カウナスで“日本のシンドラー”杉原千畝に思いを馳せる

2019年7月5日

朝食を済ませると、私たちを乗せたバスはヴィリニュスをあとにし、一路北に向けて走ります。まず立ち寄ったのが「聖ペテロ&パウロ教会」。雨が降り始めましたが、バスが駐車した場所からすぐ近いので、ほとんど濡れずに済みました。内部は、白漆喰【しっくい】の彫刻が壁から天井からびっしり覆い尽くしています。教会というと薄暗く、金や銀をふんだんに凝らした内装、天井画、ほこりっぽい感じの旗やカーテンが目につくところが多い中、内部がとても明るいこの教会は印象的です。この地域の人たちに共通する清楚さを象徴しているかのようです。

 

次の訪問地はカウナス。“日本のシンドラー”とも呼ばれる、かの杉原千畝【ちうね】で有名な町です。ヴィリニュスに次いで人口の多いカウナスですが、1920年ヴィリニュスがポーランドに占領(のちに併合)されてしまったため、臨時の首都になり、領事館が置かれたとのこと。そこへ杉原が領事代理として赴任したのは1939年8月28日。ドイツのポーランド侵攻により第2次世界大戦が始まるわずか3日前のことです。

日本の大使館は当時、憲法上の首都ヴィリニュスに置かれていました。ただ、実質的にはカウナスの領事館がその役割を果たしていたようです。ドイツの占領下にあったポーランドからリトアニアに逃げてきた多くのユダヤ系難民に、日本(この時代は大日本帝国)がビザを発給するようになったのもそのためです。

 

 

当時リトアニアを占領していたソ連は、同国に大使館・公使館・領事館の閉鎖を各国に求めていました。そうした中、まだ業務を続けていた日本領事館にユダヤ人難民たちがビザの発給を求めて殺到する事態になったのです。日本の発給したビザがあれば、シベリア鉄道でソ連を横断しハバロフスクまで行き、そこから日本海を船で渡り横浜、神戸、敦賀など日本まで行けます。その先は、希望する国に移動することができたからです。ユダヤ人難民の多くは、カリブ海にあるオランダ領キュラソー、スリナム、アンティルなどを名目上の行き先にし、日本の通過ビザを発給するよう求めたのです。

それは1940年7月18日から、杉原がカウナスを去る8月31日まで続いたそうです。その間、杉原がサインしたビザの発行枚数は2000を越え、それによって国外に出て難を逃れたユダヤ人の数は6000とも8000とも言われています。のちに“命のビザ”として称賛されたのも当然のことで、杉原は「諸国民の中の正義の人(正義の異邦人)」(=ナチス・ドイツによるホロコーストからみずからの生命の危険を冒してまでユダヤ人を守った非ユダヤ人であることを示す称号)を授与されています。全世界で2万6千人余いる中で、杉原はただ一人の日本人です。

そうした歴史的事実にちなみ、2000年に作られた「杉原記念館」を訪れました。閑静な住宅街の一角に建つかつての領事館兼住居をそのまま記念館にしたものです。当時、杉原よりひと足早く同じことをしていたオランダ領事ヤン・ズヴァルテンディクがそれ以前勤務していたフィリップス社の財政的なバックアップもあり、この記念館は維持されているようです。

中に入ると、最初ビデオを見ることになっており、それで事の次第がはっきり見えます。1階に当時の執務室がそのままの状態で保存され、2階はさまざまな展示が。執務机に向かって座り写真など撮ってもらいましたが、とてもにこにこ笑ってなどいられません。

 

杉原は岐阜県の八百津(やおつ)町の出身だそうですが、カウナスと姉妹提携を結んでいる都市が世界に15ある中には含まれていません。地元には杉原を顕彰する「杉原千畝記念館」「人道の丘公園」という施設があるのに、なんとも不思議ではあります。

記念館が建つ周辺は当時そのままとおぼしき建物がいくつか残っており、その姿を見ていると、杉原やその妻子も80年前、このあたりをきっと歩いたこともあるのだろうなぁと、感慨にとらわれました。

杉原記念館の見学を終え、カウナス市内で昼食。落ち着いた中に、長い歴史と現代感覚が感じられる町で、強い印象を受けました。食事をいただいた店は昔そのままといった雰囲気。

カウナスを発ち、バスは隣国ラトヴィアの首都リーガをめざします。途中「十字架の丘」という観光名所を訪れました。リーガまでの間、立ち寄るに値するスポットはここくらいしかないようです。この間の道のりはほとんど北海道! 右を見ても左を見ても、山がないせいかずーっと畑が続いています。ときおり森や林があるにはありますが、キホン真っ平ですから、心地よく走るバスの座席でうとうとしていてハッと目が覚めたとき外を見ると、一瞬錯覚してしまうほど、北海道の風景によく似ています。

 

 

それにしても、雨が降らずに何よりでした。「十字架の丘」までは駐車場から15分ほど歩いていくのですが、まわりは何も立っていない原っぱのような場所です。この日は風もかなり強く、そこに雨でも降られたら、大変なことになっていたでしょう。十字架の丘を出てしばらく走るとラトヴィアとの国境です。かつては厳しい出入国チェックがおこなわれていたであろう検問所も、いまではカフェやガソリンスタンドがあるのどかな雰囲気。こういう場を実際に通ると、検問が厳しかった時代はさぞかし重苦しい雰囲気がただよっていたのでしょう。それに比べるといまのこの明るさは……といった感じです。しばらく走ると、空に大きな虹が! リーガの町が近づいてくると、この町でいちばん高い建造物=テレビ塔が見えてきました。

 

 

町に入ると、リトアニアの隣国であるにもかかわらず、町の雰囲気が一変した印象を受けます。同じく「旧市街」と呼ばれるエリアがあるのですが、とても洗練されているのです。リトアニアのヴィリニュスが内陸の町であるのに対し、こちらは港町なので開放的というか、商業・ビジネスと縁が深かったのでしょう。

バルト3国はもともと“異教の地”で、なかでもラトヴィアは自然信仰が強い地域だったようです。12世紀に入ると、その一帯にもキリスト教を広めようと、デンマーク、スウェーデン、ポーランド、ドイツ騎士団などによって作られた北方十字軍は先住民に対し情け容赦なく振る舞ったといいます。そのためキリスト教徒は最初のうち、悪者としか思われていなかったとのこと。しかし、信仰心そのものは篤かったのでしょう、ひとたび帰依するとその信仰は深く、そこいらじゅうに教会を建てたようです。

 

その教会の合い間合い間に洒落た建物が立ち並び、行き交う人々やカフェで談笑している人たちの顔を見ても、いきいきとした表情。そんな旧市街を出てすぐ、新市街とのほぼ境界あたりに、今日泊まるホテルがありました。その名も「Grand “Poet” Hotel by Semarah」というところを見ると、その昔、著名な詩人が泊まったりしたのでしょうか。と思って調べてみたのですが、要は建物だけが古く、その内部をリノベーションして Semarah という会社が昨年オープンさせたばかりのデザインホテルのようです。

まあ、それはそれとして、ロケーションは最高。前と後ろがともに大きな公園で、「国立劇場」や「博物館」「自由記念碑」といったスポットのすぐ近く。町の中心部から歩いても30分はかからないくらいなのに、空気も澄み切っていて、都会の喧騒とはほとんど無縁といった感じがします。ただ、団体で泊まるツアーの客にさほどよい部屋が供されるはずもないわけで、私たちの部屋も外側の景色は一切見られませんでした。