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“日本ラグビーの父”のお墓は神戸に

2019年9月27日
今回のラグビー観戦取材「第一シリーズ」も明日で最後。今日はオフの日です。明日の朝まで神戸なので、ゆっくりもできたのですが、一つ果たしたいことがありました。六甲山の中腹、再度【ふたたび】公園の一角にある神戸市立外国人墓地に、ラグビーを日本に伝えたイギリス人の墓があると知り、そこを訪れてみたいと思っていたのです。

エドワード・ブラムウェル・クラーク(Edward Bramwell Clarke)は、横浜生まれのイギリス人英語教師で、慶應義塾、第一高等学校、東京高等師範学校、第三高等学校、京都帝国大学などで教鞭をとりました。いったんイギリスに戻りましたが再び来日、慶應で教壇に立っていた1899年、ケンブリッジ大学留学から戻った田中銀之助の協力を得ながら、学生たちにラグビーを指導したことから、「日本ラグビーの父」とされています。その後クラークは京都に移りましたが、有馬温泉にも足を運ぶなど、神戸との縁も深かったようです。

再度公園の一帯は多くの松が生え、中にある池とあいまって、美しい空間を作っています。墓地の入口まで歩いていったのですが、残念ながら親族や遺族など関係者しか中には入れないようで、展望台からながめることしかできず。14ヘクタール広大な墓地のどこにクラークが眠っているのか、想像するしかありませんが、見つけるのは難しそうです。とりあえず、タウン誌『月刊 神戸っ子』のウェブサイトに墓石の写真が出ていたので、転載させていただきますが、毎月一度見学会が催されているようなので、いずれそれに参加してみようと思います。

 

六甲山から再び神戸の街中に下り、夕食。横浜のときにならい、元町近くの南京町でまたまた中華。ひいきにしている「民生」という店でお腹いっぱいに。これだけ食べてパワーをつけておけば、あすのJAPANvsアイルランド戦@エコパスタジアムの応援にも力が入るはずです。

 

イングランドvsアメリカの“親子”対決

2019年9月26日
仙台から伊丹のフライトが1時間遅れ。伊丹空港で乗客がナイフを持ち込んだとかで所持品検査のやり直しがあり、欠航した便もあったという中、とりあえず、飛んでよかったです。前橋上空で雲の上から頭だけ出した富士山が。どこをどう切り取っても、美しいですね。

伊丹からリムジンバスで神戸の三宮。「このバスは法定速度で運転してまいります」の“宣言”どおり、最初から最後まで、みごとな順法運転ぶり。ただ、客にとってはもどかしい感じもします。今日のように、フライトが予定より大幅遅れの場合はとくに。

ホテルを出て三宮駅から続くSOGOデパート地下で観戦時の食料を確保。昨日から、食べ物の持ち込みが認められたのです。地下鉄で5つ目の御崎公園で降り、そこから15分ほど歩くとノエビアスタジアムに。今日はイングランドvsアメリカ。旧宗主国と旧植民地の対決です。その図式はラグビーにもそっくり当てはまり、実力の差は歴然。アメリカではなぜか、サッカーもラグビーもあまり広まらなかったようです。その代わりが野球とアメリカンフットボールなのですが、それでも近年はサッカー、そしてラグビーのプロ化が始まりました。

ただ、それはそれとして、予選を突破して本大会に出てくるくらいですから、そこそこの力は備えています。しかし、この日はまるで覇気がないというか、ノーサイド間際までまったくいいところなし。最後にようやく1本トライを返し、意地を見せたものの、ちょっと……という印象は拭えません。

それより、ラグビーというスポーツの第一原則である「品位」を感じさせたのがイングランドのプレー。45対0というワンサイドゲームですから、終了間際にキープしたボールをサイドラインの外に蹴り出せばよかったのですが、さらに攻撃を続けたのです。しかし、それがアダとなり、アメリカにボールを奪われ、最後にトライを許してしまいました。レフェリーのホイッスルが鳴るまでゲームはやめないという、ラグビーの基本精神がそこにはあらわれていたように思います。

 

釜石は、絶好のラグビー日和!

2019年9月25日

朝から真っ青な空が広がっています。W杯の観戦も、今日で4戦目。フィジー vsウルグアイです。仙台で東北新幹線の各駅停車に乗り北上【きたかみ】まで小1時間、そこから釜石までバスでさらに1時間20分ほど走ります。できてまだ間もない三陸道を走り、バスの駐車場に。そこから鵜住居【うのすまい】復興スタジアムまでは歩いて15分。土の道なので、晴れてホントよかったです。

スタジアムのまわりには、みごとなほど何もありません。この一帯は、8年前の大震災+津波で何もかも流されてしまったからです。小高い丘のふもとに、すぐにそれとわかる建物が見えます。スタジアムというより、球技場の言葉のほうがふさわしい感じ。それでも、仮設スタンドを含めると1万6千人、本体だけなら6千人収容とのこと。大型映像装置も2台ついていて、フラストレーションなく観戦することができます。陸上競技用のトラックがない、ラグビー(もしくはサッカー)専用なので、最前列など、ほとんど手が届きそうな感じで観戦できますし、最上段でも、とても近くに感じます。

2011年のW杯、ニュージーランドのファンガレイ(Whangarei)でおこなわれたJAPAN vsトンガ戦(18対31で負け)を思い出しました。オークランドからバスで2時間半、途中目にしたのは羊だけと言ってもいいほど田舎にある町で、スタジアムは仮設スタンドも含め2万人収容。このときもやはり土の道を歩いていきました。でも、大きくて立派なスタジアムとはまた違う、素朴な雰囲気がいいのです。

スタンドのまわりに並ぶ売店もそれぞれ個性的。飲み物はどこも共通ですが、食べ物は東北各地のローカルなメニューを販売しています。売り手も、岩手県人ならではのほのぼのとした優しさがいっぱい。軽く言葉を交わしながら好みの物を買い、温かな日の光とさわやかな風が頬をなでる中、ベンチや芝生の上に座り込んで飲んだり食べたりしながらキックオフを待つファンがいっぱいいました。コンクリートで作られた、いかにもといった感じの都市型スタジアムとはまったく違う味わいがあります。

かつて、新日鉄釜石が日本選手権7連覇を達成した時代、釜石とその周辺に暮らす人たちにとってはラグビーが日常だったはず。シーズンともなれば、昼も夜もラグビーの話で盛り上がっていたにちがいありません。いまで言うと、サッカーJリーグ、バスケットボールBリーグのチームがある地方都市も同じような雰囲気があるのでしょう。そうした意味では先駆者ともいえる釜石。そうした頃の名残かもしれません。

両国国歌の演奏の前に、東日本大震災で亡くなった方々の冥福を祈り、黙とうをささげました。また、空にはブルーインパルスが編隊飛行で祝福します。

試合は、スコッド31人中9人がアマチュアで、世界ランキングも19位という格下のウルグアイが、W杯では毎回健闘し、いまもランキング10位のフィジーを相手に堂々と渡り合い、最後は30対27で勝利。メインスタンドに陣取っていた100人近いウルグアイ人サポーターを喜ばせました。私たちが観戦したバックスタンドにも3人の熱いサポーターがおり、大きな声を張り上げていたのが印象に残ります。帰りも順調で、スタジアムから北上の駅まで渋滞もなく到着。茜色に彩られた西の空がきれいでした。

ラグビーとおはぎの不思議な関係

2019年9月24日

まずは今夜の結果から。ロシアvsサモア。日本と同じプールの対戦ですが、サモアが地力を発揮しロシアを圧倒、34対9。ボーナスポイントも獲得し、現時点でプールAのトップに立ちました。

さて、今日は移動日です。明日午後のフィジーvsウルグアイ戦がおこなわれる釜石まで東京から当日行くのはいささかきついので、仙台で前泊する計画を立てました。とはいっても、「事のついでに」が大好きな私なので、そこにいくつか“おまけ”をつけずにいられません。

今回の“おまけ”は、仙台から車で30分ほどのところにある秋保温泉のスーパーが製造販売しているおはぎ、そして八木橋動物公園。おはぎは家人がたまたま見ていた番組で紹介されていたもの。秋保温泉の一角にあるスーパー「主婦の店さいち」で売られていて、毎日、朝から行列をして買う客が絶えないというのです。駅でレンタカーを借り、行ってみました。

平屋建ての、さして大きくもないスーパーなのに、駐車場が3カ所もあり、しかも警備員までいます。そこへ次から次へ車が入ってきて一目散に店の中に。もちろん、食料品や生活用品を買いに来る客もいるようですが、3分の2はおはぎ買いの客。狭い売り場の一角に並べられているのですが、どの客も5パック、10パックとバスケットに入れていきます。話を聞いていると、自分たち用に隣人やお客さん用などを一緒に買っているようです。

あずき、きなこ、ごまの3種類があり、それぞれ2個入り・3個入り・6個入りのパックになっています。もちろん、2種混合、3種混合も用意されています。どれも1個100円ですから、3個入りを5箱買っても1500円。安いものです。それでいて、一つの大きさは縦7センチ、横5センチほど。

あずきときなこ、2個入りを1パックずつ買いました。正直、3種すべてほしかったのですが、いくらなんでも私と家人の2人で6個は食べきれなさそうなので自重。しかし、これがもう、とんでもないあんこの量(もち米は全体のボリュームの2割ほどでしょうか)。子どものころ食べたぼた餅を思い出させます。あずきの自然な甘さが前面に出てきて、とてもいい感じ。生まれて初めての超弩級のおいしさに感動しました。文字どおりの“スーパーおはぎ”です。

 

ラグビーのJAPAN代表チームも、ロシア戦が始まる4時間前に食べる「マッチミール」でおはぎを食べたといいます。「……用意されるのは、あんこのおはぎ。今季から選手の要望を受け、エネルギー源となり、腹持ちが良い逸品がビュッフェに並ぶようになった。あんこの材料になる小豆は、邪気を払う縁起物ともされる」(日刊スポーツ)。“ONE TEAM”を合言葉に今大会に臨んでいる選手たちのきずなの一つがおはぎだったとは! 私たちもそれに続いたというわけです(笑)。

大会前、宮崎で合宿していた選手たちに、ラグビーW杯2019のPRキャプテンを務める舘ひろしが、石原軍団御用達というサザエ食品のおはぎ500個を差し入れしたという記事も出ていました。ちなみに、舘ひろしは私より1学年上で、名古屋の千種【ちくさ】高校ラグビー部。私が明和高校ラグビー部にいたとき一度だけ試合をしたことがあります(もちろん、当時は彼の存在など知る由もありませんでしたが)。その当時は明和高校のほうが強かったので勝ちましたが、その後(1999年、2002年)千種高校は花園に出るくらい強くなりました。

もう一つちなみに、サザエ食品の十勝おはぎ(同社の発祥は函館)は、これまで私がいちばんひいきにしていたもの。いまからもう40年近く前、初めて口にしたときは「世の中に、これほどうまいおはぎがあったとは!」と仰天しました。しかし、今日食べた「主婦の店さいち」には一歩及ばない感じがします。

アイルランドは強い、しぶとい、怖い!

2019年9月23日
21日のニュージーランドvs南ア戦の試合終了時間が遅く、翌22日の試合も同じ横浜、キックオフが16時45分と早めだったので、スタジアムから歩くだけで済む新横浜駅上のホテルに泊まりました。同じような考えのファンも多かったようで、ホテル内はそれっぽい人が目立ちます。

キックオフまで時間に余裕があるので、中華街でランチでもと思い出かけてみました。多少予想はしていましたが、まあ大変な人出です。それも通常の土日と違い、外国人のグループがそこここに。メインの通りは朝の丸の内地下通路状態でした。W杯開催期間中に国慶節(10月1日)と双十節(10月10日)という二つの休日があるので、その日はおちおち歩いてなどいられないのではないでしょうか。

 

22日はアイルランドvsスコットランド。予選で日本と同じプールの強豪です。日本が決勝トーナメントに進むには、できれば両国とも、最悪でもどちらかに勝つ必要があります。前回大会で、南アに勝ったあと、中4日で戦って負けたスコットランドは何がなんでも蹴落としたいので、この試合はできればアイルランドに勝ってほしい、それもボーナスポイントなしで、というのが正直な気持ちです。

試合前の国歌演奏では両国とも国歌(National anthem)とは異なる歌(Anthem)を歌っていました。スコットランドは独立国ではないので、これはよくわかります。でも、アイルランドは普通の独立国ではないかと誰もが思うことでしょう。しかしラグビーの世界では、そのアイルランドに加え北アイルランド(こちらはイギリスに属している)も加えた形でチームが構成されているのです。そのため、選手たちの国籍は最少でも2つ(外国人や移民も加えればそれ以上の可能性もあります)で、「(アイルランドの)国歌」を歌うわけにはいきません。そこで、1995年のW杯からは、ラグビー用に作られた「アイルランズ・コール(Ireland’s Call)」を歌っています。ちなみに、スコットランドは「フラワー・オブ・スコットランド」という曲です。能書きより、実際に聞いたほうがその素晴らしさがわかります。日本人が聴いても、勇気をかきたてられそうになる曲調にシビレますよ。これもYoutubeでどうぞ。
https://www.youtube.com/watch?v=pH5I2Y4BBjw

国歌だけでなく、国旗もアイルランドは2つ(1つはアイルランド=緑+白+橙、もう一つはイギリスに属する北アイルランド=アルスターの旗)。スコットランドも当然ユニオンジャックではなく、紺地に白の斜め十字です。

 

 

そもそもラグビーでは「イギリス」から4つもの「国」が出ているのですね。イギリスはUK(United Kingdom)というように、正式な国名はグレートブリテン及び北アイルランド連合王国です。そのグレートブリテンもイングランド、スコットランド、ウェールズという3つの「国」から成っています。そのどれもが出場するのですから不思議というか不公平というか。オリンピックや世界陸上は「イギリス」なのですが。サッカーはイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドという4つの「国」があり、アイルランドは本来のアイルランドとして出ています。

試合のほうは、現在世界ランキング1位のアイルランドの一方的な勝利でした(27対3)。オールブラックスのような派手さはありません。スタープレーヤーもほんの数えるほどです。しかし、鉄壁のディフェンスは相変わらず。相手のスコットランドとは何度も
戦っているので手の内は十分わかっているのでしょうが、それにしても、スコットランドのいいところを完璧に封じ、ノートライに抑えました。

 

しかも、アイルランドが前半あげた3つのトライはすべてフォワードによるもの。“トライはバックス”というのが半ば常識ですが、フォワードが文字どおり「前へ前へ」と突き進むので、チャンスをつかむのもフォワードの選手なのです。この試合ではバックスが、これまた文字どおり後方で強力な防御を見せていました。タックルの成功率は95%と、新聞のスポーツ欄にありましたが、これはもう驚異の数字です。その昔私は「アタックル」という言葉を教えられました。タックルは防御のためだけではなく、それを起点にアタックに転じていくのが本当のタックルなのだという意味です。

後半4つ目のトライを奪いボーナスポイントも獲得。私たちの願いはかないませんでした。そして、この強くてしぶといアイルランドとJAPANは28日に戦うのです。でも、負けてもともとという開き直りと、相手を混乱させるような変幻自在、それでいて緻密な攻撃を仕掛ければ活路が開けるかもしれません。最悪でも7点差以内に抑えボーナスポイントを獲得してほしいものです。怖がったりしてはいけないのです。

中華街でもスタジアムでも、この日は緑のジャージを着たアイルランド・サポーターの姿が目立ちました。私たちの席の後ろにも数十人のグループが陣取っていましたし、大きな声を上げ、試合前とハーフタイムのときは巨大な国旗を持ったサポーターがスタンドを走るなどという光景も(サッカーではよくありますよね)。世界一の大酒飲みとも言われるアイルランド人ですから、試合後は横浜の随所で“緑の雄たけび”が聞かれたのではないでしょうか。

ラグビーは球技である前に格闘技

2019年9月21日
今日はニュージーランド(オールブラックス)vs南アフリカ(スプリングボックス)。AからDまで4つある予選プールの対戦の中でも最高レベルで、なんだかもったいない感じすらします。6万数千人収容の横浜スタジアムにふさわしい試合と言えるでしょう。もう一度この両国の対戦があるとすれば、決勝か3位決定戦しかないので、絶対に見逃せません。

というわけで、私たちもキックオフの3時間以上前には新横浜駅に着いていました。駅構内はもう大変な人。おそらく全国、いな世界中から来ているのではないかという気がします。スタジアムの前でのんびり写真など撮っていては申し訳ないという思いすら抱きました。遠くからわざわざやってきている南アのサポーターならともかく、私たちなど、こんな試合が日本で観られるだけで大満足、どちらが勝ってもいいやくらいにしか思っていないのですから。

 

ニュージーランドのラグビーといえば、もう「ハカ」です。「ハカ」とはもともと、先住民であるマオリ族の男性が、戦いの前におこなう踊り、手や腕を叩き足を踏み鳴らすなどしながら、自分たちの力を誇示するとともに、相手を威嚇するためのものでした。ラグビーでは1905年、ニュージーランドチームがイギリスに遠征したとき、スコットランド戦とウエールズ戦の前に披露したのが始まりとされています。以来、オールブラックスがテストマッチ(国際試合)を戦うときはかならず、キックオフの前に相手チームにハカを披露する習慣になっています。

 

写真では限界があるので、Youtubeでどうぞ。
https://twitter.com/i/status/1175346576753143808

19時45分過ぎキックオフ。世界ランクがほぼ最高の両国ですから、一瞬たりとも気が抜けません。ちょっと(時間にして数秒)よそ見していると、その間に攻守も場所もすっかり入れ替わっているなどということもしばしば。それも、ボールを蹴り込んでとかではなく、持って運んで、敵のタックルをくぐり抜けたりかわしたりしての結果です。

ラグビーの面白さも、そうした部分にあります。球技であると同時に格闘技でもあるのです。見ていて体に力が入ってしまうのはそのせいでしょう。今日の試合でも、身長2メートル・体重100キロという男どうしが走りながらぶつかり合う場面がありました。私たちの席が前から5列目だったのでそれを目【ま】の当たりにしました。肉と骨とが同時に音を立てるとでもいうのでしょうか。

そうしたシーンが前後半合わせて80分続くのですから、やるほうはもちろん見るほうも疲れるのは致し方ありません。それでも、今日の試合は日本がからんでいなかったので、まだいいほう。とりあえず、これほどレベルの高いゲームを見せてもらえる喜びと感謝でいっぱいです。

その繰り返しの上に、相手から一つでも多くの「トライ」を奪い取るのがラグビーです。トライとは、ボールを相手のゴールライン(ポールが立つライン)を越えた先で、ほんの一瞬でもかまわないので、地面につける(グラウンディング)こと。ただし、地面とボールとの間に1センチでも隙間が空いていたら「トライ」になりません。相手ゴールラインの上で敵味方が壮烈にもみ合うのは、なんとかラインの向こうにグラウンディングするか、それを阻止するか、ぎりぎりの攻防が展開されるからです。球技といっても、私たちの目に見えるのは格闘技なのです。

最後にグラウンディングするのは1人ですが、そこに至るまでにどれほどの選手が関わっているか。緒戦のロシア戦で3本のトライを決めた松島幸太朗選手。試合終了後のインタビューでも、「皆でつないで取れたので、ワンチームでできた」とコメントしていましたが、そうしたことが背景にあります。団体競技はスター選手が一人だけいても勝てないと言われますが、ラグビーはその度合いが圧倒的に高いと言えるでしょう。

さて、試合はオールブラックスが力を発揮し、23対13で南アをくだしました。Player of the Match(いうならば最高殊勲選手)には、オールブラックスの、この日15番(フルバック)を務めたボーデン・バレットが選ばれました。上の写真で、ボールを持って走っている選手です。

まずはロシアに勝てて、ほんとよかった!

2019年9月20日
自分のことでもなんでもないのに、今日は朝からソワソワ落ち着きません。ラグビーW杯の開幕、しかもJAPANの登場ですから、まあ仕方ないかも。持っていくものをリュックに入れるのですが、忘れ物がないかドキドキ。まるで小学生の遠足みたいです(笑)。

 

 

 

 

キックオフは夜7時45分ですが、1時半には家を出て、途中、新宿にある「MEGA SHOP(W杯の公式グッズ販売店)」に立ち寄りました。巨大なウェッブ・エリス・カップ(もちろん模型)が飾ってあり、その前で記念撮影などしてテンションもアップ。あいにくいちばんほしかった物は見つかりませんでしたが、小物を少々買いました。たいした量でもないのに、立派な手提げ袋に入れてくれます。お客は世界中から詰めかけていましたね。近くのデパートで食べ物を買い、京王線で一路飛田給【とびたきゅう】駅まで。まだ、時間が早かったのでそれほど混んでもおらず助かりました。

 

駅からスタジアムまでの道も楽に歩け、荷物検査も難なくパス。食べ物・飲み物はアウトという触れ込みだったのですが、「MEGA SHOP」の買い物袋にさりげなく入れておいたら見つからずに済み、ホッ。食べ物・飲み物の持ち込みを禁じているのは、スタジアム内の“オフィシャルフードショップ”で買いなさいということなのですが、オフィシャルスポンサーとはいえHEINEKENのビールが1杯1000円はないんじゃないかなぁ……。当日プログラムも1部1500円。前々回のニュージーランドでは日本円で800円ほどでしたけどね。でも、買いましたよ。

オープニングセレモニーは光と音による構成で、たいそう凝った内容。ただ、いつも思うのですが、いささか「日本」にこだわり過ぎの感がします。富士山は、大会のシンボルマークにもなっているのでいいかなと思いますが、歌舞伎や太鼓はどうなんでしょう。

   

試合は最終的に30対10で勝ちはしましたが、最初の数分は、「おいおい、大丈夫かよ」と言いたくなるようなプレーばかり。地に足がついていないだけでなく、ボールも手につかず、早々に先制されてしまいました。ただ、それで少しは目が覚めたのでしょう、以後はJAPANらしさを発揮し、4トライ。1試合でトライの数が4を越えるとボーナスポイントといって、勝ち点に「1点」が上乗せされるのですが、これが大きいのです。前回の大会、予選プールでかの対南アフリカ戦も含め3勝したのに、決勝トーナメントに進めなかったのは、勝ち点が南アフリカ、スコットランドに及ばなかったため。JAPANはボーナスポイントがゼロだったのです。

今日の試合は、ハットトリックをやってのけた松島幸太朗に尽きます。JAPANとしてはW杯初の快挙ですから。まあ、何はともあれ、緒戦に勝てたので、このあと大会全体の盛り上がりも期待できるのではないでしょうか。

明日21日は予選プールでは一番の好カード、ニュージーランドvs南アフリカ戦です。

JAPANが本当に強くなるには……

2019年9月19日
たしかに、JAPANのラグビーは強くなりました。とくに、ここ5、6年の進歩には目を見張ります。その要因はさまざま考えられますが、やはり外国人選手の存在が大きいのではないでしょうか。今大会もチーム31人のほぼ半数、15人が外国人です。内訳はニュージーランドが5人、トンガが4人、南アフリカが3人、サモアと韓国、オーストラリアが1人ずつ。なかには日本国籍の選手もいますが、容貌ははっきりそれとわかります。ちなみに、松島幸太朗はいわゆるハーフです。

スポーツで外国人選手といえば、まずはプロ野球でしょう。太平洋戦争前の1リーグ時代から、チームの中核を担い素晴らしい実績を残した選手がいました。ただし、外国人といっても、ハワイやカリフォルニアに移民した日本人の2世、あるいは当時日本の統治下にあった台湾の選手が多かったようです。容貌も外国人というのはハリスだけでした。

ただ、日本のスポーツ界というのは“純血主義”とでもいうのか、その容貌から外国人と分かると一歩距離を置いて見るところがあるようです。その壁を破ったのがJリーグで、1993年にスタートすると、そうした風習は一気に消滅していきます。いまでは大相撲を始め、Bリーグ(バスケットボール)、Vリーグ(バレーボール)、柔道、駅伝など、プロ、アマを問わず、いたるところで、さらに近ごろは高校レベルでも、「留学生」の外国人選手がけっこういます。テニス全米オープンで優勝した大坂ナオミ、NBAでドラフト1位指名された八村塁もハーフですし。

そうした点からすると、いま外国人(の血)がなければ成り立たないのでは? と思われるのが陸上競技とバスケットボールでしょう。とくに陸上短距離は、黒人独特のバネがものを言っているようです。サニブラウン・ハキーム、ケンブリッジ飛鳥、ウォルシュ・ジュリアンなど、国籍は日本でも容貌は外国人(ないしはハーフ)。その外国人と伍して山縣や桐生、小池が走っているのを見ると「立派!」などと思ってしまったりします。

前置きが長くなりましたが、スポーツもいまや「◎国人」とか「?国出身」とか「△国籍」といった壁がどんどん風化しているようです。これだけ多くの日本人が海外に留学・転勤(もちろん、逆もアリ)したりしているのですから当然かもしれません。ラグビーでもそれは同じこと。むしろ、体が大きく技量にもすぐれた彼らがいたおかげで日本のラグビーも大いに力をつけていったのです。

日本のラグビーは外国人が代表に選ばれたのも早かったのです。1987年の第1回W杯のとき(シナリ・)ラトゥとノフォムリの2人が名を連ねていますから。外国人はフィジカルが日本人より数段上だから勝てなくても当たり前という声をよく聞きます。でも、ラグビーについて言うならそれは違うのではないかと、私は思っています。たとえばニュージーランドの選手は、子どものときからラグビーに親しんでいます。しかし、それ以上に強く影響していると思うのは、芝生のグラウンドが数え切れないほどあることでしょう。ラグビーに欠かせないタックル。これは非常に怖い技です。ケガをするのは当たり前というか、かなりの勇気がなければ、全力疾走している相手選手の足もとや腰のまわりに飛び込むなど、できないことです。ケガをしないほうが不思議です。

でも、グラウンドが100%芝で覆われていればどうでしょう。そのリスクは大幅に下がります。衝撃や衝突を恐れない感覚をそれこそ3歳、4歳の頃から身に着ければ、これは有利です。私など高校時代は、ラグビーは土の上でやるものだと思い込んでいました。試合用のグラウンドですら、芝生の「シ」の字もありません。まして、学校のグラウンドは土、そして石、砂利です。その上で「飛び込め~っ!」「倒せ~っ!」と言われても……。

ある日、テレビでニュージーランドやオーストラリアの公園に芝がふんだんい植えられているのを知ったときは、驚きました。しかも「Keep off the grass」などという表示はどこにも見当たりません。「芝生に立ち入らないでください」というのが普通の日本とは真逆です。日常生活の中で、芝生に足を踏み入れる、ましてその上を走り回ったりするなど、とんでもないことと教えられてきたのが私たち日本人。それからすると、ニュージーランドのラグビーが世界一なのは、むしろ当たり前なのかもしれません。フィジカルの前に皮膚感覚そのものが違うのです。ニュージーランドではどこもかしこも、裸足で歩いている男性をよく見かけましたが、そうしたことと関係しているのかもしれません。

私の高校時代、日本代表がニュージーランドに遠征したことがあります。
FWの後川、猿田、堀越、小笠原、井沢、石塚、HBの桂口、BKの横井、尾崎、伊藤、萬谷と、選手の名前がいまでもすらすら出てきますが、その中にいたのが坂田好弘。坂田がオールブラックス・ジュニア相手に4トライをあげて勝ったときは仰天しました。その坂田が「(日本は)ラグビーができる場があまりに少ない」と嘆いているように、強くなるにはそれが一番の近道なのではないかと思います。そうでないと今回W杯が終わったあと、芝生の練習場も競技人口も増えないでしょう。それは、JAPANが強くなるのにまだまだ大変な時間がかかることを意味しています。

まずは頭、次に感性……、そして体全体も。

2019年9月17日

昨日は夜6時から12時近くまでテレビ漬けになってしまいました。第1回の1987(昭和62)年、1991年、1995年のラグビーW杯決勝戦をJスポーツでやっていたからです。第1回大会のメインスポンサーは日本のKDDだったようで、そういえばバブル経済のほぼピークのときだったんだと思い起こしました。スタンドのそこかしこに「富士通」「横河電機」「ワールド」「マツダ」など、日本企業の看板がいくつも見えます。

決勝は地元ニュージーランドvs フランスの対戦でしたが、いまからすると考えられないというか、牧歌的な雰囲気が。試合前のセレモニーも、フランスの選手は、自国の国歌が演奏されているというのに、じっと聞き入るでも声を出して歌うでもなく、円陣を組んだりしています。さすが地元(オークランドのイーデンパーク)の観客はニュージーランド国歌を歌っていましたが、いまのように英語の歌詞に先行するマオリ(先住民)語の部分はなかったことを知りました。

両チームとも、ジャージは襟付き(なかには長袖の選手も)、使用球はおなじみのGILBERTではなくMITRE(イギリスの老舗ブランド)、ルールもいまとはかなり違っており、私のようなオールドファンにとってはかえってなつかしい感じがします。プロ化されていない時代なので、選手も警察官であったり木工職人であったり医者であったり学校の先生であったりなど多種多様。長くアマチュアリズムにこだわり続けていたラグビーらしい話です。企業のロゴが入っていないジャージはすっきりしていますね。

 

 

©Crown Copyright

 

 ©Rugby Wrap Up

 

優勝したのはニュージーランド=オールブラックスでしたが、表彰式はスタンドのロイヤルボックス近く。狭い通路に選手がグラウンドから次々と上がってきて、なんとも気軽な雰囲気の中でウェブ・エリスカップとメダルを授与されます。選手たちは満面に喜びをあらわし、カップを高く掲げていました。グラウンドには興奮した観客が降りてきて拍手したり旗を振ったりしながら大騒ぎ。いまなら考えられないようなシーンです。

私が初めてW杯を観た第2回(1991年)もさほど大差はありません。たまたまイギリスに出張していて、ホテルで朝食を取りながら読んでいた新聞で開催を知りました。「おー、今日カーディフ(ウェールズ)で試合があるじゃないか!」。アポイントメントもなかったので、電車で2時間かけて現地まで行き、当日券を買って入った記憶があります。有名なアームズパーク(その後取り壊されいまはもうない!)のスタンドは空席がけっこう目につきましたし、私の席もほぼハーフウェーラインの位置で前から15、6列目くらい。たしか、日本円で5000円もしなかったのではないでしょうか。

しかし、テレビを観ているうちにまず頭が、次に感性が“ラグビー”に支配されていきます。そして最後は全身が支配されていました。イスにすわりながらも、画面で繰り広げられるプレーに反応し、手や足が勝手に動いてしまうのです。私など高校時代3年間と大学に入って半年ほどしかプレーしていませんが、それでもこの始末ですから、やはりラグビーには強烈な魔力があるとしか言いようがありません。

余談ですが、第3回の決勝には、現在JAPANのヘッドコーチを務めるジェイミー・ジョセフ(当時27歳)がフォワード3列の一人として出場していました。

さてさて、開幕まであと3日! 眠れない夜がこの先6週間続きそうです。詳しくは、9月20日からスタートするエディットハウスの特設サイトをご覧ください。
http://www.edit-house.jp/

 ©sportvilogger.com

「バルト3国」とひとくくりにするのは無理があるかも

2019年7月9日

昨日が今回のツアーも実質最終日。それでもタリンを出るのは午後なので、午前中は家人と二人でゆっくり見て回ることができました。昨日の街歩きでは足を踏み入れなかったエリアを中心に歩きます途中、次から次と、「世界遺産」に指定されている建物と遭遇。これまでタリンは2回訪れたことがあるのですが、町全体の様子がようやくつかめた感じがします。

 

3月に訪れたノルウェーもここからさほど遠くはないものの、雰囲気や香りはまったく異質です。フェリーに乗って1時間も走ってバルト海を渡ればフィンランド。町の看板などを見ると、そこに書かれている言葉はフィンランド語とごく近いことが見て取れますが、空気はビミョーに違います。エストニアはエストニア、フィンランドはフィンランドなのです。バルト3国を「北欧」に含めるのはむずかしいかもしれません。

しかも、南隣のラトヴィア、さらにその南にあるリトアニアと比べても、違いがあり、「バルト3国」とひとくくりにしていいものなのか、にわかに判断できません。ただ、この3国に共通するのは、第2次世界大戦が始まって間もなく旧ソ連の支配下におちいり、戦後もずっとそれが続いたこと。そして、民族の自立が奪われ、文化も抑圧され、言葉さえ奪われてしまったことです。そのことに対する怒りは当然、ずっと燃え続けていたにちがいありません。しかし、その表現のしかたはそれぞれで、最終的には3国すべて旧ソ連の支配からは脱することができましたが、いま歩んでいる道はそれぞれ異なります。そして、これは「3国」をいっぺんに訪れないと見えてこないように感じました。私たちは幸か不幸か、エストニア(といっても首都だけ、それもほんの一部ですが)に2回来ており、ほんの断片しか見ていませんでした。しかし今回、駆け足とはいえ「3国」をいっぺんに訪れ、そうした歴史的背景や文化的な基盤を目の当たりにすることができ、本当によかったと思います。

 

これで、この3国を語るときけっして抜きにできないポーランドを訪れてみると、また別の受け止めもできるように思えます。いつの日にか、ポーランド、さらには、リトアニアと地続きでありながら、いまなおロシアの飛び地になっているカリーニングラード(ケーニヒスベルク)にも足を運んでみたいものです。ケーニヒスベルクは北方十字軍の時代、ドイツ騎士団によって建設された町で、その後長らくプロイセン公国の首都でした。バルト海に面する不凍港として、ロシアはのどから手が出るほど欲かったところだったため、第2次世界大戦が終わるとすぐ、その一部を領有化することに成功し、いまもその状態が続いています。3国を取り囲むどの国も例外なく、ロシアに、ポーランドに、スゥエーデンに、デンマークに、またドイツに長い間影響を受けながらも、独自性を保ってきたことの意味。地続きで国境を接することの意味を改めて考えてみる必要がありそうです。

 

最後に。タリンの空港もコンパクトですが、機能性・利便性にかけてはかなりレベルが高いように感じました。ターミナルビルの真ん前までトラムが来ているのが象徴的。中も明るく広々としています。空港内では利用者ならだれでも、無料のWi-fiが提供されているといいますし、この国で開発されたスカイプ(Skype)のブースが設置されていました。

この空港はACI(国際空港協議会=国際空港の管理者の団体で、179カ国・地域にある1650の空港を運営する580団体が加盟)が毎年実施している「利用客が選ぶ優れた空港」部門で、2018年、ナンバーワンに選ばれた(年間利用客500万以下のカテゴリー)のも納得できる。当然、成田空港のように、ゲートまで行く通路が前面カーペットで覆われているようなこともありません。キャリーケースを引きながら歩く旅行者にとってあれはホント迷惑なんですね。カーペットを敷き詰めていいのは、せいぜいラウンジくらいのものでしょう。空港というのは豪華である必要はまったくありません。使い勝手がよくてナンボなのですから。これからますます発展していきそうなこの空港に、ぜひまた降り立ってみたいものです。

同じ場所も、コースが変わると初めてのよう

2019年7月8日

朝7時過ぎから、添乗員さんと一緒にホテル近くを小1時間散歩しました。「トームペア城」「キーク・イン・デ・キョク・ネイツィルトン」塔の横にある坂を上って下るだけでしたが、上り切ったところで目にした風景を見て、4年前のことを思い出しました。旧市街の中心エリアから客を乗せて30分ほど走る馬車に乗ったとき通った道を横切ったのです。国会議事堂の前を走る通りの手前のところでした。同じ場所でも、どこからどうアプローチするかでまったく印象が違うので、気がつくまで少々時間がかかった次第。日本大使館があるのも初めて知りました。

朝食後の観光も最初は早朝と同じコースをたどります。「アレクサンドル・ネフスキー聖堂」(ロシア正教の教会できらびやか)「大聖堂」(こちらはプロテスタントのため質素な造り)を見て展望台へ。その先は急な坂を下り、「聖ニコラス教会」を経て旧市庁舎のるラエコヤ広場へ。4年前のときと違い、今日は広場が小さなテントで埋め尽くされていました。衣料品や民芸品、アクセサリーや小物、お土産品など、40近くあったでしょうか。

     

  

今日のランチは事前に用意されておらず、「自由」。ただ、ヴィリニュスでもそうでしたが、参加者のほとんどは知識がないので、ほとんどが添乗員さんの教えてくれる店に行くことになり、結果としては通常と同じスタイルになります。

この日は広場近くの“中世料理”を食べさせる店とのこと。「中世」とくれば、たぶんジビエっぽい感じでしょう。こちらに来てからずーっと“肉攻め”にあっていたので、現地ガイドの女性に「どこか、近くに中華のお店はないですか?」と聞いてみました。すると。「あるにはありますけど、ちょっとお勧めできません」とのこと。しかたなく、とりあえず添乗員さんについて行ってみると、広場の裏手にある「Olde Hansa」という店でした。

店構えは、いかにも“中世”っぽい感じで、前を通れば「おやっ」となるような店ではあります。しかし、中に入るともっとリアルな“中世”で、照明はすべてロウソク。テーブルやイスも分厚い木で造られていて、ギシギシいう階段を上がり2階へ。ちょっと……という感じがしたので、席に着く前にリタイアを宣言、店を出ました。これといってアテがあるわけではなかったのですが、4年前に入ったカフェを思い出し、そちらに行きました。小さな店ですが、幸い混み合ってもおらず、オープンサンドとサラダ、カプチーノで済ませることに。肉、肉、肉でかなり疲れていたので、ライトな量がころあいでした。デザートのカプチーノ・ケーキも、ほどよい甘さ。

 

午後はバスで15分ほど走り「野外博物館」へ。海っぷちの森の中にある施設なのですが、とてもよくできており、ひと回りすると当地の人々が昔どのように暮らしていたのかがよく分かるというコンセプト。農家、漁師の家、風車、学校、教会などが点在する中を1時間ほどかけてゆっくり歩きます。どの建物も単に保存されているだけでなく、それっぽい服装をした係員が中におり、いまもそこで誰かが暮らしているかのような感じがします。木々の中を縫うようにして整備された遊歩道も広く、フィトンチッドが目に見えてるよう。日本で夏の真昼にこんなところを歩けば汗びっしょりでしょうが、最高気温が20℃にも行かない今日のタリンでは、そんな目に遭うこともありません。

 

圧巻のひと言! 「歌と踊りの祭典」

2019年7月7日

朝7時半にパルヌの町を出発、バスに2時間半ほど揺られ、3カ国目エストニアの首都タリンにやってきました。途中、小雨が降り出し霧が出てきたときはホント心配になりましたが、到着したときはすっかり雲が消え青空が。午前中は、旅行会社が用意してくれた、今回の目玉「歌と踊りの祭典」の「踊り」部門の出演者と交流するプログラム。会場は、さすが4つ星ホテル、ゴージャスなヒルトンです。

 

「歌の祭典」は1869年に始まり、そのときはオーケストラと合唱団が合わせて51、参加者は845人だったといいます。1934年から「踊りの祭典」が加わり、その後は不定期開催。それが5年に1回」となったのは1990年(第22回)から。ベルリンの壁が崩壊したその前年、エストニア、ラトヴィア、リトアニアの「バルト3国」では、「独立」の波がいやおうなしに高まります。そして、旧ソ連から「独立を回復」したのが翌1991年8月でした。

エストニアでは、「歌」は、それぞれの人生にとって、また社会全体にとって、とてつもなく重い意味があるようです。”singing revolution”=「歌う革命」によって、この国の人々はラトヴィア、リトアニアとともに、旧ソ連から自由を勝ち取りました。エストニアでは一滴の血も流されなかったといいます。

映像や写真で見るのと違い、各人が身に着けている民族衣装の素晴らしいこと。デザイン的にはごくシンプルなのですが、どの人の衣装も、それぞれの出身地域や出自が反映されているそうで、強い印象を与えます。女性のスカートのストライプ、ブラウスの形や模様、柄、またベストのデザインや色合い、スタイルによって、その人がどの地域の出身なのか、即座に分かるとのことでした。

私たちの質問にうれしそうに、また丁寧に答えてくださる様子から、5年に1回開かれるという今回の祭典に対する並々ならぬ思い入れが感じられました。現地ガイドの女性の日本語ははなはだつたないものでしたが、それでも出演者の気持ちはひしひし伝わってきました。東京オリンピックに出場する選手以上の熱さとでもいいますか。エストニアの人たちにとってこの祭典に出場するのはなんとも誇り高いことなのでしょう。

ヒルトンホテルを出て、旧市街の中心部「ラエコヤ広場」近くにある老舗レストランで昼食。大きな店とあって、私たちのテーブルに17人、すぐ隣にはおよそ40人、後ろにも40人、さらに別室にも20~30人ほどの団体が。しかも、すべて日本人です。少なく見積もっても100人近くの人が日本からやって来ているのですね。一瞬、ここは日本か? と錯覚しそうになりました。

ランチを済ませるとバスに乗り、郊外にある「歌の広場」へ。周辺は人、人、人、車、車、車、バス、バス、バスで、道路は大渋滞。会場に入っても、人であふれ返っていました。私たちの一行は1等席、しかもイスにすわって聴けるとのこと。地元の人は皆、芝生の上にそのまますわっています。家族連れ、カップル、出演者の近親者とおぼしき人たち、外国から帰国してきたエストニア人など、それこそ千差万別。その数合わせて、なんと9万人以上だそうです。そのうち出演者が3万5千人といいますから、それも当然かも。エストニアの全人口は140万足らずであることを考えると、とてつもないイベントであることがわかるでしょう。

何よりも、こういう場所があることにまず驚きました。会場に奥に設けられている野外ステージも度肝を抜く大きさ。少年少女たちによる合唱のときはなんと7000人近くの人(+オーケストラ)が上がるというのですから、想像してみてください。これだけの人数の歌声を──しかも合唱ですよ!──ひとまとめにすること自体、至難の業でしょう。ステージの橋に立つ少年少女から指揮者の動きを見るのも大変そうですし。

開会時間の午後2時ちょうどに到着したのですが、現地ガイドの不手際というか、事前のリサーチ不足というか、入り口を間違えたようです。結局、席にすわるまで30分以上も、人ごみの中を歩かされたのは残念でしたが、ステージには数百人から数千人の歌い手が入れ代わり立ち代わり上がってきます。そして、15分ほど歌い次の演目にという流れなのですが、歌によっては、聴衆のほうも一緒に歌ったり手拍子を送ったりと、言葉では表現できない一体感が伝わってきました。なかには、全員が口ずさんでいる曲もあり、ひょっとすると国歌かと思いきや、実際は違ったりします。それにしても、これだけの人数がそろってアカペラで歌える曲がいくつもあるというのも大きな驚き。日本にそういう曲があるのかなぁとふと考えたのですが、『ふるさと』くらしか思い浮かびません。それだって、1番はともかく、2番、3番となると、ソラで歌詞が出てくるかあやしいものでしょう。

 

私たちが会場にいられるのは午後5時半まで。それから夕食を済ませホテルに戻ったのは8時を回っていましたが、テレビのスイッチを入れるとまだ中継が流れていました。結局終わったのは10時を回っており、なんと8時間以上も続いていたことになります。しかも、朝からずっとCMなしで中継していたようですから、これもまたすごい! その夜遅く、EURONEWSのニュースでも報じられていましたので、ご参考までに。
https://www.euronews.com/2019/07/08/tens-of-thousands-of-estonians-perform-mass-folk-singing

日本語にチョー堪能な現地ガイドにびっくり!

2019年7月6日

リーガには1泊しかしません。旅行会社のスケジュールによると、今日の午前中は旧市街を歩いて回るだけ。1890年から1910年ごろに造られた新市街に足を踏み入れる予定はなし。それでは……と思い、朝早めに起き、新市街のユーゲントシュティール(アール・ヌーヴォー)建築が集中して建つエリアにひとりで行ってみました。ホテルからは歩いても10分足らずのアルベルタ通り、エリザベテス通り一帯には、これでもかというくらいそれ風の優雅な建物が。ミハイル・エイゼンシュタインの作品がズラリと並び、ほとんど野外美術館の様相を呈していました。

一つひとつの建物にそれぞれ趣向の異なる飾りがほどこされ、見ていても飽きません。つい数か月前に訪れたノルウェーの町オーレスンでもいくつか目にしたものの、質量とも圧倒的に凌駕しています。また、フランスのナンシーほど、道路の幅が広くないので、印象も強烈。もちろん、総本山的な存在であるブリュッセルにはかないませんが。

 

旧市街を歩いて回る観光をリードしてくれたラトヴィア人のガイド(ウギス・ナステビッチさん)は秀逸な方でした。日本語のうまさ・おもしろさもさることながら、話の内容が深いのです。聞けば、日本の神道を研究するために留学していたとのこと。大学の卒業論文も、ラトヴィア神道と日本神道との関係がテーマだったといいます。「ラトヴィア神道」とは、先にも触れましたが、この地の人々に古くから伝わる自然信仰のこと。日本と同じような“神社”の様式や“巫女【みこ】”の舞いを映像で見ると、ビックリ、日本そのものと言ってもおかしくありません。
https://ameblo.jp/toshi-atm-yamato/entry-12444314597.html
www.youtube.com/watch?v=ftzrNKJMSho

ウギスさんの本業は研究者らしく、いまでもたびたび日本を訪れ、さまざまな活動をしているようです。You Tubeにもこんな映像があがっていました。
https://www.youtube.com/watch?v=AUyw4QiJ0VQ
ネットに出ていた略歴には次のようなことが書かれています。
高校時代に独学で日本語を学び始め、日本語弁論大会で優勝。2007年の夏、さらに日本語力を磨こうと初訪日。日本では写真に打ち込み、なかでも人物写真と空撮に熱を入れる。現在はリーガに住み、写真家のかたわら、大学の日本語講師、翻訳家、通訳案内士として日本とラトヴィアの交流活動を展開中。
著書に『ラトヴィアに神道あり』など。修士論文のテーマは『日本神道とラトヴィア神道の神典における徳育体系』。映画『ルッチと宜江』(2016)『ふたりの旅路』(2017)他で通訳を担当。

どうりで日本語が上手で、話の内容も深いわけです。衣服や帽子などに見られる独特の模様も実は、古き時代のラトヴィア神道に由来するものが多いのだとか。しかも、よく見てみると、琉球(沖縄)人、さらにはアイヌ民族に伝わるそれとよく似た感じも。世界がどこでどうつながっているかわからない不思議さを学んだ気がします。

旧市街には、第2次世界大戦のさ中、空襲から逃れようとする市民たちのために急遽作られた「避難指示」標識(左向きの矢印)の跡もあれば、キリスト教が広まる前に信仰されていた神道由来の石像など、長い歴史を象徴するさまざまな事物が。旧ソ連から独立を回復するきっかけとなったバルト3国の“人間の鎖”のスタート地点を示す足跡のモニュメント、「自由記念碑」など、少し歩くだけで1000年近い歴史を体感することができ、興味は尽きません。

            

ステンドグラスが美しい「大聖堂」の中は広い回廊になっています。そこには古くから使われていた事物が展示されており、不思議なことに、日本の神社で目にする狛犬【こまいぬ】を思わせるような石像も。たまたま催されていたパイプオルガンのコンサート(30分間)も楽しむことができ、ラッキーでした。

ランチを終え、バスは一路エストニア屈指の保養地パルヌへ。港湾都市であると同時に観光都市でもあり、国内だけでなくフィンランドなどからも多くの観光客も訪れているようです。18世紀の大北方戦争(1700~21)によってロシアの統治下に入ってから、貴族たちのリゾート地としての開発が進められたとのこと。たしかに、町のそこかしこでキリル文字を目にしますし、ロシア正教の教会もありました。

ただ、リーガを出たのは今日の午後で、しかも明日も早朝出発ですから、ここでは寝るだけ。町にはさまざまな歴史もあるそうですし、家並みも面白いと聞いていたのでとてももったいない気がするのですが、このあたりがツアーの泣き所と言えるかもしれません。せめてバルト海に沈む夕日が見える、波の音が聞こえてくるとかいうのならまだ救いもありますが、それもナシ。宿泊するだけなら、もう少し気の利いたところがあるのではないかと思ったりもします。

夕食を食べに行ったのはロシア貴族のかつての別荘。いまではホテルとしても使われているようですが、広い敷地の中に建ち、素晴らしい庭園も備えた贅沢な店でした。ここまでは行かなくとも、周囲にはそのミニチュアのようなかつての別荘がいくつも立ち並んでいました。

 

 

   

ホテルに戻りテレビのスイッチを入れると、日中タリンの街中でおこなわれていた「歌と踊りの祭典」出演者(+家族・友人や関係者も?)によるパレードの模様が報じられていました。すると、日本から来ている参加者の姿が! 国内だけでなく、エストニアとつながりのある海外の国や町からも来ているようです。ネットで調べてみると、日本からやってきている一団はどうやら和歌山の児童合唱団のよう、昨年8月、エストニアラジオ放送少女合唱団が和歌山市内で開催された「国際児童合唱フェスティバル」に出演したのだとか。そうした縁があったのかもしれません。そういえば、去年の夏から秋にかけて、エストニアの合唱団が全国各地で公演していたような記憶がうっすらよみがえってきました。

カウナスで“日本のシンドラー”杉原千畝に思いを馳せる

2019年7月5日

朝食を済ませると、私たちを乗せたバスはヴィリニュスをあとにし、一路北に向けて走ります。まず立ち寄ったのが「聖ペテロ&パウロ教会」。雨が降り始めましたが、バスが駐車した場所からすぐ近いので、ほとんど濡れずに済みました。内部は、白漆喰【しっくい】の彫刻が壁から天井からびっしり覆い尽くしています。教会というと薄暗く、金や銀をふんだんに凝らした内装、天井画、ほこりっぽい感じの旗やカーテンが目につくところが多い中、内部がとても明るいこの教会は印象的です。この地域の人たちに共通する清楚さを象徴しているかのようです。

 

次の訪問地はカウナス。“日本のシンドラー”とも呼ばれる、かの杉原千畝【ちうね】で有名な町です。ヴィリニュスに次いで人口の多いカウナスですが、1920年ヴィリニュスがポーランドに占領(のちに併合)されてしまったため、臨時の首都になり、領事館が置かれたとのこと。そこへ杉原が領事代理として赴任したのは1939年8月28日。ドイツのポーランド侵攻により第2次世界大戦が始まるわずか3日前のことです。

日本の大使館は当時、憲法上の首都ヴィリニュスに置かれていました。ただ、実質的にはカウナスの領事館がその役割を果たしていたようです。ドイツの占領下にあったポーランドからリトアニアに逃げてきた多くのユダヤ系難民に、日本(この時代は大日本帝国)がビザを発給するようになったのもそのためです。

 

 

当時リトアニアを占領していたソ連は、同国に大使館・公使館・領事館の閉鎖を各国に求めていました。そうした中、まだ業務を続けていた日本領事館にユダヤ人難民たちがビザの発給を求めて殺到する事態になったのです。日本の発給したビザがあれば、シベリア鉄道でソ連を横断しハバロフスクまで行き、そこから日本海を船で渡り横浜、神戸、敦賀など日本まで行けます。その先は、希望する国に移動することができたからです。ユダヤ人難民の多くは、カリブ海にあるオランダ領キュラソー、スリナム、アンティルなどを名目上の行き先にし、日本の通過ビザを発給するよう求めたのです。

それは1940年7月18日から、杉原がカウナスを去る8月31日まで続いたそうです。その間、杉原がサインしたビザの発行枚数は2000を越え、それによって国外に出て難を逃れたユダヤ人の数は6000とも8000とも言われています。のちに“命のビザ”として称賛されたのも当然のことで、杉原は「諸国民の中の正義の人(正義の異邦人)」(=ナチス・ドイツによるホロコーストからみずからの生命の危険を冒してまでユダヤ人を守った非ユダヤ人であることを示す称号)を授与されています。全世界で2万6千人余いる中で、杉原はただ一人の日本人です。

そうした歴史的事実にちなみ、2000年に作られた「杉原記念館」を訪れました。閑静な住宅街の一角に建つかつての領事館兼住居をそのまま記念館にしたものです。当時、杉原よりひと足早く同じことをしていたオランダ領事ヤン・ズヴァルテンディクがそれ以前勤務していたフィリップス社の財政的なバックアップもあり、この記念館は維持されているようです。

中に入ると、最初ビデオを見ることになっており、それで事の次第がはっきり見えます。1階に当時の執務室がそのままの状態で保存され、2階はさまざまな展示が。執務机に向かって座り写真など撮ってもらいましたが、とてもにこにこ笑ってなどいられません。

 

杉原は岐阜県の八百津(やおつ)町の出身だそうですが、カウナスと姉妹提携を結んでいる都市が世界に15ある中には含まれていません。地元には杉原を顕彰する「杉原千畝記念館」「人道の丘公園」という施設があるのに、なんとも不思議ではあります。

記念館が建つ周辺は当時そのままとおぼしき建物がいくつか残っており、その姿を見ていると、杉原やその妻子も80年前、このあたりをきっと歩いたこともあるのだろうなぁと、感慨にとらわれました。

杉原記念館の見学を終え、カウナス市内で昼食。落ち着いた中に、長い歴史と現代感覚が感じられる町で、強い印象を受けました。食事をいただいた店は昔そのままといった雰囲気。

カウナスを発ち、バスは隣国ラトヴィアの首都リーガをめざします。途中「十字架の丘」という観光名所を訪れました。リーガまでの間、立ち寄るに値するスポットはここくらいしかないようです。この間の道のりはほとんど北海道! 右を見ても左を見ても、山がないせいかずーっと畑が続いています。ときおり森や林があるにはありますが、キホン真っ平ですから、心地よく走るバスの座席でうとうとしていてハッと目が覚めたとき外を見ると、一瞬錯覚してしまうほど、北海道の風景によく似ています。

 

 

それにしても、雨が降らずに何よりでした。「十字架の丘」までは駐車場から15分ほど歩いていくのですが、まわりは何も立っていない原っぱのような場所です。この日は風もかなり強く、そこに雨でも降られたら、大変なことになっていたでしょう。十字架の丘を出てしばらく走るとラトヴィアとの国境です。かつては厳しい出入国チェックがおこなわれていたであろう検問所も、いまではカフェやガソリンスタンドがあるのどかな雰囲気。こういう場を実際に通ると、検問が厳しかった時代はさぞかし重苦しい雰囲気がただよっていたのでしょう。それに比べるといまのこの明るさは……といった感じです。しばらく走ると、空に大きな虹が! リーガの町が近づいてくると、この町でいちばん高い建造物=テレビ塔が見えてきました。

 

 

町に入ると、リトアニアの隣国であるにもかかわらず、町の雰囲気が一変した印象を受けます。同じく「旧市街」と呼ばれるエリアがあるのですが、とても洗練されているのです。リトアニアのヴィリニュスが内陸の町であるのに対し、こちらは港町なので開放的というか、商業・ビジネスと縁が深かったのでしょう。

バルト3国はもともと“異教の地”で、なかでもラトヴィアは自然信仰が強い地域だったようです。12世紀に入ると、その一帯にもキリスト教を広めようと、デンマーク、スウェーデン、ポーランド、ドイツ騎士団などによって作られた北方十字軍は先住民に対し情け容赦なく振る舞ったといいます。そのためキリスト教徒は最初のうち、悪者としか思われていなかったとのこと。しかし、信仰心そのものは篤かったのでしょう、ひとたび帰依するとその信仰は深く、そこいらじゅうに教会を建てたようです。

 

その教会の合い間合い間に洒落た建物が立ち並び、行き交う人々やカフェで談笑している人たちの顔を見ても、いきいきとした表情。そんな旧市街を出てすぐ、新市街とのほぼ境界あたりに、今日泊まるホテルがありました。その名も「Grand “Poet” Hotel by Semarah」というところを見ると、その昔、著名な詩人が泊まったりしたのでしょうか。と思って調べてみたのですが、要は建物だけが古く、その内部をリノベーションして Semarah という会社が昨年オープンさせたばかりのデザインホテルのようです。

まあ、それはそれとして、ロケーションは最高。前と後ろがともに大きな公園で、「国立劇場」や「博物館」「自由記念碑」といったスポットのすぐ近く。町の中心部から歩いても30分はかからないくらいなのに、空気も澄み切っていて、都会の喧騒とはほとんど無縁といった感じがします。ただ、団体で泊まるツアーの客にさほどよい部屋が供されるはずもないわけで、私たちの部屋も外側の景色は一切見られませんでした。

 

そこかしこに教会が建つ世界遺産の街・ヴィリニュス

 

2019年7月4日

朝、正規の街歩き観光の前、添乗員さんが「よかったらご一緒に少し散歩しませんか」という声をかけてくださり、一も二もなく参加。ホテルから歩いて15分ほどのところにあるマーケットまで行きます。夏とはいえ、朝7時を過ぎたばかりですから、少し肌寒い感じも。マーケットの中はまだそれほど人が来ておらず、ゆっくり見て回ることができました。新聞・雑誌を売っているコーナーをのぞくと、リトアニア語のものに混じってロシア語版もけっこうあることに気づき、驚きます。独立を回復してから30年近くたっているのに、ですね。

そこから、昼間は観光客で混雑するという「夜明けの門」に。祈りをささげる人が朝早くから訪れています。すぐ近くには「聖テレサ教会」「精霊教会」「聖三位【さんみ】一体教会」「聖カジミエル教会」など、名だたる教会がいくつも立ち並んでいました。私たちのホテルの真ん前には「ロシア正教教会」、裏手には「聖ヨハネ教会」……と、右を見ても左を見てもとにかく教会だらけ。尖【とが】ったアーチが特徴のゴシック様式ではないので、どれも皆まろやかな印象を与えます。

 

午前中は旧市街を本格的に歩きます。「旧市庁舎」を手始めに、再び「夜明けの門」、「ヴィリニュス大学」「ゲディミナス城」「王宮」「大聖堂」「大統領官邸」など、さほど広くもないエリアでしたが、見どころは多々あります。それにしても、教会の多さには驚くばかり。なにせ、大学の中にも教会があるのですから。

  

街歩きはさらに続きます。ヴィリニュスではごく珍しいゴシック様式で建てられている「聖アンナ教会」は息を呑むほど新鮮。その隣に建つ「ベルナルディン教会」のファサードがのっぺりしているので、その鋭角的なたたずまいがよけい強調されて見えます。

 

2つの教会の先に、都心とは思えない渓流が。そこに架かる橋を渡ると、なんとも不思議な空間がありました。その名も「ウジュピス共和国」。長らく橋が架けられていなかったため、古い時代の雰囲気がそのまま残っています。ジョークで「独立共和国」を名乗っているのが面白いですね。

食食後、旧市街からバスで40分ほど走ったところにある古都トゥラカイへ。長らく放置され荒廃していたのが整備された古城が湖に映える美しいところです。城があるのは湖に浮かぶ小島。そこに渡る木製の橋が情緒たっぷり。湖水もほとんど透明で、水鳥がのんびりと泳いでいました。

 

 

 

 

 

トゥラカイから戻ると夕食まで休憩。それでも休憩できないのが私。旅先でボーッとしていることなど、できないのです。そこで、夕方から私ひとりで、旧市街でも別のエリアを探検してみることに。ステポノ通りといういちばんにぎやかな通りを歩きました。アール・ヌーヴォーの建物がけっこう目につくのが印象的でした。これも、旧市街が世界遺産に指定されている所以でしょう。

ただ、どの都市もそうですが、石畳の道なので、長く歩くと疲れてきます。それを忘れさせてくれるのが、町を行き交う人たちの生き生きとした笑顔。さすが首都の目抜き通りといった感じがします。若い人たちは夢と希望にあふれているせいか、だれもがいい笑顔を見せていました。

 

鉄道駅のようなヴィリニュスの空港

2019年7月3日

成田を11時過ぎに出発、途中フィンランドのヘルシンキで乗り継ぎ、リトアニアの首都ヴィリニュスの空港に降り立ったのは午後6時過ぎでした。さすがここまで来るとやはり北国、気温も、16℃という機長のアナウンスにもあったように、日本に比べるとかなり低め。半袖シャツ1枚では少し寒いくらいです。といっても夏ですから、それほどこたえはしませんが。

空港の規模は、日本の地方空港、そう、最近利用したところでいうと鳥取とか秋田あたりの感じでしょうか。内部も、空港とは思えないようなゆるりとしたしつらえが見られます。それでも、一国の首都ですから、出発・到着を示す案内ボードを見ても、イスタンブール、アムステルダム、ロンドン、パリ、ウィーン、バルセロナなど、国際線もかなり行き来しているようです。全体としてこじんまりした感じ、それ故タイト。外に出て空港ビルを見ると、ほとんど鉄道の駅のような印象を受けます。屋根の上から、四方がガラス張りの塔めいた部分がちょこんと飛び出ているのですが、これがひょっとして管制塔なのかもしれません。

ホテルまではバスで10分少々。最初は畑と森でしたが、途中からだんだん都会らしい雰囲気に。といっても、ビルはあまり見かけません。高い建物といえば教会くらいでしょうか、その数の多さには驚きます。同じバルト海に面しているスカンジナヴィア諸国やドイツと比べても、かなり多いのではないかという気がします。ホテル到着は夜の8時前。この時期のヨーロッパはどこでもそうですが、時刻のわりに太陽の位置がまだ高いので、時計を見ると驚きます。今日の日の入りは夜10時少々前だそうです。

インド大使館でおこなわれた「インド舞踊の会」

2019年4月29日
とりたててガンディーを尊敬しているわけではないのですが、今年は「生誕150年」ということもあって、インド関連のイベントには皆それが謳われているようです。今日は家人の友だちが主宰しているインド舞踊教室が大使館で発表会をするというのでお供してきたのですが、そこでも入口にはガンディーの有名な写真がパネルにして飾られていました。

その昔インド大使館は高田馬場にあったように記憶しているのですが、いつの間にか、皇居にも近い九段下に移転してきたようです。それも立派なビルになっていて驚きました。正確に言うと、大使館は昔からいまの場所にあったようで、高田馬場に合ったのは大使公邸だったみたいです。

さて、その中にある小さなホールが今日の会場。インド舞踊というと、映画でよく見る集団踊りのようなものをイメージしてしまうのですが、今日は違います。2~5、6人くらいの、比較的スローテンポの踊り。独特のメイクと衣装が印象的です。楽器も、あまり見たことのないものばかりで、独特のメロディーに合わせ、優雅な踊りが次々と披露されていました。

昨年から今年にかけて、ヨーロッパのメジャーなテレビ局では「Incredible India」というキャッチコピーのCMを盛んに流していましたが、大使館の建物にも、同じ文字を刷り込んだ大きなポスターが。インドはやはり“信じられない(ほどの不思議さを秘めた)”国なのでしょう。

カレーライスも“インドの叡智”

2019年4月20日
私も含め日本人が大好きなカレーライス。そのルーツがインドというのは、どなたもご存じのことでしょう。東京都心の神田神保町を中心としたエリアには、いまや500軒を越えるカレーライスの店があるのだとか。毎年11月に開催される「神田カレーグランプリ」も年を追うごとに参加者が増えているといいます。

といって、神田神保町とインドとの間に深いつながりがあるわけではありません。この一帯が昔から学生街だったことでカレーの店が増えたと言われています。手軽で安く食べられるのは、ふところのさびしい学生にとって最大の魅力だからです。

その日本で初めて本場インド流のカレーを提供したのは新宿中村屋だそうです。そう、寺山修司がその昔、「週刊プレイボーイ」の人生相談を担当していたとき、自殺したいという男性に、「君は新宿中村屋のカリーを食べたことがあるか? なければ食べてからもう一度相談しなさい」と答えたという、中村屋のカリーです。

中村屋が新宿にレストランをオープンしたのは1927年。そのときのメニューに登場したのが「純印度式カリー」でした。その当時、カレーはすでに広く食べられていましたが、それはあくまで欧州式、正確には英国式のもの。インドの宗主国だったイギリスが、現地のスパイスを小麦粉と一緒に使いシチュー風のカレーを国内に広めたのですが、そのレシピを日本人が持ち帰り、日本人好みのアレンジをほどこしたものです。

しかし、インド人からしてみると、それは本来のカレーとはほど遠いものでした。「東京のカレー・ライス、うまいのないナ。油が悪くてウドン粉ばかりで、胸ムカムカする。~略~カラければカレーと思つてゐるらしいの大變間違ひ。~略~安いカレー・ライスはバタアを使はないでしョ、だからマヅくて食へない」(中村屋ウェブサイト)と嘆いたのが、インド独立運動の志士ラース・ビハーリー・ボース(1886~1945)。 ボースは1912年、独立運動の中でイギリスのハーディング総督に爆弾を投げつけたカドでイギリス政府に追われ、15年に日本に亡命します。日英同盟を結んでいた日本政府はボースに国外退去命令を出しましたが、そのときボースをかくまったのが中村屋の創始者・相馬愛蔵。逃避行を続けるボースを支えたのが相馬の娘で、二人はやがて結婚しました。

その後、“無罪放免”となったボースは日本に帰化、中村屋の役員に。そして、相馬が新宿にレストランを開くとき、メニューに「純印度式カリー」を取り入れたのです。最初はその味を敬遠する日本人も多かったようですが、ひとたび慣れ始めると大好評を博するように。このころ町の洋食屋のカレーが10~12銭だったのに対し、中村屋のカリーは80銭しましたが、飛ぶように売れたそうです。

ボースは同じくインドの独立をめざして活動していたマハトマ・ガンディーとは考え方を異にしていたため別々の道を歩み、1945年、独立を見届けることなくこの世を去りますが、その伝記『アジアのめざめ─印度志士ビハリ・ボースと日本─』(相馬黒光【こっこう】・相馬安雄共著 1953)に今日出会いました。場所は文京区・本駒込の東洋文庫。たまたま見に行った「マハトマ・ガンディー生誕150周年記念 インドの叡智展」に展示されていたのです。

  

ひょんなことでひょんな知識が得られるのは大きな喜びですが、これもその一例。まして好きなカレーにまつわる話ですから、テンションは大いに上がりました。ちなみに、ボースの腹心として活動していたのが、同じ時期に京都大学に留学中のA・M・ナイル(1905~1990)で、ナイルは1949年、東京・銀座に日本初のインド料理店「ナイルレストラン」を開業しています。

帰り道、家人の案内で、“日本一ショートケーキがおいしい”という「フレンチパウンドハウス 大和郷店」に立ち寄ったのも利いたかもしれません。店名に見える「大和郷(やまとむら)」という言葉のいわれも深いものがあるようです。大和郷はいまは文京区本駒込六丁目になっていますが、都内でも屈指の高級住宅街のこと。場所は六義園【りくぎえん】のすぐ近く。六義園は、もともと加賀藩の下屋敷を幕府側用人【そばようにん】の柳澤吉保が拝領したあとに造らせた庭園です。吉保は隠居後もそのまま住み続ける一方、柳澤家が大和郡山へ転封となったため「大和」の名が残ったといいます。

明治に入り六義園も新政府に返上されましたが、それを購入したのが旧三菱財閥の祖・岩崎彌太郎。彌太郎は六義園の修築に力を入れるとともに、周辺の土地も購入し、その一角に別宅も構えたそうです。 その後、三菱の3代目・岩崎久彌が1922年、それらの土地を「大和郷」として分譲し、近代的住宅地として造成したといいます。三菱の関係者はもちろん、第24代首相・加藤孝明、第25・28代首相・若槻礼次郎、第44代首相・幣原喜重郎【しではらきじゅうろう】と、歴代首相が3人も住んでいたことでも知られています。

 

 

 

外はチョー寒くても、人々の心は温かい

2019年3月29日
最後の寄港地キルケネスに到着したのは朝9時。ここまで走った距離は2465km。青森から石垣島までの距離とほぼ同じです。今日は昨日以上の天気で、空は真っ青、雲ひとつない快晴です。ロシアと国境を接するこの町は、一定の範囲内なら両国民がビザなしで行き来できるそうで、お互い、安いものを求めてキルケネスに行ったり、隣のムルマンスクからロシア人がやってきたりするとのこと。シンガポールとマレーシアの国民が行き来するジョホールバルのような感じでしょうか。

空港から国内線で首都オスロまでは1時間30分。最初は真っ白だった地上の景色が、南へ降りるにつれどんどん緑色と茶色とグレーのまだらに変わっていきます。オスロの空港からは途中、車窓観光をしながらホテルまで。最初は「おやっ」と思った程度でしたが、部屋に入り、窓から町を見下ろすと、5年間に来たときに泊まったホテルかも……と。

荷ほどきを済ませホテルの近くを歩くと、家人は記憶がどんどん蘇ってきたようで、「あのATMでお金を引き出そうとしたらできなかったのよ」とか「その店で買ったミネラルウォーターが1本500円もしてびっくりしたでしょ」などと言います。それでようやく、私も思い出すという始末で、記憶力が落っこちているのにガックリしました。

夕食は素晴らしい店でいただきました。最後なので旅行会社もいいところを用意したくれたようです。市庁舎前広場の最南部、湾に面したエリアに、小さな船が行き来する桟橋が。「Aker Brygge」という、えらくおしゃれなショッピングモールの周りに、ガラスをいっぱいに使った建物がいくつも並んでいます。その一角にある「Lofoten」というレストランでしたが、シーフードもおいしく、ワインもGOOD! 全員お腹いっぱい大満足で食べ終えました。

店の名前にもなっているロフォーテン(諸島)は、明るい時間帯に航行しなかったので、いちばん美しい景色は見れずじまいでしたが、ツアーに参加していた方で、それをとても悔しがっている方もいたほどですから、よほどのものなのでしょう。しかし、それを差し引いたとしても、今回経験した6泊7日のクルーズは、私自身のクルーズに対するイメージを大きく変えたと言えます。

それは、大きな海を走っていても、船の左右どちらか一方にでも陸地が見えると、私たちを飽きさせないということです。当たり前といえば当たり前ですが、フィヨルドの場合はその変化が大きく、少しも油断できないところがあります。ボーッとしているとまったく景色が変わっており、新しい楽しみを発見できるのです。夏も冬も、これほど変化に富んだフィヨルドという大自然を満喫できるノルウェーをうらやましく思いました。外はチョー寒いですが、温厚な笑顔を見せてくれるかの国の人たちの心根には、そうしたことに由来するやさしさが強く息づいているような気がします。

大迫力のオーロラに大感動・大満足!

2019年3月28日

船に夜を過ごすのもいよいよ今日がラスト。朝から素晴らしい好天に恵まれました。今回のツアーの一つというか売りである、ヨーロッパ最北端(北緯71度10分21秒)の岬「ノールカップ」訪問にはもってこいの空模様です。ところが、なんとなんと、「ノールカップ」への入口であるマーゲロイ島の港ホニングスヴォーグに降り、バスに乗ろうかというまさにその瞬間、添乗員さんの声が。「今日は残念ながら、ノールカップに行く道が通行止めになってしまいました」ですと。前日まで続いた悪天候が災いしたようです。全員アチャーッ! という感じで、「ではどうするの?」。代替観光というにはあまりに方向性が違う、漁村訪問と町の見学ということにあいなりました。

途中、「ノールカップ」に向かう道路(30kmほど)との分岐点を、うらめしい気持ちで通り過ぎ、ひなびた漁村まではゆっくり走ります。こんな田舎でも、家々はかわいらしいという言葉がぴったりのカラーで塗装されており、日本の漁村とはまったく違う印象が。空はますます晴れ渡り、風もなく、気温もそれほど低くないというのに、いまさらながら「なんで?」という質問が同行のツアーメンバーから発せられます。要するに、「ノールカップホール」という施設そのものが閉鎖されてしまったのですね。というわけで、楽しみにしていた、地球の形がユニークなモニュメントの前で記念撮影という夢もついえてしまいました。

漁村に到着し、私たちが訪れたのは小さな入江の一角にある加工場。そこいら中にタラが干してあります。1、2日前に獲れたとおぼしきもの、1週間から10日ほどたったように見えるもの、頭の部分だけなど、その姿はさまざま。このエリアでいかに多くタラが獲れるかがひと目でわかります。

 

 

その一角に、こんなところになぜ? と言いたくなるようなギャラリーがありました。中に入ると、切り絵でアートを作っている女性作家がひとり、私たちを歓迎してくれます。温かみのあるユニークな風合いの作品がいくつも並べられ、家人も一つ購入。

ホニングスヴォークは人口3千ほどの小さくて地味な町ですが、北部ノルウェーの重要な漁港だそうです。1944年、それまでこの町を占領していたドイツ軍が撤退するにあたり、町を徹底的に破壊していったため、教会だけが唯一残ったといいます。

バスの窓からその教会を見たりしながら、桟橋まで戻りました。少し時間に余裕があったので、近くを回ってみました。雪が解けてグチャグチャにぬかるんでいる道路の歩きにくいこと。途中、「ノールカップ」をあきらめさせられたクルーズの客と何人もすれ違いました。

シーフードビュッフェの夕食が済み、部屋でひと休みしていると、添乗員さんの興奮した声が客室の中まで聞こえてきました。「オーロラ、出ましたーっ! 出ましたよーっ!!」 ほとんど着の身着のまま状態で上の甲板に行くと、たしかに、いますぐにでも出そうな空です。星がいっぱいで、雲がほとんどありません。風もおだやかで、気温はおそらく0℃くらい。

3、4分たつと、まず小さなオーロラが。緑色のぼやーっとした巨大な雲のような感じです。それが自由自在に動き、大きくなったり小さくなったり。いったんは消えましたが、今度は逆の方向にそれより大きなオーロラが。風になびくカーテンのように形をしています。それが左から右へ、上から下へと変幻自在に動き、形を変えていきます。さらに、もっと大きなオーロラが、それこそ空の半分近くを覆うように姿をあらわしました。それがなんと3分近く続き、私たちはもう極度の興奮状態に。

昨夜までは、三脚をセット、オーロラ出現に備えていたのですが、この夜は荷造りもしなくてはならなかったので、写真を撮るのは早々にあきらめ、「スマホでいいや」と思っていた私。しかし、スマホででも十分に撮れるくらいの巨大でドラマチックなオーロラですから、きちんと準備をして甲板に上がってきた人は、それぞれ素晴らしい写真が撮れたようです。

 

7年前、カナダのイエローナイフというところで、マイナス20数度の極寒の夜、オーロラを見ましたが、それに比べると今夜のそれはスケールが違いすぎ、大パノラマといった感じ。イエローナイフがシャボン玉の泡だとすれば、このとき観たオーロラは固いラグビーボールのようなものです。最後の夜に観ることができ、ホント幸せでした!!! 「ノールカップ」に行けなかった落ち込みから、天まで一気に昇りつめたような感じでしょうか。

ずーっと見ていても飽きることのないフィヨルド

()2019年3月27日
なんだかあっという間に時間が過ぎていく感じで、まったく退屈しません。乗る前は、フィヨルドを縫うようにしてただ航行していくだけだから、途中で飽きてしまうのではないかとも正直、思っていました。でも、実際に乗ってみると、海岸の景色は千変万化、どんどん変わっていくのです。

北極圏に入るまでは積雪量もそれほどではないせいか、山肌にも木や草、また岩の姿が見えました。というか、表面はあまり白くないのです。しかし、緯度が高くなるにつれ、それが徐々に逆転、ストークマルクネス、ソルトラン、リソイハムンを経て、今朝到着したハシュタ近辺は9割方、雪と氷に覆われています。もう見るからに「北極圏!」といった印象ですから、気持ち的にも「寒い~!」となり、体が縮こまりそうです。

今朝6時45分に着いたハシュタ(Harstad)の町は、停船時間が1時間ということもあって、ツアー一行で上陸。船の近くを40分ほどかけて歩きました。とりたてて特徴があるわけではありませんが、それでも寒さを実感する──とくに足もとから──にはいい経験でした。

午前中は船内のサロンのようなところで、「北欧クイズ&講座」の時間がもたれ、ここまで数日の間、添乗員さんと現地ガイドの方が伝えてくれた話の復習作業のようなことをしながら楽しみました。聞いているようで頭に入っていないことも少なからずあり、旅で得られる情報は、幅も広く量も多いことに気づかされます。

14時15分、トロムソに到着。ここは北極圏では最大の町ですから、当然下船観光となりました。船を降りるとバスでまず「ポーラリア」という水族館に行き、アザラシへの餌やりを見学。私は早々に外に出てタバコなど吸っていましたが、水族館の周囲には、アザラシ狩猟船が保存展示されたガラス張りに建物がありました(冬場はクローズ)。その建物は、すぐ前にノルウェーの探検家ナンセンの小さな彫像があったので、てっきりナンセンが北極点をめざして探検したときに乗っていったフラム号かと思っていたのですが……。

  

ここから橋を渡りメインランド側にある「北極教会」に。1965年に完成したという教会ですが、ガラスとコンクリートをふんだんに用いて作られている岩の教会もそうでしたが、北欧というところは、伝統的な建築様式の教会もある一方で、こうしたシンプルなデザインのものもときおりあるようです。MARIMEKKOやIKEA、INOVATOR、KLIPPAN、IITTALA、ARABIA、ロイヤルコペンハーゲン、ヤコブ・イェンセン、BANG&OLUFSENなど、フィンランド、スウェーデン、デンマークのブランドはその名が広く知られていますが、なぜかノルウェーのブランドは日本ではほとんど無名。ただ、そのコンセプトにはどこか共通したものがあるのでしょう。

   

教会内部もシンプルそのもの。木をふんだんに用いてあるので、ぬくもりがよく伝わってきますし、三角形のステンドグラスも斬新な印象を受けました。バスでターミナルまで戻ると、乗船時刻まで1時間ほどあったので、近くをひと回り。公園にアムンゼンの銅像が立っています。そこから少し街中に入ると、世界最北端(?)の地にあるセブンイレブン、こぎれいでシンプルな教会、かわいらしい店が並ぶ商店街がありました。いかにも北欧、ノルウェーのイメージで、ぬかるんだ道も気にならず、ゆっくり見て回ったあと乗船。

 

 

 

夜11時頃、「オーロラが見えそうですよ!」という添乗員さんの声が聞こえました。あわてて7階のデッキまで上がっていったのですが、残念ながら不発。たしかに、空は晴れていて星もそこそこ見えはしましたが、オーロラ出現までには至らず、部屋に戻りました。

クルーズ4日目で初めて見た太陽

2018年3月26日
ここのところ朝4時過ぎには目を覚ましてしまうのですが、キャビンの窓から外を見ると、雨も降っておらず、すっきりした朝が来そうな感じです。予想どおり、6時には空がうっすら赤くなり、太陽が見え始めます。船に乗って4日目、初めて見る太陽! これは素晴らしい1日になりそうです。

 

今日は午前0時45分にブリュニィスン、3時45分にサンネスショーエン、5時25分にネスフに停船し、朝食を終えた頃にオルネスに到着。じつはこの間に北極圏に突入していたのです。朝食のあと、8階の屋外デッキで「北極圏突入洗礼式」なるイベントがおこなわれ、今朝7時6分42秒に突入したことを知りました。突入時刻を当てるクイズがあったのですが、それにいちばん近かったのがインド人のカップル。船長からお祝いとして、背中に氷水を注ぎ込まれ皆大笑い。しかし、やはり北極圏突入となると、天候や風の具合にもよりますが、肌がチクチクします。

 

 

 

お昼前にボードーという町に到着。昼食後のひとときを利用して町に出ました。昨日はタクシーでトロンハイムの町中まで行ったのですが、今日はツアー一行で徒歩。人口4万数千の小さな町ですが、上陸前に飛行場があるのも見えましたし、サッカースタジアムも。小さいながらも工場群もあったようなので、ノルウェー国内でもそれなりに重要な位置を占めているのでしょう。

訪れたのは「大聖堂(ルーテル教会)」と図書館、「サーモンセンター」の3カ所。この町も第2次世界大戦でナチスドイツにこっぴどくやられたようで、「大聖堂」も破壊されてしまったといいます。戦後、1956年に再建されたそうですが、「ルーテル」という名のとおり、質素な造りの教会です。中のモザイク画は簡素ながらも色彩が素晴らしく、印象に残ります。すぐ近くには、こちらも外壁の黄色がなんとも美しい「ノールランド博物館」がありました。

そこから坂を下りたところがこの町のメインストリート。といっても100mほどの長さしかありません。港にいちばん近いところにあるコンサートホールと図書館は、完成して間もないとのことで、シンプルであか抜けしたデザイン。港に停泊していた小舟にはタラが干してありました。最後に訪れたサーモンセンターは、ユニークなサーモンのイラストをふんだんにほどこした建物で、ノルウェー水産業の主要品目であるサーモンの養殖をわかりやすく紹介しています。雪はあまり降らない代わりに風が強く、船までの帰り道、冷たい風に吹かれながら歩きました。

ここらあたりから船は、ロフォーテン諸島がある海域に入っていきます。クルーズが始まる前、添乗員さんは「世界でもっとも美しい場所の一つ」「アルプスの頂を海に浮かべたよう」などと話していたのですが、通過するのがちょうど夜の時間帯で暗いため、残念ながら、景色を楽しむことはできません。19時にその島の一つにあるスタムスン、さらに21時にはスヴォルヴァーという町に停船はしたものの、海岸の美しさを楽しむことはかないませんでした。とくに、ロフォーテン諸島の中でいちばん大きな町スヴォルヴァーには1時間停泊するので、100人ほどの乗客が下船し、おそらくは氷点下の気温の中、雪で凍りついた道を歩き、船から数分のところにあるお土産物屋というかコンビニというか、正体のよくわからない店に向かいます。入りきれずに外まで行列ができていたので、私はパス。船に戻ったときの温かさがひときわ身に沁みました。

本当なら、ここには昼間の明るい時間帯に寄港し、島内をバスで回ったりしてみたいところ(どこを走ってもその景色は息を呑むほど美しいそうです)。皆さん、そうした残念な気持ちでいたのかもしれません。

クルーズ3日目で初めて見た月

2019年3月25日
モルデを前夜18時30分に出航、途中クリスティアンスンに停船し、2つ目の停船観光地トロンハイムに到着したのは今朝6時。北緯63度25分ですから、気温は当然低いです。それでも、メキシコ湾流の影響で、予想していたほどではありません。オーレスンと違い、こちらは道路のかなりの部分が凍っていて、雪も舞っていました

朝食をさっさと済ませ、8時には船を降り、タクシーで中心部に向かいます。駅の近くで下車し、そこからは徒歩。かつて首都が置かれていたことを示す王宮は木造で質素な印象です。それを見ながら南に下っていくと、ニーダロス大聖堂が見えてきました。そちらを訪れる前、東に折れたところに架かる「はね橋」に立ち寄りました。川の両岸には新旧の倉庫がびっしりと並び、美しい光景を見せてくれます。冬のにぶい太陽光のもとでもこれほどの美しさですから、春から夏にかけての時期、燦燦と照らされた明るい空の下であればさぞかし映えるでしょう。町には大きな大学があるらしく、歩いている人の多くが学生です。

     

はね橋から戻ったところにあるのが「ニーダロス大聖堂」。中世に建てられた建物ではノルウェー最大なのだとか。1070年に建造が始まり完成したのは1300年ごろといいます。かつてのノルウェー国王で聖人にも叙されたオラーフ・ハーラルソンスが祀られていることからもわかるように、長らく国王の戴冠式はここでおこなわれていたそうです。大聖堂の正面ファサードには、聖者54人(そのうち1体がオラーフ)の彫像が並んでおり、おごそかな雰囲気を出しています。大きなわりには内部も簡素な造り。これはやはりプロテスタントの教会だからでしょう。

 

 

     

かつて、現在の首都オスロからこの「ニーダロス大聖堂」まで(全長約640km)の道のりは巡礼路として親しまれてきたといいます。それが近年復活し、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路と同じように、歩いて訪れる人の姿も見受けられるのだとか。日本の八十八カ所参りも全国各地に同じようなコースがあるのと同様、ここニーダロス大聖堂への巡礼路も、そうした位置付けなのかもしれません。

大聖堂から駅近くのショッピングモールまでは雪道を歩いて到着。町の中心であるこのあたり一帯はどこもかしこも工事中で、かつて首都が置かれていたこの町を作ったオラーフ1世の銅像が立つ広場もあちこち掘り返されており、どう撮っても美しくはありません。ショッピングモールはそれほど大きくはありませんでしたが、ノルウェーのどこにでもあるスーパーを中心に数十点の店が入っていました。バナナ3本と500mlの水(ペットボトル)をスーパーで買いましたが、これで54ノルウェークローネ(日本円で800円強)ですから、やはり物価は高いです。

タクシーで中心部から船まで戻り、次の停船地ロルヴィクまでは232kmと、もっとも長いノンストップ区間です。12時に出発し、到着予定は20時45分、8時間余ぶっ通しで走ることからもそれがよくわかります。

この夜、今回のクルーズ旅行で初めて月を見ることができました。といっても、厚い雲のほうが圧倒的に多い空でしたので、かろうじてといった感じです。

すぐ近くの海で大きな事故があったのにビックリ

2019年3月24日
昨夜10時30分、眠っているうちにベルゲンを出航したフィンマルケン号。最初の行程はかなり長く、今朝4時30分、フローロに寄港するまでノンストップ、163kmを一気に走り抜けます。この夜はほとんど雨で、明け方近くには雪に変わっていました。

たまに雨・雪がやんでも空はどんより鉛色。すぐまたぶり返してもおかしくない雲行きです。朝食は例によってバフェットスタイルですが、ノルウェー航路だけあって、シーフードのオンパレード。タラ、ニシン、サーモンの3種がさまざま料理されていて、ぱっと見は10種類以上(といっても、うち半分は漬けたもの)。それにチーズやらハムやら各種野菜が加わるので、1周20メートルはある陳列台を回っていると、目移りします。まあ、1週間あるのだからとは思いつつも、ついつい手が出てしまい、気がつけば取り皿には料理が山盛り状態に。

朝食を済ませ部屋に戻ってしばらくすると、船が大きく揺れ始めました。2つ目の寄港地モーロイ(ここまでが52km)から外洋に出ると、天気はかなり荒れていて、海もうねっている状態。その波を蹴立てながらの航海ですから、揺れるのは致し方ありません。すぐに船酔い用の薬を飲み、私のほうは事なきを得ました。その代わり、デッキに出て極寒の中、半分雨に当たりながら遠く離れていく陸地を見続けたりなど、酔わないように必死。でも、72km走って3つ目の寄港地トルヴィクに近づいた頃にはうねりもかなり和らいでいました。

トルヴィクからオーレスン(Alesund)は28km。この間は内海というかフィヨルドなのでゆっくり航行しますし、湾の奥に入るにつれ穏やかになってくるので、体もだんだん平常に戻っていきます。11時30分からの昼食もそこそこ食べられました。家人は先の揺れで、朝食べたものを全部戻してしまったらしく、食欲はゼロのよう。薬も効かなかったのですね。

4つ目の寄港地オーレスンに到着したのは12時ちょうど。ノルウェー人が選ぶ「ノルウェーでもっとも美しい町」に選ばれた町だそうで、ガイランゲルフィヨルドを始めいくつかのフィヨルド観光の中継地にもなっています。最初の下船観光が予定されているところなので、私たちはもちろん降りましたが、同じツアーの中で3、4人の方が船室で休まれていたようです。

オーレスンはとても美しい町です。添乗員さんの話によると、20世紀の初め頃、町のほぼ全体が火事で焼けてしまい、いまの建物はすべてそのあとで建て直されたものなのだとか。町がまるまる焼けたのは、当時の家が木造だったからです。そのため、建て直しにあたってはすべて石かレンガ造りにしなければならないとされ、そうした家々が100年近くたったいまもそのまま残っているのです。

オーレスンの港に船が着く前、甲板や展望デッキから町の様子がだんだんはっきり見えてきましたが、ちょうど天気も持ち直していたこともあり、その美しいこと! 個々の家もそうですが、それが合わさって作り上げられる色彩に満ちた景色が心を慰めてくれます。冬場だけかもしれませんが、空がこうも暗く厚い雲に覆われていると、人々の気持ちもどうしたって滅入ってくるでしょう。それを少しでも和らげようという思いで、家の外壁を黄色や赤、オレンジ色、空色など、パステルカラー系のペンキで塗ったのにちがいありません。たしかに、出航してから3日間ずっと、走れど走れど雨・雪、たまにやんでもどん曇りという空模様でしたから、誰もがいいかげん重い気分になりかけていたようです。そこにあらわれた明るい色彩の家々はそうした憂鬱を吹き飛ばしてくれました。

迎えのバスに乗って向かった先は標高187mのアクスル山の展望台。この頃になると不思議と雨もやみ、青空に覆われた展望台からのながめは最高でした。遠くスカンジナヴィア半島を覆う山々の頂上付近は雪で覆われ、それが間近に見えるのとあいまって、写真撮りまくりの2時間。5年前、夏のフィヨルドを楽しむ旅をしたとき、当初この町も訪れる計画でしたが、結局あきらめただけに、今回来ることができてよかったです。

 

 

 

アクスル山を下りたあと訪れたのが「アール・ヌーヴォー博物館」。かつては薬局だった建物をそっくり博物館にリノベーションしたのだそうです。建物の前は小さな港で、その周辺は、どこを見ても絵になりそうなたたずまい。水辺にある小さな公園に置かれているベンチには熱が流れていて、心地よくすわれます。冬が寒い町ならではの心遣いですね。

 

 

1904年1月の大火で町がほとんど焼けたあと、ヴィルヘルム2世 (皇帝)の号令一下、ドイツはもちろん、ほかのヨーロッパ諸国も資金、復興作業の人員を派遣するなど、国際的な協力のもとで再建がおこなわれたそうです。当時のお金で15億ドル・3年余をかけて、アール・ヌーヴォー様式の建物が立ち並ぶ新しいオーレスンが作られたのだとか。どこを切り取っても絵はがきのような光景を見せてくれる街並みの所以です。

展望台から港の近くまで戻り、私たちの乗っている船の全景を初めて見ました。ナイル川クルーズで乗ったのは2千トンほど、ドナウ川クルーズで乗ったのは1600トン弱。それに比べ今回のフィンマルケン号は1万6千トン近く。やはり大きいです。

午後3時、オーレスンを後にしばらく外洋に出たものの、またフィヨルドに入っていきました。次の停船地モルデ(Molde)に至るまでのフィヨルドはまさしく絶景。山々が海岸線近くにまで迫っており、わずかな平地に家が並んでいます。遠目で見ても色彩感に満ちた美しい家が多いのが印象的。無数の島々や中洲が点在する中、ときにはうっそうと生い茂る緑の木々が山の中腹まで積もっている雪とコントラストをなしながら、私たちの目を癒してくれます。8階の室内展望デッキの席がすべていっぱいだったのもよくわかります。

 

ヨーロッパ系の人々はめいめい、読書にふけったり、同行の人と語らっていたり、夫婦でお茶をしたりなどしていましたが、その眼前にはフィヨルドの美しい光景がゆっくり流れていきます。ここぞという景色が近づくと、写真好きの人はカメラを手に屋外のデッキへ。もちろん気温は低いのですが、風も雨もなかったのが救いで、次から次へシャッターを切りたくなるのもよくわかります。

話は変わりますが、前日の午後、豪華客船「ヴァイキング・スカイ(Viking Sky)」が半島中央部のやや北にある町トロムソからスタヴァンゲルに向かう途中、悪天候に遭って動力を失い、漂流し始めたため、船長が遭難信号を発したというニュースをテレビが報じていました。その救助活動の模様も伝えられていましたが、この荒天と寒さの中では大変だろうなと、他人事ではない感じです。2017年にできた真新しい船だというのに、何があったのでしょう。

モルデ到着は夕方6時。私たちが停船する桟橋の手前に、その「ヴァイキング・スカイ」号が避難のため停泊していました。乗客乗員1370人のうち、500人ほどはすでにヘリで救出されていたのですが、その後エンジンが使える状態になったとかで自力で航行してきたようです。テレビでは、大西洋上でなんと8mもの波に襲われたとも報じていました。それでも目立った傷はないようで、大きな事故にならずよかったです。それにしても、48000トン、全長227.2m、全幅28.8mの豪華客船というのは、とてつもない大きさです。

ベルゲンから北極圏に向かって出発

2019年3月23日
ノルウェーのベルゲンを訪れたのは2014年8月以来。前回は同地の世界遺産「ブリッゲン」を観るのが目的だったのですが、今回は「ノルウェー絶景航路とオーロラ観賞クルーズ」というツアーの出発地になっているため。日本から到着して1泊目がこの町というわけです。コペンハーゲンで乗り継ぎ、小雨降る空港に着いたのは8月22日午後6時過ぎ。偶然ですが、前回泊まったのと同じホテルでした。

 

今回のツアーは行き帰りともスカンジナビア航空で、食事はとてもよかったです。2回とも、3種類あるメインディッシュのメニューを並べたトレーをCAが運んできてくれましたが、「自分の目で見て選べるのはありがたい」とは家人の弁。たしかに、これなら見た感じから得る印象と直感で選べるので、万一おいしくなくても、納得度が違います。幸い、カンが冴えていたのか、どちらも満足できました。

「Beef or chicken?」とたずねられ、どちらか(3択のケースもありますが)を選んで失敗した経験は、誰にもあることでしょう。私たちの場合、リスクマネジメント(大げさな言い方ですが)というか保険をかけるというか、たいてい、それぞれ別のものを選ぶようにしていますが、それでも残りの一つのほうがよさそうだったというケースもなきにしもあらず(隣の席の人が食べているのを見てそう思ったり)。どれを選んでも大丈夫というキャリアー(航空会社)もあるにはありますが、いつもその会社の便に乗るわけではないので、なかなか難しいところがあります。

さてさて、スカンジナビア航空は、派手なCMはしていませんが、やはり伝統が違うというか。第2次世界大戦後まもない1951年から日本に乗り入れているそうで、昔からなじみはありました。私が小中学生当時、テレビでCMを流している航空会社といえば、スカンジナビアのほかBOAC(英国海外航空)とエールフランス、パンアメリカンくらいだったのでないでしょうか。しかも、1957年には、他の航空会社に先駆けて北極ルートの北回りヨーロッパ線を開設しています。派手派手しい宣伝をしないのが北欧らしさかもしれません。

今回のツアーはキホン「船」です。出航は今日の夜10時半なので、それまでは町の中を観光。世界遺産の「ブリッゲン」を手始めに、「フロイエン山」、魚市場と土曜日でたまたま開かれていてファーマーズマーケットをのぞき、ランチ。午後はコーデ(KODE)地区にある「美術館3」でムンクの作品を鑑賞しました。

 

ベルゲンというところはとにかく雨が多いことで知られており(年間降雨日数は軽く200日を超える)、しかも天気が変わりやすいそうです。たしかに、この日も、「フロイエン山」にケーブルカーで出発したところ、途中までは窓に雨が打ちつけていました。ところが、頂上の展望台に着いた頃はウソのような青空が。しかし、それもつかの間、小1時間ほどして下に降りたときはまたまた雨です。

続いて訪れたのが「美術館3」。ノルウェーの生んだ名巨匠エドヴァルド・ムンクの代表作『叫び』のオリジナルを観たのは5年前、首都オスロの国立美術館でしたが、ここに展示されているのは、それ以外の作品の数々。ムンクがさまざまな試練に遭い、精神を病んでいくにつれ絵も変わっていきます。その兆候が感じられるような作品もいくつか観ることができました。

いちばん印象に残ったのは『病院での自画像』(1909年)。ムンクは1902年、裕福なワイン商人の娘トゥラ・ラーセンに結婚をめぐって争いピストルで撃たれたことがあります。その事件で受けたショックなどが引き金となり、それ以降は妄想を伴う不安が高まり、アルコールにひたる日々を送るように。ときには暴力事件を起こしたこともあるようです。さらに、対人恐怖症の発作にもたびたび襲われたようで、それが頂点に達したのが1908年。その年の10月には、自分の意思でコペンハーゲンの病院に入院し、治療を受け始めたといいます。そのさなかに描いたこの絵は、ムンクの素晴らしい芸術的センスが自身の服装にあらわれているように思いました。どことなく精悍な表情も見られ、本当に精神を病んでいるのか、疑わしいほどです。

「美術館3」に展示されているムンクはじめ、ほとんどすべての作品は、ノルウェーの実業家ラスムス・メイエルがこの頃買い求めたもので、それによってムンクの名前と作品は一気に広まったといいます。たしかに、絵を描き始めた時分の『朝(ベッドの端に腰掛ける少女)』(1884年)をはじめ、『浜辺のインゲル』(1889年)『カール・ヨハンの春の日』(1890年)などは、『叫び』と同じ作者のものとは思えません。

 

しかし、それらとほぼ同じ頃(1892年)に描かれた『カール・ヨハン通り』を観ると、翌93年の『叫び』に通じる独特の悲しい表情が見られ、なるほどと思いました。5歳のときに母が、14歳のときに姉が病死した経験がムンクの生涯に影を投げかけたと言われるように、それがひょっこりとですが、如実に出ていました。

夕方、これから1週間乗る沿岸急行船(フッティルーテン=HURTIGRUTEN)のフィンマルケン(FINNMARKEN)号に乗船するため桟橋に向かいます。いまさら言うまでもありませんが、チェックインや荷物の運び込みは旅行会社がすべてやってくれるのがツアーのメリット。あとはルームキーをもらうだけです。

キャビンは予想していたよりはるかに広く、感動です。人間、もともとの要求水準が低いときに、それより上のものを提供されるとうれしいですからね。いまさらかもしれませんが、クルーズの利点の中で際立つのは、スーツケースの中身を全部出しておけることに尽きます。しかも、空にしたらベッドの下に置いておけるので、部屋の面積が多少狭くても不自由を感じません。私自身はそれほど感じませんが、加齢とともに、重いスーツケースを転がしながら歩くのがつらくなってくると、家人はよく言います。

東京で見逃した映画が観られラッキー!

2019年2月12日
昨年秋のドラフトで大注目された大阪桐蔭出身の根尾昂(あきら)選手は、抽選の末、中日ドラゴンズが交渉権を獲得、すんなり入団しました。しかも、1軍のキャンプに参加しているというので、北谷【ちゃたん】にある野球場に足を運んでみることに。こちらも、タイガース同様、根尾見たさに多くのファンが詰めかけているようです。

そこから、すぐ近くの楽天イーグルスの1軍キャンプ地にも足を伸ばしてみましたが、こちらはまだ数日後からスタートだったようで、残念ながら空振り。それでも、ここ沖縄で国内の7球団が春季キャンプを張るのは、経済効果も見込めるので、とても有意義なことのように思えます。沖縄は観光地として、47都道府県のなかでも屈指という年間1000万近くの人が訪れています。目的はそれぞれでしょうが、冬場、それも観光的にはどちらかといえばオフシーズン的なこの時期、こうした形で人がやってくるのはありがたい話ではないでしょうか。

しかし、もっと観光客を回遊させる手立てがあってもいいのではないかという気もします。この時期キャンプを張っているのは野球だけではありません。Jリーグのチームもやって来ています。また、Bリーグの強豪・琉球ゴールデンキングスもシーズンの真っ最中です。他県ではあまりスポットが当たっていないハンドボールも盛んですし、サッカーもJFLから着実に階段を上がってきたFC琉球が(現在はJ2)。ウォータースポーツだけでなく、沖縄はある意味スポーツ大国でもあるのです。

沖縄での楽しみの一つに映画があります。というわけで、夜は『アリー・スター誕生』を観に行きました。東京で見損ねた作品なのですが、たまたまこちらではまだ掛かっていたので、迷わずGO。レディー・ガガの演じる主人公アリーの人生はほとんどガガにも通じているのが名演につながっているのかも。監督はブラドリー・クーパー。『ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』でブレイク、2012年から3年連続でオスカー候補になったほどの名優が初めてメガホンを取った作品なので、昨年末はけっこう話題なっていました。沖縄でも今日が最終日。その意味でも、ラッキーでした。

こんな近くに「世界遺産」が!

2019年2月11日
沖縄の拠点は首里にあります。いまでこそ那覇市の一部になっていますが、もともとはまったく別の町。首里には王宮が置かれていたのに対し、那覇は港町で、琉球王朝と明との貿易拠点として栄えました。首里のほうは、小社の分室がある寒川町はじめ、山川【やまがわ】町、桃原【とうばる】町、赤平町、当蔵【とうのくら】町、儀保【ぎぼ】町など、いまは全部で19の町から成っています(このうち平良町、大名【おおな】町、末吉町、石嶺町は厳密には首里ではなかったようです)。

今日は、最近すっかりハマっている『王都首里見て歩き―御城と全19町ガイド&マップ』(古都首里探訪会編・著)を片手に出かけてみることに。目的地は崎山町で、首里城がある金城町のすぐ隣。城は首里でもいちばんの高台にありますが、それとほぼ同じ高さで続いている一角です。琉球王朝時代は、鳥堀町、赤田町とともに泡盛の製造を許可された地域の一つだといいますから、それなりの権威もあります。

行ってみると、まず見晴らしのよさに驚きます。王朝時代は、城下の町並みがすべて見渡せたのでしょう。「御茶屋御殿【うちゃやうどぅん】石像獅子」とか「儀間真常【ぎましんじょう】の墓所」など、由緒を感じさせる事物やスポットがいくつもあります。 儀間真常(1557~1644)は「琉球の五偉人」の一人にも数えられ、サツマイモ栽培を広めたり、木綿の栽培と織物の技術、(黒)砂糖の製造と普及に努めたりなど、琉球王国の産業の基礎を築いた人物です。

そんな儀間の墓所が、住宅の立ち並ぶエリアの一角にあると、先の本にも書かれています。かなりアバウトなマップなので分かりにくいのですが、細い階段を下りて行ったところにあるよう。これでは、観光客が訪れたりすることはまずないでしょう。しかし、誰かが墓守りをしているのか、花も供えられていました。「御茶屋御殿」は王府の別邸で、火災などの災厄から守るために獅子の石像が置かれていたといいます。

   

こんな近くに「世界遺産」の一部を構成するものがあったなど、夢にも思いませんでしたが、それだけに、これから先も、行ったことがない場所・じっくり見たことがないものを探しに出かけようという探求心がくすぐられた次第。

さすがタイガース! ファンでびっしりの宜野座村営野球場

2019年2月10日
沖縄でのプロ野球キャンプでこれまでまだ一度も見たことのないのが阪神タイガース。場所が宜野座【ぎのざ】村なので、首里からはやや遠いのです。ただ人気球団なので、多くのファンが来て盛り上がっているのではないかと思い、行ってみることにしました。

キャンプ地の近くの「やかそば」という店に魅かれ、入ってみます。いいですねぇ、雰囲気が。入口近くに手書きの大きなメニュー表示があり、これがまた元気というか、なんというか。「やかそば」「炙り本ソーキそば」「豚まぜそば」「レバニラもやしそば」……。どれも食欲をそそります。私は「やかそば」を食べましたが、これがまたおいしいいのなんの。アグー豚かどうか定かではありませんが、麺が見えないほどのボリュームで、そばも腰があり、あっさり完食! またニュースポットを発見できました。

村営野球場には、大変な数の人が来ていました。雨模様であるにもかかわらず、球場に近い駐車場は車でびっしり。「御用のない方お断わり」という村役場の駐車場にも止めてあるほどです。99%はレンタカーを示す「れ」「わ」ナンバー。私たちは、歩いて5~6分はゆうにかかりそうな路上でやっとスペースを見つけ駐車し、球場まで行きました。まわりは応援グッズを売るテントや食べ物が軒を並べ、いい匂いをただよわせています。2003年から続いているので(1998年から2002年までは日本ハムの2軍が使っていた)、宜野座村イコール阪神というのがすっかり定着しているのでしょう。

宜野座からの帰り、金城【きんじょう】ダムに立ち寄ってみました。小社の分室のすぐ近くにあり、その前を走るたびに目にはしているのですが、まだ一度も近くまで行ったことがなかった場所です。道路からダムを歩いて渡り、全体を見下ろしてみると、やはり大きいですね。ダムといえば人工の池か湖がつきものですが、そこまで近づくにはさらに歩いて降りていかなければならず、さすがにそれはパス。

沖縄では20年以上前から、辺野古【へのこ】基地のことが大きな問題になっています。町のど真ん中にある普天間基地があまりに危険だというので、その機能の大半を本島北東部の名護市辺野古の海を埋め立て、そちらに作った基地に移そうという話です。地元の人たち、いな県民の多くが反対しているのにそれを強行しつつある日本政府との対立は泥沼化の一途。この先いったいどうなるのか、東京からやって来ている私ですら不安を抱きます。

その辺野古を今日初めて、この目で見ました。美しい海岸です。ほとんど手つかずの自然がまだ多く残っていて、なんで選りにもよってこんなところに基地なんか作るの? と誰もが思うでしょう。山口県岩国や東京の福生【ふっさ】など、オスプレイが何十機か数日やってきただけで大騒ぎになりますが、70年近くそうした状態に置かれている沖縄県民のことを思うと、どうなんだろうという気もします。

 

沖縄! 今回もまた始まりは、辣子鶏(ラーズーチー)

2019年2月9日
お昼過ぎに到着する便で、沖縄にやってきました。昨年の9月末以来ですから、4カ月以上も間が空いたことになります。到着が昼でも夜でも、着くやいなや空港から、県庁近くにあるひいきの中華料理店「燕郷房(ヤンキョウファン)」に直行し、大好きな辣子鶏(ラーズーチー)をかぶりつくのが最近の習慣。ちなみに、家人はパクチーサラダです(これもうまい!)。

辣子鶏は四川料理の代表的なメニューの一つだそうで、鶏の唐揚げを大量の唐辛子や花椒などと一緒に炒めたもの。それと出会ったのがこの店なのです。とにかくめっぽうおいしいので、辣子鶏抜きの沖縄などあり得ません。

https://www.tripadvisor.jp/LocationPhotoDirectLink-g298224-d6474066-i144010621-Yankyofan-Naha_Okinawa_Prefecture.html#144010621
https://www.tripadvisor.jp/LocationPhotoDirectLink-g298224-d6474066-i121947900-Yankyofan-Naha_Okinawa_Prefecture.html#121947900

「トリップアドバイザー」提供の写真ですが、次回は自力で撮ってきますね。何せ、撮るより食うという気質【たち】なもので、すみません。

心身ともに大満足で、明日からに備えます。といっても、特段これといった予定は立てておらず、いつものように成り行きまかせ、お天気まかせ、気分まかせ。でも、それが私にとってはいいのですね。日にちや時間で刻まれた生活と、たとえ3日でも4日でもおさらばできるのが、格好のリラクゼーションになるからです。今回は、プロ野球のキャンプとも重なっているので、まあ、ドライブがてらのぞいてみようかといったところでしょうか。

「顔真卿」展の混雑ぶりにビックリ!

2019年2月7日
顔真卿【がんしんけい】といえば、知る人ぞ知る書道の大家です。そうした世界とは一切無縁、ド下手な字の書き主である私がなぜその名を知っているのかというと、高校1年生のときに書道の授業で、王羲之【おうぎし】と並ぶ人物であると教えられたからです。

書道の授業は1年間だけでしたが、何をしたかというと、その王羲之の不朽の名作『蘭亭序』を書き、最後に落款まで彫ったうえで表装するという、書の一連の流れをすべて経験する内容だったからです。いまでもそのとき作り上げた表装は手もとにあるのですが、最初の授業で先生が話してくれた顔真卿のこともなぜか覚えています。

顔真卿は8世紀、唐代の政治家・学者・書家。中国史上屈指の忠臣としても知られています。安禄山の反乱軍の勢いが日に日に勢いを増す中、顔真卿はその親族とかたらい、唐朝への忠義を示すために兵を挙げました。反乱が収まったあと、奸臣に捕えられたり左遷されるなどしましたが、そうした圧力には一切屈しませんでした。最後は殺されてしまうのですが、そうした生き方が後世称えられたのです。

その一方、書家としての顔真卿は、「書道を習う者はまず王羲之を学んでから他を学べ」「王羲之の文字でなければ文字にあらず」とまで言われていた「書聖」王羲之の流麗で清爽な書法に反発。力強さと穏やかさとを兼ね備えた独特の「蔵鋒」という新たな技法を確立したといいます。

日本の書道も当然、その影響を受けているようで、奈良時代から手本とされてきました。代表作が「蘭亭序」で、2年版ほど前に行った『漢字三千年展』にも展示されていました(2016年10月26日の項参照)。

その顔真卿の名作が今回初めて日本で展示されるというので、混み合いそうにない平日を狙って行ってみたのですが、これがまったくの読み違いで場内は大混雑。目玉の「祭姪文稿【さいてつぶんこう】」(台北・國立故宮博物院)は“混雑のため、ご観覧までに長時間お待ちいただいております”と、国立博物館(平成館)のウェブサイトにも書かれてはいましたが、なんと「55分待ち」。「作品の前では立ち止まらないでください。ゆっくり前に進みながらご鑑賞を」とも。まさかこれほどとは……。

思うに、最近その数をどんどん増しているインバウンド(外国人観光客)のなかでも、中国や台湾・香港など漢字文化圏から来日してきた方々が来ていたのではないでしょうか。台湾本国の故宮博物院で見るのもやはり大変なのでしょう。それがたまたま訪れた日本で見られるというのですから、これはしめた! と思ったのかもしれません。昨年、私がロンドンの大英博物館で葛飾北斎の版画を見ることができたようなものですね。

さすがに、「祭姪文稿」以外の作品「黄絹本蘭亭序」や「千福寺多宝塔碑」の前は普通の状態でしたが、書の展覧会にこれほどの客が来館するとは、主催者側も予想していなかったのではと思います。顔真卿と同じ時代に活躍した虞世南【ぐせいなん】、欧陽詢【おうようじゅん】、猪遂良【ちょすいりょう】ら“初唐の三大家”の作品も展示されていたので、深いところまではよくわからないものの、顔真卿の筆致と見比べながら、楽しむことができました。