外はチョー寒くても、人々の心は温かい

2019年3月29日
最後の寄港地キルケネスに到着したのは朝9時。ここまで走った距離は2465km。青森から石垣島までの距離とほぼ同じです。今日は昨日以上の天気で、空は真っ青、雲ひとつない快晴です。ロシアと国境を接するこの町は、一定の範囲内なら両国民がビザなしで行き来できるそうで、お互い、安いものを求めてキルケネスに行ったり、隣のムルマンスクからロシア人がやってきたりするとのこと。シンガポールとマレーシアの国民が行き来するジョホールバルのような感じでしょうか。

空港から国内線で首都オスロまでは1時間30分。最初は真っ白だった地上の景色が、南へ降りるにつれどんどん緑色と茶色とグレーのまだらに変わっていきます。オスロの空港からは途中、車窓観光をしながらホテルまで。最初は「おやっ」と思った程度でしたが、部屋に入り、窓から町を見下ろすと、5年間に来たときに泊まったホテルかも……と。

荷ほどきを済ませホテルの近くを歩くと、家人は記憶がどんどん蘇ってきたようで、「あのATMでお金を引き出そうとしたらできなかったのよ」とか「その店で買ったミネラルウォーターが1本500円もしてびっくりしたでしょ」などと言います。それでようやく、私も思い出すという始末で、記憶力が落っこちているのにガックリしました。

夕食は素晴らしい店でいただきました。最後なので旅行会社もいいところを用意したくれたようです。市庁舎前広場の最南部、湾に面したエリアに、小さな船が行き来する桟橋が。「Aker Brygge」という、えらくおしゃれなショッピングモールの周りに、ガラスをいっぱいに使った建物がいくつも並んでいます。その一角にある「Lofoten」というレストランでしたが、シーフードもおいしく、ワインもGOOD! 全員お腹いっぱい大満足で食べ終えました。

店の名前にもなっているロフォーテン(諸島)は、明るい時間帯に航行しなかったので、いちばん美しい景色は見れずじまいでしたが、ツアーに参加していた方で、それをとても悔しがっている方もいたほどですから、よほどのものなのでしょう。しかし、それを差し引いたとしても、今回経験した6泊7日のクルーズは、私自身のクルーズに対するイメージを大きく変えたと言えます。

それは、大きな海を走っていても、船の左右どちらか一方にでも陸地が見えると、私たちを飽きさせないということです。当たり前といえば当たり前ですが、フィヨルドの場合はその変化が大きく、少しも油断できないところがあります。ボーッとしているとまったく景色が変わっており、新しい楽しみを発見できるのです。夏も冬も、これほど変化に富んだフィヨルドという大自然を満喫できるノルウェーをうらやましく思いました。外はチョー寒いですが、温厚な笑顔を見せてくれるかの国の人たちの心根には、そうしたことに由来するやさしさが強く息づいているような気がします。

大迫力のオーロラに大感動・大満足!

2019年3月28日

船に夜を過ごすのもいよいよ今日がラスト。朝から素晴らしい好天に恵まれました。今回のツアーの一つというか売りである、ヨーロッパ最北端(北緯71度10分21秒)の岬「ノールカップ」訪問にはもってこいの空模様です。ところが、なんとなんと、「ノールカップ」への入口であるマーゲロイ島の港ホニングスヴォーグに降り、バスに乗ろうかというまさにその瞬間、添乗員さんの声が。「今日は残念ながら、ノールカップに行く道が通行止めになってしまいました」ですと。前日まで続いた悪天候が災いしたようです。全員アチャーッ! という感じで、「ではどうするの?」。代替観光というにはあまりに方向性が違う、漁村訪問と町の見学ということにあいなりました。

途中、「ノールカップ」に向かう道路(30kmほど)との分岐点を、うらめしい気持ちで通り過ぎ、ひなびた漁村まではゆっくり走ります。こんな田舎でも、家々はかわいらしいという言葉がぴったりのカラーで塗装されており、日本の漁村とはまったく違う印象が。空はますます晴れ渡り、風もなく、気温もそれほど低くないというのに、いまさらながら「なんで?」という質問が同行のツアーメンバーから発せられます。要するに、「ノールカップホール」という施設そのものが閉鎖されてしまったのですね。というわけで、楽しみにしていた、地球の形がユニークなモニュメントの前で記念撮影という夢もついえてしまいました。

漁村に到着し、私たちが訪れたのは小さな入江の一角にある加工場。そこいら中にタラが干してあります。1、2日前に獲れたとおぼしきもの、1週間から10日ほどたったように見えるもの、頭の部分だけなど、その姿はさまざま。このエリアでいかに多くタラが獲れるかがひと目でわかります。

 

 

その一角に、こんなところになぜ? と言いたくなるようなギャラリーがありました。中に入ると、切り絵でアートを作っている女性作家がひとり、私たちを歓迎してくれます。温かみのあるユニークな風合いの作品がいくつも並べられ、家人も一つ購入。

ホニングスヴォークは人口3千ほどの小さくて地味な町ですが、北部ノルウェーの重要な漁港だそうです。1944年、それまでこの町を占領していたドイツ軍が撤退するにあたり、町を徹底的に破壊していったため、教会だけが唯一残ったといいます。

バスの窓からその教会を見たりしながら、桟橋まで戻りました。少し時間に余裕があったので、近くを回ってみました。雪が解けてグチャグチャにぬかるんでいる道路の歩きにくいこと。途中、「ノールカップ」をあきらめさせられたクルーズの客と何人もすれ違いました。

シーフードビュッフェの夕食が済み、部屋でひと休みしていると、添乗員さんの興奮した声が客室の中まで聞こえてきました。「オーロラ、出ましたーっ! 出ましたよーっ!!」 ほとんど着の身着のまま状態で上の甲板に行くと、たしかに、いますぐにでも出そうな空です。星がいっぱいで、雲がほとんどありません。風もおだやかで、気温はおそらく0℃くらい。

3、4分たつと、まず小さなオーロラが。緑色のぼやーっとした巨大な雲のような感じです。それが自由自在に動き、大きくなったり小さくなったり。いったんは消えましたが、今度は逆の方向にそれより大きなオーロラが。風になびくカーテンのように形をしています。それが左から右へ、上から下へと変幻自在に動き、形を変えていきます。さらに、もっと大きなオーロラが、それこそ空の半分近くを覆うように姿をあらわしました。それがなんと3分近く続き、私たちはもう極度の興奮状態に。

昨夜までは、三脚をセット、オーロラ出現に備えていたのですが、この夜は荷造りもしなくてはならなかったので、写真を撮るのは早々にあきらめ、「スマホでいいや」と思っていた私。しかし、スマホででも十分に撮れるくらいの巨大でドラマチックなオーロラですから、きちんと準備をして甲板に上がってきた人は、それぞれ素晴らしい写真が撮れたようです。

 

7年前、カナダのイエローナイフというところで、マイナス20数度の極寒の夜、オーロラを見ましたが、それに比べると今夜のそれはスケールが違いすぎ、大パノラマといった感じ。イエローナイフがシャボン玉の泡だとすれば、このとき観たオーロラは固いラグビーボールのようなものです。最後の夜に観ることができ、ホント幸せでした!!! 「ノールカップ」に行けなかった落ち込みから、天まで一気に昇りつめたような感じでしょうか。

ずーっと見ていても飽きることのないフィヨルド

()2019年3月27日
なんだかあっという間に時間が過ぎていく感じで、まったく退屈しません。乗る前は、フィヨルドを縫うようにしてただ航行していくだけだから、途中で飽きてしまうのではないかとも正直、思っていました。でも、実際に乗ってみると、海岸の景色は千変万化、どんどん変わっていくのです。

北極圏に入るまでは積雪量もそれほどではないせいか、山肌にも木や草、また岩の姿が見えました。というか、表面はあまり白くないのです。しかし、緯度が高くなるにつれ、それが徐々に逆転、ストークマルクネス、ソルトラン、リソイハムンを経て、今朝到着したハシュタ近辺は9割方、雪と氷に覆われています。もう見るからに「北極圏!」といった印象ですから、気持ち的にも「寒い~!」となり、体が縮こまりそうです。

今朝6時45分に着いたハシュタ(Harstad)の町は、停船時間が1時間ということもあって、ツアー一行で上陸。船の近くを40分ほどかけて歩きました。とりたてて特徴があるわけではありませんが、それでも寒さを実感する──とくに足もとから──にはいい経験でした。

午前中は船内のサロンのようなところで、「北欧クイズ&講座」の時間がもたれ、ここまで数日の間、添乗員さんと現地ガイドの方が伝えてくれた話の復習作業のようなことをしながら楽しみました。聞いているようで頭に入っていないことも少なからずあり、旅で得られる情報は、幅も広く量も多いことに気づかされます。

14時15分、トロムソに到着。ここは北極圏では最大の町ですから、当然下船観光となりました。船を降りるとバスでまず「ポーラリア」という水族館に行き、アザラシへの餌やりを見学。私は早々に外に出てタバコなど吸っていましたが、水族館の周囲には、アザラシ狩猟船が保存展示されたガラス張りに建物がありました(冬場はクローズ)。その建物は、すぐ前にノルウェーの探検家ナンセンの小さな彫像があったので、てっきりナンセンが北極点をめざして探検したときに乗っていったフラム号かと思っていたのですが……。

  

ここから橋を渡りメインランド側にある「北極教会」に。1965年に完成したという教会ですが、ガラスとコンクリートをふんだんに用いて作られている岩の教会もそうでしたが、北欧というところは、伝統的な建築様式の教会もある一方で、こうしたシンプルなデザインのものもときおりあるようです。MARIMEKKOやIKEA、INOVATOR、KLIPPAN、IITTALA、ARABIA、ロイヤルコペンハーゲン、ヤコブ・イェンセン、BANG&OLUFSENなど、フィンランド、スウェーデン、デンマークのブランドはその名が広く知られていますが、なぜかノルウェーのブランドは日本ではほとんど無名。ただ、そのコンセプトにはどこか共通したものがあるのでしょう。

   

教会内部もシンプルそのもの。木をふんだんに用いてあるので、ぬくもりがよく伝わってきますし、三角形のステンドグラスも斬新な印象を受けました。バスでターミナルまで戻ると、乗船時刻まで1時間ほどあったので、近くをひと回り。公園にアムンゼンの銅像が立っています。そこから少し街中に入ると、世界最北端(?)の地にあるセブンイレブン、こぎれいでシンプルな教会、かわいらしい店が並ぶ商店街がありました。いかにも北欧、ノルウェーのイメージで、ぬかるんだ道も気にならず、ゆっくり見て回ったあと乗船。

 

 

 

夜11時頃、「オーロラが見えそうですよ!」という添乗員さんの声が聞こえました。あわてて7階のデッキまで上がっていったのですが、残念ながら不発。たしかに、空は晴れていて星もそこそこ見えはしましたが、オーロラ出現までには至らず、部屋に戻りました。

クルーズ4日目で初めて見た太陽

2018年3月26日
ここのところ朝4時過ぎには目を覚ましてしまうのですが、キャビンの窓から外を見ると、雨も降っておらず、すっきりした朝が来そうな感じです。予想どおり、6時には空がうっすら赤くなり、太陽が見え始めます。船に乗って4日目、初めて見る太陽! これは素晴らしい1日になりそうです。

 

今日は午前0時45分にブリュニィスン、3時45分にサンネスショーエン、5時25分にネスフに停船し、朝食を終えた頃にオルネスに到着。じつはこの間に北極圏に突入していたのです。朝食のあと、8階の屋外デッキで「北極圏突入洗礼式」なるイベントがおこなわれ、今朝7時6分42秒に突入したことを知りました。突入時刻を当てるクイズがあったのですが、それにいちばん近かったのがインド人のカップル。船長からお祝いとして、背中に氷水を注ぎ込まれ皆大笑い。しかし、やはり北極圏突入となると、天候や風の具合にもよりますが、肌がチクチクします。

 

 

 

お昼前にボードーという町に到着。昼食後のひとときを利用して町に出ました。昨日はタクシーでトロンハイムの町中まで行ったのですが、今日はツアー一行で徒歩。人口4万数千の小さな町ですが、上陸前に飛行場があるのも見えましたし、サッカースタジアムも。小さいながらも工場群もあったようなので、ノルウェー国内でもそれなりに重要な位置を占めているのでしょう。

訪れたのは「大聖堂(ルーテル教会)」と図書館、「サーモンセンター」の3カ所。この町も第2次世界大戦でナチスドイツにこっぴどくやられたようで、「大聖堂」も破壊されてしまったといいます。戦後、1956年に再建されたそうですが、「ルーテル」という名のとおり、質素な造りの教会です。中のモザイク画は簡素ながらも色彩が素晴らしく、印象に残ります。すぐ近くには、こちらも外壁の黄色がなんとも美しい「ノールランド博物館」がありました。

そこから坂を下りたところがこの町のメインストリート。といっても100mほどの長さしかありません。港にいちばん近いところにあるコンサートホールと図書館は、完成して間もないとのことで、シンプルであか抜けしたデザイン。港に停泊していた小舟にはタラが干してありました。最後に訪れたサーモンセンターは、ユニークなサーモンのイラストをふんだんにほどこした建物で、ノルウェー水産業の主要品目であるサーモンの養殖をわかりやすく紹介しています。雪はあまり降らない代わりに風が強く、船までの帰り道、冷たい風に吹かれながら歩きました。

ここらあたりから船は、ロフォーテン諸島がある海域に入っていきます。クルーズが始まる前、添乗員さんは「世界でもっとも美しい場所の一つ」「アルプスの頂を海に浮かべたよう」などと話していたのですが、通過するのがちょうど夜の時間帯で暗いため、残念ながら、景色を楽しむことはできません。19時にその島の一つにあるスタムスン、さらに21時にはスヴォルヴァーという町に停船はしたものの、海岸の美しさを楽しむことはかないませんでした。とくに、ロフォーテン諸島の中でいちばん大きな町スヴォルヴァーには1時間停泊するので、100人ほどの乗客が下船し、おそらくは氷点下の気温の中、雪で凍りついた道を歩き、船から数分のところにあるお土産物屋というかコンビニというか、正体のよくわからない店に向かいます。入りきれずに外まで行列ができていたので、私はパス。船に戻ったときの温かさがひときわ身に沁みました。

本当なら、ここには昼間の明るい時間帯に寄港し、島内をバスで回ったりしてみたいところ(どこを走ってもその景色は息を呑むほど美しいそうです)。皆さん、そうした残念な気持ちでいたのかもしれません。

クルーズ3日目で初めて見た月

2019年3月25日
モルデを前夜18時30分に出航、途中クリスティアンスンに停船し、2つ目の停船観光地トロンハイムに到着したのは今朝6時。北緯63度25分ですから、気温は当然低いです。それでも、メキシコ湾流の影響で、予想していたほどではありません。オーレスンと違い、こちらは道路のかなりの部分が凍っていて、雪も舞っていました

朝食をさっさと済ませ、8時には船を降り、タクシーで中心部に向かいます。駅の近くで下車し、そこからは徒歩。かつて首都が置かれていたことを示す王宮は木造で質素な印象です。それを見ながら南に下っていくと、ニーダロス大聖堂が見えてきました。そちらを訪れる前、東に折れたところに架かる「はね橋」に立ち寄りました。川の両岸には新旧の倉庫がびっしりと並び、美しい光景を見せてくれます。冬のにぶい太陽光のもとでもこれほどの美しさですから、春から夏にかけての時期、燦燦と照らされた明るい空の下であればさぞかし映えるでしょう。町には大きな大学があるらしく、歩いている人の多くが学生です。

     

はね橋から戻ったところにあるのが「ニーダロス大聖堂」。中世に建てられた建物ではノルウェー最大なのだとか。1070年に建造が始まり完成したのは1300年ごろといいます。かつてのノルウェー国王で聖人にも叙されたオラーフ・ハーラルソンスが祀られていることからもわかるように、長らく国王の戴冠式はここでおこなわれていたそうです。大聖堂の正面ファサードには、聖者54人(そのうち1体がオラーフ)の彫像が並んでおり、おごそかな雰囲気を出しています。大きなわりには内部も簡素な造り。これはやはりプロテスタントの教会だからでしょう。

 

 

     

かつて、現在の首都オスロからこの「ニーダロス大聖堂」まで(全長約640km)の道のりは巡礼路として親しまれてきたといいます。それが近年復活し、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路と同じように、歩いて訪れる人の姿も見受けられるのだとか。日本の八十八カ所参りも全国各地に同じようなコースがあるのと同様、ここニーダロス大聖堂への巡礼路も、そうした位置付けなのかもしれません。

大聖堂から駅近くのショッピングモールまでは雪道を歩いて到着。町の中心であるこのあたり一帯はどこもかしこも工事中で、かつて首都が置かれていたこの町を作ったオラーフ1世の銅像が立つ広場もあちこち掘り返されており、どう撮っても美しくはありません。ショッピングモールはそれほど大きくはありませんでしたが、ノルウェーのどこにでもあるスーパーを中心に数十点の店が入っていました。バナナ3本と500mlの水(ペットボトル)をスーパーで買いましたが、これで54ノルウェークローネ(日本円で800円強)ですから、やはり物価は高いです。

タクシーで中心部から船まで戻り、次の停船地ロルヴィクまでは232kmと、もっとも長いノンストップ区間です。12時に出発し、到着予定は20時45分、8時間余ぶっ通しで走ることからもそれがよくわかります。

この夜、今回のクルーズ旅行で初めて月を見ることができました。といっても、厚い雲のほうが圧倒的に多い空でしたので、かろうじてといった感じです。

すぐ近くの海で大きな事故があったのにビックリ

2019年3月24日
昨夜10時30分、眠っているうちにベルゲンを出航したフィンマルケン号。最初の行程はかなり長く、今朝4時30分、フローロに寄港するまでノンストップ、163kmを一気に走り抜けます。この夜はほとんど雨で、明け方近くには雪に変わっていました。

たまに雨・雪がやんでも空はどんより鉛色。すぐまたぶり返してもおかしくない雲行きです。朝食は例によってバフェットスタイルですが、ノルウェー航路だけあって、シーフードのオンパレード。タラ、ニシン、サーモンの3種がさまざま料理されていて、ぱっと見は10種類以上(といっても、うち半分は漬けたもの)。それにチーズやらハムやら各種野菜が加わるので、1周20メートルはある陳列台を回っていると、目移りします。まあ、1週間あるのだからとは思いつつも、ついつい手が出てしまい、気がつけば取り皿には料理が山盛り状態に。

朝食を済ませ部屋に戻ってしばらくすると、船が大きく揺れ始めました。2つ目の寄港地モーロイ(ここまでが52km)から外洋に出ると、天気はかなり荒れていて、海もうねっている状態。その波を蹴立てながらの航海ですから、揺れるのは致し方ありません。すぐに船酔い用の薬を飲み、私のほうは事なきを得ました。その代わり、デッキに出て極寒の中、半分雨に当たりながら遠く離れていく陸地を見続けたりなど、酔わないように必死。でも、72km走って3つ目の寄港地トルヴィクに近づいた頃にはうねりもかなり和らいでいました。

トルヴィクからオーレスン(Alesund)は28km。この間は内海というかフィヨルドなのでゆっくり航行しますし、湾の奥に入るにつれ穏やかになってくるので、体もだんだん平常に戻っていきます。11時30分からの昼食もそこそこ食べられました。家人は先の揺れで、朝食べたものを全部戻してしまったらしく、食欲はゼロのよう。薬も効かなかったのですね。

4つ目の寄港地オーレスンに到着したのは12時ちょうど。ノルウェー人が選ぶ「ノルウェーでもっとも美しい町」に選ばれた町だそうで、ガイランゲルフィヨルドを始めいくつかのフィヨルド観光の中継地にもなっています。最初の下船観光が予定されているところなので、私たちはもちろん降りましたが、同じツアーの中で3、4人の方が船室で休まれていたようです。

オーレスンはとても美しい町です。添乗員さんの話によると、20世紀の初め頃、町のほぼ全体が火事で焼けてしまい、いまの建物はすべてそのあとで建て直されたものなのだとか。町がまるまる焼けたのは、当時の家が木造だったからです。そのため、建て直しにあたってはすべて石かレンガ造りにしなければならないとされ、そうした家々が100年近くたったいまもそのまま残っているのです。

オーレスンの港に船が着く前、甲板や展望デッキから町の様子がだんだんはっきり見えてきましたが、ちょうど天気も持ち直していたこともあり、その美しいこと! 個々の家もそうですが、それが合わさって作り上げられる色彩に満ちた景色が心を慰めてくれます。冬場だけかもしれませんが、空がこうも暗く厚い雲に覆われていると、人々の気持ちもどうしたって滅入ってくるでしょう。それを少しでも和らげようという思いで、家の外壁を黄色や赤、オレンジ色、空色など、パステルカラー系のペンキで塗ったのにちがいありません。たしかに、出航してから3日間ずっと、走れど走れど雨・雪、たまにやんでもどん曇りという空模様でしたから、誰もがいいかげん重い気分になりかけていたようです。そこにあらわれた明るい色彩の家々はそうした憂鬱を吹き飛ばしてくれました。

迎えのバスに乗って向かった先は標高187mのアクスル山の展望台。この頃になると不思議と雨もやみ、青空に覆われた展望台からのながめは最高でした。遠くスカンジナヴィア半島を覆う山々の頂上付近は雪で覆われ、それが間近に見えるのとあいまって、写真撮りまくりの2時間。5年前、夏のフィヨルドを楽しむ旅をしたとき、当初この町も訪れる計画でしたが、結局あきらめただけに、今回来ることができてよかったです。

 

 

 

アクスル山を下りたあと訪れたのが「アール・ヌーヴォー博物館」。かつては薬局だった建物をそっくり博物館にリノベーションしたのだそうです。建物の前は小さな港で、その周辺は、どこを見ても絵になりそうなたたずまい。水辺にある小さな公園に置かれているベンチには熱が流れていて、心地よくすわれます。冬が寒い町ならではの心遣いですね。

 

 

1904年1月の大火で町がほとんど焼けたあと、ヴィルヘルム2世 (皇帝)の号令一下、ドイツはもちろん、ほかのヨーロッパ諸国も資金、復興作業の人員を派遣するなど、国際的な協力のもとで再建がおこなわれたそうです。当時のお金で15億ドル・3年余をかけて、アール・ヌーヴォー様式の建物が立ち並ぶ新しいオーレスンが作られたのだとか。どこを切り取っても絵はがきのような光景を見せてくれる街並みの所以です。

展望台から港の近くまで戻り、私たちの乗っている船の全景を初めて見ました。ナイル川クルーズで乗ったのは2千トンほど、ドナウ川クルーズで乗ったのは1600トン弱。それに比べ今回のフィンマルケン号は1万6千トン近く。やはり大きいです。

午後3時、オーレスンを後にしばらく外洋に出たものの、またフィヨルドに入っていきました。次の停船地モルデ(Molde)に至るまでのフィヨルドはまさしく絶景。山々が海岸線近くにまで迫っており、わずかな平地に家が並んでいます。遠目で見ても色彩感に満ちた美しい家が多いのが印象的。無数の島々や中洲が点在する中、ときにはうっそうと生い茂る緑の木々が山の中腹まで積もっている雪とコントラストをなしながら、私たちの目を癒してくれます。8階の室内展望デッキの席がすべていっぱいだったのもよくわかります。

 

ヨーロッパ系の人々はめいめい、読書にふけったり、同行の人と語らっていたり、夫婦でお茶をしたりなどしていましたが、その眼前にはフィヨルドの美しい光景がゆっくり流れていきます。ここぞという景色が近づくと、写真好きの人はカメラを手に屋外のデッキへ。もちろん気温は低いのですが、風も雨もなかったのが救いで、次から次へシャッターを切りたくなるのもよくわかります。

話は変わりますが、前日の午後、豪華客船「ヴァイキング・スカイ(Viking Sky)」が半島中央部のやや北にある町トロムソからスタヴァンゲルに向かう途中、悪天候に遭って動力を失い、漂流し始めたため、船長が遭難信号を発したというニュースをテレビが報じていました。その救助活動の模様も伝えられていましたが、この荒天と寒さの中では大変だろうなと、他人事ではない感じです。2017年にできた真新しい船だというのに、何があったのでしょう。

モルデ到着は夕方6時。私たちが停船する桟橋の手前に、その「ヴァイキング・スカイ」号が避難のため停泊していました。乗客乗員1370人のうち、500人ほどはすでにヘリで救出されていたのですが、その後エンジンが使える状態になったとかで自力で航行してきたようです。テレビでは、大西洋上でなんと8mもの波に襲われたとも報じていました。それでも目立った傷はないようで、大きな事故にならずよかったです。それにしても、48000トン、全長227.2m、全幅28.8mの豪華客船というのは、とてつもない大きさです。

ベルゲンから北極圏に向かって出発

2019年3月23日
ノルウェーのベルゲンを訪れたのは2014年8月以来。前回は同地の世界遺産「ブリッゲン」を観るのが目的だったのですが、今回は「ノルウェー絶景航路とオーロラ観賞クルーズ」というツアーの出発地になっているため。日本から到着して1泊目がこの町というわけです。コペンハーゲンで乗り継ぎ、小雨降る空港に着いたのは8月22日午後6時過ぎ。偶然ですが、前回泊まったのと同じホテルでした。

 

今回のツアーは行き帰りともスカンジナビア航空で、食事はとてもよかったです。2回とも、3種類あるメインディッシュのメニューを並べたトレーをCAが運んできてくれましたが、「自分の目で見て選べるのはありがたい」とは家人の弁。たしかに、これなら見た感じから得る印象と直感で選べるので、万一おいしくなくても、納得度が違います。幸い、カンが冴えていたのか、どちらも満足できました。

「Beef or chicken?」とたずねられ、どちらか(3択のケースもありますが)を選んで失敗した経験は、誰にもあることでしょう。私たちの場合、リスクマネジメント(大げさな言い方ですが)というか保険をかけるというか、たいてい、それぞれ別のものを選ぶようにしていますが、それでも残りの一つのほうがよさそうだったというケースもなきにしもあらず(隣の席の人が食べているのを見てそう思ったり)。どれを選んでも大丈夫というキャリアー(航空会社)もあるにはありますが、いつもその会社の便に乗るわけではないので、なかなか難しいところがあります。

さてさて、スカンジナビア航空は、派手なCMはしていませんが、やはり伝統が違うというか。第2次世界大戦後まもない1951年から日本に乗り入れているそうで、昔からなじみはありました。私が小中学生当時、テレビでCMを流している航空会社といえば、スカンジナビアのほかBOAC(英国海外航空)とエールフランス、パンアメリカンくらいだったのでないでしょうか。しかも、1957年には、他の航空会社に先駆けて北極ルートの北回りヨーロッパ線を開設しています。派手派手しい宣伝をしないのが北欧らしさかもしれません。

今回のツアーはキホン「船」です。出航は今日の夜10時半なので、それまでは町の中を観光。世界遺産の「ブリッゲン」を手始めに、「フロイエン山」、魚市場と土曜日でたまたま開かれていてファーマーズマーケットをのぞき、ランチ。午後はコーデ(KODE)地区にある「美術館3」でムンクの作品を鑑賞しました。

 

ベルゲンというところはとにかく雨が多いことで知られており(年間降雨日数は軽く200日を超える)、しかも天気が変わりやすいそうです。たしかに、この日も、「フロイエン山」にケーブルカーで出発したところ、途中までは窓に雨が打ちつけていました。ところが、頂上の展望台に着いた頃はウソのような青空が。しかし、それもつかの間、小1時間ほどして下に降りたときはまたまた雨です。

続いて訪れたのが「美術館3」。ノルウェーの生んだ名巨匠エドヴァルド・ムンクの代表作『叫び』のオリジナルを観たのは5年前、首都オスロの国立美術館でしたが、ここに展示されているのは、それ以外の作品の数々。ムンクがさまざまな試練に遭い、精神を病んでいくにつれ絵も変わっていきます。その兆候が感じられるような作品もいくつか観ることができました。

いちばん印象に残ったのは『病院での自画像』(1909年)。ムンクは1902年、裕福なワイン商人の娘トゥラ・ラーセンに結婚をめぐって争いピストルで撃たれたことがあります。その事件で受けたショックなどが引き金となり、それ以降は妄想を伴う不安が高まり、アルコールにひたる日々を送るように。ときには暴力事件を起こしたこともあるようです。さらに、対人恐怖症の発作にもたびたび襲われたようで、それが頂点に達したのが1908年。その年の10月には、自分の意思でコペンハーゲンの病院に入院し、治療を受け始めたといいます。そのさなかに描いたこの絵は、ムンクの素晴らしい芸術的センスが自身の服装にあらわれているように思いました。どことなく精悍な表情も見られ、本当に精神を病んでいるのか、疑わしいほどです。

「美術館3」に展示されているムンクはじめ、ほとんどすべての作品は、ノルウェーの実業家ラスムス・メイエルがこの頃買い求めたもので、それによってムンクの名前と作品は一気に広まったといいます。たしかに、絵を描き始めた時分の『朝(ベッドの端に腰掛ける少女)』(1884年)をはじめ、『浜辺のインゲル』(1889年)『カール・ヨハンの春の日』(1890年)などは、『叫び』と同じ作者のものとは思えません。

 

しかし、それらとほぼ同じ頃(1892年)に描かれた『カール・ヨハン通り』を観ると、翌93年の『叫び』に通じる独特の悲しい表情が見られ、なるほどと思いました。5歳のときに母が、14歳のときに姉が病死した経験がムンクの生涯に影を投げかけたと言われるように、それがひょっこりとですが、如実に出ていました。

夕方、これから1週間乗る沿岸急行船(フッティルーテン=HURTIGRUTEN)のフィンマルケン(FINNMARKEN)号に乗船するため桟橋に向かいます。いまさら言うまでもありませんが、チェックインや荷物の運び込みは旅行会社がすべてやってくれるのがツアーのメリット。あとはルームキーをもらうだけです。

キャビンは予想していたよりはるかに広く、感動です。人間、もともとの要求水準が低いときに、それより上のものを提供されるとうれしいですからね。いまさらかもしれませんが、クルーズの利点の中で際立つのは、スーツケースの中身を全部出しておけることに尽きます。しかも、空にしたらベッドの下に置いておけるので、部屋の面積が多少狭くても不自由を感じません。私自身はそれほど感じませんが、加齢とともに、重いスーツケースを転がしながら歩くのがつらくなってくると、家人はよく言います。

東京で見逃した映画が観られラッキー!

2019年2月12日
昨年秋のドラフトで大注目された大阪桐蔭出身の根尾昂(あきら)選手は、抽選の末、中日ドラゴンズが交渉権を獲得、すんなり入団しました。しかも、1軍のキャンプに参加しているというので、北谷【ちゃたん】にある野球場に足を運んでみることに。こちらも、タイガース同様、根尾見たさに多くのファンが詰めかけているようです。

そこから、すぐ近くの楽天イーグルスの1軍キャンプ地にも足を伸ばしてみましたが、こちらはまだ数日後からスタートだったようで、残念ながら空振り。それでも、ここ沖縄で国内の7球団が春季キャンプを張るのは、経済効果も見込めるので、とても有意義なことのように思えます。沖縄は観光地として、47都道府県のなかでも屈指という年間1000万近くの人が訪れています。目的はそれぞれでしょうが、冬場、それも観光的にはどちらかといえばオフシーズン的なこの時期、こうした形で人がやってくるのはありがたい話ではないでしょうか。

しかし、もっと観光客を回遊させる手立てがあってもいいのではないかという気もします。この時期キャンプを張っているのは野球だけではありません。Jリーグのチームもやって来ています。また、Bリーグの強豪・琉球ゴールデンキングスもシーズンの真っ最中です。他県ではあまりスポットが当たっていないハンドボールも盛んですし、サッカーもJFLから着実に階段を上がってきたFC琉球が(現在はJ2)。ウォータースポーツだけでなく、沖縄はある意味スポーツ大国でもあるのです。

沖縄での楽しみの一つに映画があります。というわけで、夜は『アリー・スター誕生』を観に行きました。東京で見損ねた作品なのですが、たまたまこちらではまだ掛かっていたので、迷わずGO。レディー・ガガの演じる主人公アリーの人生はほとんどガガにも通じているのが名演につながっているのかも。監督はブラドリー・クーパー。『ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』でブレイク、2012年から3年連続でオスカー候補になったほどの名優が初めてメガホンを取った作品なので、昨年末はけっこう話題なっていました。沖縄でも今日が最終日。その意味でも、ラッキーでした。

こんな近くに「世界遺産」が!

2019年2月11日
沖縄の拠点は首里にあります。いまでこそ那覇市の一部になっていますが、もともとはまったく別の町。首里には王宮が置かれていたのに対し、那覇は港町で、琉球王朝と明との貿易拠点として栄えました。首里のほうは、小社の分室がある寒川町はじめ、山川【やまがわ】町、桃原【とうばる】町、赤平町、当蔵【とうのくら】町、儀保【ぎぼ】町など、いまは全部で19の町から成っています(このうち平良町、大名【おおな】町、末吉町、石嶺町は厳密には首里ではなかったようです)。

今日は、最近すっかりハマっている『王都首里見て歩き―御城と全19町ガイド&マップ』(古都首里探訪会編・著)を片手に出かけてみることに。目的地は崎山町で、首里城がある金城町のすぐ隣。城は首里でもいちばんの高台にありますが、それとほぼ同じ高さで続いている一角です。琉球王朝時代は、鳥堀町、赤田町とともに泡盛の製造を許可された地域の一つだといいますから、それなりの権威もあります。

行ってみると、まず見晴らしのよさに驚きます。王朝時代は、城下の町並みがすべて見渡せたのでしょう。「御茶屋御殿【うちゃやうどぅん】石像獅子」とか「儀間真常【ぎましんじょう】の墓所」など、由緒を感じさせる事物やスポットがいくつもあります。 儀間真常(1557~1644)は「琉球の五偉人」の一人にも数えられ、サツマイモ栽培を広めたり、木綿の栽培と織物の技術、(黒)砂糖の製造と普及に努めたりなど、琉球王国の産業の基礎を築いた人物です。

そんな儀間の墓所が、住宅の立ち並ぶエリアの一角にあると、先の本にも書かれています。かなりアバウトなマップなので分かりにくいのですが、細い階段を下りて行ったところにあるよう。これでは、観光客が訪れたりすることはまずないでしょう。しかし、誰かが墓守りをしているのか、花も供えられていました。「御茶屋御殿」は王府の別邸で、火災などの災厄から守るために獅子の石像が置かれていたといいます。

   

こんな近くに「世界遺産」の一部を構成するものがあったなど、夢にも思いませんでしたが、それだけに、これから先も、行ったことがない場所・じっくり見たことがないものを探しに出かけようという探求心がくすぐられた次第。

さすがタイガース! ファンでびっしりの宜野座村営野球場

2019年2月10日
沖縄でのプロ野球キャンプでこれまでまだ一度も見たことのないのが阪神タイガース。場所が宜野座【ぎのざ】村なので、首里からはやや遠いのです。ただ人気球団なので、多くのファンが来て盛り上がっているのではないかと思い、行ってみることにしました。

キャンプ地の近くの「やかそば」という店に魅かれ、入ってみます。いいですねぇ、雰囲気が。入口近くに手書きの大きなメニュー表示があり、これがまた元気というか、なんというか。「やかそば」「炙り本ソーキそば」「豚まぜそば」「レバニラもやしそば」……。どれも食欲をそそります。私は「やかそば」を食べましたが、これがまたおいしいいのなんの。アグー豚かどうか定かではありませんが、麺が見えないほどのボリュームで、そばも腰があり、あっさり完食! またニュースポットを発見できました。

村営野球場には、大変な数の人が来ていました。雨模様であるにもかかわらず、球場に近い駐車場は車でびっしり。「御用のない方お断わり」という村役場の駐車場にも止めてあるほどです。99%はレンタカーを示す「れ」「わ」ナンバー。私たちは、歩いて5~6分はゆうにかかりそうな路上でやっとスペースを見つけ駐車し、球場まで行きました。まわりは応援グッズを売るテントや食べ物が軒を並べ、いい匂いをただよわせています。2003年から続いているので(1998年から2002年までは日本ハムの2軍が使っていた)、宜野座村イコール阪神というのがすっかり定着しているのでしょう。

宜野座からの帰り、金城【きんじょう】ダムに立ち寄ってみました。小社の分室のすぐ近くにあり、その前を走るたびに目にはしているのですが、まだ一度も近くまで行ったことがなかった場所です。道路からダムを歩いて渡り、全体を見下ろしてみると、やはり大きいですね。ダムといえば人工の池か湖がつきものですが、そこまで近づくにはさらに歩いて降りていかなければならず、さすがにそれはパス。

沖縄では20年以上前から、辺野古【へのこ】基地のことが大きな問題になっています。町のど真ん中にある普天間基地があまりに危険だというので、その機能の大半を本島北東部の名護市辺野古の海を埋め立て、そちらに作った基地に移そうという話です。地元の人たち、いな県民の多くが反対しているのにそれを強行しつつある日本政府との対立は泥沼化の一途。この先いったいどうなるのか、東京からやって来ている私ですら不安を抱きます。

その辺野古を今日初めて、この目で見ました。美しい海岸です。ほとんど手つかずの自然がまだ多く残っていて、なんで選りにもよってこんなところに基地なんか作るの? と誰もが思うでしょう。山口県岩国や東京の福生【ふっさ】など、オスプレイが何十機か数日やってきただけで大騒ぎになりますが、70年近くそうした状態に置かれている沖縄県民のことを思うと、どうなんだろうという気もします。

 

沖縄! 今回もまた始まりは、辣子鶏(ラーズーチー)

2019年2月9日
お昼過ぎに到着する便で、沖縄にやってきました。昨年の9月末以来ですから、4カ月以上も間が空いたことになります。到着が昼でも夜でも、着くやいなや空港から、県庁近くにあるひいきの中華料理店「燕郷房(ヤンキョウファン)」に直行し、大好きな辣子鶏(ラーズーチー)をかぶりつくのが最近の習慣。ちなみに、家人はパクチーサラダです(これもうまい!)。

辣子鶏は四川料理の代表的なメニューの一つだそうで、鶏の唐揚げを大量の唐辛子や花椒などと一緒に炒めたもの。それと出会ったのがこの店なのです。とにかくめっぽうおいしいので、辣子鶏抜きの沖縄などあり得ません。

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https://www.tripadvisor.jp/LocationPhotoDirectLink-g298224-d6474066-i121947900-Yankyofan-Naha_Okinawa_Prefecture.html#121947900

「トリップアドバイザー」提供の写真ですが、次回は自力で撮ってきますね。何せ、撮るより食うという気質【たち】なもので、すみません。

心身ともに大満足で、明日からに備えます。といっても、特段これといった予定は立てておらず、いつものように成り行きまかせ、お天気まかせ、気分まかせ。でも、それが私にとってはいいのですね。日にちや時間で刻まれた生活と、たとえ3日でも4日でもおさらばできるのが、格好のリラクゼーションになるからです。今回は、プロ野球のキャンプとも重なっているので、まあ、ドライブがてらのぞいてみようかといったところでしょうか。

「顔真卿」展の混雑ぶりにビックリ!

2019年2月7日
顔真卿【がんしんけい】といえば、知る人ぞ知る書道の大家です。そうした世界とは一切無縁、ド下手な字の書き主である私がなぜその名を知っているのかというと、高校1年生のときに書道の授業で、王羲之【おうぎし】と並ぶ人物であると教えられたからです。

書道の授業は1年間だけでしたが、何をしたかというと、その王羲之の不朽の名作『蘭亭序』を書き、最後に落款まで彫ったうえで表装するという、書の一連の流れをすべて経験する内容だったからです。いまでもそのとき作り上げた表装は手もとにあるのですが、最初の授業で先生が話してくれた顔真卿のこともなぜか覚えています。

顔真卿は8世紀、唐代の政治家・学者・書家。中国史上屈指の忠臣としても知られています。安禄山の反乱軍の勢いが日に日に勢いを増す中、顔真卿はその親族とかたらい、唐朝への忠義を示すために兵を挙げました。反乱が収まったあと、奸臣に捕えられたり左遷されるなどしましたが、そうした圧力には一切屈しませんでした。最後は殺されてしまうのですが、そうした生き方が後世称えられたのです。

その一方、書家としての顔真卿は、「書道を習う者はまず王羲之を学んでから他を学べ」「王羲之の文字でなければ文字にあらず」とまで言われていた「書聖」王羲之の流麗で清爽な書法に反発。力強さと穏やかさとを兼ね備えた独特の「蔵鋒」という新たな技法を確立したといいます。

日本の書道も当然、その影響を受けているようで、奈良時代から手本とされてきました。代表作が「蘭亭序」で、2年版ほど前に行った『漢字三千年展』にも展示されていました(2016年10月26日の項参照)。

その顔真卿の名作が今回初めて日本で展示されるというので、混み合いそうにない平日を狙って行ってみたのですが、これがまったくの読み違いで場内は大混雑。目玉の「祭姪文稿【さいてつぶんこう】」(台北・國立故宮博物院)は“混雑のため、ご観覧までに長時間お待ちいただいております”と、国立博物館(平成館)のウェブサイトにも書かれてはいましたが、なんと「55分待ち」。「作品の前では立ち止まらないでください。ゆっくり前に進みながらご鑑賞を」とも。まさかこれほどとは……。

思うに、最近その数をどんどん増しているインバウンド(外国人観光客)のなかでも、中国や台湾・香港など漢字文化圏から来日してきた方々が来ていたのではないでしょうか。台湾本国の故宮博物院で見るのもやはり大変なのでしょう。それがたまたま訪れた日本で見られるというのですから、これはしめた! と思ったのかもしれません。昨年、私がロンドンの大英博物館で葛飾北斎の版画を見ることができたようなものですね。

さすがに、「祭姪文稿」以外の作品「黄絹本蘭亭序」や「千福寺多宝塔碑」の前は普通の状態でしたが、書の展覧会にこれほどの客が来館するとは、主催者側も予想していなかったのではと思います。顔真卿と同じ時代に活躍した虞世南【ぐせいなん】、欧陽詢【おうようじゅん】、猪遂良【ちょすいりょう】ら“初唐の三大家”の作品も展示されていたので、深いところまではよくわからないものの、顔真卿の筆致と見比べながら、楽しむことができました。

亀戸で見た梅

2019年1月26日
恒例となった高校時代の同窓生7人が集まっての新年会。今年の会場は亀戸で、私にとってはほとんど初めての場所。梅と藤でも有名な亀戸天神の境内にある蠟梅【ろうばい】が可憐な花を咲かせていました。まあ、それよりきれいなのは紅一点のSさんかも?

近くの老舗和菓子店「船橋屋」は行列ができていて入れませんでしたが、幹事が予約してくれていたちゃんこ鍋はたいそう美味でした。

中学時代の旧友とラグビーを観戦

2019年1月20日
昨日は「トップリーグ杯」の順位決定戦を観ました。それも名古屋の瑞穂【みずほ】ラグビー場(ネーミングライツがあるためいまは「パロマ」が頭についています)です。高校でラグビーをしていたころ、試合で来たのは一度だけ。ただ、年末年始になるとここでタッチジャッジをした記憶があります。いまでもおこなわれている「全国地区対抗大学ラグビー」という地味な大会の会場がここ瑞穂で、わが母校のラグビー部が毎年、タッチジャッジを仰せつかっていたのです(顧問の先生が、県ラグビー協会の幹部だったためでしょう)。

一緒に観戦したのは中学時代の親友Hくん(愛知県小牧市在住)。4年前のワールドカップで、日本vsサモア戦を一緒に観に行く予定をしていたのですが、私が帯状疱疹に罹り、約束を果たせませんでした。しかし、試合後、ロンドン市内の駅(Euston)までやってきて、ホテルのベッドからかろうじて這い出して会いに行った私におみやげをくれました。昨年、奥さんに先立たれ、お線香をあげに自宅まで行きましたが、それ以来の再会。

いまも88歳の義母の面倒を見ながら元気な日々を送っていますが、気分転換も兼ねたまには自宅から足を延ばすのもいいのではと思い、誘ってみたところ、二つ返事でOK。この日は2試合あったのですが、1試合目から会場に来ており、私がラグビー場の入口に着いて連絡を入れると、スタンドから降りてきてチケットを渡してくれました。

1年でもいちばん寒いこの時期なのに、この日はなぜかポカポカ陽気。風もほとんど吹かず、素晴らしい日和でした。神戸製鋼vs東芝という好カードで、試合も接戦。東芝のリーチマイケル、神戸のダン・カーターのどちらも出場していませんでしたが、十分満足できました。誰と一緒に観るか——スポーツ観戦では大事なファクターなのです。

 

Hくんはいまから55年も前、中学時代からラグビーをしていた、当時としては変わり種。私たちが通っていたのは名古屋市立北陵中学。私とHくんのクラス担任で、体育を教えていたK先生が、ラグビーの愛知県教員団チームの一員として国体に出場していたこともあり、ラグビー部を作ったのです。そのときK先生に声をかけられて部員になったのがHくん。当時を思い出すと、Hくんの体型はたしかにフォワード第1列向けでした。この時代、中学のラグビー部は名古屋市内、愛知県内でもほんの数えるほどしかなく、K先生のおかげもあってどんどん強くなったようです。

北陵中学は全国大会でも何度か優勝したことがあります。花園でおこなわれる高校ラグビーの県代表・中部大学附属春日丘【はるひおか】高校の出場選手に何人も名前を連ねているほどです。

Hくんにも「よく誘ってくれた」と感謝され、恐縮してしまいましたが、こういう場で旧友と再会できたのは大きな喜びでした。たわいのない思い出話をしながら美しい芝生のグラウンドを見ていると、気持ちも若返ります。

今日は高校時代同じラグビー部だった旧友Mくんとランチを共にしました。店も、高校時代の同期生Aくんがやっている洋食屋さん。しかも、たまたまその近くで、これまた高校時代の同期生Nくんが絵の個展をやっているというので、そちらにも顔を出しました。N君は残念ながらインフルエンザにやられてしまったため、会場に来ることができませんでしたが、それでも、旧友と楽しい時間を共にできたうれしさは何物にも代え難いですね。年齢的にそういう時期にさしかかっているのでしょうが、友というのはホントありがたいものです。

「東国三社」のバスツアーに参加

2019年1月17日
JR東日本の「大人の休日倶楽部」主催の「勝ち年祈願! 鹿島神宮と香取神宮」という日帰りバスツアーに参加しました。“●茨城県南部と千葉県にまたがる「東国三社」と呼ばれる「鹿島神宮」「香取神宮」「息栖神社」の3つの神社を日帰りでめぐる初詣ツアーです。●昼食は明治30年より鹿島神宮のお膝元で続く歴史ある食事処「鈴章」にて名物の鯰(ナマズ)の薄造りを盛り込んだ料理をご用意いたします”という触れ込み。「国内旅行傷害保険つき」とはいえ、価格は13800円です。

毎月送られてくる機関誌でこのツアーを知り、申し込んでみたのですが、実際に行ってみると、コストパフォーマンスがすこぶる悪く、不満が残りました。道路の混雑状況で戻りの時間が遅れる恐れもあるとはいえ、「午前9時出発 午後7時・東京駅帰着予定」が、実際の帰着は午後5時40分。そのせいもあって、中身は必要以上に間延びした感じで、どの神社でも時間を持て余し気味。しかも平日ですから、道路もほとんど渋滞なしとなれば、こういうことになってしまうのでしょう。これだけ余裕があるのなら、最後、香取神宮のあとに伊能忠敬記念館の見学とか、佐原の街並み歩きでも組み込めばいいのにと思ってしまいます。

最後に訪れた香取神宮の駐車場にはとバスの車が止まっているのに気がついたので、スマホでググってみると、はとバスでもほぼ同じ内容の企画がありました。値段を見るとこちらは7980~8480円。違いは添乗員がつかないのと、昼食が「ANAクラウンプラザホテル成田 (バイキングの昼食)」という点。添乗員がつくとここまで値段が変わるものなのかという疑問はさておき、JR東日本の価格はちょっと高すぎではないかというのが正直な感想です。ランチもはとバスのほうはたぶん3000円見当なのに対し、私たちが行ったの「鈴章(ミニAコース)」は1800円。ナマズもものめずらしくていいのですが、好き嫌いもありそうですし。となると、ますます価格設定に疑問が湧いてきます。

それより何より、なんでもきちんと比較してから申し込む(買う)ようにしないと、こういう墓穴を掘ってしまうのだなと反省させられました。そもそも、「東国三社めぐり」というのは、それほど斬新な企画でもないようで、この時期の定番。となればよけいそうした思いにさせられます。また、真剣にお参りしたり、近ごろはやりの「御朱印」集めといったモチベーションもない私のような者にとっては、いまイチのバスツアーでした。

大相撲初場所で稀勢の里最後の相撲

2019年1月16日
初日は御嶽海、2日目が逸ノ城と、連敗して迎えた大相撲初場所の3日目(昨日)。対戦相手は栃煌山です。しかし、あっさり土俵を割ってしまいました。3連敗となると、座布団も舞いません。結局、今日引退を発表したのですが、せっかくの日本人横綱も短命でした。

ラグビー日本選手権は神戸製鋼が優勝!

2018年12月16日
まあ、昨日はとにかく寒い日でした。最高気温は9℃だったそうですが、風が強く、外の体感温度はそれより3~4℃は低かったにちがいありません。「外」というのは、ラグビーの日本選手権決勝(神戸製鋼 vsサントリー)の話です。

それにしても、日本選手権@秩父宮のピッチ上で、元ニュージーランド代表のダン・カーター(キャップ数112)、元オーストラリア代表のマット・ギタウ(同103)、アダム・アシュリクーパー(同116)の3人がそろってプレーするなどということを、10年前、いな5年前でも想像したラグビーファンがいるでしょうか。しかし、それが今日、現実になったのです!

もちろん、3人とも全盛期は過ぎています。といっても、3年前のワールドカップに出場、大活躍しました。しかも、ニュージーランド、オーストラリアという、世界でもトップクラスの国の代表選手としてキャップ数が3桁を超えているのですから、実力は折り紙付き。そうした選手と一緒にプレーすれば、日本の選手もごく自然に力をつけていくことでしょう。ここ3、4年でJAPANが力をつけてきたのも、その影響が大です。

 

秩父宮は指定席も自由席もほぼ満員。日本ラグビフットボール協会の招待券で入った私など、自由席でもいちばん劣る、バックスタンドとサイドスタンドの狭間、通路のすぐ近くだったので風通しがよすぎ、寒いことといったらありません。2時間ほどすわっていましたが、足の先からすっかり冷え切ってしまいました。終了10分前で神戸48対サントリー5というスコアで、最後、サントリーが意地を見せてワントライは返してほしいなと思いつつ、早々にスタンドをあとにしたのですが、逆に神戸が1トライを追加。55対5という、日本選手権には似つかわしくないワンサイドゲームでした。フルバックの松島幸太朗など、「自分たちのゲームは1分間もさせてもらえなかった」と試合後コメントしていたくらいです。

私立の動物園は経営が大変そう

2018年12月4日
広島から岡山までは30分少々。西日本の動物園訪問・第3弾は岡山の池田動物園です。名前から想像がつくように、ここは江戸時代この地を治めていた池田氏の私立動物園。駅からタクシーで10分足らず、住宅街の中にあります。敷地は小高い丘(京山)のふもとにあり、園内はけっこうアップダウンが。それもそのはず、もともとは牧場だったようです。

wikipediaによれば、「元岡山藩主池田詮政【のりまさ】の孫池田隆政と昭和天皇の第四皇女池田厚子夫妻により1953年月に設立され、その後動植物園を経て60年に現在の池田動物園となった」 と。そうした背景もあってでしょう、この動物園には、牧場の時代も含め、昭和天皇・皇后両陛下が2度もご訪問されているようです。

ただ、昨年ベンガルトラが亡くなったのに続き、今年もホワイトタイガー、エゾヒグマが亡くなっており、どこかうらさびしい感じすらただよっていました。もちろん、平日なので仕方ないのですが、私立の動物園というのは経営が大変なのでしょう。園内にちょっと立派な家が建っているので何かと思ってみたら、園長のご自宅。園内マップにも「えんちょうさんのおうち」と書かれています。いかにも「私立」といった感じがします。

いま動物園は、世界中どこでも、動物の維持に苦心しているようです。とくに日本は、世界的に見ても動物園の数が多く、しかもほとんどが公立、つまり地方自治体が経営主体になっています。少子化で人口が減り税収入もままならない中、動物園を維持・管理していくのは大きな負担のようで、皆頭を抱えているのではないでしょうか。

ここ池田動物園もスポンサーになっている地元企業が数十社あるようですが、それでも苦しい経営状況がありありと感じられました。ほとんどの動物が単体、1頭きりなので、さびしい印象はまぬかれません。山の上のほうにいるライオンもかなり年齢が行っており、毛がパサパサでボサボサ。人間に例えるなら1カ月髪を洗っていないような感じです。レッサーパンダも同じく1頭きりでさびしさがありあり。ただ、ニホンシカが山の中腹、ほかより10メートルほど高い場所にいたのが印象的でした。

  

「食」には少々難アリの姫路。でも、立ち食いの牡蠣そばはグーでした

2018年12月3日
昨晩からの雨もお昼前にようやくあがったので、姫路市立動物園に行くことにしました。お城の中にあるという、いまではとてもユニークな動物園です。園内からも世界遺産・姫路城の天守閣が見えるので、動物たちにとってもぜいたくな空間と言えるかもしれません。

ただ、市立ですし、場所も場所なのでこじんまりしており、動物の種類・数もそれほど多くはありません。それでもキリンは2頭いましたし、北極グマやライオン、シマウマなど、とりあえず2頭ずつ。やはり、どんなしょぼくても2頭はいないとさびしい感じがするので、ぎりぎりセーフといったところでしょうか。

 

さて、ランチをどこで食べるか──。昨夜に続いて、適当な店がなかなか見つからなかったのですが、地下街で食べた「牡蠣そば」は思いがけないヒットでした。立ち食いレベルのそば屋で牡蠣そばが食べられるところはそうそうありませんし。

次の目的地は、姫路から新幹線で1時間ほどの広島。長い間お世話になっている方が主宰されているNPO法人の年末懇親会に出席するため、会場のグランドプリンスホテルに向かいました。恒例の余興では、昨年に続き出雲神楽を鑑賞。演し物は『大江山』で、たいそうな迫力です。

広島では近ごろ、この出雲神楽を外国人観光客向けに見せているらしく、えらく好評なのだとか。ただ、プロの演者がいるわけではないので、常打ちにはできないそうです。しかし、それほど好評であれば、なんとかその手立てを講じていただきたいなとも思います。歌舞伎顔負けの衣装もさることながら、ストーリーが単純明快、しかも短時間なので、イヤホンガイドとかがなくても、よくわかるのではないでしょうか。

会場から宿泊先のホテルに戻ると、この時期にしか見られない「ひろしまドリミネーション」が。平日なので人出もそれほどでなく、ゆっくり見て回ることができました。神戸のルミナリエには太刀打ちできませんが、平和大通りの公園スペースを利用しているので広々としており、神戸のように行列する必要はありません。

 

私が愛用しているビジネスホテル「ロイネット」

2018年12月2日
前日、京都での仕事を終え神戸に移動しました。三ノ宮までは新快速で1時間ほどですからすぐです。3カ月ぶりの神戸ですが、土曜日、それもいちばんにぎやかな三ノ宮とあって、けっこうな人出でした。

ホテルは駅から徒歩5分ほどのロイネット。ひとりで動く場合は、ほとんどこのブランドに決めています。駅から近い、値段が高くない、部屋が広い(ワーキングスペースも)、そして喫煙OKの部屋がある、コンビニが近いといったところが主な理由です。「主な」と書きましたが、これだけの条件がそろったホテルというのは、そうそうあるものではありません。唯一の欠点は、ビジネスホテルなので、「朝食付き」といっても、同じ建物に入っている居酒屋とかカフェに毛が生えたような店で食べるケースがほとんど。そのため、内容がいまひとつなのです。

夕食を食べに出たのですがなかなか見つからず、結局、駅からさほど遠くない豚カツ屋さんで牛カツ飯というのを食べました。関西はやはり牛肉文化で、「豚カツ」を名乗ってはいても、メニューの多くを「牛肉」ものが占めています。

三ノ宮駅周辺には、いわゆる神戸っぽさを感じさせるおしゃれな店が並ぶ商店街もいくつかあります。ただ、その一方で、昭和風というか、レトロで猥雑な飲食店街もあるのです。そうした店の中で行列ができているのは、串揚げ(串カツ)かギョウザで、このあたりは東京とはかなり様相が異なります。

さて、今日は早起きして、まず王子動物園へ。三ノ宮からJRで一つ目の灘という駅から歩いてすぐのところです。隣の駅だというのに三ノ宮とはうって変わって静かな駅で、あとでわかったことなのですが、文化関連の施設がいくつかあります。

動物園自体はこじんまりしていますが、日本で唯一ジャイアントパンダとコアラを同時に見ることができる動物園なのだそうです。しかし、園内に重要文化財の建物があるのには驚きました。歩いていて、あんなところに洋館が見えるなぁ、なんだろう? と不思議に思っていたのですが、神戸にいくつかある異人館の一つで、1889年に建てられたといいます。かつての所有主エドワード・ハズレット・ハンター(イギリス人の実業家で、日立造船の前身の会社を興した人物)にちなんで「旧ハンター住宅」と呼ばれ、もとは市内北野町にあったもの。1963年に王子動物園内に移築され、66年に国の重要文化財に指定された、たいそう由緒のある建物のようです。

3頭いるキリンにも挨拶し、園を出ると、「横尾忠則現代美術館」の表示が目に入りました。時間もありましたし、せっかくだからとそちらに向かいます。その手前に建っているのは「兵庫県立美術館原田の森ギャラリー」、向かい側に建つレンガ造りの建物は「神戸文学館」です。

ただ、建物の脇に「関西学院発祥の地」という看板が立っていました。説明文を見ると、もともとは1904年に建てられた関西学院の初代チャペルなのだとか。関西学院はその後、西宮市に移転しましたが、チャペルはこの地にとどまりました。しかし、太平洋戦争中、空襲に遭って大破。1950年にあらかた修復されてからは、さまざまな公共施設として転用されたようです。そして93年、塔の復元とともに市民ギャラリーとなったのち、現在の神戸文学館となったとありました。

「横尾忠則 在庫一掃大放出展」というタイトルでおこなわれていたのは、これまでこの美術館で一度も展示されたことのない作品ばかりを集めたもの。ほとんどの作品につけられていた横尾直筆の注釈メモを読むと、その人柄がよくあらわれているように思いました。

三ノ宮に戻りそごうデパートで昼食を買い、地下鉄でノエビアスタジアムへ。今日はラグビー・トップリーグの順位決定戦2回戦、神戸製鋼vsリコーの試合です。勝てばベスト4ですから、レベルは高いはず。ダン・カーター見たさで行ったのですが、やはり身のこなしがしなやかというか、ラグビーボールを持って生まれたのではないかと思わせるような、無駄のない、それでいて力強さも感じさせるプレーにまたまた感動しました。

試合終了後、三ノ宮まで戻り、次の目的地・姫路へ移動。ホテル(10月にオープンしたばかりのロイネット)でひと仕事終え、夕食を食べに出たのですが、この町は「食」についてはいまひとつの感があります。数年前に来たときも感じたのですが、行ってみたいなと思わせる店があまりないというか(それほど強いこだわりがあるわけではないのですが……)。結局、駅ビルにある「ゴーゴーカレー(金沢風で有名!)」で済ませたのですが、この店のカレーは、若い人に人気とだけあってボリュームが勝ちすぎのきらいがあり、私のような年齢の者には少々キツ~い感じがしました。

 

老師、ますます意気軒高!

2018年11月24日
昨日、成田に帰って来たのが夕方。家に戻り、まる1日も経っていないのに、今日は名古屋です。高校3年生のクラス会に出るためですが、呼びかけ人の一人に名前を連ねているので、欠席するわけにはいきません。というわけで、かなり強引なスケジュールになってしまったのですが、それでも日中(ランチタイム)ですから、まだ助かりました。ちなみに、家人もこの日の夜は小学校のクラス会でした。

来年で米寿を迎えるS先生は今年もまた矍鑠とした姿で来られました。朝起きたら太極拳と体操をし、午前中は読書、午後は近所を散歩、夜はゆっくりするという毎日を過ごしておられるとかで、それが元気の秘訣だとおっしゃられると、とても説得力があります。毎度のことながら、帰りがけに配ってくれるプリントには、ユーモア川柳が、先生の訳した英文とともに書かれていました。英語を教えていましたから、当然かも。「減る記憶 それでも増える パスワード(Memory gets worse but I’m stuck with more passwords than ever before.)」。なるほど。

一次会は中華でしたが、二次会も喫茶店と、最初から最後まできわめてヘルシーな内容で、さして疲れも感じずに戻ることができました。それにしても、行くたびに感じることですが、名古屋はここ10年ほどで大きく様変わりしつつあります。とにかく、人の多いのには驚くばかり。前は中国・韓国・台湾・香港からの観光客が目立ちましたが、いまはもうマレーシア、タイ、欧米系、インドなど幅がぐんと広がっています。さらに、日本全国からも老若男女を問わず、多くの人が訪れているようで、「そんなに行くところがあったかなぁ?」という思いが強い私からすると、不思議な感じがします。

 

尾道からアナハイムまで、36時間ぶっ通しで起き続ける

2018年11月17日
今日は尾道から広島空港に向かい、そこから成田空港、成田からロサンゼルスという長い長い旅が待っています。その前に、尾道駅周辺の商店街を回ってみることにしました。以前、取材で訪れたときは、商店街のほんの一部しか見られなかったのですが、今日は奥の奥まで足を延ばします。

予想していたよりはるかに長く続いており、しかもいまどきの地方都市には珍しく、ほとんどの店がきちんと営業しています。土曜日なので、人通りも多く、なかには、行列のできている店も。昨日の「フォーラム」で市長が語っていた“活気ある尾道”を実感させられました。こうなるまでには10数年かかったといい、相当苦労されたようです。それがいまどんどん実っており、そうなると住民も元気になります。それどころか、ここなら商売も成り立つというわけで、よそからやって来て店を開いている人もいるようです。これで駅の全面改装が終われば、ますます多くの人がやって来るのではないでしょうか。

  

しかし、その尾道と広島空港とを結ぶシャトルバスが一時廃止になりそうになったこともあると聞き、驚きました。地元の要望でなんとか1日2往復は走っているようですが、早朝だけのため、今回の私たちは利用できません。結局、山陽本線の電車で白市【しらいち】という駅まで行き、そこからタクシーで空港へ。

機内で11時間以上過ごしても、まだ11月17日は続いています。久しぶりに乗ったシンガポール航空ですが、昔と比べるとサービスの質がかなりダウンした印象は否めません。以前このブログでシンガポールのリッツ・カールトンホテルでの一件について書きましたが、それとほとんど同質の“上から目線“的な客あしらいになってしまっているのです。というか、「情」が欠けている気がします。どのCA(キャビンアテンダント)もマニュアルに忠実なサービスをしているものの、いい意味でそこから一歩もはみ出ていません。

ぐっすり眠りについている客の席にも、朝食を持ってきたりするのがそのいい例。声をかけられても返答しなければやり過ごすのでしょうが、寝ぼけまなこで「はい」と応じようものなら、「シートを元に戻してください(お手伝いはしてくれます、もちろん)」「テーブルをセットしてください」ということになり、食器がズラリと並べられます。まだ半覚醒状態の家人も、ワケが分からないまま返事をしたばかりに、目の前に食べ物が。そうなると、手をつけないわけにも行きません。これがおいしければまだしも、たいしたことのない味なので、そのうちだんだん腹が立ってくるというわけです。

ロスの空港でレンタカーを借り、1時間ほど走るとアナハイム近くのホテルに到着。今回もまた「Ayres」です。別段義理があるわけでもなんでもないのですが、この界隈に泊まるときはたいていこのブランドになってしまうのです。もちろん、ほかにも Hyatt  Sheraton、Hilton、Marriott など、名の知れたホテルもあるにはあります。ただ、そこにゆっくり滞在するわけでもない、夜露をしのげさえすればそれでOKという場合は、この程度のホテルで十分。アメリカのホテルなので部屋は広々としていますし、値段もリーズナブルです。難を言えば、朝食がきわめてプアといったことくらいでしょうか。

チェックインしたのは午後3時過ぎ。といっても、のんびり休めるわけではありません。今夜は、学生時代からお世話になっているHさん(昨年8月に亡くなられた)の長男(でも末っ子)Nくんの結婚パーティーがあるからです。いちおうきちんとした格好で行かなければということで、ホテルで着替えを済ませひと息着いたころ、Hさんの未亡人Lさんが迎えに来てくれました。最初は自分でレンタカーを運転していくつもりでしたが、パーティーとなるとアルコールは避けられません。そのことに気を使わってくださったのです。

会場は、小高い丘の上にあるレストランのパーティールーム。夜景が素晴らしく美しい、最高のロケーションでした。アメリカの結婚パーティーは形式張らないので、時間もゆったりしています。いちおう6時スタートになってはいましたが、実際に始まったのは7時過ぎ。しかも、キホン手作りですから、会場の飾りつけはほとんど、家族総出(Lさん、Nくんの二人の姉夫妻、親しい友人など)で約1カ月かけて作ったそうです。音響などは業者にお願いしていたようですが、それ以外は全部、当日手分けして持ち込み、組み立てたり並べ置いたり……。

結局、お開きは夜11時で、そのあとの片付けを手伝ったりしたので、会場を出てホテルに着いたときは午前0時を回っていました。日本との時差が17時間ですから、36時間ほとんどぶっ通しで起きていたことになります。飛行機の中で3時間ほどウトウトしていたのでかろうじてもちましたが、なんとまあ長い1日でした。

42年ぶりの「倉敷アイビースクエア」はいまなお新鮮

2018年11月16日
「北前船寄港地フォーラム」参加のため、昨日から倉敷に泊まり、今日は尾道です。

倉敷を訪れたのは1976年以来ですから、なんと42年ぶり。このときは新婚旅行でした。当時大人気だった倉敷アイビースクエアというホテルに泊まったのですが、今回は会合がそのホテルだったので、宿泊も同じです。42年の間にどの程度リノベーションされたのかはわかりませんが、私たちの泊まった部屋はツインで16平方メートルという、いまどきのシティホテルにはあり得ない狭さ。それでもホテル全体はかつてと同じ雰囲気で、いまなお新鮮さを保っていました。

工場の跡をホテルに改装するというアイデアはいまどきそれほど新鮮に感じませんが、40数年前は画期的なことで、メディアにも大きく取り上げられました。敷地と工場はもともと倉敷紡績(クラボー)のものですが(現在はどうなっているのかわかりません)、その発想自体が秀抜だったように思えます。というか、「儂【わし】の眼には十年先が見える」が口グセだったと伝えられる創業者・大原孫三郎のDNAが偉大としか言いようがありません。

尾道での会合は午後からなので、今日の午前中はホテル近くの「美観地区」を歩いて回りました。その名のとおり、この一帯は味わいのある建物、川と橋、ヤナギの並木などが美しい空間を構成しています。ここまで維持するのにどれほどのお金を費やしているのだろうかと考えると、自治体はもちろん、地元住民や企業・商店主らの努力のほどがしのばれます。

42年前の記憶はほとんどなく、覚えているのは「大原美術館」とその並びにある「カフェ・グレコ」くらいというのは、我ながら情けない話。朝9時半にホテルを出て、最初、旧街道の入り口で地図を広げてあたりを見ていると、地元のボランティアガイドさんが話しかけてきます。よく舌の回る高齢の方でしたが、売込みっぽくない話しぶりに魅かれ、30分コースで案内をお願いしました。

 

とてもよく勉強している様子で、どこを案内してもらっても、話によどみがありません。あまりの情報量に圧倒されそうでしたが、なんとか話について行きました(でも、頭はパンクしそう)。お別れするとき名刺をいただいたのですが、何十人かいるボランティアガイドのトップの方のようでした。

倉敷から尾道までは1時間ほど。お天気もよく、車窓には瀬戸内独特のおだやかな景色が広がります。JR尾道駅はいま改装中のようでしたが、駅を降りると目の前は尾道水道。すぐ手が届きそうな先に向島【むかいしま】が見えます。海岸沿いの公園もきれいに整備されており、この町がここ数年、観光で多くの人を集めているのも当然かなという気がしました。商店街も活気が感じられ、歩き甲斐があります。名物の尾道ラーメンを食し、「フォーラム」の会場へ。午後はずっとお勉強でした。

日本対オールブラックス@味スタに大興奮!

2018年11月3日
前週に続き、今週もラグビーの“ドリームマッチ”を観に行きました。JAPAN vsオールブラックス(ニュージーランド)戦です。このカードは2011年のワールドカップ@ニュージーランド以来。予選プールでしたが、このときは13トライを奪われ、7対83の惨敗を喫しました。それから8年が経過し、日本代表がどこまで力をつけたのかをチェックできる楽しみな一戦です。

会場の味の素スタジアムには、新宿から京王線の特急で乗り換えなしで行けます。最寄りの飛田給【とびたきゅう】駅に臨時停車してくれるからですが、これは助かります。さすがドリームマッチだけに、観客の出足も早いようで、1時間半前に席に着きましたが、すでにかなりの入り。試合中に、観客数は43751との発表がありました。もちろん、国内でおこなわれたJAPANの試合では史上最高です。

でも、味スタでのゲームは、まだまだ改善の余地が多々あるように感じました。ひどいのはオフィシャルプログラムの販売場所。私たちの入ったゲート近くにたった2カ所しかないので、買うのにたっぷり5分は歩く必要があります。会場の外に、オフィシャルグッズと一緒でかまわないので、専用のテントでも設けるのが常識でしょう。もともとこの種のプログラムは値段も高いのであまり売れないのかもしれませんが、それにしてもファンへの配慮なさすぎです。

ただ、荷物チェックは前回より大幅に改善。スコットランド戦(2016年6月25日)のときは、まったく無意味な行列を強いられましたが、今回それはありませんでした。もっとも、前回は天覧試合でしたからね。

 

試合のほうは、最初、日本が相手のキックをチャージし、そのボールを押さえて幸先よくトライできたのですが、そのあとしばらくの間はオールブラックスのペース。密集でのボール出しが思うように行かず、ペナルティーを重ねたこともあり、前半だけでトライを5本奪われました(日本は3トライ)。

ただ、先週横浜でワラビーズと戦った「1軍」よりは迫力に欠ける感じは否めません。そのときのスコッド23人中22人がヨーロッパに遠征してしまったのですから、これは致し方ないでしょう。それでもさすがはオールブラックス。日本は後半17分からの10分間で立て続けに4本のトライを許し、最終スコアは31対69。これまで5戦して合計4トライしか奪えていなかったのが、この試合だけで5トライを取ったのですから、これはもう大健闘です。

「ロシア絵画展」の特別鑑賞会に参加

2018年10月28日
副代表を務めさせていただいているNPO法人「日ロ創幸会」の活動の一環として、八王子の東京富士美術館で開催されている「ロシア絵画展」の特別鑑賞会に行きました。「特別」というのは、ほかでもない、20数名の団体ということで、事前に学芸員の方から20分ほどレクチャーが受けられるからです。

しかし、その話を聞いているかいないかでは、やはり大きな違いがあるように思いました。もともとロシア美術に詳しいわけではありません。そんな私たちにしてみれば、ロシアの美術がどのような時代背景とともに生まれ、発展していったのかについてのお話はとても参考になりました。実際、作品を観ているとき、レクチャーで手に入れた情報と照らし合わせてみると、印象が大きく変わるのです。「だから、少年がこんな表情をしているんだ!」とか「ここまでこまかく描いているのはそういう背景があったからかな」など、楽しみが増えます。

ワラビーズvsオールブラックスを横浜で観戦

2018年10月27日
FACEBOOKにも投稿したのですが、まさか、「ワラビーズvsオールブラックス」というカードを日本国内で観戦できるとは、古くからのラグビーファンなら誰もが感慨ひとしおだったのではないでしょうか。こうしたビッグゲームをテレビで見られるようになったのもここ10年ほどのことで、しかもそれがなんとナマでというのですから!

ワラビーズはオーストラリア、オールブラックスはニュージーランドのそれぞれ代表チームの愛称。高校生のころは、ラグビー専門誌などでしか見たことがありませんでした。世界ランキングでも最上位にいる両国はワールドカップ、チャンピオンズリーグ(南半球の強豪4カ国)、通常のテストマッチなど、さまざまな場面で戦いますが、今回は「ブレディスローカップ(Bledisloe Cup)」といって、1931年から続いている、いちばん格式のあるテストマッチ。毎年3試合を戦い、勝ち越したほうがカップを手にするのですが、その第3戦が横浜の日産スタジアムでおこなわれるのです。

通常の3試合に加え海外での1試合が追加された2009年10月にも、第4試合が国立競技場で開催されたことがあります(観衆は約4万4千)。日本で2019年にワールドカップが開催されることが決まった“ご祝儀”のようなものでしょう。オールブラックスはリッチー・マコウ(主将)やダン・カーター、ワラビーズはジョージ・スミス、マット・ギタウ、アダム・アシュリークーパーなど、錚々たるプレイヤーが出場するというので、私も観に行きました。

その2年前のワールドカップ@フランスを観に行っていたのですが、このときは日本代表の試合はあえて外していました。というのも、当時の日本のレベルはいまと比べものにならないほど低く、高い旅費を払い現地に行ってまで応援しようという気になれなかったからです。実際、オーストラリアとウェールズにはボロ負け、フィジーにも接戦で敗れ、カナダと引き分けるのがせいぜいでした。

それより、日本が足もとにも及ばない強豪チームの試合を中心に観戦するコースに参加したのです。マルセイユでの準々決勝イングランドvsオーストラリア、同じく南アフリカvsフィジー、パリでの準決勝=イングランドvsフランス、3位決定戦=フランスvsアルゼンチン、そして決勝のイングランドvs 南アフリカの5試合を観戦。イングランドがフランス戦で、追い詰められた状況から40メートルのドロップゴールを決めたときは鳥肌が立ちました(試合も14対9で勝つ)。3位決定戦で、地元フランスがアルゼンチンに敗れたときのファンの落胆ぶりも強烈に印象に残っています。詳しくは2007年10月2日のブログ「ラグビー人口の減少が心配」に記してありますので、お時間があれば、検索の上、ご一読ください。

 

ただ、今回の試合はそれ以来9年ぶりのことで、観客数も国内ラグビーでは最高となる4万6千人超え。試合はニュージーランドがオーストラリア代表に37-20で勝ち3戦全勝、「ブレディスローカップ」を手にしました。その当時とは、日本のラグビーを包む環境がまるで違うものの、あと1万人は増えていてほしかったですね。

東京明和会で「はとバス」ツアーに参加

2018年10月14日
昨日・今日は1泊で高校時代の同期会。明るい時間帯は、例によって大人の社会見学です。今回は、東京やそのすぐ近くに住んでいても、ふだんなかなか訪れることのない場所ということで、「はとバス」のツアーに申し込みました。「東京スカイツリーと柴又・ぶらり都電の旅」という名前の企画で、東京駅→「スカイツリ」ー→「柴又の帝釈天」→(都電で移動)→「巣鴨地蔵通り」散策というコース。これで9980円なのですが、さて高いのか安いのか……。

私も含め参加者は4人。全員、「スカイツリー」も「帝釈天」も初めてです。人気の「スカイツリー」はやはりけっこう人が来ていて、地上350mの「天望デッキ」に上がるまで順番待ちも含め30分ほどかかります。これでも、朝早いほうなのでまだましなのだとか。お天気もまずまずで、富士山こそ見えませんでしたが、筑波山【つくばさん】はバッチリでした。新宿副都心あたりまではかなりはっきり見えるのですが、改めて東京という都市の大きさを実感。とともに、人間の小ささも感じずにおれませんでした。

「スカイツリー」のある押上【おしあげ】から柴又まではあっという間。「帝釈天」をひととおり見終わると、江戸時代後期から続く老舗の「川甚」 で松花堂弁当の昼食。これは中身が充実していましたね。食後は、すぐ近くをたゆとう江戸川の堤防の上を歩き、有名な「矢切【やぎり】の渡し」の船着き場を観たり、柴又の駅まで続く参道をぶらぶらしたり。参道の途中にある老舗「高木屋」で名物の草だんごをほおばりながらしばし休憩。映画『男はつらいよ』で何度も目にしているので、初めてという印象はしません。

 

ここからバスに乗って、都電荒川線の梶原という駅に移動します。巣鴨の北にある庚申塚【こうしんづか】まで10分ほど都電に乗るのです。私はその昔しょっちゅう乗っていたのでそれほどでもありませんが、ほかのメンバーは「名古屋にいたとき以来」のようで、おそらく40年、50年ぶりのチンチン電車でしょう。庚申塚からはとげぬき地蔵の参道をぶらぶら歩き、駅の近くで待機していたバスに乗車。最後はまた東京駅に戻ります。

東京駅から東海道線に乗ってまずは大船。バスツアーに参加した4人は、いつになく健康的な時間を過ごしたあととあって、全員、夜のお酒・食事は期待でいっぱい。夜の部のみ参加の1人も加わり、いつものように食べまくり・呑みまくりの2時間余を過ごし、Yくんの江の島別邸へ。あとはおきまりの“ダラダラ2次会”です。

日馬富士の引退相撲で国技館はギッシリ

2018年9月30日
台風のおかげで沖縄から帰京するのが1日延びてしまったため、70代横綱・日馬富士の引退相撲・断髪式も、ギリギリで駆け込むことに。モンゴル出身の三横綱による土俵入りなんて、なかなか観られるものではありませんが、かろうじて……。

断髪式は、ゆかりのあり人たちが関係者が次々とハサミを入れていくのですが、元横綱(第68代)・朝青龍のときは湧きました。最後は師匠・伊勢ヶ濱親方(元大関・旭富士)。それからしばらくのち、頭を整えた日馬富士が土俵に上がると大歓声です。2010年に朝青龍の引退相撲も観ましたが、二代続けてというのはとてもラッキーです。

 

終わったあと、国技館の地下で開催されていた「日馬富士絵画展」をのぞいてみたのですが、とても充実した内容でした。四股名にちなみ、富士山の絵をさまざまな色彩で描いた作品がズラリ。どれを見てもクロウトはだしで感心しました。歌の上手な関取衆は多いようですが、絵となるとどうなのでしょう。家に帰ってお土産を開けてみると──。日馬富士の手になる絵ハガキなんかがあると、うれしかったのですが。

 

 

沖縄で台風に遭遇! 明日飛行機は飛ぶか……

2018年9月29日
24日から沖縄にやって来て、いつものように成り行きまかせであちこち行ったり映画を観たり。ところが一昨日あたりから猛烈な台風が接近、ほとんどの便が欠航になり、東京に帰れなくなってしまいました。やっとの思いで明朝の便を確保はしたのですが、明日は国技館で11時から日馬富士の引退相撲。苦労して手に入れたチケットなので、台風ごときで行けなかったというふうにはなりたくありません。

 

それにしても、沖縄で本格的な台風に遭遇したのはこれで2回目。「本格的」というのもおかしな表現ですが、同じ台風でも、沖縄ではまだ“青年期”であることが多く、風も雨も猛烈なのです。小社の分室は、高台に建つマンションの4階、しかもまわりに高い建物がないので、風と雨が情け容赦なく窓ガラスに吹きつます。とにもかくにも、明日の飛行機が無事飛ぶようにと祈るしかありません。

 

でも、そんな沖縄だからこそ、家々にはかならずシーサーがいて守っているのでしょうね。よく見ると、愛嬌のある顔をしているのがわかります。災厄を追い払うというよりてなづける──人々のやさしさを示しているかのように見えます。

 

「琉球フェスティバル」は、都心に出現する“異次元空間”

2018年9月23日


4年ぶりの「琉球フェスティバル」。沖縄の音楽にどっぷり漬かることのできるイベントの中では、「うたの日コンサート」と並んで大規模なものです。後者はBEGINが主人公と決まっていますが、「琉フェス」にはそうした存在がありません。あえて言うなら司会のガレージセールですが、中身はかなりアバウトなところがあります。ただ、会場は日比谷野外音楽堂と決まっていて、しかも大変な長丁場になるのが特徴。4時ごろ始まり、終わるのはたいてい9時近くです。

「琉球フェスティバル」は同じ名前のイベントがもう一つあります。一つは1965年に琉球新報社主催で始まったもので、こちらは沖縄の伝統芸能を中心に日舞、洋楽なども含めた総合的な芸術祭で、沖縄県内で毎年4月におこなわれています(ただ、今年はおこなわれたのかどうかわかりません)。

もう一つは1974年、評論家・竹中労(故人)が企画して大阪と東京で開かれた音楽イベント「琉球フェスティバル」。このときは日比谷野音に観衆7000が詰めかけ、琉球新報は「東京に沖縄解放区が実現した」と報じたといいます。よほど爆発的な盛り上がりだったのでしょう。同フェスティバルは翌年も東京で2回開催されましたが、その後20年間途切れてしまいます。それが、91年5月に亡くなった竹中の追悼の会=「琉球フェスティバル1991」として同年9月20日、川口リリアホールで開催され、さらに4年後の95年、大阪で復活。翌96年からは、毎年東京と大阪で開催されるようになりました。現在では、県内外で最大規模の沖縄音楽の祭典として定着しているようです。

売りはもちろん、沖縄の一流ミュージシャンが顔をそろえることにありますが、毎回、途中から集団野外飲み会的な要素が色濃く出てくるのが最大の特徴でしょう。

「会場内への飲食物の持ち込みは禁止です。特にビン類の持ち込み品を発見した場合には没収させて頂きます」とか「出演者へ飲食物を渡す行為はお止めください」と書かれた貼り紙もしてあるのですが、重そうなレジ袋・手提げ袋や大きなクーラーボックス持参の観客が次々と入ってきます。その結果、どこを見ても泡盛やオリオンビールをガンガン飲っているという状況に。つまみも、会場内の売店では売られていないものが目につきます。

自分たちだけで飲み食いしているうちはいいのですが、酔いが回ってくると、泡盛、それも生(き)のままで、司会のガレージセールの2人に手渡し、「飲め、飲め」とはやし立てるため、断わり切れず一気飲み。始まって1時間も経ったころにはすっかりでき上がっているという具合です。私たち観客には見えませんが、舞台の裏でも出演者どうしで呑み合っているのではないでしょうか。こうなるともうワケがわからない感じで、出演者も三線【さんしん】を観客席に向かって投げたりし、最後は会場全員が総立ちになってカチャーシー。これが東京のど真ん中で繰り広げられるのがなんとも面白いのです。