神様ダン・カーターのプレーを目の前で!

2018年9月14日
これまでなかなか観る機会がなかったラグビーのトップリーグ。ホント久しぶりに観戦しました。それもこれも、ダン・カーター見たさです。2018-19シーズンは神戸製鋼に加入し、今日のサントリー戦に先発出場したのです。

ダン・カーターは2011年のW杯でニュージーランド代表の一員に選ばれたものの、大会が始まってからの練習中にケガをしたため、結局試合には出ずじまい。本当なら、私が観た日本との試合(9月16日、ワイカト・スタジアム)でそのプレーを目にできるはずだったのですが、それはかないませんでした。もっとも、ダン・カーター抜きでもニュージーランドの強さはいささかも揺るがず、この試合の日本代表は前半に6トライ、後半に7トライを献上、7-83の惨敗を喫してしまいました。

それから7年。もちろん、この間におこなわれた前回(2015年)のW杯@イングランドにはハーフのポジションで活躍、チーム史上初の連覇に貢献しています。大会のあと代表から引退、フランスのプロリーグ「トップ14」のラシン92に移りました。 そのカーターのプレーがようやく、それも日本で観られるのですから、放ってはおけません。

今日はナイターで秩父宮。観衆の数もいつもより5割増しといった印象です。しなやかな体の動きは素晴らしく、無駄がありません。一つのプレーを終えると、かならず次のプレーに備えたポジショニングを怠ることなく、「ここにいれば……」と私たちが思ったところに、いる、のです! それも、適切なスピード、適切な体の構え。これには観衆も感動したのではないでしょうか。

「藝祭」のおみこしパレード。フツーの中に輝くアートが…

2018年9月7日
去年のいまごろ、たまたまテレビで知った「藝大祭」。そのとき、「中長期スケジュール」に書き込んでおいたのですが、いよいよ今日から始まりました。何せ東京藝術大学の学生たちですから、10年、20年経ったとき、世界的なアーティストになっていないともかぎりません。その卵たちが、自由な発想で取り組むパフォーマンスの一つが初日のメイン行事=「おみこしパレード」です。

学部とか学科の枠を超え、いくつかの専攻課程を組み合わせてチームを作り、それぞれが音とヴィジュアルの技・センスを自由に表現するおみこし行列。キャンパスから上野公園まで練り歩いてきて、最後は国立博物館前の広場でパフォーマンスを繰り広げます。「あふれる歓喜と魅力。そして少しの狂気」が今年の「藝祭」の趣旨でもあるようで、その意味では期待が持てます。

その前に一度、東京文化会館裏あたりでパレードを止め、気勢を上げる場面があります。ブラジルのカーニバル風というか、サンバのリズムに合わせて各チームのメンバーが叫び踊るのですが、20代前半の人たちばかりとあって、そのエネルギーはハンパではありません。とんでもなく重いおみこしを藝大のキャンパスからかついできて疲労困憊しているのに、それをまったく感じさせないのがいいですね。

 

 

 

そこで元気をつけると、最後の行進に入り、広場の前でそれぞれ所定の場所におみこしを置いてスタンバイ。あとは順番にパフォーマンスを披露するという流れです。たとえば、絵画科(日本画専攻)と建築科、音楽環境創造科、指揮科の4つの学生が組み合わさるとどんなものが出てくるのか──芸術には門外漢の私には想像もつきません。そこにこのイベントの面白さがありそうです。

長岡で「北前船寄港地フォーラム」

2018年9月1日
「北前船寄港地フォーラム」参加のため、一昨日から新潟県長岡市を訪れています。10年以上前に一度来たことがありますが、そのときは数時間の滞在。いかにも地方の城下町らしい、どこかおっとりした風情を感じたものの、それは上っ面を撫でただけの印象かもしれません。

今回は2泊3日ですから、じっくり雰囲気を味わうことができました。「フォーラム」のほうは、回を重ねるごとに本格化し、それと比例するかのように、観光ビジネスの振興といった面も強く感じられるようになってきました。回によってはアカデミックな匂いが濃厚なときもあります。登壇者もほぼ全員、パワーポイントを駆使しながらのレポートであったり主張であったり発表であったりで、途中、息を抜くいとまもありません。そうした意味では、間違いなく進化していると言えます。

ただ、それだからいいのかとなると話は別。開催地の人々の素朴な思いは前に出てきにくくなりますし、生々しい息遣いも以前に比べ希薄になりました。取材にたずさわっている私の作業も、フォーラムのテーマや内容がすっきり整理されているのは助かりますが、その実現に向けて何カ月もの間あちこち走り回ってきた人たちの気持ちのありようまではつかめないのです。こうなると、”行間を読む“というか、関係者から裏側の状況を幅広く拾い集めていく以外ありません。人は誰でもそうでしょうが、メークやドレスアップをほどこす前の素顔やふだん着の姿にこそ、本当の気持ち・意識が見え隠れするからです。

 

8月30日の前夜祭、翌31日のフォーラムとレセプションを終えた今日はエクスカーションです。バスに乗って、かつて北前船が立ち寄ったことで栄えた港町・寺泊【てらどまり】が最初の訪問地。まっすぐ続く砂浜はいまきれいに整備され、その横を走る道路に面して海産物やさまざまなお土産などを売る店がびっしり並んでいます。それを見下ろす丘に建つ寺院や神社には、沖合にもやう北前船からおろされた荷物を何艘ものはしけが港まで運んでくる様子を描いた絵図が展示されていました。

かつて繁栄を謳歌した三國湊【みくにみなと】はいま

2018年7月13日
今日は朝からエクスカーション。「北前船寄港地フォーラム」にはつきものなのですが、私のように初めてその地を訪れた者にとってはとてもありがたい企画です。しかも、さわりだけをひと巡りする入門編的な内容から、本格的な場所にまで足を延ばすものまでさまざまなメニューが組まれているのもありがたいかぎり。

私たちは入門編にエントリーし、朝9時にホテルを出発。三国の旧市街地をひとめぐりするコースで、旧岸名家【きしなけ】住宅、旧森田銀行を見学後、遊覧船に乗っての東尋坊クルーズが組み込まれています。遊覧船に乗って知ったのは、「北前船」が錨を下したのはどこも、河口にある港だったということ。いまの私たちがイメージする近代的な港とはまったく趣が異なるものだったのです。そういえば、土崎(秋田県)も酒田(山形県)も岩瀬(富山県)も宮津(京都府)も皆、大きな川の河口にあります。これまで話には聞いていましたが、実際、河口近くを船で回ると、水運といっても、その主人公は「川」であったことが改めて、そしてなんともリアルに感じられました。

 

 

荘厳なたたずまいの永平寺にため息

2018年7月12日
さて、今日の午後から「北前船寄港地フォーラム」が始まります。午前中、金沢からの移動ついでに、途中にある永平寺に立ち寄ることにしました。鎌倉時代の1244年に道元の開いた曹洞宗の大本山で、日本史の教科書にも出てきますし、前々から話だけは聞いていたので、期待大です。

たしかに、そのスケールの大きさには驚きました。深山幽谷とはよく言ったもので、四方を山に囲まれた地に大小合わせて70余の建物が。龍門から入り通用門を抜けると聖宝【しょうほう】閣、吉祥【きっしょう】閣、傘松【さんしょう】閣から東司【とうす】、僧堂と順を追って歩いていくのですが、すべて板敷き。冬だったら、厚手の靴下にスリッパを履いていてもしんしんと冷たさが伝わってくるでしょう。仏殿から法堂【ほっとう】へは長い階段を上がります。そこから承陽【じょうよう】殿、大庫【だいく】院、そして最後に浴室を見て、山門を過ぎるといちおうひと回り。大きな寺院でよく目にするピカピカ・キラキラしたものがまったくないのは、やはり坐禅修行の場だからでしょう。途中、修行僧が僧堂に集まってちょうど昼食を摂っていたようですが、そこでさえなんだか荘厳な雰囲気がただよっていました。

永平寺の門前には名物のそばを食べさせてくれる店が軒を連ねており、そのうちの1軒で私たちも昼食。「フォーラム」の会場に急ぎます。会場のハートピア春江はえらく立派な施設。坂井市文化の森という複合文化施設ゾーンのメインを成しているのですが、完成はバブルが崩壊したあとの1995年といいますから、驚きました。700人以上収容できる多目的ホールで、夕方までたっぷり勉強させてもらい、夜は坂井市内にある三国観光ホテルでのレセプション。毎回そうですが、今回も300名を超える参加者でたいそうな盛り上がりでした。

金沢で出会ったユニークなタクシー運転手さん

2018年7月11日
今日は石川県でまだ行ったことのない地域を中心に回る予定で、今朝、レンタカーを借り直しました。明日、福井県の芦原温泉で返却すると「乗り捨て」になるのですが、昨日・一昨日と借りた会社は、芦原温泉に営業所がないため、面倒ですが致し方ありません。

まずは能美【のみ】市にある「いしかわ動物園」です。能美市といってもまったくなじみはありませんが、元ヤンキースの松井秀喜や森喜朗元首相の出身地である根上【ねあがり】町、九谷焼で有名な寺井町、辰口町の3町合併してできた新しい市ですから、当然でしょう。

ホテルから「いしかわ動物園」までは30分少々。1999年の開園なので、まだ20年も経っていません。自然の地形を活かしながら、随所に植栽や岩、池などが配されているなど、動物にとっては本来の生息環境に近い環境が再現されています。動物がいる場所をコンクリートや鉄格子で仕切らず、飛び越えられないであろう幅の堀やガラスで囲ってあるので、観る側は親しみを持って接することができます。広さもだだっ広くなく、お手軽に楽しめる感じですし、勾配もきつくないのがありがたかったです。入り口で手渡されたパンフレットにも、“楽しく、遊べ、学べる動物園”、“3つのやさしさ(「動物にやさしい」「環境にやさしい」「人にやさしい」)がコンセプト”であると書かれていました。

 

そんな飼育環境ですから、わが愛するキリンものびのびしている印象を受けます。ゾウ、トラ、オランウータンも同じくストレスとは縁のない雰囲気で、飼育環境の違いで動物の動きや表情がこうまで変わるものかということを改めて感じました。

動物園の次は「白山比咩【しらやまひめ】神社」。白山【はくさん】は石川、福井、富山、岐阜の4県にまたがる山ですが、古くから霊山として人々の信仰を集めてきたといいます。1300年前の開基と伝えられていますから、全国に2700社あるという白山神社の総本宮になっているのも当然でしょう。境内に神々しい空気が流れているのはよくわかります。ちなみに、山と神社の読み方が違うのは、もともと「しらやま」と呼ばれていたのが時代の移り変わりの中で「はくさん」に変わっていったようです。

 

 

しかし、この白山比咩神社があるのは、白山のまだほんの入り口。ここから車で山道を1時間ほど走ると、岐阜県につながる“季節道路”「白山白川郷ホワイトロード」があります。11月下旬から4月下旬までの期間は閉鎖されているので、走れるのは夏の期間、しかも日の出ている時間帯だけ。たしかに、走っていても、よくもまあこんなところにこれだけの道路を作ったものだと、感心させられます。

途中料金所を過ぎたあたりから川が見えてきますが、川面から道路まではとんでもない断崖絶壁と大小の滝の連続。ゆるい勾配の道を走っていくと、なんともアクロバティックなところに橋が架かっています。この峡谷に架かる唯一の橋=「蛇谷【じゃだに】大橋」で、長さ70m、高さ45m。橋のアーチ越しに、溶岩が冷え固まってできる柱状節理が見えました。

 

橋を渡りさらに行くと「かもしか滝」があり、その先が「蛇谷園地」。ようやく駐車場に車を止めたときは肩の力が抜けました。そこから川底に向かって険しい道を下る途中は
ブナやミズナラの天然林。遊歩道を進んでいくと「姥ヶ滝【うばがたき】」「親谷【おやだに】の湯」が見られるのですが、暑いこの時期のこと、滝を間近で見ると、汗がスーッと引き、自然の涼しさを堪能できました。「姥ヶ滝」は「日本の滝100選」にも選ばれていますが、その名の由来は、滝が岩肌に沿って落ちる何千・何万条の流れを年老いた女性の白髪に見立てたものなのだとか。滝の向かい側には天然の露天温泉もあり、なかには風呂につかっていく人もいるようです。足湯にすわって大迫力の滝を楽しめば、疲れも吹き飛ぶでしょうね。

   

帰路についたのは4時近く。同じ道を金沢市に戻りましたが、帰り着いたころにはお腹がペコペコでした。今日あたりは金沢らしいものを食べたいと思ったのですが、ここのところたんぱく質が不足気味なので、香林坊近くのお気軽イタリアンにでも行って肉と魚を……と思い、タクシーに乗りました。すると、この運転手さんがとてもユニークな方で、「お食事ですか?」から始まり、あれこれ聞いてきます。すると、「私が責任を持っておすすめしたい日本料理のお店がありますので、そこに行って見ませんか? 三つのコースがあって、それほどたくさん召し上がらないというのであれば〇〇コースがいいでしょう。お値段は……」と。さらに、「お食事が終わったころを見計らってお迎えにあがります。全部で2000円ということでいかがでしょうか」。香林坊のイタリアンに執着する理由もありませんし、楽に移動できればこちらも好都合なので、即座に手を打ちました。運転手さんはすぐその店に電話し、10分足らずで到着。正直、このあたりまでは、地方でよく経験する“連携プレー”かと思っていました。

案内されたのは、卯辰山【うたつやま】の中腹にある、楚々としたたたずまいの日本料理店(茶寮 卯辰かなざわ)。たしかに、運転手さんのおすすめどおり。カウンター席からは金沢の街の素晴らしい夜景が楽しめましたし、料理もおいしく、大満足。約束どおり9時に迎えに来てくれましたが、雨が少し降り始めていたので助かりました。

これでまっすぐホテルに帰るだけかと思っていたら、「お客さん、もうあちこち行かれましたか?」と聞かれたので、「いえ、とくにはまだ……」と答えると、「じゃあ、二つだけ、いまの時間帯にしか見られないところに寄っていきませんか」というので、「お願いします」と即答。それで行ったのが、金沢城と中国風な雰囲気の尾山【おやま】神社。どちらも、ライトアップが素晴らしく魅力的でした。「昼間は皆さん、観光にあちこち歩き回っておられるのですが、夜はほとんどの方がお食事だけなんですよ。それでこんな素晴らしい場所があるのに、観ずじまいで」と。そこで15分ほど楽しんだあと、ホテルに戻ったのですが、降りるときに名刺を差し出し、「次回、お越しになったとき、もしよろしければこちらにお電話ください。また、いろいろご案内しますので」。なるほど、ここまでスキがないと、一種の“お値打ちパッケージ”といってもよく、オリジナリティーすら感じさせます。これほどメジャーな観光地でも、こうした運転手さんがおられるのだと感心しました。もちろん、チップをつけてお支払いしましたよ。

 

輪島から出発し、能登半島をほぼ全周

2018年7月10日
早起きして「朝市」に。車は海っぷちの駐車場に止め、通りをブラブラ。青い目の外国人の姿も目につきます。おばあちゃんやおかあさんたちが路上に敷いたシートの上に、朝採れたばかりであろう魚介類や、前の日に天日干しした魚を、ウソみたいに安い値段で売っていました。店舗のほうはお土産屋さんがほとんどで、輪島塗の小物を売っている店も。全部で100店ほどで、端から端までゆっくり歩いても1時間あれば十分です。

 

家人はゆっくり買い物に歩いていましたが、私はその周辺の古い町並みを歩きながら、写真を撮ったりしていました。目を引いたのが、「朝市」のど真ん中に建つ一見“元美術館”風の建物。地元の方にお聞きすると、やはりそうだったようで、かつての「イナチュウ美術館」跡だそうです。「イナチュウ」とは輪島塗の大手・稲忠漆芸堂(1929年創業)のことらしく、バブルの時代に手にした利益をつぎ込んで建てた(1992年)もののようです。資産価値数百億ともいわれる古今東西の美術工芸品が展示されていたものの、その後2012年に稲忠漆芸堂が倒産、当然、美術館も閉鎖とあいなりました。ヴェルサイユ宮殿を模して建てたバロック建築風の建物と、前庭の噴水などはそのまま残っていますが、「朝市」の通りにはまったく場違いといった雰囲気で、よくもまあ、こんなものをこんなところに作ったなぁと、あきれるほかありません。

同じ会社が経営していた「キリコ会館」のほうは、大手旅行代理店や地元の観光業界関係者の要望もあり、輪島商工会議所が引き継ぐ形で2015年にリニューアルオープンしたといいます。観光客にとってはこちらのほうが断然、役に立つと言うか、行って楽しめそうですから、それは救いといえるでしょう。ちなみに、「稲忠漆芸会館」のほうはいまも閉鎖されたままです。

輪島の街は2007年3月に能登半島地震に遭い、少なからぬ建物が損壊してしまったそうですが、建て直した家も、昔風の様式を復活させ、町全体がとても整っている印象を受けます。主だった場所は道も広いので、ワイドな景観を楽しめるのが、この種の古い町と決定的に違うところかもしれません。

それでも、「朝市」をひとめぐりしたころはもうお昼前。自家製のパンを売っている店を見つけたのでパンを少々買い込み、次の目的地「白米千枚田【しろよねせんまいだ】」に急ぎます。ここは名うての観光スポットのようで、駐車場には何台もの大型観光バスが。中国・韓国・台湾・香港などから団体客がひっきりなしにやってきているようでした。

「白米千枚田」から能登半島最東端にある禄剛【ろっこう】崎に向かいます。ここが能登内浦と能登外浦の分かれ目なのだとか。しかし、こんな辺鄙な場所にも、けっこう人が訪れているのには驚きました。ただ、メジャーなところではないので、日本人だけです。要するに、車さえあれば簡単に訪れることができるのが強みなのでしょう。それに、道路が走りやすいのも魅力です。余談ですが、新潟県、島根県、山口県……など、総理大臣が出た県はどこも例外なく、道路が立派です。幹線道路だけでなく農道まで、どんな道路も例外はありません。

途中、旧JRの珠洲【すず】駅跡を改装して作られたユニークな道の駅「すずなり」に立ち寄ってランチを済ませ、次の目的地「軍艦島」をめざします。10分ほどで着きましたが、ひと目見ただけでその名の由来が分かります。正式には見附【みつけ】島といい、高さ28メートルほどの岩から成る無人島なのですが、その形が船そのもの。観ればだれもが写真に撮りたくなる、能登の代表的な観光スポットといっていいでしょう。

次の目的地は「黒島天領北前船資料館」。途中に「總持寺祖院」という曹洞宗のかつての本山がありました。1321年の創建ですが、1898年、大火に遭ったため、本山が1911年、横浜市鶴見に移ったのちは、「祖院」と呼ばれているのだそうです。なんとも立派な姿に思わず足を止め、境内に。寺の真ん前に建つ輪島市門前総合支所に「祝日本遺産認定 北前船寄港地・船主集落」と書かれた大きな幕が吊るされていたので、なんだかうれしくなりました。

 

 

 

 

ただ、境内はあいにく修復工事の真っ最中のようで山門、仏殿など主だった建物の多くが中に入れませんでした。いずれも2007年の地震で被災したためのようです。工事が終われば、元の立派な伽藍が見られるのでしょうが、いつのことなのか。帰り際、出口の近くに「持寺【じじ】珈琲」という小さなカフェを見つけたので、修行僧がたててくれた自家焙煎のおいしいコーヒーでのどを潤してから駐車場に向かいました。

「黒島天領【くろしまてんりょう】北前船資料館」のほうは、おもしろい仕組みになっていて、すぐ近くに建つ「旧角海家【かどみけ】住宅(国指定重要文化財)」が、北前船船主の屋敷兼作業所で、そちらを訪れた人が希望すれば見られるとのこと。「旧角海家住宅」宅で地域ボランティアの女性から詳しくお話をお聞きし、いたく興味をそそられたので、当然、資料館のほうも案内していただきました。

 

駆け足で能登半島をほぼ全周し、金沢のホテルに到着したころは夜6時を過ぎていました。レンタカーを返しホテルに戻って食事に。この日は、遠くまで行く気分にもなれず、駅ビル内のおでん屋さんで済ませました。

初めての能登──道路の素晴らしさは秀逸

2018年7月9日
能登は正直、初めてです。これほど有名な観光地であるにもかかわらず、不思議といえば不思議なのですが、これまで金沢・富山までは行っても、なぜか足を延ばす機会がありませんでした。しかし今回は、週末に福井県坂井市で開催される「北前船寄港地フォーラム in 三國湊」に参加するので、そのついでにということでスケジュールを組み、行ってみることにしました。

金沢までは北陸新幹線「かがやき」。大宮から乗ると、ひと眠りする間もなく到着です。駅から5、6分歩いたところにある営業所でレンタカーを借り、五木寛之の小説のタイトルで有名な「内灘【うちなだ】海岸」を左に見ながら北上します。この道が予想以上に素晴らしく、しかも高速なのに無料!おかげで、ランチを予定していた回転寿司店(羽咋【はくい】郡志賀【しか】町・西海漁港)には、あっという間に到着。平日で空いてはいたのですが、さすが海産物の本場とあってことのほかおいしく、値段もリーズナブルでした。

寿司のあとはまた海岸に戻り、福浦【ふくら】へ。けっこうきつい坂を下りていった海っぷちの桟橋から能登金剛遊覧船に乗り、切り立った絶壁が広がる景色を楽しみます。小高い丘の上に、1608年、この地の船持ち・日野長兵衛が築いたという「旧福浦灯台」が小さく見えました。北前船もその明かりを頼りにしながら走ったのでしょう。

 

福浦をあとにし、そこから30分ほど走ると七尾市に入ります。すると、「花嫁のれん館」という看板があり、当初の予定にはなかったのですが、ちょっと立ち寄ることにしました。「花嫁のれん」といってもピンと来ませんが、幕末から明治時代にかけてのころ、能登・加賀・越中で始まった婚礼の風習の一つだそうで、婚礼の日、花嫁が嫁ぎ先の仏間に掛けられたのれんをくぐることをいいます。どの家もここぞとばかりにお金をかけたようで、多くは絹で加賀友禅の手法が用いられているのだとか。しかし、人の目に触れるのはそのときだけで、あとは出番がないため、そのままタンスの肥やしになってしまっていたとのこと。

それに目を着けた、七尾の一本杉通りのおかみさんたちが、2004年のゴールデンウィーク期間中に「花嫁のれん展」を開催したところ、これが大ウケ。以来毎年開催していましたが、一般の人も常時見られるようにと、「花嫁のれん館」が2016年春に開館、常設展示室には明治から平成までの花嫁のれんが展示されています。高価で、しかも大ぶり、芸術性にも優れたのれんを間近に見ることができるユニークな博物館と言えるでしょう。

一本杉通りは七尾でいちばんの観光スポット。といっても、平日なので人通りはほとんどありません。ひと休みしようと入ったカフェのママから、この地で毎年ゴールデンウイークにおこなわれる「青柏【せいはく】祭」の話を聞き、一度見てみたいなと思いました。とりあえず写真を見せてくださったのですが、「でか山」と呼ばれる、人の3倍ほどはありそうな巨大な山車(全部で3台)を曳くスタイルのお祭りのようです。狭い路地を、京都の祇園祭と同じように「辻回し」という技を駆使して回っていく様はたいそうな迫力でしょう。山車の形もすこし変わっており、末広形とでもいうのでしょうか、北前船を模したものといわれているのだとか。総重量はなんと20トンもあり、山車としては日本最大級、体積・重量では日本一だそうです。ユネスコ世界遺産の指定も受けたといいますから、これから先、多くの人が見に来るのではないでしょうか。

城下町の面影が残っているのはこの一本杉通りとその周囲の狭いエリアだけですが、どこかおっとりした雰囲気を残しています。そのお城を見ようと山に登ると、工事中で通行が制限されていたこともあり、予想外に時間がかかってしまいました。さっと見てから、輪島へと急ぎます。

最大の観光スポット「朝市」が開かれるエリアのホテルは取れなかったので、そこから歩いて10分ほどのところにあるホテルです。まわりには何もないので、夕食は海のほうに向かって散策がてら歩いていきました。ちょうど日没直後の暮れなずむころあいだったせいか、昔ながらの家が立ち並ぶ通りはなんとも趣きがあり、けっこう楽しめます。目星をつけていたシーフード料理の店が満席だったので、仕方なく地元の人しか訪れていなさそうな鉄板焼きの店へ。まあ、可もなく不可もなしでしたね。

サッカーW杯でベルギーに負けた理由

2018年7月4日
今回のサッカーW杯@ロシアは、これまでになく面白いゲームの連続でした。私のようなラグビー派はどちらかというとサッカーを好まない者が多いのではないかと思うのですが、スリリング度という点では、正直、サッカーのほうがラグビーを上まわっているかもしれないと感じました。

一昨日の決勝トーナメントで日本はベルギーと戦い、2-3で惜しくも敗れました。後半34分までは2-1とリードし、これはひょっとして……とも思わせたのですが、ゲーム終了前の10分間で立て続けにシュートを2本決められ、万事休す。善戦を称える者もいましたが、やはり「地力の違い」「鍛えられ方が足りない」など、シビアな意見が多数を占めていたようです。そうした中、日本代表の元監督ザッケローニのコメントには共感を覚えました。ちょっと長くなりますが、そっくり引用します。

「ザッケローニ氏、V弾許したのは日本人の性格も影響
サッカー元日本代表監督のアルベルト・ザッケローニ氏(65)は、ワールドカップ(W杯)決勝トーナメント1回戦でベルギーに敗れた日本について「残念だった」と語ったと、4日付の伊紙ガゼッタ・デロ・スポルトが報じた。
2点を先行しながらも、後半ロスタイムに決められて初のベスト8入りを逃した日本にザッケローニ氏は「残念だ。最後に日本は無邪気なところを見せてしまった。彼らの文化やDNAにはマリーシア(ずるがしこさ)は存在しないからだ。(カウンターを仕掛けられた時に)戦術的なファウルで(失点を)防げたが、彼らには(ファウルで止めることは)理解できないことだ」とコメント。日本人の性格では決勝点となったカウンターを止められないと主張した。
「ベルギー戦で、私はまだベンチに座っているように、日本を応援し、期待した」と、日本を離れて4年が経過したが、いまだに愛着を持って見ていることを明かした。
さらに今回の敗戦が日本にとって失望ではなく、今後の成長につながる希望の敗戦になるという。
「この敗戦が日本にとって問題となるわけではない。日本国民の代表に向けるリスペクトと情熱は常に高く、8強に近づいたことは誇りをさらに持たせ、この敗退を最悪の事態とは受け取らずに、経験をより豊富にし、さらに向上するためのチャンスと受け取るだろう」と、日本人のひたむきな性格が日本のサッカー界をさらに押し上げるだろうと語った。」
https://www.nikkansports.com/soccer/russia2018/news/201807040000661.html

「無邪気なところ」というのは、もう少し突っ込んだ言い方をすれば「勝負弱さ」とか「厳しさの不足」といったニュアンスなのでしょうが、要は、農耕民族の日本人はキホン「お人好し」なところがあるということなのかも。狩猟民族とは本質的に違う文化・環境の中で生を営んできた日本人に「malizia(マリツィア)」を求めることはできないと。

もちろん、日本のプレーヤーにも「勝負への執着・こだわり」はあります。でも、それはあくまで、お互いが生き延びるという前提があってのことで、相手を蹴落としたり叩きのめしたりことにはならないのですね。蹴落としたり叩きのめさなければ生き続けることのできない「狩猟文化」社会においては、それもまた人間に求められる重要な資質なのだと言われてしまえば、黙るしかありません。ザッケローニは、日本代表の監督を務めている間ずっと、そうした部分を、勝負とどのように調和させるかで悩み抜いていたのでしょう。サッカーは、ほんの10秒かそこらで勝負が決まることも少なくないので、怖いと言えます。

王室の元植物園が動物園に

2018年6月30日
昼間はドゥシト動物園に行ってみました。
国王ラーマ5世(在位1868~1910)の私庭(植物園)だったものを1938年、動物園としてオープンしたものだそうです。この界隈は「ウィマンメーク宮殿」(動物園と背中合わせ)や「アナンタ・サマーコム宮殿(旧国会議事堂)」など王室の施設が数多くあり、一般人とはあまり縁がなさそうな場所といった感じがします。

こちらは普通の動物園ですが、もともと植物園だっただけに、木や花がびっしり生えています。そのため木蔭が多く、歩いていても暑さがそれほど気になりません。また、園内にはカートも走っており、疲れたと思ったときはそれに乗れば楽に移動できます。

こちらもひととおりの動物がそろっており、昨日行った「サファリワールド」の動物たちより心もちおとなしそうな印象を受けました。「サファリワールド」の動物たちはのびのびしており、より“野生”が息づいているように感じましたが、こちらは“野生”よりも人間との“共生”を意識しているとでも言えばいいでしょうか。当たり前といえば当たり前ですが、動物も人間と同じく、どんな環境に置かれているかによって影響を受けるのですね。

 

予定では、このあと先に記した二つの宮殿を訪れるつもりでしたが、ギラギラ照りつける太陽のもとではそこまで行く気持ちも失せ、早々にリタイア。すぐ近くにあって場所もわかりやすい「ワット・ベーンチャマボピット(大理石寺院)」に立ち寄ってみました。イタリア産の大理石というだけあって立派な造りの建物ですし、境内に人工の水路があったりして、もう少し涼しければゆっくりくつろぐこともできたのでしょうが、ここもまた太陽から逃れるすべがありません。結局、早々にホテルに引き揚げることに。

夜は高校時代の友人Sくんの手配でフカヒレを食べに行きました。空港にほど近い場所のようでしたが、さすが在住30年近いSくんのメガネにかなった店、おいしかったです。食べても食べてもお皿の中からフカヒレが湧いてくるような感じがたまりません。日本だと、フカヒレは高級店でしか食べられないといったイメージがありますが、以前のマカオもそうだったように、中国文化圏では大衆料理=山ほど食べるのがフカヒレなのでしょう。

ちなみに、「マンダリン・オリエンタル」の一件をSくんに話したところ、こう言われました。「マンダリン・オリエンタルに行きたいときは「オリエン(タル)」とだけ言えばいいのだそうです。以前の名前のほうが通りがいいのですね。

外国人でいっぱいのバンコク

2018年6月29日
前回来てから5年(3年前にも立ち寄ってはいますが、このときはトランジットのためだけ)しか経っていないのに、バンコクは大きく変わった感じがしました。いちばんの変化は外国人旅行者が多いこと。大半は中国人で、見た目よく似ているのでさほど目立ちはしないものの、それでも団体で動いているとすぐわかります。今回はバンコクでも超有名なスポットは避けていますが、それでも、です。

今日行ったのは、「サファリワールド」。空港から比較的近いエリアにあるようで、ホテルからはゆうにタクシーで30分はかかりました。しかし、ここのサファリは大規模です。アフリカのそれとはもちろん比ぶべくもありませんが、広さがすごい。しかも、インドやオーストラリアなど、海外からの客も目につきます。

 

 

タクシーの運転手さんと帰りのことを打ち合わせしたあと、チケットを買う場所など、詳しく説明してくれたので助かりました。要するに水族館と動物園がセットになっていて、片方だけでもOKであると。ただし、その旨をはっきり窓口で伝えなくてはいけない。また、カートに乗って見学するのと、中を歩いて回るのとでは、コースも違えば料金も違う……といったたぐいのことです。私たちはカートで回るほうを選びました。

所要時間は1時間弱。広い園内を屋根付き・ガラス貼りのカートで移動していくのですが、どの動物も大変な数がいます。キリンに至っては100頭近くいましたし、ライオンやトラも軽く20頭以上。これだけの数のキリンですから、間近で見たかったですし、エサやりなどというイベントもあったようなので、そちらにも参加したかったのですが、時間の制約もあります。それでも、次から次へ、窓の向こうにあらわれる動物たちを見て満足しました。

  

「サファリワールド」からホテルまで戻り、午後はゆっくりすることにしました。とにかく、暑かったのです。ホテルの中は寒いくらいエアコンが利いていますし、それより何より、このホテルのアフタヌーンティーはとても人気があると知っていたので、早いうちに席を確保する必要があります。広々としたコーヒーラウンジ(3つくらいのエリアに分かれている)の一角に案内され、手渡されたメニューを見ると前菜風のパートが3パターン。私が選んだのはオリエンタル風の品々でそろえたものです。本場のイギリスでも、もちろん日本でも目にしたことのない内容で、新鮮な感じがしました。

 

夜は、ホテルの船着場から川を下ったところにある「アジアティーク・ザ・リバーフロント」に行ってみました。もともと倉庫街だった場所を巨大なショッピングモールにリノベーションしたようです。といっても、中は1坪ショップのような小さな店がびっしり(1500軒もあるのだとか!)。どの通路も細く、すれ違うのがやっとといった感じです。周りはほとんどがレストランで、日本食の店(“もどき”も含めて)もあります。そして、ここもまた外国人客でいっぱいでした。

バンコク「マンダリン」ホテルのミステリー

2018年6月28日
久しぶりにタイのバンコクを訪れました。雨季で暑い時期でもありますが、キャセイパシフィックのマイレージが貯まっていたので、その消化もかねての訪問です。キャセイなので、羽田からは香港を経由し、バンコク到着は夕方です。飛行機代が浮いたので、バンコクでの宿泊は最高級と言われるマンダリン・オリエンタルを奮発。もちろん、家人のためですよ。

市内までは空港からタクシーに乗ったのですが、このドライバーが「?」でした。「着きましたよ」とドアを開けてくれ、トランクからおろした荷物はドアマンがさっさと建物の中に運び込みます。さっそくフロントでチェックインしようとしたのですが、係員が「お名前が見当たりませんが……」と。予約確認書のプリントアウトを取り出して見せると、これがなんと「マンダリン」違い。実はバンコクにはもう一つ、「マンダリン」と名のつくホテルがあるのだそうです。私たちが予約していたのは「マンダリン・オリエンタル」で、こちらはただの「マンダリン」でした。ドライバーが早合点して後者のほうでおろしてしまったわけですが、「じゃあ、移動しなくては」となったときは、そのタクシーの姿はありません。仕方なく別のタクシーで移動したのですが、こんなこともあるのですね。

「オリエンタル」のほうはチャオプラヤ川のほとりにあり、たしかに「超高級」といった感じがありあり(念のため書き添えておきますが、ただの「マンダリン」のほうもそこそこ高級そうでしたよ)。なにせバンコクで初めて(1887年創業)の西洋風ホテル(名称は「ジ・オリエンタル・バンコク」)ですから当然でしょう。その後「マンダリン・オリエンタルホテル」グループに買収された後も長らく創業当初のままでしたが、2008年から「マンダリン・オリエンタル・バンコク」に変わったのだそうです。

それはともかく、部屋に案内されると、立派なウエルカムフルーツが置かれ、部屋からの眺めも最高。高層ビルの姿が水面に美しく映え、川を行き交う大小の船もロマンチックな雰囲気を醸し出しています。

 

東京湾に浮かぶ、唯一の自然島・猿島へ

2018年6月23日
今日は、太平洋戦争の悲惨さを象徴する沖縄の地上戦が終わった日。なんとはなしに厳粛な気持ちになります。それと直接の関わりはありませんが、今日、こんな話を聞きました。8月15日に日本が無条件降伏を受け入れ、その文書に調印したのは9月2日。場所は東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリの艦上です。連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーがこの船を選んだのは、時の大統領ハリー・S・トルーマンがミズーリ州の出身だったからだそうです。しかも、同船が停泊していたのは、かつてペリーが日米和親条約調印の際に旗艦ポーハタン号を停泊させていたのと同じ位置。

それだけではありません。ミズーリ号が掲げていた星条旗は、1853(嘉永6)年、ペリーが浦賀に来航した際に乗っていた旗艦サスケハナ号に掲げられていた星条旗だったといいますから、なんとも念が入っています。日本人はすぐに歴史を忘れてしまうと言われるのに対し、アメリカ人はこういうふうにして、歴史を忘れない=風化させないようにしているのです。

今日から明日の1泊2日で、恒例の「東京明和会・大人の社会見学」。今回の行き先は横須賀で、三笠桟橋から小さな船に乗って10分ほどの沖合にある猿島がメインの目標です。ガイドさんから先の話を聞きながら、無条件降伏の署名がおこなわれた場所を見ることもできました。

猿島は東京湾に浮かぶ、唯一の自然島で、面積は横浜スタジアムのグラウンドの4倍ほど。旧日本海軍の要塞だったため、戦前は一般人の立ち入りが禁止されていたといいます。木々が生い茂る中、レンガ積みのトンネルや砲台跡などの旧軍施設が残っていました。どちらかというとマイナーなスポットでしょうが、意外や意外、若い人がけっこう来ているのには驚きます。

猿島からそろそろ横須賀に戻ろうというときに雨が降り出しました。三笠桟橋に戻り、係留されている「戦艦三笠」を見学。数年前、取材で訪れたところですが、今日はたまたまボランティアガイドさんの説明付きの時間帯だったため、たっぷり1時間半、詳しいお話を聞きながらの見学となりました。

下船したときは2時をとうに回っており、予定していた横須賀海軍カレーの昼食に間に合うかどうか。案の定、その店に行ってみると、「CLOSED」の看板が……。アチャーッとなりましたが、幹事のNくんが店主にかけあい、半ば強引にドアを開けてもらいました。そこまでした甲斐があり、おししい横須賀海軍カレーを食べることが。牛乳とサラダと一緒に食べるというのがミソのようです。かつては、ビタミン不足で死に至る海軍の兵士が多かったからなのだとか。

続いて行ったのがヴェルニー公園。構内に階段がまったくなく、改札口からそのままホームに行けるようになっていることで知られるJR横須賀駅の手前にあります。園内にはフランス式花壇や音楽に合わせて水が動く噴水、洋風のあずまやも。少しずつ時期を変えながら花開くバラの数は2000株ほど。この日も、雨の中、美しい花を咲かせているバラが数十本見られました。「日本の都市公園100選」「日本の歴史公園100選」に選ばれているそうで、海沿いのボードウォークを歩けば、潮風がさぞかし心地よいのではないでしょうか。

   

ところで、ヴェルニーというのは1865から76年まで日本に滞在したフランス人技師の名前です。横須賀製鉄所、横須賀造兵廠、横須賀海軍施設ドックや灯台など、さまざまな施設の建設を指導し、日本の近代化に貢献した人物。その横須賀製鉄所が対岸に望めることにちなんで公園の名がつけられたそうです。

横須賀本港に係留されている船やアメリカの海軍基地、海上自衛隊地方総監部を見ながら公園を抜けたところに建つのが「ヴェルニー記念館」。幕末、同製鉄所に持ち込まれたスチームハンマー(国指定重要文化財)が保存・展示されています。そう言われても理解できない私はじめ文科系出身の仲間に、理科系出身のMくんやNくんがきちんと説明してくれました。急傾斜の屋根と石の壁は、ヴェルニーの故郷ブルターニュ地方の住宅の特徴を取り入れているのだとか。

ラグビーはやっぱり空の下がいい!

2018年6月16日
前週から次週にかけて、ラグビーのテストマッチが3試合組まれています。日本だけでなく、このひと月ほどの間は、世界各国の代表チームがそれぞれテストマッチをおこなうよう、「ワールドラグビー=WR」という統括団体がスケジューリングしているのです。ちなみに、次の予定は今年の10月下旬から1カ月間です。

前の週、日本代表はイタリア代表との試合で快勝しました。2015年のW杯で南アを破り、「奇跡」と言われてからまだ3年弱。それでも、この間に日本代表が強くなったのは誰もが認めるところです。今週もそのイタリアと対戦するというので、名古屋でのインタビュー取材のついでに、神戸まで足を延ばしてみました。

新神戸から地下鉄を乗り継いで行ったのが御崎【みさき】公園という駅。そこから10分ほど歩くと会場のノエビアスタジアムがあります。もちろん初めてなのですが、なんと、屋根が付いているではありませんか。もともとはメインスタンドとバックスタンドだけに屋根が設けられていたようですが、サッカーW杯(2002年)がおこなわれたあと、開閉式の屋根が作られたとのこと。

 

夜のゲームならそれほどでもないでしょうが、この日は日中のゲームで、外はピーカンなのに、グラウンドの上が3分の2ほど屋根に覆われていると、どうにも違和感を禁じ得ません。雨でも少々の雪でも試合がおこなわれるラグビーですが、私自身がプレーしていた時代はキホン、夏を除く3シーズン、なかでも秋から冬にかけての時期の昼間というのが常識でした。しかし、時代を経るにつれ、夜の試合も増え、季節にもこだわらなくなっています。

それでもやはり、昼間のラグビーの試合は青空の下でというのが、いまなおわたし的な常識なので、どうにも気になって仕方ありません。来年の9月26日、このスタジアムでラグビーW杯予選Cプールの「イングランドvsアメリカ」の試合を観ることになっていますが、そのときはどうなるのか、いまから気がかりです(ただし、試合は夜)。

ラグビーで室内のスタジアムというと、ニュージーランドのダニーデンという町にある「オタゴ・スタジアム(現フォーサイスバー・スタジアム)」が有名です(まだ行ったことはありません)。こちらは、ピッチの37メートル上に太陽光を通す透明の天井があり、さらにその上にも可動式の屋根が設けられている完全な屋内スタジアムで、スーパーラグビーの強豪ハイランダースの本拠地。ニュージーランドでは唯一の室内球技場で、それでいて100%天然芝といいますから、素晴らしいですね。一度、このスタジアムで観戦してみたいと思っているのですが、まだまだ先のことになりそう。ちなみに、コベルコスタジアムは日本では初めてというハイブリッド芝(天然芝96%+人工芝4%)だそうです。

復活した名古屋城「本丸御殿」

2018年6月15日
小・中・高と名古屋で過ごしたにもかかわらず、名古屋城を見たのはこれまで1回だけ。数年前のことで、このときは取材で訪れました。2回目の今日は、「本丸御殿」が江戸時代のままに再建されたと知ったからです。太平洋戦争末期の名古屋大空襲で、天守閣は幸いほとんど焼けずに済んだのですが、「本丸御殿」はすべて焼け落ちてしまったとのこと。しかし、写真や設計図が残っていたので再建は可能であるということから話は始まったといいます。

河村たかし市長の強力なリーダーシップで、10年前に話が決まったのですが、いちばんの問題点は建設資金の調達です。総工費150億円を、どこで、どのように確保するのか。お金にはうるさい名古屋ですから、かなりすったもんだがあったと聞いています。

そうした中、市民の寄付も募りながら、なんとか実現に漕ぎ着けたのですから、名古屋もまんざらではありません。というわけで、オープンしてまだ10日しか経っていない「本丸御殿」をじっくり見学することにしました。この日はすぐ近くである方のインタビューがあったのですが、午前の部と夕方の部に分かれていたため、その合間の時間を利用させてもらいました。

 

当初の熱気もやや落ち着き、しかも平日だったので、予想していたよりすんなり入場できました。中に入ってびっくり! 襖絵や天井画、家具調度、欄干の彫刻など、すべてレプリカと複製・復刻ですが、往時の華やかさがみごとに再現されています。つい数か月前、京都・二条城(こちらも徳川家が作ったもの)を見ているだけに、つい比べてしまうのですが、けっして遜色はありません。

観終わったあと、城のまわりをゆっくり歩いてみました。まあ、私が最後に名古屋城とその周辺を歩いた頃とは比べものにならないほど、きれいに整備されているではありませんか。ゆったりした敷地の中には大きな花壇やウォーキングコースが作られ、サイクリングロードまであります。ところどころにオブジェも置かれているのは、世界デザイン博や愛知万博を開催した影響かもしれません。そういえば、20世紀の終わり頃(1992年)には愛知県芸術劇場などという代物も建てられましたね。要するに、市の中心部エリアはすっかり大都市っぽくなったということです。

ロシア語のオペラに新鮮な感動

2018年6月12日
オペラなどほとんど観る機会のない私が、自身の関わっているNPO法人のツテで、「2018ロシア年&ロシア文化フェスティバル」のオープニング公演にお招きいただきました。演目はチャイコフスキーの歌劇『イオランタ』(演奏会形式・日本語字幕付)。演奏はロシア・ナショナル管弦楽団で、指揮は同楽団の創設者であり音楽監督でもあるミハイル・プレトニョフ。1988年、当時のゴルバチョフ大統領に招かれ、ワシントンで開催されたサミットでも演奏したといいますから、期待大です。

舞台は15世紀の南フランス。道に迷ったロベルト公爵とヴォーデモン伯爵は、その一帯を治めるルネ王の城に迷い込んでしまいました。ルネ王には、生まれつき盲目で、そのことを知らされぬまま育った美しい王女イオランタがいます。ヴォーデモンはそこで偶然出会ったイオランタにひと目惚れ。別れ際にヴォーテモンが、「記念に赤いバラをください」と言うと、イオランタは白いバラを手折って差し出しました。「赤ってなんのこと?」と口にするイオランタ。彼女が盲目であると知ったヴォーデモンは、イオランタに明るい光の世界を見せてあげたいとの切なる願いを抱きます。果たしてイオランタは光を見ることができるでしょうか……。

そんなストーリーなのですが、普通のオペラと違い、演奏会スタイルなので、歌い手は皆、ほとんど動きません。しかも、なじみのないロシア語ですから、頼りになるのは、左右に設けられた日本語字幕を映し出す縦長の画面だけ。ところが、たかだか30字ほどの翻訳文が実に的確で、わかりやすいのです。訳したのは一柳富美子という方ですが、これには感心しました。これまで50作品以上の大曲を翻訳しているベテランだそうですから、それもむべなるかなでしょう。以前、ニュルンベルクの国立劇場で『椿姫』を見ましたが、このときは英語の字幕だったので、えらく難儀したのを思い出したりしました。

王女イオランタ、ルネ王、ヴォーデモン伯爵はロシア人の歌手でしたが、3人とも迫力満点。私が素晴らしいと思ったのは、ロベルト公爵を演じたバリトンの大西宇宙【たかおき】です。まだ32歳という若さですが、武蔵野音楽大学からジュリアード音楽大学院を修了。『エフゲニー・オネーギン』『フィガロの結婚』『マタイ受難曲』など多くの作品に出て好評を得ている歌い手のようです。脇を固めていた二期会のメンバーも美しい声を響かせてくれました。

通常、オペラというと3時間以上はかかります。しかしこの作品は1時間半ほどで、私のような初心者にはほどよい長さ。こうした演奏会形式でオペラを楽しむ機会はそうそうないでしょうが、本当にラッキーでした。

「アドベンチャーワールド」から「アジサイ曼荼羅園」へ

2018年6月4日
正直、田辺市の「アドベンチャーワールド」にはほとんど興味がありませんでした。どうせ「富士サファリワールド」の亜流だろうくらいにしか思っていなかったからです。ただ、昨年、大分の「九州サファリワールド」に行ってから、次第に認識が変わりつつありました。今回ぜひ一度……と思うようになった決め手は、ハバナの「サファリ」です。車(バスやカートもあり)に乗って、放し飼いになった動物たちに接するのも、街中にある普通の動物園とはまた違う楽しみがあるということに気がつきました。実は、先月訪れた山口県の秋吉台にもサファリパークがあったのですが、時間の関係で行けなかったので、今回を楽しみにしていたのです。

前夜泊まったホテルからは車で20分ほど。今日も朝からピーカンで、温度計のメモリもぐんぐん上昇。午前10時にはおそらく28℃はあったでしょう。「アドベンチャーワールド」は、「サファリ」の部分もさることながら、ほかに多種多様な遊戯施設があるので、1日中いても楽しめる施設です。今年で開園40年を迎えたそうで、月曜日だというのに朝からけっこうな数のお客さんが並んでいました。動物園・水族館・遊園地の3つをあわせ持つテーマパークは珍しいといいますし、それに広さがハンパではありません。

ここで有名なのはジャイアントパンダで、東京・上野動物園と違い、親と子どもたちが別々に飼育・展示されています。園内の随所にある売店もたいそう充実しており、それはそれで飽きさせません。そうしたこともあってでしょう、親子連れ、カップルはもちろん、祖父母・父母・子どもといった3世代連れの姿も目立ちます。

園内は、ケニア号という4両編成のトラムに乗って草食動物ゾーンから肉食動物ゾーンを30分ほどで回るのですが、頭数も多く、けっこう楽しめます。キリンも数頭、シマウマと一緒にいましたよ。

目と鼻の距離で観られ、しかも5頭いるのでパンダの子は本当にのびのびした様子。並んだり待ったりする必要もなく、あっけないほど簡単に対面できるので、観る側も余裕です。それがパンダにも伝わるのでしょうか、サービス精神たっぷりで、えさを食べたりゴロゴロしていたり。ここまでリラックスしたパンダはなかなか観られないのではないでしょうか。

関西空港から乗る飛行機の出発時間まで多少余裕があったので、車で10分ほどのところにある「アジサイ曼荼羅園」というところまで行くことに。西牟婁【むろ】郡上富田【かみとんだ】町にある救馬溪【すくまけい】観音の敷地内にあります。ここは飛鳥時代、修験道【しゅげんどう】の開祖・役行者【えんのぎょうじゃ】が開山したといい、その後953年空也【くうや】上人がみずから刻んだ観音像を奉安、のちに熊野詣に行幸された鳥羽天皇が堂宇を建立されたという歴史を持つ由緒深い寺院です。その一角に2002年オープンしたのが「アジサイ曼荼羅園」で、最盛期には約2000坪の敷地に120種・1万株のアジサイが咲き誇るとのこと。

ちょうどいまごろが真っ盛りでは……と期待しつつ行ってみましたが、最盛期にはもうひと息といったタイミングでした。それでも、けっこうアップダウンのある園内は花見客でにぎわっており、私たちも十分楽しませてもらいました。

「曼荼羅園」から関空まで車を飛ばし、レンタカーを返却。夕方の便で沖縄に。あわただしくも充実した1日でした。

紀伊田辺・白浜で南方熊楠にひたる

2018年6月3日
昨日は京都での仕事を終えたあと、近鉄電車で大阪に移動しました。上本町【うえほんまち】という近鉄発祥の地(1914年に同社最初の路線である上本町・奈良間が開業=現・近鉄奈良線)ともいえる駅近くにホテルを取ったのですが、なんばや天王寺の近くにあるエアポケットといった感じがします。近鉄が開業した当時はそれなりのにぎわいが見られたようです。

今朝はホテル近くの、すこぶる居心地のいい喫茶店で朝食を食べ、レンタカーで紀伊田辺に向かいました。先日、東京・上野の「国立科学博物館」で観て刺激を受けた南方熊楠の聖地を訪ねるためです。田辺市とすぐ隣の白浜町には熊楠ゆかりの施設があります。市にあるのが「顕彰館」、町にあるのが「記念館」で、まず行ったのは「顕彰館」。

 

熊楠が後半生を過ごした居宅の土蔵に、生涯をかけて集めた人文・自然科学の膨大な研究資料と蔵書のほとんどが遺されています。これらがほとんど、当時使っていたであろう大きな木箱に入っていたり、自作の棚に並べられていたりなど、そのままの状態で保存されているのです。

居宅と庭も同じです。庭には高い楠や柿、熊楠自身が好んで食したという安藤ミカン(ミナカタオレンジとも呼ばれる文旦の一種で、徳川時代、田辺藩士・安藤治兵衛の屋敷内に自生していたことにちなんで名づけられた。熊楠がグレープフルーツの代わりにと普及に努めたことで知られる)の木のほか、顕花植物も数百種あります。柿の木から新種の変形菌(粘菌)を発見した……といったエピソードをボランティアガイドの方からお聞きしました。雑然としている庭ですが 、まさしく研究の場といった観を呈しています。

「顕彰館」を後にし、旧城下町である田辺の町を歩いてみました。地方都市の常ですが、ここもまた昼間は人通りがほとんどありません。日曜日となればなおさらです。それでも、この神社とゆかりの深い弁慶の立像は印象的ですし、その名前が興味をそそる「闘鶏神社」にはそれなりに人が訪れていました。

「闘鶏神社」はもともと、熊野権現(現・熊野本宮大社)を勧請【かんじょう】し田辺宮と称したのに始まるそうです。平安時代の末、熊野別当・湛快【たんかい】がさらに天照皇大神以下十一神を勧請して新熊野権現と称し、湛快の子の湛増【たんぞう】が田辺別当となりました。弁慶はその子どもと伝えられています。

 

治承・寿永の乱(源平合戦)のとき、湛増はどちらにつくべきか迷ったといいます。そこで、鶏を紅白2色に分けて闘わせたところ、白の鶏が勝ったので源氏に味方しようと決め、熊野水軍を率いて壇ノ浦へ出陣したとのこと。それから「闘鶏権現」と呼ばれるようになったと、境内の看板に書かれていました。

田辺市から白浜町に移動し、「南方熊楠記念館」へ。もともとはこちらのほうが先に作られたようですが、「顕彰館」とはコンセプトがまったく違います。子どものころに描いた絵や作文、アメリカ、私自身つい先日訪れたキューバ、イギリスに渡ってから書き綴った論文や、読んだ本のメモ書き(というには膨大すぎるボリュームですが)、日本帰国後に書いた著書の下書きや採集品など、もっぱら展示にウエイトが置かれています。「国立科学博物館」で目にしたものもありましたが、その量には圧倒されました。

1911(明治44)年起こした神社合祀反対運動の詳しい経緯も知ることができました。その中で書き綴った柳田國男ほか宛の書簡の中でエコロジーまたはエコロギーという言葉を使っていることを知り、この時期に早くもそうした考え方を持っていたことに驚かされます。

「記念館」の屋上にある展望台から周囲を見ると、熊楠がはぐくんだ壮大な知識欲の根源が息づいているようにも感じました。島々や海岸の砂や石・岩肌、土、森、草花など、目に入ってくるものすべてが、「客観的に観察してほしい」と訴えているかのような表情をしているのです。熊楠としては「わかった、わかった。いまこちらの絵を描いているから、そのあとで」といったような心境だったのではないでしょうか。

修学院離宮には田んぼがいっぱい

2018年6月1日
若い頃から行ってみたいと思っていた京都の「修学院離宮」をようやく訪れる機会が来ました。3カ月以上も前からネットで申し込み、いったんは当選したのですが、あいにくその日は都合がつかなくなり、結局キャンセル。そのあとまた仕切り直しして、今日午後3時の見学会に参加することができたのです。

まだ6月だというのにこの日の京都は強烈な日差しで、暑いのなんの。それでも、京都駅近くのホテルから電車とバスとタクシーを乗り継いで門の前に着いたときは早くも数人の見学客が並んでいました。定員が決まっているので並んだところでさしてメリットはないのですが、「修学院離宮」となるとやはり思いもひとしおなのでしょう。

店員の30人がそろったところで、見学会がスタート。マイクを持たないガイドさん(宮内庁の職員です!)がゆっくりした速度で、離宮内の主だったスポットを案内していきます。途中、要所要所で詳しい説明があるのですが、要するに、ここは天皇の座を譲った上皇の隠居所だったのですね。住居のほかに庭園や田んぼも造られ、茶屋も3カ所あります。大きな人工の池も印象的でした。

 

話をうかがっていると、近在の農民が離宮内にあるた田んぼで作った米を献上していたようです。いまでも持ち主の宮内庁が農家と契約し貸しており、そこで米・野菜を作っているといいます。

「離宮」と名がつくので、閑静な庭園を思い描いていたのですが、そうはないわかり驚きました。同じ京都にある「桂離宮(こちらもいまだに行けずにいますが)」や「二条離宮(現・二条城)」にしても、「赤坂離宮(現・迎賓館)」「芝離宮(現・芝離宮恩賜庭園)」「浜離宮(現・浜離宮恩賜庭園)」「武庫離宮(現・須磨離宮公園)」にしても、キホン庭園がその敷地のほとんどを占めています。それからすると、「修学院離宮」のユニークさは際立っているのではないでしょうか。

「大連の旅」の最後に待っていたサプライズ

2018年5月27日
お城を思わせるホテルにびっくり!
大連も今日で3日目。午前中から公式行事が続き、午後は市内観光に出ましたが、夕方から大連市旅遊局主催のパーティーに出席することに。会場は「星海広場」の近く、小高い丘の上にあるホテルだったのですが、これがまあとんでもなく豪華なホテルだったのにはたまげてしまいました。

広さ110万平方メートルという「星海広場」は、もともとはゴミの埋め立てに使われていた湾だったところを、大連市制100周年記念事業として整備したもの。超高級マンション(星海国宝)、遊歩道、噴水、遊園地、会議・展示場、野外イベント会場やレストラン街などがあります。隣接する「星海公園」には自然博物館も建っています。

こから坂を少し登っていったところに建つお城のようなホテルが「大連一方城堡豪華精選酒店(The Castle Hotel, A Luxury Collection Hotel, Dalian)。見た目はディズニーランドのシンデレラ城を思わせ、誰もがひと目見ただけで一度は泊まってみたいと思うにちがいありません。たしかに、パーティー会場の3階テラスからの眺めは素晴らしいものでした。今回泊まった街中のホテルが可もなく不可もないホテルだっただけに、その差が際立ちます。まあ、近くの施設で用事でもない限り泊まることはないでしょうが、ひときわ印象に残ったのは間違いありません。

さて、アカシアはどこに?

2018年5月26日
昨日から町の中を移動するたびにアカシアを探しているのですが、なかなか見つかりません(早い話、アカシアの花が咲いている場所を通らなかっただけなのですが)。「もう散っちゃいましたよ」というガイドさんの言葉は眉唾のようで、「正仁路(槐花大道)) という通りの両側は、長さ1km以上にわたって満開だったという話を、別の参加者から聞きました。それならそれで、ガイドさんも教えてくれればいいのに……。

このところ「北前船寄港地フォーラム」の旅行手配を仕切っているN社にはいまひとつ不満を感じています。そちらのルートで申し込むホテルの料金より、ネットの予約サイトから申し込んだほうが、2~3割は安いからです。数百人という単位で予約を取っているのなら、もっと安くってもいいはずなのですが。

今回もそうした不安がありましたが、海外、それも初めての地でもあったので、やむを得ずホテルだけはN社に申し込みました。しかし、実際ネットで調べてみると、同じ値段を出せばもっとグレードの高い部屋に泊まれたようにも思えます。ガイドの質の低さにも象徴されますが、もう少し参加者を満足させる配慮がほしいですね。

“アカシアの大連”にやって来ました

2018年5月25日

清潔で美しい町──それが大連の第一印象です。私が大学に入った年、芥川賞に選ばれた『アカシヤの大連』という作品がありました。作者は詩人の清岡卓行で、20世紀前半に日本の租借地・大連で過ごした青年期の生活を描いたものですが、詩人として知られていた作者にとっては初めての散文。大学に入ったばかりだった私もすぐ買って読んだ記憶があるものの、さほど強烈な印象は受けませんでした。ただ、タイトルだけはいまでも覚えているというか、大連といえばほとんど反射的に「アカシア」という言葉が口をついて出てきてしまいます。

その大連で、ここ数年ずっと追いかけている「北前船寄港地フォーラム」が開催されるというので参加しようと決め、今日、成田から飛んできました。21世紀に入り大々的な発展を遂げている都市らしく、空港も街並みもたいそう清潔で美しく、中国ではないような印象すら受けます。

とにかく、どこを歩いても、道路の脇にプランターが置かれ、花が咲き誇っています。街灯の柱にもガードレールにも花、花、花……。道路もえらくきれいに保たれ、あちこちの街角で、清掃している人の姿を目にしました。北京・上海にも、もちろんそうした仕事をしている人はいるのでしょうが、ほとんど目につきません。それからすると、この町がどこを歩いてもこぎれいなのがよくわかります。日本の前にこの町を租借していたロシアの人たちがそれほど清潔好きとは思えませんし、となるとやはり、日本の影響なのでしょうか。

午前中はアカシア祭り(大連国際槐花節)の開会式。会場は海辺の公園で、式典の最後におこなわれたアトラクションでは秋田の竿灯の披露も。参列者全員が歓声をあげ、拍手喝采。ロシアの民族舞踊も登場したあたりに、大連の歴史が垣間見えます。

 

 

 

日清戦争後の三国干渉の代償として、1898年清からこの一帯(大連、旅順など)を租借したロシアが、貿易拠点として港を整備するとともに、パリをモデルとした都市作りを始めました。しかし、その7年後、日露戦争に勝った日本が、ポーツマス条約により租借権を譲渡されます。日本は、大連を貿易都市として発展させようと、関東都督府と南満州鉄道が、道路の舗装などインフラの整備、レンガ造りの不燃建築物が立ち並ぶ町作りをおこない、旧市街がほぼ現在の形となったのです。いうならば“日ロ合作”のような都市なのですが、ほかの中国の都市との違いはそのあたりに起因しそうです。山田洋次(映画監督)や遠藤周作(作家)、荒木とよひさ(作詞家)の生まれ故郷と言われてもピンときませんが、松任谷由実(『大連慕情』)も桑田佳祐(『流れる雲を追いかけて』)もこの町を歌にしている理由が理解できるような気がします。

東京・椎名町で見つけた“お寺カフェ”

2018年5月16日
お寺や教会の副業といえば昔から幼稚園と相場は決まっていたような気がしますが、最近はそうでもないようです。私が住む私鉄駅の隣駅(椎名町)の真ん前にある「金剛院」というお寺は、門の脇にカフェを作りました。名前は「なゆた」。「なゆた(那由他)」とは、仏典に出てくる数字の単位(ゼロが72個)で、要はとんでもなく多い数のこと。

カフェなので、ドリンク類のほかに「お寺ごはん」というネーミングのランチも提供しています。内容は「精進料理」とまでは行かないものの、「薬膳料理」に近いもの。ライスも、普通の精白米と玄米ご飯の2種類から選べます。

 

このカフェの魅力はそのロケーション。お寺のほぼ入口横にあり、床から天井まで窓が大きく取られています。前には、こぎれいに整えられた庭園が広がっており、奥のほうに本堂が見えます。さほど広くはありませんが、食前食後に園内を歩いてみるのもいいですし、食べながら飲みながら四季の花々や木々を愛でるのもよし。テーブルや椅子も天然木の風合いで、すわっただけで落ち着いた気分になれます。私が行ったのは3日前の日曜日でしたが、ちょうど正午過ぎだったこともあり、ほぼ満席。今月開店したばかりだというのに、近頃の情報の早さはすごいですね。

そういえば、都心の神谷町には、僧侶がウエイターをし、ときには悩み相談にも応じてくれるお寺があることを思い出しました。いな、それよりもっと前から四谷3丁目には「坊主バー」というバーがありましたね。僧侶がバーテンをしているというだけで、メニューとかは普通のバーと一緒。違うのは、店の奥に仏像が安置してあり、お香が焚かれていることくらい。できた当時は話題になり、私も一度行った記憶があります。ただ、その後すっかりウワサを聞かなくなったので、とっくの昔につぶれたのかと思っていましたが、いまでも健在のようです。

バーはともかく、“お寺(または神社)カフェ”というのはけっこう全国あちこちにあるようで、
先月訪れた香川県・金刀比羅宮参道の脇にある「神椿」も、“神社カフェ”と言えなくもありません。私は階段を歩いて上るのを避けるために利用しただけですが、そうした不埒な理由でなく入っている人もいそうです。

ところが今朝、たまたま見たテレビ番組で紹介されていたロンドンの「教会カフェ」にはたまげました。シティ(金融街)にある「聖メアリー・オルダーメリー教会」がそれで、350年ほど前の創建だといいます。しかも、ここは建物の一部とか敷地の一角というレベルではなく、教会がそっくりそのままカフェになっているのです。聖堂(お寺でいうなら本堂)内には信者がすわるベンチのような椅子が何列も並んでおり、そのベンチの間に小さなテーブルが置かれています。また、聖堂の扉を開けてすぐのところにあるけっこう広いスペースにもいくつかテーブルが(ネットにアップされている写真を転載しておきます)。

 

 

メニューは食べ物がスープとパン、あとはコーヒーなどの飲み物だけのようですが、持ち込み自由なので、近くの金融機関に勤める人たちも自由に出入りしている様子。教会側としては、訪れることのない人にも教会に親しみを持ってもらいたいというのが狙いだそうです。カフェの売り上げは修繕費や地域のボランティア活動の一助に回されています。今度ロンドンを訪れたとき、ぜひ足を運んでみたいと思いました。

ちなみに、「金剛院」の場合、カフェの入っている建物の2階に集会所のようなスペースも併設されているらしく、そこではヨガ教室やがん患者の心のケア講座など、さまざまな催しがおこなわれているようです。社会における宗教施設の存在意義を考えさせられました。

待ちに待ったサンウルブズの初勝利!

2018年5月12日
2月のスーパーラグビー開幕以来、ここまでなんと9連敗を続けていたわがサンウルブズ。今日の国内最終戦でようやく今季初勝利をあげました。相手はレッズ(ブリスベン)、スコアは63対28ですから、快勝といっていいでしょう。ファンのだれもが「最初からこういうゲームをしてほしいよなぁ!」と思ったのではないでしょうか。

もちろん、日本国内ではこのゲームが今シーズン最後で、ここらでいいとこを見せとかないと……という選手・チームの強い思いもあったにちがいありません。ただ、それにしても長すぎますよね、3カ月は!

日本代表チームも外国人選手が多いのですが、サンウルブズとなるとその比率はもっと高まります。ラグビーのナショナルチーム代表資格の規定がちょっと複雑なせいもあるのですが、ナショナルチームではないプロ球団となると、ややゆるやかなので、こうした現象が起こります。ただ、「外国人」といっても見かけのことで、日本国籍を取得している者もいれば国籍は持たずとも日本語ペラペラの者も。

この日の試合は、今シーズンからサンウルブズに加入したリーチマイケルが7週間ぶりに戦列復帰したことで、核ががっちり固まった感じを受けましたし、姫野和樹(トヨタ自動車)の素晴らしい動き、好判断も光りました。ヘイデン・パーカーがプレースキックを100%成功させ、5ゴール(コンバージョン)+7PGと31点をたたき出したのも大きいですね。トライも1本決めているので合計36点。得点の半分以上を一人で稼いだことになります。

来週は香港でのホームゲームで、相手は南アフリカ・ケープタウンのストーマーズ。ここで勝つことができれば、かなり勢いがつくのではないでしょうか。ぜひ、素晴らしいゲームを見せてほしいものです。昨シーズンまでほぼ同じランキングだったアルゼンチンのジャガーズが今期はめっぽう頑張っているだけになおさらです。

久しぶりの札幌・初めての厚田

2018年5月9日
昨日、札幌入りしました2014年7月以来なので、ほぼ4年ぶりです。4年前はサッカーW杯ブラジル大会の終盤、準決勝・決勝の時期と重なり、毎日、夜遅くまで起きていた(もしくは早朝起き)記憶があります。

今回の目標は、今日の「厚田さくらまつり」。今年で第7回だそうですが、先月、秋田県小坂町の「観光フォーラム」でお会いした札幌のHさんから声をかけていただき、行くことにしました。

厚田というのはその昔は村でしたが、2005年、石狩市に合併されました。1977年、この地に墓地公園が開園して以来40年。いまでは園内になんと8000本ものソメイヨシノが植わっており、石狩市の、いな全道的な桜の名所として広く知られているのだとか。毎年5月の初めになると、園内の桜が一斉に花を開き、道内のあちこちから花見に訪れる客でにぎわうといいます。

 

ソメイヨシノの開花はかつて札幌市が北限とされていましたが、それより40数キロ北にあるこの地でも花を咲かせようと、桜守りの佐々木忠さん(故人)という方が奮闘され、みごとにその夢を実現したのだとか。

今年は温暖(それでも最高気温は12℃)、無風、晴天という無類の好条件下、これ以上はないというほどみごとな開花ぶりに見とれてしまいました。佐々木さんの熱い思いが園内全体に行き渡っているかのように感じられたからです。

キューバ最大の国家行事「メーデー」に遭遇

2018年5月1日
キューバ滞在の最後の日。大きなお土産を手にすることができました。といっても、「もの」ではありません。「こと」です。

朝テレビをつけると、地元の局はどこも「メーデー(Primero de Mayo)」一色。日が昇り、空が明るくなったと同時に、「革命広場」で大規模な集会が始まったようです。キューバ全土からやってきた90万もの人々が行進するさまは迫力満点、しかも、どの人も笑みをたたえています。

社会主義の国ですから統一が取れているのは当然でしょうが、北朝鮮のように“強いられた風”ではありませんし、旧ソ連・東欧のような暗さは微塵も感じられません。踊り抜きのリオのカーニバルといえばわかりやすいでしょうか。唯一カーニバルと違うのは、式典冒頭の演説。つい半月ほど前新しく国家評議会議長(元首)に就任したミゲル・ディアスカネルでした。そのあとは、前任のラウル・カストロとともに満面の笑顔で壇上に立ち、キューバ国旗を振っています。その前を次から次へ、人々が旗を振りながら横断幕を掲げながら行進していく人々も皆笑顔。ラテンの国であることを改めて実感させられました。

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式典の最後に、「インターナショナル(国際労働者協会)」を全員で歌っていました(下記
YouTube の1:51:00~1:53:50 あたり)。
https://www.youtube.com/watch?v=hySkTNtFA00
この曲を最後に耳にしたのはもう40年以上前のことですが、こちらもまたキューバ音楽独特のリズムが反映してか曲調が明るく、どこか違った風に聞こえてきます。日本語の歌詞「起て 飢えたる者よ いまぞ日は近し 醒めよ 我が同胞(はらから) 暁(あかつき)は来ぬ 暴虐の鎖 断つ日 旗は血に燃えて 海を隔(へだ)てつ我ら 腕 (かいな)結びゆく いざ闘わん いざ 奮い立て いざ あー インターナショナル 我らがもの……」とはストレートには結びつきません。試しに、聞き比べてみてください。
https://www.youtube.com/watch?v=KFlGfHCCZdQ

IMG_2118そのあと「オビスポ通り」に出てみましたが、休日のため、午前中はほとんどの店が閉まっているようでした。見ただけではわかりませんが、国営の店もけっこうあるのですね。お土産を買おうと、何軒かお店をのぞいてみました。定番のTシャツを探すと、ユニークな絵柄のものもいくつかあります。さっそく買おうとサイズを見ると、どれを取 ってもLサイズ。「Mはありませんか」と尋ねると、「この商品はLだけなんです」。そんなことあり得ないと思い、再三聞き直しても答えは同じ。ほかの商品も同様で「これは男性用のSしかありません」……。日本のように、きちんとした品ぞろえ、というか品
作りをしていないようなのです。「なければあきらめればいいじゃない」──やはりここは南国、それもキホン社会主義の国なんだなと改めて実感しました。

途中、のども渇いたので、ホテル「アンボス・ムンドス」と並ぶヘミングウェイゆかりの店「ラ・フロリディータ」に立ち寄ります。砂糖抜きのダイキリ「パパ・ヘミングウェイ」を1杯ひっかけ、カウンターいちばん奥にある銅像の隣にすわってみました。ここがヘミングウェイ指定席だったそうで、えらくリアルな感じがします。

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午後2時半にホテルにガイドさんがピックアップにやって来て、ハバナ最後のスポット=革命家エルネスト・‟チェ”・ゲバラ(アルゼンチン・コルドバ生まれ)の足跡をたどろうと、「カバーニャ要塞」「ゲバラ第一邸宅」の見学へ。そこでゲバラが少年時代からラグビーをしていたことを知り、急に近しく感じました。

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持病の喘息を克服したいとの思いからだったようですが、ほかにもいろいろなスポーツに挑んだといいます。でも、ラグビーには強い情熱を向けたようで、ブエノスアイレス大学で医学を学んでいた頃も、友人とともに『タックル』という雑誌を編集・発行していたそうです。

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DSC06528博物館で知ったことがもう一つあります。1959年7月、革命から半年後にゲバラが
来日したとき、広島の平和記念公園と原爆資料館を訪れていたのです。広島から妻に送った絵ハガキには、「平和のため断固戦うには、この地を訪れるべきだ……」と書かれていたといいます。

 

 

そして、キューバに戻ったゲバラは、カストロに原爆の実態を報告するとともに、医師という立場から、その恐ろしさをキューバ国民に伝えたとのこと。キューバでは現在も、毎年8月6日と9日に国営放送で特別番組を流し、小学校では広島・長崎への原爆投下について教えているのだそうです。メーデー当日にキューバにい合わせた上に、ゲバラの知られざる生涯にも触れることができ、今回のキューバの旅は大きな成果がありました。

最後に、ゲバラの言葉の中で心に響いたものを二つ。
「人は毎日髪を整えるが、どうして心は整えないのか?」
「人間はダイヤモンドだ。ダイヤモンドを磨くことができるのはダイヤモンドしかない。
人間を磨くにも人間とコミュニケーションをとるしかないんだ」

夕方の便でメキシコシティーまで戻り、ANAの成田行きに乗り換えます。その間、出
発前に読んでおこうと思っていたキューバの歴史を書いた本をひもといてみました。

1492年、この地を「発見」したスペイン人が先住民をいとも簡単に滅ぼし、1511年
から完全な支配下に置きます。以来およそ400年、1902年になってようやくスペインから独立を勝ち取ります。しかし、その後はアメリカの半植民地状態が続き、実質的な支配者として半世紀ほど君臨。それにピリオドが打たれたのは1959年、キューバ(社会主義)革命によってでした。

当時キューバはアメリカの傀儡【かいらい】だったバティスタ大統領が独裁政治をおこなっていましたが、1956年、メキシコから船で上陸したフィデル・カストロ、エルネスト・“チェ”・ゲバラ等が国内に組織した革命軍を率いて内戦に突入。59年1月、バティスタを国外に追放し、ようやく真の独立を勝ち取ったのです。そして同年5月から徹底的な農地改革を実施したのですが、アメリカが経済封鎖措置を講じられたため、当時アメリカと全世界で対立していた旧ソ連に接近、60年には正式な外交関係を結びました。

その後ろ盾も得ながら、キューバ政府は国内からアメリカ資本の全面排除を図ります。
結果、石油精製会社、製糖会社、電話会社、金融、商業など大企業のすべてを国有化しました。アメリカはただちに報復措置を講じ、国交も断絶。その結果、アメリカからの車の供給もストップしたのです。

旧ソ連の援助でそうしや苦境をなんとかはねのけ、国家の建設にいそしみます。1989年、旧ソ連が崩壊してからは援助もほとんどゼロになりましたが、独自の路線を貫き今日に至っています。現在世界全体で社会主義の体制下にある数少ない国(ラテンアメリカでは唯一)の一つですが、なぜか、国民はそれほど不満を感じていないようです。国の経済を支えているのはいまもサトウキビですが、それに加え観光が大きく伸びています。また、医療のレベルが非常に高く、医薬品の輸出も貢献していると聞きました。

たしかに、国民性もあるのでしょうが、当地の人たちの表情を見ていると、かつての東欧=社会主義国特有の暗さは微塵も感じられません。それは1にも2にも、いまの暮らし向きにそこそこ満足しているからだろうと思います。お金があっても、家族仲よく暮らせなければ、近所の人や職場の仲間と親しく話せなければ、ちっとも楽しくはないでしょう。その国はその国の「満足水準」というのがあるようで、その点、日本は少し贅沢が過ぎるような気もします。

 

スモーカーとして、本場の葉巻農場を訪問

2018年4月30日
タバコを吸い始めて今年で51年目。そんな私がタバコの本場・キューバにやってきたのですから、やはり葉巻のことを学ばずにはいられません。ハバナから120km、車で3時間かけ、「ビニャーレス渓谷(Valle de Vinales)」というところに行きました。高速道路で2時間、そのあと一般道を1時間走るのですが、車が断然少ないキューバでは、高速道路でも自転車、馬車、歩行者の姿が当たり前のように見られます。皆、堂々と、また悠々としているのがキューバらしいですね。

軽い傾斜の山道を登り、到着したのは渓谷を見渡せる展望台。この一帯は独特のカルスト台地で、その独特の美しさで世界自然遺産にも認定されています。もともとは、スペイン人がワインの生産地にしようと考えたらしく、地名のビニャーレスというのも、Vinales(=ぶどう棚)から来ているのだとか。ただ、気候条件が合わずブドウはあきらめ、葉タバコを栽培することにしたようです。

カルストですから、その地下には鍾乳洞ができているのが常。私たちもその代表ともいえる「インディヘナの洞窟」を見学しました。つい3週間ほど前に観た山口県の秋芳洞と違い、ボートに乗って見学します。しかも、乗ったまま出口に出られるのです。それにしても、自然の造形のすごさは人智でははかり知れないものがあります。

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昼食後、この辺りでは一番大きいという「葉巻農園フィンカ・ケマド・デル・ルビ」を訪ねます。葉っぱの刈り取りは終わったばかりで、畑は赤い土で覆われていた畑しか見えませんでしたが、刈り取ったタバコの葉を乾燥・発酵させている大きな倉庫のような建物に案内してもらいました。オーナーの息子さんがまず葉巻をくれ、それをくわえながら、タバコの栽培から葉の出荷まで説明してくれるのを拝聴。

葉タバコの種は、すべての植物の中で2番目に小さいのだそうです。半年かけて育てたものを刈り取り乾燥させたあと発酵させて香りをつける、その後1枚1枚吟味しながらまずはクラス分けする。どのクラスでも、巻くのはいい部分だけなのだとか。
葉巻として使えない部分は切り落として、紙巻タバコの原料として出荷するのですが、その切り落とされ方が、いかにも十把ひとからげといった感じです。私もスモーカーのはしくれですから、知識としては知っていましたが、目の前で、そうした部分をカッターでばっさばっさ切り落としていくのを見ると、一瞬うーんと、考えさせられてしまいました。
先ほどもらった葉巻は、たしかにいい香りがします。

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IMG_2063見学を終え、母屋に案内されると、オーナーのベニトさんの歓迎を受けます。「葉巻に合うのはラムだよ」と言いながら、ショットグラスに注いでくれました。気さくな笑顔が素敵なおじさんです。ストレートのラムを口に飲んだあと吸う葉巻は一段とおいしく感じます。値段のことを考えなければホント、葉巻に変えたいとも思いました。

刈り取りの終わった葉タバコの畑の隅に、花を咲かせた葉タバコが2、3本、残されていました。楚々としたきれいな花です。こんなきれいな花を咲かせる葉タバコが、人間 に悪さをするわけない! と身勝手な確信さえ抱くほど。

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ほかにもこの農園では、マンゴーやカカオなど、これまで原木を見たことのない木を間近で目にすることができ、有意義な1時間半を過ごしました。そういえば、昼食を食べた地元のレストランでは、生まれて初めてハチドリも観ることができましたよ。

ハバナ旧市街を歩きに歩く

2018年4月29日
今日はまる1日かけて、ハバナの町を歩き回りました。朝から気温は27、28℃という中だったので、さすがに疲れました。ハバナにはあちこち見どころがありますが、集中しているのは旧市街。車が走っている道路はどこもかしこもアメ車、アメ車、アメ車!半分以上は観光用のタクシーとして使われているようです。もちろん、一般市民用にのタクシーも走ってはいますが、そちらは観光用ほど派手派手しさがありません。いかにも生活用というか、塗装もくすんだままだったり……。もちろん、世界中どこでも見かける黄色く塗った車も走っています。

ホテルを出て「パルケ・セントラーレ(中央公園)」から路地を入り、目抜き通り「オビ スポ通り」に入ります。東西を貫く1kmほどの通りですが、歩行者天国になっているので、車と接触したりする心配はありません。また、自転車タクシーや馬車も入れないようで、歩行者がのんびり歩いているだけです。しかし、道路がボコボコというか、引っ 込んだり飛び出ていたりで、気をつけないと転んだりよろけたり足を取られたり。歩きにくいことと言ったらありません。

DSC06021ヘミングウェイの定宿「アンボス・ムンド」の中はこぎれいで、要所要所にその写真
が貼られています。なんといっても涼しいのがありがたい! そこから2ブロック進むと「アルマス広場」。“独立戦争の父”と言われるセスペデスの立派な像が建っています。その背後には「旧総督官邸(市立博物館)」の立派な建物が。1519年、ハバナの町が作られたとき最初のミサがおこなわれたという教会の横を抜け海のほうに近づくと、左側に要塞があり、右側に、なんと支倉常長の立派な銅像があるではないですか。

 

 

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その周りに建てられている碑文を読むと、仙台藩主・伊達政宗の命を受け遣欧使節としてローマに向かう途中、ハバナに立ち寄ったことにちなみ、仙台育英学園が創立100周年記念事業の一環として像を寄贈したようです。その周囲もきれいに整備され、さながらミニ公園のような趣になっていましたが、足を踏み入れるのは日本人だけかもしれません。それにしても、支倉常長がこの地を踏んだ初めての日本人だったとは……。

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近くのショッピングモールに立ち寄り、お土産品を少々買ったりしながらひと休み。そこからこんどは「カテドラル」に向かいます。1704年創建ですが、中には入れませんでした。そこからコロニアル風の建物に囲まれた「ビエハ広場」へ。お店もちらほらありましたが、長く放置されていたとのことで、これから整備されるのでしょう。

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ビエハ広場を後にし、自転車タクシーに乗って、かつての鉄道中央駅近くに建つ倉庫をK利用して作ったサン・ホセ民芸品市場に建物の前には蒸気機関車が置かれていました。いちばん奥は海に面しており涼しい風も入ってきますが、中は小さな店がびっしり。絵画やオブジェなどアート系の物が目立ちますが、土地のお土産から民芸品、Tシャツなど、ありとあらゆる物が並んでいました。

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IMG_E4219そこからホテルに戻ったのですが、再び自転車タクシーに。ただ、安いのはいいのですが、道路がデコボコなので、あわやという場面もしばしば。しかし、運転手は上手にそれを避けながら私たちを乗せて走ります。交通規制があるのか、ホテルの真ん前までは乗り付けられないらしく、近くで降りて歩きましたが、値段の安さ120円ほど) にびっくり。それでもこれは外国人旅行客向けの料金で、ハバナ市民はそれこそ20円、30円といったところなのでしょう。

“ヘミングウェイさまさま”のキューバ

 2018年4月28日
ハバナといえばヘミングウェイ、ヘミングウェイといえばハバナというくらい、両者の関係は密接です。それまでアメリカ・フロリダ州のキーウェストに住みながら、趣味の釣りを楽しむため、キューバに足しげく通っていたそうです。何せ、キーウェストからハバナまではわずか140km。飛行機に乗ればそれこそあっという間で行ける距離です。彼の定宿は、旧市街にある「アンボス・ムンドス(Ambos Mundos)」というホテル。
通りに面した最上階の角部屋がお気に入りだったようで、空きがあればかならずそこに滞在し、執筆と釣りにいそしんだとのこと。

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そして、1939年、スペイン内戦の取材から戻ると、3人目の妻とともに移り住むことに。ハバナの南東にあるフィンカ・ビヒアに9000冊の本、57匹の猫、4頭の犬、そして妻たち(1944年からは4人目の妻に)とともに、22年間住んでいました。広大な敷地に建つ自宅は、『武器よさらば』で稼いだ印税で購入したといいます。

DSC05844そこから毎日のようにコヒマルという漁村に出て釣りを楽しみながら、『誰がために鐘は鳴る』『老人と海』を書き上げたそうです。革命後キューバを離れたため、現在は「ヘミングウェイ博物館」になっています。

 

コヒマルというのは小さな漁村で、ヘミングウェイが通っていた当時とさほど変わっていない様子。村の中にある「La Terraza」は、ヘミングウェイがしょっちゅうやって来て、お酒を飲んだり食事をしたりしていたといい、観光客も訪れるコースが組まれています。

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キューバには観光資源が多々ありますが、「ヘミングウェイ」はアメ車とともに、その中でも筆頭格といった感じがします。先のホテルや、食べたり飲んだりしに行った店、そのメニューがいまもなお世界中の人を惹きつけているのですから。まさに“ヘミングウェイさまさま”でしょうか。アメリカからの実質的独立をめざして革命を成功させたキューバですが、いまなおその「アメリカ」で稼いでいるのは歴史の皮肉としか言いようがありません。

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コヒマルで時間があったので、漁船が係留されているっぷちまでガイドさんに連れて行ってもらいました。すると、その一角で「サンテリーア」の宗教儀式がおこなわれています。「サンテリーア」は西アフリカに起源を持つ宗教で、奴隷としてキューバに連れてこられた人々が持ち込んだものだそうです。キューバやドミニカ、ハイチといったカリブ海諸国は住民のほとんどは、16~19世紀にかけて、アフリカから奴隷として連れてこられた黒人がそのルーツ。当然、彼らも信仰を持っていたわけで、それが今日まで営々と続いているわけです。

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彼らを支配していたスペイン人はそうした信仰を禁じカトリックに改宗させようとしまし
た。しかし、表向きはキリスト教を信じるふりをしながら、密かに受け継がれていた「サ
ンテリーア」がいまなお息づいているのです。ハイチのブードゥー教に似て呪術的な
要素が強い(いけにえを捧げたりする)ため、白人にはうさんくさく見られているようですが、何せ先祖代々の信仰ですから、そう簡単には廃れません。

 

IMG_E4190ハバナに戻った私たちが行った先は「国立動物園」。「国立」などというと、いささかも
のものしい印象を受けますが、社会主義の国ですから、キホンすべては国立です。ところが、この動物園が出色。広大な敷地の中をバスに乗って走るのですが、どの動物もたいそうな数がいるのです。シマウマに至ってはおそらく200頭近いのではないでしょうか。

 

もちろん、キリンもいましたよ(バスで、遠い側の席にすわっていたので写真は撮れませんでしたが)。高くて頑丈な柵で囲まれたエリアには20頭近くのライオンが、昼ひなかだというのに、皆起きています。こういう時間帯で目を覚ましているライオンを目にしたのは初めてですが、そこかしこにいるのを見ると、なんだかうれしくなってしまいます。絵になりそうな場所に近づくとバスが停車し、写真もゆっくり撮らせてくれるなど、社会主義国らしからぬサービス精神も発揮してくれたのには感心しました。

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今日の午前中は、市民が食料品を買い求める「市場」をのぞきました。キューバでは、パンや砂糖、米、卵、牛乳などは配給制になっています。「配給手帳」を持って配給所に行くと、一定の量が無料でいただけるという仕組みです。

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DSC05806れ以外の肉や野菜・果物は市場で購入しますが、値段はべらぼうな安さ。これもアメリカの経済制裁の“おかげ”とでも言えばいいのでしょうか、農畜産物はすべてオーガニック。日本の野菜や果物のように美しい形もしておらず、色もくすんでいたりしますが、質的には安心です。「世界幸福度指数」というデータがありますが、キューバは6位(日本は95位!)。物は、量より質なのかもしれません。

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そんなキューバですから、音楽も陽気そのもの。アメリカが我が物顔でこの国を支配していた時代は、もっぱらそちらのほうが強調されていたのでしょう。夜行った「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ(Buena Vista Social Club)」のコンサートは、食事をしながらライブを聴くというスタイルですが、3時間近く、心行くまで楽しむことができました。

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私たちが泊まっているホテルからライブがおこなわれる「オテル・ナシオナル」までは海沿いの道を走っていきますが、土曜日の夜だったこともあり、防波堤の上には人がびっしり。ビール片手のグループもいれば、家族連れ、カップルなど、近在の人は皆ここに集結しているのではないかと思われるほどの人出でにぎわっていました。

驚いたのは帰り。夜の11時を過ぎているというのに、行きに見たときより人の数がさらに増えているようです。キューバの人々は週末になると、こういう時間の過ごし方をするのですね。バーもなければカラオケハウスもない、コンビニもない……となれば、こういうシーンは不思議でもなんでもありません。

真っ赤なオープンカーが出迎えてくれたハバナ空港

2018年4月27日

朝、メキシコシティーからインタージェット便でハバナに向けて飛び立ちました。4時間
足らずでハバナ着。モダンなメキシコシティーの空港とは大違いで、さながら日本の
地方空港(それもふた昔ほど前)の趣です。

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キューバの首都ハバナは、町中どこに行ってもアメ車だらけとよく言われます。それも、1950年代の車です。映画やテレビで何回か観たことはあるものの、空港ビルから一歩外に出て、実際にそれが目の前に停まっていたり走っていたりするのを見るとやはりびっくり。「キャデラック」とか「ダッジ」「ビュイック」「シボレー」あたりなら名前くらいは知っていますが、「プリムス」とか「マーキュリー」「サターン」となると、ほとんど小 林旭の『自動車唱歌』の世界です。いまの時代、世界中のどこを探しても、こんな車が走 っているところはないでしょう。現在世界を席捲しているドイツ車も、日本車の姿もまったく見かけません。

もちろん、これにはしかるべき理由があります。1959年の「キューバ革命」で、アメリ カとは国交断絶。それと同時に経済封鎖が始まったため、アメリカからの車の輸入は完全にストップしれしまいます。それに代わって、60年代以降は旧ソ連製のラーダという車が入ってきました。経済制裁自体はいまでも続いているのですが、いまやソ連も存在しないので、いったいどこから車を輸入するのかということになります。でも、なぜかドイツや日本の出る幕はなし。キューバの車事情がとてつもなくユニークなのは、そうした背景があるのですね。ちなみに、いまキューバを走っているのは、先に名前をあげた1950年代のアメリカ車、旧ソ連車、そして韓国と中国の車だけです。

というわけで、私たちが旅行会社にお願いしておいた空港・ホテル間の送迎もアメ車、それも真っ赤なオープンカーでした。スーツケースをトランクに入れて乗ろうとしたのですが、外側からはドアが開かないようで、ドライバーが内側に手を伸ばし開けてくれます。2ドアですから、前のシートを倒し、わずかな隙間から後部座席に移動。もちろん、シートベルトなど、ありません。

IMG_4133運転席前のインパネもオールドスタイル。コラムシフトのレバーも皮や塗装が剥げ落
ち、大丈夫なの? と、少し不安になります。でも、これが立派に走るのです! 排ガス
規制などない時代の車ですから、排煙をがんがん出します。エンジン音もかなりの大
きさで、「こういう時代もあったんだ~」という感心と驚きが。市内に向かう高速道路も
ガラガラです。車それ自体の数が少ないのですね。

IMG_4135前を走る車、横から追い越していく車、すれ違う車も、半分近くは私たちと同類のアメ 車。途中で立ち寄った自然公園内の休憩所にも、何台か並んでいました。道路事情が悪いためパンクもしょっちゅうのようで、そのときも1台、修理の真っ最中。でも、そういう車に乗ることで得られる興奮を思えばご愛嬌というか、許されてしまいそうです。

休憩所をあとにし「革命広場」に。北京の「天安門広場」とどちらが広いかはわかりませんが、5月1日のメーデー式典の予行演習がおこなわれていました。といっても、緊張感のゆるさは否めません。ここはラテンもラテン、キューバですからね。DSC05773

周囲には国の建物が立ち並んでいますが、情報通信省の壁面にはファイデル・カストロらとともに戦ったカミーロ・シンフエゴスの肖像が描かれています。シンフエゴスは革命直後、飛行機事故で亡くなったとのこと。肖像の右下に、“Vas bien, Fidel(=いい
だろ、フィデル)”という言葉があるのを見ると、その気さくな性格がうかがえ、カストロ
とも仲よしだったことがわかります。

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DSC05771もう一つ、内務省のビルにはゲバラの肖像が。こちらの右下には、“Hasta la victoria
siempre(=常に勝利に向かって)”とありました。ゲバラはいつどんな状況にあっても
死を恐れず、革命に向かって前進しなくてはいけないという考え方をしていましたが、
その心情がよく示されているのでないでしょうか。空港からここまでくる途中、あちこち
でゲバラの肖像を目にしましたが、ここで見たゲバラはなんともユニークな印象を受
けます。

そこから10分ほどで宿泊先のホテル・サラトガに到着。由緒あるホテルのようで、チェックインで応対してくれた女性スタッフもしっかりした印象です。キューバは、インターネットがまだ普及して間もないので、wi-fiが確実に使えるかが気がかりでしたが、それも大丈夫そうで、とりあえず安心しました。

夕食は、ガイドさんに教えてもらった近くのレストランで。あまりの量に圧倒され、半分以上は残したでしょうか。もったいないからと一部をテイクアウトしましたが、こんな量の食事を毎日しているとしたら、驚きです。