好奇心をかき立てられた「南方熊楠展」

2018年2月25日
『南方熊楠【みなかたくまぐす】展──100年早く生まれた智の人』にやっと行けました。今週いっぱいで終わりなので、滑り込みセーフといったところでしょうか。

場所は上野の「国立科学博物館」。先日、二人の孫を連れて行ったばかりです(65歳以上は入場無料というのがありがたい)。世界中どこの美術館・博物館でもシニアは優遇されていますが、「無料」というのはなかなかありません。

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それほど広いスペースでないこともあってでしょう、けっこう混み合っていました。しかも、若い人の姿が目立ちます。来館者のほとんどがそれこそシニア世代ではないかと予想していたので、これは意外でした。そもそも南方熊楠という人物自体、それほど広く知られた存在ではないと思いますし。

熊楠は和歌山県の田辺生まれなので、私の父方とルーツが同じです。田辺にはこれまで二度行ったことがあります(実はもう一度行ってはいるのですが、それは広域合併で田辺市に編入された熊野エリア)。旧田辺市内にある立派な「顕彰館」にも行けていません。こちらは2005年7月にオープンしたのだそうで、その約1年後には、南方熊楠旧邸も、実際に住んでいた当時の雰囲気を彷彿させるよう、復元・改修されたといいます。それとは別に、1965年に白浜町にも「記念館」が作られており、同じ地域に二つの施設が競合する形になっています。

博物学の大家として世に知られる南方熊楠は「子供の頃から驚異的な記憶力を持つ神童だった」と言われる人物。数日間で100冊を越える本を読み、そこに書かれていた内容を、家に帰って書写するという超人的能力を持っていたようですから、ハンパじゃありません。東大予備門を中退後、19歳から約14年間、アメリカ、イギリスなどに留学、さまざまな言語で書かれた文献を読み込み、それを克明にメモしていったといいます。植物、とくにキノコ類にめっぽう詳しかったようですが、人文科学にも精通井し、民俗学の分野では柳田國男と並ぶ重要な存在でもあります。

いわゆる学術論文はほとんど書いていませんし、官職に就いたこともないものの、昭和天皇にもご進講(1929年)するなど、その力量は高く評価されていました。ご進講自体、昭和天皇ご自身が望まれたようで、「聖上田辺へ伊豆大島より直ちに入らせらる御目的は、主として神島及び熊楠にある由にて」と、軍令部長にご自身の所信を書かせたとのこと。1962年、和歌山を33年ぶりにご訪問された昭和天皇は、神島(かしま=田辺湾沖合の島)を目にしながら、「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」と詠んだそうです。

しかし、数年前、こんな話を聞きました。明治時代半ばごろ、政府が実施しようとした神社合祀政策に、思いもよらない角度から異を唱え、最後はその主張が受け入れられたというのです。熊楠の主張の根拠が、田辺の沖合に浮かぶ神島の話。神島には多種多様な照葉植物が自生していましたが、神社合祀によってこの島唯一の神島神社もなくなることが明らかになりました。神社がなくなれば、森林は自由に伐採できるようになり、植生が失われてしまいます。それを知った熊楠は、生物学的見地からその保護を主張、東京大学教授・松村任三と貴族院書記長官・柳田國男にも書簡を送り訴えます。そして、最終的には天然記念物に指定されることになったそうです。生物学などまったくの門外漢である私は、熊楠についてもさほど関心がありませんでしたが、それがきっかけで深い興味を抱くようになりました。

今回の展示を見て知ったのは、熊楠の関心が途方もなく広範囲にわたっていること。ここまで……と思うほど、あれやこれや、ほとんどどんなテーマについても自身の考えを、きちんとした調査に基づいて披歴していることです。インターネットも何もなかった時代によくぞと言いたくなるくらい圧倒的な量の情報が熊楠の頭の中には収まっていたのでしょう。「顕彰館」「記念館」の両方とも、近いうちに訪れてみたいと思いました。

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帰り道、上野公園の一角に冬の桜が花を咲かせていました。最初は梅かなと思ったのですが、木の幹に「冬桜」と記した札がつけられていたのです。あとひと月もすれば、この一帯は春の桜=ソメイヨシノで覆われるのですね。

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