朝日新聞に、参院選挙区の「合区」についてコメント

2016年3月20日
今年7月の参議院選挙から、これまで全国で47あった都道府県の選挙区で「合区」が実施されます。有権者の数と定員があまりにアンバランスで、平等を損ねてしまっているというのがその理由です。朝日新聞がそのことを取り上げ、さまざまな分野の人の意見を交えながら、その是非を考えてみようという趣旨の記事です。

その記事に私のコメントが掲載されたのでご紹介しておきましょう。切り文になってしまう点はご了承のほど。

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県民意識は、どうやって醸成されてきたのだろうか。
1871(明治4)年の廃藩置県による3府302県の設置後、統廃合を繰り返し、47都道府県の姿と重なる県域がほぼ確定するのは1888(明治21)年のことだ。線引きは一筋縄ではいかなかった。
旧藩は領地の広さも石高も大小さまざま。加賀百万石のような大藩から市域程度の小藩まで、モザイク状に存在した。官選の知事を派遣した明治政府は、膨大な飛び地や複雑な境界の整理を急ぐ必要に迫られた。
中央大文学部の松尾正人教授(日本近代史)は「県域をいじりだしたらきりがない。薩長出身者ら新政府首脳は各藩の内情には疎かった」と指摘する。「47」の枠組みが固まる過程で、徳島県が高知県に、鳥取県が島根県に統合したり、独立したりした。旧藩と異なる県の名前を採用したケースも多く、歴史的にわだかまりも残した。
「出身県でわかる人の性格」の著者、岩中祥史(よしふみ)さん(65)は「多くの長野県民は自分を信州人と言う。県歌『信濃の国』を歌える人は多いが、県域全体をカバーする企業や団体の名に長野を冠する例は少ない」という。旧筑摩県(県庁所在地は松本市)と統合した経緯が尾を引いているというのだ。
それでも47の枠組みが100年以上続いたことで、「県民性」はすっかり定着した。お国自慢やふるさと再発見をテーマにした読売テレビの人気番組「秘密のケンミンSHOW」は10%以上の視聴率を稼ぎ、各県の県民手帳は人気商品だ。
岩中さんは「旧藩とは異なる姿になった県境の多くも山や川など地理条件で区切られ、限られた風土の中で脈々と育まれた共通の気質は方言とともに地元住民のアイデンティティーになっている」と解説する。
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