月別アーカイブ: 2018年5月

「大連の旅」の最後に待っていたサプライズ

2018年5月27日
お城を思わせるホテルにびっくり!
大連も今日で3日目。午前中から公式行事が続き、午後は市内観光に出ましたが、夕方から大連市旅遊局主催のパーティーに出席することに。会場は「星海広場」の近く、小高い丘の上にあるホテルだったのですが、これがまあとんでもなく豪華なホテルだったのにはたまげてしまいました。

広さ110万平方メートルという「星海広場」は、もともとはゴミの埋め立てに使われていた湾だったところを、大連市制100周年記念事業として整備したもの。超高級マンション(星海国宝)、遊歩道、噴水、遊園地、会議・展示場、野外イベント会場やレストラン街などがあります。隣接する「星海公園」には自然博物館も建っています。

こから坂を少し登っていったところに建つお城のようなホテルが「大連一方城堡豪華精選酒店(The Castle Hotel, A Luxury Collection Hotel, Dalian)。見た目はディズニーランドのシンデレラ城を思わせ、誰もがひと目見ただけで一度は泊まってみたいと思うにちがいありません。たしかに、パーティー会場の3階テラスからの眺めは素晴らしいものでした。今回泊まった街中のホテルが可もなく不可もないホテルだっただけに、その差が際立ちます。まあ、近くの施設で用事でもない限り泊まることはないでしょうが、ひときわ印象に残ったのは間違いありません。

さて、アカシアはどこに?

2018年5月26日
昨日から町の中を移動するたびにアカシアを探しているのですが、なかなか見つかりません(早い話、アカシアの花が咲いている場所を通らなかっただけなのですが)。「もう散っちゃいましたよ」というガイドさんの言葉は眉唾のようで、「正仁路(槐花大道)) という通りの両側は、長さ1km以上にわたって満開だったという話を、別の参加者から聞きました。それならそれで、ガイドさんも教えてくれればいいのに……。

このところ「北前船寄港地フォーラム」の旅行手配を仕切っているN社にはいまひとつ不満を感じています。そちらのルートで申し込むホテルの料金より、ネットの予約サイトから申し込んだほうが、2~3割は安いからです。数百人という単位で予約を取っているのなら、もっと安くってもいいはずなのですが。

今回もそうした不安がありましたが、海外、それも初めての地でもあったので、やむを得ずホテルだけはN社に申し込みました。しかし、実際ネットで調べてみると、同じ値段を出せばもっとグレードの高い部屋に泊まれたようにも思えます。ガイドの質の低さにも象徴されますが、もう少し参加者を満足させる配慮がほしいですね。

“アカシアの大連”にやって来ました

2018年5月25日

清潔で美しい町──それが大連の第一印象です。私が大学に入った年、芥川賞に選ばれた『アカシヤの大連』という作品がありました。作者は詩人の清岡卓行で、20世紀前半に日本の租借地・大連で過ごした青年期の生活を描いたものですが、詩人として知られていた作者にとっては初めての散文。大学に入ったばかりだった私もすぐ買って読んだ記憶があるものの、さほど強烈な印象は受けませんでした。ただ、タイトルだけはいまでも覚えているというか、大連といえばほとんど反射的に「アカシア」という言葉が口をついて出てきてしまいます。

その大連で、ここ数年ずっと追いかけている「北前船寄港地フォーラム」が開催されるというので参加しようと決め、今日、成田から飛んできました。21世紀に入り大々的な発展を遂げている都市らしく、空港も街並みもたいそう清潔で美しく、中国ではないような印象すら受けます。

とにかく、どこを歩いても、道路の脇にプランターが置かれ、花が咲き誇っています。街灯の柱にもガードレールにも花、花、花……。道路もえらくきれいに保たれ、あちこちの街角で、清掃している人の姿を目にしました。北京・上海にも、もちろんそうした仕事をしている人はいるのでしょうが、ほとんど目につきません。それからすると、この町がどこを歩いてもこぎれいなのがよくわかります。日本の前にこの町を租借していたロシアの人たちがそれほど清潔好きとは思えませんし、となるとやはり、日本の影響なのでしょうか。

午前中はアカシア祭り(大連国際槐花節)の開会式。会場は海辺の公園で、式典の最後におこなわれたアトラクションでは秋田の竿灯の披露も。参列者全員が歓声をあげ、拍手喝采。ロシアの民族舞踊も登場したあたりに、大連の歴史が垣間見えます。

 

 

 

日清戦争後の三国干渉の代償として、1898年清からこの一帯(大連、旅順など)を租借したロシアが、貿易拠点として港を整備するとともに、パリをモデルとした都市作りを始めました。しかし、その7年後、日露戦争に勝った日本が、ポーツマス条約により租借権を譲渡されます。日本は、大連を貿易都市として発展させようと、関東都督府と南満州鉄道が、道路の舗装などインフラの整備、レンガ造りの不燃建築物が立ち並ぶ町作りをおこない、旧市街がほぼ現在の形となったのです。いうならば“日ロ合作”のような都市なのですが、ほかの中国の都市との違いはそのあたりに起因しそうです。山田洋次(映画監督)や遠藤周作(作家)、荒木とよひさ(作詞家)の生まれ故郷と言われてもピンときませんが、松任谷由実(『大連慕情』)も桑田佳祐(『流れる雲を追いかけて』)もこの町を歌にしている理由が理解できるような気がします。

東京・椎名町で見つけた“お寺カフェ”

2018年5月16日
お寺や教会の副業といえば昔から幼稚園と相場は決まっていたような気がしますが、最近はそうでもないようです。私が住む私鉄駅の隣駅(椎名町)の真ん前にある「金剛院」というお寺は、門の脇にカフェを作りました。名前は「なゆた」。「なゆた(那由他)」とは、仏典に出てくる数字の単位(ゼロが72個)で、要はとんでもなく多い数のこと。

カフェなので、ドリンク類のほかに「お寺ごはん」というネーミングのランチも提供しています。内容は「精進料理」とまでは行かないものの、「薬膳料理」に近いもの。ライスも、普通の精白米と玄米ご飯の2種類から選べます。

 

このカフェの魅力はそのロケーション。お寺のほぼ入口横にあり、床から天井まで窓が大きく取られています。前には、こぎれいに整えられた庭園が広がっており、奥のほうに本堂が見えます。さほど広くはありませんが、食前食後に園内を歩いてみるのもいいですし、食べながら飲みながら四季の花々や木々を愛でるのもよし。テーブルや椅子も天然木の風合いで、すわっただけで落ち着いた気分になれます。私が行ったのは3日前の日曜日でしたが、ちょうど正午過ぎだったこともあり、ほぼ満席。今月開店したばかりだというのに、近頃の情報の早さはすごいですね。

そういえば、都心の神谷町には、僧侶がウエイターをし、ときには悩み相談にも応じてくれるお寺があることを思い出しました。いな、それよりもっと前から四谷3丁目には「坊主バー」というバーがありましたね。僧侶がバーテンをしているというだけで、メニューとかは普通のバーと一緒。違うのは、店の奥に仏像が安置してあり、お香が焚かれていることくらい。できた当時は話題になり、私も一度行った記憶があります。ただ、その後すっかりウワサを聞かなくなったので、とっくの昔につぶれたのかと思っていましたが、いまでも健在のようです。

バーはともかく、“お寺(または神社)カフェ”というのはけっこう全国あちこちにあるようで、
先月訪れた香川県・金刀比羅宮参道の脇にある「神椿」も、“神社カフェ”と言えなくもありません。私は階段を歩いて上るのを避けるために利用しただけですが、そうした不埒な理由でなく入っている人もいそうです。

ところが今朝、たまたま見たテレビ番組で紹介されていたロンドンの「教会カフェ」にはたまげました。シティ(金融街)にある「聖メアリー・オルダーメリー教会」がそれで、350年ほど前の創建だといいます。しかも、ここは建物の一部とか敷地の一角というレベルではなく、教会がそっくりそのままカフェになっているのです。聖堂(お寺でいうなら本堂)内には信者がすわるベンチのような椅子が何列も並んでおり、そのベンチの間に小さなテーブルが置かれています。また、聖堂の扉を開けてすぐのところにあるけっこう広いスペースにもいくつかテーブルが(ネットにアップされている写真を転載しておきます)。

 

 

メニューは食べ物がスープとパン、あとはコーヒーなどの飲み物だけのようですが、持ち込み自由なので、近くの金融機関に勤める人たちも自由に出入りしている様子。教会側としては、訪れることのない人にも教会に親しみを持ってもらいたいというのが狙いだそうです。カフェの売り上げは修繕費や地域のボランティア活動の一助に回されています。今度ロンドンを訪れたとき、ぜひ足を運んでみたいと思いました。

ちなみに、「金剛院」の場合、カフェの入っている建物の2階に集会所のようなスペースも併設されているらしく、そこではヨガ教室やがん患者の心のケア講座など、さまざまな催しがおこなわれているようです。社会における宗教施設の存在意義を考えさせられました。

待ちに待ったサンウルブズの初勝利!

2018年5月12日
2月のスーパーラグビー開幕以来、ここまでなんと9連敗を続けていたわがサンウルブズ。今日の国内最終戦でようやく今季初勝利をあげました。相手はレッズ(ブリスベン)、スコアは63対28ですから、快勝といっていいでしょう。ファンのだれもが「最初からこういうゲームをしてほしいよなぁ!」と思ったのではないでしょうか。

もちろん、日本国内ではこのゲームが今シーズン最後で、ここらでいいとこを見せとかないと……という選手・チームの強い思いもあったにちがいありません。ただ、それにしても長すぎますよね、3カ月は!

日本代表チームも外国人選手が多いのですが、サンウルブズとなるとその比率はもっと高まります。ラグビーのナショナルチーム代表資格の規定がちょっと複雑なせいもあるのですが、ナショナルチームではないプロ球団となると、ややゆるやかなので、こうした現象が起こります。ただ、「外国人」といっても見かけのことで、日本国籍を取得している者もいれば国籍は持たずとも日本語ペラペラの者も。

この日の試合は、今シーズンからサンウルブズに加入したリーチマイケルが7週間ぶりに戦列復帰したことで、核ががっちり固まった感じを受けましたし、姫野和樹(トヨタ自動車)の素晴らしい動き、好判断も光りました。ヘイデン・パーカーがプレースキックを100%成功させ、5ゴール(コンバージョン)+7PGと31点をたたき出したのも大きいですね。トライも1本決めているので合計36点。得点の半分以上を一人で稼いだことになります。

来週は香港でのホームゲームで、相手は南アフリカ・ケープタウンのストーマーズ。ここで勝つことができれば、かなり勢いがつくのではないでしょうか。ぜひ、素晴らしいゲームを見せてほしいものです。昨シーズンまでほぼ同じランキングだったアルゼンチンのジャガーズが今期はめっぽう頑張っているだけになおさらです。

久しぶりの札幌・初めての厚田

2018年5月9日
昨日、札幌入りしました2014年7月以来なので、ほぼ4年ぶりです。4年前はサッカーW杯ブラジル大会の終盤、準決勝・決勝の時期と重なり、毎日、夜遅くまで起きていた(もしくは早朝起き)記憶があります。

今回の目標は、今日の「厚田さくらまつり」。今年で第7回だそうですが、先月、秋田県小坂町の「観光フォーラム」でお会いした札幌のHさんから声をかけていただき、行くことにしました。

厚田というのはその昔は村でしたが、2005年、石狩市に合併されました。1977年、この地に墓地公園が開園して以来40年。いまでは園内になんと8000本ものソメイヨシノが植わっており、石狩市の、いな全道的な桜の名所として広く知られているのだとか。毎年5月の初めになると、園内の桜が一斉に花を開き、道内のあちこちから花見に訪れる客でにぎわうといいます。

 

ソメイヨシノの開花はかつて札幌市が北限とされていましたが、それより40数キロ北にあるこの地でも花を咲かせようと、桜守りの佐々木忠さん(故人)という方が奮闘され、みごとにその夢を実現したのだとか。

今年は温暖(それでも最高気温は12℃)、無風、晴天という無類の好条件下、これ以上はないというほどみごとな開花ぶりに見とれてしまいました。佐々木さんの熱い思いが園内全体に行き渡っているかのように感じられたからです。

『細説 日本』全4巻(東日本・北日本・西日本・南日本)

NEW

北京・当代世界出版社から、中国語版の“県民性”本が発刊となりました。拙著『新 出身県でわかる人の性格』『札幌学』『広島学』『鹿児島学』など10点、また新聞・雑誌等への寄稿などを集めて再編集し、中国語に翻訳したもの。中国から日本を訪れる旅行客向けに、47都道府県の地勢、県民性、独自の風習、食べ物、観光ガイドにあまり出ていない中国人向けの観光スポットなどを詳細に紹介・解説。「これさえあれば安心」のユニークなガイドブックです。

『細説 日本』全4巻
著者:岩中祥史 訳:劉 晨
価格:45元(1冊)
A5版 各巻282~300ページ
[当代世界出版社・2018/04/01]
『細説 日本』(東日本)
著者:岩中祥史 訳:劉 晨
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[当代世界出版社・2018/04/01]
『細説 日本』(西日本)
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キューバ最大の国家行事「メーデー」に遭遇

2018年5月1日
キューバ滞在の最後の日。大きなお土産を手にすることができました。といっても、「もの」ではありません。「こと」です。

朝テレビをつけると、地元の局はどこも「メーデー(Primero de Mayo)」一色。日が昇り、空が明るくなったと同時に、「革命広場」で大規模な集会が始まったようです。キューバ全土からやってきた90万もの人々が行進するさまは迫力満点、しかも、どの人も笑みをたたえています。

社会主義の国ですから統一が取れているのは当然でしょうが、北朝鮮のように“強いられた風”ではありませんし、旧ソ連・東欧のような暗さは微塵も感じられません。踊り抜きのリオのカーニバルといえばわかりやすいでしょうか。唯一カーニバルと違うのは、式典冒頭の演説。つい半月ほど前新しく国家評議会議長(元首)に就任したミゲル・ディアスカネルでした。そのあとは、前任のラウル・カストロとともに満面の笑顔で壇上に立ち、キューバ国旗を振っています。その前を次から次へ、人々が旗を振りながら横断幕を掲げながら行進していく人々も皆笑顔。ラテンの国であることを改めて実感させられました。

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式典の最後に、「インターナショナル(国際労働者協会)」を全員で歌っていました(下記
YouTube の1:51:00~1:53:50 あたり)。
https://www.youtube.com/watch?v=hySkTNtFA00
この曲を最後に耳にしたのはもう40年以上前のことですが、こちらもまたキューバ音楽独特のリズムが反映してか曲調が明るく、どこか違った風に聞こえてきます。日本語の歌詞「起て 飢えたる者よ いまぞ日は近し 醒めよ 我が同胞(はらから) 暁(あかつき)は来ぬ 暴虐の鎖 断つ日 旗は血に燃えて 海を隔(へだ)てつ我ら 腕 (かいな)結びゆく いざ闘わん いざ 奮い立て いざ あー インターナショナル 我らがもの……」とはストレートには結びつきません。試しに、聞き比べてみてください。
https://www.youtube.com/watch?v=KFlGfHCCZdQ

IMG_2118そのあと「オビスポ通り」に出てみましたが、休日のため、午前中はほとんどの店が閉まっているようでした。見ただけではわかりませんが、国営の店もけっこうあるのですね。お土産を買おうと、何軒かお店をのぞいてみました。定番のTシャツを探すと、ユニークな絵柄のものもいくつかあります。さっそく買おうとサイズを見ると、どれを取 ってもLサイズ。「Mはありませんか」と尋ねると、「この商品はLだけなんです」。そんなことあり得ないと思い、再三聞き直しても答えは同じ。ほかの商品も同様で「これは男性用のSしかありません」……。日本のように、きちんとした品ぞろえ、というか品
作りをしていないようなのです。「なければあきらめればいいじゃない」──やはりここは南国、それもキホン社会主義の国なんだなと改めて実感しました。

途中、のども渇いたので、ホテル「アンボス・ムンドス」と並ぶヘミングウェイゆかりの店「ラ・フロリディータ」に立ち寄ります。砂糖抜きのダイキリ「パパ・ヘミングウェイ」を1杯ひっかけ、カウンターいちばん奥にある銅像の隣にすわってみました。ここがヘミングウェイ指定席だったそうで、えらくリアルな感じがします。

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午後2時半にホテルにガイドさんがピックアップにやって来て、ハバナ最後のスポット=革命家エルネスト・‟チェ”・ゲバラ(アルゼンチン・コルドバ生まれ)の足跡をたどろうと、「カバーニャ要塞」「ゲバラ第一邸宅」の見学へ。そこでゲバラが少年時代からラグビーをしていたことを知り、急に近しく感じました。

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持病の喘息を克服したいとの思いからだったようですが、ほかにもいろいろなスポーツに挑んだといいます。でも、ラグビーには強い情熱を向けたようで、ブエノスアイレス大学で医学を学んでいた頃も、友人とともに『タックル』という雑誌を編集・発行していたそうです。

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DSC06528博物館で知ったことがもう一つあります。1959年7月、革命から半年後にゲバラが
来日したとき、広島の平和記念公園と原爆資料館を訪れていたのです。広島から妻に送った絵ハガキには、「平和のため断固戦うには、この地を訪れるべきだ……」と書かれていたといいます。

 

 

そして、キューバに戻ったゲバラは、カストロに原爆の実態を報告するとともに、医師という立場から、その恐ろしさをキューバ国民に伝えたとのこと。キューバでは現在も、毎年8月6日と9日に国営放送で特別番組を流し、小学校では広島・長崎への原爆投下について教えているのだそうです。メーデー当日にキューバにい合わせた上に、ゲバラの知られざる生涯にも触れることができ、今回のキューバの旅は大きな成果がありました。

最後に、ゲバラの言葉の中で心に響いたものを二つ。
「人は毎日髪を整えるが、どうして心は整えないのか?」
「人間はダイヤモンドだ。ダイヤモンドを磨くことができるのはダイヤモンドしかない。
人間を磨くにも人間とコミュニケーションをとるしかないんだ」

夕方の便でメキシコシティーまで戻り、ANAの成田行きに乗り換えます。その間、出
発前に読んでおこうと思っていたキューバの歴史を書いた本をひもといてみました。

1492年、この地を「発見」したスペイン人が先住民をいとも簡単に滅ぼし、1511年
から完全な支配下に置きます。以来およそ400年、1902年になってようやくスペインから独立を勝ち取ります。しかし、その後はアメリカの半植民地状態が続き、実質的な支配者として半世紀ほど君臨。それにピリオドが打たれたのは1959年、キューバ(社会主義)革命によってでした。

当時キューバはアメリカの傀儡【かいらい】だったバティスタ大統領が独裁政治をおこなっていましたが、1956年、メキシコから船で上陸したフィデル・カストロ、エルネスト・“チェ”・ゲバラ等が国内に組織した革命軍を率いて内戦に突入。59年1月、バティスタを国外に追放し、ようやく真の独立を勝ち取ったのです。そして同年5月から徹底的な農地改革を実施したのですが、アメリカが経済封鎖措置を講じられたため、当時アメリカと全世界で対立していた旧ソ連に接近、60年には正式な外交関係を結びました。

その後ろ盾も得ながら、キューバ政府は国内からアメリカ資本の全面排除を図ります。
結果、石油精製会社、製糖会社、電話会社、金融、商業など大企業のすべてを国有化しました。アメリカはただちに報復措置を講じ、国交も断絶。その結果、アメリカからの車の供給もストップしたのです。

旧ソ連の援助でそうしや苦境をなんとかはねのけ、国家の建設にいそしみます。1989年、旧ソ連が崩壊してからは援助もほとんどゼロになりましたが、独自の路線を貫き今日に至っています。現在世界全体で社会主義の体制下にある数少ない国(ラテンアメリカでは唯一)の一つですが、なぜか、国民はそれほど不満を感じていないようです。国の経済を支えているのはいまもサトウキビですが、それに加え観光が大きく伸びています。また、医療のレベルが非常に高く、医薬品の輸出も貢献していると聞きました。

たしかに、国民性もあるのでしょうが、当地の人たちの表情を見ていると、かつての東欧=社会主義国特有の暗さは微塵も感じられません。それは1にも2にも、いまの暮らし向きにそこそこ満足しているからだろうと思います。お金があっても、家族仲よく暮らせなければ、近所の人や職場の仲間と親しく話せなければ、ちっとも楽しくはないでしょう。その国はその国の「満足水準」というのがあるようで、その点、日本は少し贅沢が過ぎるような気もします。