『KANO』、観ましたよ!

2015年4月8日

去年台湾で大ヒットした映画『KANO 1931 海の向こうの甲子園』を観ました。「KANO」は、台湾に戦前あった嘉義農林学校のこと。中等学校野球(いまの高校野球)は戦前、日本が統治していた台湾をはじめ、朝鮮、満州からも代表校が出ていましたが、嘉義農林は1931年、台湾代表として初出場を果たします。それまで一度も勝ったことがないチームを、かつて強豪・松山商業(愛媛県)のコーチとして甲子園で戦ったことのある近藤兵太郎が監督として率いることになり、なんと1年で甲子園に出るまでに成長させていくというストーリーです。

 

当時の甲子園も、いまと負けず劣らずすごかったことがよくわかりますが、私自身は、台湾と日本のつながりをまたまた学ばせてもらった点で、とてもよかったと思っています。原住民(高砂族)と中国人、そして日本人の3民族が一緒のチームでプレーすることの難しさも当然あったのでしょうが、それはおそらく台湾だけのはず。朝鮮や満州ではせいぜい2民族でしょうから。スポーツに民族の違いなど関係ないことも、この映画を観るとよくわかります。

Poster2

台湾からはプロ野球にもけっこう多くの選手が輩出しました。この映画にも出てきた呉昌征(呉波)は、私も子どもの時分から名前だけは知っていた選手です。映画の最後、文字と写真でその後のエピソードを紹介する場面がありましたが、そこにも登場していました。たしか、裸足でプレーしたので話題になったと、どこかで読んだ記憶もあります。

 

プロ入り(最初は巨人、のちに阪神)してからは投手と野手の両方の2刀流も務めたこともあるそうで、いまでいうなら日本ハムの大谷と同じ。戦前は好打・俊足の外野手として名を馳せ、首位打者を2回も取っています。ところが戦後、プロ野球はどのチームも選手不足でした。そのため、外野手だった呉も、その強肩を買われピッチャーをさせられたのです。それがなんと、戦後初めてのノーヒットノーランを達成するなど大活躍(http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1206/kiji/K20120616003458240.html を参照してください)。そうした功績もあって、外国人として初めて野球殿堂入りも果たしています。

 

初出場にもかかわらず甲子園では決勝まで進み、中京商業に敗れた嘉義農林ですが、最後までマウンドに立っていたのが呉明捷。こちらは卒業後早稲田大学に進み、打者として活躍、1936年春のシーズンで通算7本目のホームランを放っています。これは、東京六大学野球のタイ記録で、1957年に長嶋茂雄(立教大学)に更新(8本)されるまで破られませんでした。

 

映画の中に出ていた八田與一は、前もこのブログで触れたことがありますが、台湾に多大な貢献をした技術者です。嘉義から台南県にかけて広がる大きな嘉南平野は、水不足のためほとんど不毛の地だったそうです。その一帯の灌漑事業に取り組んだ八田は、烏山頭に当時としては画期的なダムを建設、それによってこの平野は大穀倉地帯に変わったといいます。八田の存在なくして今日の台湾はないといっても過言ではないでしょう。実際、地元の人たちの間ではいまなお神様のように崇【あが】められ、歴代の総統も彼の墓参に訪れるとのこと。近いうち、烏山頭をぜひ訪れてみようと思いました。

 

太平洋戦争で日本の無条件降伏で終わるまで、この台湾と朝鮮、そして満州(中国東北部)は日本の統治下にあったわけですが、台湾だけは、日本に対し総じて好意的です。その背景にはこうしたことの積み重ねがあるのでしょう。