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ディキシーランド・ジャズを見直す

ジャズの好きな人ならだれでも、一度は通り過ぎているはずのディキシーランド。さほどジャズと縁がなくても、『ベイズン・ストリート・ブルース』とか『聖者の行進』といえば、「ああ、あれか」とうなずく人は多いでしょう。行進曲風のリズムとメロディーラインが初期のディキシーランドの特徴なので、親しみやすさという点では、ジャズの中でもいちばんではないかという気がします。

ただ、それだけに単調で……と、私自身も思っていたので、昨日の「浅草ニューオーリンズ・ジャズ」のコンサートは、目からうろこが落ちるといった感じで聴きました。これまでそっぽを向いていたのは申し訳なかったなとすら思ったしだいです。

Rimg0007 ディキシーランド・ジャズが生まれたのはアメリカ南部ルイジアナ州ニューオーリンズ。20世紀の初めごろに発達し、それが1910年代、シカゴやニューヨークに広まっていったことで、今日のジャズが生まれました。ピアノ、バンジョー、ドラムス、コントラバスなどのリズム・セクションにトランペット、トロンボーン、クラリネットといった編成が基本です。

スゥインギーで陽気、という点ではジャズのなかでも最右翼でしょうから、聴いてい
てこれほど楽しい音楽はありません。とくにアップテンポの曲は、始まるとすぐ、体が揺れてきます。バラードも、ディキシーランド風にアレンジされると、明るく楽しい曲になってしまいます。ディキシーランド・ジャズもバカにしたものではないなと、再認識させられました。

ああ、しんど! 酷暑の広島で5日間の取材

今年の猛暑は常軌を逸していますが、8月16日から取材で訪れている広島の暑さも大変なものがありました。とにかく、日射しの強さといったらありません。サングラスなしではまぶしすぎてたまらないといった感じでしたから、往生しました。それでも毎日、市内のあちこちを歩きまわり、一昨日は、宇品にある広島港から江田島、さらに呉市へと足を伸ばしてきました。

L1050150 江田島はご存じのように、かつて海軍兵学校(将校を養成する教育機関)があったところです。その昔、私がまだ小学生だったころ、母親が「江田島の海軍兵学校は、全国から優秀な生徒が集まってきて、女学校に通う女の子のあこがれの的だったのよ」と、よく口にしていたことを思い出しました。実際、その敷地に入ると、なかには素晴らしいレンガ造りの校舎や講堂が当時のまま残されていて、いかにもといった印象を受けました。思わず絵葉書を買い、母親に送ってやったほどです。

海軍の将校というのは、世界的に共通することのようですが、頭脳明晰なだけでなく、マナーや社交術といった面でもきちんとした教育を授けていたようで、だれもが国際人として通用する力を備えていたといいます。太平洋戦争のさなかにあっても、ここだけは英語の教育が続けられていたことからも、それは理解できるでしょう。江田島も、校舎はイギリス人の設計によるものだそうですし、教育参考館はギリシャの神殿風、講堂の外壁には花崗岩を使うなど、とにかくお洒落な感じなのです。

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もちろん、お洒落なところで教育を受けたからといって即お洒落な人間に育つわけではありません。でも、教育というものの一指針を示しているような気はします。

L1050175 江田島からフェリーで20数分のところにある呉は、かの名画『仁義なき戦い』の冒頭のシーンが強く印象に残る、かつての海軍の街。同時に、戦艦大和など数々の軍用艦を建造した軍事産業のメッカでもありました。戦後、ここにもあったヤミ市が、昭和40年代初めまで続いた、ヤクザどうしの激しい抗争の出発点だったと思うと、不思議な感じがします。

映画で何度となく目にしているせいか、中通りの繁華街、また、それにつながる路地にあるスナックなどの飲食店を見ても、初めて訪れた場所とは思えません。深作欣二監督がこの映画で徹底的にリアリズムを追求したのが実感したしだいです。

早くも、次回のスイス行きを計画!?

2日前、氷河特急に乗ってやってきたサンモリッツのホテルをバスで出発、近くの登山電車で展望台まで登りました。今日は、今回の最終宿泊地であるルツェルンをめざします。

ルツェルン市内を観光後、湖畔に建つアールデコホテル・モンタナにチェックインしました。ミシュランで★印をもらっている、小さいながらも高級感あふれるホテルということで、部屋もえらくおしゃれな造りです。ツアー最終日の夕食、ホテルのレストランとはいえ個室で食べたのですが、従業員の接客レベルの高いのには感心しました。そういえば、客層もセレブ風というか、古きヨーロッパの香りをただよわせていました。部屋からルツェルン湖が見られなかったのはなんとも残念なかぎりです。次回泊まるときはぜひ、湖側の部屋にしたいですね。

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その「次回」ですが、私の頭の中では、いつにするか、もう決まっています。ローザンヌの近くにチャップリン博物館がオープンする2012年で、そのときは、今回ゆっくり滞在できなかったルツェルンとチューリヒ、あと、バーゼルなども加えてスケジュールを組みたいと考えています。

マッターホルンに大感動!

今朝早く、待望の、朝焼けに燃えるマッターホルンを目にすることができました。前日、頂上のすぐ手前にある展望台まで行き、間近で見たマッターホルンも、もちろん素晴らしいものでした。空はどこまでも青く、空気はかぎりなく澄みわたり、四方はすべて3000~4000メートル級の山ばかり。7月23日は悪天候のために見損ねたユングフラウまでくっきり見えたほどですから、いかに天気がよかったかということです。ただ、展望台の気温は零下5度、しかも大変な強風で、とても7月の暑い盛りとは思えませんでしたが。

さて、早朝のマッターホルンは、日中のそれとはまったく別の表情を見せます。朝日が昇り始め、徐々に高くなるにつれ表情を変えていく様子はあまりに荘厳というか、心から感動しました。マッターホルンに登る人のほとんどは、ふもとにあるツェルマットに泊まるのですが、私たちが泊まったのは、そこから登山電車で登っていったところにある山岳ホテルで、真ん前にマッターホルンがそびえ立っていました。そこに泊まったかいがあったというものです。

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さて、朝食を済ませると、ツェルマットの駅まで下ります。今日はそこから「氷河特急」です(どうやら復旧し、運転も再開されたとのこと)。5日前に大変な事故が起こったばかりですから、いくぶん緊張はしましたが、いざ走り始めると、窓外の美しい景色に目を奪われっぱなし。南部のサンモリッツまで、全行程8時間余という長い列車旅に、ツアー参加者全員、期待で胸がいっぱいという感じです。申し訳ないことですが、事故のことなど、正直、すっかり忘れていました。

途中、私たちの車両に、朝日新聞パリ支局の記者と東京からやってきたカメラマンが乗り込んできました。事故のわずか3日後に運転を再開したことに、日本国内ではけっこう批判的な声があがっていたようで、それに対する感想やら、なぜスイスに来たのかなど、いろいろ聞きたいというのです。しかも、それが7月29日の夕刊に写真入りで掲載されたようで、日本から届いた友人・知人の電話やメールでそのことを知りました。これには驚き、さっそく会社からその記事のコピーをホテル宛、ファックスしてもらいました。

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参照<朝日新聞.com>

氷河特急で脱線転覆事故が……

昨日の昼ごろ(日本時間では夜)、氷河特急で脱線転覆事故があり、日本人観光客1人が亡くなり2人が重傷を負ったというニュースを、前夜遅くにかかってきた日本からの電話で知りました。たまたま、私たちの泊まっていたホテルが、テレビどころか、ラジオも新聞もインターネットもない山岳ホテルだったためですが、今朝聞いてみると、添乗員の方も知りませんでした。私たちが氷河特急に乗るのは4日後の28日ですが、それまでに復旧・運転再開になるものなのか、なんとも気がかりです。

長年恋い焦がれていたスイスに出発!

無類の旅行好きである私にとって、スイスは、かれこれ50年近くあこがれを抱き続けてきた国です。中学生のころ、私は新聞記者、それも海外特派員になりたいと思っていました。当時、朝日新聞に、本多勝一の、海外取材をもとにしたコラムが連載されており、自分もいつかこんなことを書いてみたいなと思ったのがきっかけでした。また、NHKテレビの「海外特派員報告」という番組も欠かさず観ていた記憶があります。

この当時、私の〝行きたい国〟リストに挙がっていたのはスイス、ベネルクス3国、北欧4カ国、そしてトルコでした。それとは別に、カリブ海の島々にも強く関心を持ちました。なぜか、「○○領××」と呼ばれる地域には、ぜひ行ってみたいと。そのスイスにとうとう行くことになったのですから、興奮もひとしおです。

今回は久しぶりにツアーで行くことにしました。スイスの楽しみ方にはいろいろなバリエーションが考えられますが、ここ数年興味があったのは、列車に乗ってあちこち移動し、自然に触れ、また都市も訪れるということでした。本当なら3週間くらいかかるのでしょうが、そういうわけにも行きません。それと、列車の手配がややこしそうで、これはもう業者にまかせたほうが賢明と判断しました。そこで、人気の特急列車に乗りながらスイスの山々も楽しむ内容のツアーを選んだのです。

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アイガー、ユングフラウ、モンブラン、モンテローザ、マッターホルンなど、名だたる山々の頂上に目いっぱい近づけるなど、考えただけで身震いします。そこへ行くのに、氷河特急やらゴールデンパス特急に乗れるのですから、一石二鳥ともいえます。さて、どうなりますやら……。

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あじさい満開のお寺で心を癒す

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歌舞伎を観に行ったついでに、温泉(松本市内にある!)と花で体と心を存分に癒すことができました。松本市の中心部からクルマで30分足らず、塩尻市との境近くに、別名を「信濃あじさい寺」という弘長寺があります。山裾にある本堂の裏側に所狭しと植えられ、どれも皆満開のあじさいはおよそ1000株。

この寺のアジサイは、1980年ごろから檀家の有志が植え始めたとのことで、年々数も増えてきているそうです。とにかく、その種類の多さには驚くばかりで、訪れた人が長い期間楽しめるようにと、開花時期の異なるものが約80種類そろっています。

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江戸時代から日本のアジサイは世界的にも美しいと評判だったようで、18世紀後半からヨーロッパに伝えられ、品種改良されてから西洋アジサイとして日本に里帰りしたものも少なくありません。日本のアジサイはどちらかというと、野趣あふれる味わいがあるように思えます。色も紫だけでなく、赤あり、白あり、ピンクありと多彩ですし、名前も淡雪、紅冠雪、楊貴妃、横浪の月、雷電など、これまた多様で、大いに楽しませてもらいました。鎌倉のあじさいも有名ですが、ここらまでやってくると、人もそれほど多くないので、ゆっくり鑑賞することができます。

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弘長寺は真言宗智山派の古刹で、開基は弘長3(1263)年といいますから、750年ほどの歴史があります。それにしても、寺号に年号が用いられるというのは珍しいことです。いまでこそそれほどでもありませんが、できた当初はかなり大きな、また権威のある寺だったのでしょう。

信州松本で歌舞伎見物──街ぐるみで盛り上がる

「勝手に、街魅しゅらん」1◆松本市(長野県)

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松本市のまつもと市民芸術館で7月上旬に「平成中村座」の公演があると知ったのは6月半ば。桟敷席の一部が追加で売り出されるという記事を見かけたのです。さっそくチケットぴあにアクセスし、首尾よく2枚をゲットできました。6月の東京公演のチケットが早々と売り切れてしまったのでやむを得ず、というより喜んで遠征することにした次第です(ついでに、松本近辺の温泉でも楽しめたらしめたもの……)。

地方都市での公演ですから、東京でのそれとはかなり様相が違うようです。『信州・まつもと大歌舞伎』の場合、公演そのものは市や商工会議所などから成る実行委員会が主催、それに関連する事業を企画・運営する市民活動委員会の二つが協力しながら進める方式で、切符もぎりや場内の座席案内など、すべて市民ボランティアがおこなう仕組みだそうです。

私自身もかつて、「劇団ふるさときゃらばん」による公演に、勧進元(主催者)である「大ナゴヤ人元気会」のスタッフの一人として何度もたずさわったことがあるので、そのあたりはよく理解できます。私の場合は、劇団の元主演女優が高校の同窓同期生だからという理由だけで関わったのですが、演目が、名にし負う中村勘三郎の、それも伝統歌舞伎ではない作品(『佐倉義民伝』)ですから、ハンパなものではないでしょう。歌舞伎が好きで、勘三郎が好きで……といったモチベーションがしっかりしていなければ引き受けられないはずです。

市内では、公演期間に合わせて、会場のまつもと市民芸術館をはじめ、市の博物館、美術館、あと松本城で、この地域における義民の歴史、歌舞伎の見どころを手ほどきする、「学び」に重点を置いたイベントがいくつか展開されていました。このあたり、勉強好きの人が多い信州らしい企画といえます。しかも、すべて入場無料とのことで、行政、地元企業・商店、市民が一体となって取り組んでいるのがよくわかります。

この種のイベントを「お祭り」の一種としてとらえれば、「お祭り」なるものが人々の創造意欲をいかにかきたてるか、理解できそうです。ゼロから何かを作り上げることの喜びを共有する楽しさとでもいうのでしょうか。でも、それは、広い意味での文化に対する関心が一定レベル以上に達しているから可能なことで、毎日の生活に汲々としているだけでは、こうしたことは実感できそうにありません。それからすると、この街のレベルはかなり高いことが感じられます。クラシック音楽の一大イベント「サイトウ・キネン・フェスティバル」が毎年開催されているのも納得です(今年は8月10日~9月9日)。

今回の歌舞伎公演は7月2日から8日までの1週間、11回。その間、手ぬぐいやうちわなどの公式グッズや、酒や伝統工芸品といった松本市の特産品を販売する「村祭りの縁日」が会場の前にある大きなロビーで開かれ、チケットがない人も立ち寄れるなどというのもおもしろい試みだなと感じました。聞けば、2年前、松本で初めて「平成中村座」の公演がおこなわれたときにも同じことをしたそうです。

私たちが行ったのは楽日の7月8日(昼の部)でした。今回はクルマで出かけたのですが、市民芸術館には駐車場がないので、その斜め向かいにある美術館にとめさせてもらいました。ちなみに、美術館に敷設されているビストロのランチも、おいしかったですよ。

会場の市民芸術館は「サイトウ・キネン・フェスティバル」のメインコンサートがおこなわれる場所で、非常にユニークな設計の建物です。ホールの前方、舞台のすぐ前にしつらえられた桟敷席というのは、座イスにすわって観るスタイルで、これは初体験でした。

串田和美による演出も、集団ラップの場面があったりエレキギターの生演奏による効果音があったりと、とても斬新で、観る者を飽きさせません。公募で選ばれた市民キャスト約50人が農民の役で出演するという工夫もあります。

11回の公演で1万4千人ほどの観客が訪れたそうですが、なんとも心地よい時間を過ごすことができました。それは、上高地に近いという恵まれた自然条件だけではありません。文化を何より大切にする松本の人たちの心の余裕によるものでしょう。いまさらながら、松本の素晴らしさ、魅力を実感し、帰路につきました。

スポーツも政治も、日本のマスメディアは未熟

なんとまあ、時間の経つのは早いことか! 昨日で今年も半分終わってしまいました。今年前半の大ニュース、いろいろあるでしょうが、私個人にとっては、これまでになく多くの映画を楽しめた(今年前半で40本弱)のが最大の〝事件〟です。

映画についてはいずれ、このブログでも発信しようと思っていますが、いまはひと言だけ。映画(演劇やコンサート、小説などもそうなのでしょうが)というのは、やはり人それぞれ、評価が大きく異なるものなのです。だれかが「めっちゃ面白い!」といくら興奮していても、自分にとってはそうでもない、どころか「どこがいいわけ?」といいたくなるようなものもあるということです。そして、その「だれか」には、マスメディアや有名な評論家も含まれます。

それに比べると、社会的なできごとについては、自分と距離が離れている分、マスメディアやそこに出てコメントを発する人にいとも簡単に影響されてしまうのではないでしょうか。鳩山総理が辞めて菅直人政権が誕生したとたん内閣支持率が急上昇したり、一時は「やめろ!」とまでいわれたサッカー日本代表の岡田武史監督に対する評価が、決勝トーナメント進出を決めたとたん「日本一」に一変わしてしまったり。「権威あるものに従う」「まわりの意見に合わせようとする」日本人の国民性のようなものは、昔もいまも変わらないようです。

L1040730 それでもなおかつ、ワールドカップでの日本代表の戦いぶりは、これまでで最高だったように思います。私がいちばん感動したのは「サッカーは団体スポーツであることを示したい」という、岡田監督の言葉でした。サッカーにかぎらず、野球もバスケットボールもラグビーも、団体競技のはずなのに、日本のマスコミはすぐ「ヒーロー」「スター選手」を仕立て上げ、ことさらに持ち上げようとします。それが本人のためになるかどうかはどうでもいいのですが、一緒にプレーしているほかの選手にどんな影響を与えるかまでは考えていないような気がしていました。

これは「個」のレベルについてだけではありません。団体競技にはかならず戦う相手がいるのに、勝ったチームにだけ異常に肩入れするのも同じことです。セ・リーグの巨人や学生ラグビーの早稲田がいい例です。盟主とか伝統とかいったことも大事なのかもしれませんし、負けたチームの努力が足らなかったという見方も間違ってはいないでしょう。でも、負けた相手チームがあっての勝ちチームであって、巨人がいなければプロ野球は成り立たないだの、早稲田あっての学生ラグビーだなどという考え方は本末転倒ではないかと思うのです。

最悪なのは、そうした報道のされ方が長年続くと、知らぬ間に偏った「刷り込み」がなされてしまうということです。コアなファンの間ではそうしたことは起こりにくいでしょうが、「コア」はあくまで少数派でしかありません。3分の2、ときには4分の3もの人が、マスメディアが持ち上げる個人やチーム(団体や組織)を無批判に肩入れしてしまっては、スポーツも、また政治も健全な発展はしないことでしょう。

また、フェアにものを見るという態度も失われてしまいます。(プロ)スポーツに対する人々の立ち位置、政治との関わり方が、世界的に見ていまだに一流の域に到達できずにいるのは、それについての情報を人々に伝えるマスメディアの手法があまりに未成熟であるからのように思えてなりません。

琉球紅型でつくってもらった表札

サッカーのワールドカップで日本代表が決勝トーナメントに駒を進めた興奮がまださめやらぬ昨日、那覇の新都心・おもろまちにある県立美術館・博物館に行きました。今年4月、ひょんなことからその存在を知った虹亀商店(http://nijigame.ti-da.net/)の亀谷明日香(写真中央)さんに製作をお願いしていた「紅型(びんがた)の表札」が完成、それを受け取るためです。L1040704

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受け取り場所をそこにしたのは、この日、「沖縄慰霊の日」にちなむ行事の一つとしておこなわれている「沖縄平和詩歌祭」に、彼女の造った「紅型灯籠」が展示されていたからです。これは、俳句や短歌、詩を一つひとつに、異なる絵柄(文字は同じ書体)の紅型をほどこし、木枠で囲った裏側から電球を点灯するというものです。造形的なコンセプトとしてはそれと似通っているのですが、なんとも味わい深い紅型の絵柄と色づかいによるユニークな表札ができ上がり、感動しました。

65年前、本当の戦争があった場所で

6月23日、ここ沖縄では「祝祭日」の扱いで、役所や学校は休みです。といっても、この日には「祝」の要素もなければ「祭」の要素もありません。太平洋戦争で、日本国内唯一の地上戦がおこなわれた沖縄。その最終決着がついたのがこの日で、沖縄における戦闘で亡くなった、24万人もの戦没者の霊を慰める日なのです。「戦没者」といっても兵士だけでなく、その多くは民間人であったことが、沖縄の大きな特徴です。

L1040699_2 この日を中心として、沖縄県内ではさまざまな行事がおこなわれ、人々が「戦争」に思いをはせる時期になっています。早朝から深夜まで、「戦争は絶対許さない!」という言葉をひんぱんに見聞きします。年に1回といってしまえばそれまでですが、多くの人が「戦争」について深く、真剣に考えさせられるチャンスがあるのは、ほかの都府県では見られない現象といえます。それでも、「戦争体験が風化しつつある。このままでは後世に伝わらない」と危機感を抱く人も少なくないようです。

22日に沖縄入りした私と家人は昨日、菅直人新総理も列席・挨拶をしたという式典が終わったころを見計らって、本当南部の糸満市摩文仁(まぶに)にある平和祈念公園に出かけました。着いたころから雨が降り始めたのですが、この日は早朝から戦没者の遺族をはじめ、多くの人が訪れていたようで、雨を気にするふうはありません。アメリカ軍の砲弾や銃弾、火炎などを雨あられと浴びせられたことに比べればどうということない、との思いでしょう。

L1040695地元沖縄の戦没者は市町村別、それ以外の人は道府県別に、「平和の礎(いしじ)」にその名が刻まれ、どの礎の前にも多くの花束が手向けられていました。もちろん、戦前は日本の植民地だった朝鮮や台湾、樺太、さらにはアメリカ兵のものもあり、こちらの前にも小さな花輪や国旗が置いてあります。すでに65年も前のこととはいえ、実際に戦争がおこなわれた場所で、その当時の悲惨きわまりない状況を想像するのは、遠く離れた場所にいるのとでは、格段の差があることを痛感したしだい。こんなところでも、「アナログ主義」は、人間に深い影響を与えるのです。

天才アラーキーよりもっと天才、その名は荒木一郎

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自他ともに天才と認めるアラーキーこと荒木経惟は写真家です。たしかに、アラーキーの写真は、独特のエロティシズムがあますところなく表現され、間違いなく楽しめます。でも、分野は違うものの、天才度にかけては、アラーキーの上を行くのではないかと思われるのが、苗字は同じ「荒木」なのですが、日本のシンガーソングライターの元祖といわれる荒木一郎です。

若い人にはあまりなじみがないかもしれませんが、私くらいの年齢の者にとって、とりあえずミュージシャンとして、その存在感は圧倒的なものがあるのではないでしょうか。ちょうど私が高校に入ったばかりのころ、ラジオから流れてくる彼の曲を聴いて身震いした人は少なくないはずです。

その荒木一郎が6月13~15日、大胆不敵というか、なんと3日間連続のライブをおこないました。これほど大規模なライブは8年ぶりだそうです。ライブで3日間連続というのは珍しくないでしょうが、日によって内容がすべて違うというところにユニークさがあります。1日目は、10代のころ、まだ歌手になるとかいう話などない時期につくって歌った曲、2日目は歌手として全盛をきわめた20代のころの曲、そして最終日は、それより後、どちらかといえばほかの歌手や俳優のためにつくった曲で構成されていました。

L1040679 会場は、東京・世田谷区の北沢タウンホールという、地味なところです。下北沢の駅から徒歩3分ほどのところにあるのですが、基本は区役所の分庁舎。その2階に400人弱収容のホールがありました。客のほとんどは50代以上でしたが、関西や名古屋あたりから、このライブのためにわざわざ上京してきた人も少なからずいたようで、荒木一郎への支持の根強さが感じられます。もちろん、3日間とも満席。私も毎日通いましたが、なんとも素晴らしい内容でした。

ミリオンセラーになった「空に星があるように」「今夜は踊ろう」「いとしのマックス」「君に捧げるほろ苦いブルース」の4曲は毎日聴かせてくれました。しかし、ほかにも「梅の実」「海」「あなたといるだけで」「傷だらけの栄光」「あなたのいない夜」「ジャスミンの花は咲いてますか」「夜明けのマイウェイ」など、次から次とヒット曲を歌ってくれました。よく知られている作品の中で歌わなかったのは「ジャニスを聴きながら」くらいでしょう。MCもさえさえで、それだけ聞いていても飽きないところなど、たいしたものです。

若いころは気づきませんでしたが、今回思ったのは、その後シンガーソングライターとして名を成していったミュージシャンにも荒木一郎は多大な影響を与えたのではないかということです。たとえば、ひとつの曲の中で何度も転調する手法など、松任谷由実の専売特許のように言われますが、荒木一郎は10代のころからそうしたテクニックを盛り込んだ曲をいくつもつくっていますし、詞に表現される都会性も、こんな時代からと思わせるほど、卓越したものを感じさせます。そんなこともあるからでしょう、いま活躍中のミュージシャンにも、荒木一郎をリスペクトしている人は多いようです。

さすが天才、小説を書いたり、映画とかかわったり(俳優として、また監督として)など、さまざまな分野で活躍してきた荒木一郎。最近は音楽界での活動がめっきり減っていますが、それでも、その天才ぶりはいっこうに衰えを感じさせません。3日間、通しで楽しませてもらい、本当によかった! というのがいつわらざる実感です。

Thank you,荒木一郎!!

今年初めての著作『アナログ主義の情報術』を上梓

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昨年は結局、『名古屋脳』の1点しか上梓できませんでした。それも3月ですから、それからもう1年以上がたっています。これはまずいよなぁ……。そんなことは百も承知、二百も合点なのですが、去年4月から1年間続いた、朝日新聞(東京版)の連載コラム「街見しゅらん」が、週1回だというのに、思っていた以上に重かったのです。でも、ようやく、今年の1点目をこのほど出すことができました。タイトルは『アナログ主義の情報術』といいます。

版元は、ご存じないかもしれませんが梧桐(ごとう)書院といい、ここのところ次々と意欲的な企画を出している出版社。編集長とは20年来の付き合いで、昨年秋、この企画を依頼され、4月初めにようやく脱稿したしだい。カバーはシンプルで、それをはずした表紙(カバーを外した本の本体)には、私自身の仕事場で撮影していただいた写真がアレンジされています。全体としてシンプルな中に上品さがただよっていて、大いに気に入っています。

さて、中身ですが、タイトルから想像がつくように、近ごろ世の中を席捲しているデジタル的な情報収集・処理より、アナログ的な手法のほうがはるかに生産性が高い、しかもこちらの頭も柔軟かつ新鮮な状態を保つことができるから、結局はお値打ちですよという、私の独断的な考えにもとづいています。

詳しくはお買い求めのうえお読みいただくとして、新聞の電子版(日本経済新聞)や電子書籍など、i-Padが発売されたこともあり、デジタルの情報媒体はこれから先、想像を絶するような発展を見せるにちがいありません。しかし、だからといって、そればかりに頼っていては、私のような仕事は立ち行かないでしょう。デジタルの価値を否定するわけではけっしてありませんし、その利点は利点としてフルに活用しながら、これから先も、アナログ主義に足場を置きながら活動を続けていくのがいちばんだと、あらためて自覚したしだいです。

「がーまるちょば」が教えてくれる万国共通語

L1040655 土曜日(5月29日)の夜、新大久保にあるグローブ座でおこなわれた「がーまるちょば 東京凱旋公演」を観に行ってきました。がーまるちょばというのは日本人の2人組(ケッチとHIRO-PON)、国内でもさることながら国際的に有名なサイレントコメディー(パントマイム)の芸人、というよりアーティストです。ちなみに、がーまるちょば(Gamarjobat)とは、「こんにちは」を意味するグルジア語とのこと。

前後半あわせて2時間ほどの公演でしたが、ひとことも言葉を発せず、ただただしぐさと表情だけで観客をクギ付けにするのですから、感動してしまいます。とくに、後半1時間にわたって演じられた「BOXER」という演目は、素晴らしいのひとことです。その意味では、機関銃のようにしゃべりまくるお笑い芸人の、まさに対極的存在といえるかもしれません。

言葉を口にしないことでかえって国際性を持つというのも、考えてみるとおもしろい話です。逆に、しぐさと表情には、それくらい強烈な国際性があるということの証しでしょう。男も女も、大人も子どもも、だれもが楽しめる「がーまるちょば」、ぜひ一度観てみることをおすすめします。これまで海外26カ国で公演しているというのも納得できます。

自分たちで採った山菜を、即座に食べる快感

 エゾヤマザクラ、キタコブシ、ソメイヨシノ、ボケが一斉に満開──なんとまあぜいたくな体験できるのが、いまの札幌。春と初夏が同時にやってくるからその札幌に14日から来ています。朝6時過ぎだというのに、ホテルから歩いてすぐの大通公園には、そうした木々と、色とりどりのパンジーがびっしり植わった大きな花壇、そして、まだ雪をいただいたままの大倉山を遠くに見ながらウォーキングにはげむ市民が多く繰り出していました。

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その日の午後は、市の西端、手稲山まで山菜採りに行きました。地元に生まれ育ち、リタイアした現在は手稲中央連合町内会副会長、自然保護監視員もされている濱谷義昭さんの案内で小1時間ほど山の中腹を散策したのですが、天気も気温も、これ以上はないという最高のコンディションだったことも幸いし、自然を堪能できました。

L1040627  フキノトウもこれほど大きくなると(写真参照)、それとはわからず、濱谷さんに「これはなんの花ですか」と質問したくらいです。私たちが食べるのは、花がまだ開く前のときですから、わからないのむ無理はないでしょう。

 それにしても、終わった後、ふもとの居酒屋さんで料理してもらった山菜の、どれもみな新鮮でおいしかったこと。〝産直の極致〟のような食べ方ですから、当たり前といえば当たり前なのですが、それにしても、野菜(果物もそうですが)は採れたところで食するのがいちばんだとあらためて感じた次第です。

35年前にタイムスリップ

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 5月に入ってほぼ〝映画漬け〟の日々です。といっても、半分はテレビ(NHKのBSハイビジョンとBS2)なのですが、ヒッチコックの『海外特派員』『泥棒成金』『サイコ』、クリント・イーストウッドの『ペイル・ライダー』『トゥルー・クライム』で、計5本。映画館でも『ボーダー』『インビクタス』『プレシャス』『ウイニング・チケット』『ミレニアム』の5本を観ました。

 映画に対する私のスタンスは決まっています。それは、「この男が最後くたばると気持ちいいよなぁ」「こうなると皆ハッピーなんだけどなぁ」という、こちらが期待しているとおりに終わってほしいということです。それと、やはり明るい気持ちになれる作品でしょうか。どれほど巷の評判がよくても、極端な話、アカデミーの作品賞を取っていたとしても、この2つをクリアーしていない作品は、やはりなじめません。

 それにしても、昨日、35年ぶりに入った飯田橋のギンレイホールはなんと、満員でした。学生時代にほとんど毎週のように行っていた映画館なのですが、当時は建物も古めかしく、いかにも学生向けの名画座という感じがふんぷんとしていました。飯田橋はけっして場末ではありませんが、いささか旬を過ぎた作品の2本立て、それでいて値段は安かったからです。今回行ったら、外装はすっかりきれいになっていましたが、中の雰囲気はさして変わっていません。興行スタイルが当時と同じだからでしょう。それに、2本立て1300円(「夫婦50割引」ならなんと1000円)はやっぱり安い!

35年ぶりついでに、これまた学生時代しょっちゅう昼飯を食べていた「インドール」という食堂にも行ってみました【写真参照】。間口1間半・奥行き5~6間の店構えも、カウンターの中でひとり黙々と、名物のしょうが焼きをつくるおやじさんも当時と同じ。味もそのまま、最高にグーでした。昭和の時代に戻った1日でした。

仕事に明け暮れたGW、でも花で心なごむ毎日

 ゴールデンウイークは、かれこれ30年近く、どこにも行かずにいます。お正月とこの時期の東京は、静かですし、空気も澄んできれいなので、居心地がとてもいいのです。

 それで、今年は何をしていたのかというと、やはり仕事でした。結局、そうなってしまうのですね……(笑い)。ただ、仕事の合間に、庭の花をいじるという楽しみが加わったのが、大きな救いになっています。花をいじるといっても、それはもっぱら家人で、私はといえば雑草抜き、土の整備、不要になった鉢植えの処分といった、下働き的なことに専念しています。

L1040620_2  でも、不思議なことに、これがけっこう楽しいのです。人間、やはり土に触れていると心が落ち着くというか、癒されるのでしょうか。爪の先と指との隙間が泥で真っ黒になっても、そのことに充実感を覚えたりします。「雑草のようにたくましい」などと、あちこちに書かれているのを目にするのですが、実際、土中深く、広く根を張っている雑草を抜くのはけっこうハードな作業で、「たくましさ」の本当の意味が実感されます。

 私がいま住んでいる家は片仮名の「コ」の字型で、「コ」の字の中、空いている部分が庭(パティオ)になっています。その一部、3分の1ほどが、灯籠まで立つ日本式の庭。それと別に、3分の1ほどのスペースに石板が敷かれ、残りの3分の1は土の上に小さな石が敷き詰められています。

庭のほうはあらかじめでき上がっているので、新たに手を加えることもありません。そこで、石板の上に大小の鉢を置き、さまざまな草花を育て、咲かせるわけです。しかし、雑草はそれ以外のところに生えてきますから、私の作業はほとんどが土の上になるのです。

L1040602_5 今日の昼間、たまたま立ち寄った八王子の道の駅で、なんともカラフルで可憐なバーベナ5鉢とぽんぽん咲きのマリーゴールドを3鉢ほど買いました。そういえば、5日にもホームセンターまで土を買いに行っています。その前日(4日)、ホテルオークラでこの時期の定番イベントになっている「10カ国大使夫人のガーデニング」にも足を運んでいるので、ほとんど〝花漬け〟の毎日ではありました。

もうじき、花が咲き終わったチューリップを土から引き上げなくてはなりません。その跡に何を植えるか、それも楽しみです。これからは、土とたわむれる機会がますます増えるような気がします。これもやはり、歳なのでしょうね。

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沖縄・伊江島で100万輪のユリに感動!

 3日前の21日から沖縄にやってきています。着いた日は半袖でも暑い日だったのですが、翌日から気温がぐんと下がり、23日は朝から空模様もなんだかあやしい感じ。それでも、前日(22日)の朝、地元の新聞に出ていた広告を見て急遽思いつき予約を入れた「伊江島ゆり祭り日帰りバスツアー」に参加しました。

 伊江島というのは、本島の北西部・本部港からフェリーで30分ほどのところにある小さな島です(それにしても、船に乗るのはここ1カ月で5回目!)。その北側に、かつて日本全国の自治体に1億円ずつ均等にばらまかれて実施された「ふるさと創生」事業によって生まれた「リリーフィールド」という大きな公園があります。8万6千平方メートルという、海沿いの広大な敷地に、日本原産のテッポウユリを10万本も植えたもので、それがいまでは20万本に増え、毎年4月中旬から5月上旬にかけての時期に100万輪もの花を咲かせるのですから、それはもう壮観の一語に尽きます。

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 テッポウユリは、鹿児島以南の温暖な場所でないと花が咲かないとのこと。最近、我が家の庭や、道路に沿って並べた6個の大型プランターに植えた花の手入れをするのが楽しみになっている私と家人。それを知って、バスツアーのおみやげとして頂戴した球根を、東京でもなんとか咲かせてみようとひそかに決意しました。それくらい、花の咲き方がみごとで、独特の甘い香りもすばらしいのです。やはり、南の豊かな太陽の光を浴びているせいでしょうか。

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 リリーフィールド公園の後で訪れたハイビスカス園も大変なものでしたが、こちらは品種があまりに多すぎるのがむしろ難点に感じられ、それならシンプルなユリのほうが興味が湧きます。

 もともと、風に揺られて花がゆらゆらするさま=「揺り」から「ユリ」と呼ばれるようになったのだとか。伊江島のユリのじゅうたんも、東シナ海からの風に吹かれ、さわさわと揺れていました。テッポウユリの花言葉は「正直」だそうです。私たちが花に注ぐ愛に、伊江島から持ち帰る球根が来年のいまごろ、正直に応えてくれるといいのですが……。

運命の「絆」

著者:細木数子
価格:1365円
[KKベストセラーズ・2010/04]

いま見失われている真の幸福論を問う、細木数子待望の新刊。どんな人も自分ひとりだけで生きていくことはできません。家族や両親、友人……、さまざまな「絆」があってこそ、私たちも幸せな人生を歩むことができるのです。運命を切り開く、そうした「絆」をよみがえらせることができるかどうかは、あなたの心しだい。

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もっともっと多くの人が遊びに行ってほしい酒田市

 昨日まで3日間、山形県を旅していました。4月3日は東根市、4・5日は酒田市。東根市は、山形新幹線の開通にともなって唯一、新しい駅がつくられたところで、例によって駅前にはほとんど何もありませんが、それだけに見晴らしは素晴らしく、駅の東から奥羽山脈の山々の美しさを目にすると、東京からやってきた私のような者の心はなごみます。西には月山、湯殿山、羽黒山の出羽三山がそびえ、こちらもまた美しい。東根市は麩とさくらんぼの名所と聞きましたが、麩懐石というのは、一度食べてみたいと思いました。

   4日は、さくらんぼ東根駅から酒田に向かうため、新幹線に乗り、終点の新庄で下車しました。家人の乗った後続の新幹線が東京からやってくるまで3時間ほど空白ができてしまったので、新庄ほどの都市なら、お茶でも飲みながら本を読むとか、それを埋めるのは訳ないと思っていたのですが、どっこい、事はそう簡単ではありませんでした。

L1040482_2 東根と同様、ここも新幹線の開通を機に駅舎を大々的につくり替え、駅前も再開発したのでしょう、美しく整備されてはいました。ただ、人目をひくものがほとんど何もないのです。駅の西口が旧市街らしく、いちおう建物は並んでいるのですが、店がほとんどありません。というか、人通りそのものがないのです。

一方、東口はというと、こちらも駅の前は広大な駐車場と公園があるだけ。わずかにビジネスホテル、パチンコ店+ゲームセンターの複合した施設、そして平屋建ての食品スーパーがあります。それも駅からやや離れているので、駅前そのものは、冬場に来たらさぞかし寒々しさを感じさせるだろうなという感じでした。

 3時間後、その新庄駅で家人と合流し、在来線で酒田に向かいました。酒田といえば、アカデミー外国語作品賞を受賞した映画『おくりびと』の舞台にもなった街です。数年前に訪れたときも感じたのですが、江戸時代、上方との交易でめっぽう栄えた面影がいまなお残る、個性的なところです。当時の栄華をしのばせる、積み出し用の米蔵、料亭、商人屋敷、店などがそのまま保存されており、じっくり時間をかけてまわれば、2日間はあっという間でしょう。

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 上方文化の影響もあってか、どことなくハイカラな雰囲気もただよっています。市内に有名なフランス料理のレストランがあるのを見ても、それはよくわかります。しかも、レベルは高いのに、場所柄だろう、値段は非常に安いのです。

 いまは観光がこの街のセールスポイントになっており、冬場はともかく、春・夏・秋はさぞかし多くの観光客が詰めかけてくるのだろうと思いきや、そうでもないようです。もっとも、首都圏あたりでいう「多くの観光客」とは、およそレベルが違うのかもしれません。押すな押すなというか、どこもかしこも並ばないと入れない、見えるのは人の後ろ姿ばかりといった混みようとはだいぶ様相が異なります。

 それだけに、どの観光スポットもゆっくり楽しむことができますし、食べ物もおいしいとくれば、一度行ってみる価値はあります。

朝日新聞の連載コラムを終えて

 昨年の4月から1年間続いた、朝日新聞のコラム=「街魅しゅらん」(毎週金曜日の「週刊首都圏」のページに掲載)が、今日付をもって終わりました。あっという間の1年間で、一抹のさびしさは否定できません。ただ、週に1回というのは考えていた以上にハードで、その意味では、正直ほっとしている部分もあります。

 この1年、首都圏の各都市に足を運ぶたび、その広さを感じるとともに、現地を実際に取材することの大切さをあらためて痛感させられました。その土地に住んでいる友人・知人から話を聞いたり、インターネットで調べたり、取材に行く前にある程度のリサーチをするのですが、聞く(読む)と見るとでは大違いとはよくいったものです。

 とくにインターネットを通じて得られる情報はもっともらしく、いかにも正しそうに見えます。きちんとした画面に、きちんとした形で出てくるからでしょう。ときには写真や動画までついているので、そのレベルがかなり高いように錯覚してしまうのです。

 新聞記者が最初に教えられるのは、「何度でも、現場に足を運べ」ということだと聞いたことがあります。もう遠い昔の話ですが、NHKでやっていた『事件記者』という人気ドラマでよく耳にしたセリフでした。当時はまだ小学生だったので、もちろん、その言葉の本当の意味など理解できませんでしたが、いまになって思えば、なるほどという気がするのです。

 現場には、現場にしか流れていない空気、風、においがあります。それは、その周辺に暮らす人たちがかもし出すものともいえます。あるいは、その地に古くからつちかわれている、広い意味での文化、風土のようなものかもしれません。

そうした空気や風、においを全身に浴びることで、体の中に強烈なエネルギーが湧いてくるのを感じました。ほぼ毎週そんな経験をしたわけですが、私にとってはとてもいい勉強でした。

佐渡は日本一の島!

あたまを雲の上に出し
四方の山を見おろして
かみなりさまを下に聞く
富士は日本一の山
──巌谷小波(いわやさざなみ)作詞の文部省唱歌『ふじの山』はあまりに有名です。山というのはその形から、美しさがすぐに実感できるものです。その点、島となると、空の上からでも見ないと、大きい小さいすら判然としません。ところが、ところが……。この3連休を利用して行ってきた日本一大きな島・新潟県の佐渡はその大きさをなんともリアルに感じさせてくれました。

新潟港から佐渡の玄関口・両津港をめざしジェットホイル(高速フェリー)で1時間ほど走ると、その姿が見えてくるのですが、その大きいこと、大きいこと! 島というより、大陸といった印象を受けます。最初目に入ってくる大佐渡山脈が高くそびえているように見えるからです。実際には、いちばん高い金北(きんぽく)山でも、せいぜい標高1172メートルしかないのですが、勾配がけっこう急なのでしょう。

L1040421さすが、東京23区の1・5倍、沖縄本島の3分の2という広さを誇るだけのことはあります。佐渡については、トキの生息地であること、その昔金山があったことくらいしか知らなかった私ですが、驚いたのは、能が盛んにおこなわれていることでした。島内には現在30以上もの能舞台があり、農民が作業しながら田畑で謡曲を口ずさんでいることもあるといいますから、恐れ入ります。

たしかに、調べてみると、かつて世阿弥がこの島に流されていたことがあるそうです。また、江戸時代、佐渡奉行を務めていた大久保石見守長安が能を奨励したという記録もあります。

その大久保長安は、「石見守」とあるように、佐渡に赴任してくる前、石見国(島根県)の石見銀山を開削した責任者でした。佐渡金山の開削を仰せつかったのも、その実績を買われてのことです。バスで島内の主だった観光スポットを見てまわる中で金山を訪れたのですが、私のようなズブの素人の目からしても、その技術水準は相当高かったように思えます。金鉱の跡には当時使われていた機械や道具が展示されていましたが、どれもみな、貴重な産業遺産であると聞かされ、納得しました。

もちろん、金山は幕府がじかに経営にあたっていたので、佐渡の人々の暮らし向きが豊かだったわけではありません。しかし、この島は北前船の寄港地でもありました。今回佐渡を訪れたのも、その北前船寄港地サミットが開催されたからです。

L1040458島の南西部にある宿根木(しゅくねぎ)という集落はその昔、北前船によってもたらされた風物、文化が根づいたのでしょう、独特の雰囲気をただよわせる街並みがいまも残っています。佐渡観光協会のウェブサイトにはこんなふうに書かれていました。
「佐渡金山繁栄期の江戸寛文期(1661~1678)に回船業の集落として発展した『千石船と船大工の里』。入り江の狭い地形に家屋が密集する町並みは、独自の板壁の連続で、石畳の露路も当時の面影をそのまま残しており町並み自体が貴重な存在です。伝統的な建造物は主屋、納屋、土蔵など106棟を数えほぼ全てが総2階造り。現在、国の重要伝統的建造物群保存地区にも指定されており、(中略)往時の船主が遠く尾道から石材や石工をつれてきて作った船つなぎ石や石橋なども残っていて(以下略)」L1040470_2

サミットに参加した私たちのために、白山丸という北前船のレプリカ(原寸大)を披露してくださいました。中に入って、数十人で轆轤(ろくろ)をまわして帆を上げる作業も体験でき、なんとも有意義でした。今回は島のほんの一部をのぞき見ただけですが、温泉もあり、食べ物もおいしい佐渡。機会を作ってもう一度ゆっくり見てまわりたいと思います。

マカオでは、赤か黒か、長か半かより、「大小」が人気

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いまマカオに来ています。昨年、カジノの年間総売上げがとうとうラスベガスを抜いたとかで、マカオはいまや世界一のギャンブル都市になりました。なにせ、世界一ギャンブル好きと思われる何億もの人たちがすぐそばにいるのですから、太平洋を横断し、はるばるラスベガスまで行くよりはるかに楽なマカオに行くのは、当たり前といえば当たり前かもしれません。近ごろラスベガスのカジノで、一時期ほど中国人の姿を見かけなくなったのはそうした影響もあるのでしょう。

L1040328 香港からフェリーで1時間、広州からでも高速バス(えらく乗り心地がいいらしいです)で2時間半と交通至便なことも手伝って、毎週末ともなると、これらの地から中国人が大挙押しかけてきます。実際、週末にホテルの予約を取るのはけっこう難儀します。マカオのフェリーターミナルは芋を洗うような混雑ぶりで、各ホテルに宿泊客のためのシャトルバス乗り場まで行くのも大変です。

昔、ギャンブル好きの日本人から「マカオは危険だし、汚らしくて……」という話を聞いたことがあります。その当時のことを知らない私は、行くたびに、新しいカジノホテルが増えているマカオに、日本人もこれからどんどん足を運ぶのではないかと予想しています。

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マカオのギャンブルで人気があるのは、なんといっても「大小(Sic Bo)」と「バカラ」です。バカラはどこのカジノにもありますが、大小のほうは、ここでしか楽しめないといっても過言ではありません。3つのサイコロを用いてその目の合計数字を当てる、ごく単純なゲームなのですが、ルーレット同様、その当て方がいろいろあります。文字どおり、大(11~17)か小(4~10)かを当てる(1のゾロ目=3と6のゾロ目=18はディーラー=カジノ側の総取り)ものから、出た目の合計、その組み合わせなど、難易度によって配当も違ってきます(2倍~181倍)。

家人など、このゲームにすっかりハマっており、私もその影響でファンになってしまいました。マカオのカジノにはどこも皆、この「大小」のテーブルが数多く並んでおり、大変な人が参加しています。主に広東語が飛び交っているのですが、だれもが熱くなっていますから、そのうるさいこと、うるさいこと。例によってマナーがあまりよくないので、テーブルではなくマシンの「大小」で楽しむ人も少なくありません。

それにしても、カジノに遊びに来ている中国人のファッションはここ2、3年の間にすっかり様変わり。本土から来ているのか、香港・台湾あたりから来ているのか、にわかに判別できなくなりました。それだけでも、中国本土の経済の発展ぶりがわかろうというものです。

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今年は、「非常に珍しい」幸運の年?

 元旦の夜、空になんともくっきりと満月が浮かんでいたのを見ましたか? 今月は30日も満月です。ひと月のうちに満月が2度あるのは珍しいことで、幸運の象徴でもあるそうな。それから転じてのことでしょう、英語では、「非常に珍しいこと」とか「非常にばかげたこと」という意味があるとのことです。しかも今年は、3月にも満月が2回あるとのこと。3月の末は、うまくするとお花見とダブルで楽しめるかもしれません。

 この年になって初めて知ったのですが、同じ月の中で2回目に迎える満月を「ブルームーン(blue moon)」と呼ぶそうです。カクテルの名前(あとへ、せいぜいキャバレーの店名──古いですねぇ!)でしか知らない「ブルームーン」にそんな意味があったとは。

 いずれにしても、2010年はブルームーンが2回もある幸運な年のようです。世の中全体、いまひとつ明るさが感じられない中、楽しみがグンとふくらんできました。

沖縄でプロのバスケに触れて興奮

今日、沖縄から戻ってきました。前回行ったとき(11月5~10日)、この期間に魅力的なイベントが連続して開催される情報を得たので、予定をこじ開けて、今月も11日から行くことにしたのです。12日はバスケットボール「bjリーグ」の試合(うるま市)、13日は、今年かぎりで活動にピリオドを打つ原信夫とシャープス&フラッツのラストコンサート(沖縄市)、そして15日は大相撲の巡業(浦添市)でした。

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bjリーグというのは、バスケットボールファンなら知らない人はいないでしょうが、日本唯一のプロバスケットボールのリーグ。2009年12月現在、全国に13チームあり、その1つが琉球ゴールデンキングス(2008~09シーズンは優勝)なのです。

もちろん、プロとはいっても、実力も人気も、またビジネスという面から見ても、アメリカのNBAには遠く及びません。というか、日本ではまだバスケットボール自体が、マイナーなスポーツにとどまっており、競技レベルもいまイチといわざるを得ません。当然のこと、ファンの数も圧倒的に少ないのが実情です。長い間、実業団(社会人)のスポーツとして定着していましたから、プロ化に際してもまだ統一した方向が定まっていないという問題もあります。

ただ、アメリカと日本の人口比(アメリカは日本のほぼ2倍)を考えると、日本のプロスポーツの実態はなんともさびしい感じがします。というのも、日本は野球、サッカー、そしてバスケットボールしかプロがない(個人競技は除く)のに、アメリカはこのほか、アメリカンフットボールとアイスホッケーがあります。アメリカのプロバスケットボール(NBA)のチーム数は30、観客数は1試合平均、最高で2万人を超え、最低でも1万3千人だそうです。

それでも、バスケットボールのスピード感は野球やサッカーの比ではありません。ちょっと下を向いてドリンクを飲んでいる間にもシュートが決まるのですから、試合開始から最後まで、息つくひまもないのです。沖縄は長い間アメリカの占領下にあった影響もあるのでしょう、バスケットボールの人気が高く、観客数もbjリーグの中では断トツです(平均で2千7百人ほど)。ふだん、ゆる~い生活をしている沖縄県民にとって、バスケットボールはとても新鮮に感じられるのかもしれません。

もちろん、応援も力が入っており、部外者の私が見ても、興奮させられます。その日観戦した、うるま市の具志川総合体育館は正直、かなり貧相ですが、それでもひとたび試合が始まればそんなことはすっかり忘れ、声を枯らしながら声援を送らせてもらいました。

日本人があまり行きたがらない街もいいですよ!

L1030995_2  9月29日から昨日まで、アメリカ・テキサス州のサンアントニオという街に行っていました。今回の訪米は、学生時代の先輩の娘さんがロサンゼルスで結婚式をするので、それに参加するためです。ただ、それだけではもったいないというので、以前から、一度行ってみたいと思っていたサンアントニオをくっつけた次第。

 でも、サンアントニオなんて、ご存じない方も多いでしょう。NBAのファンなら、スパーズ(spurs)の本拠地として知っているかもしれません。しかし、これが予想以上に魅力的な街でした。

L1040019_2 まず、今回初めて知ったのですが、テキサス州というのはもともと、アメリカではありませんでした。多くのアメリカ人がテキサス州のことをどこか特別扱いしているように感じられたのはそういうわけだったのです。この地域は16世紀以来、スペインの支配下にあり、1821年メキシコがスペインから独立を勝ち取ったときも、その一部でした。メキシコ政府はその開発を進めるべく、隣接するアメリカからの移民を認めたため、アメリカ人が増えていきます。しかし、彼らとメキシコ政府との間に摩擦が起こります。

奴隷制を認めないメキシコの政策に不満を感じたアメリカ人移民は1835年、メキシコからの分離をめざして反乱を起こし、翌36年、「テキサス共和国」として一方的に独立を宣言しました。これに対しメキシコ軍は、アメリカ人たちがたてこもっていたサンアントニオのアラモ伝道所(18世紀の初めにつくられた)の砦を攻撃、テキサス独立軍の守備隊189人が全滅してしまいました。これが有名なアラモの戦いです。しかし、その後もテキサス独立軍は、「アラモを忘れるな」(“Remember the Alamo”)を合言葉にメキシコ軍と戦い続けます。そして、サンタ・アナ将軍率いるメキシコ軍をサン・ハシントの戦いで撃破、将軍も捕えられたこともあって、メキシコはとうとうテキサス共和国の成立を認めました。

ところがその後、テキサスがアメリカ合衆国28番目の州として併合されたため、翌1846年、メキシコはアメリカに宣戦布告、米墨戦争が勃発します。この戦争はアメリカが終始優勢で、48年、アメリカの勝利に終わります。負けたメキシコはアメリカに現在のカリフォルニア州、アリゾナ州など、南西部をアメリカに割譲させられました。

L1040010_2  というわけで、テキサスはいまのアメリカ領土を確定する引き金になったともいえる存在で、その原点の地がサンアントニオというわけです。それほどの長い歴史があるところですから、街には、ロサンゼルスやサンフランシスコ、あるいはニューヨークなどともかなり趣が異なる、独特の雰囲気があります。

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ロサンゼルスやサンフランシスコにもスペインの香りが多少残っていますが、サンアントニオの比ではありません。メキシコというフィルターを経てではありますが、古きよき時代のスペインの空気が流れているように思えました。いまも高層ビルが少なく、それも、独特の雰囲気を保つのに貢献しているようです。その最大の目玉は、市内を流れるサンアントニオ川沿岸の遊歩道(リバーウオーク)です。リバーウオーク沿いには、こじゃれたレストランやカフェが山ほどあり、どこに行ったらいいのか、毎回迷っていました。

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なお、アメリカに併合されてからこの街を築いたのはなぜかドイツからの移民だったらしく、市の南端には、キング・ウィリアムズ・ヒストリックエリアという、19世紀にドイツ人が住んでいた屋敷がそのまま残され、落ち着いた高級住宅街を構成しています。そこでいまも営業している元製粉所の敷地内にあるレストランが印象的でした。

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広島人にとって「その日」とは?

 8月3日から、取材で広島に来ています。今回のテーマは、「その日」を迎える広島(人)の表情を追うこと。「その日」とはもちろん、8月6日、人類史上初めて、原爆が人間に向かって使われた日(1945年)のことです。

 すでに前々日あたりから、広島市には国内各地はもちろん、世界中から多くの人たちが次々と訪れてきています。ホテルはどこもみな満杯、私も2カ月以上前に予約を入れたのですが、それでも望んでいたところは取れませんでした。「その日」の前日、夕方に平和記念公園を歩きましたが、多くの人たちが精霊流しに加わり、被爆して亡くなった15万人もの人々の霊を慰めていました。

それにしても、「その日」に対する広島人の思い入れは、部外者の思いをはるかに上まわる強さがあるように感じました。前夜、市内随一の盛り場・流川の一角で食事し、そのあと立ち寄った近くのバーのオーナーが、「うちも、おばあちゃんが被爆して亡くなりましたから。店を閉めたら、その足で慰霊祭に行きます」と、しみじみした表情で語るのを聞き、そう思ったのです。

ここでは、いま、どんな状況にあれ、身内に被爆者がいる人はだれでも、「その日」をことのほか敬虔な思いで迎えるようです。それくらい、原爆は重く、また長く人々にのしかかっているのでしょう。人々のそうした素朴な思いに「反戦思想」や「平和主義」といった言葉をかぶせるのは簡単ではあるのですが、それだけではいい尽くせない気がしました。

 今朝、朝食もそこそこに、爆心地である平和記念公園の慰霊祭会場に行ったのですが、早朝からそこを訪れている人のだれもが、いつになく真剣な表情をしていました。かの田母神俊雄・前航空幕僚長は、「あの慰霊祭は実は日本弱体化の左翼運動だ。あそこに広島県民、市民はほとんどいない。原爆被害者も被爆2世もいない。並んでいるのは全国からバスで集まった左翼ばかりだ」と述べているそうですが、少なくとも私の見たかぎり、これはひどい事実誤認のように思えます。

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色あせたイデオロギー的な言辞ほど、広島の「その日」に似つかわしくないものはありません。そして、この一点だけ取り上げても、氏の〝インテリジェンス〟の欠如がはっきり示されているのではないでしょうか。

「衛星都市」になっても埋没しない街

 7月30日に神奈川県海老名市、31日は茨城県の小見玉市に、朝日新聞「街魅しゅらん」の取材で行ってきました。どちらも予備知識がほとんどなく、こんなことでもないかぎりまず行きそうにないところですが、それぞれ大きな発見がありました。

 海老名というところは日本で初のシネマコンプレックスがつくられた街だそうです。小田急沿線とはいえ、東京からはかなり遠く、どちらかというと横浜のベッドタウンでしょう。しかし駅前は、ディズニーランドにでも来たのかと一瞬錯覚しそうになるくらい、えらくお洒落な感じがします。建物やその周囲の施設のユニークなデザインや色使いが、その要因なのでしょうか。

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 そんなことを思いつつ、駅から市役所に向かって歩き始めました。すると、この地域で古くから盛んだった農業に、市や地元の人たちがいまでも力を入れていることがひしひしと伝わってきます。駅から数分も歩くと、あたりはもう畑と田んぼにビニールハウス。しかし、駅前のマンションや商業施設とミスマッチの印象はありません。農業ががっちり根をおろしているという感じがするのです。

大都市近郊にある多くの街が、ベッドタウンであることにひきずられアイデンティティーを失ってしまう中、それを保っていられるのは、できそうでできないことです。それが、駅前の見かけだけでない、この街の魅力を高めているような気がしました。

 翌日出向いた小見玉市は、旧小川町・美野里町・玉里村の2町1村が平成の大合併で一緒になって生まれた街。地元関係者以外でその存在を知っている人がいたらめっけものでしょう。というか、地元出身者でもすでにそこを離れている人は、そのことを知らずにいるようです。

 それというのも、ラジオで、「私は美野里町の出身なのですが、いつの間にか小見玉市になってたんですね。知らない名前なので、びっくりしました」などという声が寄せられていたからです。来年3月には、市内に茨城空港が誕生するので、「小見玉」の名前がマスコミをにぎわすことでしょうが、それまではいまのまま、無名の状態が続きそうです。でも、これは考えてみると不幸な話です。

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 それにしても、こんなところに空港をつくって、利用者がいるのだろうかと心配になってしまいます。市内にもその周辺にもこれといった観光資源はありません。現在定期便の就航が決まっているのはアシアナ航空だけだそうですから、せいぜい、韓国からゴルフを楽しみにくる(需給がアンバランスで料金がえらく高い韓国に比べると、茨城・栃木は格段に安い!)人がいるくらいではないでしょうか。

沖縄で、皆既日食に興奮

 トカラ列島の悪石島に大勢のマニアが訪れているのをよそに、私はたまたま取材で着ていた沖縄本島・那覇で、46年ぶりという日食に出くわす幸運に恵まれました。日食観測用のメガネ(500円!)を片手に、太陽とにらめっこしながら午前中を過ごすことになったのです

 46年前といえば、私が中学1年生のとき。そういわれれば、ろうそくを燃やして出る煤をつけたすりガラスの破片を手にしながら、必死になって空をながめた記憶がよみがえってきました。それ以来のことなのですが、大人になっている分、どこかクールな自分がいます。

 それでも、実際それを目にすると、ドキドキするものです。名古屋でその昔見たのは、おそらく部分日食だったのでしょう。それが沖縄ともなると、92%も太陽が欠けるのですから、あたりがかなり暗くなるのではないかなどとあらぬ想像をめぐらせたりもします。

L1030247 日食が始まって15分ほど経過。もう3分の2以上消えている。

 でも実際は、そこまで行きませんでした。太陽のまわりにまん丸の虹みたいなものができ(これは不思議です!)、メガネを通して見る太陽が時々刻々と欠けていく幻想的な様子を目の当たりにすると、やはり素朴に興奮します。

L1030252 太陽のまわりにこんな神秘的な”虹”が状のものが見える

 本当は、一眼レフに望遠レンズとフィルターを用意したうえで撮るのでしょうが、それほどのマニアではありませんから、コンパクトのデジカメのレンズに、500円の日食用メガネをかぶせて撮る、まったくの急ごしらえ。それでも、まずますの映像が撮れるので、私としては十分でした。

 それにしても、こういう珍しい天体のショーを見ると、ゾクゾクしてしまうのが人間なんですね。いまでこそ、何月何日何時何分何秒まで、皆既日食が起こるなどということが事前にはっきりわかるわけですが、そんな情報など一切なかった大昔の人たちは、いったいどうだったのでしょうか。突然あたりが暗くなり、気温も下がり、気がついたら太陽が姿を消してしまっているのですから、よほど恐ろしいことが起こったと、うち震えたのではないかと思うのです。おそらく、そのとき人々は自然に対する畏怖の念を抱いたことでしょう。

 科学の力ですべてが明かされてしまっている現代人と、そうでなかった昔の人たち。どちらが幸せなのか、そんな疑問もわいてきます。

六星占術 こころの作法

著者:細木数子
価格:1575円
[主婦と生活社・2009/08]

善も悪も「こころ」のゆがみから生まれる! 不安の時代を強く生き抜き、幸せな毎日を送るための極意を満載。「こころ」のゆがみを正し、人間として守らなければいけない「こころの作法」を学べる待望の一冊。

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