「石見銀山」をあきらめ、広島へ

2018年4月12日
前夜テレビのニュースで、つい4日前この地方で起こった地震のため、「石見銀山」もかなり被害を受けていることを知りました。いちばん観たいと思っていた「龍源寺間歩【りゅうげんじまぶ】」(「間歩」とは鉱山の掘り口)も立ち入り禁止になっているというではありませんか。石垣や狛犬【こまいぬ】の台座が割れたり崩れたりと、映像で見てもたしかに危険な印象を受けました。

こうなると、今日の動きを練り直さなければなりません。結局、午前中は津和野で昨日回れなかった「森鴎外記念館」「乙女峠マリア聖堂」「太皷谷稲成【たいこだにいなり】神社」を訪れ、早めに広島に移動することに。

DSC05291「乙女峠マリア聖堂」は、津和野駅の近くにある小高い山の中腹にひっそりと建っていました。なぜ、こんなところに? と思いながら山道を5分ほど歩くと、なんとも質素な木造の教会がありました。「聖堂」の周囲にはいくとも石碑や石像が立てられており、その一つひとつに碑文が刻まれています。この「聖堂」は、1939年、この土地を購入したカトリック教会広島司教区が、殉教した隠れキリシタンを偲ぶため質素な記念堂を建て、それがのちに「聖堂」と呼ばれるようになったのだとか。

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幕末の1865年、長崎で隠れキリシタンに対する大規模な弾圧があり、長崎・浦上の信者153人を津和野への流刑に処したのです。彼らは、当時廃寺になっていた光琳寺に連行・収容されました。改宗させるために連日連夜厳しい拷問をおこない、最終的には37人が命を奪われたのだそうです。

「聖堂」の前を掃除する老女に挨拶しドアを開けて中を見させてもらうと、30畳足らずの広さしかありません。質素な祭壇をはさむ左右の壁に8枚のステンドグラスがあり、そこには拷問の様子が描かれていました。

「森鴎外記念館」は「乙女峠マリア聖堂」とは対照的に、すばらしくモダンな建築の建物です。津和野に生まれ育ったものの、10歳で故郷を離れ東京で陸軍軍医になった鴎外は、「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と遺言したそうです。そのため、墓地は東京・三鷹とここ津和野の寺院にあるのですが、津和野と鴎外とのつながりを事細かに示す展示は充実した内容でした。この夏、鴎外が留学したベルリンに行く予定があるので、現地でぜひ下宿して家を訪れてみたいと思います。

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DSC05301「太皷谷稲成〔たいこだにいなり〕神社」は、京都の「伏見稲荷大社」と同じような千本鳥居が山のすそを縫うようにして立ち並んでいるので、前日、山口から走ってきた道路からもはっきり見てとれました。ちょうど新緑の季節にさしかかっている時期なので、余計に朱色が冴えています。山の中腹から約300m続く石段を登ったところに本殿があるのですが、そのすぐ近くに駐車場もあるので、階段を上らなくてもお参りはできるようです。今日もまた天気はよく、ここから見渡せる津和野の町は素晴らしかったですよ。

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広島に出発する前に道の駅「津和野温泉 なごみの里」に立ち寄ってみました。地域住民のコミュニティーセンター的な感もありますが、天然ラドン温泉、レストラン、野菜市場、お土産屋、体験工房などから成っていて、けっこう客がやってきます。このひ休業していた温泉が開いていれば、もっと多いのでしょう。まわりも素晴らしい自然に恵まれ、津和野がリッチであることがよくわかります。

広島までは2時間少々。予定より4時間も早く着いたので、かの有名な「八丁座」で映画を観たりして過ごし、夜は流川の「さわ田」で、おいしい洋風夕食を楽しみました。