地なので、排気ガスがなかなか消えず、空もほぼ1年中、ガスで曇っているそうです。PM2・5に覆われてほぼ何も見えなくなる北京ほどではありませんが、やはり盆地特有の状況のようですね。まあ、地上を歩いている限りはそれほどシビアではないものの、それでも道路はびっしり渋滞。さしもの広い道路もかすんで見えます。

「石見銀山」をあきらめ、広島へ

2018年4月12日
前夜テレビのニュースで、つい4日前この地方で起こった地震のため、「石見銀山」もかなり被害を受けていることを知りました。いちばん観たいと思っていた「龍源寺間歩【りゅうげんじまぶ】」(「間歩」とは鉱山の掘り口)も立ち入り禁止になっているというではありませんか。石垣や狛犬【こまいぬ】の台座が割れたり崩れたりと、映像で見てもたしかに危険な印象を受けました。

こうなると、今日の動きを練り直さなければなりません。結局、午前中は津和野で昨日回れなかった「森鴎外記念館」「乙女峠マリア聖堂」「太皷谷稲成【たいこだにいなり】神社」を訪れ、早めに広島に移動することに。

DSC05291「乙女峠マリア聖堂」は、津和野駅の近くにある小高い山の中腹にひっそりと建っていました。なぜ、こんなところに? と思いながら山道を5分ほど歩くと、なんとも質素な木造の教会がありました。「聖堂」の周囲にはいくとも石碑や石像が立てられており、その一つひとつに碑文が刻まれています。この「聖堂」は、1939年、この土地を購入したカトリック教会広島司教区が、殉教した隠れキリシタンを偲ぶため質素な記念堂を建て、それがのちに「聖堂」と呼ばれるようになったのだとか。

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幕末の1865年、長崎で隠れキリシタンに対する大規模な弾圧があり、長崎・浦上の信者153人を津和野への流刑に処したのです。彼らは、当時廃寺になっていた光琳寺に連行・収容されました。改宗させるために連日連夜厳しい拷問をおこない、最終的には37人が命を奪われたのだそうです。

「聖堂」の前を掃除する老女に挨拶しドアを開けて中を見させてもらうと、30畳足らずの広さしかありません。質素な祭壇をはさむ左右の壁に8枚のステンドグラスがあり、そこには拷問の様子が描かれていました。

「森鴎外記念館」は「乙女峠マリア聖堂」とは対照的に、すばらしくモダンな建築の建物です。津和野に生まれ育ったものの、10歳で故郷を離れ東京で陸軍軍医になった鴎外は、「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と遺言したそうです。そのため、墓地は東京・三鷹とここ津和野の寺院にあるのですが、津和野と鴎外とのつながりを事細かに示す展示は充実した内容でした。この夏、鴎外が留学したベルリンに行く予定があるので、現地でぜひ下宿して家を訪れてみたいと思います。

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DSC05301「太皷谷稲成〔たいこだにいなり〕神社」は、京都の「伏見稲荷大社」と同じような千本鳥居が山のすそを縫うようにして立ち並んでいるので、前日、山口から走ってきた道路からもはっきり見てとれました。ちょうど新緑の季節にさしかかっている時期なので、余計に朱色が冴えています。山の中腹から約300m続く石段を登ったところに本殿があるのですが、そのすぐ近くに駐車場もあるので、階段を上らなくてもお参りはできるようです。今日もまた天気はよく、ここから見渡せる津和野の町は素晴らしかったですよ。

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広島に出発する前に道の駅「津和野温泉 なごみの里」に立ち寄ってみました。地域住民のコミュニティーセンター的な感もありますが、天然ラドン温泉、レストラン、野菜市場、お土産屋、体験工房などから成っていて、けっこう客がやってきます。このひ休業していた温泉が開いていれば、もっと多いのでしょう。まわりも素晴らしい自然に恵まれ、津和野がリッチであることがよくわかります。

広島までは2時間少々。予定より4時間も早く着いたので、かの有名な「八丁座」で映画を観たりして過ごし、夜は流川の「さわ田」で、おいしい洋風夕食を楽しみました。

山口から津和野へ

2018年4月11日
午前中は山口市内の歴史スポットを何カ所か訪れました。スタートは「香山【こうざん】公園」。その一角にある「瑠璃光【るりこう】寺五重塔」は国宝で❝日本三大五重塔❞の一つだそうで、1422年の創建といいますから、築600年! とても味わいのある建物です。本堂のほうはさほどでもありませんでしたが、隣接する毛利家の菩提寺「洞春寺〔とうしゅんじ〕観音堂」に向かう途中にある「沈流亭」は薩長連合の密議がおこなわれた建物とかで、2階は当時のままだそうです。山口県は明治維新と深く関わる地だけに、このテのスポットには事欠きません。

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DSC05216次に訪れたのが、山口県庁に隣接してある「旧山口藩庁門」、大正建築の粋を集めたという「山口県旧県会議事堂(国指定の重要文化財)」とそのすぐ隣にある「旧県庁舎」。議事堂の議場に入り、議長席に座ったり演壇に立ったりして遊びました。その時代の県会議員はさぞかし偉かったのでしょうね。旧県庁舎の中にそのまま残されている知事室を見ると、それよりさらに偉かったのが県知事だというのがよくわかります。いまもその名残は多くの県で残っているようですが。

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そのあと「龍福寺本堂」「八坂神社本殿」(どちらも重要文化財)を訪れ、最後は「山口ザビエル記念聖堂」。もともとの建物は火事で焼失してしまったため、新しく建て替えられたのですが、これがめっぽうユニークな建物で、中もいま風というか、シンプルがコンセプトの斬新な設計です。新しい時代のキリスト教会の代表作というか、昔観たフランス北部の町ルーアンで観た「聖ジャンヌ・ダルク教会」を思い出しました。あっさりした中にも威厳を感じさせるステンドグラスが印象的です。

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ただ、もっと印象に残ったのは、そのすぐ近くにあるベーカリー&カフェ「ザビエル・カンパーナ」。ベーカリーのほうはたいそうな人気で、お客であふれていましたし、カフェのほうもランチタイムはバイキングスタイルで営業しており、充実した内容。なんといっても「シニア料金(=2割引き)」があるのが気に入りましたね(笑)。

山口から次の目的地・津和野(島根県)に向かいます。車で1時間ですからあっという間でしたが、ここもまた閑散としていました。1970年代だったか、津和野が“アンノン族の聖地”としてもてはやされた時代は、人であふれていたのでしょうが、いまその面影はありません。ちなみに、「アンノン族」という言葉はいまでは死語のようで、「ファッション雑誌やガイドブックを片手に一人旅や少人数で旅行する若い女性」(wikipedia)を意味します。

もちろん、津和野の町自体は「小京都」と言われるだけあって、すばらしく魅力的です。江戸時代の最初から最後まで同じ殿様家が治めていたこともあり、なんとも言えない落ち着きがあります。「安野光雅美術館」など、さほど広くない中心エリアを4時間近く歩き通しで、足も疲れ、のども渇いたのでお茶でも飲もうかと、喫茶店とお土産屋を兼ねた店に入りました。

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兼業店といっても、どちらも本格的な造りです。時刻は4時半。ところが、テーブルに座ってメニューを見ていると、店員から「喫茶のほうはもう終わりです」と言われました。これには唖然茫然。私たちのすぐ後から入ってきた外国人のカップルも、愕然とした様子。それはそうでしょう。だって、まだ4時半! ですからね。「おもてなし」とか「ホスピタリティー」という言葉をあちこちで耳にするこの頃ですが、その片鱗すら感じさせない冷たい仕打ちとしか言いようがありません。

仕方なく予約していた旅館にチェックインすることにしましたが、ここもまた、「昔はよかったんだろうけど……」といった印象です。向かいにある老舗っぽい旅館もかなり前に廃業したのか荒れ果てていました。

今回の旅をプランニングしているとき、津和野の街中には「ホテル」が一つもないことを知りました。あるのは「旅館」と「ユースホステル」的な宿泊施設だけ。かの「アパホテル」もありません。うーんとも思ったのですが、翌日「石見【いわみ】銀山」に行くことを考えると、山口に戻るのも非効率です。ほかに選択肢がないので旅館を予約したのですが、いかにも欧米の人たちが好みそうな観光資源を抱えているのに、とてももったいない感じがします。ただ、この旅館、食事だけはハイレベルでした。

なんともさびし~い、山口の夜

2018年4月10日
「こんぴら歌舞伎」を楽しんだ翌日は山口です。高松からはまず、今年で開通30周年を迎えた瀬戸大橋の上を走るJRで岡山まで。新幹線に乗り換えて広島に行き、ここで下車してレンタカーを借ります。最近できた広島都市高速から山陽道を経て、まずは秋芳洞【あきよしどう】まで行きました。今日は絶好のドライブ日和で、快適そのもの。

秋芳洞は、カルストが目いっぱい広がる秋吉台とセットになっている観光スポット。平日とあって、どちらも閑散としていました。現在全国に56カ所ある国定公園のなかでも比較的早い時期(1955年)に指定を受けているので、ある意味“終わった観光スポット”なのかもしれません。しかし、初めて訪れた私の目にはたいそう新鮮な景色に映りました。

DSC05124カルスト(Karst)とは、石灰岩など、水に溶けやすい岩石で構成された大地が雨水、地表水、土壌水、地下水などによって侵蝕されてできた地形(鍾乳洞などの地下地形も含む)で、秋吉台は日本最大の広さ。その地下にあるのが、国の特別天然記念物に指定されている秋芳洞【あきよしどう】です。ほかのものも合わせると、秋吉台には450以上もの鍾乳洞があるとのこと。

 

日本一というだけあって、秋芳洞も秋吉台も、圧倒的な迫力です。秋芳洞の中へ年間いつでも気温17℃だそうですから、真夏に行ったらたまらないでしょうね。全長1km超、アップダウンもけっこうあるので体力は要りますが、次から次へとあらわれてくる摩訶不思議で神秘的な石灰岩の自然アートを目にすると、疲れも吹き飛びました。

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そのあと秋吉台も観て、今日の宿泊地・山口市までは車で30分。「西の京」とも呼ばれる町なので、けっこう期待していました。しかし、実際に行ってみると、いやはやなんとも……。地方都市の常ですが、人通りが少ないのです。

 

DSC05177 秋吉台にて

夕食も、店を見つけるのにひと苦労しました。私たちのホテルは県庁や市役所に近い旧市街にあったのですが、近頃、山口市の中心地(人が多く集まるという意味ですが)は湯田温泉に移っています。2年前ロシアのプーチン大統領も訪れた場所です。宿泊施設(といってもホテルはほとんどありません)の多くはそちらに集中しており、旧市街一帯はもぬけの殻状態。かつてはこちらのほうが人も集まったのでしょうが、いまやその面影はないようです。

ホテルを夜7時に出て、「米屋【こめや】町商店街」「中市【なかいち】商店街」まで歩いていきましたが、飲食店はほぼゼロ。7時半過ぎには明かりがほとんど消えかけており、歩いている人の姿もありません。「これはヤバい」と思い、スマホでググって見つけた、ホテルからもほど近い店も廃業したようで真っ暗。仕方なくそこから戻る途中で見つけた店に入りました。ただ、これがまずまずのヒットで、かろうじて満足の行く夕食を摂ることができました。「うーん、県庁所在地なのに……」とも思いましたが、山口市自体、人口は20万に満ちず、県庁所在地のなかでは45位(それより少ないのは鳥取市と甲府市)。一時は最下位でしたから、これも仕方ないかとは思いますが。それにしても、夜7時半過ぎだというのに人っ子ひとりいない商店街というのは気味が悪いものです。

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江戸時代の人は、こんな所で観劇を楽しんだ!

2018年4月9日
念願の「こんぴら歌舞伎」を観ました。場所は香川県琴平【ことひら】にある「金丸【かなまる】座」。1835年に建てられた、現存するわが国最古の芝居小屋です。朝7時40分羽田発のJAL便で高松まで飛び、空港でレンタカーを借りて琴平まで。歌舞伎が始まるまでの数時間は、「金刀比羅【ことひら】宮】」=「こんぴらさん」に上ったり、周辺のスポットをくまなく見て回るなどして楽しみました。

20180409~13琴平・山口・津和野 030車は刀比羅宮」参道の途中(500段目)にあるカフェ「神椿」に駐車。ここは東京・銀座の資生堂パーラー直営で、飲食さえすれば駐車OKなのです。参道の階段は、「本宮」までで785段ありますから(実はまだその先に奥社=「厳魂【いずたま】神社)があり、そこまでだと1368段だそうです!)、その途中にあるのは大助かり。

 

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「神椿」から、それほどきつくない階段をえっちらおっちら上っていくとありました、「本宮」が! しかし、思っていたほどの“けばさ”はありません。伊勢神宮もそうでしたが、世に名の知れた神社はどこも皆、深閑とした空気が流れているもの。「神妙」という言葉もあるように、神社の境内に身を置くと不思議にすがすがしい気持ちになります。その点、仏教寺院はなんとも俗的というか、あれもありこれもありで、世俗の匂いがぷんぷん漂っているように思えてなりません。本宮の奥のほうに「絵馬殿」がありました。「金刀比羅宮」は昔から航海安全祈願の信仰を集めていたことから、圧倒的に多いのは船の絵馬です。ほかにも、全国各地から奉納された絵馬が数多く飾られていました。
本宮の奥のほうに「絵馬殿」がありました。「金刀比羅宮」は昔から航海安全祈願の信仰を集めていたことから、圧倒的に多いのは船の絵馬です。ほかにも、全国各地から奉納された絵馬が数多く飾られていました。

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「金刀比羅宮」を下り、JR琴平駅のユニークな洋風駅舎(国の文化財)、往時のにぎわいを思い起こさせる「鞘【さや】橋」、「高燈籠」(1865年に完成、高さ27mは日本一の高さ。瀬戸内海を航行する船から「金刀比羅宮」を拝む際の目標となっていた。国の重要文化財)、「琴平町公会堂」(1932年に造られた和風の建物で国の文化財で、現在も使われている)などを訪れる合間に、「虎屋」でうどんの昼食。ここは400年近く前に創業された旅館で、昭和天皇・皇后両陛下も泊まられたことがあるとのこと。現在、旅館のほうは廃業)で、その帳場がいまは食堂になっています。2階は客室だったそうで、窓の前=高欄に彫られた虎が往時をしのばせます。

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「金丸座」は、「金刀比羅宮」参道のすぐ近くにあることから想像できるように、かつては、参拝者の楽しみのために年に3回、仮設の小屋が造られ、歌舞伎などの興業がおこなわれていました。江戸時代中ごろから金毘羅信仰が盛んになり、参道を中心に門前町が形成されると、常打ちの小屋が建てられ、「金毘羅大芝居」が始まりました。江戸、大坂の役者も数多く登場したといいます。

1985年に復活した「こんぴら歌舞伎」にはこれまで、日本歌舞伎界の錚々たる役者がやってきています。そういえば、先の「虎屋」で、うどんを注文したあと店内を見渡すと、1枚の古い写真が貼ってあるのに気がつきました。「こんぴら歌舞伎」が始まったころ、子役5人が一堂に会したものです。写っているのは勘三郎・時蔵・又五郎・三津五郎・雀右衛門。おそらく30年ほど前でしょうが、貴重な写真です。

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それにしても、「金丸座」の座席は限界を超えるほどの狭さでした。私たちが予約購入していたのは1階のます席ですが、左右50cm、前後1mほどのスペースに置かれた二つの座椅子におとな2人が座るのは、途中休憩があるといっても、やはり無理というものでしょう。江戸時代の日本人のサイズに合わせているのかとは思いますが、ここいらは少し考えてほしいものです。きついと思えば2階の両サイドにある桟敷席を買えばいいのですが、こればかりは実際に来てみなければわかりませんからね。でも、この日は幸い、急なキャンセルが出たとかで、場内で客のおもてなしをする女性ボランティア=お茶子【ちゃこ】さんから、「ちょっと後ろになりますが、そちらの席に移られますか」と言葉をかけられ、迷わずそちらに移動しました。おかげで楽に観ることができました。

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席に着き、あちこち目をやると、顔見世提灯(出演する役者の屋号の家紋が入った提灯がぶどう棚の舞台寄りに吊られている)や明かり窓(場内の明るさを調整するためのもので、手動)が。江戸時代の人々はこういう場所で観劇を楽しんでいたのだというのがよくわかります。演目の最後、踊りのときに上のぶどう棚から大量の紙吹雪が。これには文句なしに感動しました。

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「台北動物園」「猫空」「中正紀念堂」「士林夜市」「台北101」

2018年3月30日
今日で台北も最後。2日目(3月28日)の朝食は、「世界豆漿大王」で、鹹豆漿、蛋餅、小籠湯包、焼餅猪排起士蛋エトセトラの台湾メシ。これで〆て1000円足らずですから、安~っ! いかにも大人っぽいメニューで、2人の孫にはあまり好評ではなかったようですが、1回くらいは我慢してもらわないと……。その日は朝から「台北動物園」。子どもたちはパンダをゆっくり観られて大喜び。ほかにもキリンやカバ、ライオン、シマウマ、チンパンジーなどを堪能したようです。

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ただ、さすがは台湾、まだ3月末だというのに、朝から気温はグングン上昇。30℃近い中を歩き回り、さすがに疲れました。そのあとはロープウェーで「猫空」へ。子どもたちにとっては怖さ半分・楽しみ半分だったにちがいありません。それなりにはしゃいではいたので、まあ成功でしょう。バスで下まで降りたあとはいったホテルで休憩。

3日目は「大安森林公園」へ。名前のわりには木が少なく、カンカン照り、気温も30℃近い中で1時間ほど遊びましたが、早々に疲れが来ていたようです。迪化街の入口にある「永楽市場」までタクシーを飛ばしました。その1階に店を構える、1894年創業の「林合發油飯店」で行列して私たちの大好物「油飯」を買い、ホテルに戻ってランチ。ひと休みしたあと、夕方、地下鉄に乗って「中正紀念堂」に行き、衛兵の交代式を見学。夜はこれまた定番の「士林夜市」へ。

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最終日の今日は「台北101」に上りました。昨年、高校の同期生と来たときは曇って何も見えなかったのに、今日は素晴らしい好天で、ほぼ100%のパノラマ。ランチは何がなんでも魯肉飯をというので、タクシーを飛ばして行ったのですが、なんと50人近い人が行列しています。これでは帰りの飛行機に間に合わないと、近場を歩いて探すと、台湾全土に50以上も店舗を展開している「?鬚張魯肉飯」がありました。迷わずそこに飛び込んでセーフ。でも、けっこうおいしかったですよ! 唐山排骨と貢丸湯もおいしかったですよ。

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図らずも、孫と一緒に台北旅行

2018年3月27日
昨年に続き台北出張です。ただ今回は、今年の1月4~7日、娘と、その孫2人を連れて台北旅行を計画していたのが、孫の一人がインフルエンザに罹ったためドクターストップがかかり、中止に。そのリベンジをと、娘が相乗りしてきたため、だいぶ様相が変わりました。

松山空港からホテルまではタクシーで10分少々。部屋で荷ほどきを済ませ、夕食へ。といってもまだ4時前です。ただ、孫は7歳と5歳なので、すべて早め早めになるのはやむを得ません。4時半に永康街の「鼎泰豊」本店へ。この年齢で生意気にも小籠包が好きだという2人のお目当てもそれだったようです。幸い、すぐ席に案内され、さくさくと食べることができました。

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驚いたのは店を出たたとき。6時ちょい前だったのですが、店の前には早くも大行列が。小籠包の本家本元というだけあって、地元の人はもちろん、日本人(こちらのほうが多そうでした)、さらに青い目の人たちやらでごった返していました。早めに店に入って大正解だったということになります。そのあとは近くの雑貨屋に入ったり、有名な「思慕昔(台湾語でスムージーと発音するらしい)」で超ビッグサイズのマンゴアーアイスを食べたりしながらしてブラブラし、7時過ぎにはホテルに戻りました。

桜と富士を堪能した研修旅行

2018年3月25日
予想以上に早く桜が咲き、今日あたりは関東地方から西はどこも皆、満開かその寸前といった感じのようです。朝から素晴らしい天気で、絶好の花見日和ですが、今日の私はまる1日かけての研修。西伊豆は沼津市戸田【へだ】の「造船郷土資料博物館」と韮山(伊豆の国市)の「江川邸(江川家住宅邸)」を訪問・見学するバスツアーです。主催は私も役員を務めているNPO法人「日ロ創幸会」。

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前者は、幕末その地で日本初の洋式帆船が造られたことにちなんだもの。1854年、日本との国交樹立交渉のため伊豆半島南端の下田港に停泊していたロシアの帆船「ディアナ号」(艦長はプチャーチン)が、折からこの地を襲った安政の大地震で船底と舵を破損してしまいました。戸田の港で船を修理することになり、伊豆半島西の沖合を航行中、こんどは嵐に遭い、富士川河口近くまで流されます。戸田の漁民たちが多くの小舟を出し、ディアナ号を戸田まで曳航する一方で、500人ほどの乗組員は、現在の富士市から陸路で戸田まで移動。しかし、またもや強風に襲われ、最後は駿河湾のもくずと消えてしまいました。

そこで、プチャーチン一行がロシアに帰国するための船を新たに造ることになったのですが、当時の日本に、洋式の帆船を造る技術などありません。船造りを仰せつかった韮山代官の江川太郎左衛門英龍は、近在の船大工を総動員、ディアナ号からかろうじて運び出されていた船の設計図をもとに、ロシア人技術者と協力しながら、わずか3カ月で排水量100トンという本格的な帆船をみごとに造り上げました。

プチャーチンはその船に「ヘダ号」と命名、それに乗ってロシア人の一行は無事帰国したのですが、同じタイプの帆船をその年さらに6隻造り、江戸幕府に納めたそうです。このとき建造にたずさわった船大工たちがその後、江戸や長崎など全国各地で指導にあたったといいます。いうならば、戸田は近代造船技術始まりの地というわけですが、そうした経緯をボランティアのガイドさんから学ばせていただきました。

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今日は、朝、東京を出て東名高速を走っているときから、窓の外には次から次へ満開の桜が見えましたが、途中からそれに富士山の姿が加わりました。ちょうど3月21日に全国を寒波が襲った際、富士山の頂上付近にも雪が降り真っ白になったこともあって、どこを走っていても目立つのです。桜と富士の“そろい踏み”ですから、日本人の血が騒がないわけがありません。バスの中ではずっとハイテンションで、戸田をあとにしてからはさらにヒートアップ。誰もが、日本人が前人未到の帆船造りにチャレンジし成功したのを、同じ日本人として誇らしく思えたからでしょう。

次の目的地・韮山の「江川邸」も、庭の桜が満開。築後800年を超えるという江川家の36代当主が、戸田で造船の指揮にあたった江川太郎左衛門英龍です。鎌倉時代に日蓮みずからが書したという曼荼羅が収められた棟札箱が、屋根裏に安置されていました。ボランティアガイドさんの説明によると、その棟札があったおかげで、この屋敷は今日まで一度も火災に遭わず、地震で倒壊することもなかったとのこと。この話は江戸時代すでに広く知られていたそうです。

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それにしても、伊豆半島というのは、どこにいても富士山がよく見えます。この日はとにかく好天で、最後の最後まで富士の姿を観ながらの研修ツアーになりました。参加者の心がけがよほどよかったのでしょうね。もちろん、私もその一人ですよ、エヘン!

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1日で春・夏・秋をいっぺんに体験!

2018年3月14日
沖縄ならではの贅沢をしました。1日で春・夏・秋をいっぺんに体験したのです。春はツツジ、夏はひまわり、秋はコスモスです。

今日のメインの目的地は北東部の東村【ひがしそん】。東村までは首里からたっぷり2時間はかかります。途中の宜野座【ぎのざ】までは高速道路が走っているのですが、そこから先は一般道。宜野座と東村のちょうど中間あたりでランチタイムとなり、目に入ってきた「わんさか大浦」という、道の駅っぽいところに入りました。

その直前で通り過ぎたのが、あの辺野古【へのこ】です。宜野座と東村にはさまれたあたりの海岸に名護市辺野古はあります。本島北部の中心都市・名護の市域は西海岸から東海岸にわたっていることを初めて知りました。東海岸は西海岸と違って、人の手があまり入っていません。とくに北部は自然がほとんど残っているため、辺野古から大浦湾にかけては、美しい砂浜、海岸のすぐ近くまで迫る緑に覆われた山々など、素晴らしい環境に恵まれています。

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それにしても、こんなところに、しかも海をわざわざ埋め立ててまで基地を作ろうなどと、よく考えついたものです。沖縄県と国との間で工事差し止めをめぐって裁判になっているのもよくわかります。道路のあちこちに「行ってみよう! 辺野古に」と染め抜かれた旗や手書きのポスターが見えましたが、たしかに、実際自分の目で見ると、そうした気持ちがよくわかります。

「わんさか大浦」の駐車場には、なんとコスモスが咲いていました。さすが沖縄です。そこに行くまでの道すがら、昨年もこのブログで紹介した「イッペー」の黄色い花をあちこちで見ました。こちらは春の花なのですが、コスモスは秋の花。それが同じ時間帯・同じ空間で見られるのはやはり自然の恵みでしょう。

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その食堂でおいしいゴーヤチャンプル、沖縄そばを食べ、再び海岸に沿って走ります。目的地の「東村・村民の森」には1時半ごろ到着。この時期は「つつじ祭り」が開催されており、「村民の森」がある丘は丸ごとツツジに覆われています。いまから40年ほど前、当時の村長だった宮里金次が音頭を取って整備したのだそうです。宮里金次はかの宮里藍・宮里優作兄弟の叔父にあたる人物なのだとか。沖縄本島東北部の無名の村だった東村を盛り上げようと、5年間かけて「村民の森」を整備したと碑文に書かれていました。と同時にパイナップルの栽培にも力を注ぎ、いまでは日本一の生産地になっているようです。

IMG_E35393月前半の土・日は大々的なイベントもあり、村人たちが総出でおもてなし。今日は平日でしたが、それでもかなりの人がやってきていました。

 

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帰り道、北中城【きたなかぐすく】、観に行くことに。一般人の所有する畑にひまわりがびっしり植わっていました。脇に車を止め観にいってみると、観光客の姿が。私たちと同じく、ネットでその情報をキャッチし、訪れたのでしょうね。

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久しぶりに京都でお楽しみ

  2018年3月9日
年に何回か仕事で訪れる京都ですが、いつもトンボ帰りばかり。でも、たまには京都らしいものも見たい、味わいたいと、今回は早めに現地に移動し、二条城を訪れてみました。なぜか、これまで一度も行ったことがないのです。

京都の駅に降り立つと、やはり寒い! 底冷えの町ですから致し方ありません。タクシーの運転手さんに言わせると、「京都は住むとこじゃおまへん。観光するとこだす」なのですが、二条城はさらに寒かったです。ちょうど雨も降り始めたところだったせいもあります。

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IMG_E3480それでも、さすが世界遺産、二条城にはたくさんの人がやって来ていました。早めにクローズする二の丸御殿から先にということで、中に入ります。土足はNGなので、入り口で靴を脱ぐのですが、これでよけい寒さが募ります。二条城も、外国のこの種の宮殿も、その空間はすさまじく広いのですが、二条城は木造の日本家屋。外の空気がほとんどもろに入ってくるので、ヨーロッパの石造りの建物とはまったく違い、中に長くいると寒くて寒くて……。しかも、床のほとんどは木ですから、靴を脱いだ足に下から冷気がどんどん伝わってきて、長い時間歩いているともう我慢できなくなります。

 

結局、建物の中にいたのは1時間足らず。あとは庭園のまわりや門を見て回りましたが、2時間ほど経った頃には体の芯まで冷え切った感じです。こうなると食べ物で体を温めるしかありません。というわけで、夜は鴨川べりにある店で鶏の水炊きを食しました。店を出る頃には体も心もホコホコ(ふところのほうは少し寒くなりましたが)、気分よくホテルに戻りました。

高校同期生の社会見学──今回は横浜・野毛

2018年2月17日
一昨日、ヨーロッパから帰ってきたばかりですが、今日は高校同期生が集まっての社会見学。行先は横浜・桜木町の伊勢山皇大神宮です。横浜総鎮守でもあるこの神社、実はかなり格式が高いようで、いうならば“関東のお伊勢さま”。

行って驚いたのは、2014(平成26)年におこなわれた本家・伊勢神宮の式年遷宮で建て替えられた古社殿が、こちらにそのまま移されていたこと。それが2020(同32)年に、ここ伊勢山皇大神宮の本社殿になるのだそうです。堀立柱の唯一神明造、伊勢と同じ茅葺きですから、完成したときはさぞかし神々しい雰囲気がただようことになるのでしょう。

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社会科見学は小1時間で早々に終了、本来の目的である「野毛【のげ】のディープな居酒屋で昼呑み」に移ります。伊勢山皇大神宮が建つ場所はもともと、標高50mほどの野毛山という名前で知られていたそうです。幕末の1859年、横浜が開港すると、外国人貿易商を相手に商売をする日本人の豪商たちが住まうようになったのがこのあたり。87年には日本で初めての近代水道用の配水池が敷設されています。1949年に開催された日本貿易博覧会の会場にもなり、その2年後には動物園も完成。

まあ、このように由緒ある場所なのですが、なぜか山のふもと一帯は横浜随一の飲み屋街になっています。狭いエリアに数えきれいくらいの居酒屋、バーが密集し、食べられるものも焼鳥、おでん、ホルモン(もつ)、寿司、てんぷら、中華など、なんでもアリといった感じ。それにしても、この界隈がそうなったのか、不思議な気がします。

太平洋戦争のあと伊勢佐木町など横浜の中心部の大半は進駐軍に接収されたため、このエリアは復員兵や軍需工場の労働者など日本人の生活の中心地として機能したといいます。生活用の物資が慢性的に不足する中、闇市と屋台が並ぶ野毛は「ここに来ればなんでもそろう」と言われ、職と食を求める人々でごった返していたようです。

IMG_E3446いまでも街全体に昭和の匂いがかなり濃厚にただよっており、昼ひなかから営業している飲み屋も少なくありません(これは、東京・浅草と同じく、JRAの場外馬券売り場=WINSが近くにあるためです)。その一角で、ピョンチャン冬季五輪の男子フィギュアをテレビ観戦するのも一興ではないかと、今日参加した8人全員の意見が一致。さっそくあたりを徘徊して見つけたのが中華料理屋。なんの変哲もない店でしたが、どうしてどうして味はハイレベル。中国・福建省出身のおかみさんを相手に会話も楽しみながら、羽生結弦選手の金メダル確定の瞬間を全員で祝いました。

意外と快適だった駅前の3つ星ホテル

2018年2月14日
昨日泊まったホテル。実はその前日に予定を変更し、あわてて予約を入れたものでした。当初は、“世界最先端! 動物が快適に過ごせる”と評判の「チューリヒ動物園」を訪れ、そのあともう一度列車に乗って、空港により近いバーデン(Baden)という町に泊まる予定でした。この町のホテルには、その名のとおり温泉(=Bade)があり、10日以上に及ぶ今回の旅の疲れを癒してから帰国しようと思ったのです。

ただ、冬ですから、動物園も、姿をあらわさない動物が多い(とくにアフリカ系)のでは……と思ったのと、チューリヒの駅で重いスーツケースをコインロッカーに入れたり出したりするのが、なんとも面倒に思えたからです。実際には、チューリヒの駅も大々的にリノベーションされていて、新しい連絡通路ができていたりなど、コインロッカーもたぶん簡単に利用できたのかもしれません。リノベーションはまだまだ途上のようで、今度来たときはどこまで変わっているか、楽しみです。

さて、急遽予約を入れたホテルが予想外に快適でした。3つ星なのですが、部屋は広く、バスタブもあります。朝食もまあまあ充実していて、パドヴァより数段上、サンモリッツの4つ星ホテルよりもおいしかったように思います。あえて難を言えば、朝食を摂る場所が若干せせこましかったことくらいでしょうか。

駅からチューリヒの空港までは電車で15分足らず。空港も大幅にリノベーションされており、広い(広すぎるかも)わりにはわかりやすく、出発まで心地よい時間を過ごすことができました。そうそう、「チューリヒ動物園」は、近いうち、いい季節を選んで絶対に訪れたいと思っています。

チューリヒの老舗日本料理店、そして夜はチーズフォンデュ

2018年2月13日
3泊したサンモリッツとも今日でお別れです。朝方ホテルを出るとき、一緒になった日本人のグループがいました。話を聞くと、6泊8日のスケジュールでやってきて、まる1週間、朝から夕方までずっと、周辺にあるあちこちのコースに行って滑るのだそうです。全員70歳近い方々ばかりで、スキーの奥深さを改めて実感させられました。

私たちはサンモリッツの駅から「グレイシャーエキスプレス(氷河特急)」でクールまで。クールからはチューリヒまでは通常の列車です。氷河特急の窓からの眺めは素晴らしいのひと言。ここも10年前、逆方向で走ったのですが、同じ路線とは思えないほど、見えてくる景色が違います。

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クールの駅はとてもユニークで、コンコースを通って駅舎から出てもまだホームがあります。ただし、こちらはトラムや短い編成の電車用で、そのすぐ隣にはバスターミナルが。なんだかとても不思議な空間でした。町にちょっと出てみると、古くはありますが、落ち着いた印象で、もう少し長い時間いられればと思ったくらいです。

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チューリヒには1時過ぎに到着。前夜遅くに予約したホテルは駅のすぐ近くです。そのまた近くに、この町随一の老舗日本料理店があるのを調べておいたので、ランチタイムぎりぎりの午後2時10分前に滑り込み、セーフ。ランチのお寿司はめっぽうおいしく、ほっとひと息つくことができました。

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食べ終わったあと日本人の店主と雑談したのですが、夏からは別の場所に移転するとのこと。チューリヒも最近は寿司店が増え、回転寿司までできているそうです。寿司はいま世界中どこでも食べられるようになっていますが、やはり日本人が経営し、日本人が作っていないと、日本人の舌に合ったものは食べられないように思えます。それでさえ、ローマのように「えーっ?」というようなシロモノしか食べられない店もあるのですから……。

DSC_0107ホテルに戻り荷物を整理し、町の観光に出ました。クールからチューリヒまでの1時間も、途中、湖の先に雪を戴いたアルプスが見えましたが、夏でもアルプスの山並みが観られるのはうらやましいかぎりです。湖畔の桟橋(遊覧船が走っているようです)まで出ると、真正面にアルプスが! ただ、町の中はどこもかしこも工事、工事のようでクレーンだらけ。そのため、かなり興趣をそがれたものの、ヨーロッパの金融の中心の一つだけあって、お金持ちを相手にした高級ブランドの店がいくつもありました。

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夜は、これも昨夜遅くに予約しておいたチーズフォンデュの店です。こちらも創業100年以上という老舗らしく、店内は、いかにも年季の入ったしつらえで、派手さのないところもスイスらしい感じ。開店直後から客がどんどん入ってきます。フォンデュを食べるのは、10年前、スイスを訪れたとき以来。でも、やはりおいしいですね。

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スキーも持たずにスキー場に行くさびしさ

2018年2月12日
IMG_1747今日もまた好天が続きます。朝から、30分ほど電車に乗って郊外にあるディアヴォレッツァまで行きました。ここには標高約2978mのところに展望台があり、4000m級の山々を間近に臨むことができます。展望台までは鉄道駅からロープウェイに乗って10分ほどで到着。ただ「展望台」というのは夏の言い方で、冬場はスキー場です。あとほんのわずかで標高3000メートルに達するゲレンデには地元の人を中心にスキーヤーがびっしり。スクールもあるので、なんともにぎやかです。ただ、もともとは広い場所ですし人口も少ないので、日本のスキー場のようにせせこましさはまったく感じられません。

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この付近の最高峰ピッツベルニナ山(標高4049m)は残念ながら見えませんでした。天気はいいのですが、さすが3000mを超えたあたりからは雲が多くなります。そのまたさらに上空はまた晴れ渡っているものの、頂上付近だけが隠れてしまっているのです。

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下の鉄道駅から展望台の最高地点まで数分間上がっていく大型(108人乗り)ロープウェイから観られる、360度のパノラマは最高です。ただ、乗っているのは全員、スキー板とストックを持った人。私たちのようにカメラしか持っていない者はまったくの異分子です。といって、好奇の目で見られるわけではありませんが、それでも小さくなってしまいました。1時間ほど頂上にいましたが、マイナス14℃の寒さにはかないません。ちょうどロープウェイが上がってきてお客をおろしたところだったので、それに乗り下に向かいました。

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DSC_0065お茶を飲みながら待つこと30分。サンモリッツ方面に向かう電車が来たので、それに乗って戻ります。町は今日も相変わらず、お金持ちが出歩いていました。スーパーやお土産屋、スポーツ用品店をのぞいたりしながらぶらぶら歩いていると、おいしそうなチョコレートを売っている店が。この店が大穴というか、ドアを開けて中に入ると、なんとケーキやサンドイッチも売っていますし、さらにその奥はカフェになっていました。店先で買ったものを中で食べることができるのです。

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この町でまあまあ気軽に入れそうな店はここだけではないかという気がしました。要するに、「お金持ち」といっても、日本とヨーロッパとでは、桁が違うというか年季が違うというか、まったく別世界の人たちという印象を受けました。毛皮のコートをみせびらかそうとか、高級ブランドのバッグや洋服をひけらかすといった、底の薄い雰囲気は皆無。ここ2、300年ずっとお金持ちであり続けている人の血は、いわく言い難いものがあります。そうしたものと初めて触れた私は驚くばかりでしたが、日本の軽さ、歴史的な成熟度の遅さやはり否めません。

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念願の「氷上競馬」!

 

2018年2月11日
DSC_0378今日は、ここサンモリッツの冬の名物「氷上競馬(White Turf)」が開催されます。この町はサンモリッツ湖畔に位置していますが、冬は湖が全面的に氷結、その上を整備してレース場に造成し、競馬がおこなわれるのです。もちろん、芝でもダート(砂)でもないので、馬は氷用の蹄鉄を付けられています。おかげで、氷の上でも滑ったり転んだりしないで済むわけですね。

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レースは、ヨーロッパならではの「競駕【けいが】(1人乗りの二輪馬車を馬に曳かせるスタイル)」や、騎手が乗ったスキーを曳くスタイルのものもあり、興味津々。もちろん、馬券も売られており、1枚1スイスフラン。記念に3レース、合わせて30スイスフラン購入してみました。馬券を買えば、スタンドに座っていても真剣になります。

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DSC_0451それにしても驚いたのは観客のいでたち。ほとんど高級毛皮の見本市という状態です。年齢・性別に関係なし。祖父母、父母、2人の子ども、6人全員が毛皮のコート、それも上半身だけといったものでなく、足もとまで覆うロング丈です。特設スタンドの端から端まで全員が毛皮を身にまとっているなどというシーンも珍しくありません。

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DSC_0053それと連れてきている犬のレベルの高さには驚きました。そもそも犬それも大型犬を飼うのはお金持ちの証しだそうですが、どれも皆ホント立派なこと。日本では見たこともない、とてつもなく高価な感じの犬を連れている人をあちこちで見かけました。

 

この日は絶好の競馬日和。風もなく気温も高め。30分ごと(ランチタイム時のみインターバルは1時間)、合計7レースおこなわれますが、その合間は皆が、そこここに設けられているバーやコーヒースタンド、複数の食べ物屋が入ったテントなどで体を温めたり馬券を買ったり、会場の一角で終始おこなわれていたコンサートを楽しんだり、高級車の陳列コーナーで写真を撮ったりなど、思い思いの過ごし方をしています。もともと競馬は貴族のためのエンタテインメントとの知識はありましたが、この日はそれを肌で学びました。「百聞は一見に如かず」です。

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それに刺激されたわけではありませんが、夜はホテル近くの老舗レストランで食べることにしました。というか、ホテルを一歩出ると、そう簡単にレストランが見つからないのです。お気軽なピザハウスやハンバーガー店はほとんどありません。やむを得ない選択でしたが、味は上々でしたからよしとしましょう。デザートもすこぶる上品な味で、感動しました。こちらの一般的傾向として、人工的な甘さのレベルが極端に低いので、なんとなく安心できます。

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初めての「冬のスイス」!

2018年2月10日
IMG_3361ミラノ中央駅を朝9時過ぎに出発、3時間少々でティラーノに着きました。この日は国鉄(正確にはノルディターリアという、日本風にいうと第3セクターのような会社でしょうか)、それもローカル線なので、車両はかなり古くボロボロです。私たちが乗った車両もエアコンが故障していました。

 

 

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今日もメッチャいいお天気で、空は真っ青、雲ひとつなし。ティラーノは10年ぶりですが、さほど変わったという印象はありません。イタリアとスイスの国境のこの町は、「ベルニナ特急」の始点(終点)としても知られています。ちょうど昼食どきだったので、駅前のレストランに入りました。

ワインにピザとリゾットを一つずつ、あとサラダで昼食を済ませ、駅前の広場に戻ると、世界中の国からやってきている人がそこここで日なたぼっこをしています。私たちに話しかけてきた中年男性と20歳そこそこといった感じの女性のカップル(といっていいのかどうか……)は、なんとアルゼンチンから来ていた親子でした。南半球の国なのでいまごろはちょうど夏休みの時期なのでしょう。3週間かけて、ローマ、ミラノ、ベルニナ特急、氷河特急、さらにプラハとウィーンをゆっくり回る予定なのだとか。日本では考えられないような長い期間、そして組み合わせの二人です。

男性のほうが、私のスーツケースに「SANTA FE」と書かれたステーカーが貼ってあったのを見て話しかけてきたのですが、「このSANTA FEはアメリカのアリゾナの町なんだよ」と答えると、「なんだ、そうか!」と。アルゼンチンにも同じ名前の町があるのだそうです。でも、私たちが去年アルゼンチンに行った話をすると、えらく喜んでくれました。

IMG_E337110年前に乗ったのは真夏だったので、こんどはそれと真逆の季節。スイスなので、ほとんど1年中晴れてはいるようですが、冬はやはり空も一段と清く澄んでいます。おまけに途中の景色のほとんどは、雪に覆われたアルプスの山々。天井まで伸びる大きな窓から見える青い空と白い雪の心地いいことといったらありません。

 

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IMG_1719ティラーノから列車はどんどん登り、最高地点では2300m。そこを過ぎると下りに入り、乗換駅のポジターノで下車。そこからサンモリッツまでは15分ほどでしょうか。この町も10年前に訪れていますが、8月だったので、景色はまったく違います。それに気温の低いこと。最高気温が1度、2度ですから、かなり厚着をしてきたものの、身を切るような寒さには太刀打ちできません。同じ町を真逆の季節に訪れるというのは、ほとんど初めての経験ですが、なかなか興味深いものがあります。「雪」があるだけでこうも違うというのは、やはり不思議な感じがします。

しかし、何より違うのは来ている人の様子です。私たちの泊まるホテルは、4つ星でしたが、まわりにある5つ星ホテルの駐車場にはずらっと高級車が止まっています。客も、ひと目見ただけでそれとわかるお金持ち風。それも、「ちょい」ではなく「たんまり」、「最近」ではなく「ずっと昔から」といった雰囲気がただよっています。さすがヨーロッパ、いな世界に名だたる冬の高級リゾート地ですね。

夕食はホテル地下のレストランで。ヨーロッパでは珍しい石焼料理があり、それにトライしてみました。羊、鶏、豚肉のソーセージ、鶏、ベーコンなどタンパク質がたっぷり。あまりのおいしさに2人とも完食しました!

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不親切もここまで来ると……

2018年2月9日
DSC_02354泊したパドヴァも今日で最後。ミラノ行きの列車が出発する午後1時半ごろまで数時間フリーだったので、駅からトラムで10分ほど行ったところにある公園「プラート・デッラ・ヴァッレ」に行ってみました。この公園がなんともユニークで、ローマで観た「スタディオ・オリンピコ」のように、楕円形の敷地の外周を80体ほどの大理石像が囲んでいるのです。公園全体は人口の川(水路)に囲まれ、中央には小さな噴水が。それを中心に、上下左右対称に4つの部分に仕切られています。公園の外側を取り囲む広場のようなところには野菜や果物を売るテント張りの店が並んでいました。すぐ近くに、世界遺産にも指定されている世界最古(1545年)の植物園「オルト・ボタニコ」もあるので観たかったのですが、冬場の植物園はキホン冴えないのでパス。

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DSC_0249公園からトラムに乗り、「市庁舎」などが建つ町の中心街に。ここもまた二つの大きな広場(「エルベ広場」と「シニョーリ広場」)があり、テントがびっしり並んでいます。屋外市場ですね。「エルベ広場」に面する「ラジョーネ宮(サローネ)」という建物の1階部分には肉屋や魚屋やカフェが店を構えており、市場の延長といった感じです。

 

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さらに、広場から続く商店街には衣料品やスポーツ用品、電気屋などが。その一角にあった洋服屋のショーウインドウに、家人が欲しがっていたブラウスが陳列されているのを発見し、バースデープレゼント第1弾として購入しました。何せ、日本の値段のほぼ半額ですから! 思いがけないプレゼントに家人が喜んだのは言うまでもありません。

トラムに乗って引き返し、ホテルで預けておいたスーツケースを受け取って駅に向かいました。案の定、出発時間が遅れていましたが、ホームで待つことに。長距離列車とは思えないようなボロボロの列車です。時間がトリノ行きの特急とほぼ同じだったので、あわや乗り込んでしまうところでしたが、1本前の各駅列車が遅れていたよう。乗る直前に気がついて事なきを得ましたが、もし間違えて乗り込んでいたら大変です。夕方、ミラノでアポイントメントがあったからです。

長い編成の列車ですし、指定席なので、ホームのどのあたりで待っていればいいのか駅員に聞いても、「知らない」。というか、そうしたことをあまり気にもしていない様子です。日本なら考えられないことですが、ここはイタリア。そのあたりは鷹揚に構えているのでしょうね。

それでもカンを働かせて、ミラノ寄りの位置で待っていたらほぼ正解。今度は難なく乗車できました。しかも時刻どおりの到着ですから、胸をなでおろしました。ところがボローニャ、ヴェローナと停まるたびに少しずつ遅れ始め、ミラノに近づいた頃には10分遅れ。そして、市内に入ってからはノロノロ運転が続き、結局30分遅れで到着。

スーツケースはなんとかホテルに突っ込んだものの、このままでは約束の時間に間に合いそうにありません。タクシーの中から電話を入れ、遅れたことを謝罪しているうちに、「ドゥオーモ」の近くにある「アンブロジアーナ図書館&絵画館」に着きました。お会いする相手はその館長アルベルト・ロッカさん。その方をご存じの方から出発前に、「ぜひ会ってきてほしい」とお願いされていたのです。

「絵画館」のほうは、2年前にミラノを訪れたとき、建物のユニークさに魅かれて中に入り、見学したことがあります。ただ、それは「絵画館」のほうで、「図書館」はもちろん初めて。館長が笑顔で入口にあらわれ、私たちを「図書館」に案内してくださいました。

その前に館長が執務している部屋に通してくださり、コートやバッグを置かせていただいたのですが、館長の机の上に、漢字の練習に使っているノートが置かれていました。練習していたのは「劇」という文字のようです。「難しい字ですね」と私が言うと、「難しい漢字が好きなんです」と。「たしかに、漢字は造形としてとらえると面白いですからね」という私の言葉に同意しておられました。

さて、ここは普通の図書館とはまったく違い、収蔵されているのは古書、それもほとんどが「手稿(手書きの文章)」です。一番有名なのは、レオナルド・ダ・ヴィンチの「アトランティコ手稿」なるもので、これはダ・ヴィンチ直筆のデッサンやメモを集めて綴じたものだそうです。それがここには1119枚も収められているとのこと。残念ながらそちらは見ることができませんでしたが、次回訪れたときのお楽しみとしましょう。

手稿はどちらかというとメモ書きのようなものですが、なかには書籍もあります。それも、数百年前のものは当たり前というお話でした。それだけでも驚いている私たちに、館長は1000年前、1200年前、1400年前と、チョー貴重な書籍(それも現物!)を取り出してきては次々と見せてくださいます。手で直接触っていいものなのか不安でしたが、OKとのことで、ページを繰らせていただきました。

IMG_1706圧巻は1500年前に書かれたヘブライ語の聖書。中に挿絵も描かれているのですが、それがまた「挿絵」というには恐れ多いものばかり。金箔が貼られていたりラピスラズリから作ったインクというか顔料が塗られていたりで、この世のものとは思えない美しい色彩です。また、「手書き」だというのに、どの文字もまるで印刷されたかのように、同じ大きさ、同じ書体で、これには驚きました。

図書のほかにも、イギリスの詩人バイロンが400年前にここで学んでいたときに使ったデスクとか、とんでもなく貴重な品がさりげなく置かれています。その前に座らせていただき、「デスクについている垢でも煎じて飲みたい」とまじめに思ったりしました。閉館時間の6時ぎりぎりまで私たちに貴重な所蔵品の数々を見せていただいただけでなく、帰りがけには記念撮影にも応じてくださった館長さん、本当にありがとうございました!

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客の3分の2以上が日本人という居酒屋

2018年2月8日
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これだけ多くの教会を回ると、いいかげん飽きそうにもなるのですが、それでも、素晴らしい美術品がいくつも観られるとなれば、やはり行きたくなってしまいます。というわけで、今日はヴェネツィアの外側、アドリア海に面している側に行ってみることにしました。

 

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DSC_0159ヴァポレットに乗り最初に降りたのが、フォンダメンテ・ヌオーヴェという船着き場。その前に立つ病院を抜けた先が最初の目的地「サンテ・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会」です。病院自体もその昔、この教会が建てたのが起源なのでしょう。これだけ立派な病院を提供できるのですから、たいそう力を持っていたにちがいありません。

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ヴェネツィアのランドマークは「リアルト橋」と「サンマルコ広場」。全体が迷路のようになっているこの町で、自分がいまいったいどこにいるのかがわかるように、どこを歩いていても、この二つの場所の方向を示す案内板が目に入ってきます。それでも迷ってしまい、気がつくと「えーっ!」という場所にいることもしばしば。この日も「フェニーチェ劇場」に行こうと歩き回っていたのですが、気がつくと、目の前の建物がそれではありませんか。現在の建物は3代目(初代と2代目は火災で焼失)だそうですが、中は初代の建物をほぼ模しているようで、素晴らしい造りです。その昔マリア・カラスも何度かこの劇場に出演していたらしく、それを記念するポスターなども貼られていました。

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夕食を食べようと、「リアルト橋」の近くを歩いていて見つけたのが「Ostaria al Diavo’lo L’aquasanta」という店。近くにその店しかなかったこともありますが、入り口近くに日本語で書かれたメニューが貼られており、「選ぶのが楽だから」というそれだけの理由で入ることにしました。イタリアでは夕食にはまだ早い6時過ぎだったこともあり、先客は2人、しかも日本人です。

IMG_1680 私たちが座るとすぐ、日本人6人のグループ客が入ってきて、そのあとも、続々日本人が。テーブル席は「ここって、ヴェネツィアだよね?」と確かめたくなるような様相です。日本語メニューがやはり利いているのでしょう。日本の観光地も、英語や中国語、韓国語、フランス語など、多く訪れる国の言葉で記したメニューを、店内ではなく、外の目立つところに貼り出すと、客がどんどん入ってくるのではないかと昔から思っているのですが、それは間違いなさそうです。「うまい・まずい」の前に、「何を食べられるか」のほうが決め手になるからです。ただ、“There is Japanese menu inside.”という貼り紙(浅草で見かけました)に利き目があるのかという疑問は残りますが……。

 

この店は「ちょい飲み・ちょい食い」の地元客が多いようで、入ってすぐのところにある小さなカウンターに並べられた大きな皿にちょっとした料理が盛り付けられています。客はそこから一つ、二つ、好みのものを選び、あとはワインかビール。持ち帰りする客も少なくありませんが、このあたりが「ostaria(イタリア語で居酒屋の意)」のよさでしょう。

IMG_1682ただ、日本語メニューだけでは十分とはいえないかもしれません。この店はおかみさんの愛想が素晴らしくいいのです。当意即妙の受け答え(それも日本語プラス英語)が的確で、日本人の客を和ませてくれます。それでおいしければ言うことないのですが、幸い、今日も私たちの口に合いました。今回の旅は、食事に関してはいまのところハズレがなく、ラッキーな日が続いています。

教会というより美術館

2018年2月7日
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パドヴァをゆっくり目に出発したので、ヴェネツィアの駅に着いたのは昼過ぎ。今日もまたヴァポレットに乗っての移動が続きます。最初に行ったのは「サンタ・マリア・グロリオ・デイ・フラーリ教会」はみごとの一語。ティツィアーノやベッリーニなど、その名の知れた画家の作品が見られるのですが、それ以上に聖歌隊席と外周の壁面を覆うレリーフ(浮き彫り)の素晴らしさに息を呑みました。

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「スクオーラ・グランデ・サン・ロッコ」を観たあと訪れた「アカデミア美術館」もまた、ティツィアーノやらティントレットやら、名だたる宗教画家の作品が収められています。中の造りがわかりにくく、あわや名作を見落としてしまうところでしたが、なんとか見つけ出しました。

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ただ、短い時間にこれだけ多くの絵画を見ると、頭の中がパンクしそうになります。途中カフェを見つけ、腹ごしらえもかねて頭と足を休めないと、とても1日もちません。歩いている途中でもう1軒カフェに立ち寄りましたが、どの店も、そこで作っている風の食べ物を出すので、楽しみがあります。日本のコンビニのようなところは一つもないですから。

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ひと休みしたあと、運河沿いの、まわりはどうということのない場所にある「スクエーロ(ゴンドラの造船所)」に足を延ばしました。それでも、驚くことに、世界中の人が来ています。古ぼけた小屋のようなところなのですが、修理などもおこなっているらしく、職人が懸命に作業に励んでいました。

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今日から、カーニバル真っ盛りのヴェネツィアに日参

2018年2月6日

10時過ぎにヴェネツィア・サンタルチア駅に到着。駅を出ると目の前は運河です。ヴェネツィアの街は車が走れないように決められており、移動の手段は歩きか船しかありません(有名なゴンドラは観光用!)。迷った末に、「72時間乗り放題」というヴァポレット(水上バス)のチケットを購入。1回7ユーロですから、6回乗れば元は取れます。

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満員で鈴なりのヴァポレットを降りたのは「リアルト橋」。地図を読み間違えたりしたので、かなりもたついてしまいましたが、「魚市場」などを見て、ようやく「サンマルコ広場」をめざすヴァポレットに乗ったのは2時をとうに過ぎていました。「サンマルコ広場」近くの観光案内所で「ヴェネツィアカード」を買い求め、それであちこちをめぐることに。

最初に行ったのは「ドゥカーレ宮殿」です。もともとはヴェネツィア総督の居城だったそうですが、中はほとんど美術館の様相。世に大作と言われる美術品がズラリと並んでいました。愛好家にとってはヨダレが出る場所でしょうね。

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IMG_1668この一帯はあまりに有名な場所なので、世界中から観光客がやって来ています。ちょうどカーニバルの時期でもあり、そちらへの期待も大きいにちがいありません。広場には最終日曜日のイベント用に大きな舞台が特設されており、どちらを見ても、中世を思わせる仮装をした人が歩き、呼びかけに答えたりしています。もちろん皆シロウトですが、なかには、並んで写真に収まりたい、ぜひ写真を撮りたいという気にさせる人も。

 

 

 

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それにしても、衣装とメイク、あと小道具など、それぞれが思い切り趣向を凝らしています。この時期のために1年かけてコツコツお金を貯めるという人もいるらしく、なかには、プロの写真家を雇って、あちこちで撮影してもらっている人も。旅行客との記念撮影に応じてくれる──というか、声をかけられるのを待っている風──人がほとんどのようですが、独特の仮面をかぶっているので、ニッコリされたとしてもまったくわかりません。むしろなんとも表現し難い怖さすら感じます。私などはそれが苦手で、ヴェネツィアのカーニバルをぜひ観たいという気になれませんでした。ただ、今日はウイークデーなので、仮装している人の数も多くないですし、その度合いも平均的と言いますか。それでも、街の中で出会えばやはり目立ちます。顔だけでなく、全身ですから当然です。これが週末になれば、どこを見ても仮装している人ばかりといった状況になるのでしょう。

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意外な名作と出会えたパドヴァ

2018年2月5日
IMG_1647今日は朝9時過ぎにテルミニを出発するITALOという会社の列車に乗ります。国鉄=TRENITALIAの向こうを張って2012年に開業した会社ですが、今回が2回目の利用。あか抜けたスタイルの真っ赤な車体はジウジアーロのデザイン。見るからに速そうな印象を与えます。しかも料金が国鉄より全般的にかなり安い! これはイタリアだけに限りませんが、チケットの値段は購入する時期に応じて変動し、売れ行きが思わしくないとバーゲンのようなこともします。

パドヴァは小さな町です。今回初めて知ったのですが、ヴェネツィアまでは電車で30分ほど。カーニバルの時期はヴェネツィアのホテルがべらぼうに高くなる(それでも予約を取るのは大変)のですが、ここパドヴァはふだんと同じなので、同じ広さの部屋に半額以下の値段で泊まれます。私も昨年9月の時点で、ヴェネツィアのまあまあのホテルを予約を入れておいたのですが、そのことを知りパドヴァのホテルにトライしてみました。

もちろん、ヴェネツィアのようにゴージャスな雰囲気はなく、歴史を感じさせる風情もありません。旧市街まで行けば、それなりに雰囲気のあるホテルもいくつかあったのですが、私たちは、パドヴァから毎日ヴェネツィアまで通うのですから、駅近のほうがよかろうということで、駅の真ん前、歩いて2分のホテルにチェックイン。

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それでも、外観は貴族のお屋敷風。それを全面的にリノベーションしたのでしょう、中はえらくモダンで、最近はやりのデザイナーズ風。バスタブもジャクージまで付いていて、すこぶるお得な感じがします。ただし、4つ星ですからきちんとしたレストランはありません。

今日はヴェネツィアには行かず、この町を見て回ることにしました。ただ、もう午後3時近いので、ホテルから歩いて10分ほどのところにある「スクロヴェーニ礼拝堂」へ。ところが、これが大ヒットでした。さほど期待していなかったから余計でしょうが、とんでもなく美しい教会だったのです。とくに内部がすごく、天井から壁からすべてジョットーのフレスコ画で覆われていました。『マリアとキリストの生涯』という38枚の連作は圧巻の一語。見学の前に入口近くの特設学習室でお勉強させられるのも納得です。

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DSC_0389次は、そこから少し南にある「サンタントニオ教会」へ。こちらはビザンチン様式というのでしょうか、8つの尖塔などイスラム教の影響がかなり濃厚に感じられる教会です。立派な回廊も印象的でした。

高校時代からのあこがれ「6ネーションズ」を観戦

2018年2月4日
「6(シックス)ネーションズ」──。ラグビーファンなら知らない人はいない6カ国対抗戦で、毎年2・3月に、イングランド、スコットランド、アイルランド、ウェールズ、フランス、イタリアが総当たりで対戦し、順位を競います。北半球の強豪国がほぼ毎週テストマッチを戦うのですから、日本のファンにしてみれば、ある意味垂涎の的と言っていいでしょう。私もラグビー部にいた高校時代から(当時はまだ、イタリアを除いた「5ネーションズ」でした)知ってはいました。でも、何せ50年近く前のことですから、観てみようなどとは考えもつきませんでした。それがなんと、今日、現実になったのです!

2007年の「ラグビーW杯(フランスとイングランドで開催)」を観にいったとき、久しぶりに「そうだ、いつかは『6ネーションズ』にも行ってみよう」という思いを抱き始めました。といっても、遠い日本からそれだけを観に行くのは、非効率というか、経済的負担が重すぎます。そもそも、試合のチケットを手に入れるのも大変なようで、「W杯」並みのプレミアがつくことも珍しくないとのこと。

そんなことで半ばあきらめていたのですが、これもまた以前から観たいと思っていたサンモリッツの「氷上競馬」と「6ネーションズ」の試合が、すぐ隣の国で1週間のうちに観られることに気がつきました。それが去年の8月。さっそくスケジュールをチェックしてみると、2月4日に「6ネーションズ」あの「イングランドvsイタリア戦」がローマで、「氷上競馬」が2月11日におこなわれることがわかりました。これなら、うまくくっつけられそうです。その間を利用して、これも長い間行きたくて行けずにいたヴェネツィアを訪れてみようと。ちょうどカーニバルの時期ですし、そちらの盛り上がりも期待でき、一石二鳥、いな三鳥なのではないかと。

かくして、去年の9月、まずは「氷上競馬」のスタンド席のチケットを予約しました。冬になると凍る湖の端に特設するのだから、そうそう枚数もなかろうという読みでした。続いて「イタリアvsイングランド戦」のチケットも押さえました。ただ、ラグビーのほうは、悪くはないものの、値段と比べると、正直「うーん」と言わざるを得ないレベルの席です。

IMG_3201午前中は、ローマでまだ行ったことのない「カブール広場」から「ポポロ広場」のあたりを歩いてみました。人気の観光スポットだけに、大変な数の人でにぎわっています。そのほとんどが、いかにもすぐ近くからやってきたといった雰囲気。「6ネーションズ」が開催されるからでしょう、イギリス人の姿が目立ちました。今週はイタリア、翌々週はアイルランド……といった感じでファンは観て回るのでしょうか。

 

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IMG_3212近くのナポリ風ピザの店で昼食を摂り、スタジアムに向かいました。ポポロ広場のすぐ北にあるフラミニオという停留所からトラムで終点まで行き、試合がおこなわれる「スタディオ・オリンピコ」までは20分ほど歩きます。場所はローマ市街でも北のほう、テヴェレ川沿いにあるモンテ・リオの丘のふもと。サッカーのASローマとSSラツィオのホームグラウンドでもあります。この一帯は「フォロ・イタリコ(Foro Italico)」と呼ばれるスポーツ・コンプレックス=スポーツ施設が集中するエリアで、イタリア・オリンピック委員会(CONI)の本部も見えました。

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不思議に思ったのは、正面広場に「MVSSOLINI」という文字が彫られたオベリスクがあったり、「DVCE(=ドゥーチェ、ムッソリーニの愛称)」の文字が埋め込まれたモザイクが残っていること。もともとここはムッソリーニが作らせた複合スポーツ施設で、当時は「フォロ・ムッソリーニ(Foro Mussolini)」と呼ばれていたそうです。

いまさら言うまでもなく、ムッソリーニは第2次世界大戦を引き起こしたドイツのヒトラーと手を組んでいた独裁政治家。ドイツのナチス、イタリアのファシストといえば、世界を破壊に導いた張本人として、ドイツでは徹底的に排斥されています。「ヒトラー」の名前を口にするのももちろんが、右手を上に掲げる姿勢すら問題視されるほど、それは徹底しているとも。しかし、ここイタリアではそれほどでもないのでしょうか。たしかに、ユダヤ人虐殺を命じたヒトラーに比べれば、ムッソリーニのほうが“悪のレベル”は数段低いかもしれませんが……。

「スタディオ・オリンピコ」のすぐ隣にサブグラウンドがあり、その外周にはスポーツ選手の大理石像が80体ほどでしょうか、均等な間隔で立っています。どれをとっても古代ローマ時代を思わせる感じの姿格好をしており、それだけで圧倒されてしまいました。

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メインスタジアムにはキックオフの1時間以上前に入りましたが、客の姿はほとんど見当たりません。しかし、時間が経つとともにどんどん増えてきて、最後は7万数千人収容のスタンドの8割以上が埋まっていました。半分以上はイングランドからやってきたファンのように見えました。試合中、歓声が沸くのは、イングランドが攻め入ったとき、トライを決めたときがほとんどで、イタリアのファンはあまり目立たないのです。

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キックオフが4時と早い時間だったので試合が終わっても、帰りを急ぐ必要はありません。それでも、トラムの停留所まで歩いて30分以上はかかりましたし、そこで到着を待つこと30分以上。本当なら運賃を払わなければならないはずなのに、なぜかタダ。そもそも運賃を払う人など一人もいません。当局も最初からあきらめているのか、それともこの日のこの時間帯に限っては無料にしているのか、よくわからないのですが、私たちもそれにならいました。

以前、オーストラリアのシドニーでスーパーラグビーの試合を観戦したときも、スタジアムから市内中心部に戻るバスはタダでした。そういえば、昨年8月、ロンドンでの世界陸上も、行きはお金を支払いましたが、帰りは無料。こうした大きなスポーツイベントについては、最初から帰りの運賃は取らないという取り決めでもあるのかもしれません。日本も見習ってほしいなぁと思うのですが、どうなのでしょう。

ポポロ広場まで戻った頃には7時半をまわっており、夕食を済ませてからホテルに戻ることにしました。といって、どこかアテがあるわけでもありません。前日の夜行こうかなと思っていた日本料理店のことを思い出し、行ってみることに。ローマでは老舗だとかで、オーナーも厨房も日本人という触れ込みです。しかし、実際に食べてみると「ホント?」と思いたくなるような味で、残念至極。

ローマは今日でおしまい。明日はヴェネツィア近くの町パドヴァまで移動です。

ヴァチカンは人、人、人……

2018年2月3日
今回の日本出発予定は2月2日。ところが、1月31日の天気予報で「明日の関東地方は雪」とあったので、万一のことがあっては……と思い、成田で前泊することにしました。予報どおり、2月1日の夜遅くから雪が降り出し、翌朝ホテルの窓から外を見ると10cm近くの積雪が。前泊にして正解でした。

出発便は一様に遅れ気味で、私たちの乗るスイス航空チューリヒ行きも1時間ほど遅れて離陸。乗り継ぎのチューリヒ→ローマ便も1時間遅れ(理由は不明)、結局ローマのホテルにチェックインしたのは、夜9時を回っていました。

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予約していたのは、バスタブ付き・バルコニー付き・スリッパ付き(日本では当たり前ですが、欧米ではまず付いていません)のはずなのに、実際は一切なしでガックリ。疲れ切っていたので、せめてゆっくりお湯にでもつかってと思っていたのに……。タバコを吸うためのバルコニーはまだ我慢できますし、スリッパ代わりのビーチサンダルも毎度持参しているので、そちらはなんとかなるのですが、3泊の間に一度も湯船につかれないというのは耐えられそうにありません。

そこで朝食のあと、予約したのと同じ部屋に変更してくれるようにrリクエストすると、すぐOKしてくれたではありませんか! 「かしこまりました。では、無料で換えさせていただきます。荷物だけまとめておいてくださればけっこうですので」とのこと。「なん~だ、だったら最初から」とも思いましたが、チェックインしたときはくたびれていたので、夕食を食べに出るのが精一杯で。

「正午過ぎには新しい部屋にすべて移動しておきます。戻られたらフロントで新しいキーお渡ししますから」と。幸い、昨夜は荷ほどきもそこそこだったので、すぐに荷物をまとめ、出かけました。夕方ホテルに戻り、新しい部屋に移ると、なんとなんと最初とは段違い。バルコニーはもちろん、バスタブもスリッパもOK。

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荷ほどきが終わったころ、部屋のドアがノックされるので、出ると白い服を着た料理スタッフがお盆を持って立っています。「当ホテルからのプレゼントをお届けにまいりました」と、スイーツの盛り合わせを置いていきました。やはり、主張すべきは主張せよ、ということでしょう。

IMG_3154さて、今日のメインイベントは「ヴァチカン美術館」と「システィナ礼拝堂」の見学。そのためもあって、すぐ近くにホテルを取ったのですから。2001年、初めてローマを訪れたときは、ヴァチカンの「サン・ピエトロ大聖堂」にしか入った記憶がありません。そこで今回は、事前に見学の予約を入れ支払いも済ませた上で、10時過ぎには「美術館」の入口に。オフシーズンとはいえ土曜日ですから、大変な数の人が並んでいます。チケット売り場は長蛇の列で、予約しておいてよかったと思いつつ、荷物チェックを済ませ中に入りました。

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それにしても、開館してまだ2時間足らずだというのに、すごい混雑です。有名な作品が展示されている部屋、その前の廊下は身動きもままなりません。予約手続きの画面で「希望の時刻」にチェックを入れさせるのはいったいなんのためなのか、どうにも理解不能です。

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まあ、それでも、素晴らしい作品の数々に感動させられたのは間違いありません。あまりに膨大な数の入場者に、観るのをあきらめた展示品もありますが、それは「次に来たときに」ということで。

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