東海道五十三次バスツアー①

●スタートは日本橋、ゴールは京都の三条大橋。そう、東海道五十三次です。その全行程をバスでというツアーに参加しました。5泊6日の長丁場で、「Go to」を利用。ギリギリのタイミングで”東京問題”が起こったので、かなりキャンセルが出たようですが、それでも参加者は20人。しかも、古希の私が最年少だといいます。
●ツアー1日目の昨日は三島まで。まずは日本橋周辺を歩きました。魚河岸がこの地にあったなど、ボランティア・ガイドの説明にいちいち納得。50年以上も東京に住んでいながら、そうした話をきちんとした形で聞くのは初めてです。次に訪れた五十三次の10番目・小田原でも、地元のガイドさんから城をじっくり案内していただきました。
●小田原からは国道1号で箱根山へ。途中甘酒茶屋に立ち寄り、関所を訪れます。関所のすぐ近くに、杉の木が立ち並ぶ昔の街道もそっくり残されています。「昼なお暗き羊腸の小径」をしばし歩くと、すっかり江戸時代気分に。箱根山の頂きから三島に向けて道を下るバスの窓から、駿河湾に沈んでいく夕陽が。快晴の空を背に、それはそれは美しい姿を見せてくれました。
●夕方5時過ぎ、ホテルに到着。三島は五十三次では11番めの宿場で、富士山に源を発する水がふんだんに湧くことで知られています。そのおかげでおいしいウナギが獲れるそうで、夕食は蒲焼。重箱のご飯の上に乗っかっているウナギが互いに重なり合っているのにはびっくり。これでもかというくらい肉厚なのです。昼間の疲れもすっかり取れました。

Facebook Post: 2020-12-09T21:57:26

原爆ドームは、人間の心を変える

●旅に出ても、ふだんの習慣は変わりません。5時過ぎには目が覚め、体操をしたり300ccの水を飲んだり。今日の会合は午後から。それまで時間もあり、天気もめっちゃいいので、原爆ドーム行くことにしました。ただ、いまは修復工事の真っ最中。全体が足場とシートにおおわれており、おなじみの姿は見えません。来年3月いっぱいかかるそうですが、そうした状況にあっても原爆ドームは原爆ドーム。あたり一帯、どこか重々しい空気が流れています。
●そこで、今日はクルーズ船に乗り、川の上からドームを見ることに。何十回と来ている広島ですが、市内をクルーズするのは初めてです。ちなみに、代金は地域クーポンで。
●広島は川の都、橋の都。狭い市内に7本もの川が流れているので、爆心地の周辺もどこか潤いが感じられます。先の重めの空気とそれが混じり合うと、不思議と神聖な気持ちに。原爆ドームを間近で見ることの意味はやはり大きそうです。みずからの意思でこの地を訪れたチェ・ゲバラやオバマ元米大統領も、そうした感覚を味わったにちがいありません。
●会合では広島名物の一つ神楽も鑑賞。迫力満点の舞いと演奏で、元気が湧いてきました。会場を後にし、ハイテンションのまま空港へ。レンタカーを返却するとき、旧友に何年かぶりでばったり! 羽田から着いたところなのだとか。いや、こんなこともあるのですね。暮れなずむ広島空港は、人の姿もまばら。久しぶりのナイトフライトとあって、夕食代わりに生ガキと酢がきをちょっとつまみ白ワインを飲んだら機中では爆睡でした。

Facebook Post: 2020-12-05T19:46:12

イルミネーションを見ると疲れが吹き飛び、食欲も

●この季節、広島市での楽しみの一つが平和大通りの「ドリミネーション」。札幌や仙台、新潟と比べても、規模やインパクトはかなりのものです。昼間めいっぱい取材に歩いた(昨日が1万3千歩、今日が1万4千歩)ので、やわらかい光に満ちたオブジェを見ていると疲れも吹き飛びます。
●今日訪れたのは呉市の豊島(ゆたかじま)町。もともと呉市とは別の自治体でしたが、平成の大合併で編入された島です。その一角にある御手洗(みたらい)が今日の取材地。風待ちにはもってこいといった感じの地形で、多いときは数十隻もの北前船が停泊することも。ほかにも、琉球やヨーロッパなど、各国の船が立ち寄ったという記録が残され、当時としては数少ない国際港でもあったようです。江戸から明治にかけての街並みが保存されていますが、洋風の建物もいくつかあるなど、古き風情が。町の人々も皆やさしく接してくれます。
●御手洗まで行くには、呉の市街地を抜け、全長1175mの安芸灘(あきなだ)大橋から全部で6つの橋を渡るのですが、途中見えてくる穏やかな瀬戸内海の景色は美しいのひと言。明治期に瀬戸内海を船で移動した欧米人は、その景色をエーゲ海に例えたといいますが、なるほどという気がします。荒ぶる北の海の中で育った人と気性が違ってくるのも仕方ないでしょう。
●さて、そんな今日の夕食は、ホテルの近くにある「蓬莱」という店で。この店ならではの天津丼。昔から有名なのですが、見ばえも味も変わっていません。そもそも器が大きいところへもってきて、乗っかっている卵が分厚く、たっぷりの餡もはみ出さんばかり。味つけはさっぱりしているので、どんどんお腹に入ります。それでも、夜小腹が空いたときに備え、「アンデルセン」(広島が発祥)でパンをいくつか買ってしまう私。70を過ぎても成長していませんね。

Facebook Post: 2020-12-04T22:28:10

瀬戸内の新鮮な魚は最高!

●今日から3日間、広島です。3・4日は「北前船」の取材で竹原市と呉市、5日、広島市内でおこなわれる会合に出席してから帰京します。それでなくても安い、飛行機とホテルがパッケージになった商品に「Go To」の割引が加わり、信じられないような値段に。そのうえ、地域クーポンでレンタカー代金のいく分かがまかなえ、大助かりです。
●瀬戸内海の港町・竹原はNHKの朝ドラ「まっさん」で有名になりましたが、その後はサッパリといった印象。これは朝ドラや大河の舞台になった地域に共通する現象で、流行に左右されることが多い日本人の特徴が出ているように思えてなりません。「心の底から行きたい」場所がある人が少ないのでしょうか。
●竹原はその昔、塩田で大いに栄えました。「まっさん」の竹鶴酒造も酒造りの前は塩田を営んでいたとのこと。竹原の塩は上方だけでなく、北前船で北陸、東北地方にまで運ばれていました。それらの地域では、「竹原が来た」といえば塩の入荷を意味していたそうです。その当時をしのばせる建物がいまなお残っており、町並み保存がきちんとなされています。電線の地中化も徐々に進んでいる風。
●「広島学」を書いたにもかかわらず、この町はまったく取材せずじまいでした。この本はもともと広島「市」を扱う予定だったので、致し方ありません。実際に足を運んで歩き回ると、北前船で港がにぎわっていた頃の活気あふれる様子が見えてくるような気がします。まる1日働いたごほうびは、瀬戸内の魚。小いわし、豊後さば(生です!)、石鯛の刺身に太刀魚の塩焼き、仕上げのカキフライ。明日も楽しみです。

Facebook Post: 2020-12-03T22:16:36

加賀で柿の葉寿司に出会うとは!

●加賀温泉駅前での記念式典(14日)のあと、観光フォーラムがおこなわれる文化会館へ。始まる前、控え室で軽いお昼ごはんをいただきました。出てきたのは柿の葉寿司。えっ、これって奈良が本家じゃなかったっけ? と驚いたのですが、この地方でも昔から、お盆やお祭りのとき柿の葉寿しを作る風習があるそうです。ほかにも福井県や鳥取県で柿の葉寿司は作られているようで、自分の知識のいい加減さを思い知らされました。
●奈良、和歌山のそれは柿の葉にぴしっと巻いてありますが、加賀では柿の葉の上に乗っかっています。そのため、保存食の印象はなく、できたらすぐに食べるものという感じ。酢が強くしみ込んでいない分とてもあっさりしており、ネタの魚の味も立っています。
●ただ、前夜の懇親会もそうだったのですが、おいしい物が供されるとテンションが上がり、話し声が大きくなりがちに。頭の中からコロナのことはすっかり消えてしまいます。文化会館の控え室も、万全の感染防止対策がほどこされていましたが、その一方でこうしたことが起こると、リスクは一挙に高まります。
●ここのところ感染者の数が急増しているのも、会食がきっかけのケースが多いと言われますが、「たしかに」と思います。といって、人に伝えたくなるほどおいしい物を口にしながら黙して語らずでは、画竜点睛を欠く感が。そのあたりの自己コントロールが課題かもしれません。

Facebook Post: 2020-11-18T20:14:21

有名ではなくても、観光資源たっぷりの町・高岡

●加賀温泉でのフォーラムを終えるとすぐ、金沢経由で富山県の高岡まで移動。レンタカーでまず市内の伏木(ふしき)へ。かつては北前船で大いに栄えた港町で、いまもその名残りがあちこちに残っています。北前船資料館は600坪の土地に、16室、蔵が3つある元船主の屋敷を転用したもの。展示品の多彩さとその数に驚きました。望楼に昇り、船主気分を味わったりも。
●伏木にはその昔、国府が置かれていたようで、大伴家持が国守として赴任していたそうです。古い寺院や神社も多く、あちこちに見どころが。ナビで次の目的地・射水(いみず)の新湊(しんみなと)博物館をセット。着いてみると、驚なんと、「道の駅」と同じ敷地内に建っています。お洒落な設計の建物で、ゆっくり楽しめました。
●博物館から高岡駅近くまで戻り、この街いちばんの売り山町(やまちょう)筋地区に。高岡は江戸時代の初め、加賀藩2代藩主・前田利長が築いた城下町。1900年の大火で土蔵造りの家だけが焼け残ったため、復興・再建にあたっては土蔵造りで建てることにし、それがいまも多く残っているのがこのエリア。2012年に電柱が撤去され、スッキリした空間ができあがったといいます。
●観光目的でも歴史探求目的でも、十分楽しめる町なのですが、日曜日でも人影はまばら。関西ではまだしも、首都圏の人にはよく知られていないのでしょう。国宝の瑞龍寺も一見の価値あり。「密」も避けられ、ぜひ一度訪れてみてください。北陸新幹線で3時間ほどですから。

Facebook Post: 2020-11-18T11:39:01

コロナ禍に入って3回目の遠出は加賀温泉

●北陸新幹線「かがやき」の車窓から、この季節ひときわくっきりと見える立山連峰を見ながら金沢へ。サンダーバードに乗り継ぎ加賀温泉駅に到着したのはお昼過ぎ。木々の葉はすっかり色を変え、秋もたけなわです。明日は同駅開業50周年記念行事の一つ観光文化フォーラム。その前に開かれる「北前船」の会議(会場は山中温泉のホテル)に出るため、ひと足早くやってきました。
●コロナ禍で「北前船」関連の行事は3月以来すべて中止に。この先の活動を検討すべく、全国各地から17人が参加しました。会議の前に、簡単なキットを使ったコロナウィルスの抗原検査。自分一人でささっとでき、30分足らずで結果が出ます。ひと月ほど前に同じ検査を受けたのですが、このときは鼻の奥に長い綿棒のようなものを突っ込まれるところまでしか関わっていません。その先はすべて看護師さんまかせで、緊張感はほとんどなし。しかし、今回は判定キットが目の前にあり、結果がわかるまではドキドキ。全員陰性とわかったときはホッとしました。
●会議のあとの懇親会で披露された民謡「山中節」。当地に長く伝わるものですが、実は「佐渡おけさ」や北海道の「江差追分」、さらには熊本牛深の「はんや節」などとも多くの共通点があります。そして、その媒介となったのが北前船だったというのが定説です。
●翌早朝、ホテルのすぐ下にある鶴仙渓の散策に。これまで山中温泉には2回来ていますが、一度も訪れたことがなく、今回ようやく実現。江戸時代につくられたまま、土と木だけで成る1km少々の遊歩道ですが、松尾芭蕉も気に入ったといわれるように、素晴らしい景色が印象的でした。町中に足を延ばすと、温泉町の風情がたっぷり。北前船に乗り組み半年以上荒海を航海する加賀の船乗りたちは、船から降りるとここで疲れを癒したのでしょう。

Facebook Post: 2020-11-16T22:58:07

旅は癒やしの最強兵器

●大館とも今日でお別れ、東京に戻ります。泊まった施設の風呂はなんと温泉。疲れはすっかり取れましたが、贅を尽くした部屋、ベッドは、私のような下賤の者には分不相応なのか、熟睡できませんでした(笑)。朝6時に起床、窓を開けると外はすっかり明けていました。杉木立ちの先の山々にはうっすらと霧が。凛とした空気に眠気も吹き飛びました。
●大館の駅まで出ると、真ん前に昨年5月にオープンした「秋田犬の里」が。入口に鎮座する忠犬ハチ公の像に迎えられ、中に入ると隅から隅まで秋田犬一色。「かわいい」が全面に出ています。そんな中、名産の曲げわっぱのコーナーが。でも、おいそれと買えるような値段ではなく、残念ですがあきらめました。
●隣接した広場に、今年の初夏まで渋谷ハチ公前広場にあった「青ガエル」が! 渋谷駅周辺はいま大々的にリノベーションが進行中ですが、それにともない「青ガエル」も撤去されることになり、渋谷→ハチ公=秋田犬のつながりで大館市が引き取ったとのこと。内部を少し改装し、今回のイベントに合わせてお披露目することになったそうです。ただ老朽化がひどいので、冬になったら車体を補強するのだとか。
●大館から乗った奥羽本線の特急「つがる」は、白とオレンジ色のすっきりしたデザイン。車窓には、これぞ日本の秋という景色が広がります。碇ヶ関→大鰐温泉→弘前→浪岡と停まり、1時間少々で新青森。構内の売店で買ったリンゴ酎ハイを手に新幹線に乗り込み駅弁のヒモをほどきます。比内地鶏のとり飯とリンゴ酎ハイがよく合います。2泊3日の大館、すっかり気分が変わりました。仕事だろうが遊びだろうが、旅はやはり心を癒やしてくれますね。

Facebook Post: 2020-11-03T15:15:15

キリタンポは何度食べてもおいしい!

●大館2日目となる10月31日。朝方、部屋の窓から外を見るとかなり低いところまで濃い霧に覆われています。予報ではスカッとした秋晴れのはずなのですが、外れたのかもと心配に。でも、これは盆地ではありきたりのことらしく、朝食の頃にはすっかり晴れ渡っていました。今回のイベントに合わせ今日から恒例の「きりたんぽ祭」も開催され、私たちも参加。2回目でしたが、やはりウマ〜い、です。
●さて、今日はメインイベントの「秋田広域観光フォーラム in 大館」。私も汗をかきかき15分の話を終え、肩の荷がおりました。夜のレセプションにも参加しましたが、食事は「和」のコースだったので、メインは三たびキリタンポ! さすがに…と思うかもしれませんが、やっぱりおいしかったですよ。
●タバコを吸いに会場の外に出ると、空には満月が。大館あたりでは東京より空気が澄んでいる分、月もくっきり見えます。スマホでもこの程度まで撮れるのがうれしいですね。
●今日の宿は、地元有力企業の保養施設にご招待。自費ではとても手が出ないようなラグジュアリーな部屋に、一人ではしゃいでしまいました(声を出したりはしていませんよ!)。今上天皇も皇太子の頃ご夫妻で泊まられたことがあるそうです。こんな役得にあずかれるなんて、月天子のおかげかもしれません。

Facebook Post: 2020-11-02T17:10:27

7カ月ぶりの羽田に興奮

●10月31・11月1日と秋田県大館市でイベントがあり、前日に飛行機で現地入りすることにしました。7カ月ぶりの羽田空港。早朝でもあり、さほど混んではいなかったものの、やはり興奮します。31日に「矢立(やたて)峠と吉田松陰」というタイトルで講演を依頼されているのに、矢立峠には行ったことがありません。それではまずかろうということで、ざっとですが取材しておくことにしたのです。
●矢立峠は秋田県と青森県の境にあり、江戸時代は羽州(うしゅう)街道(福島県中央部から会津を経て新潟→山形→秋田→青森まで)で一番の難所とされていました。幕末の1852年、東北周遊の旅に出た吉田松陰は途中この地を訪れ、一編の漢詩を詠んだのですが、私の話もその詩にまつわるもの。ガイドさんを手配してもらい、ポイントになる道筋を2時間ほどかけて歩きました。紅葉と杉の緑の対照はみごとのひとことです。
●矢立峠一帯は樹齢200〜300年とおぼしき天然の秋田杉がびっしりそびえ立っており、越えるのはいかにも大変そう。それに加え、いまの季節は朴(ホオ)の木の巨大な落ち葉が地面を覆い尽くしているため、滑らぬようにということで、長靴も用意してくださいました。おかげで取材は無事終了。途中何度か立ち止まっては、幕末当時の様子についても詳しくお話ししていただき、大いに助かりました。
●市内のホテルに向かう途中、郷土博物館、秋田犬会館に立ち寄り、大館の歴史、いまやすっかり名物になり町おこしの強力な武器にもなっている秋田犬についても学び、準備はほぼ万端。ホテルの窓からは町を取り囲む山々が一望でき気分爽快です。夜、市長さん始め地元スタッフの方々と囲んだ夕食には、いまが食べごろというキリタンポが! 大館はその本場ですから、味も最高でした。

Facebook Post: 2020-11-01T21:54:36

小池知事に逆らって(?)秋田へ

●知人の営む温泉旅館の開業15周年を祝う会に招かれ、1〜3日で秋田県まで行ってきました。長かった梅雨が明けスカッとした青空でしたが、自宅を出るときは、なぜか体を丸め視線も下向き。東京から出ることへの罪悪感とでもいうのでしょうか。ふだんの自分に戻ったのは大宮で新幹線に乗り換えてから。ただ、「こまち」の車内はガラガラで、夏休み中の土曜日とはとても思えません。目的地の田沢湖駅前も閑散としていました。
●館主は、先日亡くなった台湾の李登輝元総統と親しく、ロビーには「我是不是我的我(=私は私でない私である)」の揮毫、中庭には植樹した枝垂れ桜も。李元総統がこの旅館を訪れたとき泊まった(というか、それに合わせて増築した)部屋があり、私も中に入らせてもらったことがあります。
●今回はたっぷり時間があったので、館内外をゆっくり回ることができました。部屋に備え付けの露天風呂に入っていると、不思議なことにアブラゼミ、ツクツクホウシ、ヒグラシの鳴き声が同時に聞こえてきたりします。ウグイスがさえずり赤トンボも飛び交うなど、春と夏と秋が一緒になった、なんともぜいたくな空間。リピーターが多いのがよくわかりました。

Facebook Post: 2020-08-05T13:13:35

富士は、日本人の疲れを吹き飛ばす妙薬!

仕事上の大きな区切りを迎え、いま自宅兼事務所の大整理の真っ最中。第一段階まで終わり、富士五湖まで息抜きに行ってきました。昨日の空はもう最高。あさは山中湖からチョー間近にくっきり。午後の河口湖からは頭に雲がかかってしまいましたが、それでも美しさは、衰えません。
一昨日までに2000冊の本を処分し、不要になったデスクやら何やら粗大ゴミが8点。あと1000冊の本を処分すると、ホント身軽になれそうです。

Facebook Post: 2020-02-28T17:23:05

ポーツマス条約の全権大使・小村寿太郎の故郷

鹿児島ついでに、お隣宮崎県の飫肥という町に行きました。「おび」と読みます。生家の近くにある、その名も国際交流センターというとても立派な施設。郷土の大いなる誇りのようです。
江戸時代は城下町で、”九州の小京都”と言われるだけあって落ち着いた雰囲気。でも、城下町につきものの「おいしい和菓子」のないのが残念でした。城の周りはさまざまな緋寒桜がほぼ満開で、これは河津桜。

Facebook Post: 2020-02-11T08:55:15

サトウキビで財を成した豪商のお屋敷

2019年12月1日
今日は朝から川面に霧が立ち込めています。川そのものが大きいので、前面を覆うほどではないものの、逆にその存在感の強さと言ったらありません。しかも、これが時間の経過とともにどんどん大きくなり、一時は船の周囲がまったく見えないほどでした。

 

 

セント・フランシスヴィルからニューオーリンズまではわずか70~80キロなのですが、クルージングはなぜか後戻りします。時間稼ぎ=売り上げ増なのでしょう。それで訪れたのがノッタウエィ・プランテーションです。かつてのプランテーション経営者一族の屋敷で、数日前に見たロザリーマンションよりさらに上を行っている感じがしました。とはいえ、この屋敷を見るためにだけわざわざ1日費やすというのは、どうにも理解に苦しみます。

このテの邸宅の所有者のほとんどはその後没落するか、子孫が絶えるかしているようで、この屋敷も維持するのが大変のようです。ただ、ここは結婚式場、あるいは宿泊施設として利用されているようで、なんとか持っているようです。

中にあるレストランで、昨日に続き“船内食”以外のものを口にすることができました。久しぶりの食事らしい食事に大満足。船に戻ると、霧もすっかり晴れ、ここ数日続いている穏やかな川面の風景に。夕方になると、空はきれいな茜色に。明日はいよいよニューオーリンズです。

 

 

 

 

ひなびた町で出会った海苔巻きに感動!

2019年11月30日
昨日は「そろそろ我慢の限界に近づきつつあります」などと書きましたが、今日は、それがよい方向に戻りました。というのも、上陸したセント・フランシスヴィルという小さな町に癒されたからです。

この町はいまでこそルイジアナ州に属していますが、その昔(1810年)は「西フロリダ共和国」の首都だったそうです。といっても、同国が存在したのはわずか90日間。それでも、住民たちは当時の国旗に強い誇りを持っている様子。

セント・フランシスヴィルはもともと、スペイン人が入植していたフロリダの一部でした。1803年の「ルイジアナ買収」で今日のアメリカ合衆国の形がほぼ定まったわけですが、それ以降もフロリダ半島から西の一帯はまだスペインの支配下にありました。しかし、少数の役人と軍隊しかいないこの地域に入っていったイギリス人たちが1810年、独立を求め反乱を起こします。それによって生まれたのが「西フロリダ共和国」。

反乱軍はバトンルージュ(現在はルイジアナ州)のスペイン守備隊を打ち負かし、新しい国=「西フロリダ共和国」を作りました。その首都が置かれたのがセント・フランシスコヴィルで、のちに「ボニー・ブルー・フラッグ(青地に単一白星)」と呼ばれる国旗を定めました。しかし、西フロリダ共和国は3カ月しか続かず、その一帯は新しく設けられたオーリンズ準州に組み入れられることになります。つまりこの地域はアメリカでもなくスペインでもない、独立した国だったのです。

小さな町ではありますが、観光には力を入れているようで、上陸してバスに乗る際にはバッグと割引券を配るなどしています。観光スポットが多いわけではないのですが、アメリカ聖公会教会には、1700年代に作られたとおぼしきお墓がぎっしり並び、驚きました。中に置かれていたパイプオルガンも、アメリカ南部では最古のものなのだとか。割引券を配っていただけあって、このサンクスギビングのさ中にどの店もオープンしていたのもよかったですね。ロイヤルストリートに建つ古い銀行を改造したお土産物屋さんはSALEをしていたこともあり、大繁盛でした。

しかし、私にとって最大の喜びは、この町ではおそらく唯一のスーパーマーケットで寿司とカップ麺を買えたことです。11月24日から約1週間続いていた“アメリカ南部メシ”からやっと解放され、ほっとしました。それでなくてもアメリカの食べ物は期待値が低いのに、南部のエリアですから、正直ほとんどゼロもしくはマイナス。それが朝・昼・夜の3食ですから、どんな我慢強い人でもネをあげてしまうのではないでしょうか。それが一気にプラス30くらいにまでは回復しました。単純といえば単純ですが、食事の大切さを改めて感じされられた気がします。この写真に海苔巻きは写っていませんが、スーパーのイートインコーナーでもう食べたあとだからです。キュウリで巻いたこちらのカニ(もどき)ロールはいまひとつでした。残念! でも、缶入りのビールは最高でしたよ。

数日ぶりに触れた、“町らしい町”

2019年11月29日
それにしても、今回のクルージング、とにかくテンションが上がりません。そのせいか、時間の経過とともに疲労感が強まります。時差ボケがなかなか回復せず、毎晩長い時間眠れないせいもありそうです。

今日も朝4時過ぎに目が覚めてしまいました。しかし、デッキに出てみると、目の前に煌々とネオンの明かりが見えるではありませんか。「RIVER CENTER」の文字がまぶしいこと。バトンルージュの町です! やっと「都会」の匂いを感じさせる場所を訪れることができるのかと思うと、気持ちも多少は上向きに。これまで上陸した3つの町はどこも皆、歴史的・文化的にそれなりの意義はあっても、私たちのような異国の観光客にとってはいまひとつ満足できないところがありました。でも、今日こそは!

 

バトンルージュ(Baton Rouge)はもともとフランス語で、「赤い杖」を意味しています。先住民族のインディアンが狩場の境界に杉の木を赤く染めて標識としたのにちなんあだ名前だとか。この地に初めて植民してきたのはフランス人で1699年のこと。小さな町でしたが、1803年の「ルイジアナ買収」でアメリカ合衆国の領土となってから発展し、1817年には市になり、1849年にはルイジアナの州都に。南北戦争中は一時ニューオーリンズ市に移されたものの1882年、州都に戻っています。

 

そうした歴史とは別に、この町の名前が記憶に残っているのは、1992年10月に起こった日本人留学生射殺事件のためです。殺されたのは、当時この町に留学していた名古屋の男子高校生。私の出身校のすぐ隣の高校だったので、よく覚えています。彼がハロウィンのパーティに参加しようとし、間違って訪れた家の当主に不法侵入者と誤解され、射殺されてしまったのです。当主に英語で「Freeze(動くな)!」ととがめられたのですが、それを「Please」と聞き間違い動いたため引き金をひいたという新聞記事はいまでも覚えています。たしかに、日本の高校英語では、「freeze」イコール「凍る」としか教えていられないでしょうから、理解できなかったとしても、致し方ない気もします。

それはともかく、事前にネットで調べたかぎりでは、この町に観光的な興味を満たしてくれそうなスポットはほぼ皆無。私としては、ツアー一行が利用するバスでの観光には参加せず、ダウンタウンからクルマで15分ほどのところにあるという動物園にでも行って気分転換をと思っていました。しかし、いざ船を降りると……。サンクスギビングのさ中で町はほぼお休み状態。頼みの観光案内所にも「CLOSED」の看板が出ています。仕方なく、数少ない名所の一つであるルイジアナ州庁舎をめざし歩いていくと、ヒューストンから家族4人でやってきたという日本人の一家族と遭遇。私たちが話している日本語を耳にし、「まさか」と思い話しかけてみたそうで、びっくりしていました。あまり見るべきものもないこんな町に日本人が! と思ったのでしょうね。

私たちが下船したのはダウンタウンの一角で官庁街。役所ならやっているかと思いきや、そこも皆お休みしています。そのため、歩行者の姿はなく、車もまばら。事前にツアーの添乗員さんから「間違いなくオープンしています」と教えられた州庁舎まで行ってみました。34階建て、下層階はギリシャ・ローマ時代を思わせるようなファサードが特徴的な建物はとにかく立派。国定歴史建造物に指定されているそうです。中に入り、まずは展望デッキに行くためエレベーターで27階へ。天気は素晴らしくよかったので、360度のパノラマが楽しめました。

 

 

しかし、もっと新鮮だったのは入口のホールと州議会の議場のつくり。日本でも県庁・県議会の建物はどこも立派ですが、アメリカの州庁・州議会にはかないそうにありません。ここには州議会上下両院の議場のほか、州知事室、および一部の州行政機関が置かれているそうで、10万9千m²の敷地に建つ、高さ137mの庁舎(1932年に完成)は、アメリカ合衆国の州庁舎としてはいちばん、またバトンルージュ市内でもいちばん高い建物とのこと。

 

1階のホールには、州や合衆国の歴史に名をとどめる人たちの大きくて立派な彫像が何体も置かれていました。正面玄関に昇っていく階段には、合衆国50州の名前が、州に昇格した順に刻まれています。たかだか南部の1州でしかないのに、そこまでやるかとも思うのですが、フランス人が入植したこの一帯は、現在の「アメリカ合衆国」にとって大きな意味を持つ地域のようなのです。

いまでこそルイジアナ州はさほどでもありませんが、18世紀前半はそれこそ「大ルイジアナ」(地図の緑色の部分すべて)の言葉どおり、とんでもない広さでした。1803年、その大ルイジアナ(面積にすると210万㎢)をフランスから1500万ドルで買収したことで、今日の“大アメリカ合衆国”が生まれたと言っても過言ではないのです。高校生のとき世界史の教科書でこの図を目にしたときとても驚いたのを、いまでも鮮明に覚えています。

 

それはともかく、今日もまた帰船は正午過ぎ。よく考えてみると、船から離れるのは毎日せいぜい3~4時間。これで7泊するのですから、正直“軟禁”状態に近い感じすらします。もともとがアメリカ人向けの商品と言ってしまえばそれまでなのですが、そろそろ我慢の限界に近づきつつあります。

 

こじんまりしながらも味わいのあるナッチェス

2019年11月28日
今日上陸したナッチェスも、こうしたツアーにでも参加しないかぎりまず行くことのない町の一つ。この地に先住民であるナッチェス族が住み始めたのは10世紀だそうで、なんと1000年以上も前。しかし、15世紀にそこへフランス人がやってきて彼らを追い出し、新しい町を築いたといいます。

 

 

いまでも郡庁が置かれているようで、それなりの姿かたちが整っています。“自由奴隷”となって理髪店を開業したウィリアム・ジョンソン(1809~51)の住居はいま博物館に。11人目の子どもが生まれて数日後に殺され41歳の生涯を終えてしまった悲劇の人物ではありますが、彼が26歳のときから書き綴った日記の草稿が展示されていました。文字に加えユニークな絵も描かれており、その幅広い才覚の一端がうかがわれます。

ジョンソンは理髪店のほかにも浴場、書店を保有し、それ以外にも不動産業を営むなど、長生きしていたらもっと多くの業績を残したかもしれません。彼の成功をやっかんだ白人に銃で撃たれ死んだのですが、事件の現場にいて一部始終を目撃した遺族が、犯人を裁く場で証言することは当時の法律で許されていなかったといいます。そのため、いったんは捕えられた犯人はそのまま無罪放免に。奴隷制度の不条理を象徴するような事件だったという、添乗員ガイドの説明を聞いていると、どうにも不愉快な気持ちになります。そのあとで訪れたロザリー邸(マンション)が、444人もの奴隷を使って大成功を収めたイギリス人の大邸宅だっただけに、そうした思いをいっそう深くしました。

途中で船に戻ったツアーの一行と別れ、私ひとりで街を散策しました。とにかくきれいな町で、綿花の積み出し港として繁栄した名残がそこここに感じられます。商売上手なことにかけては世界に冠たるユダヤ人が活躍していたのでしょう、ユダヤ教の教会や集会所がいまも残っていることからしても、よほど潤っていたのでしょう。

 

船はキホン、毎夕5時ごろ港を出発するのですが、出航の合図は、屋上デッキにしつらえられた蒸気パイプオルガンです。5階のオルガンの鍵盤をたたくとデッキのパイプが蒸気を吹き出しながら音を出します。見ているとなんだか不思議な感じがし、思わず写真を撮ってしまいました(動画を見たほうがその不思議さはよくわかるでしょうが)。

 

5時を過ぎるとあたりは夕日に包まれ、この場面だけ見ていると、さぞかしロマンチックな旅かと思わせるのですが、実際はそうでもないというのは、皆さんもご想像のとおり。それでも、船のユニークなデザインの煙突は美しいというか、「明日はどんなところに行くかな……」という夢をかき立てます。

最初の上陸地ヴィックスバーグは南北戦争の激戦地

2019年11月27日

今日はクルージング3日目。25日の夕方、船はメンフィスから静かに出発しました。最初の小一時間ほどは両サイドに光も見えましたが、そのあとはもう何もなし。どちらも真っ暗です。ずっとこんな感じなのかなぁと、悪い予感がしました。しかも、昨日はどこにも寄港することなく、ひたすら走るだけ。添乗員さんは「体をゆっくり休め、時差ボケをなくしてください」と言っていましたが、まるまる1日、船の中でボーッとしているのも疲れます。私にとっては69回目のバースデーでしたが、なんだか気が抜けてしまいました。

さて、今朝着いたのはヴィックスバーグという町です。1862・63年の二度にわたりこの地で繰り広げられた激戦に北軍は勝利します。そのとき南軍を率いていたのがJ・ペンバートン将軍で、南軍を包囲した北軍の指揮官がU・グラント将軍。北軍が勝ったことで、ミシシッピー川は北軍の制圧下に置かれることになり、南部連合は地理的に分断されたといいます。以後は北軍が優勢に戦いを進めたことで、大きなターニングポイントとなりました……。というのですが、南北戦争についてほとんど知識のない私のような者にとっては、いまひとつピンと来ません。ほぼ焼け落ちたときの状態をとどめているペンバートン将軍の屋敷を見ても、「はあ、そうですか」とうなずくだけです。

それよりわかりやすかったのは、「コカコーラ博物館」。といっても、見かけはごく普通のスタンド喫茶といった感じです。1894年、この地で菓子屋を営んでいたジョセフ・ビーデンハーンがコカコーラを初めて瓶詰めしたのだそうです。この当時のボトルなど、内部は古い時代の関連グッズがぎっしり。コレクターにとっては垂涎の的なのでしょう。

25日の夜からクルーズ船の食事が続きそろそろ飽きを感じ始めていた私は、どこか食事のできる店はないかと探してみましたが、2つ、3つある店の看板を見ても、食指が動きません。サンクスギビングで休業中という店が多いですし、そもそも店の数が圧倒的に少ないのです。町を歩いている人も私たちと同じ船に乗っている一団だけで、さみしいことさみしいこと。お腹も空き始め、テンションがまったく上がらないまま船に戻るしかありませんでした。

辛辣な気持ちにさせるメンフィスの公民権博物館

2019年11月25日
今回のミシシッピー川クルーズはテネシー州メンフィスからルイジアナ州ニューオーリンズまで600数十キロを7泊8日で下っていくというもの。リバークルーズですから、もちろんゆっくりではあるのですが、今回はそのゆっくり度がきわだっています。というのも、船が外輪船で動くスタイルだからです。かつてのような蒸気船ではなくディーゼルを用いてはいるものの、外輪船なのでゆっくり、そして風情もある──という触れ込みです。

メンフィス(Memphis)という地名は、古代エジプトにちなんだものだそうです。そういえば、カイロからピラミッドを見に行ったことを思い出しました。たしか、古代エジプトのメネス王によって建設され、古王国の首都だったこともある由緒のある町で、世界遺産にもなっています。いまでも当時の遺跡が博物館として残されており、ラムセス2世の巨大な石像が横たわった姿で展示されているのが印象的でした。ナイル川沿いに築かれたそのメンフィスにちなみ、ミシシッピー川沿いに築かれたこの町を同じ名前で呼んだのかもしれません。なんと、博物館のすぐ近くにピラミッドの形をした大きな建物まで建っていました。

ホテルからそのピラミッド型の建物近くにある観光案内所まで歩き、中に入ると当地が生んだロックンロールの大スター=エルヴィス・プレスリーとブルースの大御所B・B・キングの大きな像が。ただ、真ん前を流れるミシシッピーの流れはたしかに雄大ですが、対岸が見えないほどの川幅ではありません。

そこから再び町に戻り、トラムに乗車。そして、1968年遊説中のマーチン・ルーサー・キングJr.牧師が暗殺されたロレインモーテル306号室(現在その部屋を含め建物全体が「公民権運動博物館」として公開されている)に行きます。

館内に入ると、17世紀の初め西アフリカから最初にアメリカに奴隷が連れてこられたときから南北戦争が始まる1861年までの奴隷制度に関する資料が展示されています。しかし、その後も南部一帯では人種分離政策がおこなわれ、学校やレストラン、病院などすべての公共の場で、有色人種は差別されていました。そうした社会状況の起こったのが「ローザ・パークスの逮捕とバスボイコット事件(1955~56年)」です。

アラバマ州モンゴメリー市内で、混雑していた市バスに乗っていたローザ・パークスは、運転手から席を空けるように命じられましたが、それを拒み逮捕されました。彼女は拘置所に入れられましたが即日保釈となり、後日、罰金刑を課されます。しかし、これに抗議した黒人たちが「バス乗車ボイコット運動」を始めたのです。そのため市バスの運賃収入が絶たれたモンゴメリーの財政は大きなダメージをこうむります。黒人たちが、バス車内における人種分離条例は違憲であると認めるように求めた裁判で、翌年連邦最高裁判所は違憲判決を下し、公共交通機関における人種差別は禁止されることになりました。このボイコット運動をリードした一人がキング牧師でした。

この当時のバス(レプリカですが)が展示されており、実際その中に乗ることもできます。テープで「そこの女! 席を立て! 立たないと警察に通報するぞ!」というバスの運転手の声も再現されています。その横柄でぞんざいな口調を聞くと、当時の黒人がどのような差別を受けていたのかが実感できます。

 

 

その後キング牧師が主導し全米に広がっていった公民権運動の様子や、1963年8月28日のワシントン大行進、そのときの有名な演説「I have a dream.……」が記録映像とともに流れているのですが、アメリカにおける黒人差別→市民権の奪還の様子がよく理解できる、非常にユニークな施設になっています。

そのあとランチを取った店は、メンフィスでも最古のカフェ(というかダイナー)だそうで、歴史を感じさせる造りをしていました。メニューはハンバーガーで、案の定大変なボリューム。とてもではありませんが食べ切ることはできません。今年で創業100周年ということで、記念のグッズも売られていたので、マグカップを買いました。

ランチのあとはメンフィスの目抜き通りともいえるビールストリート(Beale Street)へ。夜になると数十軒あるというライブハウスが一斉に営業を始め、大変な盛り上がりを見せるようですが、今日はまだ明るい時間帯なので、その迫力に触れることはできませんでした。

再びホテルに戻りしばし休憩ののち、迎えのバスに乗って船着き場まで行きます。いよいよ乗船開始で、あてがわれた部屋に行ってみると、これが予想していたより広い印象で安心しました。バスルームもバスタブ付き。これなら安心です。

テレビのスイッチを入れWEATHER CHANNELに合わせると、ここ2、3日、アメリカのほぼ全土を襲っているウインターストームの様子が報じられていました。先口がDOROTHY、後口がEZEKIELと名づけられ、日本で言う「爆弾低気圧」、その超大型版といった感じです。大変な猛威を振るっているようで、その影響が及んでいないのは、私たちがいるテネシー州南部からミシシッピー州、そして目的地のルイジアナ州のあたりだけ。それ以外の地域はすべて、豪雨、豪雪、吹雪、竜巻、雷雨などがこのあとも数日は続くようです。

アメリカではクリスマスに次ぐ大々的な休日(11月の第4木曜日)「サンクスギビングデー(感謝祭)」とちょうど重なっています。この時期は、日本でいう「帰省」をする人も多く、航空機の大幅遅れや欠航、道路の通行止め・事故による渋滞は大打撃。また、電気・ガス・水道のライフラインがストップしたり洪水や降雪による事故も起こったりしているようで、大きな混乱をきたさないといいのですが。私たちのような旅する身としても、12月4日のニューオーリンズ出発のときまでは、とりあえず無事であってほしいものです。

13年(以上かも?)ぶりのメンフィス

2019年11月24日

夕方、成田を出発するアメリカン航空便でダラス・フォートワース経由でメンフィス空港に着いたのは同じ日の夜8時前。気温は6℃で、日本とさして変わりません。空港ビルから外に出てタバコを口にしたのですが、その場所も前に来たときと同じだったような気がします。違っているのは案内表示の中に「UBER(スマホを利用した配車サービス)」の4文字が見られたことくらいでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

旅行会社が用意してくれたバスでダウンタウンにあるホテルへ。気が利いているなと思ったのは「おにぎり弁当」を各自に要してくれていたこと。袋を見ると、「石水」という文字があります。どうやら、前に訪れたとき食事に行った和食レストラン「石水」のようです。これにはびっくり。ネットで見ると、最初この地でレストランから始まったのが、その後発展し、いまでは旅行会社など手広く経営しているようです。

メンフィスは世界の物流の拠点としても知られ、「FORTUNE500」に名前を連ねる大企業のうち、FeDex(輸送)、ServiceMaster(アウトソーシング)、INTERNATIONAL PRINTING(製紙)という3社の本社があるとのことでした。

「バルト3国」とひとくくりにするのは無理があるかも

2019年7月9日

昨日が今回のツアーも実質最終日。それでもタリンを出るのは午後なので、午前中は家人と二人でゆっくり見て回ることができました。昨日の街歩きでは足を踏み入れなかったエリアを中心に歩きます途中、次から次と、「世界遺産」に指定されている建物と遭遇。これまでタリンは2回訪れたことがあるのですが、町全体の様子がようやくつかめた感じがします。

 

3月に訪れたノルウェーもここからさほど遠くはないものの、雰囲気や香りはまったく異質です。フェリーに乗って1時間も走ってバルト海を渡ればフィンランド。町の看板などを見ると、そこに書かれている言葉はフィンランド語とごく近いことが見て取れますが、空気はビミョーに違います。エストニアはエストニア、フィンランドはフィンランドなのです。バルト3国を「北欧」に含めるのはむずかしいかもしれません。

しかも、南隣のラトヴィア、さらにその南にあるリトアニアと比べても、違いがあり、「バルト3国」とひとくくりにしていいものなのか、にわかに判断できません。ただ、この3国に共通するのは、第2次世界大戦が始まって間もなく旧ソ連の支配下におちいり、戦後もずっとそれが続いたこと。そして、民族の自立が奪われ、文化も抑圧され、言葉さえ奪われてしまったことです。そのことに対する怒りは当然、ずっと燃え続けていたにちがいありません。しかし、その表現のしかたはそれぞれで、最終的には3国すべて旧ソ連の支配からは脱することができましたが、いま歩んでいる道はそれぞれ異なります。そして、これは「3国」をいっぺんに訪れないと見えてこないように感じました。私たちは幸か不幸か、エストニア(といっても首都だけ、それもほんの一部ですが)に2回来ており、ほんの断片しか見ていませんでした。しかし今回、駆け足とはいえ「3国」をいっぺんに訪れ、そうした歴史的背景や文化的な基盤を目の当たりにすることができ、本当によかったと思います。

 

これで、この3国を語るときけっして抜きにできないポーランドを訪れてみると、また別の受け止めもできるように思えます。いつの日にか、ポーランド、さらには、リトアニアと地続きでありながら、いまなおロシアの飛び地になっているカリーニングラード(ケーニヒスベルク)にも足を運んでみたいものです。ケーニヒスベルクは北方十字軍の時代、ドイツ騎士団によって建設された町で、その後長らくプロイセン公国の首都でした。バルト海に面する不凍港として、ロシアはのどから手が出るほど欲かったところだったため、第2次世界大戦が終わるとすぐ、その一部を領有化することに成功し、いまもその状態が続いています。3国を取り囲むどの国も例外なく、ロシアに、ポーランドに、スゥエーデンに、デンマークに、またドイツに長い間影響を受けながらも、独自性を保ってきたことの意味。地続きで国境を接することの意味を改めて考えてみる必要がありそうです。

 

最後に。タリンの空港もコンパクトですが、機能性・利便性にかけてはかなりレベルが高いように感じました。ターミナルビルの真ん前までトラムが来ているのが象徴的。中も明るく広々としています。空港内では利用者ならだれでも、無料のWi-fiが提供されているといいますし、この国で開発されたスカイプ(Skype)のブースが設置されていました。

この空港はACI(国際空港協議会=国際空港の管理者の団体で、179カ国・地域にある1650の空港を運営する580団体が加盟)が毎年実施している「利用客が選ぶ優れた空港」部門で、2018年、ナンバーワンに選ばれた(年間利用客500万以下のカテゴリー)のも納得できる。当然、成田空港のように、ゲートまで行く通路が前面カーペットで覆われているようなこともありません。キャリーケースを引きながら歩く旅行者にとってあれはホント迷惑なんですね。カーペットを敷き詰めていいのは、せいぜいラウンジくらいのものでしょう。空港というのは豪華である必要はまったくありません。使い勝手がよくてナンボなのですから。これからますます発展していきそうなこの空港に、ぜひまた降り立ってみたいものです。

同じ場所も、コースが変わると初めてのよう

2019年7月8日

朝7時過ぎから、添乗員さんと一緒にホテル近くを小1時間散歩しました。「トームペア城」「キーク・イン・デ・キョク・ネイツィルトン」塔の横にある坂を上って下るだけでしたが、上り切ったところで目にした風景を見て、4年前のことを思い出しました。旧市街の中心エリアから客を乗せて30分ほど走る馬車に乗ったとき通った道を横切ったのです。国会議事堂の前を走る通りの手前のところでした。同じ場所でも、どこからどうアプローチするかでまったく印象が違うので、気がつくまで少々時間がかかった次第。日本大使館があるのも初めて知りました。

朝食後の観光も最初は早朝と同じコースをたどります。「アレクサンドル・ネフスキー聖堂」(ロシア正教の教会できらびやか)「大聖堂」(こちらはプロテスタントのため質素な造り)を見て展望台へ。その先は急な坂を下り、「聖ニコラス教会」を経て旧市庁舎のるラエコヤ広場へ。4年前のときと違い、今日は広場が小さなテントで埋め尽くされていました。衣料品や民芸品、アクセサリーや小物、お土産品など、40近くあったでしょうか。

     

  

今日のランチは事前に用意されておらず、「自由」。ただ、ヴィリニュスでもそうでしたが、参加者のほとんどは知識がないので、ほとんどが添乗員さんの教えてくれる店に行くことになり、結果としては通常と同じスタイルになります。

この日は広場近くの“中世料理”を食べさせる店とのこと。「中世」とくれば、たぶんジビエっぽい感じでしょう。こちらに来てからずーっと“肉攻め”にあっていたので、現地ガイドの女性に「どこか、近くに中華のお店はないですか?」と聞いてみました。すると。「あるにはありますけど、ちょっとお勧めできません」とのこと。しかたなく、とりあえず添乗員さんについて行ってみると、広場の裏手にある「Olde Hansa」という店でした。

店構えは、いかにも“中世”っぽい感じで、前を通れば「おやっ」となるような店ではあります。しかし、中に入るともっとリアルな“中世”で、照明はすべてロウソク。テーブルやイスも分厚い木で造られていて、ギシギシいう階段を上がり2階へ。ちょっと……という感じがしたので、席に着く前にリタイアを宣言、店を出ました。これといってアテがあるわけではなかったのですが、4年前に入ったカフェを思い出し、そちらに行きました。小さな店ですが、幸い混み合ってもおらず、オープンサンドとサラダ、カプチーノで済ませることに。肉、肉、肉でかなり疲れていたので、ライトな量がころあいでした。デザートのカプチーノ・ケーキも、ほどよい甘さ。

 

午後はバスで15分ほど走り「野外博物館」へ。海っぷちの森の中にある施設なのですが、とてもよくできており、ひと回りすると当地の人々が昔どのように暮らしていたのかがよく分かるというコンセプト。農家、漁師の家、風車、学校、教会などが点在する中を1時間ほどかけてゆっくり歩きます。どの建物も単に保存されているだけでなく、それっぽい服装をした係員が中におり、いまもそこで誰かが暮らしているかのような感じがします。木々の中を縫うようにして整備された遊歩道も広く、フィトンチッドが目に見えてるよう。日本で夏の真昼にこんなところを歩けば汗びっしょりでしょうが、最高気温が20℃にも行かない今日のタリンでは、そんな目に遭うこともありません。

 

圧巻のひと言! 「歌と踊りの祭典」

2019年7月7日

朝7時半にパルヌの町を出発、バスに2時間半ほど揺られ、3カ国目エストニアの首都タリンにやってきました。途中、小雨が降り出し霧が出てきたときはホント心配になりましたが、到着したときはすっかり雲が消え青空が。午前中は、旅行会社が用意してくれた、今回の目玉「歌と踊りの祭典」の「踊り」部門の出演者と交流するプログラム。会場は、さすが4つ星ホテル、ゴージャスなヒルトンです。

 

「歌の祭典」は1869年に始まり、そのときはオーケストラと合唱団が合わせて51、参加者は845人だったといいます。1934年から「踊りの祭典」が加わり、その後は不定期開催。それが5年に1回」となったのは1990年(第22回)から。ベルリンの壁が崩壊したその前年、エストニア、ラトヴィア、リトアニアの「バルト3国」では、「独立」の波がいやおうなしに高まります。そして、旧ソ連から「独立を回復」したのが翌1991年8月でした。

エストニアでは、「歌」は、それぞれの人生にとって、また社会全体にとって、とてつもなく重い意味があるようです。”singing revolution”=「歌う革命」によって、この国の人々はラトヴィア、リトアニアとともに、旧ソ連から自由を勝ち取りました。エストニアでは一滴の血も流されなかったといいます。

映像や写真で見るのと違い、各人が身に着けている民族衣装の素晴らしいこと。デザイン的にはごくシンプルなのですが、どの人の衣装も、それぞれの出身地域や出自が反映されているそうで、強い印象を与えます。女性のスカートのストライプ、ブラウスの形や模様、柄、またベストのデザインや色合い、スタイルによって、その人がどの地域の出身なのか、即座に分かるとのことでした。

私たちの質問にうれしそうに、また丁寧に答えてくださる様子から、5年に1回開かれるという今回の祭典に対する並々ならぬ思い入れが感じられました。現地ガイドの女性の日本語ははなはだつたないものでしたが、それでも出演者の気持ちはひしひし伝わってきました。東京オリンピックに出場する選手以上の熱さとでもいいますか。エストニアの人たちにとってこの祭典に出場するのはなんとも誇り高いことなのでしょう。

ヒルトンホテルを出て、旧市街の中心部「ラエコヤ広場」近くにある老舗レストランで昼食。大きな店とあって、私たちのテーブルに17人、すぐ隣にはおよそ40人、後ろにも40人、さらに別室にも20~30人ほどの団体が。しかも、すべて日本人です。少なく見積もっても100人近くの人が日本からやって来ているのですね。一瞬、ここは日本か? と錯覚しそうになりました。

ランチを済ませるとバスに乗り、郊外にある「歌の広場」へ。周辺は人、人、人、車、車、車、バス、バス、バスで、道路は大渋滞。会場に入っても、人であふれ返っていました。私たちの一行は1等席、しかもイスにすわって聴けるとのこと。地元の人は皆、芝生の上にそのまますわっています。家族連れ、カップル、出演者の近親者とおぼしき人たち、外国から帰国してきたエストニア人など、それこそ千差万別。その数合わせて、なんと9万人以上だそうです。そのうち出演者が3万5千人といいますから、それも当然かも。エストニアの全人口は140万足らずであることを考えると、とてつもないイベントであることがわかるでしょう。

何よりも、こういう場所があることにまず驚きました。会場に奥に設けられている野外ステージも度肝を抜く大きさ。少年少女たちによる合唱のときはなんと7000人近くの人(+オーケストラ)が上がるというのですから、想像してみてください。これだけの人数の歌声を──しかも合唱ですよ!──ひとまとめにすること自体、至難の業でしょう。ステージの橋に立つ少年少女から指揮者の動きを見るのも大変そうですし。

開会時間の午後2時ちょうどに到着したのですが、現地ガイドの不手際というか、事前のリサーチ不足というか、入り口を間違えたようです。結局、席にすわるまで30分以上も、人ごみの中を歩かされたのは残念でしたが、ステージには数百人から数千人の歌い手が入れ代わり立ち代わり上がってきます。そして、15分ほど歌い次の演目にという流れなのですが、歌によっては、聴衆のほうも一緒に歌ったり手拍子を送ったりと、言葉では表現できない一体感が伝わってきました。なかには、全員が口ずさんでいる曲もあり、ひょっとすると国歌かと思いきや、実際は違ったりします。それにしても、これだけの人数がそろってアカペラで歌える曲がいくつもあるというのも大きな驚き。日本にそういう曲があるのかなぁとふと考えたのですが、『ふるさと』くらしか思い浮かびません。それだって、1番はともかく、2番、3番となると、ソラで歌詞が出てくるかあやしいものでしょう。

 

私たちが会場にいられるのは午後5時半まで。それから夕食を済ませホテルに戻ったのは8時を回っていましたが、テレビのスイッチを入れるとまだ中継が流れていました。結局終わったのは10時を回っており、なんと8時間以上も続いていたことになります。しかも、朝からずっとCMなしで中継していたようですから、これもまたすごい! その夜遅く、EURONEWSのニュースでも報じられていましたので、ご参考までに。
https://www.euronews.com/2019/07/08/tens-of-thousands-of-estonians-perform-mass-folk-singing

日本語にチョー堪能な現地ガイドにびっくり!

2019年7月6日

リーガには1泊しかしません。旅行会社のスケジュールによると、今日の午前中は旧市街を歩いて回るだけ。1890年から1910年ごろに造られた新市街に足を踏み入れる予定はなし。それでは……と思い、朝早めに起き、新市街のユーゲントシュティール(アール・ヌーヴォー)建築が集中して建つエリアにひとりで行ってみました。ホテルからは歩いても10分足らずのアルベルタ通り、エリザベテス通り一帯には、これでもかというくらいそれ風の優雅な建物が。ミハイル・エイゼンシュタインの作品がズラリと並び、ほとんど野外美術館の様相を呈していました。

一つひとつの建物にそれぞれ趣向の異なる飾りがほどこされ、見ていても飽きません。つい数か月前に訪れたノルウェーの町オーレスンでもいくつか目にしたものの、質量とも圧倒的に凌駕しています。また、フランスのナンシーほど、道路の幅が広くないので、印象も強烈。もちろん、総本山的な存在であるブリュッセルにはかないませんが。

 

旧市街を歩いて回る観光をリードしてくれたラトヴィア人のガイド(ウギス・ナステビッチさん)は秀逸な方でした。日本語のうまさ・おもしろさもさることながら、話の内容が深いのです。聞けば、日本の神道を研究するために留学していたとのこと。大学の卒業論文も、ラトヴィア神道と日本神道との関係がテーマだったといいます。「ラトヴィア神道」とは、先にも触れましたが、この地の人々に古くから伝わる自然信仰のこと。日本と同じような“神社”の様式や“巫女【みこ】”の舞いを映像で見ると、ビックリ、日本そのものと言ってもおかしくありません。
https://ameblo.jp/toshi-atm-yamato/entry-12444314597.html
www.youtube.com/watch?v=ftzrNKJMSho

ウギスさんの本業は研究者らしく、いまでもたびたび日本を訪れ、さまざまな活動をしているようです。You Tubeにもこんな映像があがっていました。
https://www.youtube.com/watch?v=AUyw4QiJ0VQ
ネットに出ていた略歴には次のようなことが書かれています。
高校時代に独学で日本語を学び始め、日本語弁論大会で優勝。2007年の夏、さらに日本語力を磨こうと初訪日。日本では写真に打ち込み、なかでも人物写真と空撮に熱を入れる。現在はリーガに住み、写真家のかたわら、大学の日本語講師、翻訳家、通訳案内士として日本とラトヴィアの交流活動を展開中。
著書に『ラトヴィアに神道あり』など。修士論文のテーマは『日本神道とラトヴィア神道の神典における徳育体系』。映画『ルッチと宜江』(2016)『ふたりの旅路』(2017)他で通訳を担当。

どうりで日本語が上手で、話の内容も深いわけです。衣服や帽子などに見られる独特の模様も実は、古き時代のラトヴィア神道に由来するものが多いのだとか。しかも、よく見てみると、琉球(沖縄)人、さらにはアイヌ民族に伝わるそれとよく似た感じも。世界がどこでどうつながっているかわからない不思議さを学んだ気がします。

旧市街には、第2次世界大戦のさ中、空襲から逃れようとする市民たちのために急遽作られた「避難指示」標識(左向きの矢印)の跡もあれば、キリスト教が広まる前に信仰されていた神道由来の石像など、長い歴史を象徴するさまざまな事物が。旧ソ連から独立を回復するきっかけとなったバルト3国の“人間の鎖”のスタート地点を示す足跡のモニュメント、「自由記念碑」など、少し歩くだけで1000年近い歴史を体感することができ、興味は尽きません。

            

ステンドグラスが美しい「大聖堂」の中は広い回廊になっています。そこには古くから使われていた事物が展示されており、不思議なことに、日本の神社で目にする狛犬【こまいぬ】を思わせるような石像も。たまたま催されていたパイプオルガンのコンサート(30分間)も楽しむことができ、ラッキーでした。

ランチを終え、バスは一路エストニア屈指の保養地パルヌへ。港湾都市であると同時に観光都市でもあり、国内だけでなくフィンランドなどからも多くの観光客も訪れているようです。18世紀の大北方戦争(1700~21)によってロシアの統治下に入ってから、貴族たちのリゾート地としての開発が進められたとのこと。たしかに、町のそこかしこでキリル文字を目にしますし、ロシア正教の教会もありました。

ただ、リーガを出たのは今日の午後で、しかも明日も早朝出発ですから、ここでは寝るだけ。町にはさまざまな歴史もあるそうですし、家並みも面白いと聞いていたのでとてももったいない気がするのですが、このあたりがツアーの泣き所と言えるかもしれません。せめてバルト海に沈む夕日が見える、波の音が聞こえてくるとかいうのならまだ救いもありますが、それもナシ。宿泊するだけなら、もう少し気の利いたところがあるのではないかと思ったりもします。

夕食を食べに行ったのはロシア貴族のかつての別荘。いまではホテルとしても使われているようですが、広い敷地の中に建ち、素晴らしい庭園も備えた贅沢な店でした。ここまでは行かなくとも、周囲にはそのミニチュアのようなかつての別荘がいくつも立ち並んでいました。

 

 

   

ホテルに戻りテレビのスイッチを入れると、日中タリンの街中でおこなわれていた「歌と踊りの祭典」出演者(+家族・友人や関係者も?)によるパレードの模様が報じられていました。すると、日本から来ている参加者の姿が! 国内だけでなく、エストニアとつながりのある海外の国や町からも来ているようです。ネットで調べてみると、日本からやってきている一団はどうやら和歌山の児童合唱団のよう、昨年8月、エストニアラジオ放送少女合唱団が和歌山市内で開催された「国際児童合唱フェスティバル」に出演したのだとか。そうした縁があったのかもしれません。そういえば、去年の夏から秋にかけて、エストニアの合唱団が全国各地で公演していたような記憶がうっすらよみがえってきました。

カウナスで“日本のシンドラー”杉原千畝に思いを馳せる

2019年7月5日

朝食を済ませると、私たちを乗せたバスはヴィリニュスをあとにし、一路北に向けて走ります。まず立ち寄ったのが「聖ペテロ&パウロ教会」。雨が降り始めましたが、バスが駐車した場所からすぐ近いので、ほとんど濡れずに済みました。内部は、白漆喰【しっくい】の彫刻が壁から天井からびっしり覆い尽くしています。教会というと薄暗く、金や銀をふんだんに凝らした内装、天井画、ほこりっぽい感じの旗やカーテンが目につくところが多い中、内部がとても明るいこの教会は印象的です。この地域の人たちに共通する清楚さを象徴しているかのようです。

 

次の訪問地はカウナス。“日本のシンドラー”とも呼ばれる、かの杉原千畝【ちうね】で有名な町です。ヴィリニュスに次いで人口の多いカウナスですが、1920年ヴィリニュスがポーランドに占領(のちに併合)されてしまったため、臨時の首都になり、領事館が置かれたとのこと。そこへ杉原が領事代理として赴任したのは1939年8月28日。ドイツのポーランド侵攻により第2次世界大戦が始まるわずか3日前のことです。

日本の大使館は当時、憲法上の首都ヴィリニュスに置かれていました。ただ、実質的にはカウナスの領事館がその役割を果たしていたようです。ドイツの占領下にあったポーランドからリトアニアに逃げてきた多くのユダヤ系難民に、日本(この時代は大日本帝国)がビザを発給するようになったのもそのためです。

 

 

当時リトアニアを占領していたソ連は、同国に大使館・公使館・領事館の閉鎖を各国に求めていました。そうした中、まだ業務を続けていた日本領事館にユダヤ人難民たちがビザの発給を求めて殺到する事態になったのです。日本の発給したビザがあれば、シベリア鉄道でソ連を横断しハバロフスクまで行き、そこから日本海を船で渡り横浜、神戸、敦賀など日本まで行けます。その先は、希望する国に移動することができたからです。ユダヤ人難民の多くは、カリブ海にあるオランダ領キュラソー、スリナム、アンティルなどを名目上の行き先にし、日本の通過ビザを発給するよう求めたのです。

それは1940年7月18日から、杉原がカウナスを去る8月31日まで続いたそうです。その間、杉原がサインしたビザの発行枚数は2000を越え、それによって国外に出て難を逃れたユダヤ人の数は6000とも8000とも言われています。のちに“命のビザ”として称賛されたのも当然のことで、杉原は「諸国民の中の正義の人(正義の異邦人)」(=ナチス・ドイツによるホロコーストからみずからの生命の危険を冒してまでユダヤ人を守った非ユダヤ人であることを示す称号)を授与されています。全世界で2万6千人余いる中で、杉原はただ一人の日本人です。

そうした歴史的事実にちなみ、2000年に作られた「杉原記念館」を訪れました。閑静な住宅街の一角に建つかつての領事館兼住居をそのまま記念館にしたものです。当時、杉原よりひと足早く同じことをしていたオランダ領事ヤン・ズヴァルテンディクがそれ以前勤務していたフィリップス社の財政的なバックアップもあり、この記念館は維持されているようです。

中に入ると、最初ビデオを見ることになっており、それで事の次第がはっきり見えます。1階に当時の執務室がそのままの状態で保存され、2階はさまざまな展示が。執務机に向かって座り写真など撮ってもらいましたが、とてもにこにこ笑ってなどいられません。

 

杉原は岐阜県の八百津(やおつ)町の出身だそうですが、カウナスと姉妹提携を結んでいる都市が世界に15ある中には含まれていません。地元には杉原を顕彰する「杉原千畝記念館」「人道の丘公園」という施設があるのに、なんとも不思議ではあります。

記念館が建つ周辺は当時そのままとおぼしき建物がいくつか残っており、その姿を見ていると、杉原やその妻子も80年前、このあたりをきっと歩いたこともあるのだろうなぁと、感慨にとらわれました。

杉原記念館の見学を終え、カウナス市内で昼食。落ち着いた中に、長い歴史と現代感覚が感じられる町で、強い印象を受けました。食事をいただいた店は昔そのままといった雰囲気。

カウナスを発ち、バスは隣国ラトヴィアの首都リーガをめざします。途中「十字架の丘」という観光名所を訪れました。リーガまでの間、立ち寄るに値するスポットはここくらいしかないようです。この間の道のりはほとんど北海道! 右を見ても左を見ても、山がないせいかずーっと畑が続いています。ときおり森や林があるにはありますが、キホン真っ平ですから、心地よく走るバスの座席でうとうとしていてハッと目が覚めたとき外を見ると、一瞬錯覚してしまうほど、北海道の風景によく似ています。

 

 

それにしても、雨が降らずに何よりでした。「十字架の丘」までは駐車場から15分ほど歩いていくのですが、まわりは何も立っていない原っぱのような場所です。この日は風もかなり強く、そこに雨でも降られたら、大変なことになっていたでしょう。十字架の丘を出てしばらく走るとラトヴィアとの国境です。かつては厳しい出入国チェックがおこなわれていたであろう検問所も、いまではカフェやガソリンスタンドがあるのどかな雰囲気。こういう場を実際に通ると、検問が厳しかった時代はさぞかし重苦しい雰囲気がただよっていたのでしょう。それに比べるといまのこの明るさは……といった感じです。しばらく走ると、空に大きな虹が! リーガの町が近づいてくると、この町でいちばん高い建造物=テレビ塔が見えてきました。

 

 

町に入ると、リトアニアの隣国であるにもかかわらず、町の雰囲気が一変した印象を受けます。同じく「旧市街」と呼ばれるエリアがあるのですが、とても洗練されているのです。リトアニアのヴィリニュスが内陸の町であるのに対し、こちらは港町なので開放的というか、商業・ビジネスと縁が深かったのでしょう。

バルト3国はもともと“異教の地”で、なかでもラトヴィアは自然信仰が強い地域だったようです。12世紀に入ると、その一帯にもキリスト教を広めようと、デンマーク、スウェーデン、ポーランド、ドイツ騎士団などによって作られた北方十字軍は先住民に対し情け容赦なく振る舞ったといいます。そのためキリスト教徒は最初のうち、悪者としか思われていなかったとのこと。しかし、信仰心そのものは篤かったのでしょう、ひとたび帰依するとその信仰は深く、そこいらじゅうに教会を建てたようです。

 

その教会の合い間合い間に洒落た建物が立ち並び、行き交う人々やカフェで談笑している人たちの顔を見ても、いきいきとした表情。そんな旧市街を出てすぐ、新市街とのほぼ境界あたりに、今日泊まるホテルがありました。その名も「Grand “Poet” Hotel by Semarah」というところを見ると、その昔、著名な詩人が泊まったりしたのでしょうか。と思って調べてみたのですが、要は建物だけが古く、その内部をリノベーションして Semarah という会社が昨年オープンさせたばかりのデザインホテルのようです。

まあ、それはそれとして、ロケーションは最高。前と後ろがともに大きな公園で、「国立劇場」や「博物館」「自由記念碑」といったスポットのすぐ近く。町の中心部から歩いても30分はかからないくらいなのに、空気も澄み切っていて、都会の喧騒とはほとんど無縁といった感じがします。ただ、団体で泊まるツアーの客にさほどよい部屋が供されるはずもないわけで、私たちの部屋も外側の景色は一切見られませんでした。

 

そこかしこに教会が建つ世界遺産の街・ヴィリニュス

 

2019年7月4日

朝、正規の街歩き観光の前、添乗員さんが「よかったらご一緒に少し散歩しませんか」という声をかけてくださり、一も二もなく参加。ホテルから歩いて15分ほどのところにあるマーケットまで行きます。夏とはいえ、朝7時を過ぎたばかりですから、少し肌寒い感じも。マーケットの中はまだそれほど人が来ておらず、ゆっくり見て回ることができました。新聞・雑誌を売っているコーナーをのぞくと、リトアニア語のものに混じってロシア語版もけっこうあることに気づき、驚きます。独立を回復してから30年近くたっているのに、ですね。

そこから、昼間は観光客で混雑するという「夜明けの門」に。祈りをささげる人が朝早くから訪れています。すぐ近くには「聖テレサ教会」「精霊教会」「聖三位【さんみ】一体教会」「聖カジミエル教会」など、名だたる教会がいくつも立ち並んでいました。私たちのホテルの真ん前には「ロシア正教教会」、裏手には「聖ヨハネ教会」……と、右を見ても左を見てもとにかく教会だらけ。尖【とが】ったアーチが特徴のゴシック様式ではないので、どれも皆まろやかな印象を与えます。

 

午前中は旧市街を本格的に歩きます。「旧市庁舎」を手始めに、再び「夜明けの門」、「ヴィリニュス大学」「ゲディミナス城」「王宮」「大聖堂」「大統領官邸」など、さほど広くもないエリアでしたが、見どころは多々あります。それにしても、教会の多さには驚くばかり。なにせ、大学の中にも教会があるのですから。

  

街歩きはさらに続きます。ヴィリニュスではごく珍しいゴシック様式で建てられている「聖アンナ教会」は息を呑むほど新鮮。その隣に建つ「ベルナルディン教会」のファサードがのっぺりしているので、その鋭角的なたたずまいがよけい強調されて見えます。

 

2つの教会の先に、都心とは思えない渓流が。そこに架かる橋を渡ると、なんとも不思議な空間がありました。その名も「ウジュピス共和国」。長らく橋が架けられていなかったため、古い時代の雰囲気がそのまま残っています。ジョークで「独立共和国」を名乗っているのが面白いですね。

食食後、旧市街からバスで40分ほど走ったところにある古都トゥラカイへ。長らく放置され荒廃していたのが整備された古城が湖に映える美しいところです。城があるのは湖に浮かぶ小島。そこに渡る木製の橋が情緒たっぷり。湖水もほとんど透明で、水鳥がのんびりと泳いでいました。

 

 

 

 

 

トゥラカイから戻ると夕食まで休憩。それでも休憩できないのが私。旅先でボーッとしていることなど、できないのです。そこで、夕方から私ひとりで、旧市街でも別のエリアを探検してみることに。ステポノ通りといういちばんにぎやかな通りを歩きました。アール・ヌーヴォーの建物がけっこう目につくのが印象的でした。これも、旧市街が世界遺産に指定されている所以でしょう。

ただ、どの都市もそうですが、石畳の道なので、長く歩くと疲れてきます。それを忘れさせてくれるのが、町を行き交う人たちの生き生きとした笑顔。さすが首都の目抜き通りといった感じがします。若い人たちは夢と希望にあふれているせいか、だれもがいい笑顔を見せていました。

 

鉄道駅のようなヴィリニュスの空港

2019年7月3日

成田を11時過ぎに出発、途中フィンランドのヘルシンキで乗り継ぎ、リトアニアの首都ヴィリニュスの空港に降り立ったのは午後6時過ぎでした。さすがここまで来るとやはり北国、気温も、16℃という機長のアナウンスにもあったように、日本に比べるとかなり低め。半袖シャツ1枚では少し寒いくらいです。といっても夏ですから、それほどこたえはしませんが。

空港の規模は、日本の地方空港、そう、最近利用したところでいうと鳥取とか秋田あたりの感じでしょうか。内部も、空港とは思えないようなゆるりとしたしつらえが見られます。それでも、一国の首都ですから、出発・到着を示す案内ボードを見ても、イスタンブール、アムステルダム、ロンドン、パリ、ウィーン、バルセロナなど、国際線もかなり行き来しているようです。全体としてこじんまりした感じ、それ故タイト。外に出て空港ビルを見ると、ほとんど鉄道の駅のような印象を受けます。屋根の上から、四方がガラス張りの塔めいた部分がちょこんと飛び出ているのですが、これがひょっとして管制塔なのかもしれません。

ホテルまではバスで10分少々。最初は畑と森でしたが、途中からだんだん都会らしい雰囲気に。といっても、ビルはあまり見かけません。高い建物といえば教会くらいでしょうか、その数の多さには驚きます。同じバルト海に面しているスカンジナヴィア諸国やドイツと比べても、かなり多いのではないかという気がします。ホテル到着は夜の8時前。この時期のヨーロッパはどこでもそうですが、時刻のわりに太陽の位置がまだ高いので、時計を見ると驚きます。今日の日の入りは夜10時少々前だそうです。

外はチョー寒くても、人々の心は温かい

2019年3月29日
最後の寄港地キルケネスに到着したのは朝9時。ここまで走った距離は2465km。青森から石垣島までの距離とほぼ同じです。今日は昨日以上の天気で、空は真っ青、雲ひとつない快晴です。ロシアと国境を接するこの町は、一定の範囲内なら両国民がビザなしで行き来できるそうで、お互い、安いものを求めてキルケネスに行ったり、隣のムルマンスクからロシア人がやってきたりするとのこと。シンガポールとマレーシアの国民が行き来するジョホールバルのような感じでしょうか。

空港から国内線で首都オスロまでは1時間30分。最初は真っ白だった地上の景色が、南へ降りるにつれどんどん緑色と茶色とグレーのまだらに変わっていきます。オスロの空港からは途中、車窓観光をしながらホテルまで。最初は「おやっ」と思った程度でしたが、部屋に入り、窓から町を見下ろすと、5年間に来たときに泊まったホテルかも……と。

荷ほどきを済ませホテルの近くを歩くと、家人は記憶がどんどん蘇ってきたようで、「あのATMでお金を引き出そうとしたらできなかったのよ」とか「その店で買ったミネラルウォーターが1本500円もしてびっくりしたでしょ」などと言います。それでようやく、私も思い出すという始末で、記憶力が落っこちているのにガックリしました。

夕食は素晴らしい店でいただきました。最後なので旅行会社もいいところを用意したくれたようです。市庁舎前広場の最南部、湾に面したエリアに、小さな船が行き来する桟橋が。「Aker Brygge」という、えらくおしゃれなショッピングモールの周りに、ガラスをいっぱいに使った建物がいくつも並んでいます。その一角にある「Lofoten」というレストランでしたが、シーフードもおいしく、ワインもGOOD! 全員お腹いっぱい大満足で食べ終えました。

店の名前にもなっているロフォーテン(諸島)は、明るい時間帯に航行しなかったので、いちばん美しい景色は見れずじまいでしたが、ツアーに参加していた方で、それをとても悔しがっている方もいたほどですから、よほどのものなのでしょう。しかし、それを差し引いたとしても、今回経験した6泊7日のクルーズは、私自身のクルーズに対するイメージを大きく変えたと言えます。

それは、大きな海を走っていても、船の左右どちらか一方にでも陸地が見えると、私たちを飽きさせないということです。当たり前といえば当たり前ですが、フィヨルドの場合はその変化が大きく、少しも油断できないところがあります。ボーッとしているとまったく景色が変わっており、新しい楽しみを発見できるのです。夏も冬も、これほど変化に富んだフィヨルドという大自然を満喫できるノルウェーをうらやましく思いました。外はチョー寒いですが、温厚な笑顔を見せてくれるかの国の人たちの心根には、そうしたことに由来するやさしさが強く息づいているような気がします。

大迫力のオーロラに大感動・大満足!

2019年3月28日

船に夜を過ごすのもいよいよ今日がラスト。朝から素晴らしい好天に恵まれました。今回のツアーの一つというか売りである、ヨーロッパ最北端(北緯71度10分21秒)の岬「ノールカップ」訪問にはもってこいの空模様です。ところが、なんとなんと、「ノールカップ」への入口であるマーゲロイ島の港ホニングスヴォーグに降り、バスに乗ろうかというまさにその瞬間、添乗員さんの声が。「今日は残念ながら、ノールカップに行く道が通行止めになってしまいました」ですと。前日まで続いた悪天候が災いしたようです。全員アチャーッ! という感じで、「ではどうするの?」。代替観光というにはあまりに方向性が違う、漁村訪問と町の見学ということにあいなりました。

途中、「ノールカップ」に向かう道路(30kmほど)との分岐点を、うらめしい気持ちで通り過ぎ、ひなびた漁村まではゆっくり走ります。こんな田舎でも、家々はかわいらしいという言葉がぴったりのカラーで塗装されており、日本の漁村とはまったく違う印象が。空はますます晴れ渡り、風もなく、気温もそれほど低くないというのに、いまさらながら「なんで?」という質問が同行のツアーメンバーから発せられます。要するに、「ノールカップホール」という施設そのものが閉鎖されてしまったのですね。というわけで、楽しみにしていた、地球の形がユニークなモニュメントの前で記念撮影という夢もついえてしまいました。

漁村に到着し、私たちが訪れたのは小さな入江の一角にある加工場。そこいら中にタラが干してあります。1、2日前に獲れたとおぼしきもの、1週間から10日ほどたったように見えるもの、頭の部分だけなど、その姿はさまざま。このエリアでいかに多くタラが獲れるかがひと目でわかります。

 

 

その一角に、こんなところになぜ? と言いたくなるようなギャラリーがありました。中に入ると、切り絵でアートを作っている女性作家がひとり、私たちを歓迎してくれます。温かみのあるユニークな風合いの作品がいくつも並べられ、家人も一つ購入。

ホニングスヴォークは人口3千ほどの小さくて地味な町ですが、北部ノルウェーの重要な漁港だそうです。1944年、それまでこの町を占領していたドイツ軍が撤退するにあたり、町を徹底的に破壊していったため、教会だけが唯一残ったといいます。

バスの窓からその教会を見たりしながら、桟橋まで戻りました。少し時間に余裕があったので、近くを回ってみました。雪が解けてグチャグチャにぬかるんでいる道路の歩きにくいこと。途中、「ノールカップ」をあきらめさせられたクルーズの客と何人もすれ違いました。

シーフードビュッフェの夕食が済み、部屋でひと休みしていると、添乗員さんの興奮した声が客室の中まで聞こえてきました。「オーロラ、出ましたーっ! 出ましたよーっ!!」 ほとんど着の身着のまま状態で上の甲板に行くと、たしかに、いますぐにでも出そうな空です。星がいっぱいで、雲がほとんどありません。風もおだやかで、気温はおそらく0℃くらい。

3、4分たつと、まず小さなオーロラが。緑色のぼやーっとした巨大な雲のような感じです。それが自由自在に動き、大きくなったり小さくなったり。いったんは消えましたが、今度は逆の方向にそれより大きなオーロラが。風になびくカーテンのように形をしています。それが左から右へ、上から下へと変幻自在に動き、形を変えていきます。さらに、もっと大きなオーロラが、それこそ空の半分近くを覆うように姿をあらわしました。それがなんと3分近く続き、私たちはもう極度の興奮状態に。

昨夜までは、三脚をセット、オーロラ出現に備えていたのですが、この夜は荷造りもしなくてはならなかったので、写真を撮るのは早々にあきらめ、「スマホでいいや」と思っていた私。しかし、スマホででも十分に撮れるくらいの巨大でドラマチックなオーロラですから、きちんと準備をして甲板に上がってきた人は、それぞれ素晴らしい写真が撮れたようです。

 

7年前、カナダのイエローナイフというところで、マイナス20数度の極寒の夜、オーロラを見ましたが、それに比べると今夜のそれはスケールが違いすぎ、大パノラマといった感じ。イエローナイフがシャボン玉の泡だとすれば、このとき観たオーロラは固いラグビーボールのようなものです。最後の夜に観ることができ、ホント幸せでした!!! 「ノールカップ」に行けなかった落ち込みから、天まで一気に昇りつめたような感じでしょうか。

ずーっと見ていても飽きることのないフィヨルド

()2019年3月27日
なんだかあっという間に時間が過ぎていく感じで、まったく退屈しません。乗る前は、フィヨルドを縫うようにしてただ航行していくだけだから、途中で飽きてしまうのではないかとも正直、思っていました。でも、実際に乗ってみると、海岸の景色は千変万化、どんどん変わっていくのです。

北極圏に入るまでは積雪量もそれほどではないせいか、山肌にも木や草、また岩の姿が見えました。というか、表面はあまり白くないのです。しかし、緯度が高くなるにつれ、それが徐々に逆転、ストークマルクネス、ソルトラン、リソイハムンを経て、今朝到着したハシュタ近辺は9割方、雪と氷に覆われています。もう見るからに「北極圏!」といった印象ですから、気持ち的にも「寒い~!」となり、体が縮こまりそうです。

今朝6時45分に着いたハシュタ(Harstad)の町は、停船時間が1時間ということもあって、ツアー一行で上陸。船の近くを40分ほどかけて歩きました。とりたてて特徴があるわけではありませんが、それでも寒さを実感する──とくに足もとから──にはいい経験でした。

午前中は船内のサロンのようなところで、「北欧クイズ&講座」の時間がもたれ、ここまで数日の間、添乗員さんと現地ガイドの方が伝えてくれた話の復習作業のようなことをしながら楽しみました。聞いているようで頭に入っていないことも少なからずあり、旅で得られる情報は、幅も広く量も多いことに気づかされます。

14時15分、トロムソに到着。ここは北極圏では最大の町ですから、当然下船観光となりました。船を降りるとバスでまず「ポーラリア」という水族館に行き、アザラシへの餌やりを見学。私は早々に外に出てタバコなど吸っていましたが、水族館の周囲には、アザラシ狩猟船が保存展示されたガラス張りに建物がありました(冬場はクローズ)。その建物は、すぐ前にノルウェーの探検家ナンセンの小さな彫像があったので、てっきりナンセンが北極点をめざして探検したときに乗っていったフラム号かと思っていたのですが……。

  

ここから橋を渡りメインランド側にある「北極教会」に。1965年に完成したという教会ですが、ガラスとコンクリートをふんだんに用いて作られている岩の教会もそうでしたが、北欧というところは、伝統的な建築様式の教会もある一方で、こうしたシンプルなデザインのものもときおりあるようです。MARIMEKKOやIKEA、INOVATOR、KLIPPAN、IITTALA、ARABIA、ロイヤルコペンハーゲン、ヤコブ・イェンセン、BANG&OLUFSENなど、フィンランド、スウェーデン、デンマークのブランドはその名が広く知られていますが、なぜかノルウェーのブランドは日本ではほとんど無名。ただ、そのコンセプトにはどこか共通したものがあるのでしょう。

   

教会内部もシンプルそのもの。木をふんだんに用いてあるので、ぬくもりがよく伝わってきますし、三角形のステンドグラスも斬新な印象を受けました。バスでターミナルまで戻ると、乗船時刻まで1時間ほどあったので、近くをひと回り。公園にアムンゼンの銅像が立っています。そこから少し街中に入ると、世界最北端(?)の地にあるセブンイレブン、こぎれいでシンプルな教会、かわいらしい店が並ぶ商店街がありました。いかにも北欧、ノルウェーのイメージで、ぬかるんだ道も気にならず、ゆっくり見て回ったあと乗船。

 

 

 

夜11時頃、「オーロラが見えそうですよ!」という添乗員さんの声が聞こえました。あわてて7階のデッキまで上がっていったのですが、残念ながら不発。たしかに、空は晴れていて星もそこそこ見えはしましたが、オーロラ出現までには至らず、部屋に戻りました。