紀伊田辺・白浜で南方熊楠にひたる

2018年6月3日
昨日は京都での仕事を終えたあと、近鉄電車で大阪に移動しました。上本町【うえほんまち】という近鉄発祥の地(1914年に同社最初の路線である上本町・奈良間が開業=現・近鉄奈良線)ともいえる駅近くにホテルを取ったのですが、なんばや天王寺の近くにあるエアポケットといった感じがします。近鉄が開業した当時はそれなりのにぎわいが見られたようです。

今朝はホテル近くの、すこぶる居心地のいい喫茶店で朝食を食べ、レンタカーで紀伊田辺に向かいました。先日、東京・上野の「国立科学博物館」で観て刺激を受けた南方熊楠の聖地を訪ねるためです。田辺市とすぐ隣の白浜町には熊楠ゆかりの施設があります。市にあるのが「顕彰館」、町にあるのが「記念館」で、まず行ったのは「顕彰館」。

 

熊楠が後半生を過ごした居宅の土蔵に、生涯をかけて集めた人文・自然科学の膨大な研究資料と蔵書のほとんどが遺されています。これらがほとんど、当時使っていたであろう大きな木箱に入っていたり、自作の棚に並べられていたりなど、そのままの状態で保存されているのです。

居宅と庭も同じです。庭には高い楠や柿、熊楠自身が好んで食したという安藤ミカン(ミナカタオレンジとも呼ばれる文旦の一種で、徳川時代、田辺藩士・安藤治兵衛の屋敷内に自生していたことにちなんで名づけられた。熊楠がグレープフルーツの代わりにと普及に努めたことで知られる)の木のほか、顕花植物も数百種あります。柿の木から新種の変形菌(粘菌)を発見した……といったエピソードをボランティアガイドの方からお聞きしました。雑然としている庭ですが 、まさしく研究の場といった観を呈しています。

「顕彰館」を後にし、旧城下町である田辺の町を歩いてみました。地方都市の常ですが、ここもまた昼間は人通りがほとんどありません。日曜日となればなおさらです。それでも、この神社とゆかりの深い弁慶の立像は印象的ですし、その名前が興味をそそる「闘鶏神社」にはそれなりに人が訪れていました。

「闘鶏神社」はもともと、熊野権現(現・熊野本宮大社)を勧請【かんじょう】し田辺宮と称したのに始まるそうです。平安時代の末、熊野別当・湛快【たんかい】がさらに天照皇大神以下十一神を勧請して新熊野権現と称し、湛快の子の湛増【たんぞう】が田辺別当となりました。弁慶はその子どもと伝えられています。

 

治承・寿永の乱(源平合戦)のとき、湛増はどちらにつくべきか迷ったといいます。そこで、鶏を紅白2色に分けて闘わせたところ、白の鶏が勝ったので源氏に味方しようと決め、熊野水軍を率いて壇ノ浦へ出陣したとのこと。それから「闘鶏権現」と呼ばれるようになったと、境内の看板に書かれていました。

田辺市から白浜町に移動し、「南方熊楠記念館」へ。もともとはこちらのほうが先に作られたようですが、「顕彰館」とはコンセプトがまったく違います。子どものころに描いた絵や作文、アメリカ、私自身つい先日訪れたキューバ、イギリスに渡ってから書き綴った論文や、読んだ本のメモ書き(というには膨大すぎるボリュームですが)、日本帰国後に書いた著書の下書きや採集品など、もっぱら展示にウエイトが置かれています。「国立科学博物館」で目にしたものもありましたが、その量には圧倒されました。

1911(明治44)年起こした神社合祀反対運動の詳しい経緯も知ることができました。その中で書き綴った柳田國男ほか宛の書簡の中でエコロジーまたはエコロギーという言葉を使っていることを知り、この時期に早くもそうした考え方を持っていたことに驚かされます。

「記念館」の屋上にある展望台から周囲を見ると、熊楠がはぐくんだ壮大な知識欲の根源が息づいているようにも感じました。島々や海岸の砂や石・岩肌、土、森、草花など、目に入ってくるものすべてが、「客観的に観察してほしい」と訴えているかのような表情をしているのです。熊楠としては「わかった、わかった。いまこちらの絵を描いているから、そのあとで」といったような心境だったのではないでしょうか。