日本語にチョー堪能な現地ガイドにびっくり!

2019年7月6日

リーガには1泊しかしません。旅行会社のスケジュールによると、今日の午前中は旧市街を歩いて回るだけ。1890年から1910年ごろに造られた新市街に足を踏み入れる予定はなし。それでは……と思い、朝早めに起き、新市街のユーゲントシュティール(アール・ヌーヴォー)建築が集中して建つエリアにひとりで行ってみました。ホテルからは歩いても10分足らずのアルベルタ通り、エリザベテス通り一帯には、これでもかというくらいそれ風の優雅な建物が。ミハイル・エイゼンシュタインの作品がズラリと並び、ほとんど野外美術館の様相を呈していました。

一つひとつの建物にそれぞれ趣向の異なる飾りがほどこされ、見ていても飽きません。つい数か月前に訪れたノルウェーの町オーレスンでもいくつか目にしたものの、質量とも圧倒的に凌駕しています。また、フランスのナンシーほど、道路の幅が広くないので、印象も強烈。もちろん、総本山的な存在であるブリュッセルにはかないませんが。

 

旧市街を歩いて回る観光をリードしてくれたラトヴィア人のガイド(ウギス・ナステビッチさん)は秀逸な方でした。日本語のうまさ・おもしろさもさることながら、話の内容が深いのです。聞けば、日本の神道を研究するために留学していたとのこと。大学の卒業論文も、ラトヴィア神道と日本神道との関係がテーマだったといいます。「ラトヴィア神道」とは、先にも触れましたが、この地の人々に古くから伝わる自然信仰のこと。日本と同じような“神社”の様式や“巫女【みこ】”の舞いを映像で見ると、ビックリ、日本そのものと言ってもおかしくありません。
https://ameblo.jp/toshi-atm-yamato/entry-12444314597.html
www.youtube.com/watch?v=ftzrNKJMSho

ウギスさんの本業は研究者らしく、いまでもたびたび日本を訪れ、さまざまな活動をしているようです。You Tubeにもこんな映像があがっていました。
https://www.youtube.com/watch?v=AUyw4QiJ0VQ
ネットに出ていた略歴には次のようなことが書かれています。
高校時代に独学で日本語を学び始め、日本語弁論大会で優勝。2007年の夏、さらに日本語力を磨こうと初訪日。日本では写真に打ち込み、なかでも人物写真と空撮に熱を入れる。現在はリーガに住み、写真家のかたわら、大学の日本語講師、翻訳家、通訳案内士として日本とラトヴィアの交流活動を展開中。
著書に『ラトヴィアに神道あり』など。修士論文のテーマは『日本神道とラトヴィア神道の神典における徳育体系』。映画『ルッチと宜江』(2016)『ふたりの旅路』(2017)他で通訳を担当。

どうりで日本語が上手で、話の内容も深いわけです。衣服や帽子などに見られる独特の模様も実は、古き時代のラトヴィア神道に由来するものが多いのだとか。しかも、よく見てみると、琉球(沖縄)人、さらにはアイヌ民族に伝わるそれとよく似た感じも。世界がどこでどうつながっているかわからない不思議さを学んだ気がします。

旧市街には、第2次世界大戦のさ中、空襲から逃れようとする市民たちのために急遽作られた「避難指示」標識(左向きの矢印)の跡もあれば、キリスト教が広まる前に信仰されていた神道由来の石像など、長い歴史を象徴するさまざまな事物が。旧ソ連から独立を回復するきっかけとなったバルト3国の“人間の鎖”のスタート地点を示す足跡のモニュメント、「自由記念碑」など、少し歩くだけで1000年近い歴史を体感することができ、興味は尽きません。

            

ステンドグラスが美しい「大聖堂」の中は広い回廊になっています。そこには古くから使われていた事物が展示されており、不思議なことに、日本の神社で目にする狛犬【こまいぬ】を思わせるような石像も。たまたま催されていたパイプオルガンのコンサート(30分間)も楽しむことができ、ラッキーでした。

ランチを終え、バスは一路エストニア屈指の保養地パルヌへ。港湾都市であると同時に観光都市でもあり、国内だけでなくフィンランドなどからも多くの観光客も訪れているようです。18世紀の大北方戦争(1700~21)によってロシアの統治下に入ってから、貴族たちのリゾート地としての開発が進められたとのこと。たしかに、町のそこかしこでキリル文字を目にしますし、ロシア正教の教会もありました。

ただ、リーガを出たのは今日の午後で、しかも明日も早朝出発ですから、ここでは寝るだけ。町にはさまざまな歴史もあるそうですし、家並みも面白いと聞いていたのでとてももったいない気がするのですが、このあたりがツアーの泣き所と言えるかもしれません。せめてバルト海に沈む夕日が見える、波の音が聞こえてくるとかいうのならまだ救いもありますが、それもナシ。宿泊するだけなら、もう少し気の利いたところがあるのではないかと思ったりもします。

夕食を食べに行ったのはロシア貴族のかつての別荘。いまではホテルとしても使われているようですが、広い敷地の中に建ち、素晴らしい庭園も備えた贅沢な店でした。ここまでは行かなくとも、周囲にはそのミニチュアのようなかつての別荘がいくつも立ち並んでいました。

 

 

   

ホテルに戻りテレビのスイッチを入れると、日中タリンの街中でおこなわれていた「歌と踊りの祭典」出演者(+家族・友人や関係者も?)によるパレードの模様が報じられていました。すると、日本から来ている参加者の姿が! 国内だけでなく、エストニアとつながりのある海外の国や町からも来ているようです。ネットで調べてみると、日本からやってきている一団はどうやら和歌山の児童合唱団のよう、昨年8月、エストニアラジオ放送少女合唱団が和歌山市内で開催された「国際児童合唱フェスティバル」に出演したのだとか。そうした縁があったのかもしれません。そういえば、去年の夏から秋にかけて、エストニアの合唱団が全国各地で公演していたような記憶がうっすらよみがえってきました。