朝青龍の引退相撲

これまでテレビなどで目にしたことしかなかった、いわゆる「引退相撲」。今日初めて、それを直に見ることができました。主人公は、今年2月に突然引退し、新聞の号外まで出た68代横綱の朝青龍。観客席がほぼ満席に近かったことからも、その人気のほどが知れるというものです。式次第は、ふれ太鼓のあと、三段目・幕下力士の対戦が5番ほどおこなわれ、そのあと髪結いの実演、十両土俵入り、相撲甚句の披露、そして十両の取り組みと続きます。

そして、これで見納めという朝青龍の土俵入り、初切(しょっきり)のあと、後援会代表の挨拶があり、「断髪式」へ。朝青龍に花束が贈呈されたあと、櫓(やぐら)太鼓の打ち分け実演、幕内の取り組み(三役そろい踏みもある)・弓取式がおこなわれ、最後がメインイベントの断髪です。「引退相撲」というのは俗称で、「○○○(引退する力士のシコ名)引退断髪披露大相撲」が正式ないい方のようです。
土俵上に置かれたイスに腰かけた朝青龍のまげに、母国モンゴルの大臣や政治家・経済人をはじめ、日本国内の後援者、知人・友人関係者が次々とハサミを入れ、最後に親方が大いちょうを落として終わります。通常どのくらいの人がハサミを入れるのかわかりませんが、朝青龍の場合は300人以上が土俵に上がりました。1人あたり30秒としても、それだけでゆうに2時間半はかかります。

朝青龍の父親がハサミを入れたときは割れんばかりの拍手が場内に響きわたりました。さすがに、このときは朝青龍もウルウルだったようです。以前ラスベガスで巡業がおこなわれたとき観にいったとき、会場のホテルで偶然出会った父親や妹と写真を撮ってもらったことがなつかしく思い出されました。

Dsc_1702

朝青龍については、現役時代さまざまな評価がなされていましたが、私自身は批判的なコメントに同感できませんでした。2002年3月場所に横綱に昇進し、当時すでに長期にわたって休場していた貴乃花が引退した2003年初場所から約4年間、ひとり横綱を張り続けた、その功績だけでも大変なものがあると思うからです。

貴乃花が綱を張っていた時期、大相撲の人気はすさまじいものがあったのは、だれもが覚えていることでしょう。その貴乃花が引退し、だれもが相撲人気もこれで落ち込むのではないかと見ていたのですが、そこに立ちはだかったのが朝青龍です。品格がどうのとか所作振る舞いがウンヌンと、その強さがきわだってくると、何かにつけて矢面に立たされ、最後のころはほとんどヒール役となっていました。しかし、窮地におちいりそうになった大相撲を〝もたせた〟のが朝青龍だったのですから。

この日の引退相撲の案内チラシには、だれのアイデアかわかりませんが、「自業自得」というキャッチフレーズが大きく出ていましたが、これはご愛嬌でしょう。「横綱というのはただ強ければいいわけではない、品格をそなえていなくてはいけない」と声高に唱えていた人も少なからずいましたが、それも大相撲の興行自体が成り立ったうえでの話です。
遊牧民の国モンゴルと日本とでは、そもそも自然環境、気候風土が根本的に異なりますし、当然のこと、人々の気質や感覚もまったく違います。数年前、モンゴルに一歩足を踏み入れた瞬間、そして街中を歩いたとき、「だから、朝青龍なんだ!」と痛切に思いったものです。
Rimg0080_2

朝青龍だけでなく、モンゴルなど外国から力士を受け入れ始めた時点で、そうしたことに思いをいたした親方や相撲協会の人たちがいたとはとても思えません。郷に入っては郷に従えとはいっても、やはり限界があります。いくら体裁や格好を日本や、その〝国技〟相撲の世界に合わせたとしても、人間、ひとたび「戦い」の場に出れば、そんなものはひとたまりもありません。ふだんはたくみな演技をし通していたとしても、どこかでほころびを見せるというか、本性がいやおうなしに顔を出すものなのです。

そうしたことに蓋をしたまま──いや、考えてもいなかったといったほうが正しいでしょう──横綱に推挙し、しかもその横綱が〝国技〟の盛り上げにひと役もふた役も買ってくれたことはだれも否定できません。呆れるのはしかたないとしても、朝青龍には感謝こそすれ、叱ったり非難したりするのは筋違いではないかと私は思うですが。「自業自得」という言葉には、そんな皮肉も込められていたのではないのでしょうか。