2018年4月27日
朝、メキシコシティーからインタージェット便でハバナに向けて飛び立ちました。4時間
足らずでハバナ着。モダンなメキシコシティーの空港とは大違いで、さながら日本の
地方空港(それもふた昔ほど前)の趣です。
キューバの首都ハバナは、町中どこに行ってもアメ車だらけとよく言われます。それも、1950年代の車です。映画やテレビで何回か観たことはあるものの、空港ビルから一歩外に出て、実際にそれが目の前に停まっていたり走っていたりするのを見るとやはりびっくり。「キャデラック」とか「ダッジ」「ビュイック」「シボレー」あたりなら名前くらいは知っていますが、「プリムス」とか「マーキュリー」「サターン」となると、ほとんど小 林旭の『自動車唱歌』の世界です。いまの時代、世界中のどこを探しても、こんな車が走 っているところはないでしょう。現在世界を席捲しているドイツ車も、日本車の姿もまったく見かけません。
もちろん、これにはしかるべき理由があります。1959年の「キューバ革命」で、アメリ カとは国交断絶。それと同時に経済封鎖が始まったため、アメリカからの車の輸入は完全にストップしれしまいます。それに代わって、60年代以降は旧ソ連製のラーダという車が入ってきました。経済制裁自体はいまでも続いているのですが、いまやソ連も存在しないので、いったいどこから車を輸入するのかということになります。でも、なぜかドイツや日本の出る幕はなし。キューバの車事情がとてつもなくユニークなのは、そうした背景があるのですね。ちなみに、いまキューバを走っているのは、先に名前をあげた1950年代のアメリカ車、旧ソ連車、そして韓国と中国の車だけです。
というわけで、私たちが旅行会社にお願いしておいた空港・ホテル間の送迎もアメ車、それも真っ赤なオープンカーでした。スーツケースをトランクに入れて乗ろうとしたのですが、外側からはドアが開かないようで、ドライバーが内側に手を伸ばし開けてくれます。2ドアですから、前のシートを倒し、わずかな隙間から後部座席に移動。もちろん、シートベルトなど、ありません。
運転席前のインパネもオールドスタイル。コラムシフトのレバーも皮や塗装が剥げ落
ち、大丈夫なの? と、少し不安になります。でも、これが立派に走るのです! 排ガス
規制などない時代の車ですから、排煙をがんがん出します。エンジン音もかなりの大
きさで、「こういう時代もあったんだ~」という感心と驚きが。市内に向かう高速道路も
ガラガラです。車それ自体の数が少ないのですね。
前を走る車、横から追い越していく車、すれ違う車も、半分近くは私たちと同類のアメ 車。途中で立ち寄った自然公園内の休憩所にも、何台か並んでいました。道路事情が悪いためパンクもしょっちゅうのようで、そのときも1台、修理の真っ最中。でも、そういう車に乗ることで得られる興奮を思えばご愛嬌というか、許されてしまいそうです。
休憩所をあとにし「革命広場」に。北京の「天安門広場」とどちらが広いかはわかりませんが、5月1日のメーデー式典の予行演習がおこなわれていました。といっても、緊張感のゆるさは否めません。ここはラテンもラテン、キューバですからね。
周囲には国の建物が立ち並んでいますが、情報通信省の壁面にはファイデル・カストロらとともに戦ったカミーロ・シンフエゴスの肖像が描かれています。シンフエゴスは革命直後、飛行機事故で亡くなったとのこと。肖像の右下に、“Vas bien, Fidel(=いい
だろ、フィデル)”という言葉があるのを見ると、その気さくな性格がうかがえ、カストロ
とも仲よしだったことがわかります。
もう一つ、内務省のビルにはゲバラの肖像が。こちらの右下には、“Hasta la victoria
siempre(=常に勝利に向かって)”とありました。ゲバラはいつどんな状況にあっても
死を恐れず、革命に向かって前進しなくてはいけないという考え方をしていましたが、
その心情がよく示されているのでないでしょうか。空港からここまでくる途中、あちこち
でゲバラの肖像を目にしましたが、ここで見たゲバラはなんともユニークな印象を受
けます。
そこから10分ほどで宿泊先のホテル・サラトガに到着。由緒あるホテルのようで、チェックインで応対してくれた女性スタッフもしっかりした印象です。キューバは、インターネットがまだ普及して間もないので、wi-fiが確実に使えるかが気がかりでしたが、それも大丈夫そうで、とりあえず安心しました。
夕食は、ガイドさんに教えてもらった近くのレストランで。あまりの量に圧倒され、半分以上は残したでしょうか。もったいないからと一部をテイクアウトしましたが、こんな量の食事を毎日しているとしたら、驚きです。