「漢字三千年展」で高校時代を思い出す

2016年10月26日
漢字というのは、とても不思議です。もともと象形文字に由来するものが多いせいもあるのですが、ほとんどの漢字がその昔の姿で見られるというので、八王子にある東京富士美術館に足を運んでみました。

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さまざまな展示がありましたが、いちばん感動したのは「蘭亭序」という王羲之の名作の拓本がいくつも見られたこと。高校1年生のとき、選択で取った書道の授業は、1年間かけてその全文を書くというものでした。落款も自分で彫り、でき上がった作品を表装し、落款も押し、2月の終わりごろ自作の「蘭亭序」が完成しました。

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もちろん、どうひいき目に見ても字はド下手もいいとこなのですが、表装までしてみると、なんだかもっともらしい感じがします。いまでも、手もとに保管してあるので、ときどきためつすがめつしてみるのですが、下手さをますます強く感じるだけ。それだけに、もう一度きちんと書き直してみたいなと思っています。実現するのは難しそうですが、それでもなんとか……。

「9・11」から15年目、そのご遺族が開いた催しに

2016年9月4日

自宅から車で15分、中野駅にも近い、閑静な住宅街の一角に目的地がありました。区立なので、「産業振興センター」とものものしい名称なのですが、たいそう立派な建物で、利用者がひっきりなしに訪れています。

玄関を入ってすぐ左のコーナーに目をやると、真っ先に大きなアメリカ国旗が目に入ってきます。15年前の9月11日、ニューヨークで起こった同時多発テロの写真などを集めた展示会がおこなわれていました。

この催しがおこなわれているのを知ったのはまったくの偶然。家人が1週間ほど前、夕方のニュースで紹介されているのを見たからです。主催者の住山一貞さんのご長男(当時34歳)はその日、世界貿易センタービルの中にある勤務先で惨事の犠牲となられたとのこと。

昨年9月11日、家人と二人で「9・11」を追悼するイベントに参加しましたが、その日最初の行事は亡くなられたご長男が住まわれていたニュージャージー州のオーバペック・パーク(Overpeck Park)にある慰霊碑の前でおこなわれた追悼の会でした。もちろん、そこには住山さんご夫妻もいらっしゃっていました。そのときはとくに言葉を交わすこともありませんでしたが、私たちが参加した音楽会のあとでおこなわれたレセプションでも同席、そこからホテルに戻る途中、一緒に写真を撮らせていただいたのです。セントラルパークのすぐ南の路上でした。

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住山さんはテロのあと20回以上ニューヨークに足を運んだそうですが、会場には、そうした中で手に入れた現場の写真や資料など30点ほどが展示されていました。その中に、縦6センチ、横9センチほどの鉄骨(世界貿易センタービルのもの)残骸がありました。テロから1カ月半後経ったあともなお続いていた救出活動にたずさわる救助隊員が住山さんに手渡してくれたものだそうです。また、先のアメリ国旗は、犠牲者の葬儀で棺にかぶせるのに使われたものでした。私の頭にもすぐ当時の模様(ニュース映像)がよみがえったのはいうまでもありません。

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見終わったあと、昨年撮った先の写真をプリントし、会場でご夫妻にお渡ししました。住山さんの奥様がそのときのことを覚えていてくださり、しばしお話しすることもできました。ご主人は、息子さんの最期をなんとか知りたいと、550ページを超えるアメリカ政府が作成した、同時多発テロの調査報告書を8年がかりで翻訳したそうです。それを製本したものも展示されていました。原本のほうはボロボロになっていましたが、おそらく数え切れないほど報告書のページを繰ったのでしょう。

「5年に1回、この展示会を開いています」と奥様が話されていましたが、私も生まれて初めて千羽鶴を折り、住山さんに託しました。今年も来週からニューヨークに行き、追悼のイベントに参加されるのだそうです。その場に鶴をお持ちになるということでした。住山さんご夫妻のご健康を祈らずにはいられません。

写真展『日本の灯台』に行ってみました

2016年7月20日
午前中西新宿8丁目で打ち合わせがあったついでに、1丁目のギャラリーでおこなわれていた旧知の写真家Oさんの写真展に行ってみました。前夜、これも旧知の編集者Kさんから電話があり、雑談している中で教えてもらったのですが、ちょうど今日行く場所の近くだとわかり、行ってみようと。

残念ながらOさん自身は撮影の仕事が入っていたようで会場にはいませんでしたが、これまた35年ぶりくらいで会った奥さんが会場におられ、しばし思い出話を。日本各地にある灯台(全部で3300もあるそうです!)の中から、選びに選んだ30ほどの灯台を撮った作品はどれも皆見ごたえがありました。

つい2年ほど前に行った長崎県の大瀬崎灯台など、「こんなにきれいだったんだ」と、うれしくなりました。私たちが現地を訪れたときはちょうど霧がかかっていて、ほんのチラッとしかその姿を拝むことができなかったのです。台風が日本に近づくたびにテレビやラジオ、新聞で見聞きしている「潮岬」も初めてその姿を見ました。

灯台を撮り始めて20年ほどだそうですが、日本にはまだまだいいものがたくさんあることを知り、とても元気が湧いてくると同時に、自分も観に行ってみようという気持ちにもなりました。

モスクワ大学を見学

2015年8月5日

今日の午前中の目玉はクレムリン。なかでも武器庫は出色の施設で、古今東西の武器や兵器、衣服・調度品、乗り物などが所狭しと並べられていました。2年前もそう思いましたが、全部をゆっくり見てまわると、まる1日はかかりそうです。

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ここで思わぬアクシデントが発生しました。ツアーに同行している女性2人が忽然と姿を消してしまったのです。それも60代後半と70代半ばの方ですから、私たちはびっくり。最初は全員で探し回りましたが、そのうち次の訪問先を訪れる時刻が迫ってきたので、やむを得ず中断、添乗員一人を残して、とりあえず腹ごしらえに行きました。


場所はボリショイ劇場の斜め前、マルクスの像が立つ広場の奥にあるレストランです。ここの店もまた、いかにもいった感じのする風格があり、おそらくはだれか高貴なる方のセカンドハウスかなんかだったのかもしれません。

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そのあとモスクワ大学に移動し、本館の28階へ。スターリン建築と呼ばれる建物の一つで、えらくお金がかかっている建物です。

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28階からのながめはすばらしかったです。そこからさらに32階まで上がると、そこは小さな会議場というか、イベントスペースです。通常はなかなか入れないそうで、今回はE団長の人脈でここまで足を踏み入れることができたようです。

P8050625それにしても、この大学の広さといったら、想像を絶するものがあります。しかも、敷地の半分以上はまだ手つかず。さて、大学を出てしばらく経ったころ、行方不明だった2人が見つかり無事保護されたとのニュースが届き、バスの中は大拍手。誰もが胸を撫でおろしました。

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ホテルに戻りPCを開きニュースをチェックしてみると、、東京は異常な暑さのようで、1週間連続で猛暑日だとか。正直、その期間にこんな涼しいところにいられてホントよかったと思いました。それにしても、訪問団の団長Eさんも添乗員さんも胆を冷やしたことでしょう。

トーハクで等伯!

2015年1月6日
東京国立博物館のことを最近は「トーハク」と呼ぶらしいですね。館長の銭谷眞美さん自身がそう呼んでいるので、“俗称・通称”といったレベルではなさそうです。

そのトーハクで年頭から開催されているのが恒例の「博物館に初もうで」。トーハクで所蔵している、その年の干支に関わる美術品を軸に、松竹梅や鶴亀、富士山など、新年にふさわしい作品をセレクトして展示した、企画性に富むユニークなイベントです。今年の目玉は、別にシャレたわけではないでしょうが、長谷川等伯(とうはく)の『松林図屏風』(国宝)です。実物を観る機会はめったにないと、家人の提案もあり、行ってみようということになりました。

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展示の期間が2日から12日までと短いですし、正月休みの期間と、最後の3連休は込み合うだろういうことで平日の今日を選んだのは正解でした。

国立博物館の周辺は以前とすっかり様変わりしたようで、正面玄関の前には美しい池と噴水があります。その左右にはカフェも設けられており、そこだけ切り取ると、ほとんどヨーロッパの風情。海外からやってきた人など、さすが日本を代表する博物館という印象を受けるのではないでしょうか。

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さて、今年の干支は「未」。ふだんは「羊」と書きますが、古来、神への最適な捧げものとされていたそうです。「よきもの」という意味があるとされ、「美」「善」などの文字の中にも「羊」が使われています。私自身の名前(=祥史)の「祥」という漢字も、シメス偏に「羊」です。それにふさわしい生涯を送りたいと、常々思っています。

というわけで、まずは「羊」にまつわる品々が展示されている「ひつじと吉祥」という展示を観ようと、本館・特別1室へ。『羊と遊ぶ唐美人と唐子』(北尾重政筆/江戸時代・18世紀)『十二神将立像 未神』(重要文化財/京都・浄瑠璃寺伝来/鎌倉時代・13世紀)『よきことを菊の十二支』(歌川国芳筆/江戸時代・19世紀)など、興味深い作品が所狭しと並べられていました。

その中で私が気に入ったのは『灰陶羊』という、 中国・漢時代(前3~後3世紀)の置き物。「灰冬」とは、「陶質土器の一種で、鉄分が還元されて灰青色の色調を呈する」と辞書にはありますが、高さ20センチほどのもので、なんとも愛嬌のある顔をしています。

続いては、今回の本命・国宝『松林図屏風』。安土桃山時代の絵師・長谷川等伯の水墨画で、六曲一双になっています。等伯は、狩野永徳、海北友松(かいほくゆうしょう)らとともに活躍、墨の濃淡や光の効果的表現を追求した人ですが、この作品は等伯の代表作で、近世水墨画の傑作とされています。

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写真ではわかりませんが、学芸員の説明にはこう書かれていました。「白い和紙の上に墨の濃淡だけで、風と光の情景が生み出されています。画面に近づいて松の葉をみると、その激しい筆勢に押されて、後ずさりするくらいです。(略)繊細でありながら迷いなく筆を進め、一気に線を引いていることが見てとれます。(略)さまざまな工夫と技術によってあらわされたこの松林には、霧の晴れ間から柔らかな光が差し込んで、遠く雪山がのぞき、冷たく湿った空気が漂います。艶(つや)やかな墨の色と相まって。風の流れや盛りの清清しい香りまで実感できるでしょう」

一読して、なるほどなぁと感じました。作品が展示されていたのは「国宝室」という専用スペースで、広々としており、リッチな気分で観賞できます。イスにすわってじっくり楽しんでいる人も多くいました。

展示品の数が多いので、あとはサクサクとまわってしまいましたが、お正月ということで、版画・浮世絵にもそれっぽい作品がいっぱい。その中で印象に残ったのが、歌川国貞の『二見浦曙の図』です。昨年、伊勢神宮に行ったときは通り過ぎただけだったので、さほど印象がなかったのですが、こうして絵になったものを観ると、すごい場所だったということがよくわかります。

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もう一つ、歌川広重の浮世絵『名所江戸百景』のうちの「するがてふ(駿河町)」という作品もGOODです。 いまの中央区日本橋室町3丁目あたりらしいのですが、もともと駿河国から出てきた人たちが住みついた町で、名前もそれにちなんでいます。駿府(いまの静岡市)の七間町から見た城と富士山とそっくりの景色が再現されている地域だったのでしょう。

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14回目を迎えた「北前船フォーラム」に参加

2014年4月19日
 昨日は秋田市で「北前船フォーラム」がありました。不定期開催のこのイベント、今回が14回目なのですが、始まったのはまだ8年前。これまでにかほ市(2008年4月)、佐渡市(2010年3月)でおこなわれた会に出席しています。ですから、私としては3回目になるのですが、日本海から日本史を振り返る、とても意義深い会なのです。

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 会場は秋田市北部の土崎にある県立大学。基本的には2日間の催しなのですが、会を追うごとに内容も充実しているようで、今回も明日まで6部に分けてパネルディスカッションや講演など、さまざまあります。「秋田を東アジアの一大拠点に」と題されたフォーラムに、急きょ代役でパネラーを引き受けたのですが、これから先、明示の初めまで日本経済を担っていた北前船について真剣に学ばなければいけないなと思ったしだい。

 そして今日は、秋田空港からセントレアまで飛んで私鉄とJRを乗り継いで京都に。3日間かけての大移動でしたが、こういう動きが個人的には大好きなのです。

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100歳のいまも矍鑠! 女性写真家の個展

2014年4月12日
笹本恒子氏さんという女性写真家の存在を今日初めて知りました。東京新聞に笹本さんの「100歳展」という催しがおこなわれる告知広告が出ているのを家人が見つけ、教えてくれたのです。会場は横浜の新聞博物館だそうです。

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なんでも、笹本さんは“日本最初の女性報道写真家”といわれているそうで、いまもなお元気に取材・執筆活動を続けているとのこと。戦前、20代で財団法人写真協会所属の報道写真の仕事を始め、日独伊三国同盟の婦人祝賀会やヒトラーユーゲントの来日、日米学生会議など、日米が戦争に突入する前の貴重なイベントの写真を撮影しています。戦後はフリーの写真家として、「60年安保」闘争の模様や画家の岡本太郎、評論家の大宅壮一、作家の宇野千代、美容化の吉行あぐり、画家の三岸節子などを撮影しました。
 
土曜日でもあるので、さっそく観に行きました。久しぶりに車に乗り、首都高を一路横浜へ。新聞博物館という会場は初めてで、ナビだけが頼りでしたが、日本大通りに面して建つ由緒ありげな建物です。

会場には笹本さんの作品134点が、「明治生まれの女性たち」「あの時代、あの人」「笹本恒子が見た時代」「いつまでも現役……笹本恒子さんの今」という4つのテーマに分けて展示されていました。まったくの偶然ですが、途中、笹本さんご自身が会場にやってこられ、お顔を拝見することができました。100歳とは思えぬ足取りで、矍鑠としておられます。居合わせた客とも気さくに言葉を交わしていましたが、まだまだこれからも仕事をされるのではないかと思えたほど元気です。

展示を見終わったあと、せっかくの機会だからということで、新聞博物館のほうもまわってみました。そういえば、中学生のころだったか、日本で最初の日刊新聞は横浜で生まれたということを教わった記憶があります。それを記念し、2000年10月にオープンしたのだそうです。新聞の歴史や新聞が作られるまでのプロセスをわかりやすく展示していました

 

博物館が設けられている「横浜情報文化センター」は、関東大震災の復興記念として建てられた商工奨励館を保存しつつ高層棟を新たに増築した歴史的建造物とのこと。近くには、横浜開港50周年を記念して建てられた開港記念会館や神奈川県庁本庁舎といった、味わい深い建物がいくつかあります。そのほか、横浜スタジアムや山下公園、大桟橋、中華街も歩いてすぐのところでした。

 

昼食どきになったので、何年ぶりかで中華街に足を運び、食事をし、さらにそのあと、赤レンガ倉庫で開催されていたHoli Festivalをのぞいてみました。こちらは、春の訪れを祝い、相手かまわず、色粉を塗り合ったり色水をかけ合ったりして祝う、ヒンドゥー教のお祭りらしいです。

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調べてみると、横浜ではこれより前から、「ディワリ(Diwali)」というお祭りが、毎年秋になるとおこなわれているとのこと。古代インドの叙事詩『ラーマーヤナ』に起源を持つ、ヒンドゥー教で最大のお祭りで、「光の祭典」とも呼ばれているとか。“横浜がインドになる”というのがキャッチフレーズのようですが、インド商人が日本で初めて拠点を設けたのが横浜ということにちなんでいるといいます。一度、足を運んでみたいと思いました。

映像化された『とびだす100通りのありがとう』

2014年2月12日

 
前にこのブログで紹介したミュージカル『とびだす100通りのありがとう』のDVD映像が公開されることになり、今日がその日。というか、今日しかチャンスがないのです。会場は日本橋の三越劇場。

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主催している高校時代の同期生Sさんの話によると、会場探しにはえらく苦労したといいます。昨年3月のミュージカルは大成功でしたが、なにせ1回こっきりのイベント。実際に被災した人たちが出演していた作品だったので再演がききません。出演者を変えればいいという性質のものではないわけですし。

 


しかし、「なんとかならないか」との声もあちこちで聞かれたようです。というわけで、記録としてとどめておこうと撮っておいた映像を編集し、DVDにまとめることになり、それが今日お披露目なのです。

 

 


しかし、しかし……。それは本チャンの舞台も顔負けの作品に仕上がっていました。私など当日、本番の舞台を観たはずなのに、まったく違うもののように感じたほど。映像化といっても、もともと2台の固定カメラで撮っただけですから、映像にはほとんど変化がありません。せいぜい寄ったり引いたりだけで、早い話4パターンつの映像しかないのですが、それでも感動で目頭が熱くなりました。

 

「日ロ創幸会」の設立準備会に参加

2013年11月23日

正午から始まる会があり、祭日だというのにネクタイまで締め、丸の内まで出かけました。

 

 

8月にロシアを訪れたのが一つのきっかけなのですが、「日ロ創幸会」という名のNPO法人と関わることになったからです。

その名のとおり、「日本」と「ロシア」の人々との間を結ぶことで「幸」福の歴史を「創」っていきましょうという基本趣旨にのっとって発足することになった会の、きょうは設立準備会なのです。

同法人の発起人は、夏ロシアでご一緒したEさん。下のお名前が「幸作」ということもあり、「創幸」という名称は早くから決めておられたようです。

ロシアのあちこちを一緒に回っていた折、雑談の中でそうした話はされていたのですが、まさかこれほど早く形になるとは思ってもいませんでした。

「NPO法人」という言葉はよく耳にしますし、実際、私自身も講演の依頼を受けたり、会合にお招きいただいたりなど、いくつかのNPO法人と接点はあります。しかし、今回は「理事」の役を引き受けてくれませんかとのお話でした。

もちろん、Eさんには奥様ともどもに大変お世話になっているので、二つ返事でお引き受けしたのですが、自分のような者に果たして何ができるかと考えてみると、なんともおぼつかないというのが現実です。

 

私自身、昔もいまも、とりたててロシアに関心を寄せていた(いる)わけではありません。そもそも、今年の夏ロシアに行くことになったのも理由は簡単明瞭。モスクワで世界陸上選手権が開催されたからです。

ただ、そうはいっても、ロシアです。行く前には根拠のない不安があり、それを少しでもやわらげたいとの思いで、Eさんに相談を持ちかけたのが事の始まりでした。

 

しかし、人生というのは面白いものです。Eさんにとってはむしろそれがきっかけとなって、ソ連の時代も含め、仕事としてこれまで40年近く関わってきたロシアという国、またその中でつちかった広範な人間関係を、仕事をやめたからといって放り出してしまうのはもったいないと感じたのではないでしょうか。その思いがあっという間に熟成され、3カ月も経たないうちに、具体的な形になったということです。

私自身も、8月中旬に帰国して以来、新聞や雑誌で「ロシア」という文字があると、なんだか吸い寄せられるように読んでしまうといったことが、何度となくありました。

また、ロシアという国が、文字どおり「百聞は一見にしかず」で、私の好奇心を大いに刺激してくれたことはまちがありません。

次はなんとしても「冬のサンクトペテルブルグを、ぜひ自分の目で見てみたい!」と思ったくらいですから。しかも、その思いはいっこうに衰えを見せません。

 

それどころか、今日の会で隣にすわられたEさんが、「来年3月にぜひまた来てくださいとセルゲイさから連絡があったんですよ」などという話をされたときも、「来年3月は、どんなスケジュールになっていたっけ?」と自問自答していたほどです。

そのセルゲイさんとは、モスクワでご挨拶をしただけで、ゆっくりお話することができなかったのが、私たちにとっては大きな心残りになっていました。しかし、こうしたことが、旅への意欲、モチベーションを高めていくのです。

8月のロシア行きにしても、当初はEさんお1人でということのようだったのですが、何度か打ち合わせをしているうちに、奥様もその気になられたとのことです。

ご主人が40年近くにわたってソ連─ロシアを、都合80数回も訪問したにもかかわらず、奥様は一度も同行されたことがないというのは、考えてみれば不思議な話です。

 

ただ、Eさん自身にしてからが、そもそも「公」以外でロシアを訪れたことはないというのですから、致し方のないことだったのでしょう。

でも、これまでの仕事にいちおうピリオドが打たれたのですから、これから先は「私」でロシアに行ってもいいはずです。そこに奥様はじめ、ご家族のだれかが同行しても、むしろ「いい話」ではないかと、私などは思います。

「お父さんは、こういう人たちと仕事をしていたんだ」とか「こういう場所にいつも行っていたのか」といった経験をすれば、違った父親像が見えてくることもあり得るでしょうし、それがまた思わぬ展開をもたらすこともあるかもしれません。

おそらくは、そういうことの積み重ねによって個々人の人生は変わり、ときにはドラマを生み、ひょっとしたら世界を変えるなどということさえ考えられるわけです。

何事も経験とはよくいったもので、そこに私個人の生き方も焦点を合わせて生きています。

ちなみに、今日は私と家人の37回目の結婚記念日でした。2人でどこかで豪勢な食事でも……などと考えなくもなかったのですが、今日の会は十分、その代わりになりました。

飽きるほど見慣れているいつもの2人より、多くの方と一緒にテーブルを囲んで食べるほうが楽しいに決まっています。「日ロ創幸会、万歳!」と叫びたくなりました。

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素晴らしい思い出となる経験をさせていただいたEさん、また奥様に乾杯! です。ありがとうございました。

映画はやはり、爽快感のある作品にかぎる!

2011年11月18日
各種メディアの映画欄で絶賛されている『サウダーヂ』を、渋谷まで観にいきました。これを観ずに映画を語るなかれといわんばかりのコメントを信じてのこと。でも、うーん…?…?? という感じです。私が映画を観始めた40年以上前から、このテの作品はありますが、とてもではありませんが、ついて行けません。もちろん、映画に何を求めるか、その違いもあるでしょう。2時間30分という長い時間を無駄にしてしまったというのが正直な感想です。

私にとって映画とは、やはり楽しみ(エンタテインメント)以外の何ものでもありません。ストーリーが単純であろうが複雑であろうが、それはいいのです。でも、観終わったあと爽快感が味わえない作品は私的には“失格”です。1960年代末から70年代半ばにかけて、アメリカンニューシネマの波が映画界に押し寄せました。『俺たちに明日はない』『ワイルド・バンチ』『イージー・ライダー』『明日に向って撃て』『真夜中のカウボーイ』『いちご白書』など名作が目白押しですが、それでも観終わったあと、なんとも合点が行かない、思い描いていたとおりに終わらない、不条理とでもいうのでしょうか、そうしたフラストレーションを感じたことが少なくありません。

ラブストーリでもアクションでもサスペンスでも、ジャンルに関係なく、爽快感が得られない作品は受け容れられないのが私です。単純といわれればそれまでですが、こういうファンはけっして少なくないのではないでしょうか。それと、いまさらですが、映画評論をやみくもに信じて観にいくのはやめたほうがいいようです。グルメガイドにもあてはまりそうですが、こうしたものは自分の感性だけを信ずるべし、ということでしょう。映画のあとで食べた道玄坂くじら屋のなつかしいクジラ料理の数々が、相変わらずおいしかったのがせめてもの救いでした。

「広島+京都 文化フォーラム」のパネラーを務める

2011年11月12日
昨日(2011年11月11日)の午後1時11分は、100年に一度という、「1」がズラリ並ぶ時刻だったそうです(だからといって、どうということはないのですが)。昼過ぎに東京を出て夕刻広島入りしたのですが、夜は、『広島学』の執筆にあたり、事前の取材準備段階で貴重なアドバイスを頂戴した、明和高校の同窓・同期でもあるKくんと食事をしました。今年は4月からニュージーランドに留学していたそうで、それを知らなかった私は、5月末に本が完成してすぐ、Kくんの勤務先に送ったのですが、連絡がなかったので、おかしいなと思っていたのです。しばらく経って、奥さんからお礼のハガキが届き、そこに海外留学している旨が書かれていました。

そして、10月の初めごろ帰国したKくんにメールをしたところ、留学先がニュージーランド、それもオークランドであったことを知り、また驚きました。ラグビーのワールドカップ観戦のためニュージーランドに行き、しかもオークランドで8泊もしたのですから、事前にわかっていれば現地で会うこともできたのに……と、残念でなりませんでした。それでも、話は大いに盛り上がりました。

さて、今日は広島の中国新聞社5階ホールで、「広島+京都 文化フォーラム」という催しがあり、私もパネリストの1人として出席しました。今年は、拙著『広島学』が大いに売れたこともあってか、例年になく参加申し込み者が多かったようで、告知後3、4日で締め切ったとのこと。多少は貢献できたということでしょうか。

内容は12月8日付の中国新聞、同じく15日付の京都新聞に詳しく紹介されるそうなのでここでは割愛しますが、広島と京都には意外な共通点もあり、私はそのあたりについて話をさせていただきました。

ナマの神楽を初体験

7月17日
生まれて初めて「神楽」をナマで観ました。『広島学』の取材をしているときに、広島がその本場であることを知ったのですが、今日、RCC(中国放送)主催の神楽イベントがあったのです。
広島県北西部に伝わる神楽は石見(いわみ)神楽の流れを汲み、「芸北神楽」と呼ばれています。普通の神楽に比べ、軽快で激しい囃子に乗せた舞いが特徴らしく、この地方では子どもからお年寄りまで、幅広い人気があるといいます。

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また、石見神楽同様、演劇の要素が濃く、大衆芸能(エンタテインメント)として発展してきたとのこと。この日私たちが楽しんだのも、「悪狐伝」「道成寺」「土蜘蛛」「紅葉狩」といった、能・狂言や歌舞伎の演目をもとに生み出された作品でした。
奏楽は、大太鼓、締太鼓、銅拍子(手打鉦)、横笛で構成され、大太鼓の奏者がリードしていました。演奏しながら演目に合わせた神楽歌(舞歌)を唄ったりかけ声をかえたりしながら、雰囲気を盛り上げます。最初のうちはおおむねゆったりとしていますが、物語が進み鬼と神との格闘といったクライマックスの場面になると、一気に激しく速いテンポに切り替わります。
途中、おかめやひょっとこが登場し、本来のストーリーとうまくからめ合わせながら、観客の笑いを誘うのも興味深く感じました。しかも、セリフが広島弁ですから、なおさらです。
この年齢になって初めて経験する芸能があること自体、驚いたのですが、世の中なんて、案外そんなものかもしれません。

こんどは石垣島で「BEGIN」

6月25日
本当は昨日おこなわれるはずだった「うたの日コンサート」が、台風6号の襲来で早々と中止になりました。がっくりきていたのですが、昨夕、車の中でラジオを聴いていたら、なんと、急きょ、場所を変えて開催するというではありませんか。あわてて石垣島までの飛行機とホテルを手配し、今日の朝、那覇から移動してきました。

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コンサートは午後4時からということでしたが、2時過ぎには、会場になった公園の前に行列ができていました。やはりBEGINの地元ということもあり、ファンの数も多いようです。今年で10回目ということで、初めて石垣島での開催となっただけに、中止になったままだったら、泣くに泣けません。私たちもほとんどあきらめていただけに、復活して大いに盛り上がりました。

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辻井伸行とは広島で

2011年3月5日
昨日は盲目のピアニスト辻井伸行のコンサートを楽しみました。タクトを振るのは、昨年秋、小学生のときから夢見ていたというベルリンフィルの指揮者になった佐渡裕なので、チケットを予約したのは4カ月ほど前だったでしょうか。
期待にたがわぬ素晴らしい内容でした。

〝一度観たら絶対忘れない絵〟を描く作家

てらもとたてお(寺本建雄)さんの個展を観にいってきました。てらもとさんは、私の出身校(愛知県立明和高校)で同期の元女優そふえまなさん(祖父江真奈)のダンナさんです。「劇団ふるさときゃらばん」で〝職場結婚〟した2人ですが、てらもとさんは劇団の音楽と美術を一手に引き受けてきました。

てらもとさんの絵はなんとも個性的というか、一度観たら絶対に忘れることのない作品ばかり。そのてらもとさんの、意外なことに初めての個展が浅草に近い吾妻橋のたもとにあるアサヒビール本社の一角にあるギャラリーで開催されると聞き、最終日(12月28日)になってしまったのですが、これは見逃せないと足を運んだのです。

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小さなギャラリーではありますが、そこにはまごうことなき〝てらもとワールド〟が繰り広げられていました。

「描くのにそんなに時間はかからないんだよね。イメージがガンガン浮かび上がってくるから」という、てらもとさんの言葉は、私にもよく理解できます。おそらく、そのときが、その絵を描くための唯一のチャンスなのでしょう。文章を書くのもまったく一緒です。

Rimg0238 よく「構想○年、執筆に×カ月」とかいいますが、私の場合、そういうことにはなりません。頭の中に書きたいことが思い浮かんだときは、そのまま原稿用紙(いまはパソコンですが)に向かっています。そのイメージがはっきりしているときは、それこそあっという間に書き上がります。「構想一瞬、執筆1時間(400字詰め原稿用紙7~8枚)」でしょうか。

そして、口はばったいいい方ですが、そういう文章こそ、たぶんベストのできではないかと思っています。ささっと書けた文章というのは、ささっと読んでもらえる──これは私の確信です。これから先も、そんな原稿を書いていきたいと願っています。

朝青龍の引退相撲

これまでテレビなどで目にしたことしかなかった、いわゆる「引退相撲」。今日初めて、それを直に見ることができました。主人公は、今年2月に突然引退し、新聞の号外まで出た68代横綱の朝青龍。観客席がほぼ満席に近かったことからも、その人気のほどが知れるというものです。式次第は、ふれ太鼓のあと、三段目・幕下力士の対戦が5番ほどおこなわれ、そのあと髪結いの実演、十両土俵入り、相撲甚句の披露、そして十両の取り組みと続きます。

そして、これで見納めという朝青龍の土俵入り、初切(しょっきり)のあと、後援会代表の挨拶があり、「断髪式」へ。朝青龍に花束が贈呈されたあと、櫓(やぐら)太鼓の打ち分け実演、幕内の取り組み(三役そろい踏みもある)・弓取式がおこなわれ、最後がメインイベントの断髪です。「引退相撲」というのは俗称で、「○○○(引退する力士のシコ名)引退断髪披露大相撲」が正式ないい方のようです。
土俵上に置かれたイスに腰かけた朝青龍のまげに、母国モンゴルの大臣や政治家・経済人をはじめ、日本国内の後援者、知人・友人関係者が次々とハサミを入れ、最後に親方が大いちょうを落として終わります。通常どのくらいの人がハサミを入れるのかわかりませんが、朝青龍の場合は300人以上が土俵に上がりました。1人あたり30秒としても、それだけでゆうに2時間半はかかります。

朝青龍の父親がハサミを入れたときは割れんばかりの拍手が場内に響きわたりました。さすがに、このときは朝青龍もウルウルだったようです。以前ラスベガスで巡業がおこなわれたとき観にいったとき、会場のホテルで偶然出会った父親や妹と写真を撮ってもらったことがなつかしく思い出されました。

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朝青龍については、現役時代さまざまな評価がなされていましたが、私自身は批判的なコメントに同感できませんでした。2002年3月場所に横綱に昇進し、当時すでに長期にわたって休場していた貴乃花が引退した2003年初場所から約4年間、ひとり横綱を張り続けた、その功績だけでも大変なものがあると思うからです。

貴乃花が綱を張っていた時期、大相撲の人気はすさまじいものがあったのは、だれもが覚えていることでしょう。その貴乃花が引退し、だれもが相撲人気もこれで落ち込むのではないかと見ていたのですが、そこに立ちはだかったのが朝青龍です。品格がどうのとか所作振る舞いがウンヌンと、その強さがきわだってくると、何かにつけて矢面に立たされ、最後のころはほとんどヒール役となっていました。しかし、窮地におちいりそうになった大相撲を〝もたせた〟のが朝青龍だったのですから。

この日の引退相撲の案内チラシには、だれのアイデアかわかりませんが、「自業自得」というキャッチフレーズが大きく出ていましたが、これはご愛嬌でしょう。「横綱というのはただ強ければいいわけではない、品格をそなえていなくてはいけない」と声高に唱えていた人も少なからずいましたが、それも大相撲の興行自体が成り立ったうえでの話です。
遊牧民の国モンゴルと日本とでは、そもそも自然環境、気候風土が根本的に異なりますし、当然のこと、人々の気質や感覚もまったく違います。数年前、モンゴルに一歩足を踏み入れた瞬間、そして街中を歩いたとき、「だから、朝青龍なんだ!」と痛切に思いったものです。
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朝青龍だけでなく、モンゴルなど外国から力士を受け入れ始めた時点で、そうしたことに思いをいたした親方や相撲協会の人たちがいたとはとても思えません。郷に入っては郷に従えとはいっても、やはり限界があります。いくら体裁や格好を日本や、その〝国技〟相撲の世界に合わせたとしても、人間、ひとたび「戦い」の場に出れば、そんなものはひとたまりもありません。ふだんはたくみな演技をし通していたとしても、どこかでほころびを見せるというか、本性がいやおうなしに顔を出すものなのです。

そうしたことに蓋をしたまま──いや、考えてもいなかったといったほうが正しいでしょう──横綱に推挙し、しかもその横綱が〝国技〟の盛り上げにひと役もふた役も買ってくれたことはだれも否定できません。呆れるのはしかたないとしても、朝青龍には感謝こそすれ、叱ったり非難したりするのは筋違いではないかと私は思うですが。「自業自得」という言葉には、そんな皮肉も込められていたのではないのでしょうか。