三原・尾道・鞆・福山を追加取材

2011年3月18日
大震災の余震がまだ収まらない中、16日から今日まで広島に最後の取材に行きました。原稿はすでに完了しるのですが、ここに来て追加取材+書き足ししなくてはならないことがいくつか見つかり、そのためにスケジュールを取りました。今回は広島市内から離れ、三原、尾道、鞆(とも)福山の3カ所がメインです。
行きは16日午後3時羽田発の飛行機だったのですが、乗客の3分の2が小さな子ども連れの母親でした。震災と福島原発事故の影響でしょう。広島やその近くに縁故のある人が子どもを少しでも安全な場所に避難させたいという親心のなせる業です。広島空港の到着ロビーには、私たちと同じかそれより年上の親(おじいちゃん・おばあちゃん)たちがいっぱい出迎えにやってきています。孫や娘・嫁のかを見ると手を振りながら無事を喜び合っていました。
私たちは三原駅までバスで移動し、その足で、広島出身の知人から紹介された駅前の一角にある小さな古い、しかし味わいにあるバーに直行。マスターとは四半世紀ぶりの再会です。
といっても、そのときは20人ほどの団体で行ったスペイン・ポルトガル旅行で一緒だっただけで、ほとんど話らしい話もしませんでした。私など、申し訳ないことに、バーのカウンターの前に立ってようやくそのことを思い出したくらいで、いかに記憶がいいかげんなものなのか、ガックリ。
それでも話は大いにはずみ、三原のことをたっぷり聞かせてもらったので、来たかいはありました。
店のお客さんはほとんどが常連のようで、そこで出会った広島の大手書店のストアマネージャー氏と名刺交換、「近々、本が出るので、ぜひともよろしく」などと、ずうずうしいお願いまでしてしまいました。
その日は広島市内に泊まり、翌日はレンタカーを借りてまず尾道を訪ねました。よくぞこれほど狭い土地にこれだけの家が……と感心させられるくらい小さな町ですが、経済にかけては江戸時代から明治時代にかけては大変なものがあったようです。商工会議所まであったといいますし、住友銀行創設の話がまとまったのもこの地だとか。経済・文化のレベルが高かったせいか、食べ物もおいしかったです。
そうした経済力をバックに、何人かの富豪が文化人に対する支援をおこなっていたこともあり、街のあちこちにその面影が残っています。橋を渡って因島にも足を伸ばしました。20年ほど前、雑誌の取材で一度訪れて以来です。
夕刻、取材を終え、泊まったのはベラビスタ境が浜というリゾートホテル。以前は造船会社の迎賓館だったらしく、こんな便の悪いところになぜ? と首をかしげるような場所にあるのですが、部屋は広く、魚介類中心の食事も上々。バーも落ち着けました。何より、瀬戸内海が一望のもとに見渡せる大浴場の素晴らしいことといったら。ホテルが建つ下の海沿いには、その造船会社のドックがありました。
そして、今日は鞆まで。古い港町で、江戸時代は朝鮮通信使も訪れた由緒のある場所です。いまはもっぱら観光スポットとして人を集めているようですが、古めかしい街並みも残っており、味わいがあります。
鞆を後にし一路、福山へ。福山駅の真ん前は福山城で、その天守にのぼり市内から瀬戸内海まで見渡せる絶景を楽しみました。城主の水野氏は尾張出身ですから、福山の街はやはり質実剛健といった印象でした。