“アカシアの大連”にやって来ました

2018年5月25日

清潔で美しい町──それが大連の第一印象です。私が大学に入った年、芥川賞に選ばれた『アカシヤの大連』という作品がありました。作者は詩人の清岡卓行で、20世紀前半に日本の租借地・大連で過ごした青年期の生活を描いたものですが、詩人として知られていた作者にとっては初めての散文。大学に入ったばかりだった私もすぐ買って読んだ記憶があるものの、さほど強烈な印象は受けませんでした。ただ、タイトルだけはいまでも覚えているというか、大連といえばほとんど反射的に「アカシア」という言葉が口をついて出てきてしまいます。

その大連で、ここ数年ずっと追いかけている「北前船寄港地フォーラム」が開催されるというので参加しようと決め、今日、成田から飛んできました。21世紀に入り大々的な発展を遂げている都市らしく、空港も街並みもたいそう清潔で美しく、中国ではないような印象すら受けます。

とにかく、どこを歩いても、道路の脇にプランターが置かれ、花が咲き誇っています。街灯の柱にもガードレールにも花、花、花……。道路もえらくきれいに保たれ、あちこちの街角で、清掃している人の姿を目にしました。北京・上海にも、もちろんそうした仕事をしている人はいるのでしょうが、ほとんど目につきません。それからすると、この町がどこを歩いてもこぎれいなのがよくわかります。日本の前にこの町を租借していたロシアの人たちがそれほど清潔好きとは思えませんし、となるとやはり、日本の影響なのでしょうか。

午前中はアカシア祭り(大連国際槐花節)の開会式。会場は海辺の公園で、式典の最後におこなわれたアトラクションでは秋田の竿灯の披露も。参列者全員が歓声をあげ、拍手喝采。ロシアの民族舞踊も登場したあたりに、大連の歴史が垣間見えます。

 

 

 

日清戦争後の三国干渉の代償として、1898年清からこの一帯(大連、旅順など)を租借したロシアが、貿易拠点として港を整備するとともに、パリをモデルとした都市作りを始めました。しかし、その7年後、日露戦争に勝った日本が、ポーツマス条約により租借権を譲渡されます。日本は、大連を貿易都市として発展させようと、関東都督府と南満州鉄道が、道路の舗装などインフラの整備、レンガ造りの不燃建築物が立ち並ぶ町作りをおこない、旧市街がほぼ現在の形となったのです。いうならば“日ロ合作”のような都市なのですが、ほかの中国の都市との違いはそのあたりに起因しそうです。山田洋次(映画監督)や遠藤周作(作家)、荒木とよひさ(作詞家)の生まれ故郷と言われてもピンときませんが、松任谷由実(『大連慕情』)も桑田佳祐(『流れる雲を追いかけて』)もこの町を歌にしている理由が理解できるような気がします。