ひょっとして決勝まで──“妄想”と言われるのは覚悟の上で

2019年10月16日

 

決勝トーナメントの組み合わせが決まりました。プールAを1位で突破したJAPANは、B2位通過の南アフリカと当たります。W杯直前、9月6日のテストマッチで敗れ(7対41)ていますし、最新の世界ランキングはもちろん上。昨年はニュージーランドと1勝1敗(いずれも2点差)と互角に渡り合い、今年も7月の「チャンピオンシップ(南半球4カ国対抗戦)」では引き分けています。このW杯では予選プールB組で対戦(9月21日)、13対23で負けました。4年前の大会でJAPANは“世紀の番狂わせ”で勝った相手ですが、普通に考えれば、負けて当然の相手です。
Rugby World Cup Limited © 2007 – 2019.

希望は、南アとのテストマッチ後ひと月しか経っていませんが、JAPANの実力がさらに伸びていること。それが、予選プールでのアイルランド戦、スコットランド戦の勝利につながりました。南アに勝つと、真面目な話、決勝進出も夢ではなくなります。ウェールズvsフランスの勝者と戦うことになるわけですが、どちらも南アよりはJAPANにとってはいくぶん分がいい相手だからです。当然、つけ入るスキもあるわけで、けっして勝てない話ではありません。ウェールズには2016年11月のテストマッチで30対33とあと一歩の接戦を演じましたし、フランスとは引き分けています(2017年11月25日)。

もう一つのブロックはどこが勝ち上がってきても同じ。順当ならニュージーランドとイングランドでしょうが、アイルランドは昨年11月ニュージーランドに勝っている(16対9)ので、けっして100%の確率とは言えません。ティア1でも、このあたりの国はそのときのちょっとした選手起用、運不運によって勝敗が左右されることもあるのです。

ちなみに、イギリスの大手ブックメーカー「ウィリアムヒル」によると、日本の勝ちは5・5倍で、南アの勝ちは1・18倍とのこと。勝てばもちろん番狂わせとなります。また、優勝となると、ニュージーランドが2・25倍、南アフリカが4・33倍、イングランドが5倍、ウェールズが9倍、アイルランドが17倍、オーストラリアが21倍、日本が26倍、フランスが34倍。

ただ、「ティア1」の国々と、「ティア2」から唯一決勝トーナメントに進んだJAPANとの間には目に見えない壁のようなものがあるのはまぐれもない事実。また、レフェリーも「ティア1」の国に有利な判定をする傾向があるのは否めません。そのあたりをいまノリに乗るJAPANが突き破れるか、期待したいものです。リーチマイケルのリーダーシップがもの言うといいのですが。

それにしても、このあとの展開を予想するのは難しいですね。大方の日本人は「南アに敗けてジ・エンド」といったあたりでしょう。しかしいまの私は、希望的観測も含め、次のような、とてつもない“妄想”を抑えきれずにいます。

準々決勝で南アフリカに僅差で勝利(それも、前大会と同じ逆転サヨナラ勝ち!)、準決勝でフランス(これも番狂わせですが)を破って決勝に進む。相手はニュージーランド(イングランドということもあり得ますよ)でしょうが、さすがに勝つまでは無理。それでも、前々回までわずか1勝しかしたことのないJAPANが、前回は3勝、今大会は開催国の有利さがあるとはいえ、ベスト8からさらに決勝まで行けば、これはもう天地がひっくりかえるほどの大騒ぎになるのは必至。この競技の最高統括機関である「ワールドラグビー(かつてのIRB=国際ラグビー評議会)」にも大きな波紋を投げかけるはずです。長らく続いてきた「ティア1」重視のやり方ではいけないという考え方が出てくることすら予想されます。

競馬の「有馬記念」的な妄想かもしれませんが、今回の目標(といってもJAPANの周囲の)だったベスト8まで上がってきたのですから、これくらいの「たら・れば」は許されるでしょう。ジェイミー・ジョセフや選手たちは「行けるところまで、脇目もふらず行く」という気持ちでいますし。ただし、南アに勝って有頂天になったり、「ここまでやれば大満足」などと思ったりすると、フランスにはボロ負けということもあり得ます。さてさて、どんな結果が待っているのでしょうか……。こんなシーンをあと2回は見てみたいものです。

 

大河ドラマも吹っ飛ばすJAPANの8強進出

2019年10月15日

 

やりましたねーッ、JAPAN!! でも、昨日の各紙朝刊やテレビに「番狂わせ」などという文字やナレーションはまったく出ていませんでした。調子のいい人は「実力ですよ、これが」とまで言っていましたし。そう思いたい気持ちもわからなくはありません。でも、いわゆる「ティア1(強豪国・伝統国)」の国々は、ホント強いのです。

もちろんスコットランドもその一つ。ほかはイングランド、ウェールズ、アイルランド、フランス、ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカまでが数年前までの「ティア1」。そこにイタリアとアルゼンチンが加わり、いまは10カ国を数えます。JAPANは現在フィジー、ジョージアなどと並んで「ティア2」に属しています。

「ティア1」のなかでも古豪と言ってよいスコットランドの選手たちが、後半開始早々JAPANに4つ目のトライを取られてから顔色を変えたのは、皆さんもご覧になったとおり。1871年、世界で最初のテストマッチ(国代表どうしの試合)をイングランドと戦ったというプライドがありますから、それも当然です。

ある新聞記事には「スコットランドの選手が前半の途中、レフェリーに対し、目に双眼鏡を当てるしぐさをしてみせた。これは“もっとよく見ろよ!”という無言のアピールで、それを察したのか後半はスコットランドにかなり甘い判定が何度か見られた」と。レフェリー(ニュージーランド)が今大会最年少だからということもあったのでしょうが、同じ「ティア1」の属している者どうしですから、そういうことも考えられなくはありません。「ティア1」の国々には、そうした不文律、アウンの呼吸のようなものがあるのです。

まあ、それはそれとして、スコットランド戦快勝に気をよくし、今日は浅草に行ったついでに「亀十のどら焼き」を買ってきました。勝利のお祝い、そしてこれはかなり無理がありそうですが、全力をあげて応援した自分へのごほうびですね。仙台の秋保では「主婦の店さいちのおはぎ」、大宰府(福岡県)では、“天然モノ”で売る「日本一たい焼き」、日田(大分県)では老舗の「赤司の羊羹」と、何かにつけては前祝いだの、景気づけだのと言ってはこの種の和菓子を口にしようとする食い意地には我ながらあきれてしまいますが、それもまた「楽苦備(ラグビー)」の楽しみと言っておきましょう。いささかこじつけっぽいことは百も承知で(笑)。

 

さて、このところ、町を歩いていると太めのホリゾンタルストライプ=横縞のシャツを着た男性、それも私の年齢±10歳くらのようなおじさんの姿をよく見かけます。よく見るとたいていがラガーシャツです。もちろん、買ったばかりとおぼしきものもありますが、タンスの奥に長らく眠っていた風の、ややくたびれた感じがするものも。胸に「CCC」という3文字のロゴがあるところや見ると、やはりラグビーW杯の盛り上がりが影響していると言って間違いないでしょう。

たしかに、今日発表されたJAPANvsスコットランド戦のテレビ視聴率は平均39・2%(瞬間最高では53・7%)、今年の全番組でトップだとそうですから、そうした気持ちになるのもよくわかります。20日(日曜日)の準々決勝は、多くの人が「まさか!」と思っていたカード「JAPANvs南ア」(キックオフ夜7時15分)に決まったため、NHKは当初BS1で放送する予定でいましたが、なんと大河ドラマをすっ飛ばし地上波の生中継に変更したのだとか。これはもう一大事としか言いようがありません。視聴率の数字は1%が100万人と言いますから、4000万人ですよ! 南ア戦を観ない人は「非国民」などとも言われかなねい雰囲気です。

ジャージの話は先日も少し書きましたが、ポロシャツ風に仕立てたものはやはり亜流のように思います。本流はやはりラガーシャツ(長袖もあれば半袖もあります)ではないかと。そのいちばんの老舗が1904年創業のレーン・ウォーカー・ラドキン(LWR)社カンタベリー(Cantebury)というブランド、ニュージーランドの会社です。「The World Toughest Active Wear(世界一タフな活動着)」というのが製品コンセプトだそうです。

ちなみに、今回のW杯に出場している国のジャージを見ると、JAPANのほかイングランド、アイルランド、ジョージア、アメリカ、カナダ、ロシアがカンタベリー製で、数ではトップ。決勝トーナメントに進んだ国をチェックしてみると、カンタベリーの故国ニュージーランドはadidas、南アとオーストラリアはasics、ウェールズはunder armor、フランスは自国のブランド le coq sportif とけっこう多様化しているのがわかります。日本のミズノはトンガとナミビアの2カ国でした。

全世界で数百万人の視聴者の目に何度なく触れるジャージですから、各メーカーともより高品質・高機能を追求しているわけで、準決勝、決勝と駒を進める国の選手が身に着けているジャージとそのメーカーのロゴはいやおうなしにアピールすることになります。ラグビーにはそんな楽しみ方もあるのです。

悲願達成! JAPAN、決勝トーナメントに

2019年10月14日
昨日午前11時前、PCを立ち上げ「ラグビーW杯」のサイトを立ち上げると、待望の画面が──。

よかったー! 昨夜観戦の予定だったイングランドvsフランス戦は中止、釜石のゲームも今朝早くに中止が決定。どうなるのかなぁと心配していたのですが、開催が決まったのです。

「……様々な可能性を慎重に検討した結果、一部の観客サービスを行わないことを前提に予定通り試合を開催する……
本日早朝より会場にて台風による影響を検査した結果、一部施設の破損は見られるものの、試合開催が可能であると判断しました。しかし、公共交通機関の乱れに伴うスタッフ不足や、設備の破損等により試合開始時間までに準備が整わない一部の観客サービス(※注)については、お客様の最低限の安全な観戦に影響しない範囲で、実施を取りやめ、試合運営を行う事とします。
※注:一部売店の休業、移動販売員の減員の可能性など」
ただし、スタッフの不足やインフラ復旧の遅れで売店の一部が休業を余儀なくされるため、飲み物もそのままで持ち込みOKだそうです。

ラグビーは、雪が積もってグラウンド上のラインが見えないとなれば別ですが、それ以外は何があってもやると教えられてきた私。台風くらいで中止にしていいのかといのが正直なところですが、今朝のテレビニュースを見ていると、被災された人も全国各地にたくさんおられるのに、こんなときに楽しんでいて大丈夫なのかという、別の思いもきざしてきました。それでも、ここでスコットランドと戦わぬまま予選プールが終われば、日本人にとってW杯の意義は半減してしまいます。たとえ、それで決勝トーナメントに進めたとしてもです。まして負けたりすれば、JAPANのW杯はジ・エンド。そうならないためにも、ここは勝つのが、台風で被災した地域の人たちへの大きな励ましになるのではないかとも思います。そして、私たちにも楽しみを分けてほしい!!

前回、JAPANは予選プールで同じ組にいて、南アフリカに“世紀の大番狂わせ”をやってのけた4日後にスコットランドと対戦。中7日で臨んだスコットランドの前に大敗し、その後サモア、アメリカに勝ち3勝をあげたものの、ボーナスポイントの差で決勝トーナメントに進めませんでした。もっとも、そのときは「南アに勝ったから、ま、いいか」くらいにしか思わなかったのも事実です。これでスコットランドにまで勝ったらできすぎ」だと。

でも、今回は違います。つい先日まで世界ランキング1位だったアイルランドを倒し、ボーナスポイント付きでサモアにも勝ってここまで来たのです。勝つか引き分けで決勝トーナメントに進めるとなれば、これは何がなんでも勝ってもらわなければなりません。よしんば負けても、4トライ以上あげ、なおかつ7点差以内ならボーナスポイント2を獲得できるので、スコットランドの上に立つことができます。もっとも、ヘッドコーチのジョセフ・ジェイミーも選手たちも、そんなことは考えていないでしょうが。徹底的に打ちのめす──ただそれだけです。もちろん、私とてそれは同じ。

一昨日の夜、サモアがアイルランドに屈しました。試合前の「シバタウ」は気合が入っていましたが、地力の差はいかんともし難かったようです。

結局、昨夜の段階で決勝トーナメントを決めたのは、プールAがアイルランド、同Bがニュージーランド、南アフリカ、同Cがイングランド、フランス、同Dがウェールズとオーストラリア。残るはプールAのひと枠。ここにJAPANが食い込めば、これまでえんえんと続いてきたティア1の国々によるベスト8独占に歯止めをかけることができるのです。

新横浜の駅からスタジアムに向かう観客の出足も心なしか早いよう。気持ちが急いているせいもあるのでしょう、皆、早足です。この3週間で、日が落ちるのもすっかり早くなり、5時半過ぎなのに、空は薄暮というより、夜寸前。台風が過ぎ去った直後とあって、なんとも言えない色をしています。それが何を暗示しているのか、知るのは勝負の神だけです。

試合前のウォームアップを終えたリーチマイケル主将以下、選手たち気合い満々。烈々たる闘争心と勝利への意欲が感じられました。そんなJAPANに、空に浮かぶ満月が微笑んでくれるとよいのですが。

 

さて、試合のほうはキックオフ後6分で、早くもスコットランドがトライ。これに対しJAPANの1本目は福岡堅樹からのオフロードパスを受けた松島幸太朗、2本目はなんと、FW第1列の1番・稲垣啓太。圧巻は3本目、タックルして相手のこぼした球をつかみ取った福岡が独走。表の役者、裏の役者のそろい踏みです。

後半も開始早々に福岡がトライを決め、一時は28対7に。一瞬、私の頭には前大会のスコア=10対45が頭に浮かびました。この調子なら、同じスコアでリベンジがかなうのではないかと。でも、それは甘かったようです。スコットランドはそんなにやわではありません。そのあと5分間で2つのトライを決められてしまいました。25分以降はお互い、長いフェーズの攻防が連続。

それにしても、時間の経つのがこれほどもどかしく感じたことはありません。あと10分、あと5分、あと2分、1分……。選手はもうヘトヘトだったでしょうが、耐えきったJAPAN! 観衆のカウントダウンの中、勝ちました。みごと、4年前の溜飲を下げることができました。

これでW杯史上初めて、予選プールAを1位で突破したJAPAN。次はクォーターファイナル(準々決勝)で、相手はプールBを2位で突破した南アフリカです。望むらくはもう一度ジャイアントキリングを。“二度あることは三度ある”ともいいますから。

 

 

スタジアムを後にするファンも、余韻にひたりたいせいか、これまでのどの試合よりゆっくりした足取りです。だれもが、決勝トーナメントはどこまでやってくれるだろうか、期待にワクワクしているにちがいありません。

 

 

ラグビーは「楽苦備」、でも観戦に「苦」は要らない

2019年10月13日
高校でラグビーをしているとき、先輩にこんなことを教えられました。「ラグビーっていうのは“楽苦備”と書くんだ。楽しいこともあれば苦しいこともある」と。私の高校は残念なことに弱かったので、「楽」より「苦」のほうが圧倒的に多かった記憶しかありませんが、いまのJAPANを見ていると、その言葉がいかに的確か、よくわかるような気がします。エディー・ジョーンズの時代から始まった、この上ない厳しいトレーニングに選手たちは皆苦しんだはず。でも、その成果はきっちりあらわれていて、楽しさも味わっているにちがいありません。

9月20日のラグビーW杯開幕から10月9日まで20日間、8会場で10試合を観戦した私も、これ以上ないほど楽しませてもらっています。ただ、その半面で見る側の苦しみも経験しました。それをいくつかあげておきましょう。今回のW杯は、東京オリンピックのほぼ10カ月前というタイミングで、さまざま参考になることも多いのではないかとも思うからです。

食べ物の持ち込み問題はクリアされたようなのでOK。これまでフランス、ニュージーランド、イギリスでW杯を観戦しましたが、あまり気にはなりませんでした。試合中に何かをつまむくらいならまだしも、ガッツリ食べたいと思ったことはなかったからです。そもそも海外では、どこかの店で食べ物をテイクアウトしようにも、サンドウィッチや果物くらいしかありません。日本のように弁当、寿司、おにぎり、唐揚げ、焼き鳥、シュウマイ、餃子……などといった選択肢はないのです。

飲み物は、よく言われているように、ビールをがんがん飲む人が多いです。ただし、試合が始まる何時間も前からです。もちろん、始まってからも、スタジアム内の売店で買って飲む人もいますが、それほど多くはなかったように記憶しています。今回、ラグビーにはビールがつきものということで、運営側は売り子にスタンド内でも販売できるようにしました。これは前例のないサービスで、これからの大会で取り入れられるかもしれません。

もっとも売り子の存在感は残念ながら薄い感じがしました。「ビール、いかっしょう!」と大きな声を出しながら売って回る野球場のスタイルを見習ってもいいかもしれません。スタンド内で飲み物を売るのは日本独特(アメリカ大リーグでも売るのはホットドッグだけ)。外国人客にとってはとてもありがたいサービスなのに、ちょっと残念です。

しかも、急ごしらえの売り子ばかりで、Heinekenの缶からプラスチックのコップに移す手がおぼつかないのに加え、釣り銭の支払いにモタついているので、時間がかかりすぎ。また、目をやる方向が不十分で、こちらが声をかけても手を振っても気がついてくれないのです。

スタンドにもけっこう差があります。日本がアイルランドに勝った静岡エコパスタジアムにはガックリきました。しかも、ドリンクホルダーもついていないのです。近頃のシネコン並みにとまでは言いませんが、前後のスペースの狭いこと。用があって籍を離れるとき、隣の人にお断わりし(もしくはアクションで示し)、体を縮こめてくれたのを確認した上でようやく動き始めることができます。それでも、途中体が揺れたり、足もとがおぼつかなくなったりするともう大変。まあ、これは世界中どこのスタジアムでも、ほぼ同じですけどね。ただ、ドリンクホルダーがないのはやはり参りました。

かと思うと、熊本のように、ドリンクホルダーがある席、なくても隣の席との間にミニテーブルがある席が混在しているところもありました。これは隣の人との間に余裕があり助かります。外国人は、選手だけでなく観客も大きな図体の人が多いですからね。

入口での持ち物検査は担当者によって差があるようです。でも、想像していたよりは ゆるいなと思いました。日本人はこういうことにとてもまじめに取り組むので、リュックの底の底まで手を入れて調べられるのではと覚悟していたのですが、そこまでする人はいませんでした。そこそこ厳しかったのは開幕戦だけ。秋篠宮ご夫妻がいらしていたからでしょうか。

トイレの行列はすさまじいのひと言。ビールをガンガン飲む男性のほうが行列は長く、ハーフタイムのうちには終えられません。日本のスタジアムのトイレはキホンどこでも清潔、しかも美しいので、用を足す側もそれなりの心づもりをしてアサガオに向かいます。外国の場合、たいていは左右10メートル、奥行き50センチほどの巨大な箱(たいていはブリキのような素材)のようなものがしつらえられていて、そこに向かって用を足します。一方の側から水が流れっぱなしになっているので、あとのことは心配要りません。これだとハケが早いので、多人数が相手、しかもほとんどの人が酩酊状態のときは十分という気がします。どの道、試合中に清掃作業がおこなわれるようなこともないでしょうし。

客の誘導で気になったのは神戸ノエビアスタジアム。そもそも敷地内に入るところが1カ所しかないのですが、そこからEゲート、Nゲートに行くには、スタジアムを3分の1ほど回らなくてなりません。そちらに向かうようロープが張られているのですが、それが必要以上に長く、100メートル以上歩いて100メートル戻り、また数10メートル進むようなスタイルになっていたため、けっこう疲れました。前に進むだけで入口に到達できるようにしてほしいですね。

輸送体制に問題があるように思ったのは静岡。9月28日のJAPAN vsアイルランド戦。私たちは新神戸から浜松まで新幹線、浜松から東海道線でスタジアム最寄りの愛野駅まで行ったのですが、ホームは客であふれかえっていました。私たちより前の電車で着いた客がまだ改札口まで到達できずにいるのです。それでなくても狭いホームに、電車は次々と入ってくるわ貨物列車は通過するわで、危険なことこの上ありません。結局、下車してから改札口を出るまでに20分以上もかかりました。

 

そもそも5万人を収容するスタジアムの最寄り駅なのですから、試合開催の日にだけ使用する連絡橋を作っておくとか、できなかったのでしょうか。ラグビーW杯は、世界中からファンがやって来るイベントです。にもかかわらず、そうした手を打っていないのは、ラグビーW杯の重みを理解していないとしか思えません。こうした部分に設備投資(応急的・一時的であったとしても)をしようとしないのは……。JR東海という会社のセンスに問題アリと言えそうです。

ただ、帰りの誘導はみごとでした。駅に向かう歩道の途中から、東海道線の上りに乗るか下りに乗るかで動線を分け、スムーズに改札→ホームへと進むことができました。同じタイミングに客が殺到する帰りについては対処できているのに、到着時の客の集中にほとんど無策なのはなんとも不思議です。観客に「苦」は要らないはず。1から100まで「楽」に楽しみたいというのが正直な気持ちではないでしょうか。

東海に限りませんが、JR各社になんとかしてほしいと思っているのは、新幹線の荷物(スーツケース)置き場です。なんともプアというか、1両に長期滞在の外国人観光客が数人乗っただけでほぼパンク状態になります。スーツケースを置くための場所がゼロなのです。各車両の最後部にわずかなスペースはありますが、そこにスーツケースを置くと座席のリクライニングが利きません。もちろん、網棚に上げるのは無理ですし通路に置くこともできません。といって、デッキに置いたたままになどできないでしょう。来年、東京オリンピックが開催され、今回のラグビーW杯を上回る人が海外からやってきたらどうするのでしょう。

さすがに、東海・西日本・九州の3社は2020年5月から、大型スーツケースを持ち込む場合は事前予約制にするといいます。最後部座席の後方にあるスペースを専用の置き場にし、その座席の指定席とセットで予約(追加料金は不要という)すというものですが、事前予約なしで持ち込むと1000円(税込み)の手数料が必要とのこと。しかし、これで確保できるのは普通車両で5人分。これで間に合うのでしょうか。

また、新幹線車内の一部のトイレを「荷物コーナー」に作り替えることも発表しています。ただ、こちらは工事が必要なので、実施は2023年度。オリンピックが終わって3年後ですが、これもずいぶん間の抜けた話です。

ウェールズのサポーターは大盛り上がり!

2019年10月9日
予選プールD組のウェールズvsフィジーは緊迫した一戦でした。ウェールズは勝てば決勝トーナメント進出が決まり、フィジーは望みがつながるからです。開始10分でフィジーが2トライ(コンバージョンは失敗)、そのあと15分間はウェールズが主導権を握り2トライ(コンバージョンは成功)。前半は14対10でウェールズがリード。

 

しかし後半は、まずフィジーが認定トライをあげ14対17と逆転。そのあとPGで同点に追いつくと、疲れの見え始めたフィジー相手に2本のトライを決め、29対17でウェールズが勝ちました。

大分駅からスタジアムまではシャトルバスでしたが、車内の4分の1はウェールズのサポーター。しかも、乗る前からビールででき上っており、大きな声で歌を歌っています。着いたら、赤いレプリカジャージを着込んだ人の姿がさらに目立ちます。これまで観た試合のなかで、外国人の数がいちばん多かったのではないでしょうか。フィジーも負けてはいません。世界ランキングではJAPANより一つ上ですから、実力をフルに発揮できれば決勝トーナメントに進む可能性はあります。サポーターもそれを信じ、試合前から盛り上がっていました。

試合終了後シャトルで大分駅まで戻ると、どこもかしこも赤、赤、赤。駅前のアーケード商店街はあちこちでウェールズ・サポーターが集団で大騒ぎしています。チームは地味なのですが、サポーターは素晴らしく派手なようです。いちばんすごかったのは、その中にあるアイリッシュ・パブ。まるで、こうした事態を狙いすましたような場所に店を開いています。店内はカウンター、テーブルはもちろん通路までも、そして店の外も赤一色。ビールを飲みながら大きな声で歌い、母国の勝利を喜んでいました。

12年前、フランス大会のときはあちこちで勝利を喜ぶサポーターの姿を目にしましたが、今回の日本では初めて。体も大きいので声も大きく、それがアルコールの力でさらに増幅しています。どこの会場でも帰りを急ぐ人が多いJAPANのサポーターは、こういう楽しみ方はなかなかできません。観戦地に泊まっている人がほとんどの外国人サポーターだからこそ、ここまで大騒ぎできるのでしょう。

大分は今大会、5試合がおこなわれます。もちろん、地方の都市では最多。西日本では収容能力がおそらく最大のスタジアムがあるからでしょう。今夜が早くも3試合目ですから、おもてなしの態勢はバッチリ。アーケード商店街の上には今日戦った2チームの人形がしつらえられていました。それにしても、今夜の寒さといったら。10月9日という時期を考えると当たり前なのですが、昼間の気温と差が大きく、体にはこたえます。

 

天守外観の復興が成った熊本城

2019年10月8日
昨日・今日はラグビーW杯の観戦もOFF。連泊した熊本で昨日はゆっくりさせてもらいました。といっても、日がな一日ボーッとしていたわけではありません。熊本からJR九州の数あるユニークな列車の中で以前から気がかりだった特急「A列車で行こう」に乗り、三角【みすみ】というところまで行ってみました。最終目的地は三角からタクシーで5分のところにある三角西港という世界文化遺産です。

「A列車で行こう」というのはなんともユニークなネーミング。ご存じ、チョー有名なジャズナンバーのタイトルをそっくり頂戴したものです。列車自体はとりたててジャズと関係があるわけではなく、「A」は「天草(Amakusa)」の「A」に由来しているよう。ただ、
列車自体のデザイン、とくに内装がとてもユニークだというので、話題になっているようです。水戸岡鋭治のデザインとあれば、それも理解できます。2両編成で、1両は座席のみ、もう1両は一部がバーカウンターになっており、ドリンクのサービスがあり、さまざまなグッズも売られています。私も、車内アナウンスに誘われ、昼ご飯前だというのに、デコポンのハイボールなんぞを飲んでしまいました。

「A列車」の売りはもう一つ。窓からの景色です。途中、三角行きの進行方向右側に、干満の差が日本一と言われる有明海の御輿来【おこしき】海岸が見えてきます。潮が引いたときの砂浜には美しい模様が見えるのです。列車もそこに近づくと速度を落として走ってくれるので、写真もゆっくり撮れます。私たちの乗った10時36分熊本発の列車は、ちょうど行きのときに干潮になっていたようで、なんとも不思議な模様が見えました(帰りは潮が満ちてきたため、フツーの海岸に戻っていました)。

終点の三角駅はその名、というか文字のとおり、駅舎に「三角形」があしらわれ、ユニークなデザインになっています。そこから三角西港まではすぐ。そのあたりは、突然明治時代にタイムスリップしたかのような風景が見られます。三角西港は明治初期から半ばにかけて整備された港で、設計者はオランダ人土木技師ローウェンホルスト・ムルデル。当時の最新技術を用いて近代的な港湾都市が造られました。熊本県にとっては、海外貿易が可能な初めての本格的な港だったそうです。港の発展とともに、道路沿いに2階建ての商店や旅館が立ち並び、埠頭沿いには白壁の倉庫群が続々と建てられました。

ムルデルは明治政府のお雇い外国人の一人で、三角西港の設計以外にも、新潟港の築港・信濃川改修、東京港の築港、富山県の河川改修、児島湾の干拓、広島港の築港、鬼怒川【きぬがわ】・富士川の治水、大阪港の改修・淀川治水、下関港の整備、利根運河の開削など、全国各地で築港、港湾整備、河川改修、治水事業に関わったとのこと。

三角西港一帯には当時建てられた洋風の建物がいまなおいくつか残され、けっこう観光客も訪れているようでした。ここからさらに天草に足を延ばす人が多いようです。

 

三角西港から熊本駅まで戻ると、駅構内にもあちこち「ラグビー」が。人気のクマモンもJAPANのジャージを着ていました。ホテルに戻ろうと、市電に乗って熊本城の前で下車、ちょっと立ち寄ってみました。W杯の開催に合わせるかのように天守閣外観の修復が完成したことで、特別見学会が10月5日から始まったのです。実際、フランスなど外国人観光客の姿も目立ちました。

これまでニュース映像や写真でしか見たことのなかった地震の爪痕が、3年以上経ったいまなお生々しく残っているのにまず驚かされます。被災直後は、いったいどこから、どう手をつければいいのだろうか、途方に暮れたにちがいありません。しかし、その復興の大きなポイントは天守閣の復旧にあるようです。天守閣や宇土櫓【うとやぐら】がよく見える加藤神社(全国でも珍しい名前の神社。加藤とはもちろん、熊本を築いた加藤清正のこと)の境内から見ると、完了までにはまだまだ時間がかかりそうなことがわかります。ほかの櫓はもちろん、天守を囲む堀にも、大きな石垣が崩落したままの状態で、地震のすさまじい破壊力を改めて実感しました。

ちなみに、ホテルに戻り、部屋のカーテンを開けてみると、なんと先ほど見てきた天守閣の姿が──。でも、遠目に見るのと、間近でから見上げるのとでは、この段階ではやはり違うように思いました。

 

 

 

 

熊本の街はフランス人でいっぱい

2019年10月7日

サモア戦の「興奮+感動+歓喜」がなかなか冷めやらぬまま、昨日は名古屋から熊本に移動しました。ネットで調べると、名古屋駅から空港まではシャトルバスで「18分」とあります。ホントかなぁと思っていたのですが、駅前から乗って納得。1分後には高速道路に上がっていたのです。中学生のころ小牧まで自転車で行ったことがありますが、2時間近くかかった記憶しかない私にはちょっとした驚きでした。10分ほどで高速を下り一般道に。3つ目の停留所が空港でした。

名古屋の空の玄関といえば、いまでこそ「中部国際(セントレア)」ですが、以前は「小牧【こまき】」の名で知られる空港でした。ただ、運用のされ方は大きく変わったようで、現在発着しているのはフジドリームエアラインという航空会社のみ。私たちもその名古屋→熊本便を利用しました。小さなプロペラ機ですが、この日はほぼ満席。熊本着陸の直前には、窓から立派なスタジアムが見えました。

 

空港からスタジアムまではシャトルバス。ボランティアの皆さん方のおかげでスムーズに案内され、15分も走ると駐車場に到着、そこからスタジアムまでは歩いて10分ほど。スタジアムの周りは広場になっていて、そここに三色旗を持った人が。もちろん、もう一方の手にはビールです。なぜか、スタジアム内で売られている“オフィシャルビール”=Heinekenを飲んでいる人はほとんど皆無。コンビニなどで買った一番搾りやスーパードライが目につきました。同じ500mlなのに、片や1000円、片や250円ほどですから、当然でしょう。もちろん、芝生の上に座り込んでワインを飲んでいるグループもいました。

スタジアムはといえば、もう立派のひと言。周辺は体育館など総合スポーツ公園になっており、このスタジアムもその一つ。ただし、陸上競技場と兼用なので、ラグビーやサッカーで使う場合はスタンドからピッチまでがたいそう遠いというのが、まあ難点といえば難点でしょうか。

 

 

昨日のカードはフランスvsトンガ。力の差はかなり大きいのでワンサイドゲームになるかもと予想していたのですが、どうしてどうして緊迫した内容で大満足でした。JAPANの試合ではないので、私たちも気が楽です。フランスからのサポーターの姿が予想以上に多く、場内にはときおり“Allez les Blue!!”の大合唱が響き渡ります。対するトンガのサポーターはほんのわずか。場内を見渡しても、どこにいるかさえわかりません。

試合前に披露するパフォーマンス「シビタウ」は、オールブラックスの「ハカ」に負けないくらいの迫力。その勢いそのままに、前半は17対7とフランスのリードも10点差です。ただ、南太平洋エリアの国々の通例で、トンガがバテそうな後半はフランスが縦横無尽に走り回るのかなぁと心配でした。ところが、後半7分にトライを決めてからは、全員がまるで生き返ったように、きびきびした動きに。ノーサイド直前までフィジカルも衰えることなく、フランスと互角の戦いを見せました。後半はフランスをノートライ・2ゴールのみに押さえ、トンガは逆に2トライ(2ゴール)。日本人の観客から「トンガ! トンガ!」の大声援が送られたのが力になったのかも。

終わると空港までシャトルバスで戻り、駐車場にとめておいたレンタカーで市内のホテルまで30分少々。夜8時にはチェックインできました。すぐ食事に出たのですが、日曜日の夜で早じまいの店も多く、入ったのは居酒屋。しかし、そこにも次から次へ、フランス人のグループが。日本語のメニューしかなく途方に暮れている風もありましたが、まあ、食べ物のことですから、最終的にはなんとかなるものです。

最後の最後に大ドラマが!

 

2019年10月6日
名古屋駅から電車で小1時間。豊田市駅前は豊田スタジアムをめざす人、人、人で身動きもままなりません。日本のファンにとっては大注目のサモア戦。かれこれ50年以上ラグビーを見てきた私ですが、今日は最後の最後まで手に汗を握りました。ノーサイドまで10分を切ったところでスコアは25対19と、JAPANのリード。サモアが1トライ1ゴールを決めれば、逆転できます。逆に、JAPANはこれで勝ったとしても、簡単には喜べません。予選プールを突破するには、勝つのはもちろん、ボーナスポイント1を加えておきたいからです。ボーナスポイントで上回っておけば、スコットランドと引き分けても、最悪負けたとしても、決勝トーナメントに進めます。

 

 

  

でも、わがJAPANはそれをやってのけました。それも、ほとんど“神った”という感じで! 開始早々からサモアを常にリードしてきたものの、ボーナスポイント獲得のためには何がなんでも4トライを取る必要があります。残り10分弱で2トライはかなりきつかったのですが。3本目は福岡堅樹、そして最後は松島幸太朗が決めてくれました。

とくに4本目のトライは圧巻。80分を過ぎる直前、サモア陣ゴールポスト前のスクラムからNO8の姫野和樹がボールを持ち出しハーフの田中史朗に。田中から絶妙のタイミングで左にいた松島にパス、そのままトライ! 松島の笑顔が印象的でした。もちろん、3万8千の観衆は大騒ぎ。私たちも前、後ろ、横にすわっていた人とハイタッチしていました。

今日の私たちの座席が、これまでで最高のポジション。グランドから10数メートルで、しかも前から5列目。選手たちの表情がよくわかります。試合前のウォーミングアップを見つめるジェイミー・ジョセフの凛々しい姿もばっちり見えました。

面白かったのは、試合後の両チームの“交歓”風景。サッカーでは、よくユニホームを交換し合うのが普通ですが、ラグビーではそうした習慣はありません。今日も、肩をたたき合いながらお互いの健闘を称えるまではいつもどおり。ところが、そのあとサモアの一選手がジャージを脱ぎ、日本の田村優(だったように見えました)に差し出したのです。それを機に、10人近くの選手がジャージを交換。なかにはパンツまで脱いで渡しているサモアの選手も。

これはホント異例の光景で、初めて目にしました。文字どおり「ノーサイド」です。サモアの選手も、この日の試合内容は100%とは言わないまでも、そうとうズシリと来たはずで、感極まってのことではないでしょうか。JAPAN代表の中にサモア出身のラファエレ(バックス・13番)選手がいたことも関係しているかもしれません。しかも、この日最初のトライをあげましたから。

気になったのは、JAPANに反則が多かったこと。今日のレフェリーはJAPANに厳しいことで知られているようですが、それにしても……という感じは否めません。ラグビーのレフェリーはほかのスポーツと違い、ゲーム中に「指導」をします。両チームの「協力」がないとゲームがスムーズに進行しない面があるので、レフェリーはその方向に持っていこうと、あれこれ口をはさむのです。スクラムを組むときがいちばん顕著ですが、ほかの局面でもレフェリーの声、ジェスチャー、あるいは選手と話しているシーンをしょっちゅう見聞きするはず。レフェリーがどのような考え方でゲームを進めようとしているのか、それを早くにキャッチしたチームのほうが優位に立てるというわけです。レフェリーの「指導」を素直そうに聞く選手もいれば、「この野郎!」といった表情を見せる選手もいます。ただ、そした態度がまたあとで響いてこないとも限りません。逆に、そうしたことにこだわらないレフェリーもいます。そうしたことも含め、レフェリーと付き合うことが大事なのです。

さて、この勝利で、これかで以上に“にわかラグビーファン”が増えるのは間違いありません。ラグビーが日常の話題になるような世の中になればしめたものです。スタジアムから豊田市駅まで30分近い道のりは日本人の観客でビッシリ。夜空に浮かぶ半月のもと、誰もが大きな声を出して話し、騒ぎながら興奮していました。私ももちろんその一人。ただ、帰りの電車の中では次戦以降のことを考えていました。

スコットランドに勝てば予選プールA組1位で突破するので、決勝トーナメントの初戦はニュージーランドでしょう。しかし、これではベスト8止まりでジエンド。できれば2位で突破し南アフリカと当たるほうが、希望的観測ですが、わずかながら期待の目もあります。そして、前回大会に続き南アを負かすようなことになれば、間違いなく世界的なニュースになるでしょう。そんなことを夢見ながら、13日のスコットランド戦を迎えましょう。

 

「世界陸上」より「ラグビーW杯」で正解

2019年10月5日
今年は4年に一度、「世界陸上」と「ラグビーW杯」が重なる年。4年前は陸上が北京で8月下旬、ラグビーがイギリスで9~10月と時期的にもずれていたので、両方とも
行くことができました。しかし、今年は時期が完全にカブっていますし、陸上のほうはドーハ(カタール)が開催地。1年前、今年の観戦計画を立て始めたころは、ギリギリ両方行けそうだとの思いもありました。たしかに、9月29日のオーストラリアvsウェールズ戦@味スタを終えたあと30日の午前0時5分羽田発の便でドーハに移動し、3日間観戦(プラス1日は観光か休養)。10月5日午前6時発の便で香港を経由して名古屋に戻ってくるというスケジュールは立てられるのですが、現実的にはどう考えても無理がありそうだと。結局、このプランはあきらめ、ラグビー一本に絞りました。

でも、これで正解だったと思います。その後、10月の初旬に大事な用件も入りましたし。何より、ドーハの自然条件がひどすぎるようです。昼の気温は40℃を越えるといいますし、スタジアムは空調が効いているといっても、20℃近い気温差となると、体がもたないでしょう。しかも、これは結果論ですが、期待の日本人選手もことごとく予選、準決で敗退。暑い中、スタジアムに足を運ぼうというモチベーションも下がります。いまごろ、こんなブログも書いてはいられなかったはずです。

いまは京都のホテル。昼間は、長年の念願がかなって桂離宮にも行けました。気候もようやく秋らしくなり、夜になると涼しく過ごせます。今日から10月11日まで7泊8日で、京都→豊田・名古屋→熊本→福岡→大分→日田→熊本→東京。明日は昼過ぎまで京都で仕事を片付け、そのあとは名古屋経由で豊田まで。夜は予選プールA組の重要な一戦=JAPANvsサモア。今日は桂離宮を見られたおかげでエネルギーも十分。パワー全開で声援できそうです。

 

 

夕食は駅隣接の伊勢丹の上にある名店「かつくら」でトンカツ(勝つ)。そのあと、地下の食品売り場で買った、林万昌堂の甘栗を食べながら南アフリカvsイタリアをテレビでゆっくり観戦しました。開幕2日目でオールブラックスに敗れた南アフリカですが、さすがイタリア相手だと、大人と子ども。7つのトライを重ね、49対3で圧勝です。11番(ウィング)のチェスリン・コルビの際立つ俊足、スタミナが印象に残りました。JAPANが予選プールを突破すると、決勝トーナメントで当たる可能性がある南アフリカですが、この選手は要注意でしょう。

中7日でスコットランド戦という利を活かしたい

2019年10月2日
9月30日の夜はテレビでスコットランドvsサモアの試合を観ました。前半終了時点ではスコットランドが20対0で優位に立っていました。ハーフタイムで引き揚げる両チームの選手は皆汗びっしょりで疲労感がありあり。気温・湿度ともかなり高かったようです。神戸のノエビアスタジアムは屋内なので、エアコンディショニングは万全のはずかと思いきや、私たちが観戦した日も、風通しがとても悪く、とにかく蒸しむししていました。トイレや買い物のためにスタンドを出ると、通路や階段には心地よい風が吹いており、その落差の大きいこと。しかも、通路にはプロジェクターがないため、おちおち並んでもいられません。昨夜もおそらくそれと同じだったのでしょう。

前半終了の前、スコットランドのFB(フルバック)スチュアート・ホッグが決めたDG(ドロップゴール)にはびっくりです。センターラインから数メートル相手陣内に入った、しかもそれなりに角度もある場所でしたから、まさかという感じ。一昨日書いたことがくつがえされても仕方ないような軌道を描いてポストの間を通り抜けていきました。

サモアはフィジカルも日本より上を行っている感じがしますし、個々の力量はかなりハイレベルです。ただ、ふだんは他国でプレーしている選手たちが、W杯のときだけ召集されるため、まとまりという点ではいまひとつ。高温多湿のコンディションには慣れているはずですが、それでも昨夜はかなり参っていたようです。

最終スコアは0対37で、ボーナスポイントも献上。もっとも、それを決めた4本目のトライに対する判定はかなりビミョーな感じで、残念です。スコットランドは前回大会、南ア戦に勝った4日後にJAPANがあいまみえた相手。今大会も、JAPANが決勝トーナメントに進むにあたっては、絶対に負けられません。もちろん、その前にサモアを倒すのが前提条件。できれば、ボーナスポイント1も取りたいところです。

さて、一昨日の試合が終わった時点での予選プールA組の順位と今後の試合予定はというと。
1位 JAPAN 2勝 中6日でサモア 中7日でスコットランド 15日間で2試合
2位 アイルランド 1勝1敗 中4日でロシア 中8日でサモア 14日間で2試合
3位 サモア 1勝1敗 中4日で日本 中6日でアイルランド 12日間で2試合
4位 スコットランド 1勝1敗 中8日でロシア 中3日でJAPAN 13日間で2試合
5位 ロシア 2敗 中8日でスコットランド、中8日でアイルランド 18日間で2試合
上位4カ国ではJAPANがいちばん優位で、以下アイルランド→スコットランド→サモアの順です。スコットランドは中3日で中7日のJAPANと戦うことになり、前回大会とは真逆となります。JAPANとしては、なんとかそれを活かしたいですね。スコットランドのヘッドコーチは不満を漏らしているようですが(下記の記事)、それは気にする必要ありません。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191002-00000005-asahi-spo

黄色と赤の戦いは、赤に軍配

2019年9月30日
28日の夜遅く、アイルランド戦勝利の興奮に酔いしれながら帰京。しかし、昨日はゆっくりする間もなく、午後ちょっと遅めに家を出てウェールズvsオーストラリア戦(予選プールD組)に。1週間ぶりの味スタです。日本の試合ではないので、京王線新宿駅で乗る客は外国人の姿が目立ちます。飛田給駅周辺もゴールドイエロー(オーストラリア)と赤(ウェールズ)のレプリカジャージを身に着けた大男のグループが缶ビール片手でそこいら中にたむろし、歩道を歩いていました。ゴールドイエローは膨張色ですし、騒ぎ方もウェールズより派手で、声も大きいので、一瞬ここはオーストラリアかと錯覚してしまうほど。

 

試合は開始早々、ウェールズの司令塔(スタンドオフSO)ダン・ビガーのDG(ドロップゴール)が決まり、観客の度肝を抜きました。キックオフから36秒後の得点はW杯史上最短だそうです。ダン・ビガーは2013年6月15日、エディー・ジョーンズ率いるJAPANと秩父宮でテストマッチを戦ったときも同じポジションで出場していましたが、昨日はさっそくのDGで、昔からのファンは「さすが!」と思ったのではないでしょうか。ちなみに、そのときは、今回JAPAN代表になっている堀江翔太、田中史朗、福岡堅樹、田村優も出場しており、ウェールズに初めて勝ったというので大騒ぎになりました。

さて、DG(ドロップゴール)は俗に“飛び道具”ともいいますが、日本のラグビーではあまりお目にかかれません。ヨーロッパ、南半球ではひんぱんにとまでは言わないものの、それほど珍しいものではないようです。2003年W杯の決勝、イングランドの司令塔ジョニー・ウィルキンソンが決めたドロップゴールはあまりにも有名です。延長後半ロスタイムのことで、オーストラリアはこの一発に沈み、優勝を逃したのです。youtubeでぜひご覧ください。

www.youtube.com/watch?v=rpmsCUk0pKA

DGは、23メートルラインをはさんだあたり、それもゴールポストのほぼ正面に近いエリアから、いったんグラウンドにはずませたボールを蹴り、それがポストの間を通過すれば成功=3点なのですが、ふだん見慣れているスクラムやラインアウト、密集戦(モール、ラック)がラグビーだと思い込んでいる人からすると、一瞬「えっ、どうしたの?」と驚いてしまいます。選手たち、とくにFWからすると、感覚的にはそれに近いものがありそうですが、3点取れるわけですから、えらく得をしたような気持ちになるのではないでしょうか。

というわけでオーストラリ側にはいささかショッキングなスタートだったのですが、前半20分くらいまでは、ウェールズが縦横無尽に動き回っていました。アイルランドに似てさほど派手さはありませんが、実力はかなり上。現に、今年のシックスネーションズ(ヨーロッパの6カ国による総当たりリーグ戦)ではみごと全勝優勝しています。ただ、W杯では1987年の3位が最高で、ベスト8までは行ってもそこから先まではなかなか勝ち上がれずに来ました(2011年は4位)。しかし、今日オーストラリアの追撃を振り切り勝った(29対25)ことで、この先が楽しみです。

昨日は席がバックスタンド側、しかもかなり上のほうで階段の昇り降りがきつかったため、帰りはどうしようか悩んでいました。正面まで回って京王線に乗るのはしんどそうで……。そこで、とりあえずバックスタンド側から地上に降りてみたところ、JR中央線の武蔵境駅までノンストップで行くバスが用意されていることがわかり、それを利用することに。一昨日の静岡エコパスタジアムのように、交通の便が限られているところに比べると大助かりです。こういうときは、都会の便利さを痛感しますね。

 

今度はアイルランド相手にGiant killing!!

2019年9月28日

またまた、歴史が動きました。ランキング2位のアイルランドから大金星をあげたのです。もう、なんと言っていいのか! その瞬間、世界中のメディアにニュースが流れたそうですが、今大会の優勝候補にあげられている国の一つとなれば、それも当然かも。スタジアムは歓喜と感動に包まれました。最後は日本らしく、万歳三唱です。

 

ラガーマンである私も喜びました。ただ、 4年前南アフリカを破ったときほど、感動はしませんでした。このときは号泣してしまったのですが、今回は目頭がウルウルした程度。そう、アイルランドを負かしても不思議ではないくらJAPANは強くなっていたのです。

 

この試合、とにかくディフェンスがすごかった。鬼気迫るというか、とにかくしつっこく、しかも穴がほとんどなし。二人がかりのタックルも最後まで途切れません。開始から15分ほどはアイルランドの巧みなキックパスに2度もやられてしまいましたが、それ以降は、相手の好きに蹴らせることもありませんでした。日本の強力なディフェンスに、アイルランドはキックをしたくてもできなかったのでしょう。

“脚をもがれた”アイルランドは以後ほとんど何もできずじまい。前半こそ9対12でしたが、後半は完封。ノーサイド10分前にJAPANは福岡堅樹のトライ(コンバージョンも成功)で12対16とし、最後はさらにPKを1本加え、1トライ+1ゴールを入れられても負けはないスコア=19対12で歴史的な勝利をもぎ取りました! 終了間際、相手パスをインターセプトした福岡の独走が実ればさらに5~7点を上乗せし、アイルランドのボーナスポイントも与えずに済んだのですが、惜しいことをしました。

「規律」という点でもJAPANはアイルランドを上回っていたように思います。反則数は6、相手のPKにつながりやすい自陣での反則は1回きり。POTM(最高殊勲選手)にはFW(フッカー)の堀江翔太が選ばれましたが、私個人は、キャプテンのリーチマイケルとSH(スクラムハーフ)の田中史朗【ふみあき】の二人の貢献度が大きいと思っています。リーチは前半30分から交代出場でしたが、すさまじいタックルを連発、また田中は福岡のトライにつながるパス出しで貢献しました。FW第3列・姫野和樹の動きも素晴らしかったですし。

もう一つは、5万近い観客の6割を占める日本のサポーターの声援も勝利を後押ししました。前半途中までは、アイルランドサポーターの声が予想以上に大きかったのですが、ハーフタイムまであと10数分頃からほとんど聞こえなくなりました。それに代わり、「ニッポン・チャチャチャ!」の大声援がスタジアム全体に響き渡り、スタンドが揺れるほど。これほど大音量の声が選手にも届かないはずがありません。間違いなく、大きな勇気を得たのではないでしょうか。

 

スタジアムを出て最寄りの愛野駅(東海道線)に向かっているとき、後ろで花火の音が。JAPANの勝利を祝福するかのように花火が上がりました。「いやー、ラグビーって面白いなぁ」と思った客もいっぱいいたにちがいありません。もちろん、テレビやPV(パブリックビューイング)で楽しんだ人も同様。願わくは、こうしたことがきっかけになってラグビーファン、さらには競技人口も増えてほしいものです。一瞬で消えてしまう花火のようにではなく……。

 

現時点で予選プールB組のトップに立ったJAPAN。ただ、これで決勝トーナメント進出が決まったわけではありません。帰りの新幹線、喫煙ブースで一緒になったアイルランドサポーターに「どうだった、今日のゲームは。これでJAPANは1位通過だよね」と話しかけられました。「でも、ひょっとしてスコットランドにやられる心配もあるよ」と答えると、「大丈夫、大丈夫。オレたちと一緒に決勝トーナメントに行こうぜ!」と励まされました。ただ、ラグビーは番狂わせが少ないスポーツですから、アイルランドに完敗したとはいえ世界ランキングでは日本より上のスコットランドが逆襲してくる可能性は十分あります。それに、今日の試合でアイルランドがボーナスポイントを1確保したことで、プール戦の最終順位がどうなるかも気がかりですし。

“日本ラグビーの父”のお墓は神戸に

2019年9月27日
今回のラグビー観戦取材「第一シリーズ」も明日で最後。今日はオフの日です。明日の朝まで神戸なので、ゆっくりもできたのですが、一つ果たしたいことがありました。六甲山の中腹、再度【ふたたび】公園の一角にある神戸市立外国人墓地に、ラグビーを日本に伝えたイギリス人の墓があると知り、そこを訪れてみたいと思っていたのです。

エドワード・ブラムウェル・クラーク(Edward Bramwell Clarke)は、横浜生まれのイギリス人英語教師で、慶應義塾、第一高等学校、東京高等師範学校、第三高等学校、京都帝国大学などで教鞭をとりました。いったんイギリスに戻りましたが再び来日、慶應で教壇に立っていた1899年、ケンブリッジ大学留学から戻った田中銀之助の協力を得ながら、学生たちにラグビーを指導したことから、「日本ラグビーの父」とされています。その後クラークは京都に移りましたが、有馬温泉にも足を運ぶなど、神戸との縁も深かったようです。

再度公園の一帯は多くの松が生え、中にある池とあいまって、美しい空間を作っています。墓地の入口まで歩いていったのですが、残念ながら親族や遺族など関係者しか中には入れないようで、展望台からながめることしかできず。14ヘクタール広大な墓地のどこにクラークが眠っているのか、想像するしかありませんが、見つけるのは難しそうです。とりあえず、タウン誌『月刊 神戸っ子』のウェブサイトに墓石の写真が出ていたので、転載させていただきますが、毎月一度見学会が催されているようなので、いずれそれに参加してみようと思います。

 

六甲山から再び神戸の街中に下り、夕食。横浜のときにならい、元町近くの南京町でまたまた中華。ひいきにしている「民生」という店でお腹いっぱいに。これだけ食べてパワーをつけておけば、あすのJAPANvsアイルランド戦@エコパスタジアムの応援にも力が入るはずです。

 

イングランドvsアメリカの“親子”対決

2019年9月26日
仙台から伊丹のフライトが1時間遅れ。伊丹空港で乗客がナイフを持ち込んだとかで所持品検査のやり直しがあり、欠航した便もあったという中、とりあえず、飛んでよかったです。前橋上空で雲の上から頭だけ出した富士山が。どこをどう切り取っても、美しいですね。

伊丹からリムジンバスで神戸の三宮。「このバスは法定速度で運転してまいります」の“宣言”どおり、最初から最後まで、みごとな順法運転ぶり。ただ、客にとってはもどかしい感じもします。今日のように、フライトが予定より大幅遅れの場合はとくに。

ホテルを出て三宮駅から続くSOGOデパート地下で観戦時の食料を確保。昨日から、食べ物の持ち込みが認められたのです。地下鉄で5つ目の御崎公園で降り、そこから15分ほど歩くとノエビアスタジアムに。今日はイングランドvsアメリカ。旧宗主国と旧植民地の対決です。その図式はラグビーにもそっくり当てはまり、実力の差は歴然。アメリカではなぜか、サッカーもラグビーもあまり広まらなかったようです。その代わりが野球とアメリカンフットボールなのですが、それでも近年はサッカー、そしてラグビーのプロ化が始まりました。

ただ、それはそれとして、予選を突破して本大会に出てくるくらいですから、そこそこの力は備えています。しかし、この日はまるで覇気がないというか、ノーサイド間際までまったくいいところなし。最後にようやく1本トライを返し、意地を見せたものの、ちょっと……という印象は拭えません。

それより、ラグビーというスポーツの第一原則である「品位」を感じさせたのがイングランドのプレー。45対0というワンサイドゲームですから、終了間際にキープしたボールをサイドラインの外に蹴り出せばよかったのですが、さらに攻撃を続けたのです。しかし、それがアダとなり、アメリカにボールを奪われ、最後にトライを許してしまいました。レフェリーのホイッスルが鳴るまでゲームはやめないという、ラグビーの基本精神がそこにはあらわれていたように思います。

 

釜石は、絶好のラグビー日和!

2019年9月25日

朝から真っ青な空が広がっています。W杯の観戦も、今日で4戦目。フィジー vsウルグアイです。仙台で東北新幹線の各駅停車に乗り北上【きたかみ】まで小1時間、そこから釜石までバスでさらに1時間20分ほど走ります。できてまだ間もない三陸道を走り、バスの駐車場に。そこから鵜住居【うのすまい】復興スタジアムまでは歩いて15分。土の道なので、晴れてホントよかったです。

スタジアムのまわりには、みごとなほど何もありません。この一帯は、8年前の大震災+津波で何もかも流されてしまったからです。小高い丘のふもとに、すぐにそれとわかる建物が見えます。スタジアムというより、球技場の言葉のほうがふさわしい感じ。それでも、仮設スタンドを含めると1万6千人、本体だけなら6千人収容とのこと。大型映像装置も2台ついていて、フラストレーションなく観戦することができます。陸上競技用のトラックがない、ラグビー(もしくはサッカー)専用なので、最前列など、ほとんど手が届きそうな感じで観戦できますし、最上段でも、とても近くに感じます。

2011年のW杯、ニュージーランドのファンガレイ(Whangarei)でおこなわれたJAPAN vsトンガ戦(18対31で負け)を思い出しました。オークランドからバスで2時間半、途中目にしたのは羊だけと言ってもいいほど田舎にある町で、スタジアムは仮設スタンドも含め2万人収容。このときもやはり土の道を歩いていきました。でも、大きくて立派なスタジアムとはまた違う、素朴な雰囲気がいいのです。

スタンドのまわりに並ぶ売店もそれぞれ個性的。飲み物はどこも共通ですが、食べ物は東北各地のローカルなメニューを販売しています。売り手も、岩手県人ならではのほのぼのとした優しさがいっぱい。軽く言葉を交わしながら好みの物を買い、温かな日の光とさわやかな風が頬をなでる中、ベンチや芝生の上に座り込んで飲んだり食べたりしながらキックオフを待つファンがいっぱいいました。コンクリートで作られた、いかにもといった感じの都市型スタジアムとはまったく違う味わいがあります。

かつて、新日鉄釜石が日本選手権7連覇を達成した時代、釜石とその周辺に暮らす人たちにとってはラグビーが日常だったはず。シーズンともなれば、昼も夜もラグビーの話で盛り上がっていたにちがいありません。いまで言うと、サッカーJリーグ、バスケットボールBリーグのチームがある地方都市も同じような雰囲気があるのでしょう。そうした意味では先駆者ともいえる釜石。そうした頃の名残かもしれません。

両国国歌の演奏の前に、東日本大震災で亡くなった方々の冥福を祈り、黙とうをささげました。また、空にはブルーインパルスが編隊飛行で祝福します。

試合は、スコッド31人中9人がアマチュアで、世界ランキングも19位という格下のウルグアイが、W杯では毎回健闘し、いまもランキング10位のフィジーを相手に堂々と渡り合い、最後は30対27で勝利。メインスタンドに陣取っていた100人近いウルグアイ人サポーターを喜ばせました。私たちが観戦したバックスタンドにも3人の熱いサポーターがおり、大きな声を張り上げていたのが印象に残ります。帰りも順調で、スタジアムから北上の駅まで渋滞もなく到着。茜色に彩られた西の空がきれいでした。

ラグビーとおはぎの不思議な関係

2019年9月24日

まずは今夜の結果から。ロシアvsサモア。日本と同じプールの対戦ですが、サモアが地力を発揮しロシアを圧倒、34対9。ボーナスポイントも獲得し、現時点でプールAのトップに立ちました。

さて、今日は移動日です。明日午後のフィジーvsウルグアイ戦がおこなわれる釜石まで東京から当日行くのはいささかきついので、仙台で前泊する計画を立てました。とはいっても、「事のついでに」が大好きな私なので、そこにいくつか“おまけ”をつけずにいられません。

今回の“おまけ”は、仙台から車で30分ほどのところにある秋保温泉のスーパーが製造販売しているおはぎ、そして八木橋動物公園。おはぎは家人がたまたま見ていた番組で紹介されていたもの。秋保温泉の一角にあるスーパー「主婦の店さいち」で売られていて、毎日、朝から行列をして買う客が絶えないというのです。駅でレンタカーを借り、行ってみました。

平屋建ての、さして大きくもないスーパーなのに、駐車場が3カ所もあり、しかも警備員までいます。そこへ次から次へ車が入ってきて一目散に店の中に。もちろん、食料品や生活用品を買いに来る客もいるようですが、3分の2はおはぎ買いの客。狭い売り場の一角に並べられているのですが、どの客も5パック、10パックとバスケットに入れていきます。話を聞いていると、自分たち用に隣人やお客さん用などを一緒に買っているようです。

あずき、きなこ、ごまの3種類があり、それぞれ2個入り・3個入り・6個入りのパックになっています。もちろん、2種混合、3種混合も用意されています。どれも1個100円ですから、3個入りを5箱買っても1500円。安いものです。それでいて、一つの大きさは縦7センチ、横5センチほど。

あずきときなこ、2個入りを1パックずつ買いました。正直、3種すべてほしかったのですが、いくらなんでも私と家人の2人で6個は食べきれなさそうなので自重。しかし、これがもう、とんでもないあんこの量(もち米は全体のボリュームの2割ほどでしょうか)。子どものころ食べたぼた餅を思い出させます。あずきの自然な甘さが前面に出てきて、とてもいい感じ。生まれて初めての超弩級のおいしさに感動しました。文字どおりの“スーパーおはぎ”です。

 

ラグビーのJAPAN代表チームも、ロシア戦が始まる4時間前に食べる「マッチミール」でおはぎを食べたといいます。「……用意されるのは、あんこのおはぎ。今季から選手の要望を受け、エネルギー源となり、腹持ちが良い逸品がビュッフェに並ぶようになった。あんこの材料になる小豆は、邪気を払う縁起物ともされる」(日刊スポーツ)。“ONE TEAM”を合言葉に今大会に臨んでいる選手たちのきずなの一つがおはぎだったとは! 私たちもそれに続いたというわけです(笑)。

大会前、宮崎で合宿していた選手たちに、ラグビーW杯2019のPRキャプテンを務める舘ひろしが、石原軍団御用達というサザエ食品のおはぎ500個を差し入れしたという記事も出ていました。ちなみに、舘ひろしは私より1学年上で、名古屋の千種【ちくさ】高校ラグビー部。私が明和高校ラグビー部にいたとき一度だけ試合をしたことがあります(もちろん、当時は彼の存在など知る由もありませんでしたが)。その当時は明和高校のほうが強かったので勝ちましたが、その後(1999年、2002年)千種高校は花園に出るくらい強くなりました。

もう一つちなみに、サザエ食品の十勝おはぎ(同社の発祥は函館)は、これまで私がいちばんひいきにしていたもの。いまからもう40年近く前、初めて口にしたときは「世の中に、これほどうまいおはぎがあったとは!」と仰天しました。しかし、今日食べた「主婦の店さいち」には一歩及ばない感じがします。

アイルランドは強い、しぶとい、怖い!

2019年9月23日
21日のニュージーランドvs南ア戦の試合終了時間が遅く、翌22日の試合も同じ横浜、キックオフが16時45分と早めだったので、スタジアムから歩くだけで済む新横浜駅上のホテルに泊まりました。同じような考えのファンも多かったようで、ホテル内はそれっぽい人が目立ちます。

キックオフまで時間に余裕があるので、中華街でランチでもと思い出かけてみました。多少予想はしていましたが、まあ大変な人出です。それも通常の土日と違い、外国人のグループがそこここに。メインの通りは朝の丸の内地下通路状態でした。W杯開催期間中に国慶節(10月1日)と双十節(10月10日)という二つの休日があるので、その日はおちおち歩いてなどいられないのではないでしょうか。

 

22日はアイルランドvsスコットランド。予選で日本と同じプールの強豪です。日本が決勝トーナメントに進むには、できれば両国とも、最悪でもどちらかに勝つ必要があります。前回大会で、南アに勝ったあと、中4日で戦って負けたスコットランドは何がなんでも蹴落としたいので、この試合はできればアイルランドに勝ってほしい、それもボーナスポイントなしで、というのが正直な気持ちです。

試合前の国歌演奏では両国とも国歌(National anthem)とは異なる歌(Anthem)を歌っていました。スコットランドは独立国ではないので、これはよくわかります。でも、アイルランドは普通の独立国ではないかと誰もが思うことでしょう。しかしラグビーの世界では、そのアイルランドに加え北アイルランド(こちらはイギリスに属している)も加えた形でチームが構成されているのです。そのため、選手たちの国籍は最少でも2つ(外国人や移民も加えればそれ以上の可能性もあります)で、「(アイルランドの)国歌」を歌うわけにはいきません。そこで、1995年のW杯からは、ラグビー用に作られた「アイルランズ・コール(Ireland’s Call)」を歌っています。ちなみに、スコットランドは「フラワー・オブ・スコットランド」という曲です。能書きより、実際に聞いたほうがその素晴らしさがわかります。日本人が聴いても、勇気をかきたてられそうになる曲調にシビレますよ。これもYoutubeでどうぞ。
https://www.youtube.com/watch?v=pH5I2Y4BBjw

国歌だけでなく、国旗もアイルランドは2つ(1つはアイルランド=緑+白+橙、もう一つはイギリスに属する北アイルランド=アルスターの旗)。スコットランドも当然ユニオンジャックではなく、紺地に白の斜め十字です。

 

 

そもそもラグビーでは「イギリス」から4つもの「国」が出ているのですね。イギリスはUK(United Kingdom)というように、正式な国名はグレートブリテン及び北アイルランド連合王国です。そのグレートブリテンもイングランド、スコットランド、ウェールズという3つの「国」から成っています。そのどれもが出場するのですから不思議というか不公平というか。オリンピックや世界陸上は「イギリス」なのですが。サッカーはイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドという4つの「国」があり、アイルランドは本来のアイルランドとして出ています。

試合のほうは、現在世界ランキング1位のアイルランドの一方的な勝利でした(27対3)。オールブラックスのような派手さはありません。スタープレーヤーもほんの数えるほどです。しかし、鉄壁のディフェンスは相変わらず。相手のスコットランドとは何度も
戦っているので手の内は十分わかっているのでしょうが、それにしても、スコットランドのいいところを完璧に封じ、ノートライに抑えました。

 

しかも、アイルランドが前半あげた3つのトライはすべてフォワードによるもの。“トライはバックス”というのが半ば常識ですが、フォワードが文字どおり「前へ前へ」と突き進むので、チャンスをつかむのもフォワードの選手なのです。この試合ではバックスが、これまた文字どおり後方で強力な防御を見せていました。タックルの成功率は95%と、新聞のスポーツ欄にありましたが、これはもう驚異の数字です。その昔私は「アタックル」という言葉を教えられました。タックルは防御のためだけではなく、それを起点にアタックに転じていくのが本当のタックルなのだという意味です。

後半4つ目のトライを奪いボーナスポイントも獲得。私たちの願いはかないませんでした。そして、この強くてしぶといアイルランドとJAPANは28日に戦うのです。でも、負けてもともとという開き直りと、相手を混乱させるような変幻自在、それでいて緻密な攻撃を仕掛ければ活路が開けるかもしれません。最悪でも7点差以内に抑えボーナスポイントを獲得してほしいものです。怖がったりしてはいけないのです。

中華街でもスタジアムでも、この日は緑のジャージを着たアイルランド・サポーターの姿が目立ちました。私たちの席の後ろにも数十人のグループが陣取っていましたし、大きな声を上げ、試合前とハーフタイムのときは巨大な国旗を持ったサポーターがスタンドを走るなどという光景も(サッカーではよくありますよね)。世界一の大酒飲みとも言われるアイルランド人ですから、試合後は横浜の随所で“緑の雄たけび”が聞かれたのではないでしょうか。

ラグビーは球技である前に格闘技

2019年9月21日
今日はニュージーランド(オールブラックス)vs南アフリカ(スプリングボックス)。AからDまで4つある予選プールの対戦の中でも最高レベルで、なんだかもったいない感じすらします。6万数千人収容の横浜スタジアムにふさわしい試合と言えるでしょう。もう一度この両国の対戦があるとすれば、決勝か3位決定戦しかないので、絶対に見逃せません。

というわけで、私たちもキックオフの3時間以上前には新横浜駅に着いていました。駅構内はもう大変な人。おそらく全国、いな世界中から来ているのではないかという気がします。スタジアムの前でのんびり写真など撮っていては申し訳ないという思いすら抱きました。遠くからわざわざやってきている南アのサポーターならともかく、私たちなど、こんな試合が日本で観られるだけで大満足、どちらが勝ってもいいやくらいにしか思っていないのですから。

 

ニュージーランドのラグビーといえば、もう「ハカ」です。「ハカ」とはもともと、先住民であるマオリ族の男性が、戦いの前におこなう踊り、手や腕を叩き足を踏み鳴らすなどしながら、自分たちの力を誇示するとともに、相手を威嚇するためのものでした。ラグビーでは1905年、ニュージーランドチームがイギリスに遠征したとき、スコットランド戦とウエールズ戦の前に披露したのが始まりとされています。以来、オールブラックスがテストマッチ(国際試合)を戦うときはかならず、キックオフの前に相手チームにハカを披露する習慣になっています。

 

写真では限界があるので、Youtubeでどうぞ。
https://twitter.com/i/status/1175346576753143808

19時45分過ぎキックオフ。世界ランクがほぼ最高の両国ですから、一瞬たりとも気が抜けません。ちょっと(時間にして数秒)よそ見していると、その間に攻守も場所もすっかり入れ替わっているなどということもしばしば。それも、ボールを蹴り込んでとかではなく、持って運んで、敵のタックルをくぐり抜けたりかわしたりしての結果です。

ラグビーの面白さも、そうした部分にあります。球技であると同時に格闘技でもあるのです。見ていて体に力が入ってしまうのはそのせいでしょう。今日の試合でも、身長2メートル・体重100キロという男どうしが走りながらぶつかり合う場面がありました。私たちの席が前から5列目だったのでそれを目【ま】の当たりにしました。肉と骨とが同時に音を立てるとでもいうのでしょうか。

そうしたシーンが前後半合わせて80分続くのですから、やるほうはもちろん見るほうも疲れるのは致し方ありません。それでも、今日の試合は日本がからんでいなかったので、まだいいほう。とりあえず、これほどレベルの高いゲームを見せてもらえる喜びと感謝でいっぱいです。

その繰り返しの上に、相手から一つでも多くの「トライ」を奪い取るのがラグビーです。トライとは、ボールを相手のゴールライン(ポールが立つライン)を越えた先で、ほんの一瞬でもかまわないので、地面につける(グラウンディング)こと。ただし、地面とボールとの間に1センチでも隙間が空いていたら「トライ」になりません。相手ゴールラインの上で敵味方が壮烈にもみ合うのは、なんとかラインの向こうにグラウンディングするか、それを阻止するか、ぎりぎりの攻防が展開されるからです。球技といっても、私たちの目に見えるのは格闘技なのです。

最後にグラウンディングするのは1人ですが、そこに至るまでにどれほどの選手が関わっているか。緒戦のロシア戦で3本のトライを決めた松島幸太朗選手。試合終了後のインタビューでも、「皆でつないで取れたので、ワンチームでできた」とコメントしていましたが、そうしたことが背景にあります。団体競技はスター選手が一人だけいても勝てないと言われますが、ラグビーはその度合いが圧倒的に高いと言えるでしょう。

さて、試合はオールブラックスが力を発揮し、23対13で南アをくだしました。Player of the Match(いうならば最高殊勲選手)には、オールブラックスの、この日15番(フルバック)を務めたボーデン・バレットが選ばれました。上の写真で、ボールを持って走っている選手です。

まずはロシアに勝てて、ほんとよかった!

2019年9月20日
自分のことでもなんでもないのに、今日は朝からソワソワ落ち着きません。ラグビーW杯の開幕、しかもJAPANの登場ですから、まあ仕方ないかも。持っていくものをリュックに入れるのですが、忘れ物がないかドキドキ。まるで小学生の遠足みたいです(笑)。

 

 

 

 

キックオフは夜7時45分ですが、1時半には家を出て、途中、新宿にある「MEGA SHOP(W杯の公式グッズ販売店)」に立ち寄りました。巨大なウェッブ・エリス・カップ(もちろん模型)が飾ってあり、その前で記念撮影などしてテンションもアップ。あいにくいちばんほしかった物は見つかりませんでしたが、小物を少々買いました。たいした量でもないのに、立派な手提げ袋に入れてくれます。お客は世界中から詰めかけていましたね。近くのデパートで食べ物を買い、京王線で一路飛田給【とびたきゅう】駅まで。まだ、時間が早かったのでそれほど混んでもおらず助かりました。

 

駅からスタジアムまでの道も楽に歩け、荷物検査も難なくパス。食べ物・飲み物はアウトという触れ込みだったのですが、「MEGA SHOP」の買い物袋にさりげなく入れておいたら見つからずに済み、ホッ。食べ物・飲み物の持ち込みを禁じているのは、スタジアム内の“オフィシャルフードショップ”で買いなさいということなのですが、オフィシャルスポンサーとはいえHEINEKENのビールが1杯1000円はないんじゃないかなぁ……。当日プログラムも1部1500円。前々回のニュージーランドでは日本円で800円ほどでしたけどね。でも、買いましたよ。

オープニングセレモニーは光と音による構成で、たいそう凝った内容。ただ、いつも思うのですが、いささか「日本」にこだわり過ぎの感がします。富士山は、大会のシンボルマークにもなっているのでいいかなと思いますが、歌舞伎や太鼓はどうなんでしょう。

   

試合は最終的に30対10で勝ちはしましたが、最初の数分は、「おいおい、大丈夫かよ」と言いたくなるようなプレーばかり。地に足がついていないだけでなく、ボールも手につかず、早々に先制されてしまいました。ただ、それで少しは目が覚めたのでしょう、以後はJAPANらしさを発揮し、4トライ。1試合でトライの数が4を越えるとボーナスポイントといって、勝ち点に「1点」が上乗せされるのですが、これが大きいのです。前回の大会、予選プールでかの対南アフリカ戦も含め3勝したのに、決勝トーナメントに進めなかったのは、勝ち点が南アフリカ、スコットランドに及ばなかったため。JAPANはボーナスポイントがゼロだったのです。

今日の試合は、ハットトリックをやってのけた松島幸太朗に尽きます。JAPANとしてはW杯初の快挙ですから。まあ、何はともあれ、緒戦に勝てたので、このあと大会全体の盛り上がりも期待できるのではないでしょうか。

明日21日は予選プールでは一番の好カード、ニュージーランドvs南アフリカ戦です。

JAPANが本当に強くなるには……

2019年9月19日
たしかに、JAPANのラグビーは強くなりました。とくに、ここ5、6年の進歩には目を見張ります。その要因はさまざま考えられますが、やはり外国人選手の存在が大きいのではないでしょうか。今大会もチーム31人のほぼ半数、15人が外国人です。内訳はニュージーランドが5人、トンガが4人、南アフリカが3人、サモアと韓国、オーストラリアが1人ずつ。なかには日本国籍の選手もいますが、容貌ははっきりそれとわかります。ちなみに、松島幸太朗はいわゆるハーフです。

スポーツで外国人選手といえば、まずはプロ野球でしょう。太平洋戦争前の1リーグ時代から、チームの中核を担い素晴らしい実績を残した選手がいました。ただし、外国人といっても、ハワイやカリフォルニアに移民した日本人の2世、あるいは当時日本の統治下にあった台湾の選手が多かったようです。容貌も外国人というのはハリスだけでした。

ただ、日本のスポーツ界というのは“純血主義”とでもいうのか、その容貌から外国人と分かると一歩距離を置いて見るところがあるようです。その壁を破ったのがJリーグで、1993年にスタートすると、そうした風習は一気に消滅していきます。いまでは大相撲を始め、Bリーグ(バスケットボール)、Vリーグ(バレーボール)、柔道、駅伝など、プロ、アマを問わず、いたるところで、さらに近ごろは高校レベルでも、「留学生」の外国人選手がけっこういます。テニス全米オープンで優勝した大坂ナオミ、NBAでドラフト1位指名された八村塁もハーフですし。

そうした点からすると、いま外国人(の血)がなければ成り立たないのでは? と思われるのが陸上競技とバスケットボールでしょう。とくに陸上短距離は、黒人独特のバネがものを言っているようです。サニブラウン・ハキーム、ケンブリッジ飛鳥、ウォルシュ・ジュリアンなど、国籍は日本でも容貌は外国人(ないしはハーフ)。その外国人と伍して山縣や桐生、小池が走っているのを見ると「立派!」などと思ってしまったりします。

前置きが長くなりましたが、スポーツもいまや「◎国人」とか「?国出身」とか「△国籍」といった壁がどんどん風化しているようです。これだけ多くの日本人が海外に留学・転勤(もちろん、逆もアリ)したりしているのですから当然かもしれません。ラグビーでもそれは同じこと。むしろ、体が大きく技量にもすぐれた彼らがいたおかげで日本のラグビーも大いに力をつけていったのです。

日本のラグビーは外国人が代表に選ばれたのも早かったのです。1987年の第1回W杯のとき(シナリ・)ラトゥとノフォムリの2人が名を連ねていますから。外国人はフィジカルが日本人より数段上だから勝てなくても当たり前という声をよく聞きます。でも、ラグビーについて言うならそれは違うのではないかと、私は思っています。たとえばニュージーランドの選手は、子どものときからラグビーに親しんでいます。しかし、それ以上に強く影響していると思うのは、芝生のグラウンドが数え切れないほどあることでしょう。ラグビーに欠かせないタックル。これは非常に怖い技です。ケガをするのは当たり前というか、かなりの勇気がなければ、全力疾走している相手選手の足もとや腰のまわりに飛び込むなど、できないことです。ケガをしないほうが不思議です。

でも、グラウンドが100%芝で覆われていればどうでしょう。そのリスクは大幅に下がります。衝撃や衝突を恐れない感覚をそれこそ3歳、4歳の頃から身に着ければ、これは有利です。私など高校時代は、ラグビーは土の上でやるものだと思い込んでいました。試合用のグラウンドですら、芝生の「シ」の字もありません。まして、学校のグラウンドは土、そして石、砂利です。その上で「飛び込め~っ!」「倒せ~っ!」と言われても……。

ある日、テレビでニュージーランドやオーストラリアの公園に芝がふんだんい植えられているのを知ったときは、驚きました。しかも「Keep off the grass」などという表示はどこにも見当たりません。「芝生に立ち入らないでください」というのが普通の日本とは真逆です。日常生活の中で、芝生に足を踏み入れる、ましてその上を走り回ったりするなど、とんでもないことと教えられてきたのが私たち日本人。それからすると、ニュージーランドのラグビーが世界一なのは、むしろ当たり前なのかもしれません。フィジカルの前に皮膚感覚そのものが違うのです。ニュージーランドではどこもかしこも、裸足で歩いている男性をよく見かけましたが、そうしたことと関係しているのかもしれません。

私の高校時代、日本代表がニュージーランドに遠征したことがあります。
FWの後川、猿田、堀越、小笠原、井沢、石塚、HBの桂口、BKの横井、尾崎、伊藤、萬谷と、選手の名前がいまでもすらすら出てきますが、その中にいたのが坂田好弘。坂田がオールブラックス・ジュニア相手に4トライをあげて勝ったときは仰天しました。その坂田が「(日本は)ラグビーができる場があまりに少ない」と嘆いているように、強くなるにはそれが一番の近道なのではないかと思います。そうでないと今回W杯が終わったあと、芝生の練習場も競技人口も増えないでしょう。それは、JAPANが強くなるのにまだまだ大変な時間がかかることを意味しています。

まずは頭、次に感性……、そして体全体も。

2019年9月17日

昨日は夜6時から12時近くまでテレビ漬けになってしまいました。第1回の1987(昭和62)年、1991年、1995年のラグビーW杯決勝戦をJスポーツでやっていたからです。第1回大会のメインスポンサーは日本のKDDだったようで、そういえばバブル経済のほぼピークのときだったんだと思い起こしました。スタンドのそこかしこに「富士通」「横河電機」「ワールド」「マツダ」など、日本企業の看板がいくつも見えます。

決勝は地元ニュージーランドvs フランスの対戦でしたが、いまからすると考えられないというか、牧歌的な雰囲気が。試合前のセレモニーも、フランスの選手は、自国の国歌が演奏されているというのに、じっと聞き入るでも声を出して歌うでもなく、円陣を組んだりしています。さすが地元(オークランドのイーデンパーク)の観客はニュージーランド国歌を歌っていましたが、いまのように英語の歌詞に先行するマオリ(先住民)語の部分はなかったことを知りました。

両チームとも、ジャージは襟付き(なかには長袖の選手も)、使用球はおなじみのGILBERTではなくMITRE(イギリスの老舗ブランド)、ルールもいまとはかなり違っており、私のようなオールドファンにとってはかえってなつかしい感じがします。プロ化されていない時代なので、選手も警察官であったり木工職人であったり医者であったり学校の先生であったりなど多種多様。長くアマチュアリズムにこだわり続けていたラグビーらしい話です。企業のロゴが入っていないジャージはすっきりしていますね。

 

 

©Crown Copyright

 

 ©Rugby Wrap Up

 

優勝したのはニュージーランド=オールブラックスでしたが、表彰式はスタンドのロイヤルボックス近く。狭い通路に選手がグラウンドから次々と上がってきて、なんとも気軽な雰囲気の中でウェブ・エリスカップとメダルを授与されます。選手たちは満面に喜びをあらわし、カップを高く掲げていました。グラウンドには興奮した観客が降りてきて拍手したり旗を振ったりしながら大騒ぎ。いまなら考えられないようなシーンです。

私が初めてW杯を観た第2回(1991年)もさほど大差はありません。たまたまイギリスに出張していて、ホテルで朝食を取りながら読んでいた新聞で開催を知りました。「おー、今日カーディフ(ウェールズ)で試合があるじゃないか!」。アポイントメントもなかったので、電車で2時間かけて現地まで行き、当日券を買って入った記憶があります。有名なアームズパーク(その後取り壊されいまはもうない!)のスタンドは空席がけっこう目につきましたし、私の席もほぼハーフウェーラインの位置で前から15、6列目くらい。たしか、日本円で5000円もしなかったのではないでしょうか。

しかし、テレビを観ているうちにまず頭が、次に感性が“ラグビー”に支配されていきます。そして最後は全身が支配されていました。イスにすわりながらも、画面で繰り広げられるプレーに反応し、手や足が勝手に動いてしまうのです。私など高校時代3年間と大学に入って半年ほどしかプレーしていませんが、それでもこの始末ですから、やはりラグビーには強烈な魔力があるとしか言いようがありません。

余談ですが、第3回の決勝には、現在JAPANのヘッドコーチを務めるジェイミー・ジョセフ(当時27歳)がフォワード3列の一人として出場していました。

さてさて、開幕まであと3日! 眠れない夜がこの先6週間続きそうです。詳しくは、9月20日からスタートするエディットハウスの特設サイトをご覧ください。
http://www.edit-house.jp/

 ©sportvilogger.com

「バルト3国」とひとくくりにするのは無理があるかも

2019年7月9日

昨日が今回のツアーも実質最終日。それでもタリンを出るのは午後なので、午前中は家人と二人でゆっくり見て回ることができました。昨日の街歩きでは足を踏み入れなかったエリアを中心に歩きます途中、次から次と、「世界遺産」に指定されている建物と遭遇。これまでタリンは2回訪れたことがあるのですが、町全体の様子がようやくつかめた感じがします。

 

3月に訪れたノルウェーもここからさほど遠くはないものの、雰囲気や香りはまったく異質です。フェリーに乗って1時間も走ってバルト海を渡ればフィンランド。町の看板などを見ると、そこに書かれている言葉はフィンランド語とごく近いことが見て取れますが、空気はビミョーに違います。エストニアはエストニア、フィンランドはフィンランドなのです。バルト3国を「北欧」に含めるのはむずかしいかもしれません。

しかも、南隣のラトヴィア、さらにその南にあるリトアニアと比べても、違いがあり、「バルト3国」とひとくくりにしていいものなのか、にわかに判断できません。ただ、この3国に共通するのは、第2次世界大戦が始まって間もなく旧ソ連の支配下におちいり、戦後もずっとそれが続いたこと。そして、民族の自立が奪われ、文化も抑圧され、言葉さえ奪われてしまったことです。そのことに対する怒りは当然、ずっと燃え続けていたにちがいありません。しかし、その表現のしかたはそれぞれで、最終的には3国すべて旧ソ連の支配からは脱することができましたが、いま歩んでいる道はそれぞれ異なります。そして、これは「3国」をいっぺんに訪れないと見えてこないように感じました。私たちは幸か不幸か、エストニア(といっても首都だけ、それもほんの一部ですが)に2回来ており、ほんの断片しか見ていませんでした。しかし今回、駆け足とはいえ「3国」をいっぺんに訪れ、そうした歴史的背景や文化的な基盤を目の当たりにすることができ、本当によかったと思います。

 

これで、この3国を語るときけっして抜きにできないポーランドを訪れてみると、また別の受け止めもできるように思えます。いつの日にか、ポーランド、さらには、リトアニアと地続きでありながら、いまなおロシアの飛び地になっているカリーニングラード(ケーニヒスベルク)にも足を運んでみたいものです。ケーニヒスベルクは北方十字軍の時代、ドイツ騎士団によって建設された町で、その後長らくプロイセン公国の首都でした。バルト海に面する不凍港として、ロシアはのどから手が出るほど欲かったところだったため、第2次世界大戦が終わるとすぐ、その一部を領有化することに成功し、いまもその状態が続いています。3国を取り囲むどの国も例外なく、ロシアに、ポーランドに、スゥエーデンに、デンマークに、またドイツに長い間影響を受けながらも、独自性を保ってきたことの意味。地続きで国境を接することの意味を改めて考えてみる必要がありそうです。

 

最後に。タリンの空港もコンパクトですが、機能性・利便性にかけてはかなりレベルが高いように感じました。ターミナルビルの真ん前までトラムが来ているのが象徴的。中も明るく広々としています。空港内では利用者ならだれでも、無料のWi-fiが提供されているといいますし、この国で開発されたスカイプ(Skype)のブースが設置されていました。

この空港はACI(国際空港協議会=国際空港の管理者の団体で、179カ国・地域にある1650の空港を運営する580団体が加盟)が毎年実施している「利用客が選ぶ優れた空港」部門で、2018年、ナンバーワンに選ばれた(年間利用客500万以下のカテゴリー)のも納得できる。当然、成田空港のように、ゲートまで行く通路が前面カーペットで覆われているようなこともありません。キャリーケースを引きながら歩く旅行者にとってあれはホント迷惑なんですね。カーペットを敷き詰めていいのは、せいぜいラウンジくらいのものでしょう。空港というのは豪華である必要はまったくありません。使い勝手がよくてナンボなのですから。これからますます発展していきそうなこの空港に、ぜひまた降り立ってみたいものです。

同じ場所も、コースが変わると初めてのよう

2019年7月8日

朝7時過ぎから、添乗員さんと一緒にホテル近くを小1時間散歩しました。「トームペア城」「キーク・イン・デ・キョク・ネイツィルトン」塔の横にある坂を上って下るだけでしたが、上り切ったところで目にした風景を見て、4年前のことを思い出しました。旧市街の中心エリアから客を乗せて30分ほど走る馬車に乗ったとき通った道を横切ったのです。国会議事堂の前を走る通りの手前のところでした。同じ場所でも、どこからどうアプローチするかでまったく印象が違うので、気がつくまで少々時間がかかった次第。日本大使館があるのも初めて知りました。

朝食後の観光も最初は早朝と同じコースをたどります。「アレクサンドル・ネフスキー聖堂」(ロシア正教の教会できらびやか)「大聖堂」(こちらはプロテスタントのため質素な造り)を見て展望台へ。その先は急な坂を下り、「聖ニコラス教会」を経て旧市庁舎のるラエコヤ広場へ。4年前のときと違い、今日は広場が小さなテントで埋め尽くされていました。衣料品や民芸品、アクセサリーや小物、お土産品など、40近くあったでしょうか。

     

  

今日のランチは事前に用意されておらず、「自由」。ただ、ヴィリニュスでもそうでしたが、参加者のほとんどは知識がないので、ほとんどが添乗員さんの教えてくれる店に行くことになり、結果としては通常と同じスタイルになります。

この日は広場近くの“中世料理”を食べさせる店とのこと。「中世」とくれば、たぶんジビエっぽい感じでしょう。こちらに来てからずーっと“肉攻め”にあっていたので、現地ガイドの女性に「どこか、近くに中華のお店はないですか?」と聞いてみました。すると。「あるにはありますけど、ちょっとお勧めできません」とのこと。しかたなく、とりあえず添乗員さんについて行ってみると、広場の裏手にある「Olde Hansa」という店でした。

店構えは、いかにも“中世”っぽい感じで、前を通れば「おやっ」となるような店ではあります。しかし、中に入るともっとリアルな“中世”で、照明はすべてロウソク。テーブルやイスも分厚い木で造られていて、ギシギシいう階段を上がり2階へ。ちょっと……という感じがしたので、席に着く前にリタイアを宣言、店を出ました。これといってアテがあるわけではなかったのですが、4年前に入ったカフェを思い出し、そちらに行きました。小さな店ですが、幸い混み合ってもおらず、オープンサンドとサラダ、カプチーノで済ませることに。肉、肉、肉でかなり疲れていたので、ライトな量がころあいでした。デザートのカプチーノ・ケーキも、ほどよい甘さ。

 

午後はバスで15分ほど走り「野外博物館」へ。海っぷちの森の中にある施設なのですが、とてもよくできており、ひと回りすると当地の人々が昔どのように暮らしていたのかがよく分かるというコンセプト。農家、漁師の家、風車、学校、教会などが点在する中を1時間ほどかけてゆっくり歩きます。どの建物も単に保存されているだけでなく、それっぽい服装をした係員が中におり、いまもそこで誰かが暮らしているかのような感じがします。木々の中を縫うようにして整備された遊歩道も広く、フィトンチッドが目に見えてるよう。日本で夏の真昼にこんなところを歩けば汗びっしょりでしょうが、最高気温が20℃にも行かない今日のタリンでは、そんな目に遭うこともありません。

 

圧巻のひと言! 「歌と踊りの祭典」

2019年7月7日

朝7時半にパルヌの町を出発、バスに2時間半ほど揺られ、3カ国目エストニアの首都タリンにやってきました。途中、小雨が降り出し霧が出てきたときはホント心配になりましたが、到着したときはすっかり雲が消え青空が。午前中は、旅行会社が用意してくれた、今回の目玉「歌と踊りの祭典」の「踊り」部門の出演者と交流するプログラム。会場は、さすが4つ星ホテル、ゴージャスなヒルトンです。

 

「歌の祭典」は1869年に始まり、そのときはオーケストラと合唱団が合わせて51、参加者は845人だったといいます。1934年から「踊りの祭典」が加わり、その後は不定期開催。それが5年に1回」となったのは1990年(第22回)から。ベルリンの壁が崩壊したその前年、エストニア、ラトヴィア、リトアニアの「バルト3国」では、「独立」の波がいやおうなしに高まります。そして、旧ソ連から「独立を回復」したのが翌1991年8月でした。

エストニアでは、「歌」は、それぞれの人生にとって、また社会全体にとって、とてつもなく重い意味があるようです。”singing revolution”=「歌う革命」によって、この国の人々はラトヴィア、リトアニアとともに、旧ソ連から自由を勝ち取りました。エストニアでは一滴の血も流されなかったといいます。

映像や写真で見るのと違い、各人が身に着けている民族衣装の素晴らしいこと。デザイン的にはごくシンプルなのですが、どの人の衣装も、それぞれの出身地域や出自が反映されているそうで、強い印象を与えます。女性のスカートのストライプ、ブラウスの形や模様、柄、またベストのデザインや色合い、スタイルによって、その人がどの地域の出身なのか、即座に分かるとのことでした。

私たちの質問にうれしそうに、また丁寧に答えてくださる様子から、5年に1回開かれるという今回の祭典に対する並々ならぬ思い入れが感じられました。現地ガイドの女性の日本語ははなはだつたないものでしたが、それでも出演者の気持ちはひしひし伝わってきました。東京オリンピックに出場する選手以上の熱さとでもいいますか。エストニアの人たちにとってこの祭典に出場するのはなんとも誇り高いことなのでしょう。

ヒルトンホテルを出て、旧市街の中心部「ラエコヤ広場」近くにある老舗レストランで昼食。大きな店とあって、私たちのテーブルに17人、すぐ隣にはおよそ40人、後ろにも40人、さらに別室にも20~30人ほどの団体が。しかも、すべて日本人です。少なく見積もっても100人近くの人が日本からやって来ているのですね。一瞬、ここは日本か? と錯覚しそうになりました。

ランチを済ませるとバスに乗り、郊外にある「歌の広場」へ。周辺は人、人、人、車、車、車、バス、バス、バスで、道路は大渋滞。会場に入っても、人であふれ返っていました。私たちの一行は1等席、しかもイスにすわって聴けるとのこと。地元の人は皆、芝生の上にそのまますわっています。家族連れ、カップル、出演者の近親者とおぼしき人たち、外国から帰国してきたエストニア人など、それこそ千差万別。その数合わせて、なんと9万人以上だそうです。そのうち出演者が3万5千人といいますから、それも当然かも。エストニアの全人口は140万足らずであることを考えると、とてつもないイベントであることがわかるでしょう。

何よりも、こういう場所があることにまず驚きました。会場に奥に設けられている野外ステージも度肝を抜く大きさ。少年少女たちによる合唱のときはなんと7000人近くの人(+オーケストラ)が上がるというのですから、想像してみてください。これだけの人数の歌声を──しかも合唱ですよ!──ひとまとめにすること自体、至難の業でしょう。ステージの橋に立つ少年少女から指揮者の動きを見るのも大変そうですし。

開会時間の午後2時ちょうどに到着したのですが、現地ガイドの不手際というか、事前のリサーチ不足というか、入り口を間違えたようです。結局、席にすわるまで30分以上も、人ごみの中を歩かされたのは残念でしたが、ステージには数百人から数千人の歌い手が入れ代わり立ち代わり上がってきます。そして、15分ほど歌い次の演目にという流れなのですが、歌によっては、聴衆のほうも一緒に歌ったり手拍子を送ったりと、言葉では表現できない一体感が伝わってきました。なかには、全員が口ずさんでいる曲もあり、ひょっとすると国歌かと思いきや、実際は違ったりします。それにしても、これだけの人数がそろってアカペラで歌える曲がいくつもあるというのも大きな驚き。日本にそういう曲があるのかなぁとふと考えたのですが、『ふるさと』くらしか思い浮かびません。それだって、1番はともかく、2番、3番となると、ソラで歌詞が出てくるかあやしいものでしょう。

 

私たちが会場にいられるのは午後5時半まで。それから夕食を済ませホテルに戻ったのは8時を回っていましたが、テレビのスイッチを入れるとまだ中継が流れていました。結局終わったのは10時を回っており、なんと8時間以上も続いていたことになります。しかも、朝からずっとCMなしで中継していたようですから、これもまたすごい! その夜遅く、EURONEWSのニュースでも報じられていましたので、ご参考までに。
https://www.euronews.com/2019/07/08/tens-of-thousands-of-estonians-perform-mass-folk-singing

日本語にチョー堪能な現地ガイドにびっくり!

2019年7月6日

リーガには1泊しかしません。旅行会社のスケジュールによると、今日の午前中は旧市街を歩いて回るだけ。1890年から1910年ごろに造られた新市街に足を踏み入れる予定はなし。それでは……と思い、朝早めに起き、新市街のユーゲントシュティール(アール・ヌーヴォー)建築が集中して建つエリアにひとりで行ってみました。ホテルからは歩いても10分足らずのアルベルタ通り、エリザベテス通り一帯には、これでもかというくらいそれ風の優雅な建物が。ミハイル・エイゼンシュタインの作品がズラリと並び、ほとんど野外美術館の様相を呈していました。

一つひとつの建物にそれぞれ趣向の異なる飾りがほどこされ、見ていても飽きません。つい数か月前に訪れたノルウェーの町オーレスンでもいくつか目にしたものの、質量とも圧倒的に凌駕しています。また、フランスのナンシーほど、道路の幅が広くないので、印象も強烈。もちろん、総本山的な存在であるブリュッセルにはかないませんが。

 

旧市街を歩いて回る観光をリードしてくれたラトヴィア人のガイド(ウギス・ナステビッチさん)は秀逸な方でした。日本語のうまさ・おもしろさもさることながら、話の内容が深いのです。聞けば、日本の神道を研究するために留学していたとのこと。大学の卒業論文も、ラトヴィア神道と日本神道との関係がテーマだったといいます。「ラトヴィア神道」とは、先にも触れましたが、この地の人々に古くから伝わる自然信仰のこと。日本と同じような“神社”の様式や“巫女【みこ】”の舞いを映像で見ると、ビックリ、日本そのものと言ってもおかしくありません。
https://ameblo.jp/toshi-atm-yamato/entry-12444314597.html
www.youtube.com/watch?v=ftzrNKJMSho

ウギスさんの本業は研究者らしく、いまでもたびたび日本を訪れ、さまざまな活動をしているようです。You Tubeにもこんな映像があがっていました。
https://www.youtube.com/watch?v=AUyw4QiJ0VQ
ネットに出ていた略歴には次のようなことが書かれています。
高校時代に独学で日本語を学び始め、日本語弁論大会で優勝。2007年の夏、さらに日本語力を磨こうと初訪日。日本では写真に打ち込み、なかでも人物写真と空撮に熱を入れる。現在はリーガに住み、写真家のかたわら、大学の日本語講師、翻訳家、通訳案内士として日本とラトヴィアの交流活動を展開中。
著書に『ラトヴィアに神道あり』など。修士論文のテーマは『日本神道とラトヴィア神道の神典における徳育体系』。映画『ルッチと宜江』(2016)『ふたりの旅路』(2017)他で通訳を担当。

どうりで日本語が上手で、話の内容も深いわけです。衣服や帽子などに見られる独特の模様も実は、古き時代のラトヴィア神道に由来するものが多いのだとか。しかも、よく見てみると、琉球(沖縄)人、さらにはアイヌ民族に伝わるそれとよく似た感じも。世界がどこでどうつながっているかわからない不思議さを学んだ気がします。

旧市街には、第2次世界大戦のさ中、空襲から逃れようとする市民たちのために急遽作られた「避難指示」標識(左向きの矢印)の跡もあれば、キリスト教が広まる前に信仰されていた神道由来の石像など、長い歴史を象徴するさまざまな事物が。旧ソ連から独立を回復するきっかけとなったバルト3国の“人間の鎖”のスタート地点を示す足跡のモニュメント、「自由記念碑」など、少し歩くだけで1000年近い歴史を体感することができ、興味は尽きません。

            

ステンドグラスが美しい「大聖堂」の中は広い回廊になっています。そこには古くから使われていた事物が展示されており、不思議なことに、日本の神社で目にする狛犬【こまいぬ】を思わせるような石像も。たまたま催されていたパイプオルガンのコンサート(30分間)も楽しむことができ、ラッキーでした。

ランチを終え、バスは一路エストニア屈指の保養地パルヌへ。港湾都市であると同時に観光都市でもあり、国内だけでなくフィンランドなどからも多くの観光客も訪れているようです。18世紀の大北方戦争(1700~21)によってロシアの統治下に入ってから、貴族たちのリゾート地としての開発が進められたとのこと。たしかに、町のそこかしこでキリル文字を目にしますし、ロシア正教の教会もありました。

ただ、リーガを出たのは今日の午後で、しかも明日も早朝出発ですから、ここでは寝るだけ。町にはさまざまな歴史もあるそうですし、家並みも面白いと聞いていたのでとてももったいない気がするのですが、このあたりがツアーの泣き所と言えるかもしれません。せめてバルト海に沈む夕日が見える、波の音が聞こえてくるとかいうのならまだ救いもありますが、それもナシ。宿泊するだけなら、もう少し気の利いたところがあるのではないかと思ったりもします。

夕食を食べに行ったのはロシア貴族のかつての別荘。いまではホテルとしても使われているようですが、広い敷地の中に建ち、素晴らしい庭園も備えた贅沢な店でした。ここまでは行かなくとも、周囲にはそのミニチュアのようなかつての別荘がいくつも立ち並んでいました。

 

 

   

ホテルに戻りテレビのスイッチを入れると、日中タリンの街中でおこなわれていた「歌と踊りの祭典」出演者(+家族・友人や関係者も?)によるパレードの模様が報じられていました。すると、日本から来ている参加者の姿が! 国内だけでなく、エストニアとつながりのある海外の国や町からも来ているようです。ネットで調べてみると、日本からやってきている一団はどうやら和歌山の児童合唱団のよう、昨年8月、エストニアラジオ放送少女合唱団が和歌山市内で開催された「国際児童合唱フェスティバル」に出演したのだとか。そうした縁があったのかもしれません。そういえば、去年の夏から秋にかけて、エストニアの合唱団が全国各地で公演していたような記憶がうっすらよみがえってきました。

カウナスで“日本のシンドラー”杉原千畝に思いを馳せる

2019年7月5日

朝食を済ませると、私たちを乗せたバスはヴィリニュスをあとにし、一路北に向けて走ります。まず立ち寄ったのが「聖ペテロ&パウロ教会」。雨が降り始めましたが、バスが駐車した場所からすぐ近いので、ほとんど濡れずに済みました。内部は、白漆喰【しっくい】の彫刻が壁から天井からびっしり覆い尽くしています。教会というと薄暗く、金や銀をふんだんに凝らした内装、天井画、ほこりっぽい感じの旗やカーテンが目につくところが多い中、内部がとても明るいこの教会は印象的です。この地域の人たちに共通する清楚さを象徴しているかのようです。

 

次の訪問地はカウナス。“日本のシンドラー”とも呼ばれる、かの杉原千畝【ちうね】で有名な町です。ヴィリニュスに次いで人口の多いカウナスですが、1920年ヴィリニュスがポーランドに占領(のちに併合)されてしまったため、臨時の首都になり、領事館が置かれたとのこと。そこへ杉原が領事代理として赴任したのは1939年8月28日。ドイツのポーランド侵攻により第2次世界大戦が始まるわずか3日前のことです。

日本の大使館は当時、憲法上の首都ヴィリニュスに置かれていました。ただ、実質的にはカウナスの領事館がその役割を果たしていたようです。ドイツの占領下にあったポーランドからリトアニアに逃げてきた多くのユダヤ系難民に、日本(この時代は大日本帝国)がビザを発給するようになったのもそのためです。

 

 

当時リトアニアを占領していたソ連は、同国に大使館・公使館・領事館の閉鎖を各国に求めていました。そうした中、まだ業務を続けていた日本領事館にユダヤ人難民たちがビザの発給を求めて殺到する事態になったのです。日本の発給したビザがあれば、シベリア鉄道でソ連を横断しハバロフスクまで行き、そこから日本海を船で渡り横浜、神戸、敦賀など日本まで行けます。その先は、希望する国に移動することができたからです。ユダヤ人難民の多くは、カリブ海にあるオランダ領キュラソー、スリナム、アンティルなどを名目上の行き先にし、日本の通過ビザを発給するよう求めたのです。

それは1940年7月18日から、杉原がカウナスを去る8月31日まで続いたそうです。その間、杉原がサインしたビザの発行枚数は2000を越え、それによって国外に出て難を逃れたユダヤ人の数は6000とも8000とも言われています。のちに“命のビザ”として称賛されたのも当然のことで、杉原は「諸国民の中の正義の人(正義の異邦人)」(=ナチス・ドイツによるホロコーストからみずからの生命の危険を冒してまでユダヤ人を守った非ユダヤ人であることを示す称号)を授与されています。全世界で2万6千人余いる中で、杉原はただ一人の日本人です。

そうした歴史的事実にちなみ、2000年に作られた「杉原記念館」を訪れました。閑静な住宅街の一角に建つかつての領事館兼住居をそのまま記念館にしたものです。当時、杉原よりひと足早く同じことをしていたオランダ領事ヤン・ズヴァルテンディクがそれ以前勤務していたフィリップス社の財政的なバックアップもあり、この記念館は維持されているようです。

中に入ると、最初ビデオを見ることになっており、それで事の次第がはっきり見えます。1階に当時の執務室がそのままの状態で保存され、2階はさまざまな展示が。執務机に向かって座り写真など撮ってもらいましたが、とてもにこにこ笑ってなどいられません。

 

杉原は岐阜県の八百津(やおつ)町の出身だそうですが、カウナスと姉妹提携を結んでいる都市が世界に15ある中には含まれていません。地元には杉原を顕彰する「杉原千畝記念館」「人道の丘公園」という施設があるのに、なんとも不思議ではあります。

記念館が建つ周辺は当時そのままとおぼしき建物がいくつか残っており、その姿を見ていると、杉原やその妻子も80年前、このあたりをきっと歩いたこともあるのだろうなぁと、感慨にとらわれました。

杉原記念館の見学を終え、カウナス市内で昼食。落ち着いた中に、長い歴史と現代感覚が感じられる町で、強い印象を受けました。食事をいただいた店は昔そのままといった雰囲気。

カウナスを発ち、バスは隣国ラトヴィアの首都リーガをめざします。途中「十字架の丘」という観光名所を訪れました。リーガまでの間、立ち寄るに値するスポットはここくらいしかないようです。この間の道のりはほとんど北海道! 右を見ても左を見ても、山がないせいかずーっと畑が続いています。ときおり森や林があるにはありますが、キホン真っ平ですから、心地よく走るバスの座席でうとうとしていてハッと目が覚めたとき外を見ると、一瞬錯覚してしまうほど、北海道の風景によく似ています。

 

 

それにしても、雨が降らずに何よりでした。「十字架の丘」までは駐車場から15分ほど歩いていくのですが、まわりは何も立っていない原っぱのような場所です。この日は風もかなり強く、そこに雨でも降られたら、大変なことになっていたでしょう。十字架の丘を出てしばらく走るとラトヴィアとの国境です。かつては厳しい出入国チェックがおこなわれていたであろう検問所も、いまではカフェやガソリンスタンドがあるのどかな雰囲気。こういう場を実際に通ると、検問が厳しかった時代はさぞかし重苦しい雰囲気がただよっていたのでしょう。それに比べるといまのこの明るさは……といった感じです。しばらく走ると、空に大きな虹が! リーガの町が近づいてくると、この町でいちばん高い建造物=テレビ塔が見えてきました。

 

 

町に入ると、リトアニアの隣国であるにもかかわらず、町の雰囲気が一変した印象を受けます。同じく「旧市街」と呼ばれるエリアがあるのですが、とても洗練されているのです。リトアニアのヴィリニュスが内陸の町であるのに対し、こちらは港町なので開放的というか、商業・ビジネスと縁が深かったのでしょう。

バルト3国はもともと“異教の地”で、なかでもラトヴィアは自然信仰が強い地域だったようです。12世紀に入ると、その一帯にもキリスト教を広めようと、デンマーク、スウェーデン、ポーランド、ドイツ騎士団などによって作られた北方十字軍は先住民に対し情け容赦なく振る舞ったといいます。そのためキリスト教徒は最初のうち、悪者としか思われていなかったとのこと。しかし、信仰心そのものは篤かったのでしょう、ひとたび帰依するとその信仰は深く、そこいらじゅうに教会を建てたようです。

 

その教会の合い間合い間に洒落た建物が立ち並び、行き交う人々やカフェで談笑している人たちの顔を見ても、いきいきとした表情。そんな旧市街を出てすぐ、新市街とのほぼ境界あたりに、今日泊まるホテルがありました。その名も「Grand “Poet” Hotel by Semarah」というところを見ると、その昔、著名な詩人が泊まったりしたのでしょうか。と思って調べてみたのですが、要は建物だけが古く、その内部をリノベーションして Semarah という会社が昨年オープンさせたばかりのデザインホテルのようです。

まあ、それはそれとして、ロケーションは最高。前と後ろがともに大きな公園で、「国立劇場」や「博物館」「自由記念碑」といったスポットのすぐ近く。町の中心部から歩いても30分はかからないくらいなのに、空気も澄み切っていて、都会の喧騒とはほとんど無縁といった感じがします。ただ、団体で泊まるツアーの客にさほどよい部屋が供されるはずもないわけで、私たちの部屋も外側の景色は一切見られませんでした。

 

そこかしこに教会が建つ世界遺産の街・ヴィリニュス

 

2019年7月4日

朝、正規の街歩き観光の前、添乗員さんが「よかったらご一緒に少し散歩しませんか」という声をかけてくださり、一も二もなく参加。ホテルから歩いて15分ほどのところにあるマーケットまで行きます。夏とはいえ、朝7時を過ぎたばかりですから、少し肌寒い感じも。マーケットの中はまだそれほど人が来ておらず、ゆっくり見て回ることができました。新聞・雑誌を売っているコーナーをのぞくと、リトアニア語のものに混じってロシア語版もけっこうあることに気づき、驚きます。独立を回復してから30年近くたっているのに、ですね。

そこから、昼間は観光客で混雑するという「夜明けの門」に。祈りをささげる人が朝早くから訪れています。すぐ近くには「聖テレサ教会」「精霊教会」「聖三位【さんみ】一体教会」「聖カジミエル教会」など、名だたる教会がいくつも立ち並んでいました。私たちのホテルの真ん前には「ロシア正教教会」、裏手には「聖ヨハネ教会」……と、右を見ても左を見てもとにかく教会だらけ。尖【とが】ったアーチが特徴のゴシック様式ではないので、どれも皆まろやかな印象を与えます。

 

午前中は旧市街を本格的に歩きます。「旧市庁舎」を手始めに、再び「夜明けの門」、「ヴィリニュス大学」「ゲディミナス城」「王宮」「大聖堂」「大統領官邸」など、さほど広くもないエリアでしたが、見どころは多々あります。それにしても、教会の多さには驚くばかり。なにせ、大学の中にも教会があるのですから。

  

街歩きはさらに続きます。ヴィリニュスではごく珍しいゴシック様式で建てられている「聖アンナ教会」は息を呑むほど新鮮。その隣に建つ「ベルナルディン教会」のファサードがのっぺりしているので、その鋭角的なたたずまいがよけい強調されて見えます。

 

2つの教会の先に、都心とは思えない渓流が。そこに架かる橋を渡ると、なんとも不思議な空間がありました。その名も「ウジュピス共和国」。長らく橋が架けられていなかったため、古い時代の雰囲気がそのまま残っています。ジョークで「独立共和国」を名乗っているのが面白いですね。

食食後、旧市街からバスで40分ほど走ったところにある古都トゥラカイへ。長らく放置され荒廃していたのが整備された古城が湖に映える美しいところです。城があるのは湖に浮かぶ小島。そこに渡る木製の橋が情緒たっぷり。湖水もほとんど透明で、水鳥がのんびりと泳いでいました。

 

 

 

 

 

トゥラカイから戻ると夕食まで休憩。それでも休憩できないのが私。旅先でボーッとしていることなど、できないのです。そこで、夕方から私ひとりで、旧市街でも別のエリアを探検してみることに。ステポノ通りといういちばんにぎやかな通りを歩きました。アール・ヌーヴォーの建物がけっこう目につくのが印象的でした。これも、旧市街が世界遺産に指定されている所以でしょう。

ただ、どの都市もそうですが、石畳の道なので、長く歩くと疲れてきます。それを忘れさせてくれるのが、町を行き交う人たちの生き生きとした笑顔。さすが首都の目抜き通りといった感じがします。若い人たちは夢と希望にあふれているせいか、だれもがいい笑顔を見せていました。

 

鉄道駅のようなヴィリニュスの空港

2019年7月3日

成田を11時過ぎに出発、途中フィンランドのヘルシンキで乗り継ぎ、リトアニアの首都ヴィリニュスの空港に降り立ったのは午後6時過ぎでした。さすがここまで来るとやはり北国、気温も、16℃という機長のアナウンスにもあったように、日本に比べるとかなり低め。半袖シャツ1枚では少し寒いくらいです。といっても夏ですから、それほどこたえはしませんが。

空港の規模は、日本の地方空港、そう、最近利用したところでいうと鳥取とか秋田あたりの感じでしょうか。内部も、空港とは思えないようなゆるりとしたしつらえが見られます。それでも、一国の首都ですから、出発・到着を示す案内ボードを見ても、イスタンブール、アムステルダム、ロンドン、パリ、ウィーン、バルセロナなど、国際線もかなり行き来しているようです。全体としてこじんまりした感じ、それ故タイト。外に出て空港ビルを見ると、ほとんど鉄道の駅のような印象を受けます。屋根の上から、四方がガラス張りの塔めいた部分がちょこんと飛び出ているのですが、これがひょっとして管制塔なのかもしれません。

ホテルまではバスで10分少々。最初は畑と森でしたが、途中からだんだん都会らしい雰囲気に。といっても、ビルはあまり見かけません。高い建物といえば教会くらいでしょうか、その数の多さには驚きます。同じバルト海に面しているスカンジナヴィア諸国やドイツと比べても、かなり多いのではないかという気がします。ホテル到着は夜の8時前。この時期のヨーロッパはどこでもそうですが、時刻のわりに太陽の位置がまだ高いので、時計を見ると驚きます。今日の日の入りは夜10時少々前だそうです。

インド大使館でおこなわれた「インド舞踊の会」

2019年4月29日
とりたててガンディーを尊敬しているわけではないのですが、今年は「生誕150年」ということもあって、インド関連のイベントには皆それが謳われているようです。今日は家人の友だちが主宰しているインド舞踊教室が大使館で発表会をするというのでお供してきたのですが、そこでも入口にはガンディーの有名な写真がパネルにして飾られていました。

その昔インド大使館は高田馬場にあったように記憶しているのですが、いつの間にか、皇居にも近い九段下に移転してきたようです。それも立派なビルになっていて驚きました。正確に言うと、大使館は昔からいまの場所にあったようで、高田馬場に合ったのは大使公邸だったみたいです。

さて、その中にある小さなホールが今日の会場。インド舞踊というと、映画でよく見る集団踊りのようなものをイメージしてしまうのですが、今日は違います。2~5、6人くらいの、比較的スローテンポの踊り。独特のメイクと衣装が印象的です。楽器も、あまり見たことのないものばかりで、独特のメロディーに合わせ、優雅な踊りが次々と披露されていました。

昨年から今年にかけて、ヨーロッパのメジャーなテレビ局では「Incredible India」というキャッチコピーのCMを盛んに流していましたが、大使館の建物にも、同じ文字を刷り込んだ大きなポスターが。インドはやはり“信じられない(ほどの不思議さを秘めた)”国なのでしょう。

カレーライスも“インドの叡智”

2019年4月20日
私も含め日本人が大好きなカレーライス。そのルーツがインドというのは、どなたもご存じのことでしょう。東京都心の神田神保町を中心としたエリアには、いまや500軒を越えるカレーライスの店があるのだとか。毎年11月に開催される「神田カレーグランプリ」も年を追うごとに参加者が増えているといいます。

といって、神田神保町とインドとの間に深いつながりがあるわけではありません。この一帯が昔から学生街だったことでカレーの店が増えたと言われています。手軽で安く食べられるのは、ふところのさびしい学生にとって最大の魅力だからです。

その日本で初めて本場インド流のカレーを提供したのは新宿中村屋だそうです。そう、寺山修司がその昔、「週刊プレイボーイ」の人生相談を担当していたとき、自殺したいという男性に、「君は新宿中村屋のカリーを食べたことがあるか? なければ食べてからもう一度相談しなさい」と答えたという、中村屋のカリーです。

中村屋が新宿にレストランをオープンしたのは1927年。そのときのメニューに登場したのが「純印度式カリー」でした。その当時、カレーはすでに広く食べられていましたが、それはあくまで欧州式、正確には英国式のもの。インドの宗主国だったイギリスが、現地のスパイスを小麦粉と一緒に使いシチュー風のカレーを国内に広めたのですが、そのレシピを日本人が持ち帰り、日本人好みのアレンジをほどこしたものです。

しかし、インド人からしてみると、それは本来のカレーとはほど遠いものでした。「東京のカレー・ライス、うまいのないナ。油が悪くてウドン粉ばかりで、胸ムカムカする。~略~カラければカレーと思つてゐるらしいの大變間違ひ。~略~安いカレー・ライスはバタアを使はないでしョ、だからマヅくて食へない」(中村屋ウェブサイト)と嘆いたのが、インド独立運動の志士ラース・ビハーリー・ボース(1886~1945)。 ボースは1912年、独立運動の中でイギリスのハーディング総督に爆弾を投げつけたカドでイギリス政府に追われ、15年に日本に亡命します。日英同盟を結んでいた日本政府はボースに国外退去命令を出しましたが、そのときボースをかくまったのが中村屋の創始者・相馬愛蔵。逃避行を続けるボースを支えたのが相馬の娘で、二人はやがて結婚しました。

その後、“無罪放免”となったボースは日本に帰化、中村屋の役員に。そして、相馬が新宿にレストランを開くとき、メニューに「純印度式カリー」を取り入れたのです。最初はその味を敬遠する日本人も多かったようですが、ひとたび慣れ始めると大好評を博するように。このころ町の洋食屋のカレーが10~12銭だったのに対し、中村屋のカリーは80銭しましたが、飛ぶように売れたそうです。

ボースは同じくインドの独立をめざして活動していたマハトマ・ガンディーとは考え方を異にしていたため別々の道を歩み、1945年、独立を見届けることなくこの世を去りますが、その伝記『アジアのめざめ─印度志士ビハリ・ボースと日本─』(相馬黒光【こっこう】・相馬安雄共著 1953)に今日出会いました。場所は文京区・本駒込の東洋文庫。たまたま見に行った「マハトマ・ガンディー生誕150周年記念 インドの叡智展」に展示されていたのです。

  

ひょんなことでひょんな知識が得られるのは大きな喜びですが、これもその一例。まして好きなカレーにまつわる話ですから、テンションは大いに上がりました。ちなみに、ボースの腹心として活動していたのが、同じ時期に京都大学に留学中のA・M・ナイル(1905~1990)で、ナイルは1949年、東京・銀座に日本初のインド料理店「ナイルレストラン」を開業しています。

帰り道、家人の案内で、“日本一ショートケーキがおいしい”という「フレンチパウンドハウス 大和郷店」に立ち寄ったのも利いたかもしれません。店名に見える「大和郷(やまとむら)」という言葉のいわれも深いものがあるようです。大和郷はいまは文京区本駒込六丁目になっていますが、都内でも屈指の高級住宅街のこと。場所は六義園【りくぎえん】のすぐ近く。六義園は、もともと加賀藩の下屋敷を幕府側用人【そばようにん】の柳澤吉保が拝領したあとに造らせた庭園です。吉保は隠居後もそのまま住み続ける一方、柳澤家が大和郡山へ転封となったため「大和」の名が残ったといいます。

明治に入り六義園も新政府に返上されましたが、それを購入したのが旧三菱財閥の祖・岩崎彌太郎。彌太郎は六義園の修築に力を入れるとともに、周辺の土地も購入し、その一角に別宅も構えたそうです。 その後、三菱の3代目・岩崎久彌が1922年、それらの土地を「大和郷」として分譲し、近代的住宅地として造成したといいます。三菱の関係者はもちろん、第24代首相・加藤孝明、第25・28代首相・若槻礼次郎、第44代首相・幣原喜重郎【しではらきじゅうろう】と、歴代首相が3人も住んでいたことでも知られています。