あたまを雲の上に出し
四方の山を見おろして
かみなりさまを下に聞く
富士は日本一の山
──巌谷小波(いわやさざなみ)作詞の文部省唱歌『ふじの山』はあまりに有名です。山というのはその形から、美しさがすぐに実感できるものです。その点、島となると、空の上からでも見ないと、大きい小さいすら判然としません。ところが、ところが……。この3連休を利用して行ってきた日本一大きな島・新潟県の佐渡はその大きさをなんともリアルに感じさせてくれました。
新潟港から佐渡の玄関口・両津港をめざしジェットホイル(高速フェリー)で1時間ほど走ると、その姿が見えてくるのですが、その大きいこと、大きいこと! 島というより、大陸といった印象を受けます。最初目に入ってくる大佐渡山脈が高くそびえているように見えるからです。実際には、いちばん高い金北(きんぽく)山でも、せいぜい標高1172メートルしかないのですが、勾配がけっこう急なのでしょう。
さすが、東京23区の1・5倍、沖縄本島の3分の2という広さを誇るだけのことはあります。佐渡については、トキの生息地であること、その昔金山があったことくらいしか知らなかった私ですが、驚いたのは、能が盛んにおこなわれていることでした。島内には現在30以上もの能舞台があり、農民が作業しながら田畑で謡曲を口ずさんでいることもあるといいますから、恐れ入ります。
たしかに、調べてみると、かつて世阿弥がこの島に流されていたことがあるそうです。また、江戸時代、佐渡奉行を務めていた大久保石見守長安が能を奨励したという記録もあります。
その大久保長安は、「石見守」とあるように、佐渡に赴任してくる前、石見国(島根県)の石見銀山を開削した責任者でした。佐渡金山の開削を仰せつかったのも、その実績を買われてのことです。バスで島内の主だった観光スポットを見てまわる中で金山を訪れたのですが、私のようなズブの素人の目からしても、その技術水準は相当高かったように思えます。金鉱の跡には当時使われていた機械や道具が展示されていましたが、どれもみな、貴重な産業遺産であると聞かされ、納得しました。
もちろん、金山は幕府がじかに経営にあたっていたので、佐渡の人々の暮らし向きが豊かだったわけではありません。しかし、この島は北前船の寄港地でもありました。今回佐渡を訪れたのも、その北前船寄港地サミットが開催されたからです。
島の南西部にある宿根木(しゅくねぎ)という集落はその昔、北前船によってもたらされた風物、文化が根づいたのでしょう、独特の雰囲気をただよわせる街並みがいまも残っています。佐渡観光協会のウェブサイトにはこんなふうに書かれていました。
「佐渡金山繁栄期の江戸寛文期(1661~1678)に回船業の集落として発展した『千石船と船大工の里』。入り江の狭い地形に家屋が密集する町並みは、独自の板壁の連続で、石畳の露路も当時の面影をそのまま残しており町並み自体が貴重な存在です。伝統的な建造物は主屋、納屋、土蔵など106棟を数えほぼ全てが総2階造り。現在、国の重要伝統的建造物群保存地区にも指定されており、(中略)往時の船主が遠く尾道から石材や石工をつれてきて作った船つなぎ石や石橋なども残っていて(以下略)」
サミットに参加した私たちのために、白山丸という北前船のレプリカ(原寸大)を披露してくださいました。中に入って、数十人で轆轤(ろくろ)をまわして帆を上げる作業も体験でき、なんとも有意義でした。今回は島のほんの一部をのぞき見ただけですが、温泉もあり、食べ物もおいしい佐渡。機会を作ってもう一度ゆっくり見てまわりたいと思います。