カレーライスも“インドの叡智”

2019年4月20日
私も含め日本人が大好きなカレーライス。そのルーツがインドというのは、どなたもご存じのことでしょう。東京都心の神田神保町を中心としたエリアには、いまや500軒を越えるカレーライスの店があるのだとか。毎年11月に開催される「神田カレーグランプリ」も年を追うごとに参加者が増えているといいます。

といって、神田神保町とインドとの間に深いつながりがあるわけではありません。この一帯が昔から学生街だったことでカレーの店が増えたと言われています。手軽で安く食べられるのは、ふところのさびしい学生にとって最大の魅力だからです。

その日本で初めて本場インド流のカレーを提供したのは新宿中村屋だそうです。そう、寺山修司がその昔、「週刊プレイボーイ」の人生相談を担当していたとき、自殺したいという男性に、「君は新宿中村屋のカリーを食べたことがあるか? なければ食べてからもう一度相談しなさい」と答えたという、中村屋のカリーです。

中村屋が新宿にレストランをオープンしたのは1927年。そのときのメニューに登場したのが「純印度式カリー」でした。その当時、カレーはすでに広く食べられていましたが、それはあくまで欧州式、正確には英国式のもの。インドの宗主国だったイギリスが、現地のスパイスを小麦粉と一緒に使いシチュー風のカレーを国内に広めたのですが、そのレシピを日本人が持ち帰り、日本人好みのアレンジをほどこしたものです。

しかし、インド人からしてみると、それは本来のカレーとはほど遠いものでした。「東京のカレー・ライス、うまいのないナ。油が悪くてウドン粉ばかりで、胸ムカムカする。~略~カラければカレーと思つてゐるらしいの大變間違ひ。~略~安いカレー・ライスはバタアを使はないでしョ、だからマヅくて食へない」(中村屋ウェブサイト)と嘆いたのが、インド独立運動の志士ラース・ビハーリー・ボース(1886~1945)。 ボースは1912年、独立運動の中でイギリスのハーディング総督に爆弾を投げつけたカドでイギリス政府に追われ、15年に日本に亡命します。日英同盟を結んでいた日本政府はボースに国外退去命令を出しましたが、そのときボースをかくまったのが中村屋の創始者・相馬愛蔵。逃避行を続けるボースを支えたのが相馬の娘で、二人はやがて結婚しました。

その後、“無罪放免”となったボースは日本に帰化、中村屋の役員に。そして、相馬が新宿にレストランを開くとき、メニューに「純印度式カリー」を取り入れたのです。最初はその味を敬遠する日本人も多かったようですが、ひとたび慣れ始めると大好評を博するように。このころ町の洋食屋のカレーが10~12銭だったのに対し、中村屋のカリーは80銭しましたが、飛ぶように売れたそうです。

ボースは同じくインドの独立をめざして活動していたマハトマ・ガンディーとは考え方を異にしていたため別々の道を歩み、1945年、独立を見届けることなくこの世を去りますが、その伝記『アジアのめざめ─印度志士ビハリ・ボースと日本─』(相馬黒光【こっこう】・相馬安雄共著 1953)に今日出会いました。場所は文京区・本駒込の東洋文庫。たまたま見に行った「マハトマ・ガンディー生誕150周年記念 インドの叡智展」に展示されていたのです。

  

ひょんなことでひょんな知識が得られるのは大きな喜びですが、これもその一例。まして好きなカレーにまつわる話ですから、テンションは大いに上がりました。ちなみに、ボースの腹心として活動していたのが、同じ時期に京都大学に留学中のA・M・ナイル(1905~1990)で、ナイルは1949年、東京・銀座に日本初のインド料理店「ナイルレストラン」を開業しています。

帰り道、家人の案内で、“日本一ショートケーキがおいしい”という「フレンチパウンドハウス 大和郷店」に立ち寄ったのも利いたかもしれません。店名に見える「大和郷(やまとむら)」という言葉のいわれも深いものがあるようです。大和郷はいまは文京区本駒込六丁目になっていますが、都内でも屈指の高級住宅街のこと。場所は六義園【りくぎえん】のすぐ近く。六義園は、もともと加賀藩の下屋敷を幕府側用人【そばようにん】の柳澤吉保が拝領したあとに造らせた庭園です。吉保は隠居後もそのまま住み続ける一方、柳澤家が大和郡山へ転封となったため「大和」の名が残ったといいます。

明治に入り六義園も新政府に返上されましたが、それを購入したのが旧三菱財閥の祖・岩崎彌太郎。彌太郎は六義園の修築に力を入れるとともに、周辺の土地も購入し、その一角に別宅も構えたそうです。 その後、三菱の3代目・岩崎久彌が1922年、それらの土地を「大和郷」として分譲し、近代的住宅地として造成したといいます。三菱の関係者はもちろん、第24代首相・加藤孝明、第25・28代首相・若槻礼次郎、第44代首相・幣原喜重郎【しではらきじゅうろう】と、歴代首相が3人も住んでいたことでも知られています。