本場のタコスのおいしさに舌を巻く!

2018年4月26日
朝から下半身、とくに太ももと膝に鈍い痛みがあります。前日の「月のピラミッド」に登
ったのが響いているのでしょう。しかし、そんなことに負けてはいられません。今日は
朝から博物館と動物園の見学です。私たちの泊まっているホテル周辺は、広大な「チ
ャプルテペック公園」。その一角に、当地では最大の観光スポットとされる「自然史博
物館」があります。

この博物館の規模の大きさは世界的に見ても屈指と言えるでしょう。テオティワカン、
マヤ、アステカなど、古代から中世に至るまでの遺跡から発掘された品々が、全部で
12の部屋に分けて、所狭しと展示されています。エジプトやギリシャほど、私たちに
はなじみがないものの、それと匹敵する、あるいはそれ以上に発達した文物の存在
を目の当たりにすると、メキシコ文明の奥深さを感じざるを得ません。

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ペルーのインカ文明やその遺跡マチュピチュもそうでしたが、この地球上で、場所こ
そ違え、数千年前からこれほど高度の文明が発達していたことを知ると、眼前の出来事ばかりに気を取られながらちまちま生きている自分がなんとも小さく見えてきます。

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ただ銀だけが目的でこの地にやってきたスペイン人も、初めてメキシコの文明に触れ
たときは腰を抜かしたにちがいありません。しかも、武力でもってそれを根こそぎ破壊
してしまったのですから、当時のメキシコ原住民たちは声も出なかったのではないで
しょうか。

 

ほぼ午前中いっぱいかけて「人類学博物館」を見終えたあとは、同じ園内にある「動物園」へ。1923年の開業ですが、生物学者が設計しただけあって、広々としたつくりになっています。動物を保護する伝統は15世紀にこの地を支配していたアステカ王 国以来のものだそうで、動物たちがのびのびしているのもそのためでしょう。ジャイアントパンダの繁殖を手がけた最初の施設の一つでもあるとのこと。中心街のすぐ近くにありながらそうした時間と場所が与えられている動物たちは幸せそうに見えます。
キリンもどこかしらのびのびとした表情を見せてくれました。

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ちょっと遅めになったランチはメキシコ料理の店。メキシコ料理というと、タコス、トルテ
ィーヤ、サルサソース、ナッチョスなどを思い浮かべます。最近でこそメキシコ料理の店も目につくようになったとはいえ、まだまだ数は多くないでしょう。また、食べられるものも本格的なのかどうかおぼつかないところもあります。

というわけで、ガイドさんおすすめのタコス専門店に案内してもらいました。まわりはそこそこの高級住宅地らしく、それほど店が集中しているわけではありません。店はユニークなデザインの建物の2階。日本ではタコスといっても、半分に丸めた固い皮にひき肉やこまかく刻んだ野菜が載っているものがほとんどですが、ここでは、何を載せるかはこちらの注文次第。もちろんその素材が大きな皿に並べられてくるのですが、そこから食べたいものを選んで、やわらかい皮に載せ、さらに3~4種類あるソースの中から自分の好きなものを選んでかけた上で丸めながら食べます。素材もソースも上々、ビールとの相性も抜群で、これほどおいしいタコスは初めてでした。

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DSC05623食後、アステカ帝国の中央神殿跡である「テンプロ・マヨール」や「ラテンアメリカ・タワー」「メトロポリタン大聖堂」「三文化広場」なども訪れ、2日間、めいっぱい詰め込んだ旅となりました。2000mを超え酸素も薄い土地だけに、そのときは気づかなくても、あとになってジワジワと疲れが襲ってくるのではないかという心配も無きにしもあらず。
余裕があれば、もう少し時間を取ってゆっくり見てみたいところです。

【メトロポリタン大聖堂】

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【テンプロ・マヨール】

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【三文化広場】

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メキシコシティー市内観光の始まり

2018年4月25日

DSC05391朝食はホテルの中庭にあるレストラン。スペースの半分は室内ですが、半分は外に
テーブルと椅子が並んでいます。ただ、この時期は日の出が遅いようで、7時ごろは まだ暗いため、朝食という気持ちになれません。やっと8時が近くなって下に降り、おいしく食べることができました。充実した朝食は元気のもと)、とくに旅先ではそれを強く感じます。

 

午前中はまず、郊外にある「国立自治大学」へ。郊外といっても、車で20分ほどですから、都心からはほぼ一本道で行けます。1551年9月に王立メキシコ大学として創立されたといいますが、これはペルーの国立サンマルコス大学に次いで、アメリカ大陸で2番目に古いとのこと。いまのキャンパスは2007年に整備されたそうですが、もう世界遺産になっているのには驚きました。大学があるのは、1968年に当地で開催されたオリンピックのメインスタジアムの向かい側で、町全体が大学のキャンパスといった感じがします。

そうなんだ、アメリカ大陸ではアメリカ合衆国などというのは新参者でしかないという事実に、改めて気がつかされます。ただ、合衆国との根本的な違いは、片やラテン系のスペイン、片やアングロサクソン系のイギリスが宗主国だったこと。歴史に「たら・れば」はないといいますが、アメリカ合衆国も、最初に足跡を残したスペイン人や、一時期かなり広い地域を支配していたフランス人がそのまま支配し続ければ、いまとはまったく趣の違う国になっていたことでしょう。

この大学の中央図書館に素晴らしい壁画が描かれていると聞いていたので、案内してくれるよう事前にリクエストしておいたので連れてきてもらったのですが、たしかにそのとおり。

東京駅の真ん前にあった旧の丸ビルほどの大きな・高さがある建物の4面すべてが壁画で、フアン・オゴルマンの作品。一人の画家がよくもまあこれだけ大きな作品を描けたものです。制作日数はおそらく1年、いやそれ以上かかったでしょうね。

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DSC05402これ以外にも大学本館や学長棟など、キャンパス内のほとんど建物に大小の壁画が
描かれています。ダビッド・シケイロスの『民衆から大学へ、大学から民衆へ』『腕と鉛筆』という有名な作品もありました。彫刻などのオブジェもそこここに展示されており、大学というより野外美術館にいるような錯覚におちいりました。向かいのオリンピック・スタジアムに描かれたディエゴ・リベラの壁画も印象的です。岡本太郎や北川民次もこうした作品に少なからず影響を受けたと言われていますが、たしかに大阪の万博の『太陽の塔』など、そんな気がしますね。

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そのあと町の中心に戻り、午後はまず「テオティワカン遺跡」を訪れました。シティからはいちばん近くにある遺跡ということで、時間の関係上、今回の遺跡見学はここだけ。期待に燃えながら行ってみると、素晴らしいところでした。

IMG_1911紀元前2世紀に作られたという宗教都市国家テオティワカンは、最盛期20万もの人
が暮らしていたといいます。さもありなんと思ったのは、遺跡の広大さ。いま地上に残
され観光スポットになっているのはそのごく一部でしかありません。ほかにも大小さま
ざまな神殿や墓所などさまざまな施設があったのでしょうが、発掘されていないのか破壊されてしまったのか……。それでも、今回見た「太陽のピラミッド(高さ65m、底辺220m×230m)」「月のピラミッド(高さ47m、底辺130m×155m)」、「死者の道(南北を貫くメインストリート。長さ4km、幅40mほど)」を見ても、当時としては度肝を抜くような壮大な空間だったことがよくわかります。
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二つの大きなピラミッドのほかに、「ケツァルコアトル(羽の生えたヘビ)」「ケツァルパパロトル」「ジャガー宮殿」という三つの宮殿(の一部)があります。神官の住まいだったとも言われますが、これがまた、想像以上に美しく、とくに石の壁に彫られた人物や動物の表情の豊かなことといったらありません。柱に彫られている鳥や人物の目が黒曜石で真っ黒なのが印象的でした。

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DSC05437私は年齢も顧みず、「月のピラミッド」に登ってみました。最初はそれほどでもありませんでしたが、途中からは予想以上の急角度で一瞬ためらいました。それでも、臆する
ことなくチャレンジ。最後はほとんど這うようにして途中の最高地点(それ以上は登る
ことが禁じられています)まで行きました。ただ、さすが2300mを超える高地ですか
ら、息が切れそうでした。家人は最初からパス。マチュピチュのときもそうでしたが、最
近はどうも、この手の高所を避けているようです。しかし、上から見下ろすと、この遺跡の広さが実感できます。それが疲れを忘れさせてくれるのですがね。

テオティワカンから市内に戻ったあとは、「オペジャス・アルケス宮殿」や「ディエゴ・リベラ壁画館」「シウダテラ市場」などの見学です。宮殿もそうでしたが、どこに行っても「壁画」が目につきました。

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メキシコはご承知のとおり、けっこう地震が多い国です。今日車で走った街中も、そこ
ここにその痕跡が見られました。日本のようにきっちり元に戻す、あるいは作り直すと
いったことはなされていません。そのため、車の中から通りを見ると傾いたままの建
物があったりします。まあ、石造りなので大丈夫なのでしょうが、もう一度地震に襲わ
れたら……と心配にもなります。

夕食は、街の中心部、かつては銀行やら郵便またかつてのスペイン人の屋敷などが立ち並ぶエリアの一角にある老舗のレストランです。入ると目に飛び込んでくるのが壁にびっしり架けられている肖像画。シャンデリアも高価な感じがします。

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隣のテーブルは家族・親族が一堂に会してのバースデーディナーなのか、彼らの周りに楽団が立ち、さまざまな曲を演奏していました。マリアッチではなさそうですが、10人ほどの編成でけっこう本格的。こういうお店があちこちにあるようで、家族のつながりを何より大切にする欧米的な志向が深く根づいている印象を受けました。これもまた、かつての宗主国スペインが残していったものなのでしょう。

直行便でも遠~い! メキシコシティー

2018年4月24日


ANAが昨年から成田・メキシコシティー間に直行便を就航させたことを知った時点で、マイレージの特典航空券を使っていくことにしていました。2月の初めごろ予約を入れたところばっちり押さえられたのはラッキーでした。行きと帰りの日にちさえ決めれば、その途中にキューバを挟み込むだけ。全行程が10日間なので、メキシコシティー3泊+ハバナ4泊と決めます。帰りは乗り継ぎなので機中2泊となり、9泊10日のプランで組み立てることにしました。

今回はどちらも初めての国ですし、メキシコは安全面でやや心配もあったので、両国とも、現地の旅行会社の空港送迎や市内観光の手配をお願いしました。こちらで考えたプランを向こうで検討してもらい、無理のあるところは修正やら入れ替えやらをほどこします。実際にツアーがスタートしてからも、「ここは飛ばしますか」とか「こっちにも立ち寄ってください」といったやり取りをしながら現場で適宜調整していくということで話はまとまりました。

初日の今日は、成田から12時間30分のロングフライトでメキシコシティーまで。旅行会社のスタッフが私たちの名前を書いたボードを手に持って待ってくれていました。
もしいなかったらどうしよう……という不安はありませんが、やはり実際に目にしたときの安心感はひとしおです。ホテルに行く前に立ち寄ってほしいところがあったので、そちらに回ります。

DSC05350まあ、普通の観光ツアーではあまり行きそうにないスポットなのでしょうが、幅の広い
(4車線×2)高速道路をまたぐ歩道橋の上から、中央分離帯の真ん中にそびえ立つ
5本の巨大な塔(「サテリテ・タワー」)が目的の場所。世界的にも有名な建築家ルイ
ス・バラガンとその友人2人が1957~58年に作ったものだそうです。たしかに、60年も前のことですから、斬新なアイデアだったにちがいありません。どの角度から見るかによって3本に見えたり4本に見えたりするのも面白いですが、何よりもその色彩のあざやかさが長旅の疲れを癒してくれました。

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そこを見終わりホテルに着いたのは夕方。チェックインカウンターから迷路のような廊下を行くと、ようやく私たちの部屋にたどり着きました。大きなバルコニーが付き、天井も高く広々としています。

夕方、ホテルの近くをぶらぶらしてみました。オフィス街らしく、会社を終えたビジネスマン、OLがいっぱい歩いています。幅の広い道路の真ん中が公園になっており、近代都市といった印象がします。街路樹もかなり密度濃く植えられており、気持ちがなごみます。多少気になるのは車の排気ガスの匂いでしょうか。

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メキシコシティーは、ガイドさんのお話では、猛烈な車社会だそうで、2800mの高さに広がる盆地なので、排気ガスがなかなか消えず、空もほぼ1年中、ガスで曇っているそうです。PM2・5に覆われてほぼ何も見えなくなる北京ほどではありませんが、やはり盆地特有の状況のようですね。まあ、地上を歩いている限りはそれほどシビアではないものの、それでも道路はびっしり渋滞。さしもの広い道路もかすんで見えます。

ついに完成した中国語版の「県民性」!

2018年4月15日
一昨年の春からスタートした企画がようやく“形”になりました。拙著『新 出身県でわかる人の性格』『鹿児島学』『新 不思議の国の信州人』など7冊、さらに新聞・雑誌等への寄稿したものを再編集し、中国語に翻訳した『細説日本』全4巻が完成したのです。

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全国を東西南北4つのエリアに分け、都道府県別に県民性や歴史・地理、独特の食べ物、中国(秦の時代から)と由緒のある観光スポットなどを紹介する内容で、読者ターゲットは、近頃どんどん増えている訪日中国人観光客。「日本を訪れる前にぜひ予習を」という狙いです。何せ人口が日本とひと桁違う国ですから、1000人に1人が買ってくださったとしてもかなりの部数になります。

再編集の作業はもちろん、私自身がおこなったのですが、これが予想以上に手間取り、版元の当代世界出版社(北京)に原稿を渡すまでにほぼ1年。さらに、翻訳作業に1年かかり、やっと刊行までこぎつけた次第。翻訳文のクオリティーを判断できないなど、歯がゆい部分もあります。それはそれとして、全4巻となると、形になってみるとやはり壮観です。

中国の出版事情も日本とよく似ているらしく、版元の編集長は「人口より、出る本の点数のほうが多いくらいで」と、ジョークを言っていました。そうした状況の中、売れるといいのですが……。
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「石見銀山」をあきらめ、広島へ

2018年4月12日
前夜テレビのニュースで、つい4日前この地方で起こった地震のため、「石見銀山」もかなり被害を受けていることを知りました。いちばん観たいと思っていた「龍源寺間歩【りゅうげんじまぶ】」(「間歩」とは鉱山の掘り口)も立ち入り禁止になっているというではありませんか。石垣や狛犬【こまいぬ】の台座が割れたり崩れたりと、映像で見てもたしかに危険な印象を受けました。

こうなると、今日の動きを練り直さなければなりません。結局、午前中は津和野で昨日回れなかった「森鴎外記念館」「乙女峠マリア聖堂」「太皷谷稲成【たいこだにいなり】神社」を訪れ、早めに広島に移動することに。

DSC05291「乙女峠マリア聖堂」は、津和野駅の近くにある小高い山の中腹にひっそりと建っていました。なぜ、こんなところに? と思いながら山道を5分ほど歩くと、なんとも質素な木造の教会がありました。「聖堂」の周囲にはいくとも石碑や石像が立てられており、その一つひとつに碑文が刻まれています。この「聖堂」は、1939年、この土地を購入したカトリック教会広島司教区が、殉教した隠れキリシタンを偲ぶため質素な記念堂を建て、それがのちに「聖堂」と呼ばれるようになったのだとか。

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幕末の1865年、長崎で隠れキリシタンに対する大規模な弾圧があり、長崎・浦上の信者153人を津和野への流刑に処したのです。彼らは、当時廃寺になっていた光琳寺に連行・収容されました。改宗させるために連日連夜厳しい拷問をおこない、最終的には37人が命を奪われたのだそうです。

「聖堂」の前を掃除する老女に挨拶しドアを開けて中を見させてもらうと、30畳足らずの広さしかありません。質素な祭壇をはさむ左右の壁に8枚のステンドグラスがあり、そこには拷問の様子が描かれていました。

「森鴎外記念館」は「乙女峠マリア聖堂」とは対照的に、すばらしくモダンな建築の建物です。津和野に生まれ育ったものの、10歳で故郷を離れ東京で陸軍軍医になった鴎外は、「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と遺言したそうです。そのため、墓地は東京・三鷹とここ津和野の寺院にあるのですが、津和野と鴎外とのつながりを事細かに示す展示は充実した内容でした。この夏、鴎外が留学したベルリンに行く予定があるので、現地でぜひ下宿して家を訪れてみたいと思います。

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DSC05301「太皷谷稲成〔たいこだにいなり〕神社」は、京都の「伏見稲荷大社」と同じような千本鳥居が山のすそを縫うようにして立ち並んでいるので、前日、山口から走ってきた道路からもはっきり見てとれました。ちょうど新緑の季節にさしかかっている時期なので、余計に朱色が冴えています。山の中腹から約300m続く石段を登ったところに本殿があるのですが、そのすぐ近くに駐車場もあるので、階段を上らなくてもお参りはできるようです。今日もまた天気はよく、ここから見渡せる津和野の町は素晴らしかったですよ。

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広島に出発する前に道の駅「津和野温泉 なごみの里」に立ち寄ってみました。地域住民のコミュニティーセンター的な感もありますが、天然ラドン温泉、レストラン、野菜市場、お土産屋、体験工房などから成っていて、けっこう客がやってきます。このひ休業していた温泉が開いていれば、もっと多いのでしょう。まわりも素晴らしい自然に恵まれ、津和野がリッチであることがよくわかります。

広島までは2時間少々。予定より4時間も早く着いたので、かの有名な「八丁座」で映画を観たりして過ごし、夜は流川の「さわ田」で、おいしい洋風夕食を楽しみました。

山口から津和野へ

2018年4月11日
午前中は山口市内の歴史スポットを何カ所か訪れました。スタートは「香山【こうざん】公園」。その一角にある「瑠璃光【るりこう】寺五重塔」は国宝で❝日本三大五重塔❞の一つだそうで、1422年の創建といいますから、築600年! とても味わいのある建物です。本堂のほうはさほどでもありませんでしたが、隣接する毛利家の菩提寺「洞春寺〔とうしゅんじ〕観音堂」に向かう途中にある「沈流亭」は薩長連合の密議がおこなわれた建物とかで、2階は当時のままだそうです。山口県は明治維新と深く関わる地だけに、このテのスポットには事欠きません。

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DSC05216次に訪れたのが、山口県庁に隣接してある「旧山口藩庁門」、大正建築の粋を集めたという「山口県旧県会議事堂(国指定の重要文化財)」とそのすぐ隣にある「旧県庁舎」。議事堂の議場に入り、議長席に座ったり演壇に立ったりして遊びました。その時代の県会議員はさぞかし偉かったのでしょうね。旧県庁舎の中にそのまま残されている知事室を見ると、それよりさらに偉かったのが県知事だというのがよくわかります。いまもその名残は多くの県で残っているようですが。

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そのあと「龍福寺本堂」「八坂神社本殿」(どちらも重要文化財)を訪れ、最後は「山口ザビエル記念聖堂」。もともとの建物は火事で焼失してしまったため、新しく建て替えられたのですが、これがめっぽうユニークな建物で、中もいま風というか、シンプルがコンセプトの斬新な設計です。新しい時代のキリスト教会の代表作というか、昔観たフランス北部の町ルーアンで観た「聖ジャンヌ・ダルク教会」を思い出しました。あっさりした中にも威厳を感じさせるステンドグラスが印象的です。

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ただ、もっと印象に残ったのは、そのすぐ近くにあるベーカリー&カフェ「ザビエル・カンパーナ」。ベーカリーのほうはたいそうな人気で、お客であふれていましたし、カフェのほうもランチタイムはバイキングスタイルで営業しており、充実した内容。なんといっても「シニア料金(=2割引き)」があるのが気に入りましたね(笑)。

山口から次の目的地・津和野(島根県)に向かいます。車で1時間ですからあっという間でしたが、ここもまた閑散としていました。1970年代だったか、津和野が“アンノン族の聖地”としてもてはやされた時代は、人であふれていたのでしょうが、いまその面影はありません。ちなみに、「アンノン族」という言葉はいまでは死語のようで、「ファッション雑誌やガイドブックを片手に一人旅や少人数で旅行する若い女性」(wikipedia)を意味します。

もちろん、津和野の町自体は「小京都」と言われるだけあって、すばらしく魅力的です。江戸時代の最初から最後まで同じ殿様家が治めていたこともあり、なんとも言えない落ち着きがあります。「安野光雅美術館」など、さほど広くない中心エリアを4時間近く歩き通しで、足も疲れ、のども渇いたのでお茶でも飲もうかと、喫茶店とお土産屋を兼ねた店に入りました。

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兼業店といっても、どちらも本格的な造りです。時刻は4時半。ところが、テーブルに座ってメニューを見ていると、店員から「喫茶のほうはもう終わりです」と言われました。これには唖然茫然。私たちのすぐ後から入ってきた外国人のカップルも、愕然とした様子。それはそうでしょう。だって、まだ4時半! ですからね。「おもてなし」とか「ホスピタリティー」という言葉をあちこちで耳にするこの頃ですが、その片鱗すら感じさせない冷たい仕打ちとしか言いようがありません。

仕方なく予約していた旅館にチェックインすることにしましたが、ここもまた、「昔はよかったんだろうけど……」といった印象です。向かいにある老舗っぽい旅館もかなり前に廃業したのか荒れ果てていました。

今回の旅をプランニングしているとき、津和野の街中には「ホテル」が一つもないことを知りました。あるのは「旅館」と「ユースホステル」的な宿泊施設だけ。かの「アパホテル」もありません。うーんとも思ったのですが、翌日「石見【いわみ】銀山」に行くことを考えると、山口に戻るのも非効率です。ほかに選択肢がないので旅館を予約したのですが、いかにも欧米の人たちが好みそうな観光資源を抱えているのに、とてももったいない感じがします。ただ、この旅館、食事だけはハイレベルでした。

なんともさびし~い、山口の夜

2018年4月10日
「こんぴら歌舞伎」を楽しんだ翌日は山口です。高松からはまず、今年で開通30周年を迎えた瀬戸大橋の上を走るJRで岡山まで。新幹線に乗り換えて広島に行き、ここで下車してレンタカーを借ります。最近できた広島都市高速から山陽道を経て、まずは秋芳洞【あきよしどう】まで行きました。今日は絶好のドライブ日和で、快適そのもの。

秋芳洞は、カルストが目いっぱい広がる秋吉台とセットになっている観光スポット。平日とあって、どちらも閑散としていました。現在全国に56カ所ある国定公園のなかでも比較的早い時期(1955年)に指定を受けているので、ある意味“終わった観光スポット”なのかもしれません。しかし、初めて訪れた私の目にはたいそう新鮮な景色に映りました。

DSC05124カルスト(Karst)とは、石灰岩など、水に溶けやすい岩石で構成された大地が雨水、地表水、土壌水、地下水などによって侵蝕されてできた地形(鍾乳洞などの地下地形も含む)で、秋吉台は日本最大の広さ。その地下にあるのが、国の特別天然記念物に指定されている秋芳洞【あきよしどう】です。ほかのものも合わせると、秋吉台には450以上もの鍾乳洞があるとのこと。

 

日本一というだけあって、秋芳洞も秋吉台も、圧倒的な迫力です。秋芳洞の中へ年間いつでも気温17℃だそうですから、真夏に行ったらたまらないでしょうね。全長1km超、アップダウンもけっこうあるので体力は要りますが、次から次へとあらわれてくる摩訶不思議で神秘的な石灰岩の自然アートを目にすると、疲れも吹き飛びました。

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そのあと秋吉台も観て、今日の宿泊地・山口市までは車で30分。「西の京」とも呼ばれる町なので、けっこう期待していました。しかし、実際に行ってみると、いやはやなんとも……。地方都市の常ですが、人通りが少ないのです。

 

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夕食も、店を見つけるのにひと苦労しました。私たちのホテルは県庁や市役所に近い旧市街にあったのですが、近頃、山口市の中心地(人が多く集まるという意味ですが)は湯田温泉に移っています。2年前ロシアのプーチン大統領も訪れた場所です。宿泊施設(といってもホテルはほとんどありません)の多くはそちらに集中しており、旧市街一帯はもぬけの殻状態。かつてはこちらのほうが人も集まったのでしょうが、いまやその面影はないようです。

ホテルを夜7時に出て、「米屋【こめや】町商店街」「中市【なかいち】商店街」まで歩いていきましたが、飲食店はほぼゼロ。7時半過ぎには明かりがほとんど消えかけており、歩いている人の姿もありません。「これはヤバい」と思い、スマホでググって見つけた、ホテルからもほど近い店も廃業したようで真っ暗。仕方なくそこから戻る途中で見つけた店に入りました。ただ、これがまずまずのヒットで、かろうじて満足の行く夕食を摂ることができました。「うーん、県庁所在地なのに……」とも思いましたが、山口市自体、人口は20万に満ちず、県庁所在地のなかでは45位(それより少ないのは鳥取市と甲府市)。一時は最下位でしたから、これも仕方ないかとは思いますが。それにしても、夜7時半過ぎだというのに人っ子ひとりいない商店街というのは気味が悪いものです。

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江戸時代の人は、こんな所で観劇を楽しんだ!

2018年4月9日
念願の「こんぴら歌舞伎」を観ました。場所は香川県琴平【ことひら】にある「金丸【かなまる】座」。1835年に建てられた、現存するわが国最古の芝居小屋です。朝7時40分羽田発のJAL便で高松まで飛び、空港でレンタカーを借りて琴平まで。歌舞伎が始まるまでの数時間は、「金刀比羅【ことひら】宮】」=「こんぴらさん」に上ったり、周辺のスポットをくまなく見て回るなどして楽しみました。

20180409~13琴平・山口・津和野 030車は刀比羅宮」参道の途中(500段目)にあるカフェ「神椿」に駐車。ここは東京・銀座の資生堂パーラー直営で、飲食さえすれば駐車OKなのです。参道の階段は、「本宮」までで785段ありますから(実はまだその先に奥社=「厳魂【いずたま】神社)があり、そこまでだと1368段だそうです!)、その途中にあるのは大助かり。

 

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「神椿」から、それほどきつくない階段をえっちらおっちら上っていくとありました、「本宮」が! しかし、思っていたほどの“けばさ”はありません。伊勢神宮もそうでしたが、世に名の知れた神社はどこも皆、深閑とした空気が流れているもの。「神妙」という言葉もあるように、神社の境内に身を置くと不思議にすがすがしい気持ちになります。その点、仏教寺院はなんとも俗的というか、あれもありこれもありで、世俗の匂いがぷんぷん漂っているように思えてなりません。本宮の奥のほうに「絵馬殿」がありました。「金刀比羅宮」は昔から航海安全祈願の信仰を集めていたことから、圧倒的に多いのは船の絵馬です。ほかにも、全国各地から奉納された絵馬が数多く飾られていました。
本宮の奥のほうに「絵馬殿」がありました。「金刀比羅宮」は昔から航海安全祈願の信仰を集めていたことから、圧倒的に多いのは船の絵馬です。ほかにも、全国各地から奉納された絵馬が数多く飾られていました。

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「金刀比羅宮」を下り、JR琴平駅のユニークな洋風駅舎(国の文化財)、往時のにぎわいを思い起こさせる「鞘【さや】橋」、「高燈籠」(1865年に完成、高さ27mは日本一の高さ。瀬戸内海を航行する船から「金刀比羅宮」を拝む際の目標となっていた。国の重要文化財)、「琴平町公会堂」(1932年に造られた和風の建物で国の文化財で、現在も使われている)などを訪れる合間に、「虎屋」でうどんの昼食。ここは400年近く前に創業された旅館で、昭和天皇・皇后両陛下も泊まられたことがあるとのこと。現在、旅館のほうは廃業)で、その帳場がいまは食堂になっています。2階は客室だったそうで、窓の前=高欄に彫られた虎が往時をしのばせます。

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「金丸座」は、「金刀比羅宮」参道のすぐ近くにあることから想像できるように、かつては、参拝者の楽しみのために年に3回、仮設の小屋が造られ、歌舞伎などの興業がおこなわれていました。江戸時代中ごろから金毘羅信仰が盛んになり、参道を中心に門前町が形成されると、常打ちの小屋が建てられ、「金毘羅大芝居」が始まりました。江戸、大坂の役者も数多く登場したといいます。

1985年に復活した「こんぴら歌舞伎」にはこれまで、日本歌舞伎界の錚々たる役者がやってきています。そういえば、先の「虎屋」で、うどんを注文したあと店内を見渡すと、1枚の古い写真が貼ってあるのに気がつきました。「こんぴら歌舞伎」が始まったころ、子役5人が一堂に会したものです。写っているのは勘三郎・時蔵・又五郎・三津五郎・雀右衛門。おそらく30年ほど前でしょうが、貴重な写真です。

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それにしても、「金丸座」の座席は限界を超えるほどの狭さでした。私たちが予約購入していたのは1階のます席ですが、左右50cm、前後1mほどのスペースに置かれた二つの座椅子におとな2人が座るのは、途中休憩があるといっても、やはり無理というものでしょう。江戸時代の日本人のサイズに合わせているのかとは思いますが、ここいらは少し考えてほしいものです。きついと思えば2階の両サイドにある桟敷席を買えばいいのですが、こればかりは実際に来てみなければわかりませんからね。でも、この日は幸い、急なキャンセルが出たとかで、場内で客のおもてなしをする女性ボランティア=お茶子【ちゃこ】さんから、「ちょっと後ろになりますが、そちらの席に移られますか」と言葉をかけられ、迷わずそちらに移動しました。おかげで楽に観ることができました。

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席に着き、あちこち目をやると、顔見世提灯(出演する役者の屋号の家紋が入った提灯がぶどう棚の舞台寄りに吊られている)や明かり窓(場内の明るさを調整するためのもので、手動)が。江戸時代の人々はこういう場所で観劇を楽しんでいたのだというのがよくわかります。演目の最後、踊りのときに上のぶどう棚から大量の紙吹雪が。これには文句なしに感動しました。

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「吉田茂」漬けの1日に興奮!

2018年4月1日
いまやすっかり恒例行事となった、高校の同期生による社会見学。今回はおととい(3月30日)から2泊3日のスケジュールで、私以外の6人は箱根で1泊。残念ながら私は2日目(3月31日)からの参加になってしまいましたが、それでも夕方訪れた「旧吉田茂邸」はよかったです。

IMG_E3753実はこの日の昼前、九段下にある九段坂病院まで友人の見舞いに行きました。そのあと集合場所の大磯まで列車に乗るため東京駅まで行くことにしていたのですが、天気があまりによく、歩きなさいなと言わんばかり。そこで、九段下からお濠沿いを、途中から北の丸公園、さらに皇居東御苑と歩きました。清水門から北の丸公園に入ってしばらく歩くと、吉田茂の銅像が立っています。今日の夕方「旧吉田茂邸」に行く身にとっては、これは無視できません。近づいて写真を撮りました。

 

東京駅から大磯までは約1時間。駅の改札でほかの6人と合流し、バスに乗って城山【じょうやま】公園で下車したところに「旧吉田茂邸」があります。数年前火事で全焼したものをその後再建したのですが、まわりの庭園は往時のまま。歩いてみると、ここにも吉田茂の銅像があるではないですか! こちらは北の丸公園のそれと違って、和服姿、手にはトレードマークだった葉巻を持っています。海をバックに立つ銅像の吉田茂の目はサンフランシスコの方角を向いているとのこと。太平洋戦争後の講和条約にサインしたのは吉田ですから、なるほどです。

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「旧吉田茂邸」をあとにし、茅ヶ崎まで戻って夕食。これでいちおう見学会の全日程は終了。ただ、そのあとの「もう1泊」が盛り上がるのですね。江の島までタクシーで戻り、駅前のコンビニで酒やつまみをしこたま買いました。

そして、飲みながら、また交代で風呂につかりながら、テレビのスイッチを入れると、NHKが2週連続で放送していたドラマ『地図に出ていない国』の後編が始まりました。参加者7人のうち、前篇を観ていたのは3人でしたが、せっかくなので後編も観ることに。ところが、その中になんと吉田茂が登場したのです。

IMG_E3823このドラマは終戦後、ソ連が占領した旧満州にいた日本軍兵士や、移民で現地に行っていた民間人、合わせて150万人ほどが悲惨な状況に置かれているので、彼らを1日も早く故国へ帰してあげたいと行動を起こした日本人3人の物語。それを実現するため、3人がひそかに日本に戻って、進駐軍GHQのマッカーサー元帥と交渉するのですが、それを陰で支援したのが吉田茂だったのです。画面に登場した吉田茂を見て、私たちのテンションも上がりました。それはそうでしょう、夕方まで吉田茂の居所にいたのですから。私なんぞは、朝、昼、夜と1日に3回も吉田茂と出会ったわけで、興奮しっぱなし。まあ、そのわりには夜グッスリ眠りましたが(笑)。世の中、こんな不思議なこともあるのですね。

「台北動物園」「猫空」「中正紀念堂」「士林夜市」「台北101」

2018年3月30日
今日で台北も最後。2日目(3月28日)の朝食は、「世界豆漿大王」で、鹹豆漿、蛋餅、小籠湯包、焼餅猪排起士蛋エトセトラの台湾メシ。これで〆て1000円足らずですから、安~っ! いかにも大人っぽいメニューで、2人の孫にはあまり好評ではなかったようですが、1回くらいは我慢してもらわないと……。その日は朝から「台北動物園」。子どもたちはパンダをゆっくり観られて大喜び。ほかにもキリンやカバ、ライオン、シマウマ、チンパンジーなどを堪能したようです。

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ただ、さすがは台湾、まだ3月末だというのに、朝から気温はグングン上昇。30℃近い中を歩き回り、さすがに疲れました。そのあとはロープウェーで「猫空」へ。子どもたちにとっては怖さ半分・楽しみ半分だったにちがいありません。それなりにはしゃいではいたので、まあ成功でしょう。バスで下まで降りたあとはいったホテルで休憩。

3日目は「大安森林公園」へ。名前のわりには木が少なく、カンカン照り、気温も30℃近い中で1時間ほど遊びましたが、早々に疲れが来ていたようです。迪化街の入口にある「永楽市場」までタクシーを飛ばしました。その1階に店を構える、1894年創業の「林合發油飯店」で行列して私たちの大好物「油飯」を買い、ホテルに戻ってランチ。ひと休みしたあと、夕方、地下鉄に乗って「中正紀念堂」に行き、衛兵の交代式を見学。夜はこれまた定番の「士林夜市」へ。

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最終日の今日は「台北101」に上りました。昨年、高校の同期生と来たときは曇って何も見えなかったのに、今日は素晴らしい好天で、ほぼ100%のパノラマ。ランチは何がなんでも魯肉飯をというので、タクシーを飛ばして行ったのですが、なんと50人近い人が行列しています。これでは帰りの飛行機に間に合わないと、近場を歩いて探すと、台湾全土に50以上も店舗を展開している「?鬚張魯肉飯」がありました。迷わずそこに飛び込んでセーフ。でも、けっこうおいしかったですよ! 唐山排骨と貢丸湯もおいしかったですよ。

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図らずも、孫と一緒に台北旅行

2018年3月27日
昨年に続き台北出張です。ただ今回は、今年の1月4~7日、娘と、その孫2人を連れて台北旅行を計画していたのが、孫の一人がインフルエンザに罹ったためドクターストップがかかり、中止に。そのリベンジをと、娘が相乗りしてきたため、だいぶ様相が変わりました。

松山空港からホテルまではタクシーで10分少々。部屋で荷ほどきを済ませ、夕食へ。といってもまだ4時前です。ただ、孫は7歳と5歳なので、すべて早め早めになるのはやむを得ません。4時半に永康街の「鼎泰豊」本店へ。この年齢で生意気にも小籠包が好きだという2人のお目当てもそれだったようです。幸い、すぐ席に案内され、さくさくと食べることができました。

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驚いたのは店を出たたとき。6時ちょい前だったのですが、店の前には早くも大行列が。小籠包の本家本元というだけあって、地元の人はもちろん、日本人(こちらのほうが多そうでした)、さらに青い目の人たちやらでごった返していました。早めに店に入って大正解だったということになります。そのあとは近くの雑貨屋に入ったり、有名な「思慕昔(台湾語でスムージーと発音するらしい)」で超ビッグサイズのマンゴアーアイスを食べたりしながらしてブラブラし、7時過ぎにはホテルに戻りました。

今日もまた丸一日、ずーっと「研修」

2018年3月26日
昨日は帰りの高速道路が渋滞し、帰宅したのは夜10時を過ぎていました。しかし、今日もまた丸一日お勉強=「知求アカデミー オープンカレッジ」。テーマは「スペイン」「フランス」「世界のお祭り」「インスブルック(オーストリア)」の4つ。旅行会社の主催とあって、内容のベースはすべて「旅」です。

会場は重要文化財でもある目白の「明日館」。フランク・ロイド・ライト設計の瀟洒な洋館の前には大きな桜の古木がそびえ、前の通りを歩く人々の目をなごませてくれます。前はこのすぐ近くに私の仕事場があったのですが、移転してから久しぶりで訪れました。「明日館」の中に入ったことはありますが、今日は講堂にまで入れる貴重なチャンスで、楽しみにしながらやって来ました。

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講座のほうは非常にためになるものもあれば、全編これコマーシャルといった感じのものもありましたが、メインの目的は正直、「桜+明日館」だったので、まあよしとしましょう。それでも、この夏行くことにしているインスブルックの話はとても役に立ちました。

 

 

かつて2度も冬季オリンピックを開催したインスブルックは、ずっと前から一度行ってみたいと思っていた町です。そこに、この8月、8日間滞在するという、一風変わったツアーを申し込みました。夢のような話ですが、この町をベースに、近辺に集中する冬季オリンピック開催地(シャモニー、アルベールビル、グルノーブル、ガルミッシュ・パルテンキルヒェン、サンモリッツ=こちらは2月に行きましたが)を見て回る旅は、10年以上前から抱いていた願い。その一部が今夏やっとかないそうで、いまから興奮しています。

 

桜と富士を堪能した研修旅行

2018年3月25日
予想以上に早く桜が咲き、今日あたりは関東地方から西はどこも皆、満開かその寸前といった感じのようです。朝から素晴らしい天気で、絶好の花見日和ですが、今日の私はまる1日かけての研修。西伊豆は沼津市戸田【へだ】の「造船郷土資料博物館」と韮山(伊豆の国市)の「江川邸(江川家住宅邸)」を訪問・見学するバスツアーです。主催は私も役員を務めているNPO法人「日ロ創幸会」。

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前者は、幕末その地で日本初の洋式帆船が造られたことにちなんだもの。1854年、日本との国交樹立交渉のため伊豆半島南端の下田港に停泊していたロシアの帆船「ディアナ号」(艦長はプチャーチン)が、折からこの地を襲った安政の大地震で船底と舵を破損してしまいました。戸田の港で船を修理することになり、伊豆半島西の沖合を航行中、こんどは嵐に遭い、富士川河口近くまで流されます。戸田の漁民たちが多くの小舟を出し、ディアナ号を戸田まで曳航する一方で、500人ほどの乗組員は、現在の富士市から陸路で戸田まで移動。しかし、またもや強風に襲われ、最後は駿河湾のもくずと消えてしまいました。

そこで、プチャーチン一行がロシアに帰国するための船を新たに造ることになったのですが、当時の日本に、洋式の帆船を造る技術などありません。船造りを仰せつかった韮山代官の江川太郎左衛門英龍は、近在の船大工を総動員、ディアナ号からかろうじて運び出されていた船の設計図をもとに、ロシア人技術者と協力しながら、わずか3カ月で排水量100トンという本格的な帆船をみごとに造り上げました。

プチャーチンはその船に「ヘダ号」と命名、それに乗ってロシア人の一行は無事帰国したのですが、同じタイプの帆船をその年さらに6隻造り、江戸幕府に納めたそうです。このとき建造にたずさわった船大工たちがその後、江戸や長崎など全国各地で指導にあたったといいます。いうならば、戸田は近代造船技術始まりの地というわけですが、そうした経緯をボランティアのガイドさんから学ばせていただきました。

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今日は、朝、東京を出て東名高速を走っているときから、窓の外には次から次へ満開の桜が見えましたが、途中からそれに富士山の姿が加わりました。ちょうど3月21日に全国を寒波が襲った際、富士山の頂上付近にも雪が降り真っ白になったこともあって、どこを走っていても目立つのです。桜と富士の“そろい踏み”ですから、日本人の血が騒がないわけがありません。バスの中ではずっとハイテンションで、戸田をあとにしてからはさらにヒートアップ。誰もが、日本人が前人未到の帆船造りにチャレンジし成功したのを、同じ日本人として誇らしく思えたからでしょう。

次の目的地・韮山の「江川邸」も、庭の桜が満開。築後800年を超えるという江川家の36代当主が、戸田で造船の指揮にあたった江川太郎左衛門英龍です。鎌倉時代に日蓮みずからが書したという曼荼羅が収められた棟札箱が、屋根裏に安置されていました。ボランティアガイドさんの説明によると、その棟札があったおかげで、この屋敷は今日まで一度も火災に遭わず、地震で倒壊することもなかったとのこと。この話は江戸時代すでに広く知られていたそうです。

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それにしても、伊豆半島というのは、どこにいても富士山がよく見えます。この日はとにかく好天で、最後の最後まで富士の姿を観ながらの研修ツアーになりました。参加者の心がけがよほどよかったのでしょうね。もちろん、私もその一人ですよ、エヘン!

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体力が要る(!?)BEGINのコンサート

 

2018年3月22日
四半世紀以上前に一度だけ入ったことがある東京・渋谷のNHKホールでBEGINのコンサートがありました。ちょうど2年ぶり、通算6回目ですが、相変わらずの人気で、子どもから70歳をとうに過ぎていそうなおじい・おばあまで、幅広い年齢層のファンが場内を埋め尽くしています。

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最近のBEGINは、私たちになじみ深い彼ら自身のヒット曲もさることながら、「マルシャ」がメインといってもいいほど。この日も第2部は全編「マルシャ」で、私たちは1時間半ずっと立ちっぱなし、というか踊りっぱなし。

ブラジルの「サンバ」の起源という「マルシャ」は2拍子。勘のいい人なら、「マルシャって、英語のマーチ(march)=行進のことじゃないの?」と想像されるでしょうが、そのとおりで、「march」はポルトガル語(ブラジル語)」で「marcha(マルシャ)」です。行進曲と同じ2拍子なので親しみやすく、聞いているだけで自然に体が動きます。たしかに、リオのカーニバルでも流れているのはこのリズムでした。

聴衆全員が席を立ち、BEGINの奏でる内外の名曲メドレー(それがすべて「マルシャ」アレンジ)に合わせて体を動かします。途中ほとんど休みもなく、「ランナーズハイ」にも似た感じで、とても心地がよく、体にもよさそう。でも、これほど体力が要る(?)コンサートはBEGINくらいのものでしょうね。

「幸せになるための道なんてない。道それ自体が幸せなんだ」

2018年3月16日
5パーセントの奇跡

この4日間で3本目の映画です。今日は『5パーセントの奇跡~嘘から始まる素敵な人生~』を観ました。

「幸せになるための道なんてない。道それ自体が幸せなんだ」。主人公サリヤ・カハヴァッテが「ブッダ(釈迦)の言葉」と紹介するこの台詞で映画は始まります。後味がいいというか、なんともさわやかな作品で、感動しました。ちょうど、ピョンチャンでパラリンピック冬季大会がおこなわれていることとも重なっていたのも影響しているかもしれません。そう、主人公は障碍者なのです。

 

 

映画は、ドイツで実際にあった話に基づいて作られたようです。サリヤはスリランカ人の父親とドイツ人の母親を持つハーフ。彼が自身の体験を、本に書いたのが10年ほど前で、釈迦の言葉を引き合いに出しているのは、敬虔な仏教徒だからです。

高校卒業の直前、網膜剥離で5%の視力しかなくなってしまったサリヤは、5つ星ホテルに勤めたいという夢を実現するため、視覚に障碍があることを隠し(=嘘をついて)、ミュンヘンの超一流ホテルの研修生に応募します。首尾よく採用されたところから、研修(インターン)期間を終え、その修了試験を受けるまでの顛末【てんまつ】を描いたもの。

同じ「嘘」が素材でも、3日前に観た『嘘八百』という日本映画とは比べものにならないくらい、脚本がよくできていました。私の好きな、”こうなってほしい映画”そのものといえます。撮影に使われていた超一流ホテルが、昨年秋ミュンヘンを訪れたとき、ガイドさんが教えてくれた「シュヴァイツァーホフ(Schweizerhof)」だったのも、作品に親しみを感じた理由の一つでしょう。

この映画の宣伝チラシにも「幸福とは、結果ではなく、夢を諦めずに苦しみながら進んだ人生そのもの」とありますが、それは冒頭の「ブッダの言葉」とみごとに重なりました。予告編がまだネットで見られるようですので、時間があったらチェックしてみてください。
https://www.youtube.com/watch?v=XA_bDKjOEVk

エンドロールのカットに、この実話の主であるサリヤ・カラヴァッテ本人が顔を見せているのに気づきました。彼はあるラジオ放送のインタビューで「人生のモットー」を問われ、これまた釈迦の言葉だとして “The only constant in the world is change.”と答えています。この映画のヒットによって、さらに大きな「変化」を経験することになるかもしれません。

 

IMG_3549それにしても、この作品を上映していた桜坂劇場は、那覇でも不思議なエリアの一角にあります。昭和40年代の匂いをまだ色濃く残しているこの界隈にも再開発の波が押し寄せており、つい2、3年前にはアメリカ系の高級ホテル「Hyatt Regency」が開業しましたし、こじゃれたフレンチレストランもちらほら。でも、桜坂劇場のすぐ近くにはその手がまだ及んでいません。

 

IMG_3550それがはっきり感じられるのが劇場の真ん前にある駐車場。いまどきの「100駐」ではありません。小屋のような建物があって、そこに「管理者不在の場合は 備付けの封筒に車両番号と駐車時間を記入し 封筒に500円を入れ(おりまげ)投入口に入れてください」と書かれた掲示があったりします。東京のような、殺伐とした都会では考えもつかないチョーのんびりした話で、このゆるさが沖縄の魅力なのですね。

1日で春・夏・秋をいっぺんに体験!

2018年3月14日
沖縄ならではの贅沢をしました。1日で春・夏・秋をいっぺんに体験したのです。春はツツジ、夏はひまわり、秋はコスモスです。

今日のメインの目的地は北東部の東村【ひがしそん】。東村までは首里からたっぷり2時間はかかります。途中の宜野座【ぎのざ】までは高速道路が走っているのですが、そこから先は一般道。宜野座と東村のちょうど中間あたりでランチタイムとなり、目に入ってきた「わんさか大浦」という、道の駅っぽいところに入りました。

その直前で通り過ぎたのが、あの辺野古【へのこ】です。宜野座と東村にはさまれたあたりの海岸に名護市辺野古はあります。本島北部の中心都市・名護の市域は西海岸から東海岸にわたっていることを初めて知りました。東海岸は西海岸と違って、人の手があまり入っていません。とくに北部は自然がほとんど残っているため、辺野古から大浦湾にかけては、美しい砂浜、海岸のすぐ近くまで迫る緑に覆われた山々など、素晴らしい環境に恵まれています。

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それにしても、こんなところに、しかも海をわざわざ埋め立ててまで基地を作ろうなどと、よく考えついたものです。沖縄県と国との間で工事差し止めをめぐって裁判になっているのもよくわかります。道路のあちこちに「行ってみよう! 辺野古に」と染め抜かれた旗や手書きのポスターが見えましたが、たしかに、実際自分の目で見ると、そうした気持ちがよくわかります。

「わんさか大浦」の駐車場には、なんとコスモスが咲いていました。さすが沖縄です。そこに行くまでの道すがら、昨年もこのブログで紹介した「イッペー」の黄色い花をあちこちで見ました。こちらは春の花なのですが、コスモスは秋の花。それが同じ時間帯・同じ空間で見られるのはやはり自然の恵みでしょう。

IMG_E3504 イッペー

その食堂でおいしいゴーヤチャンプル、沖縄そばを食べ、再び海岸に沿って走ります。目的地の「東村・村民の森」には1時半ごろ到着。この時期は「つつじ祭り」が開催されており、「村民の森」がある丘は丸ごとツツジに覆われています。いまから40年ほど前、当時の村長だった宮里金次が音頭を取って整備したのだそうです。宮里金次はかの宮里藍・宮里優作兄弟の叔父にあたる人物なのだとか。沖縄本島東北部の無名の村だった東村を盛り上げようと、5年間かけて「村民の森」を整備したと碑文に書かれていました。と同時にパイナップルの栽培にも力を注ぎ、いまでは日本一の生産地になっているようです。

IMG_E35393月前半の土・日は大々的なイベントもあり、村人たちが総出でおもてなし。今日は平日でしたが、それでもかなりの人がやってきていました。

 

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帰り道、北中城【きたなかぐすく】、観に行くことに。一般人の所有する畑にひまわりがびっしり植わっていました。脇に車を止め観にいってみると、観光客の姿が。私たちと同じく、ネットでその情報をキャッチし、訪れたのでしょうね。

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久しぶりに京都でお楽しみ

  2018年3月9日
年に何回か仕事で訪れる京都ですが、いつもトンボ帰りばかり。でも、たまには京都らしいものも見たい、味わいたいと、今回は早めに現地に移動し、二条城を訪れてみました。なぜか、これまで一度も行ったことがないのです。

京都の駅に降り立つと、やはり寒い! 底冷えの町ですから致し方ありません。タクシーの運転手さんに言わせると、「京都は住むとこじゃおまへん。観光するとこだす」なのですが、二条城はさらに寒かったです。ちょうど雨も降り始めたところだったせいもあります。

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IMG_E3480それでも、さすが世界遺産、二条城にはたくさんの人がやって来ていました。早めにクローズする二の丸御殿から先にということで、中に入ります。土足はNGなので、入り口で靴を脱ぐのですが、これでよけい寒さが募ります。二条城も、外国のこの種の宮殿も、その空間はすさまじく広いのですが、二条城は木造の日本家屋。外の空気がほとんどもろに入ってくるので、ヨーロッパの石造りの建物とはまったく違い、中に長くいると寒くて寒くて……。しかも、床のほとんどは木ですから、靴を脱いだ足に下から冷気がどんどん伝わってきて、長い時間歩いているともう我慢できなくなります。

 

結局、建物の中にいたのは1時間足らず。あとは庭園のまわりや門を見て回りましたが、2時間ほど経った頃には体の芯まで冷え切った感じです。こうなると食べ物で体を温めるしかありません。というわけで、夜は鴨川べりにある店で鶏の水炊きを食しました。店を出る頃には体も心もホコホコ(ふところのほうは少し寒くなりましたが)、気分よくホテルに戻りました。

2戦目の「サンウルブズ」は……

2018年3月3日
開幕戦よりさらに観客が減った(11181人)第2戦。今日の相手はメルボルンからやってきたレベルズです。日本代表のFWアマナキ・レレィ・マフィー(トンガ出身)が所属しているチームですが、対戦は1年目の第3戦以来。このときは9対35で敗れています。さて、今年はどうでしょうか。少しでもスコアを縮めることができるか、楽しみにしながら観に行ってきました。結果は、残念ながら17対37で負け。

今日の試合は、緒戦とメンバーがかなり変わったものの、同じチームなのかと目を疑いたくなるくらい、アタックのレベルが落っこちていました。前半のトライは、サンウルブズあるいは日本代表がよく喫するインターセプトからのトライ。見ていていちばんしらけるというか、情けない(今日は逆で、ラッキー!)と思えるトライです。しかし、その後は攻撃がまったくと言っていいほどつながりません。それでもなんとか10対10のタイで前半を折り返します。

しかし後半になると、開始12分ほどの間に立て続けに3本もトライを奪われるなど、泣きたくなる展開に。また、前半から引き続きケガ人が続出、3選手が脳震盪の疑い(HIA=Head Injury Assessment)で一時退場したのですが、結局全員そのまま復帰できず、交代となってしまいました。うち一人は、私たちが昨年チリのサンチアゴ空港で一緒に写真を撮ってもらったサム・ワイクス(ロック)、もう一人は家人が好きな山田章仁(ウィング)で、この先が心配です。

とにかくノックオンは多いし、スクラムは不安定。ひどかったのはラインアウトで、マイボールを奪われることもしばしば。こうまでボロボロでは勝てるわけがありません。こんな状態で来週から南アフリカに遠征するのですが、片目が開くのはいつになるのでしょうか。

「熊楠」の次は「熊谷」!?

2018年3月2日
私の住む東京・豊島区に「熊谷守一美術館」という、小さな美術館があります。もともと熊谷の自宅だった家を建て替え私設美術館としてオープン(館長は次女の熊谷榧)しましたが、2007年11月から豊島区立となったそうです。住宅街のただ中にあるので地味な感じがしますが、彼のファンがあちこちから訪れているようで、以前から気に懸かっていました。

今年はその熊谷守一没後40年。それにちなんで、『熊谷守一 生きるよろこび』と銘打たれた展覧会が竹橋の「東京国立近代美術館」でおこなわれているというので、足を運んでみることに。

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広い会場には、驚くほど多くの人が来ていました。展示点数も200近く、東京美術学校時代から亡くなる直前まで、ほとんど全作品が網羅されていたようです。客の数もかなりのもので、こういう場にいると、私たちの世代はホント元気で活動的なんだなと、つくずく感じます。

 

 

IMG_1776「明るい色彩とはっきりしたかたちを特徴とする作風で広く知られ……特に、花や虫、鳥など身近な生きものを描く晩年の作品は、世代を超えて多くの人に愛されています」と「西洋近代美術館」のwebサイトにもありますが、初期の陰鬱で暗い作品群とは真逆と言ってよい、晩年の明るく楽しい作品が数多く展示されていました。もともと理科系的な頭脳の持ち主だったようですが、年老いるにつれて、シンプルながら緻密に計算された、それでいてほのぼのとした雰囲気もただよう絵を描いた熊谷守一。めっぽう若い感性の持ち主だったことが想像できます。若い女性にウケているのも、それが理由でしょう。

 

好奇心をかき立てられた「南方熊楠展」

2018年2月25日
『南方熊楠【みなかたくまぐす】展──100年早く生まれた智の人』にやっと行けました。今週いっぱいで終わりなので、滑り込みセーフといったところでしょうか。

場所は上野の「国立科学博物館」。先日、二人の孫を連れて行ったばかりです(65歳以上は入場無料というのがありがたい)。世界中どこの美術館・博物館でもシニアは優遇されていますが、「無料」というのはなかなかありません。

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それほど広いスペースでないこともあってでしょう、けっこう混み合っていました。しかも、若い人の姿が目立ちます。来館者のほとんどがそれこそシニア世代ではないかと予想していたので、これは意外でした。そもそも南方熊楠という人物自体、それほど広く知られた存在ではないと思いますし。

熊楠は和歌山県の田辺生まれなので、私の父方とルーツが同じです。田辺にはこれまで二度行ったことがあります(実はもう一度行ってはいるのですが、それは広域合併で田辺市に編入された熊野エリア)。旧田辺市内にある立派な「顕彰館」にも行けていません。こちらは2005年7月にオープンしたのだそうで、その約1年後には、南方熊楠旧邸も、実際に住んでいた当時の雰囲気を彷彿させるよう、復元・改修されたといいます。それとは別に、1965年に白浜町にも「記念館」が作られており、同じ地域に二つの施設が競合する形になっています。

博物学の大家として世に知られる南方熊楠は「子供の頃から驚異的な記憶力を持つ神童だった」と言われる人物。数日間で100冊を越える本を読み、そこに書かれていた内容を、家に帰って書写するという超人的能力を持っていたようですから、ハンパじゃありません。東大予備門を中退後、19歳から約14年間、アメリカ、イギリスなどに留学、さまざまな言語で書かれた文献を読み込み、それを克明にメモしていったといいます。植物、とくにキノコ類にめっぽう詳しかったようですが、人文科学にも精通井し、民俗学の分野では柳田國男と並ぶ重要な存在でもあります。

いわゆる学術論文はほとんど書いていませんし、官職に就いたこともないものの、昭和天皇にもご進講(1929年)するなど、その力量は高く評価されていました。ご進講自体、昭和天皇ご自身が望まれたようで、「聖上田辺へ伊豆大島より直ちに入らせらる御目的は、主として神島及び熊楠にある由にて」と、軍令部長にご自身の所信を書かせたとのこと。1962年、和歌山を33年ぶりにご訪問された昭和天皇は、神島(かしま=田辺湾沖合の島)を目にしながら、「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」と詠んだそうです。

しかし、数年前、こんな話を聞きました。明治時代半ばごろ、政府が実施しようとした神社合祀政策に、思いもよらない角度から異を唱え、最後はその主張が受け入れられたというのです。熊楠の主張の根拠が、田辺の沖合に浮かぶ神島の話。神島には多種多様な照葉植物が自生していましたが、神社合祀によってこの島唯一の神島神社もなくなることが明らかになりました。神社がなくなれば、森林は自由に伐採できるようになり、植生が失われてしまいます。それを知った熊楠は、生物学的見地からその保護を主張、東京大学教授・松村任三と貴族院書記長官・柳田國男にも書簡を送り訴えます。そして、最終的には天然記念物に指定されることになったそうです。生物学などまったくの門外漢である私は、熊楠についてもさほど関心がありませんでしたが、それがきっかけで深い興味を抱くようになりました。

今回の展示を見て知ったのは、熊楠の関心が途方もなく広範囲にわたっていること。ここまで……と思うほど、あれやこれや、ほとんどどんなテーマについても自身の考えを、きちんとした調査に基づいて披歴していることです。インターネットも何もなかった時代によくぞと言いたくなるくらい圧倒的な量の情報が熊楠の頭の中には収まっていたのでしょう。「顕彰館」「記念館」の両方とも、近いうちに訪れてみたいと思いました。

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帰り道、上野公園の一角に冬の桜が花を咲かせていました。最初は梅かなと思ったのですが、木の幹に「冬桜」と記した札がつけられていたのです。あとひと月もすれば、この一帯は春の桜=ソメイヨシノで覆われるのですね。

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3年目に入った「サンウルブズ」、緒戦は健闘

2018年2月24日
秩父宮に行ってきました。「スーパーラグビー」3年目を迎えたサンウルブズのシーズン緒戦。対戦相手の「ブランビーズ」は、2年前、私たちがオーストラリアのキャンベラまで観に行った前で惨敗を喫した相手です。敵地とはいえ、サンウルブズはまったくいいところなし。それでなくても寒い夜だった上に、試合内容はもっとお寒く、5対66で負けました。

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それが今日はどうでしょう。前半戦だけで3トライ。それも皆、気持ちよい、スカッとしたトライばかり。「今年は違う」というのをありありと感じさせる内容です。後半こそブランビーズが本領を発揮し始めましたが、それでも後半30分過ぎまで10点差。そこから粘っこく攻めに攻め、終了直前、相手ゴール前ほぼ正面の位置でペナルティーを得ました。PKで3点を取り、7点差で試合を終わらせればボーナスポイント(勝ち点1)を確保できます。スクラムなりタッチキックなりで攻めればトライのチャンスもなくはないのですが、万が一取れずじまいだと10点差のままなので、ボーナスポイントはゼロ。結局PKを選び勝ち点を確保するほうを選びましたが、こんなことで選手たちが悩んだのは初めての経験のはず。でも、結果としてはよかったのではないでしょうか。

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運営面はだいぶ進歩してきた感じがします。ボランティアの数も増えていますし、全体としてすっきりわかりやすくなりました。これで箱がよければなおよしですが、何せ取り壊し目前ですから、それは致し方ないかも。スクラムを組むたびにグラウンドの芝がはがれるスタジアムなど、世界中探してもないでしょう。あざといイヤーブックの販売もありませんでしたし、キャラクターグッズもリーズナブルな値段になっています。あとは最寄り駅である東京メトロ外苑前駅の整備ですね。

高校同期生の社会見学──今回は横浜・野毛

2018年2月17日
一昨日、ヨーロッパから帰ってきたばかりですが、今日は高校同期生が集まっての社会見学。行先は横浜・桜木町の伊勢山皇大神宮です。横浜総鎮守でもあるこの神社、実はかなり格式が高いようで、いうならば“関東のお伊勢さま”。

行って驚いたのは、2014(平成26)年におこなわれた本家・伊勢神宮の式年遷宮で建て替えられた古社殿が、こちらにそのまま移されていたこと。それが2020(同32)年に、ここ伊勢山皇大神宮の本社殿になるのだそうです。堀立柱の唯一神明造、伊勢と同じ茅葺きですから、完成したときはさぞかし神々しい雰囲気がただようことになるのでしょう。

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社会科見学は小1時間で早々に終了、本来の目的である「野毛【のげ】のディープな居酒屋で昼呑み」に移ります。伊勢山皇大神宮が建つ場所はもともと、標高50mほどの野毛山という名前で知られていたそうです。幕末の1859年、横浜が開港すると、外国人貿易商を相手に商売をする日本人の豪商たちが住まうようになったのがこのあたり。87年には日本で初めての近代水道用の配水池が敷設されています。1949年に開催された日本貿易博覧会の会場にもなり、その2年後には動物園も完成。

まあ、このように由緒ある場所なのですが、なぜか山のふもと一帯は横浜随一の飲み屋街になっています。狭いエリアに数えきれいくらいの居酒屋、バーが密集し、食べられるものも焼鳥、おでん、ホルモン(もつ)、寿司、てんぷら、中華など、なんでもアリといった感じ。それにしても、この界隈がそうなったのか、不思議な気がします。

太平洋戦争のあと伊勢佐木町など横浜の中心部の大半は進駐軍に接収されたため、このエリアは復員兵や軍需工場の労働者など日本人の生活の中心地として機能したといいます。生活用の物資が慢性的に不足する中、闇市と屋台が並ぶ野毛は「ここに来ればなんでもそろう」と言われ、職と食を求める人々でごった返していたようです。

IMG_E3446いまでも街全体に昭和の匂いがかなり濃厚にただよっており、昼ひなかから営業している飲み屋も少なくありません(これは、東京・浅草と同じく、JRAの場外馬券売り場=WINSが近くにあるためです)。その一角で、ピョンチャン冬季五輪の男子フィギュアをテレビ観戦するのも一興ではないかと、今日参加した8人全員の意見が一致。さっそくあたりを徘徊して見つけたのが中華料理屋。なんの変哲もない店でしたが、どうしてどうして味はハイレベル。中国・福建省出身のおかみさんを相手に会話も楽しみながら、羽生結弦選手の金メダル確定の瞬間を全員で祝いました。

意外と快適だった駅前の3つ星ホテル

2018年2月14日
昨日泊まったホテル。実はその前日に予定を変更し、あわてて予約を入れたものでした。当初は、“世界最先端! 動物が快適に過ごせる”と評判の「チューリヒ動物園」を訪れ、そのあともう一度列車に乗って、空港により近いバーデン(Baden)という町に泊まる予定でした。この町のホテルには、その名のとおり温泉(=Bade)があり、10日以上に及ぶ今回の旅の疲れを癒してから帰国しようと思ったのです。

ただ、冬ですから、動物園も、姿をあらわさない動物が多い(とくにアフリカ系)のでは……と思ったのと、チューリヒの駅で重いスーツケースをコインロッカーに入れたり出したりするのが、なんとも面倒に思えたからです。実際には、チューリヒの駅も大々的にリノベーションされていて、新しい連絡通路ができていたりなど、コインロッカーもたぶん簡単に利用できたのかもしれません。リノベーションはまだまだ途上のようで、今度来たときはどこまで変わっているか、楽しみです。

さて、急遽予約を入れたホテルが予想外に快適でした。3つ星なのですが、部屋は広く、バスタブもあります。朝食もまあまあ充実していて、パドヴァより数段上、サンモリッツの4つ星ホテルよりもおいしかったように思います。あえて難を言えば、朝食を摂る場所が若干せせこましかったことくらいでしょうか。

駅からチューリヒの空港までは電車で15分足らず。空港も大幅にリノベーションされており、広い(広すぎるかも)わりにはわかりやすく、出発まで心地よい時間を過ごすことができました。そうそう、「チューリヒ動物園」は、近いうち、いい季節を選んで絶対に訪れたいと思っています。

チューリヒの老舗日本料理店、そして夜はチーズフォンデュ

2018年2月13日
3泊したサンモリッツとも今日でお別れです。朝方ホテルを出るとき、一緒になった日本人のグループがいました。話を聞くと、6泊8日のスケジュールでやってきて、まる1週間、朝から夕方までずっと、周辺にあるあちこちのコースに行って滑るのだそうです。全員70歳近い方々ばかりで、スキーの奥深さを改めて実感させられました。

私たちはサンモリッツの駅から「グレイシャーエキスプレス(氷河特急)」でクールまで。クールからはチューリヒまでは通常の列車です。氷河特急の窓からの眺めは素晴らしいのひと言。ここも10年前、逆方向で走ったのですが、同じ路線とは思えないほど、見えてくる景色が違います。

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クールの駅はとてもユニークで、コンコースを通って駅舎から出てもまだホームがあります。ただし、こちらはトラムや短い編成の電車用で、そのすぐ隣にはバスターミナルが。なんだかとても不思議な空間でした。町にちょっと出てみると、古くはありますが、落ち着いた印象で、もう少し長い時間いられればと思ったくらいです。

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チューリヒには1時過ぎに到着。前夜遅くに予約したホテルは駅のすぐ近くです。そのまた近くに、この町随一の老舗日本料理店があるのを調べておいたので、ランチタイムぎりぎりの午後2時10分前に滑り込み、セーフ。ランチのお寿司はめっぽうおいしく、ほっとひと息つくことができました。

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食べ終わったあと日本人の店主と雑談したのですが、夏からは別の場所に移転するとのこと。チューリヒも最近は寿司店が増え、回転寿司までできているそうです。寿司はいま世界中どこでも食べられるようになっていますが、やはり日本人が経営し、日本人が作っていないと、日本人の舌に合ったものは食べられないように思えます。それでさえ、ローマのように「えーっ?」というようなシロモノしか食べられない店もあるのですから……。

DSC_0107ホテルに戻り荷物を整理し、町の観光に出ました。クールからチューリヒまでの1時間も、途中、湖の先に雪を戴いたアルプスが見えましたが、夏でもアルプスの山並みが観られるのはうらやましいかぎりです。湖畔の桟橋(遊覧船が走っているようです)まで出ると、真正面にアルプスが! ただ、町の中はどこもかしこも工事、工事のようでクレーンだらけ。そのため、かなり興趣をそがれたものの、ヨーロッパの金融の中心の一つだけあって、お金持ちを相手にした高級ブランドの店がいくつもありました。

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夜は、これも昨夜遅くに予約しておいたチーズフォンデュの店です。こちらも創業100年以上という老舗らしく、店内は、いかにも年季の入ったしつらえで、派手さのないところもスイスらしい感じ。開店直後から客がどんどん入ってきます。フォンデュを食べるのは、10年前、スイスを訪れたとき以来。でも、やはりおいしいですね。

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スキーも持たずにスキー場に行くさびしさ

2018年2月12日
IMG_1747今日もまた好天が続きます。朝から、30分ほど電車に乗って郊外にあるディアヴォレッツァまで行きました。ここには標高約2978mのところに展望台があり、4000m級の山々を間近に臨むことができます。展望台までは鉄道駅からロープウェイに乗って10分ほどで到着。ただ「展望台」というのは夏の言い方で、冬場はスキー場です。あとほんのわずかで標高3000メートルに達するゲレンデには地元の人を中心にスキーヤーがびっしり。スクールもあるので、なんともにぎやかです。ただ、もともとは広い場所ですし人口も少ないので、日本のスキー場のようにせせこましさはまったく感じられません。

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この付近の最高峰ピッツベルニナ山(標高4049m)は残念ながら見えませんでした。天気はいいのですが、さすが3000mを超えたあたりからは雲が多くなります。そのまたさらに上空はまた晴れ渡っているものの、頂上付近だけが隠れてしまっているのです。

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下の鉄道駅から展望台の最高地点まで数分間上がっていく大型(108人乗り)ロープウェイから観られる、360度のパノラマは最高です。ただ、乗っているのは全員、スキー板とストックを持った人。私たちのようにカメラしか持っていない者はまったくの異分子です。といって、好奇の目で見られるわけではありませんが、それでも小さくなってしまいました。1時間ほど頂上にいましたが、マイナス14℃の寒さにはかないません。ちょうどロープウェイが上がってきてお客をおろしたところだったので、それに乗り下に向かいました。

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DSC_0065お茶を飲みながら待つこと30分。サンモリッツ方面に向かう電車が来たので、それに乗って戻ります。町は今日も相変わらず、お金持ちが出歩いていました。スーパーやお土産屋、スポーツ用品店をのぞいたりしながらぶらぶら歩いていると、おいしそうなチョコレートを売っている店が。この店が大穴というか、ドアを開けて中に入ると、なんとケーキやサンドイッチも売っていますし、さらにその奥はカフェになっていました。店先で買ったものを中で食べることができるのです。

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この町でまあまあ気軽に入れそうな店はここだけではないかという気がしました。要するに、「お金持ち」といっても、日本とヨーロッパとでは、桁が違うというか年季が違うというか、まったく別世界の人たちという印象を受けました。毛皮のコートをみせびらかそうとか、高級ブランドのバッグや洋服をひけらかすといった、底の薄い雰囲気は皆無。ここ2、300年ずっとお金持ちであり続けている人の血は、いわく言い難いものがあります。そうしたものと初めて触れた私は驚くばかりでしたが、日本の軽さ、歴史的な成熟度の遅さやはり否めません。

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念願の「氷上競馬」!

 

2018年2月11日
DSC_0378今日は、ここサンモリッツの冬の名物「氷上競馬(White Turf)」が開催されます。この町はサンモリッツ湖畔に位置していますが、冬は湖が全面的に氷結、その上を整備してレース場に造成し、競馬がおこなわれるのです。もちろん、芝でもダート(砂)でもないので、馬は氷用の蹄鉄を付けられています。おかげで、氷の上でも滑ったり転んだりしないで済むわけですね。

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レースは、ヨーロッパならではの「競駕【けいが】(1人乗りの二輪馬車を馬に曳かせるスタイル)」や、騎手が乗ったスキーを曳くスタイルのものもあり、興味津々。もちろん、馬券も売られており、1枚1スイスフラン。記念に3レース、合わせて30スイスフラン購入してみました。馬券を買えば、スタンドに座っていても真剣になります。

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DSC_0451それにしても驚いたのは観客のいでたち。ほとんど高級毛皮の見本市という状態です。年齢・性別に関係なし。祖父母、父母、2人の子ども、6人全員が毛皮のコート、それも上半身だけといったものでなく、足もとまで覆うロング丈です。特設スタンドの端から端まで全員が毛皮を身にまとっているなどというシーンも珍しくありません。

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DSC_0053それと連れてきている犬のレベルの高さには驚きました。そもそも犬それも大型犬を飼うのはお金持ちの証しだそうですが、どれも皆ホント立派なこと。日本では見たこともない、とてつもなく高価な感じの犬を連れている人をあちこちで見かけました。

 

この日は絶好の競馬日和。風もなく気温も高め。30分ごと(ランチタイム時のみインターバルは1時間)、合計7レースおこなわれますが、その合間は皆が、そこここに設けられているバーやコーヒースタンド、複数の食べ物屋が入ったテントなどで体を温めたり馬券を買ったり、会場の一角で終始おこなわれていたコンサートを楽しんだり、高級車の陳列コーナーで写真を撮ったりなど、思い思いの過ごし方をしています。もともと競馬は貴族のためのエンタテインメントとの知識はありましたが、この日はそれを肌で学びました。「百聞は一見に如かず」です。

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それに刺激されたわけではありませんが、夜はホテル近くの老舗レストランで食べることにしました。というか、ホテルを一歩出ると、そう簡単にレストランが見つからないのです。お気軽なピザハウスやハンバーガー店はほとんどありません。やむを得ない選択でしたが、味は上々でしたからよしとしましょう。デザートもすこぶる上品な味で、感動しました。こちらの一般的傾向として、人工的な甘さのレベルが極端に低いので、なんとなく安心できます。

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初めての「冬のスイス」!

2018年2月10日
IMG_3361ミラノ中央駅を朝9時過ぎに出発、3時間少々でティラーノに着きました。この日は国鉄(正確にはノルディターリアという、日本風にいうと第3セクターのような会社でしょうか)、それもローカル線なので、車両はかなり古くボロボロです。私たちが乗った車両もエアコンが故障していました。

 

 

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今日もメッチャいいお天気で、空は真っ青、雲ひとつなし。ティラーノは10年ぶりですが、さほど変わったという印象はありません。イタリアとスイスの国境のこの町は、「ベルニナ特急」の始点(終点)としても知られています。ちょうど昼食どきだったので、駅前のレストランに入りました。

ワインにピザとリゾットを一つずつ、あとサラダで昼食を済ませ、駅前の広場に戻ると、世界中の国からやってきている人がそこここで日なたぼっこをしています。私たちに話しかけてきた中年男性と20歳そこそこといった感じの女性のカップル(といっていいのかどうか……)は、なんとアルゼンチンから来ていた親子でした。南半球の国なのでいまごろはちょうど夏休みの時期なのでしょう。3週間かけて、ローマ、ミラノ、ベルニナ特急、氷河特急、さらにプラハとウィーンをゆっくり回る予定なのだとか。日本では考えられないような長い期間、そして組み合わせの二人です。

男性のほうが、私のスーツケースに「SANTA FE」と書かれたステーカーが貼ってあったのを見て話しかけてきたのですが、「このSANTA FEはアメリカのアリゾナの町なんだよ」と答えると、「なんだ、そうか!」と。アルゼンチンにも同じ名前の町があるのだそうです。でも、私たちが去年アルゼンチンに行った話をすると、えらく喜んでくれました。

IMG_E337110年前に乗ったのは真夏だったので、こんどはそれと真逆の季節。スイスなので、ほとんど1年中晴れてはいるようですが、冬はやはり空も一段と清く澄んでいます。おまけに途中の景色のほとんどは、雪に覆われたアルプスの山々。天井まで伸びる大きな窓から見える青い空と白い雪の心地いいことといったらありません。

 

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IMG_1719ティラーノから列車はどんどん登り、最高地点では2300m。そこを過ぎると下りに入り、乗換駅のポジターノで下車。そこからサンモリッツまでは15分ほどでしょうか。この町も10年前に訪れていますが、8月だったので、景色はまったく違います。それに気温の低いこと。最高気温が1度、2度ですから、かなり厚着をしてきたものの、身を切るような寒さには太刀打ちできません。同じ町を真逆の季節に訪れるというのは、ほとんど初めての経験ですが、なかなか興味深いものがあります。「雪」があるだけでこうも違うというのは、やはり不思議な感じがします。

しかし、何より違うのは来ている人の様子です。私たちの泊まるホテルは、4つ星でしたが、まわりにある5つ星ホテルの駐車場にはずらっと高級車が止まっています。客も、ひと目見ただけでそれとわかるお金持ち風。それも、「ちょい」ではなく「たんまり」、「最近」ではなく「ずっと昔から」といった雰囲気がただよっています。さすがヨーロッパ、いな世界に名だたる冬の高級リゾート地ですね。

夕食はホテル地下のレストランで。ヨーロッパでは珍しい石焼料理があり、それにトライしてみました。羊、鶏、豚肉のソーセージ、鶏、ベーコンなどタンパク質がたっぷり。あまりのおいしさに2人とも完食しました!

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不親切もここまで来ると……

2018年2月9日
DSC_02354泊したパドヴァも今日で最後。ミラノ行きの列車が出発する午後1時半ごろまで数時間フリーだったので、駅からトラムで10分ほど行ったところにある公園「プラート・デッラ・ヴァッレ」に行ってみました。この公園がなんともユニークで、ローマで観た「スタディオ・オリンピコ」のように、楕円形の敷地の外周を80体ほどの大理石像が囲んでいるのです。公園全体は人口の川(水路)に囲まれ、中央には小さな噴水が。それを中心に、上下左右対称に4つの部分に仕切られています。公園の外側を取り囲む広場のようなところには野菜や果物を売るテント張りの店が並んでいました。すぐ近くに、世界遺産にも指定されている世界最古(1545年)の植物園「オルト・ボタニコ」もあるので観たかったのですが、冬場の植物園はキホン冴えないのでパス。

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DSC_0249公園からトラムに乗り、「市庁舎」などが建つ町の中心街に。ここもまた二つの大きな広場(「エルベ広場」と「シニョーリ広場」)があり、テントがびっしり並んでいます。屋外市場ですね。「エルベ広場」に面する「ラジョーネ宮(サローネ)」という建物の1階部分には肉屋や魚屋やカフェが店を構えており、市場の延長といった感じです。

 

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さらに、広場から続く商店街には衣料品やスポーツ用品、電気屋などが。その一角にあった洋服屋のショーウインドウに、家人が欲しがっていたブラウスが陳列されているのを発見し、バースデープレゼント第1弾として購入しました。何せ、日本の値段のほぼ半額ですから! 思いがけないプレゼントに家人が喜んだのは言うまでもありません。

トラムに乗って引き返し、ホテルで預けておいたスーツケースを受け取って駅に向かいました。案の定、出発時間が遅れていましたが、ホームで待つことに。長距離列車とは思えないようなボロボロの列車です。時間がトリノ行きの特急とほぼ同じだったので、あわや乗り込んでしまうところでしたが、1本前の各駅列車が遅れていたよう。乗る直前に気がついて事なきを得ましたが、もし間違えて乗り込んでいたら大変です。夕方、ミラノでアポイントメントがあったからです。

長い編成の列車ですし、指定席なので、ホームのどのあたりで待っていればいいのか駅員に聞いても、「知らない」。というか、そうしたことをあまり気にもしていない様子です。日本なら考えられないことですが、ここはイタリア。そのあたりは鷹揚に構えているのでしょうね。

それでもカンを働かせて、ミラノ寄りの位置で待っていたらほぼ正解。今度は難なく乗車できました。しかも時刻どおりの到着ですから、胸をなでおろしました。ところがボローニャ、ヴェローナと停まるたびに少しずつ遅れ始め、ミラノに近づいた頃には10分遅れ。そして、市内に入ってからはノロノロ運転が続き、結局30分遅れで到着。

スーツケースはなんとかホテルに突っ込んだものの、このままでは約束の時間に間に合いそうにありません。タクシーの中から電話を入れ、遅れたことを謝罪しているうちに、「ドゥオーモ」の近くにある「アンブロジアーナ図書館&絵画館」に着きました。お会いする相手はその館長アルベルト・ロッカさん。その方をご存じの方から出発前に、「ぜひ会ってきてほしい」とお願いされていたのです。

「絵画館」のほうは、2年前にミラノを訪れたとき、建物のユニークさに魅かれて中に入り、見学したことがあります。ただ、それは「絵画館」のほうで、「図書館」はもちろん初めて。館長が笑顔で入口にあらわれ、私たちを「図書館」に案内してくださいました。

その前に館長が執務している部屋に通してくださり、コートやバッグを置かせていただいたのですが、館長の机の上に、漢字の練習に使っているノートが置かれていました。練習していたのは「劇」という文字のようです。「難しい字ですね」と私が言うと、「難しい漢字が好きなんです」と。「たしかに、漢字は造形としてとらえると面白いですからね」という私の言葉に同意しておられました。

さて、ここは普通の図書館とはまったく違い、収蔵されているのは古書、それもほとんどが「手稿(手書きの文章)」です。一番有名なのは、レオナルド・ダ・ヴィンチの「アトランティコ手稿」なるもので、これはダ・ヴィンチ直筆のデッサンやメモを集めて綴じたものだそうです。それがここには1119枚も収められているとのこと。残念ながらそちらは見ることができませんでしたが、次回訪れたときのお楽しみとしましょう。

手稿はどちらかというとメモ書きのようなものですが、なかには書籍もあります。それも、数百年前のものは当たり前というお話でした。それだけでも驚いている私たちに、館長は1000年前、1200年前、1400年前と、チョー貴重な書籍(それも現物!)を取り出してきては次々と見せてくださいます。手で直接触っていいものなのか不安でしたが、OKとのことで、ページを繰らせていただきました。

IMG_1706圧巻は1500年前に書かれたヘブライ語の聖書。中に挿絵も描かれているのですが、それがまた「挿絵」というには恐れ多いものばかり。金箔が貼られていたりラピスラズリから作ったインクというか顔料が塗られていたりで、この世のものとは思えない美しい色彩です。また、「手書き」だというのに、どの文字もまるで印刷されたかのように、同じ大きさ、同じ書体で、これには驚きました。

図書のほかにも、イギリスの詩人バイロンが400年前にここで学んでいたときに使ったデスクとか、とんでもなく貴重な品がさりげなく置かれています。その前に座らせていただき、「デスクについている垢でも煎じて飲みたい」とまじめに思ったりしました。閉館時間の6時ぎりぎりまで私たちに貴重な所蔵品の数々を見せていただいただけでなく、帰りがけには記念撮影にも応じてくださった館長さん、本当にありがとうございました!

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客の3分の2以上が日本人という居酒屋

2018年2月8日
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これだけ多くの教会を回ると、いいかげん飽きそうにもなるのですが、それでも、素晴らしい美術品がいくつも観られるとなれば、やはり行きたくなってしまいます。というわけで、今日はヴェネツィアの外側、アドリア海に面している側に行ってみることにしました。

 

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DSC_0159ヴァポレットに乗り最初に降りたのが、フォンダメンテ・ヌオーヴェという船着き場。その前に立つ病院を抜けた先が最初の目的地「サンテ・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会」です。病院自体もその昔、この教会が建てたのが起源なのでしょう。これだけ立派な病院を提供できるのですから、たいそう力を持っていたにちがいありません。

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ヴェネツィアのランドマークは「リアルト橋」と「サンマルコ広場」。全体が迷路のようになっているこの町で、自分がいまいったいどこにいるのかがわかるように、どこを歩いていても、この二つの場所の方向を示す案内板が目に入ってきます。それでも迷ってしまい、気がつくと「えーっ!」という場所にいることもしばしば。この日も「フェニーチェ劇場」に行こうと歩き回っていたのですが、気がつくと、目の前の建物がそれではありませんか。現在の建物は3代目(初代と2代目は火災で焼失)だそうですが、中は初代の建物をほぼ模しているようで、素晴らしい造りです。その昔マリア・カラスも何度かこの劇場に出演していたらしく、それを記念するポスターなども貼られていました。

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夕食を食べようと、「リアルト橋」の近くを歩いていて見つけたのが「Ostaria al Diavo’lo L’aquasanta」という店。近くにその店しかなかったこともありますが、入り口近くに日本語で書かれたメニューが貼られており、「選ぶのが楽だから」というそれだけの理由で入ることにしました。イタリアでは夕食にはまだ早い6時過ぎだったこともあり、先客は2人、しかも日本人です。

IMG_1680 私たちが座るとすぐ、日本人6人のグループ客が入ってきて、そのあとも、続々日本人が。テーブル席は「ここって、ヴェネツィアだよね?」と確かめたくなるような様相です。日本語メニューがやはり利いているのでしょう。日本の観光地も、英語や中国語、韓国語、フランス語など、多く訪れる国の言葉で記したメニューを、店内ではなく、外の目立つところに貼り出すと、客がどんどん入ってくるのではないかと昔から思っているのですが、それは間違いなさそうです。「うまい・まずい」の前に、「何を食べられるか」のほうが決め手になるからです。ただ、“There is Japanese menu inside.”という貼り紙(浅草で見かけました)に利き目があるのかという疑問は残りますが……。

 

この店は「ちょい飲み・ちょい食い」の地元客が多いようで、入ってすぐのところにある小さなカウンターに並べられた大きな皿にちょっとした料理が盛り付けられています。客はそこから一つ、二つ、好みのものを選び、あとはワインかビール。持ち帰りする客も少なくありませんが、このあたりが「ostaria(イタリア語で居酒屋の意)」のよさでしょう。

IMG_1682ただ、日本語メニューだけでは十分とはいえないかもしれません。この店はおかみさんの愛想が素晴らしくいいのです。当意即妙の受け答え(それも日本語プラス英語)が的確で、日本人の客を和ませてくれます。それでおいしければ言うことないのですが、幸い、今日も私たちの口に合いました。今回の旅は、食事に関してはいまのところハズレがなく、ラッキーな日が続いています。

教会というより美術館

2018年2月7日
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パドヴァをゆっくり目に出発したので、ヴェネツィアの駅に着いたのは昼過ぎ。今日もまたヴァポレットに乗っての移動が続きます。最初に行ったのは「サンタ・マリア・グロリオ・デイ・フラーリ教会」はみごとの一語。ティツィアーノやベッリーニなど、その名の知れた画家の作品が見られるのですが、それ以上に聖歌隊席と外周の壁面を覆うレリーフ(浮き彫り)の素晴らしさに息を呑みました。

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「スクオーラ・グランデ・サン・ロッコ」を観たあと訪れた「アカデミア美術館」もまた、ティツィアーノやらティントレットやら、名だたる宗教画家の作品が収められています。中の造りがわかりにくく、あわや名作を見落としてしまうところでしたが、なんとか見つけ出しました。

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ただ、短い時間にこれだけ多くの絵画を見ると、頭の中がパンクしそうになります。途中カフェを見つけ、腹ごしらえもかねて頭と足を休めないと、とても1日もちません。歩いている途中でもう1軒カフェに立ち寄りましたが、どの店も、そこで作っている風の食べ物を出すので、楽しみがあります。日本のコンビニのようなところは一つもないですから。

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ひと休みしたあと、運河沿いの、まわりはどうということのない場所にある「スクエーロ(ゴンドラの造船所)」に足を延ばしました。それでも、驚くことに、世界中の人が来ています。古ぼけた小屋のようなところなのですが、修理などもおこなっているらしく、職人が懸命に作業に励んでいました。

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