桜と富士を堪能した研修旅行

2018年3月25日
予想以上に早く桜が咲き、今日あたりは関東地方から西はどこも皆、満開かその寸前といった感じのようです。朝から素晴らしい天気で、絶好の花見日和ですが、今日の私はまる1日かけての研修。西伊豆は沼津市戸田【へだ】の「造船郷土資料博物館」と韮山(伊豆の国市)の「江川邸(江川家住宅邸)」を訪問・見学するバスツアーです。主催は私も役員を務めているNPO法人「日ロ創幸会」。

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前者は、幕末その地で日本初の洋式帆船が造られたことにちなんだもの。1854年、日本との国交樹立交渉のため伊豆半島南端の下田港に停泊していたロシアの帆船「ディアナ号」(艦長はプチャーチン)が、折からこの地を襲った安政の大地震で船底と舵を破損してしまいました。戸田の港で船を修理することになり、伊豆半島西の沖合を航行中、こんどは嵐に遭い、富士川河口近くまで流されます。戸田の漁民たちが多くの小舟を出し、ディアナ号を戸田まで曳航する一方で、500人ほどの乗組員は、現在の富士市から陸路で戸田まで移動。しかし、またもや強風に襲われ、最後は駿河湾のもくずと消えてしまいました。

そこで、プチャーチン一行がロシアに帰国するための船を新たに造ることになったのですが、当時の日本に、洋式の帆船を造る技術などありません。船造りを仰せつかった韮山代官の江川太郎左衛門英龍は、近在の船大工を総動員、ディアナ号からかろうじて運び出されていた船の設計図をもとに、ロシア人技術者と協力しながら、わずか3カ月で排水量100トンという本格的な帆船をみごとに造り上げました。

プチャーチンはその船に「ヘダ号」と命名、それに乗ってロシア人の一行は無事帰国したのですが、同じタイプの帆船をその年さらに6隻造り、江戸幕府に納めたそうです。このとき建造にたずさわった船大工たちがその後、江戸や長崎など全国各地で指導にあたったといいます。いうならば、戸田は近代造船技術始まりの地というわけですが、そうした経緯をボランティアのガイドさんから学ばせていただきました。

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今日は、朝、東京を出て東名高速を走っているときから、窓の外には次から次へ満開の桜が見えましたが、途中からそれに富士山の姿が加わりました。ちょうど3月21日に全国を寒波が襲った際、富士山の頂上付近にも雪が降り真っ白になったこともあって、どこを走っていても目立つのです。桜と富士の“そろい踏み”ですから、日本人の血が騒がないわけがありません。バスの中ではずっとハイテンションで、戸田をあとにしてからはさらにヒートアップ。誰もが、日本人が前人未到の帆船造りにチャレンジし成功したのを、同じ日本人として誇らしく思えたからでしょう。

次の目的地・韮山の「江川邸」も、庭の桜が満開。築後800年を超えるという江川家の36代当主が、戸田で造船の指揮にあたった江川太郎左衛門英龍です。鎌倉時代に日蓮みずからが書したという曼荼羅が収められた棟札箱が、屋根裏に安置されていました。ボランティアガイドさんの説明によると、その棟札があったおかげで、この屋敷は今日まで一度も火災に遭わず、地震で倒壊することもなかったとのこと。この話は江戸時代すでに広く知られていたそうです。

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それにしても、伊豆半島というのは、どこにいても富士山がよく見えます。この日はとにかく好天で、最後の最後まで富士の姿を観ながらの研修ツアーになりました。参加者の心がけがよほどよかったのでしょうね。もちろん、私もその一人ですよ、エヘン!

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